第4話 其の一 妓楼の怪異 二
翌日、道場へやってきた弟子は、隠密廻り同心の高島右近のみだった。
右近は墨伝より十も年上の四十半ばでかなりの遣い手である。稽古では墨伝の力量に及ばぬものの、役目柄、実戦経験が豊富で、真の実力は墨伝を凌駕しているやもしれなかった。
妻女が先月から里帰りしていて気楽な独り暮らしと聞いていた。役目柄何かと忙しく、めったに顔を見せないが、稽古を終えた後は決まって、墨伝と酒を酌み交わしながら歓談して帰る。稽古よりも雑談が楽しみらしかった。
「先日、十年来の友と出会うての」
「ほう、それはどのような御仁ですかな?」
茶碗酒を酌み交わしながら、墨伝と右近との間で、どうでもよい世間話が延々と続いていた。
「宿院玄蕃と申す士じゃ。長く浪人暮らしをしておったのじゃが、仕官がかのうたそうで安心いたした」
「墨伝先生の友と申されるからには、かなりの腕のお方でしょうな」
「八王子で研鑽を積んでおった頃、互いに競い合っておった仲じゃ。諸流派を学びたいと言い出して江戸に向かい『諸派を渡り歩いた末にタイ捨流に落ち着いた。近々、道場を開く』との文を寄越したきり、音信が絶えてしもうての。わしが江戸に道場を構えた折に消息をたずね歩いたものの、道場どころか本人の行方さえ知れず、気になっておったのじゃ」
「このご時世、なかなか仕官の口もなかろうと思われますが、いずこの御家中に召し抱えられたのでしょうか?」
「一月程前に、田安家の御抱人として召し抱えられたと嬉しげに申しておった。小体な道場を開いたもののさっぱり流行らず、借金だけが残って難儀しておったところ、腕を見込まれて仕官がかなったそうじゃ」
「田安家といえばあの稗田……」
口を挟みかけた静馬の言葉は無視され、
「十年ぶりとはいえ気性はまったく変わっておらなんだ。『清廉潔白の士』とはあの男のことじゃ」
墨伝はにこにこしながら何度も頷いた。
刀剣の目利きに長けている墨伝は、人を見る目も優れていた。『清廉潔白の士』との一語が耳に残った。
(墨伝先生がそのようにまでおっしゃる人物なら、ぜひお目にかかりたいものだ。タイ捨流の剣も気になるな)
まだ見ぬ宿院玄蕃なる人物の姿を心に思い描いた。
「芸は身を助けるというわけですな」
右近がはっはっはっと大仰な笑い声を上げた。
「じゃから、静馬にもしっかり鍛錬に励むよう申しておるのじゃ。いつか花開くときが来るとな」
墨伝は厳かな顔つきで静馬を見た。丸い目が静馬のにこやかな顔を映している。
(田安家の御抱人程度で花開くなどと申せぬ。墨伝先生は何につけても大袈裟でいい加減だ)
心の内で苦笑しながら、膝に手を置いて頭を深く垂れた。
墨伝がおうように頷き、一座に束の間の沈黙が生じた。
「田安家と申されますと、先日、道場に参られた稗田利之進どのが用人をなさっているとか」
今だとばかりに口を挟んだ。
「ええっ。あの道場破りが田安家の御用人とは驚きました。あのような男に果たして御用人が務まるものやら。生まれ育ちで出世が決まる、最たる例でしょう」
お熊が憎々しげに小ぶりな歯をむき出した。
「それにしても世が世であれば、墨伝先生などは仕官どころか一剣で立派に身を立てられたでしょうに、惜しいことですな」
右近は茶碗の酒を飲み干した。
「いやいや、わしはこの暮らしで十分と思うておるでの」
墨伝は年齢のわりに年寄り臭い言葉遣いをする。話す事も世捨て人のようだった。年齢より老けて思われたい努力が微笑ましかった。
「さ、さ、今宵もゆるりと飲み明かしましょう。こうして酒を呑んでおれば極楽というもの。ご遠慮なく、存分にご賞味くだされ」
酔いで顔を赤らめた右近が、墨伝の湯呑み茶碗に酒をどくどくと注いだ。
右近は蟻通道場の台所事情をよく知っていた。毎回、酒や肴持参で来てくれる心遣いが、台所を預かる静馬にはありがたかった。
今宵は、扇屋の厚焼き玉子をはじめ、刺身に青菜、焼飯など、目にも鮮やかなご馳走が詰められた豪華な三段重と、上酒の入った角樽を小者に運ばせてきた。
重や酒の代金が、薄給の右近の懐から出たわけがなく、いずこからかの付け届けに違いなかった。
静馬は白湯を、お熊は酒を飲みながら相伴にあずかっていた。
(夕餉に使うはずだった菜は明日に回せるな)
一食分の食費と手間が助かったと、静馬はほくほくである。
「ところで、いつもおる世吉の姿が見えぬようですが」
右近の問いかけに、
「世吉は、母親が病とのことで慌ただしく大坂に戻ってしまいました。当分、顔を出さぬでしょう」
墨伝に代わって返答した。
「うるさい男ゆえ、おらぬと清々するのですが、何だか物足りない気もいたします」
お熊が静馬の気持ちを代弁してくれた。
「世吉は、憑き物でもついたように、毎日、熱心に通っておりましたが、間が空くとどうでしょうか。武術は生半可では続かぬものです。もともと棒手振りに剣術の腕など不要ですし、江戸に戻ってもまた当道場へ通ってくるかどうか分かりませぬ」
休んだまま、ずるずると止めてしまうのではないかと気掛かりだった。
「はっはっは、よいではないか、静馬。来る者は拒まず、去る者は追わずじゃ」
墨伝が甲高い声で笑った。
(墨伝先生はお気楽過ぎる)
少々、腹立たしくなって、
「そうは申されましても、この拙者が困るのです」
聞こえぬように小声でつぶやいた。
稽古の謝礼――束脩は決まっておらず、弟子の懐具合に応じて支払われるから、裕福な弟子を数多く持てば師匠の懐も潤う。
藩や大身旗本、大商人や富農が道場の支援者になってくれれば、金銭面での援助が得られるから万々歳である。藩が剣術指南役にしてくれると、藩邸まで出稽古に出向いたり、道場に家臣が通ってくることになり、家臣に準ずる待遇として扶持米など禄を支給される習わしがあった。支援によって新築や改築された道場さえある。
(墨伝先生は世渡り下手どころではないからな。有力な弟子を得るなど夢のまた夢だ)
長屋住まいの棒手振りである世吉が、まともな束脩を持って来るわけではなかったが、売れ残りの品を届けてくれることが台所を預かる静馬にはありがたかった。
棒手振りは誰にでもできる気楽な稼業である。わずかな元手で仕入れた物を売り歩くのだから、思い立てばすぐに始められた。
世吉は頻繁に商う品を変えたから、昨日、川魚を持って来たかと思えば、今日は茄子、数日後には蛤や蜆のむき身だったりしたが、ともかく夕餉の一品にできた。
名月の八月十五日に、月に供える芒を多量に持ち込まれた折は、前日まで魚屋だったので期待外れもよいところだった。
笑うしかなく、その夜は、沢庵と飯に、具の無い澄まし汁という悲惨な夕餉になった。
右近と墨伝は盛んに酒を酌み交わし、酔いがかなり回っている。
「……というわけでしてな」
墨伝と右近の話はいよいよ盛り上がっていった。
「それは愉快だな、右近」
「どうしてどうして、先日の探索では苦労しましたぞ、墨伝先生。ははは、物乞いに扮した後は、風呂に入っても臭いが数日抜けませなんだ」
隠密廻り・定町廻り・臨時廻りという三廻りのうちで、隠密廻りは、最古参の凄腕から任命される出世頭だった。町奉行直属で働き、任務に応じて身をやつして潜入・探索する。着ている物も同心特有な黒羽織の着流しではなく、今日の出で立ちも小禄の幕臣に見えた。
八丁堀の与力や同心、とくに三廻りの同心は町人との接点が多いため口調が庶民に近かったが、右近の言葉にはべらんめえ口調のかけらもなかった。むしろ堅苦しい話し方をする礼儀正しい男だった。
「ところで先生、先日、妙な怪異話を耳にしたのです」
右近はさも重要な情報を漏らすかのように声を潜めた。
「何じゃ、何じゃ。右近は近頃、あの吉原の面番所に詰めておるそうじゃが、やはり廓絡みの怪異かの」
女に目が無い墨伝が目を輝かせた。
艶っぽい吉原の話題だからなのか、怪異話に興味があるのか、恐らく両方だろう。
「惣籬(大見世)の倉田屋に怪異が頻発しておるそうです」
右近はもったいぶって咳払いした。
「楼主鉄五郎の女房お滝が亡くなったのですが、怪異の噂が広まって騒ぎとなり、単純に病死と片づけるわけにはいかぬ具合になり申したのです」
いかにも迷惑そうな顔つきで右耳の後ろをかいた。
「してどのような?」
墨伝が男にしては睫毛の深い大きな目をきらりと輝かせた。
「お滝は死ぬ間際に、『箪笥の中に半月ほど前に亡くなった舞袖花魁の幽霊を見た』と口走ったそうです。見世の者たちは、心ノ臓が弱かったお滝が発作を起こしたのは、亡霊に驚愕したゆえだと騒いでおります」
「ほほう、花魁の幽霊とは面白い話じゃな。悲惨な死に方をする女郎も多いゆえ、恨みから化けて出ることもあろう」
墨伝は相槌を打ちながら、さらに身を乗り出した。
右近は、京生まれの舞袖は零落した公家の娘だったとか、雪のように色が白かったとか、床上手で名高かったなど、吉原内の事情に詳しい己を自慢げに語った。
「表沙汰になっておりませぬが、ああいう場所ゆえ怪異話は多いのです。怪異は人智の及ぶところではありませぬゆえ、それがしが調べると申しても……」
驚いたことに、右近までが怪異を信じていた。
怪異話などというものは、突き止めようとすればするほど不確かになって、結局、雲をつかむような伝聞で終わってしまう。ありえないのだから確たる証などない。
「剣客たるものは『怪力乱心を語らず』ではないですか」
と言いたかったが、相手が年長者なので、
「幽霊の正体見たり枯れ尾花と申します。ははは、お滝という女房は、いったい何を幽霊と見間違えたのでしょうかね」
あくまで他意の無い笑みを浮かべつつ婉曲に揶揄した。
「いやいや、静馬、世の中には理屈では分からぬ不可思議な事象が多いものじゃぞ」
墨伝の言葉に右近は、
「まことにその通りですな」
茶碗に手酌で注いだ酒を飲み干しながら大きく頷いた。
(世俗から超越した墨伝先生ならいざ知らず、不正を暴くお役目の右近どのまでがこの体たらくでは、公正な探索も心許ないではないか)
心の内でぶつくさつぶやいた。
「静馬どのが申す通りです。怪異などとは笑止」
今まで黙っていたお熊が、突如、口を挟んで味方してくれた。
だが……。
「わたくしたちで正体を明らかにしてやりましょう。ねえ、静馬どの」
にわかに風向きが怪しくなってきた。
右近のほうに向き直ったお熊は、
「右近さま、及ばずながらわたくしたちも合力いたします」
ここぞとばかりに語気を強めた。丸い目がわずかながら細まっている。
「こら、こら、お熊、何を言い出すのじゃ」
墨伝は渋柿でもかじったような渋面を作った。
「男装とはいえ、女の身では容易に吉原に出入りできませぬぞ」
右近が墨伝の意を忖度してお熊をたしなめた。
吉原にも、酒屋、質屋、寿司屋など町中にあるような店があって、遊女ではない女も大勢暮らしている。だが遊女の逃亡を防ぐため、女が郭内に出入りするには、吉原の町名主から《大門切手》をもらって、大門でいちいち提示せねばならなかった。
「むろん郭内には静馬どのを行かせまする。わたくしも大いに合力いたしますが」
「おお、それは鬼に金棒、助かりますなあ。ではさっそく明日からでもお願いできますかな」
酔いが回っている右近は、前言を忘れたように調子良く賛意を表した。
怪異を解決しても手柄にならないから人任せにしたいという魂胆が見えた。
「右近さま、お任せください」
お熊は大張り切りで貧弱な胸をはった。
「しかしじゃな」
お熊についてだけやたら心配性な墨伝は、得体の知れぬ面倒事に巻き込まれぬか心配らしかった。
「父上、わたくしは右近どのに合力するとお約束いたしました。父上は、あの時わたくしたちに『武士に二言は無いゆえ、無かったことにはできぬ』と、おっしゃったではありませぬか。女の身ではありますが、わたくしとて心はもののふ。武士の約束ですから守らねばなりませぬ」
膝を進めて墨伝に詰め寄った。
強い眼差しの瞳に見つめられ、
「あ、あれはあれ、こたびはこたびじゃ」
墨伝は酔いで潤んだ瞳を、まるでおたまじゃくしのように泳がせた。
「父上がお許しにならずとも、わたくしは武士の約束を果たすまでのことです」
お熊は言うなり座敷を出て行った。
襖がぴしゃりと大きな音を立てて閉められた。
「むむ、痛いところを突かれたものじゃな」
墨伝は照れ笑いのような苦笑を浮かべながら、
「では、静馬、頼むぞ。分かっておろうな。あくまでそなた一人で探索いたすのじゃぞ。お熊をほんの少しでも危ない目に遭わせることは金輪際許さぬからの」
いつもの甲高いながらも厳かな口調で命じた。
「もちろんです。お熊どのは蚊帳の外でわたくしの報告を聞いていただき、指図していただくだけに止めますゆえ」
墨伝を安心させるべく、はっきりと言い切った。
ともあれ、お熊の気紛れで余計な仕事を背負わされてしまったには違いなかった。
(道場と家政のやりくりで毎日、苦労しておるのに)
しだいに腹が立ってきた。
(後で吐き出しに行くか)
静馬は裏手の竹林にある古井戸を思い浮かべた。
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