第2話   剣客覚醒

 利之進がいかなる道をたどったのか、まるで見当がつかなかった。日差しが弱まって四半刻ほど経ち、日はまさに暮れようとしている。一吹きの涼風が頬をなでて通り過ぎた。


(拙者の勘ではこちらだな)

 道場のある本所から両国橋を渡って、神田川沿いの柳原通りを西にずんずん歩いた。


 お熊はからりとした気性だ。すぐに癇癪を起こすが、しばらくすればけろりと直っている。少しばかり時を潰して戻れば事足りた。

 長年、墨伝親子の我がまま気ままに付き合わされてきた静馬の処世術だった。


 筋違御門の手前で左へ向かった。


(勘が外れたな。どうせなら足の鍛錬のつもりでもう少し先まで歩くか)

 大名・旗本の武家屋敷が立ち並ぶ広い通りを、駿河台へと上っていった。

 冨士見坂を右手に見てさらにずんずん進んだ。あたりは人気がまったくなかった。夜の気配が足許からひたひたと這い上がってくる。


(夕餉の仕度が気になるが、今少し歩くとするか)

 表猿楽町の通りに差し掛かったとき、

(お、あれは……)

 肩幅のある大柄な後ろ姿が、日の陰った通りの先に見えた。


「利之進どの」

 声を掛けようとした、そのときだった。


 利之進の行く手を阻むように、脇道からばらばらと人影が飛び出し、砂煙がもうもうと道に舞い立った。


 六つの影が利之進を取り囲んで次々に抜刀した。

 みすぼらしい風体から察するに食い詰め浪人だろう。一様に覆面や頬かぶりをしている。


「何者だ。拙者を稗田利之進と知っての狼藉か」

 利之進の誰何の声に、

「問答無用!」

 押し包む輪を狭めながら、利之進に斬りかかっていく。

 たちまち乱戦が始まった。


 人気がなくひっそりした通りである。


(腕が立つとはいえ、利之進どの一人では危うい。いったい、どうすべきか……)

 生まれてこのかた、命のやりとり――真剣での争闘の経験がなかった。争い事に巻き込まれるなどとんでもないはずだったが、

「利之進どの、御助勢いたす!」

 口が勝手に動いた。ためらう心を置き去りのまま、浪人たちの輪に向かって身体が突進していた。


「何者だ」

 賊の刃がこぞって静馬に向いた。


「貴公は、先ほどの師範代ではないか。気持ちはありがたいが合力は無用に願おう」

 利之進はすげなく言い放った。


(拙者はいったい何をしておるのか。我が身を危険にさらすだけでなく、利之進どのの足手まといになってしまうというに)

 首を突っ込んでから己の軽率さを後悔した。


「邪魔だてすると斬る」

 賊の一人が叫ぶなり、

「きええええっ」

 いきなり正面打ちにきた。


(何だ?)

 敵の動きがゆっくりに見えた。

 静馬は余裕で左にかわした。

 身体が勝手に動く。


「むん!」

 抜刀するや敵の腹部をずぶりと突いた。


 呆気ないほどの手応えとともに、刀身が敵の身の内へつるりと吸い込まれた。まるで、こんにゃくを突き通したような感触だった。


「ぐげっ」

 奇妙な声を発しながら、敵はその場にどっとくずおれた。


「こやつ、できる」

 別の浪人が大きく振りかぶりながら正面を斬ってきた。


 難なく左十字に受け流した。すかさず斜め後ろに身体をさばく。

 敵の右腰を引き斬った。さらに後退しつつ右膝を地面に着けたときには、敵の腰のあたりがすっぱりと切断されていた。


「!」

 悲鳴は無音だった。

 両断された敵の身体は、二度鈍い音を立てて地面に落下した。


 素早く後方に退いた静馬にも、血の飛沫が降りかかる。


「まずい! 退却せえ」

 誰かが叫んだ。


 生き残った曲者は死体を置いて一目散に逃げ去っていく。


(やはり本物だったのか)

 まず最初に考えたのは己の佩刀の切れ味だった。


 静馬の大刀は墨伝から譲り受けた無銘の古刀だった。江戸に出てしばらく経った頃、刀剣の目利きを得意とする墨伝が、

「掘り出し物があったゆえ買って参った。大太刀を磨り上げてあるから銘が消えておるが、まさしく備前長船兼光じゃ」

 にこにこ笑いながら与えてくれた古刀だった。


 兼光という場合、二代目「延文兼光」を指すことが多く、古刀最上作とされている。正平五年(一三五〇年)、長船付近に滞陣した足利尊氏が兼光に鍛刀させたところ、兜を見事断ち割ったという《兜割り》の一刀が名高かった。


 二尺九寸三分の兼光が磨り上られて二尺六寸三分になっているとの墨伝の見立てだったが、兼光のような名刀が容易に手に入るとは思えなかった。


(墨伝先生はいい加減な質ゆえ、真贋のほどは心許ないが、見る目は確かゆえ優れた刀に相違ない)

 十八歳だった静馬は刀を持てたことが嬉しかった。


(この古刀を佩いていたかつての強者のようになるぞ。鍛えて鍛え抜いて、鋼のごとき身体を手に入れてみせる)

 質実剛健といった風格を感じさせる古刀にふさわしいもののふが己の目標と思えた。とはいえ、二十二になった今も鋼の身体とは縁遠く、細身のままであることが情けなかったが。


(墨伝先生の見立ては間違っていなかったのだな)

 しばし兼光の刀身に見入った。


(そうだ)

 ふと我にかえって、

「利之進どのはご無事か」

 初めて利之進のほうに目をやった。

 利之進も敵を一人、斬り伏せていた。


 互いの目が合った。


「き、貴公……」

 利之進は狐につままれたような顔で静馬を見た。


「あ、あの……」

 今になって息が上がり、静馬は絶句した。


「ともあれ……」

「は、はあ……」


 静馬と利之進は血に濡れた刀を入念に拭い、ほぼ同時に納刀した。

 二人の息遣いだけが闇に沈んだ通りに響く。

 大きく息を吸い込んで呼吸を整えた。


(初めての実戦では、緊張と恐怖のあまり、無我夢中で何が何だか分からぬようになる、と墨伝先生から聞いていたが、さきほどの拙者はいったいどうなっておったのか)

 夢の中の出来事のようで不可思議な心持ちだった。


 心とは別に身体が動いていた。古刀の魂が乗り移って静馬を動かしたのだろうか。 

 容赦ない剣鬼に変じた己が信じられなかった。


 だが……。

 全力で挑んでくる相手には全力で立ち向かう。

 これが剣客としての最大の礼儀だと思えた。


「おぬし……」

 近寄ってきた利之進は、感動に満ちた眼で見つめながら、

「稽古場での未熟さは偽りであったのか。拙者はからかわれておったのか」

 心の内を透かし見るように尋ねた。  


「い、いえ、そのようなことは決してありませぬ。ただ……」


「ただ、何じゃ?」

 利之進は子供っぽい表情で首をかしげた後、返答を待たずに言葉を続けた。

「やはり天然理心流は実戦の剣であったのだな。それにしても貴殿は奥ゆかしい。いや人格者だ。能ある鷹は爪を隠すという。拙者は己の見る目の無さが恥ずかしいぞ」

 一人合点して何度も大きく頷いた。


「いえ、さ、さようなことは決して……」

 戸惑う間にも、興奮を抑えきれぬ口調で、

「多勢に無勢、正直、危うかった。貴殿は命の恩人だ。向後は一生の友として付き合ってくれ。なに、身分の違いなど気にせずともよいぞ。はははは」

 恰幅の良い身体を揺さぶって豪快に笑った。


「は、はあ……」

 相手の気を損じぬよう生きてきた習い性が頭をもたげ、

「わたくしのような者でよろしければ、喜んで交わらせていただきます」

 深く考えずに愛想良く快諾してしまった。


「そういえば、拙者の詳しい素性を明かしておらなんだな。拙者は、旗本四千石、御小姓組頭を務める稗田吉三郎が長男にて、いまは付人として田安家の用人を務めておる。試合で手心を加えられては困ると思うてあえて伏せておったのだ」

 利之進ははにかんだように白い歯を見せた。


「そのようなご身分のお方でしたか」


 田安家といえば、一橋家、清水家とともに御三卿の一つで、将軍家の身内のような特殊な存在だった。将軍家の血筋が絶えた折のため、徳川吉宗および家重の世に創設された。


 その名の通り屋敷が田安門に隣接し、石高は十万石である。領地は諸国に分散していて固有の藩を持っていなかった。領地の支配は、摂津国長柄陣屋、甲斐国田中陣屋などの代官所が行っている。


 家老以下の家臣は、御付人・御付切・御抱人という三種の身分から構成され、御付人と御付切は幕府の役人だった。


(用人は家老に次ぐ地位ではないか。身分をかさに着ぬあたりは好漢といえそうだ)

 権威を振り回さぬ利之進に好意を抱いた。


 昼間の暑さは厳しかったが、日が落ちると一転して涼しくなった。

 夜気が汗ばんだ肌に冷え冷えと触れてくる。

 彼方の辻番所にぽつんと灯りが点った。灯の色がにじんで闇の中にぼやけながら広がっている。


「あやつらは何者ですか」


「まったく心当たりがないのだ」

 利之進は少し角張った顎をつるりとなでた。


 武家屋敷の塀から突きだした樫の木の黒々とした枝が、ざわりと不吉な音を立てた。


「お互い面倒は困りますゆえ、早々に立ち去るといたしましょう」

「では今宵はこれにてお別れいたすが、幸い明日も非番ゆえ、礼を兼ねて貴公の道場を訪ねるといたそう」


 利之進の申し出を聞いてにわかに心配になった。

 相手は得体の知れぬ者どもである。

 すでに首を突っ込んでしまった静馬はともかく、万が一にも、巻き添えを食って大事な大事なお熊が狙われては一大事だった。


「墨伝にも熊にもこの件は内密に願います。万が一にも巻き込みたくありませぬ。ですから、有り体に申せば道場へはもう二度とお越しくださいますな」

 ついつい語気を強めてしまった。


「えっ」

 利之進は面食らった顔をした。


「あ、その……こ、これには事情があるのです」

 気を悪くさせてしまったかと、弁解の言葉を述べかけたが、

「あい分かった」

 利之進はあっさりと快諾した。


「恐れ入ります」

 安堵して深々と頭を垂れた。


 静馬のほうに一歩、歩を進めた利之進は、

「だが、友としての付き合いまで断らんでくれ。拙者には真の友たる者が一人もおらぬのじゃ。上辺の付き合いばかりで、無闇にへつらう者か、隙あらば蹴落とそう、引きずり下ろそうとする者しかおらぬ」

 言いながら、心底、寂しげな表情を浮かべた。

 大身の旗本家嫡男として、またしかるべきお役目の幕臣として、体面を重んじねばならぬ立場の気苦労を考えれば、静馬の暮らしは貧しくとも気楽でましなのだろう。


「そこまで申されるなら……」

 丁寧に頭を垂れると、利之進の歯並びの良い白い歯がこぼれるように光った。


 呆れるほど無防備な笑顔に戸惑うと同時に、

(このような笑顔も上手く作れるよう工夫せねばな)

 笑みの研鑽の材にしようと考えた。


(ともあれ交誼は長続きすまい)

 今は感動、感激しきりな利之進だったが、しばらく経てば気も変わるだろう。生まれも育ちも大違いな静馬との交わりなど上手くいくはずもなかった。


「用人とは名ばかりで、たいてい暇にしておるゆえ、いつでも訪ねてくれ。待っておるぞ」

 爽やかな笑みを残して、利之進の後ろ姿は通りの闇に溶け込んでいった。


「お気をつけて」

 しばし見送ってから、墨伝とお熊が待つ我が家――蟻通道場へと足を向けた。


 だが……。


「しまった」

 両国橋を渡りきってからはたと気づいた。

 利之進が道場に落としていった守り袋を返し忘れていた。


「まあよいか。また後日、お届けしよう」

 静馬は懐に手を入れて、守り袋の感触を確かめた。

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