馬を飼う女その2
増田朋美
馬を飼う女その2
その日、杉ちゃんと水穂さんが大橋優香さんの馬牧場で、馬のブーケファラスくんと一緒に、牧場の中を散歩していると、弁護士の小久保さんが一人の女性を連れて来場してきた。大橋優香さんは、とりあえず、二人を牧場の中にある事務所へ二人を案内した。
「突然訪れて申し訳ございません。彼女は石塚千晴さんとおっしゃる方ですが、ここで預かっていただけないでしょうか?何でも、居場所なさに闇バイトに手を出してしまったようなんです。それで、しばらくこちらで働いてもらえたら良いかなと思いまして。よろしくお願いします。」
と、小久保さんは説明した。隣に座っている女性は、人生どうでも良くなったという顔をしている。事情を聞いて、杉ちゃんと水穂さんも事務所へやってきた。
「闇バイトって最近流行っているようですが、一体どんな闇バイトだったのでしょうか?」
水穂さんがそうきくと、
「はい、何でも高齢の女性の宅に押し入って、お金を取るというグループの一員だったようです。先日富士見台で強盗事件があったのはご存知ですか?その犯人グループの一人だったようです。幸い彼女は被害女性を直接手にかけたわけではなく、事件の場にいただけでしたので、比較的短時間で出所できたそうです。」
と、小久保さんは言った。
「そうですか。確かに今はSNSなどで簡単に闇バイトに手を出してしまえますものね。それよりも、高齢の女性を単に金づるしか見ない社会の方が恐ろしい。」
水穂さんがそう言うと、
「そういう女性であれば、頑張って働いてくれるんじゃないの?まあいずれにしても、馬牧場は人手が足りないのは確かなので、手伝ってもらえば?」
と、杉ちゃんも言った。そういうわけで大橋さんは、その女性、石塚千晴さんに、馬牧場で働いてもらうことにした。住所は、富士宮市内で、自宅からバスで通うことができるという。
実際に、石塚千晴さんを働かせてみると、仕事はちゃんとするし、引き馬をさせてもトラブルを起こすことはなく、かなり働ける女性であることは間違いなかった。そんな女性がどうして闇バイトに走ってしまったのか、よくわからないと大橋優香さんは思った。
今日も千晴さんは、大橋牧場へやってきた。人懐っこい白馬マレンゴくんと、真っ黒なブーケファラスくんとの相性もよく、ご飯を食べさせたり、水を上げたりするのもしっかり彼女はこなしてくれるのであった。また二匹とも、千晴さんの世話をしっかり受けていた。
大橋さんは、事情のある人たちに、乗馬のレッスンを行っていた。今日のレッスンは小さな女の子が、馬に乗るためにやってきた。なんでも、保育園を怖がって、行くことができなくなってしまったという。大橋さんは、女の子に、ブーケファラスくんを紹介し、小さな女の子を鞍の上に乗せてあげた。千晴さんの方は、彼の手綱を引いて介添をする役目だったが、突然、涙をこぼして泣き始めてしまった。
「どうしたの?なにかあったの?」
馬に乗っていた小さな女の子がそう聞いてしまう。
「いえごめんなさい。なんでもないんです。なんだか馬さんがいつも穏やかな顔をしているから、なにかすごく寂しくなってしまって。私、どうしたんだろう。」
千晴さんはそう答えた。
「どうしてそんなこと思うの?」
女の子が、また聞いた。
「ごめんなさい。私変だよね。何やってるんだろう。ただ馬さんが優しくて可愛いから、どうも泣けてしまって。」
千晴さんは涙をふくがどうしても止まらなかった。いくら顔を拭いても涙が出てくるのだ。ブーケファラスくんまで心配そうに彼女を見つめているのであった。千晴さんは、とりあえずレッスンの仕事はこなしたが、涙が出てしまって仕方ないという感じだった。
「今日は一体どうしたの?」
レッスンを終わって、大橋さんはそう千晴さんに言った。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。あの子達見てたら、自分はなんてひどいことした人間なんだろうって、思ってしまったんです。あたし、本当に馬鹿ですよね。誰かを傷つけてもお金が欲しかったのかな。なんてことをあたしはしてしまったのでしょうか。ほんと、そればっかり思い出されて。今思い出しても辛いんです。」
「いいえ。大丈夫よ。」
大橋さんはそういう千晴さんに言った。
「自分の自然な感情を隠してはいけないわよ。悲しいときは、遠慮しないで泣いてしまった方が良いわ。その時大事なのは、誰かが側にいてくれるか、ということじゃないかしら。一人で泣いていたって、何時まで立っても解決しないわ。そういうときは、素直に悲しいと言っても良いと私は思う。」
「そうなのかな。私は、いけないことをしてしまった女ですよ。そういうこと思って良いのでしょうか?」
「でも、完璧な人もいないわよ。誰でもにんげんだもの、間違えることだってあるわ。そのために、あたしたちいるんだもの。いろんなツールを使って、一人じゃないんだって気がついてもらうためにね。自分は一人ぼっちだと思ってしまうことが、一番さびしいことだって、私は知ってるから。」
「そうなんですね。そういう人が早くからいてくれればよかった。お馬さんも優しいし、私が辛かったとき、お馬さんたちが側にいてくれたら、もっと楽な人生に慣れたかもしれないんです。今こんなに悲しくなかったかもしれない。あたしだって、普通に学生をやれたかもしれない。一応、できの悪い生徒ではあったけど、勉強したい気持ちが無かったわけじゃないから。」
「そんなに泣かなくてもいいと思うわ。」
大橋さんは、そう方向性の定まらない彼女に、優しく言った。
「きっとその時順調に行ってたら、もっと悪い方向に行ってしまっていたかもしれないもの。少なくとも私は、そんなふうに人生嫌なことがあったら、それはもしかしたら良いところにつながるための暗示なんだって思ってる。神の恩寵なんてかっこいいセリフは言えないけど、あたしは、少なくとも、今ここで馬二匹といっしょにいられるのが、幸せだと思ってるから、この子達と一緒にいられるために、辛いことがあったんだと思えば、何も怖くない。」
「そうなんですか。どうして大橋さんはそんなことが言えるのですか。あたしはどうしてもあのときああしなければよかったとか、そういう気持ちばかり湧いてきてしまって。」
「そういうことは、時間が味方してくれる。本当に辛いこともたくさんあるのが人生だけど、でも耐えているうちに状況が変わってくるかもしれないわ。だから、そこで諦めちゃいけないってことじゃないのかな?」
大橋さんは、自分のされてきた経験を思い出しながらそう彼女に行った。きっと彼女にもそれが伝わってくれたなら、どんなに良いだろうと思いながら。彼女にも、どうしても辛いときはただひたすら待つしかないということを伝えたかったのである。
「大丈夫。本当は、すごく簡単なことしかできないこともあるのよ。あたしそう言われたときは本当に辛かったけど、今は、そうするしかないってなんとなくわかるわ。」
「ありがとうございます。」
そう千晴さんは大橋さんに頭を下げて自宅へ帰っていった。まあ明日も来てくれるかなと思いながら、大橋さんは彼女を見送った。
その翌日、千晴さんは、いつもと変わらず、大橋馬牧場へ出勤してきた。今日のレッスンは、乗馬を始めたばかりの女性だという。女性は、中年の女性で、何でも、病気になる前は学校の先生であったというが現在は退職しているという。
女性は、午前中にやってきた。なんだか、自信がなさそうに生きているのがよく分かる感じの人だった。今度は明るくて社交的な性格のマレンゴくんが担当することになった。マレンゴくんのほうが体重が重い人が乗っても平気であった。
とりあえず、マレンゴくんの鞍に、女性は乗ってもらう。また千晴さんは、彼の手綱を引っ張り、馬牧場を一周するのを手伝うのであった。女性は、アラブ品種の馬に乗るのは初めてで、思ったより乗ると景色が良くて気持ちが良いと言った。大橋さんは、現在は自動車が乗り物の代名詞だが、馬は意思があり、心があることが、自動車と違うんだと説明した。そんなふうに、馬の話をしながら牧場を一周していると、また千晴さんが涙を流してしまった。今度は、涙を流して歩けるというほどではなくて、なんだか直立したまま号泣という感じだった。大橋さんは、とりあえず、レッスンに来てもらっている女性をもとの位置に戻し、マレンゴくんに餌を上げるというプログラムを続けた。幸い、千晴さんは、泣きながら戻ってきてくれたのであるが、みんな心配そうな顔になるほど悲しそうだった。
「ごめんなさい。お馬さんの優しい顔を見ていたら、また悲しくなってしまったんです。」
千晴さんは、レッスン終了後、そういったのであった。確かに、よく作業をしてくれるのに、そうやって泣き出してしまうのだから、きっとなにか彼女は問題があるのに違いなかった。もしかしたら、それと、馬の顔が合わさってフラッシュバックしてしまうのかもしれない。いずれにしても、レッスンの間に涙をこぼしてしまうのは、少々困ってしまうなと思った大橋さんは、誰かに相談しなければだめだなと思った。
大橋さんは千晴さんが帰っていったあと、製鉄所のアカウントに連絡を送った。こういうときにSNSは役に立つ。すぐに連絡ができるというのは、確かに魅力的なものだろう。だけど、その手軽なところで気軽に応募できるようになっているから、闇バイトというものに手を出しやすくなってしまうのに違いない。それでは、果たしてSNSは役に立っているのだろうか?大橋さんは、そんな疑問を感じた。
幸い、SNSを通して、杉ちゃんたちからすぐ反応はあった。
「もしもし。あのちょっと、相談があるんだけど。」
「相談ってなんですか?」
電話向こうには水穂さんがいた。
「あの、こないだからうちに来てくれる、石塚千晴ちゃん。彼女のことなんだけど、乗馬のレッスンで号泣してしまって、困るのよ。なんでも馬の顔が優しいのでそれで悲しくなってしまうみたいなの。あたしとしてもレッスンの邪魔になってはいけないと思うし、どうしたら良いかしら。」
大橋さんは、そう水穂さんに話した。
「そうですか。やっぱり機械ではないですからね。人間ですから、多かれ少なかれ、感情が発生してしまうんでしょうね。きっと、千晴さんも悲しいことがあったんじゃないかと思いますよ。大事なことは、それを受け止めてやれることだって、大橋さんはよく言ってましたよね。それを今してやるとき何じゃないですか?機械ではないわけですから、簡単に消去すればいいってわけにもいかないですよね。過去のこと、現在のこと、それが複雑に絡まって、言葉や態度に出てしまう。それが、人間ですから。」
水穂さんは、そう意見を述べてくれた。大橋さんはそうだよなと思った。確かに、ハードディスクやUSBメモリとは理由が違う。消去ボタンを押してしまえば、記憶が消えてしまうということはない。
「それだけじゃないですよね。人間だからただ、記憶を消すということはできないし、記憶を良い方にも悪い方にも変更できるのは人間です。機械はどちらにもできませんね。ただ、命令に従って動くだけですから。そこをやっぱり把握して置かなければ駄目ですよね。」
確かに、水穂さんの言う通りなのだった。逆を言えばどんな機械でさえも、結局は人間のする意思のとおりにただ動いてくれているだけなのであって、それが意思を持っているというわけではない。最終的には人間の意思が勝ってしまう。
「ただ、馬は違いますよね。機械と違って指示されなければただの箱ということもありませんし、何年立っても氷を作ってくれることもありません。それを一番知っているのは、大橋さんでしょう。彼らの良いところを使って、石塚千晴さんのつらい気持ちを癒やして上げてください。」
水穂さんは、そう言ってくれた。大橋さんはそうですねと思い直し、水穂さんに相談の礼を言って、パソコンの電源を切った。
その次の日。石塚千晴さんは、ちゃんと大橋馬牧場に現れた。働こうという意識は持っているのだろう。それは、彼女の優れているところかもしれない。だけど、働こうとして、自分のことをないがしろにしているのであればそれではまずいと大橋さんは思うのであった。
「今日は、レッスンの予定はないから。」
大橋さんは、石塚千晴さんに言った。
「昨日、何でああして号泣したのか、理由を聞かせてもらえないかしら?もちろん、辛かったら、何時でも中断していいのよ。あたしは、あなたの話を、こうしなくちゃだめだとか、働いていないからだめだとか、そういう批判はしないから。あなたが話せる範囲で話せてくれたらそれで良いから。」
そう言って、彼女を椅子の上に座らせて、大橋さんは石塚千晴さんと向き合った。本当に寂しいなと思っていることが、よく分かる顔だった。
「あたし、お母さんがいなくて一人だった。いつも寂しかった。」
石塚千晴さんは、話し始めた。
「そうだったんだ。お母さんは、何をする人だったの?お父様は?」
大橋さんが聞くと、
「父は存在を全く知らないんです。母が、すごい偉い人だって言ってたけど、本当にそうなのかな。だって、あたしのところには顔を見せにも来ないし。母が、あんなやつって言ってたから、顔を見せてもらうことができなかったのかもしれないけど。」
と千晴さんは答えた。
「母は、いつも仕事ばかりしていました。文筆業だったんですけど、昼間もどこかへ出てしまって、夜も、仕事で原稿原稿って騒いでました。だからあたしは、仕方ないから、母に買ってもらったテレビゲームで遊ぶしかないか、パソコンで他の友だちと喋るしかなかった。でも友達も、ほとんどみんなあいている人はいなくて、寂しい思いをしてました。そのうち、スマートフォンでダウンロードしたサバイバルゲームが面白くなってそればかりして遊んでました。」
「そうなのね。それでは寂しくて、ゲームばかりしていたというわけね。」
大橋さんはできるだけ彼女の話を完結にまとめた。
「そういうわけだから、ポイントとか、どんどん使ってしまって、お金をほしいと思っても足りない状態になってしまって。そういうときに、偶然見つけたのが、SNSでアルバイトの募集だったんです。最初は、家の庭掃除をするのかと思ったんですけど、実際は違っていて、、、。あたしは、事件を起こした子と確かに近くにはいましたが、おばあさんのことを殴ったわけでもないし、ただその場にいるだけでした。でも、それだけでも、いけないことなんですよね。あたし、なんてひどいことをしたんだろう。」
「お話はわかったわ。とにかく寂しかったのね。人間にとって寂しいっていう感情は一番つらいってことはよく言われていることなのよ。サバイバルゲームに走る前に、寂しいよって誰かに言えればよかったのよね。」
大橋さんは、彼女の話をまとめて、そして彼女の問題点を指摘した。
「そうなんです。あたしはなんてだめな人間なんだろう。寂しいって言うこともできないで、闇バイトに走ってしまったのだから。」
そう言って泣き出す千晴さんに、大橋さんは、こういったのであった。
「大丈夫。少なくとも今日は、昔のあなたとは違う。じゃあ、外へ行きましょう。あなたを待ってくれる人が二人いる。」
そう言って、大橋さんは、千晴さんを立たせた。そして、彼女を馬小屋の方へ歩かせた。顔を上げろと千晴さんにいうと、そこには、白い馬が一匹、黒い馬が一匹いた。二匹とも優しそうな顔をしていて、千晴さんの顔を見ていた。どちらも人を襲うとか、そのような雰囲気はまったくなかった。ただ、側にいてくれる。それがどんなにありがたいことか。それができる動物が馬という存在なのかもしれなかった。
「ほら、一本上げてみてよ。」
大橋さんは千晴さんに人参を渡した。千晴さんは、マレンゴくんと、ブーケファラスくんの顔の前に人参を差し出した。二匹とも美味しそうに食べた。そして顔を撫でてやると、二匹とも嬉しそうにすり寄ってきた。
「乗ってみます?」
大橋さんがそう言うので、千晴さんははいと小さな声で言った。すると、大橋さんはすぐにマレンゴくんに鞍をつけた。千晴さんは、大橋さんに言われたとおりに鞍の上に乗る。今度は、大橋さんが手綱を引っ張って、牧場へ出て、千晴さんがマレンゴくんに乗る番だった。
マレンゴくんの上の空気は風を感じてとても爽やかだった。馬に乗っていると、自動車に乗っているのとはまた違う、自然の感じ方というものがあるのだった。パカパカと動いている馬の足の音も、実に気持ちが良いものだった。
「そこの眺めはどんなふうかな?」
大橋さんがそう言うと、
「素敵ですよ。」
千晴さんはとてもうれしそうに言った。
「こんなに気持が良いものとは、思いもしなかったわ。」
マレンゴくんが、尻尾を振って楽しそうに歩いているのも、また嬉しいことなのであった。
「本当にすみません。わざわざ乗せてくださって。」
千晴さんはそういうのであるが、
「良いのよ。この程度のことで、寂しくないんだったら、何時でも乗せて上げるわ。」
大橋さんは、にこやかに言ったのであった。
「ありがとうございます。本当にお馬さんって可愛いですね。あたし、こんなに可愛いとは思いもしなかった。なんか不思議な気持ちですよ。本当にありがとうございます。」
千晴さんは顔をクシャクシャにして、そういうのであった。
「まだまだ難しいかもしれないけど、できるだけ泣かないで、笑顔でいてほしいわ。その方が、ずっと、この子達も楽な気持ちでいられると思うのよ。」
大橋さんがそう言うと、
「はい、必ずそうします。本当に役に立たない人間ですみません。」
千晴さんはそういうのだった。大橋さんは、本当は役に立たないとか、そういうことは言わないでもらいたいなと思ったが、それは言わないでおいた。
静かな富士山の麓の牧場の中、二人の人間と一匹の馬は、静かに緑の地面を歩いているのだった。
馬を飼う女その2 増田朋美 @masubuchi4996
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