第5話 其の一 妓楼の怪異 三
足腰の鍛錬のために、江戸市中を毎日歩き回る静馬だが、吉原の灯りを遠くから眺めるばかりで近づいたことはなかった。
夕暮れも近くなった頃、吾妻橋を渡って浅草寺門前の広小路に出た。右手向こうには浅草寺の豪壮な雷門が見える。
(どうしたことだ)
浅草東本願寺あたりまで続く一帯は盛り場としてにぎわっているはずだったが、今は少しばかり様子が違っていた。人出が多いにもかかわらず、沿道の店は閉められて簾が掛けられている。
(なるほど、引廻しの行列が通るからか)
広小路をこちらへ向かってやってくる一団が目に入った。
引廻しとなると、罪人一人に五、六十人もの大行列が組まれる。群衆に知らしめるための幟は縦が八尺五寸ある巨大さで、六尺棒を持った五人の男たちを先頭に、幟持ちが幟を押し立てて練り歩く。幟には罪人の名や罪状、刑罰の種類などが墨で黒々と記されていた。
群衆が広小路に溢れて見物している。
「女を次々に誘拐して女郎に売り飛ばしていたそうな」
「いかにもふてえ面をしてやがらあ」
「小塚原で磔だとよ。ざまあ見あがれってんだ」
見物している者たちが面白そうに言い合い、罪人を憐れに思う者などいなかった。
裸馬に乗せられた罪人が静馬の横を通り過ぎる。大罪を犯した男とはいえ、うなだれた姿を見れば憐れだった。首にかけた紙製の数珠が、馬の歩みとともにほろほろと揺れる。
少しばかり感傷の念を抱きながら、
(こうはなりたくないものだ。まあ、まっとうに生きていれば縁は無いが)
他人事として目を背けながらやり過ごした。
行列はゆっくりと通り過ぎた。浅草花川戸町から山之宿町をたどって小塚原の刑場へと向かっていく。
(吉原に行くには同じ道筋になってしまうな。道を変えるか)
浅草寺裏の田圃を通って、かつて編み笠茶屋が立ち並んでいた辻から、日本堤に出ることにした。
日本堤は山谷から箕輪まで山谷堀沿いに十三町も続く長い堤防だった。さきほどの引廻しの行列は幻だったかのように、吉原へと誘う日本堤は華やいだ色を漂わせていた。
(吉原など、一生、縁が無い場所だと思うておったが)
親のためなど、何らかの悲しい事情で苦界に身を沈めた女ばかりゆえ、女郎たちを嫌悪するわけではなかったが、ともかく敬遠したい地だった。
六ツ時から始まる夜見世目当てでいそいそと歩く遊客たちの気持ちが、静馬にはまったく分からなかった。
(お江戸は女子の数が少ないゆえ、独り身の男たちが通うのも無理は無いが)
心の通わぬ相手との交合など汚らわしく思えた。男と女がただの遊びで身体を重ねるなど、およそ考えられない。
ふとお八重の愛嬌のある笑顔が頭を過ぎった。
(今年の川開きは、墨伝先生やお熊どのと一緒に見物したものだが、来年は……)
毎年五月二十八日の川開きの日から、隅田川に船を浮かべての納涼が解禁となる。川開きの夜は盛大に花火が打ち上げられて江戸中から人々が押し寄せる。淡い蜜柑色の光を放って虚空に消え入る花火を、団扇片手にお八重と見物する光景を思い浮かべた。
(お八重どのは夢のまた夢にせよ、甲斐性もなく平凡な容姿の拙者に惚れてくれる女子がいつか現れるだろうか。互いに心を通わせあえる女子が見つかるか否かといえば望み薄だな)
とりとめない事を考えながら、五十間道と呼ばれる曲がりくねった道をたどり、大勢の遊客に混じって吉原の大門をくぐった。
黒塗り板葺きの冠木門は思ったより簡素だったが、門の内はきらびやかな別世界だった。
門の左手に面番所があり、隠密廻り同心や岡っ引きが詰めている。夜間になると、岡っ引きたちが五十間道や日本堤に出て、怪しい輩を面番所まで拘引する。屋根が瓦葺きになった面番所の表は、大門の内外を見張れるよう格子になっていた。
辻行灯に灯る灯がぼんやりと照らしだす郭内は、真昼のような喧噪に満ちていた。
「玉子、玉子―」
玉子売りの声が響いてきた。精をつけるために買い求める客が多いという。
戸口で訪いを入れると、目つきが鋭い小太りな岡っ引きが顔を出して、
「右近の旦那から聞いておりやす」
心得顔で中に招き入れた。
「おう、ようきたな」
四畳半の畳敷きに座した右近は、剣の道に精進する剣客の顔ではなくまるで別人だった。
「そこに座らねえか」
巻き舌気味で、八丁堀の者らしい、くだけた口調である。
「は、はい」
面食らいながら面番所の玉砂利に足を踏み入れた。
「静馬もご苦労なこったな。まあ、上がってゆっくりしねえ」
衝立の向こうに座した右近の前には、豪勢な会席膳が置かれていた。
吉原では、便宜を図ってもらうため、同心どころか岡っ引きにまで馳走が供され、紋日や五節句には金子が送られる習わしだった。
上がり框で草履を脱いで部屋に上がると、右近は、
「腹は減ってねえか。遠慮はいらねえぜ」
己の使っていた箸を手渡そうとした。
(このようなお人だったのか)
道場では決して見せぬ不作法さを目の当たりにして、右近に裏表があると知った。
「せっかくだ。俺っちの顔でよ、いい女と遊ばせてやってもいいぜ。どうでえ?」
苦み走った精悍な顔が卑しい笑いでゆがんだ。
(妻女が長く里帰りしているわけは、右近どのの女出入りのせいかもしれぬ)
心の内で苦笑しながら、
「ありがとう存じますが、またの機会にお願いします」
厚意を無にせぬよう追従笑いを浮かべた。
「そうか、そうか、そりゃあ残念なこった」
口先だけだったらしく、右近はあっさり矛を収めた。
「右近どの、さっそくですが……」
口調を改めて言いかけたとき、
「ごめんくださりませ。倉田屋の甲でございます」
面番所の戸口で訪いを入れる人影があった。
「倉田屋の遣り手だ。静馬が倉田屋を内偵するときに面が割れてちゃまずい。奥へ身を隠してくんな」
右近は静馬を奥の板敷きの間に追いやった。
遣 り手は遊女を監視するほか、客の善し悪しを判別する役目を持っていた。客に愛想を振りまいていても、遊女に見せる顔は般若である。遊女たちにとって恐ろしい存在だった。
静馬は板敷きの間と畳敷きの部屋を隔てる腰高障子の破れ目から、遣り手と右近のやり取りをうかがうことにした。
「お甲、入ってくんな」
右近の言葉に、入口の腰高障子が開かれて、眉を落とした年増の艶っぽい女が入ってきた。鼠色をした小紋の着物に小粋な柄の前帯を締めている。
「旦那、まだ怪異の一件にこだわってられるのですかい」
なじるような口調だったが、紅が塗られた口元は汚らわしい媚びを含んでいた。
「まあ一通り事情も訊いたこった。これ以上突いたって埃も出やしねえだろうよ」
右近は煮染めの皿からこんにゃくを箸でぶすりと突き刺し、口の中にぽいっと放り込んだ。
「お滝は舞袖の自死を気に病んでいた。気鬱の病か見間違いか知らねえが、亡霊を見たと勘違いして発作を起こした。それ以上でもそれ以下でもあるめえよ」
「そうおっしゃっていただけて安堵いたしました。帰って内所(楼主の部屋)に伝えます」
お甲は色気たっぷりな柔らかい所作で腰を折った。
「ところでよ、お滝が亡くなって、おめえも内心は喜んでるんだろ?」
右近はお甲の表情をうかがうように横目でじろりと睨んだ。
「ええっ、滅相もない」
お甲は身をくねらせながら、袖で顔をぱたぱたと扇いだ。
「お滝はあこぎな女だったからな。さぞやりにくかったろう。なあ、お甲」
右近は倉田屋の内部事情にも詳しかった。
「旦那、そりゃあ言い過ぎですよ。確かにきついお人でしたがね。お滝さんだって見世を盛り立てようと懸命だったんです。亡くなった人を悪く言うわけにゃいきませんよ」
ひどい寒気に襲われたかのように、胸の前で両袖を打ち合わせた。まるで今度はお滝の亡霊に祟られるというふうだったが、どこか芝居じみていた。小狡そうでいけ好かない女である。
「ほっとしてるっていやあ、亭主の鉄五郎もそうじゃねえのかい。やつは婿養子だ。見世の若い者だった鉄五郎を先代が見出して、一人娘のお滝にめあわせたそうだが、ずっと尻に引かれっぱなしだったっていうから、心底、ほっとしてるだろうよ」
くくくと低く笑いながら、意地悪く畳みかけた。
「そりゃあ、旦那の思い過ごしってえもんですよ。見世を差配していた女房がいなくなったのですから、随分、お困りだと思いますよ」
お甲は涼しい顔でいなした。
「どうだかな」
右近は鼻先で笑った。
「騒ぎが大きくなって商売が上がったりなもので困っちまってるんですよ。ですから、これ以上の詮索はほんとうにご勘弁願いますよ」
お甲は鉄五郎から預かってきたらしき袖の下を、文字通り右近の袖の内に滑り込ませた。
「まあ、悪いようにはしねえから安心しろい。これからもよろしくな」
右近が含みのある笑いで応じ、お甲の笑顔が一瞬、引きつった。
「冗談はやめておくんなさいよ。心ノ臓に悪いったらありゃしませんよ」
お甲は再び愛想の良い笑顔に戻ると戸口から出て行った。遣り手は女郎揚がりゆえ、腰つきにも色香が残っている。器量は悪くないのだが、隠し切れぬ崩れたところが汚らわしく、品性のかけらもない俗人に見えた。
(右近どのは、怪異、怪異と騒いで、早く噂を吹き消したい倉田屋から袖の下をなるべく多くせしめようという魂胆であったか)
悪辣な同心の片棒を担がされていると気づいた静馬は、早々に蟻通家に戻った。
首を長くして待っていたお熊に、
「馬鹿らしくなって戻って参りました」
右近の裏の顔を子細に告げたが、
「ともあれ、右近どのが時と場所をわきまえておられるということは、父上を師として尊崇しておられる証ではありませぬか」
お熊は動じぬふうだった。
「いやまあ、人にはそれぞれ裏表があり、思いがけぬ側面がありますゆえいっこうに構いませぬ。ですが問題はそこではありませぬ。右近どのの手先になって、お熊どのが〝強請、たかり〟の片棒を担ぐことはいかがなものかと思うのです」
「ほんとうに静馬どのは、回りくどい言い方をしますね。わたくしは聞いていて、ほんとうに、いらいらして参ります」
お熊はぷっくりとした頬をさらに膨らませた。
「あれこれ考え過ぎてしまうもので申し訳ありませぬ。ですが、ありうる事態をすべて想像して対処することは大事かと思うのです」
「剣客として剣を交える折なら、相手のあらゆる動きを見切ることは大事でしょうが、どうでもよい事までうだうだ考え過ぎだと申しておるのです」
「ですが、悪事に荷担しておるようでなりませぬ」
「右近どのの心算はどうでもよい。ともかく、わたくしは怪異など無いと明らかにしたいだけです」
「無いと証すことほど難しいことはありませぬ」
と言いかけて、はたと気づいた。
「怪異が誰かの仕業となれば、なかった証になるわけですね」
「そういうことです」
お熊は厳かに頷いた。
目がきらきらと輝いている。童女のごとき瞳を見れば否とはいえなかった。
「謎を解くと思えば、俄然、興が湧いて参りました。明日は朝から倉田屋を訪ねてみます」
うっかり快諾してしまった。
「静馬どの、しっかり頼みましたぞ」
お熊は我が意を得たりというように大きく頷いた。
夜になった。
八畳の間から、吞み過ぎた墨伝の大いびきが地響きのごとく響いてくる。
取次の間の板敷で横になっていた静馬は、隣の六畳の間で眠るお熊の寝息をうかがいながら、こっそりと裏庭に出た。
手燭に灯を点してから裏手の竹林へと分け入った。例の古井戸まで続く獣道は通い慣れているので、目を瞑っていてもたどり着く。
「静馬の大馬鹿者! 気弱もほどほどにせい。お熊の言いなりになって面倒を背負い込むとは何だ!」
古井戸の底に向かって大声で吠えた。
お熊と呼び捨てにすると溜飲が下がると同時に、くすぐったい後ろめたさが湧いてきた。
「さてと……」
すっきりした静馬は手燭の灯で、銅製の鏡に顔を映し、
「よし、よし、いいぞ」
笑顔の確かさを確認して一人頷いた。
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