第15話 其の二 生まれ変わり 五
庄右衛門は旅人宿が軒を連ねる馬喰町にある上宿に逗留していた。
上宿なのは〝鴨〟の信用を得るためだろう。
しばらくすると、旅支度をした庄右衛門が、屈強な男二人を引き連れて出てきた。
「首尾は上々ですな。大仕事を二つも上首尾に終わらせるってえのは、さすが兄貴だ。ずらかるのは早えうちにってね」
男の一人がへつらうように庄右衛門に声を掛けた。
「要らぬ口を叩くな」
庄右衛門の一睨みで男は顔を青ざめさせ、口をつぐんだ。
「長居は無用でえ。行くぜ」
道中差しを帯びた庄右衛門は二人を引き連れて足早に歩き出した。
静馬とお熊は二軒離れた安旅籠脇の路地から一味の後ろ姿を見送った。
「清兵衛からもまんまとせしめたとみえますね、お熊どの」
「江戸を去るとなれば、なおさら好都合。良き場所で成敗いたしましょう。いざ!」
早くも庄右衛門一行を追おうとするお熊の袖をつかんで引き止めた。
「ちょっと待ってください。庄右衛門は詐欺師で、人を殺めたわけではありませぬ。捕まえてお上に突き出すのではなく、いきなり成敗というのはいかがかと思います」
「わたくしが間違っているとでも申すのですか」
お熊は単衣の袖がちぎれんばかりに、静馬の手を手荒く振り払った。
「だまされて自死した者もおるに相違ありませぬ。腕も立つゆえ、今まで誰も殺めていないとは思えませぬ」
お熊の瞳は細められ、厳しい色を宿している。
「しかし……」
言い合う間にも、庄右衛門一味の姿が通りの彼方に消えていく。
「ともかく追ってみましょう。ですが深追いは無理です。手持ちの銭はわずかですし、墨伝先生に無断で旅に出るわけにはいきませぬ。第一、通行手形がありませぬ」
真顔になって念押しした。
いつもの笑顔が消えた顔は無表情で怒っているように見えるはずだった。
だがお熊が動じるはずもなく、
「承知しております。遠くない場所で成敗すればいいのでしょ」
成敗する気満々で薄い胸をどんと叩いた。
(人を斬る行いをお熊どのは、いったいどのように考えているのだろうか)
極悪人なら斬ってもよいと無邪気に考えているかと思えば背筋が冷たくなった。
相手を斬ることは、己の命も惜しくないという覚悟と表裏一体である。
勝負においては必ずしも強い者が勝つと限らないし、相手の腕が勝る場合も大いにあった。
「では参りましょう」
通りに足を踏み出しかけたとき、大勢の者が静かに近づいてくる足音がした。
「おっと、お待ちください」
お熊の肩にそっと手を掛けて引き止めた。
二人の潜む路地の前を、清兵衛ら九人の男が無言のまま通り過ぎていく。
番頭格の松の姿もあった。
しっかとした足取りから察するに、静馬の治療のおかげですっかり治っているらしかった。
清兵衛らが、庄右衛門一味に気取られぬよう追っていくさまに、
「清兵衛一味も庄右衛門が江戸を離れてから襲うつもりなのでしょう」
お熊が大きく頷いた。
「庄右衛門は腕が立ちますから、このくらいの数では返り討ちに遭いそうですがね」
静馬は苦笑した。
「そうなればわたしたちの出番ではありませぬか。最後に残った悪党を成敗すればよいのです」
お熊は澄ました顔で口角を上げた。
女子供でも一日に十里、男なら十三里歩く。
常に旅をしている渡世人なら一日に二十里も歩いた。
旅慣れている庄右衛門一味の歩みは異様に速かった。清兵衛一味も遅れじと急ぐ。
御府内への出入り口、高輪大木戸の石塁が目の前に見えてきた。
付近は茶店が立ち並んで、月美やご来光の名所でもある。岸に打ち寄せる波の音とともに潮の香りが鼻をくすぐった。
駕籠、荷を積んだ馬と馬子、茶屋の女の笑い声。
市中への南玄関として、京上り、伊勢参りなどの旅人と送迎の人々の姿が交差する。
目を上げると、茶屋の二階で旅人と見送りの者たちが別れの盃をかわす姿が見えた。
一行は高輪大木戸を後にして、市中からどんどん遠ざかっていく。
(《七ツ立ち》の言葉通り、夜明け前からの出立であれば、日本橋から十六里あまりの大磯あたりまで追わねばならぬところだった。夕刻間近の出立で助かった)
袖ヶ浦を左手にして、海岸沿いに風光明媚な街道が延々と続いていた。
岡場所で知られる北品川宿、古くから栄える南品川の宿を過ぎた。
(清兵衛らが早く襲わぬものか。江戸からあまり離れると今日中に戻れぬ。お熊どのが屋敷に戻らぬとなれば、あの墨伝先生のことだ。半狂乱になられるに相違ない。まだお若いとはいえ、心ノ臓が止まりかねぬ)
沿道沿いの屋並みは途絶えなかった。
御府内に向かう者、西に上る者、行き交う旅人が多いから、清兵衛一味が襲いかかる機会はまったくなかった。
弱まりつつあるとはいえ、まだ日差しがぎらつく遠浅の海岸線を見ながら、鮫州を過ぎていく。被っていた笠を少しばかり傾けて、白帆の浮かぶ海を見渡した。
「お熊どの、ここいらは鮫州というそうです。その昔、漁師の網に掛かった鮫の腹を割いたところ、木造の観音像が出てきたゆえ名付けられたそうです」
「このあたりが品川宿の南境といったところですね」
呑気な言葉を交わせば、二人して物見遊山に出掛けているように思えてくるものの、静馬の心中には気掛かりばかりが渦巻いていた。
宿場のにぎわいが途絶えても、まだまだ人家が途切れなかった。
品川浦で海苔を養殖している光景が、弱まりかけた日差しの中で一服の画のように浮かんでいる。
海苔の筏の周りに浮かぶ舟を眺めながら、
「品川の鮫洲海岸といえば海苔の産地ですね」
穏やかな話題を振ったつもりだったがお熊は、
「浅草ではとっくの昔に海苔が採れなくなって、浅草から遠く離れた品川の海苔が《浅草海苔》として売られています。これは詐欺です。わたくしは前々からけしからぬと思っておるのです」
急に憤慨し始めた。
鮫洲海岸の沖合を見渡せば、筑波山や日光連山といった山並みが霞んでいる。
「東海道は往来が途絶えることがありませんからね。清兵衛一味は、庄右衛門らが宿に入って寝静まってから襲うつもりかもしれませぬ。庄右衛門が日本橋から七里離れた神奈川宿まで急ぐつもりとなれば、今夜は市中に戻れませぬ」
気掛かりを口にしたが、
「そのようなことどうでもよいではありませぬか」
お熊はぴしゃりと言い切った。
「し、しかし……」
首尾良く成敗が成就したとしても、二人して宿に泊まる銭など持ち合わせていなかった。
お熊だけ安宿に泊まらせて、静馬は軒下で野宿するほかない。
立会川にかかった橋を渡って鈴ヶ森刑罪場の松林を過ぎると、田畑の中に人家がぽつりぽつりと点在するばかりになった。
日差しはいよいよ陰りを見せ始めた。
玉川分水に沿った道を過ぎてしばらく行くと、鈴ヶ森八幡社が見えた。
門前には、街道を挟む形で八幡町が形作られて茶店や人家が並んでいたが、薄暗くなりかけたため、茶店は店を畳み、人通りが途絶えていた。
庄右衛門一味が境内に入っていく。
「宿場を避けて野宿するつもりかもしれませぬ」
間隔を空けてつけていた清兵衛一味も、まだ灯が点るには間がある八幡社の杜に姿を消した。
「お熊どの、いよいよですね」
「乗り込みましょう」
木立の茂みに身を潜めて境内の様子をうかがった。
「あ、始まりました」
怒鳴り声が奥の方から聞こえてきた。
「わたくしたちも早く!」
お熊はやる気満々で笠をぬぐと、袴の股立ちをとってから手早くたすき掛けした。
「お待ちください、お熊どの。せめて手拭いで覆面くらいなさってください。顔を知られては後々面倒になります」
お熊が入り用な際に備えて新の手拭いを、常日頃から持つようにしていた。
「ええっ、静馬どのが汗を拭いた手拭いなど……」
懐から手拭いを取り出すと、お熊はあからさまに嫌な顔をした。
「いえ、洗いたてのまま使っておらぬほうをお貸ししますゆえ、大事ありませぬ」
「とはいえ、ずっと懐に入れていたであろう。静馬どののむさ苦しい臭いが染み付いておるではないか」
そこまで言われて、さすがにむっとした。
「そうおっしゃらずに、さあ」
真顔になってほんの少し語気を強めた。
「やむをえませぬ」
しぶしぶ手拭いを受け取ったお熊は、みずから所持していた手拭いと合わせて厳重に覆面をした。静馬も手早く面体を隠す。
「下僕、いざ出陣と参るぞ」
お熊の命令で境内に向かった。
奥の空き地では、清兵衛一味と庄右衛門一味が長脇差や道中差しを手に睨み合っていた。
「清兵衛と庄右衛門はさすがに胆が座っていますが、子分たちは腰が引けていますね」
静馬とお熊は顔を見合わせて、くくくと笑い合った。
破落戸や侠客の喧嘩では、双方が吠え合うばかりでなかなか始まらないものだった。
刃向かってこぬ弱者には滅法強気だが、同類同士では勝手が違う。
命のやりとりが怖いのだ。だから睨み合うばかりで膠着してしまう。
「ゆすり取った百両は返してもらうぜ」
「よく言うぜ」
「お江戸で荒稼ぎしたお宝も、俺たちへのわびってえことでまとめていただこうか」
お互いに近づいたと思えば、またじりじりと後退して間を空けた。
「じれったい。まだ始まらないのですか」
お熊は鼻息も荒い。じりじりと足先を前に進ませる。
「てめえら、行かねえか。こちとらは九人、相手はたった三人じゃねえか」
業を煮やした清兵衛が子分どもをけしかけた。
「どりゃああ」
清兵衛の叱咤でようやく場が動いた。
松が長脇差を手に、小柄なほうの男目掛けて突き込んだ。
「わわわ」
攻撃された小男が怯む。
「せいっ」
小男の目の前に飛び出した庄右衛門が、突いてきた松に無造作な一太刀をくれた。
道中差しによる一撃が決まった。血飛沫が宙に噴き出す。
「ぐぎっ」
松は奇妙な声とともにくるりと身体を半回転させるや、どっと地面にくずおれた。
「やりやがったな」
清兵衛の子分たちが、長脇差をめったやたらに振り回しながら、庄右衛門一味に殺到した。
「わたしたちも!」
乱闘に加わろうとするお熊の腕をしっかとつかんで引き止めた。
乱戦では予期せぬ動きが生まれる。
お熊がいかに遣えるとしても危なっかしくてしかたがない。
「腕をつかむとはいかなる所存です」
お熊は静馬の腕を力一杯、振り払った。
「こ、これは失礼いたしました、姫」
我に返った静馬は、狼狽しながら手を引っ込めた。
汚い物に触れられたかのような態度が心外だった。
(考えてみれば、お熊どのが幼い頃は、いつも手をつないで歩いておったが、近頃では指先さえ触れることがないな)と気づいた。
「姫、今は争闘に加わらず時宜をみるべきかと。せいては事をし損じる、漁夫の利という言葉もございます。わたくしたちが乱入して八方に逃げ散れば、肝心の清兵衛を討ち漏らすやもしれませぬ」
「なるほどの。下僕の言葉にも一理ある。清兵衛、庄右衛門の一方でも逃げられれば困ります。今少し様子見をしましょう」
お熊は気を落ち着けるように大きく息をついた。
乱闘が一段落した頃には、清兵衛の子分、庄右衛門の手下は死亡または重傷で動けなくなっていた。
庄右衛門と清兵衛が睨み合う。
「思い出したぜ。今じゃ庄右衛門などと名乗っちゃいるが、てめえは風切りの半次ってえ盗人だったってことをな」
「よく分かったな」
庄右衛門が不敵な笑みを浮かべた。
「若けえ頃は痩せた色男だったもんで、すっかり面影がねえがよ。額の真ん中の黒子で思い出したぜ。おめえはその昔、六蔵と組んで上方で商家を荒らし回っていたじゃねえか。昔の仲間の仇討ちだったのか。それにしちゃ、まだろっこしいじゃねえか。生まれ変わりなどと小細工して強請りを働くたあな。俺の命を狙やあ良かったじゃねえか」
「殺しはやり飽きたんだよ。危ねえ橋を渡るより頭を使うようになっただけでえ。六蔵はたまたま昔の仲間だっただけで、仇討ちのつもりなんぞはなっからねえやな」
二人の頭の応酬で、はからずも庄右衛門の過去の悪行が明らかとなった。
「庄右衛門も仕置きせねばなりませぬな、姫」
「わたくしは最初から、あの男が極悪人と気づいておりました」
「しかし、確証もなく見掛けで決めつけてはどうかと思います」
「下僕はいつもくどくどしくていけませぬ」
お熊は文句を言いながらも、眼の奥では静馬の慎重さを首肯しているように思えた。あくまで手前味噌な見方だったが。
「では、姫、下僕めが庄右衛門を退治いたします」
静馬は清兵衛の腕のほうがかなり劣ると判断していた。
「え、勝手に決めるとは卑怯な」
お熊の声を背に庄右衛門の前に飛び出した。
背後でお熊も続く気配が感じられた。
「て、てめえらは何者でえ!」
喫驚した二人は動きを止めた。
「中村屋の仇討ちとでも言っておこうか」
大刀ではなく脇差を抜き放った。
道中差しの庄右衛門を大刀で斬るのでは武士として恥だと思ったからだった。
何も考えていないお熊は、大刀の切っ先を清兵衛に向けた。
「こ、こりゃあどういうこった」
「天に代わって成敗いたす」
お熊は恰好をつけながら清兵衛に向かって刃を叩きつけた。
「ひえええ」
迅速な白刃に清兵衛は仰天の声を上げて逃げようとする。
「待て!」
お熊が追う。清兵衛の後方から一太刀、浴びせかけた。
「ぶえっ」
宙をもがくように瀕死の舞をみせた後、清兵衛はどっと地面に突っ伏した。
静馬がお熊の動きに目を向けた隙を突いて、
「舐めるな!」
庄右衛門が鋭い突きを放ってきた。
大柄な身体の全体重をこめた強い突きだった。
喧嘩殺法だが度胸が据わっている。なまじの道場剣法では対抗できぬ気迫をはらんでいた。
「むん」
身体がみずから動いた。
庄右衛門の突きをさばいてかわした。
脇腹の横を刃先がかすめて流れる。
体勢を崩した庄右衛門が身体を反転させて立て直した。
「せえっ」
大きく振りかぶる。庄右衛門の刃が肉迫してきた。
「参る!」
迫り来る切っ先に先んじて庄右衛門の水月に突きを入れた。
刃を右側に返した平突きだった。
捻りながら突く。
安定した剣先が庄右衛門の鳩尾に吸い込まれた。
「!」
庄右衛門の身体がびくりと震えた。
次の瞬間、全身からどっと力が抜ける。
がくりと膝をつき、その場にぐにゃりとくずおれた。
「地獄で清兵衛と喧嘩の続きをせい」
静馬はじゅうぶんに残心をとって血振りをくれた。
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