第3話   其の一  妓楼の怪異  一


 数日経った日の昼餉が終わる頃だった。


「父上、お天気もよろしいようですから、これより気晴らしに出掛けて参ります」

 茶碗を箱膳に置きながら、蟻通熊が唐突に言い出した。


 蟻通家に小者や下女などいない。お熊が外出する際は、風神静馬が供をすることになる。


「おお、そうか、そうか。それはよい。ゆっくりして参れ」

 蟻通墨伝は垂れ気味の目尻をさらに下げた。

 墨伝はまだ三十半ば過ぎで、武芸に秀でているものの、人柄も見掛けも軽い人物だった。

 故郷にいた頃は『八王子の小天狗』と仇名されていただけあって、吹けば飛ぶような小柄な体躯である。稽古中に発する気合い声も甲高く、ふざけているのかと思えるほどだった。

 みずから命名した墨伝という名も人を食っていた。

 かの剣聖、塚原卜伝を尊崇するゆえというのだが、卜伝の起こした新当流の流れを組む流派を学んだわけでもなく、天然理心流のみ修めているといういい加減さだった。


(今日あたり、利之進どのをお訪ねして、守り袋を届けがてら、その後の様子など聞こうと思うておったがやむをえぬ。利之進どのとの約束があるわけではないゆえ、またにいたすか)


 墨伝もお熊も静馬の都合などまるで考えていなかった。

 当然、供をするものと決めつけている。己の都合を後回しにするしかなかった。


「ではさっそく」

 墨伝は一人娘のお熊に甘い。

 腰も軽い。

 食べかけの箸を置いていそいそと立ち上がると、床の間の違い棚に置かれた手文庫からいくばくかの銭を取り出して懐紙に包んだ。


「頼むぞ、静馬」

 小判でも渡すかのように、厳かな仕草で紙包みを手渡した。


「確かに御預かりいたしました」

 かしこまって受け取ると、墨伝は満足そうにふむと頷いた。


(その銭は明日……)

 底を突きそうな味噌や炭を購うための銭だったが、

「やむを得ぬ。さしあたり、また質屋竹富の世話になるしかあるまい」

と口中でつぶやいた。


 墨伝は、八王子千人同心組頭を務める豪農、蟻通家の二男に生まれついた。

 何不自由なく育ったため、金銭にまるで無頓着だった。


 天領である武州多摩は尚武の気風が強く、武術が盛んな地だった。当主である長兄孫十郎は、墨伝の剣客ぶりが自慢の種で、江戸で道場を開くにあたって何から何まで援助してくれた。

 孫十郎が援助を惜しまぬのを良いことに、墨伝は今でも本家へ頼めば何とかなるとの甘い考えを持ち続けている。

 墨伝が孫十郎に無心の手紙を送った後、援助が届くまでの間、静馬の才覚でしのぐしかなかった。


「先日、あつらえてつかわした振袖を着て参るようにな。せっかくの着物が箪笥の肥やしとは情けないからの」

 早くに妻を亡くした墨伝は、ときおり母親のような細やかな心遣いをみせる。

「あれを着れば、美貌で有名だった亡き妻、志乃にそっくりじゃ。いやいや、市中のいかなる女子にも負けぬぞ」

 最近、少し小皺が目立つようになった目尻を思い切り下げた。


(確かに御新造の志乃さまは美しかったが、お熊どのは墨伝先生似で、御新造さまにはいっこうに似ておらぬ)

 お熊と墨伝の顔を上目遣いに見比べながら笑いをこらえた。


「父上がそうまでおっしゃるならしかたありませぬ」

 お熊は膳もそのままに、着替えのため自室へ向かった。


 墨伝とお熊の膳を下げながら、

(早く道場を盛り立てて、下男の一人も置ける暮らしにせねばな)

 心の内で己を叱咤激励した。

 浮世離れした墨伝親子に何も期待できない。

 静馬の才覚に蟻通家の命運が懸かっていた。


「父上、これでよろしいでしょうか?」

 長く待たされた後ようやくお熊が戻ってきた。

 髪も女らしく島田髷に結い上げている。流行りの灯籠鬢にするつもりが失敗に終わって中途半端なところがお熊らしかった。


「父上がおっしゃるゆえ着てみましたが、やはりわたくしには男の姿が性に合っております」

 振袖は茜色の地に藤の花の裾模様があでやかだった。


「派手な色柄は好みではありませぬ。いつもの路考茶(緑がかった黄茶)の小袖のほうがよほど似合っております」

 ぶつぶつ文句を言うお熊とともに道場の朽ち果てた冠木門をくぐって新道に出た。


 我が娘をいまだに幼女のごとく考えている墨伝は、門まで見送りながら、

「静馬、くれぐれもお熊を頼むぞ。一時も目を離すでないぞ」

 何度も念押しした。


 その間にもお熊はすたすたと歩み去っていく。動きに合わせて長い袖が揺れる。

「ほれほれ、静馬、遅れるでないぞ」

 墨伝が心配げに声を裏返らせ、

「お熊どの、お待ちを」

 静馬は慌てて跡を追った。


 紅屋の前を通りかかったが、お八重の姿は見えず、店先にいるのは、お八重とは似ても似つかぬ下駄のような顔の店主とあばた面の小僧だけだった。


「いったいどこに参られるのですか」

 お熊の三歩ほど後を歩きながら問いかけた。


「一月ほど前から浅草奥山に面白い見世物小屋が立っておるそうです。たいそう噂になっていて、押すな押すなの人出とのこと。はぐれぬようしっかり付いて来なさい」

 ふだんは袴をはいて大股で闊歩するお熊だったが、今日ばかりは裾の乱れを気にして小股でしゃなしゃなと歩いている。それでも歩く速さは相当なものだった。


(思うたより似合うておる。馬子にも衣装とはこのことだな。ともあれ子狸は子狸だが)

 男たちが一人残らず目を向ける。

 女たちが何やらささやき合う。

 立ち止まって振り返り、見えなくなるまでじっと見送る若者も多かった。


(着慣れぬ女子の衣装ゆえ、歩き方がぎこちない。奇異に見えるとはいえ、そこまでじろじろ見ずともよかろうに)

 気恥ずかしい思いだったが、お熊は我関せずと先を急いだ。


 大提灯が吊り下げられた浅草寺の総門――雷門に着いたとき、境内にある弁天山の刻の鐘が昼八ツを告げた。


「早う、早う。髪を結い上げていたせいで遅くなってしまいました。今日の興行はもう満員札止めになっているやもしれませぬ」

 十四にもなったお熊だが、童のようなところがあった。

 外見も、頬がふっくりしていて幼く見える。


「きっと大丈夫でございますよ」

 静馬は適当に返答した。


 支院が立ち並んだ観音堂への参道の先に仁王門があり、金剛力士像二体が睨みを効かせていた。


「もっと、早う」

 お熊の足取りがさらに早まった。


 観音堂の後方が奥山と呼ばれる一大遊興地で、茶屋や見世物小屋が所狭しと並んでいた。


「ほう、これはなかなか立派な小屋でございますね」

 目当ての小屋は、間口十八間(三十二・七メートル)奥行き七間(十二・七メートル)もあり、小屋といえぬ巨大さだった。

《上方くだり生人形》の大きな幟が、日差しを受けて中空にはためいている。

 入口では、呼び込み役の口上が面白おかしく述べ立て、腹掛け姿の木戸番が、押し寄せてくる殺気立った客を巧みにさばきながら、銭と木札をせっせと交換していた。


「これはまあ、聞きしに勝る盛況ぶりではありませぬか。わたくしは茶屋で待っておりますゆえ、静馬どのが並んできなさい」

 お熊が涼しい顔で命じた。


「貴賤を問わず、並ばねば木札を買えませぬ。わたくしだけ入れとおっしゃるのですか」

「そ、それは困ります」

 お熊は決まり悪そうにしながら静馬の真横にちょこんと並んだ。


 二人して長蛇の列に並んだ末、木戸銭三十二文を払って木札をもらい、ようやく見世物小屋の中に入ることができた。


(まるで童だな)

 小屋の入り口に置かれた関羽の招き人形を間近に見ただけで、お熊は大はしゃぎだった。

 小屋の中では『三国志』の有名な場面が、人形を使って再現されていた。怪しい人形、滑稽な人形、そのいずれもが日の光の届かぬほの暗い灯火の下で息づいていた。


「なんと見事な……。まるで生きておるようではないか」

 生人形の精緻さに息を吞んだ。

 子供だましの下世話な見世物と侮っていたが、大の男が見ても納得のゆく出来映えである。

 だが感心ばかりしていられなかった。

 小屋の中は薄暗いうえに、人、人、人で身動きが取れなかった。人に押されながら流されていくしかない。

 人いきれでお熊が気分を悪くせぬかと気掛かりになった。


「お熊どの、大事、ありませぬか。気分は大丈夫でしょうか」

 迷路に迷い込んだような錯覚に陥った。

 見失えば、そのままお熊を失うような気がした。

 乱暴に押してくる輩から断固守らねばならない。

 見世物を楽しむどころか、周囲の〝敵〟からお熊を守るだけで精一杯のありさまで、気づけば、ところてんのように出口から押し出されていた。


「面白き物を見ました。次は父上もお誘いして参りましょう」

 頬を紅潮させたお熊は、いかにも満足げな笑顔をみせた。

 白く小ぶりな歯が外の光を反射して眩しい。


(まるで拙者は下僕か、いや忠犬だな)

 自嘲しつつも、お熊が喜べば手放しで嬉しかった。


(二人して別の見世物小屋を見物するか、茶店に寄って団子でも食いながら一服するか、はたまた大道芸をひやかすか)

 楽しい想像を巡らせていたが、

「このように見事な人形の作者はどのような人物であろう。これから人形師に会って参ります」

 言いだすなりお熊は小屋の裏手へと足早に向かった。


「お熊お嬢さま、お待ちください」

 慌てて、お熊の跡を追い、表の喧噪から一転、人気の無い裏手へと回った。


 見世物は、すべてが嘘偽り――張りぼての世界である。

 小屋はすぐに取り壊せる造りで、表は華やかでも裏側は簡素と決まっていた。


「おや?」

 ひっそりした楽屋裏を想像したが何やら騒がしい。

 羽織を着た三十前後の男が一人、数人の破落戸たちに難癖をつけられていた。


「それなりの身なりをしているところから見ると、人形師本人でしょうか」

「間違いありませぬ」

 お熊と顔を見合わせた。


 小屋の裏口に掛けられた暖簾の間から、職人風の痩せた男がひょいと顔を出したが、外の騒ぎに気づいてぴたりと足を止めた。


 静馬は男に近づいて、さりげなく横に並び、

「絡まれている人の名前は確か……えっと……」

 あくまで何気ない口調で問いかけた。


 男は揉め事から目をそらさぬまま、

「文次郎師匠じゃねえかよ」

 知らないのかというふうに答えた。


「じゃあ、生人形の人形師があの人なのですね」

 身を乗り出すようにしてお熊が口を挟んだ。


 途端に男がくるりと振り向いた。顔に、さっと警戒の色が走る。


「あんたら何者だね。関係ねえなら引っ込んでな。こちとら、それどころじゃねえんだ。向こうへ行った、行った」

 男が語気荒く追い立てようとしたときだった。


 破落戸の一人が文次郎の胸倉をつかんだ。

「師匠に何するんでえ」

 男が慌てて飛び出した。だが、

「すっこんでろい」

 蹴り飛ばされて呆気なく地面に転がされた。

「この野郎」

 男は立ち上がって破落戸に組み付いたが、簡単に投げ飛ばされてしまった。

 松の木の幹に背中を打ちつけ、ずるずると崩れて尻餅をついた。


「わたくしは振袖を汚したくないゆえ、静馬どの、そなたが助けておやりなさい」

「え、わたくしがですか?」

 思わず聞き返した。


 今まで、誰かと腕力で争ったことがなかった。

 幼い頃は小柄でひ弱だったため、近所の悪童たちに殴られ蹴られ惨めな思いばかりし、長じると、争いになる前に笑ってかわすようになったからだった。


(だが、待てよ)

 先日の出来事に鑑みれば、柔術の実力も存分に発揮できそうだった。

 あくまで実力があればの話だったが。


(これは稽古ではない。相手に手加減せずともよいのだ)

 実戦であるとの意識に心が勇み立った。


「待て、待て、乱暴はいかん」

 静馬は大股で破落戸の前に進み出た。


「何だ、若造、何か文句があるのけえ」

「引っ込んでおいたほうが身のためだべ」

「二本差が怖いものけえ」

 肩を怒らせた破落戸どもが静馬を取り巻いた。


「てや―っ!」

 背の高い男が静馬の胸板に突きを入れてきた。


 男の動きはひどく緩慢に見えた。

 胸を引いた。身体をひねって男の腕を挟みこむ。関節技で肘を極めた。


「そうれ」

 ぱっと放してやると、男は、よろけながらたたらを踏み、

「あちちち」

 痛めた肘を抱えながら、たちまち戦意を喪失した。


「やろっ!」

 別の破落戸が蹴りを入れてきた。

 喧嘩慣れした手合いだった。

 だが、鋭いはずの蹴りは、やはりゆっくりした動きに感じられた。

 体さばきでかわしながら、左手で男の金的を打った。


「ぐげええ」

 男は股間を押さえて地面を転げ回った。


(やはり嘘のように身体が動くぞ)

 次々に襲いかかる敵を、さばき、よけ、反撃した。

 匕首を抜いて切りかかった者もいたが静馬の敵ではなかった。


「こりゃあいかん」

「覚えていやがれってんだ」

 捨て台詞とともに、ある者は腕を押さえ、ある者は足を引きずりながら、蜘蛛の子を散らすように、ちりぢりに逃げ去っていった。


(やはり素手の戦いでも力を発揮できたか)

 得意な気分で袴の裾をはたいた。


「剣の腕もこの調子だと良いのに。稽古でわたくしから一本も取れぬとは恥ずかしい」

 お熊は褒めるどころか、口をとがらせながら嫌味を言った。


「戦意を抱いた相手にしか力が出ぬのです。ですから……」

 静馬の弁解も聞かず、お熊は文次郎に駆け寄った。


「怪我はありませぬか? いったいあの連中は何者です」

 矢継ぎ早に問いかけるお熊に、

「小娘にゃ関係ねえ」

 一言告げるや文次郎は小屋の中に消えてしまった。


「陰気で嫌な男だこと。恩知らずにもほどがあります」

 お熊は文次郎が姿を消した裏口を睨みつけた。

 静馬もむっとしたものの、

(まてよ。場合によっては怒るまでもないかもしれぬ)

 いつもの癖で、さまざまな事情を考えてみた。


「文次郎さんは気持ちを上手く表せない人かもしれませんし、動転していただけかもしれません。何か弱みがあって事情を詮索されたくないのかもしれません。いやいや、他人が真似できない傑作を作り出す人は変人と相場が決まっています」


「なぜ、あの失礼な男の肩を持つのです」

 お熊は柳眉を逆立てた。


「いえ、そのようなわけではありませぬ。ただ、ありえそうな事情をいろいろ想像してみただけです」

「静馬どのは人が良すぎます。何でも善意に考え過ぎではありませぬか」

 お熊はますます怒りだした。


「誰しも立場に応じて言い分があります。一方の立場に立って相手に怒ってみても、見当違いな場合があります。怒ると疲れます。怒らなくともよいことに怒るなど、己自身が損だとは思われませぬか? 心穏やかに生きるほうが幸せにつながりますよ」


 怒りを無理に抑えたり、辛抱するのではない。

 相手の事情をあれこれ思い巡らせてみれば、怒らずともよいと自然に納得できるのだ。

 とはいえまだまだ悟り切れない静馬は、古井戸の底に向かって悪態をつくのだったが。


「静馬どのはこのわたくしとあのような恩知らずとどちらが大切なのですか。返答しだいで、ただでは済ませませぬぞ」

 お熊はぷりぷりしながら足早に歩き出した。


 頬を膨らませた顔も子狸のようで愛嬌がある。

 裾が乱れぬように小股でちょこちょこと歩く姿に、思わず唇が緩んでしまう。


 しばらくぼんやりと見送った後、

「お待ちください」

 継当てしたよれよれの袴をぱたぱたとはためかせながらお熊の跡を追った。

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