第49章 にて取り沙汰されるは最早サンチーオ・ハンザがその主人ドニャ・キハーナに抱きし不信に就いてにあらず(ともあれ双方の血盟の義姉やにして嘗ての姫ミコミコーナを伴いて)

LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA

清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ

Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.


POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM

                    A Prof. Lilavach

Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.

Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).



第四十九章

にて取り沙汰されるは最早サンチーオ・ハンザがその主人ドニャ・キハーナに抱きし不信

に就いてにあらず(ともあれ双方の血盟の義姉やエルマノーナ・サンギーネアにして嘗ての姫ミコミコーナを伴いて)

Capítulo XLIX.

Donde no se trata ya del descrédito con lo que Sanchío Hanza tuviera contra su señora doña Quijana

(cualquiera que fuera, acompañando la princesante Micomicona, la hermanona sanguínea de ambos).


新世界の探検家エクスプロラドールにしてプエルトリコの統治者アドミニストラドールでもあったポンセ・デ・レオンに纏わる伝承を紐解くと、彼の伝説的征服者コンキスタドール・レヘンダーリオ――侵略者インバソールとも略奪者サケアドールとも好みの呼び名に置き換えるがいい――は若かへの泉フエーンテ・デ・ラ・フベントゥッを、その州名の起源を花の祭典パースクア・デ・フローレスに持つフロリーダの地に追い求めたとされる。果たせる哉、それが真実であれば復活の祭りフィエースタ・デ・ラ・レスレクシオーン[訳註:西Pascua Floridaと同義。救世主の新生レエンカルナシオーン美貌や精力の回復レクペラシオーン・デ・ベジェーサ・イ・フレスクーラを紐付けたもの]とも大層相性の好い聖地となったに違いないが、嗚呼旧世界ビエーホ・ムンドに伝わるルルド[訳註:コロンビアやパラグアイにも同綴の地名が存在するが発音は《ロウルデス》]の聖泉や蛇浴シュランゲンバート[訳註:独ヘッセン州に位置する町の紋章にも描かれたクスシヘビは医神アスクレピオスの象徴でもある]の温泉よろしくその所在地が詳らかであったらばどれだけ幸いだったことか!、必死の探索も虚しく――帰するところ黄金郷エル・ドラード桃源郷エル・ドゥラスナードといった世界各地に伝わる非在郷ウトピーアと同じく――一行が若返りの水場アブレバデーロ・デル・レフベネシミエーントでその渇いた喉を潤すと共に、日本の有名にして無名なる老夫婦が味わったという桃の実さながら見る見る内にミエーントラス・ビヒラーバモスその疲弊した肉体が若さを取り戻すといった奇跡的な成果もついには実らなかった。尤もバリャドリード人航海士ナベガーンテ・バジソレターノの名が生来《大洋オセアーノ》[訳註:羅pontus]を意味したとの説が真実であれば、大西洋エル・アトラーンティコを横断する際と同じ尺度で遠方ばかりに気を取られていた為に知らず知らず足下の泉の橋プエーンテ・デ・ラ・フエーンテを渡ってしまい、まんまと肝心の目的地を素通りしていたのだとしても成る程、思わず首肯してしまおうというものだ。ワレハソウオモウジュ・ポンス・ク・ウイ。[訳註:仏«Je pense que oui.»の《思うポンス》を同音/pɔ̃s/のponceに書き換えた洒落。西語では/ˈponθe/《ポンセ》。ラティン語の《橋》も厳密な発音/pōns/は異なるものの、カナで表記する限り《ポンス》となろう]

 然るに我等がラ・サンチャの花蜂アントーフィラ、紅紫陽花の騎士殿は只今如何なる仕儀と相成っておられるのか? 慥かに昨夕ルルドロールダ止水アーグア・エスタンカーダならぬヨルダンホルダーン流川リーオ・コリエーンテにて洗礼の儀を授かるが如くその身を沈めた《希望の泉フゥエーンテ・デ・ラ・エスペラーンサ》を後にして以降、ドニャ・キホーテ――否、三軒茶屋の阿僧祇花は見る見る内にその精神に於ける回春レトールノ・デ・ラ・プリマベーラを果たしたとはいえ、その効験も詰まるところ、何のことはないスィノ・インスフィシエーンテ、客室内の浴槽で浴びた灌水ドゥチャが悉く洗い流してしまったものとみえる、一夜明ければ彼女の立ち居振る舞いポールテと何より物云いフォルムラシオーンが、道中そうであった通りの老郷士のそれに回帰してしまっていたのだった。

 名古屋のシェーンブルンを再訪する上での経由地に過ぎぬにせよ、《湯泉フゥエーンテ・テルマールの義姉妹》――地口オモーフォノの生まれた経緯[訳註:無論元ネタは《桃園の義兄弟》。第十章を参照のこと]と彼女らの有する特性にあやかっていっそ《桃泉フゥエーンテ・ドゥラスネーンセの》と称するべきだろうか?――が彼の公園に立ち寄るのはとある掃除道具エキーポ・デ・リンピエーサを奪還する為である。ゴルゴン三姉妹ラス・トレース・ゴルゴーナスの頭から生えていたのが薬師蛇クレーブラ・デ・エスクラーピオだったという逸話は終ぞ聞いた例がないものの、このまま行けば遠からず少女たちは《床掃除三姉妹ラス・トレース・フレゴーナス》[訳註:動詞fregarは皿洗いや床拭きを意味し、名詞のfregonaにはそのような業務に従事する使用人の女性ないし柄の付いた房状雑巾モップの語義がある]などといった衛生的な汚名マラ・ファマ・サニターリアと共に後世へと語り継がれる不遇に甘んじる末路を辿る結果となるやも知れぬ。


「――セビリアの、」窓枠に片肘を突き立て己の拳骨で無い顎髭を押し潰したラ・サンチャが遥かアンダルシーアの彼方を上目遣いに仰ぎ見ながら[訳註:この乗り合い自動車の路線は現在名駅付近の停留所から栄駅に向かって東進しているわけだから左右の窓はそれぞれ北と南に面しているとするのが道理。最後部に陣取っているからといって、真逆まさか幼児よろしく身体を反転し座席に膝立ちとなり、島国から見て西側に位置する大陸方面を背面車窓を通し臨んでいたとは流石に考え難かろう]そう呟きついでに幽き吐息を漏らすや、冷房で些か肌寒いほどに涼やかな車内と早朝から茹だるような暑気に見舞われた窓外の温度差により硝子板の内側は恰も氷竜の吹きし凍て付く風に当てられたかの如き細かな霜が同心円状に広がって、透けて見える外の世界および左右逆転する形で反射する自身と瓜二つの騎士イア・ドッペルリッテリンを映す気怠げな旅人の視界を俄に曇らせた。「どうやら貴兄に諭され希望エスペランサに持ち替えた筈の我が長槍ランサ、又候この節榑ふしくれ立って枯木こぼくめいたかいなへと舞い戻ってくる宿命のようですぞ……耄期ぼうきが故か将又自暴自棄の報いか巡り巡って箒槍エスコバンサなんぞへと姿を変えてな」

「おいドSコバンザメ」[訳註:これは第二十四章の昨朝、珈琲店内での会話を参照のこと]

「誰がドSですよ」カンビュセス王の使者――ヘロドトスは紅海沿岸の西側まで版図を広げた連中を《魚食い共イクティオーファゴス》と記している――を自ら摩訶不思議な長命の泉フエーンテ・エニグマーティカ・デ・ラ・ロンヘビダッへと案内したとされる剛毅なエティオピア王の末裔とも目されし止ん事無き姫君(大ミコミコン王国のギネア説を採る場合は又話が変わってくるのだけれど)に対しても一切動じることなく半坐千代が抗弁した。「こちとらレSでもミSでもありませんわ」

「いやドメガネの相方だから」真実《ドM女エミッスィマ》を名乗る者は須く糞食を嗜む超少数派スーペルミノリーア――《糞食らいスカトーファゴス》[訳註:これはフンバエ等食糞性の虫や動物を指す単語で、クロホシマンジュウダイに至ってはそのまま品種名ともなっている]――たるべしという制約があるとするなら[訳註:第三十四章参照]、《ドS女エスィッスィマ》は当然相手の望むものを提供する側に回らねばならぬであろう。皿に乗せるのが自前であれ他所から調達せし食材であれ、出来ればそういった汚れ仕事は御免被りたいところだ。只でさえ大根を下から突っ込まれる悍ましい刑罰について語られた矢先であれば尚更のこと、想像するだに上から吐き出したくなる情景に違いない。(アベンダーニョも願わくばこの手の尾籠な話題と暫くは距離を置きたいものである!)「お前さんは猫に小判鮫の従士なんだろ」

「んなカツブシみたく言われても、猫とコバンザメじゃどっちが弱肉側でどっちが強食側か分からんがな……缶詰とかになってるならともかく」

「ネコ缶? クジラの大和煮ってのは見たことあるが……サメならキャビアとか」

「……いやそこは例に及ばず《嘗ての箒エスコバンテ》とすべきかしらん?」白尻の学士も厄介な手土産を置いていったものだ!「如何なされましたかな、殿下?」

「ん?、えっとダイオウイカVSブイエスコバンザメという夢のカードが……」

「そこはせめてVSオオバンザメだろうに」小判とは小型ペケーニョ・タマーニョの、大判とは大型グラン・タマーニョの金貨を指し、後者は通貨というよりも褒賞プレーミオス贈答品プレセーンテスとして用いられたらしい。「つかイカもタカクラーケンもないんですよ。不当な二つ名を拒んどっただけっす」

「不当というか嘗ては太ましかったサンシタサンチョさんの――」

「シッツレイな!」

「だからかつて言うとるやん」静岡ではまだ健在だったふくよかさムジードを喪失し、その後数日間の強行軍による消耗で今や寧ろ骨張って或いは筋張ってしまった腹枕アルモアーダ・アブドミナール――日本人にとっての《小匙するアセール・ラ・クチャリータ》[訳註:厳密には同衾したふたりの一方が他方を背後から抱き寄せた状態で床に就く体位を指すが、多くの場合前者の片腕の上に後者の頭部が乗る形となる。《小匙で眠るドルミール・エン・クチャリータ》とも。西cuchara《匙》から派生した表現で、動詞のcucharearには《匙を使う》の他に《密着する、イチャつく》の意味がある。同じ二本の匙を重ねると食器同士の表面がピッタリくっ付くからだろうか]が腕枕アルモアーダ・ブラサールならば、我々はこれを何と呼べばよいだろう……《鍋に蓋をするタパール・ラ・オジャ》?――など願い下げだと、昨日もダメ出しデサプロバシオーンを喰ったのではなかったか?「ご主人さまが普通ふとぅにお前をお呼びだったんかと思って。シカトしたら失礼どころか不敬になっちゃうだろ」

「レイナ殿下だって――」従士は手許の液晶画面に慌ただしく指を這わせる。

女王レイナ?」

「レイナ云うな」[訳者補遺:第十一章に於いて連絡先を交換した時点で御子神嬢の真名は主従に伝わっており――尤も表示された氏名が彼女の本名だとは必ずしも断定できないのだけれども――、花がその場で「王国を統べるに相応しい御芳名」と激賞かつ得心していることからも彼女の個人名が麗奈や玲那、礼菜あたりである見込みが濃厚となった。その四日後に当たる第二十四章では安藤部長との初対面の場で「ドロテです」と名乗っている為、急遽《泥手麗奈》説が有力視され始めたものの、であるならこの期に及んで騎士がその名を耳にして驚いた説明が付かないことに加え、仮にドロテ姓が実在してもそれこそミコガミ以上に稀少であることを鑑みると、苗字に限っては小説『ドン・キホーテ』の登場人物を検索し王女ミコミコーナを騙った美女の本名がドロテーアであったのを知った女子大生が冗談半分で咄嗟に捻り出した可能性も強ち排除し切れぬというのが現状であろう。変装遊戯コスプレする際に使用している通称が《MICO☆MICO》である以上、矢張り《ミコ》が姓名の何れかに因んでいる確率も低くないのではなかろうか]

「自分かてたまにハナちゃん言うとるやないかい。イミナですぞ、忌み名で読んだらいみなの意味ないのですぞ?」

「サンチョのことはちゃんとサンチョっつってんじゃん」

「陛下!」騎士は身を翻すと、まるで椅子からずり落ちるかのように床面へと滑り降りその場で跪いた。無論斯様な曲芸は前の座席の背凭れに挟まれた至って狭い空間にスッポリと身を収めることを可能にする彼女の極端な痩身の為せる業なのだが。「それがしが御無音ごぶいんに打ち過ぎております間に晴れて戴冠なされておられましたのか!」

「まァ体感でいえばここ最近は……どちらかといえば耐熱に耐えてた感じでしょうか」

「お綺麗な陛下は布団ふとぅんよりか氷枕をご所望とみえなさる」

「氷枕っつか――」ギネアの新女王は先刻両乳房の狭間に折り畳んで挿入されたばかりのさらさら粉末清拭布サラ=サラ・オハ・エン・ポールボ[訳註:英powder sheetの直訳だが《粉状の葉っぱオハ・エン・ポールボ》では寧ろ抹茶のようである]を、薄い着衣の上から慈しむようにその五指で押さえた。「騎士さまの献上品で今や身も心も涼やかですから」

「なるほどご自身が肉布団にくぶとぅんでしたか!」おっとこちらはどうやら腹枕ではなく、既に左右から内側を圧迫している胸部を指すようだ。[訳註:第二十六章の客室内では著者自身が馬場嬢の腹部を《肉布団フゥートン・カルナール》と呼称したが、そちらはバンギャ用語の《布団》――つまり日干しされた状態の布団と似た形状で柵に腹部を乗せる行為――に由来]「おっぱいマウス(原註:鼠ではなくその下敷き、則ち《盛り上がった胸部を模したアルフォンブリージャ・デ・ラトーン・コン・レポサブラーソス肘置き付きの鼠敷き・エン・フォールマ・デ・ペチョ・レアルサード》のこと。乳房ではなく臀部グルーテオを象った商品もあるようだが、こちらの方が弾力に優れより手首が安定しそうな印象を受ける)にしちゃ手首が埋もれ過ぎるかと存じますが」[訳註:余談だが《胸部を強調するレアルサール・エル・ペチョ》というと通常は寄せて上げるなどして乳房を補正し、上半身の輪郭をより魅力的に見せる意味で使われる。鼠敷きマウスパッド自体は平面でなければ使い物にならぬだろうから、ここでは一部分のみ立体的に成形されていることを示したもの]

「こりゃサンチョ」縦に連なる双丘越しに、見兼ねた主人が嗜める。「無礼講が道化の特権とは云い条、過ぎればおぬしの素っ首とて只では済まぬぞ?」

「首がなくなるってこたぁダルマ落としでスコーンと中抜きする感じですかね? 喉を省略できりゃ口から胃袋までもショートカットできるわけで、モノがスコーンだろがショートブレッドだろがより効率的な食事が可能になると……」従士は隣に連座する女王に喉元を突き出すと以下に続けた。「ささっ、ひと思いにやっておくんなせえ」

「いやそれショートカットじゃなくてただのカットだから、」和製英語としての《手首切りリストカット》を例に取れば《喉首切りスロートカット》でも通じそうである。但し後者の方は加減がずっと難しいだろうから、自傷行為アウトレスィオーンのつもりでもそのまま自殺の一手段ウナ・デ・ラス・フォールマス・デ・スイシダールセへと移行しかねない。「どんだけ口から食っても食ったもんが胃袋に辿り着かなくなるんだぞ」

「それならそれで、どんだけ食ってもコルセ締めらんなくなる恐れがなくなるということだな!」飽食の貴族たちのように、只管ひたすら食い続ける為に嘔吐を繰り返す手間が省けるという理屈である。尤も嚥下すると同時に喉から食べた物が零れ落ちると解した上で、それでも食事を続けたいものかはその立場になってみないと何とも言えぬ。(それとて頭部と胴体が切断された状態でそもそも食事が――それ以前に日々の生命活動アクティビダーデス・デ・ラ・ビダ・コティディアーナを――続けられる前提での議論である)「――ほらドニャ・キホーテ様、さすがはプロレイナーもといレイヤー様とあってコルセッツの種類も豊富でいらっしゃるじゃありませんこと?」

「どれどれ」

「ん?……ちょちょちょちょちょっ、ちょいちょいッ!」己の胸部を押し潰すような形で渡された架け橋が特定の画像群を表示している端末を指先にて抓んだ従士の腕であったのを認識するや、ギネアは慌ててその液晶画面とドニャ・キホーテの相貌の合間へ掌を差し入れると同時に携帯電話そのものを押し戻そうと努めた。「一度いっちどならず二度までもとかね」

「減るもんじゃなし」

「ハナたその中でのミコ姉さんの評価がゴートゥ減るかもだろ」

「《――自然との調和ならびに人類を創りたもうた神への畏敬の現れ》」騎士はつい今し方耳にしたばかりとでもいうような口振りで、嘗て静岡で発せられたミコミコーナの台詞[訳註:露出度の高い自身の扮装写真に対する弁解として。第十一章参照]を物の見事に引用してみせるや、「先刻のお尻の話じゃあないがこちらも希臘風グリエゴの審美観ですな……何、減るも増えるも、身に付けておられるのがゴートの角笛だけであろうと恥じ入るには及びますまい……どれ眼福に与りましょう」と引き継いで従者から《魔法の蝋版》を受け取った。[訳註:ここでの《ゴート》には英goatと独Gotheの両義性が見て取れる。つまり頭部に装着する類の《山羊カーブラの/ゴス系ゴーティコの角》ならば、並んだ画像群の中から悪魔風の扮装が目に入ったのではという推察が可能だ。尚、西el griegoには《肛門性交》の語義があるらしいことから、察するに前章末での大根挿入刑からの連想が影響したのかも知れぬ]

「いやん羞恥プレイの事実」これ以上の抵抗は見苦しいと、御子神嬢は潔く花の視界を遮っていた手を引っ込める。「……角笛とか言うと股間に付けるヤツみたいですわ」

「こうしてみるとマジモンはYじゃなくてIになるんですな……いやW?――何つうのアレ、ショボーンの口みたいな」

「なんだショボーンて。垂れ乳みたく云うなや」

「じゃなくてこの、この下乳じゃなくて谷間のシワ?……輪郭がさ」サンチョが両手の十指を駆使して意図するところを伝えんと試みる。

「お目が高いとは謂うけれど、」ここでいうOMGとは遺伝子組み換え生物オルガニースモ・ヘネティカメンテ・モディフィカードのことではなく――乳房の下垂対策には大胸筋の強化が有効であるが、事前に遺伝子を操作するくらいなら事後に外科手術で対処すべきであろう――、当然《おお我が神よアイ・ディオース・ミーオ!》の略語だと考えられる。[訳註:直前の花の「お目が~」の翻訳として英語の感嘆詞オーマイガーを持ち出しているが、各文字を西語風に発音すると《OMGオーエメヘー》となってしまう。因みに希臘文字の二十四番目のΩ/ωオメーガ(ωμέγα)は単独で/ɔː/乃至/oː/と読み、同十五番目で短音のΟ/οオミークロン(όμικρον)と区別される]「あれは最後尾の文字ですから乳房というよりは今少し低い視点の尻べ――もとい御居処おいどと呼ぶべきでしょうな」

「尻文字?……ちも――ちち文字でなく?」

「物騒だな……こちとら月イチの血祭り週間を除きゃ血便も血尿も、血乳も出とらんわ」男性に比べ、女性は総じて出血に対する恐怖に強いとされる。「いや乳はそもそも、生乳せいにゅう生乳なまちちもそこまで出してないけども[訳註:前者は母乳、後者は開けた胸部の意味か]……ドニャ様だってお目だけじゃなくて、お尻の高さも相当お高いじゃございませんの?」

「それがしなどは高高たかだか眼高手低がんこうしゅてい、訳知り顔の知りたか振りが精精に存じます」

「風呂屋で確認した感じだとさすが腐っててもレイヤーだけあって、前のだけじゃなく後ろの方もシミひとつ無いお綺麗なオメガをしてらっしゃいましたよ」

「気安く人のケツ確認するなよ」便秘アニースモ[訳註:医学用語でアニスムスとは、括約筋の収縮により起こる排便障害を指すのだとか]――もとい深淵アビースモを覗けば深淵も同じくアスィミースモお前を覗き返すぞ![訳註:銭湯では御子神嬢の方が散々女子高生の裸体を視姦していたことを示唆している]

「はっどの口が……《敵の尻見て己の尻ば直せば百戦危うからず》でしょうが」

「お前は何と百回戦うつもりなんやその諺がまず危ういわ……おいどんの御居処の話はいいですよもう」麗奈[訳註:冠詞laが無いので人名扱い]は然も居心地悪げに一旦腰を浮かせると改めて座席の深い位置に座り直した。「や乳の話もいらんけども」

「ご謙遜を陛下、蜜溢るる約束の姫君が――」ラ・サンチャの騎士が唯一その薄翅を休めることの叶う蜂巣の華は、この時節彼女らの祖霊がキュリウペニンポーリに乗りやって来てナビスベネンヘーリに跨り彼岸へと戻る束の間の里帰りより更に短き滞在期間を経て、エル・トボソの郷里へと(ひと足お先に)返り咲いてしまっていたレフロラードのであった。(読者諸兄には是非とも心に留め置いてもらいたい、《結婚にしくじって実家に帰る方がボルベール・ア・カサ・デスプエース・デ・ウン・マトリモーニオ・ファジード棺桶に入って帰るよりずっとマシエス・ムチョ・メホール・ケ・ボルベール・ア・カサ・エン・ウン・アタウッ》という格言は今この状況には当て嵌まらないと!)「実家にご帰還されちった今、不毛なる灼熱の地上に残されてんのはこの乳溢るる約束の痴女さまだけですからな」

「溢れるどころか一滴たりとも垂れてきやしねえってのに」ミコミコーナは鬱陶しいサンチョの手を払い除けつつ以下に続けた。「持ち上げんなっつの……あと乳のでかさと乳の出は関係ねえらしいからな」

「えっそうなん? そんなんでかいでかい詐欺やん」

「サギもウサギもねえ。関係あんのは乳腺であって、これはあくまで脂肪なんだよ」

「乳脂肪って液体ちゃうの?」

「それ脂肪分だろ。牛乳とかに含まれとるアレ――脂質?の成分であってこっちのは脂肪そのものだろがい」女王は特大の牛乳瓶を二本抱えるような仕種で両脇を寄せた。「ミルクのタンクじゃねえんだよ気安く搾乳されて堪るか」

「じゃラクダのコブと同じか……」

「コブはやめろ、乳ガンみてえだろ」尤も脂肪腫リポーマであれば良性腫瘍トゥモール・ベニーグノである。「シコリティとかゼロだわ」[訳註:翻訳では固い塊を意味する本来の《凝り》の語義を捨て、sicolidadなる造語をそのまま載せている。英psychopathic personalityの略語として《病的人格サイコリティ》の意味を持たせる例があるようだが、語感からすると西sico+calidad《精神的資質?》の方が連想しやすいとも考えられる]

「カップが邪魔でいまいち分からん」

「揉むな。一揉み八十一名古屋ドルだぞ」

「一名古屋ドルが何円かにもよるが」ナゴヤには七百五十八という数字を当てることが可能だと我等も学習済みながら、何であれボッタクリサカドーラレスには変わりあるまい。「おんも……垂れパイといや縦にじゃないけどあの何、二次元の巨乳だとノーブラでもないのに左右にこう、ハミ出てるの何なん?ていつも思うんよねアレ……何のための乳バンドか」

「二次元て。それ言ったら顔の半分が目ん玉とか普通なんだからそれに比べたら」

「云えとる……駄目だ腕疲れる、全然ラクじゃおまへん」

「駱駝の瘤は断熱と放熱の役割も担うと聞きますな」騎士はそう云って端末を長姉の手に預けた。「いや大層な目の保養になりもうした」

「お粗末様でした」

「私んですがな」アイポンを引っ手繰る猫の従士。「たしかに表面は割とヒンヤリしてますな……魔法瓶的な機能で中身はホットミルクでないとも云い切れませぬが」

「いや普通にバスん中涼しいし」下手を打てばこのまま高温多湿の車外を忌避し、目的地に到着しても下車し損ねかねないところだ。「脂肪なんだから燃焼したらパイオツだってやっぱ減るがな、ヘレニズム文化だがな」

希臘ヘレネスの民に因んで付け加えますれば、」ドニャ・キホーテは奔放な姉エルマーナ・デセンブエールタ[訳註:西語の形容詞desenvueltoの原義は《包まれていない》なので、写真の御子神嬢の露出度が高めであったことも含めた表現]に対し何ら忌憚する意志のないことを殊更主張したいかの如く、特に必要のない情報を以て目にしたばかりの些か扇情的とも呼べる画像群の美術的意義を高めんと努めた。「――北米グリンゴの連中は斯様な風体の、薄衣のみ纏いてしなを作り被写体となる御婦人方を総じて《乾酪洋菓子チーズケイク》とお呼びするようですな」[訳註:何を因んでいたのかといえば、西語を母国語としない外国人、取り分け北米ないし合州国民、中でも白人に対して用いられる蔑称gringoが、ギリシアグレーシア生まれを意味するgriegoに由来するからで、これには英語表現《俺にとってはギリシア語だイッツ・グリーク・トゥ・ミー≒意味不明》の影響があるという説も見受けられる。英語では他にも《蘭語の二倍ダブル・ダッチ(難解)》という言い回しがあるが、西語でこれに対応するのは《支那語にしか聞こえないメ・スエーナ・ア・チノ》なのだそうだ]

「チーズケーキ! 牛さん大活躍!」

「別に山羊とか羊のチーズだってあんだろが」慥かに、ギリシアで有名な薄切りフェタも羊と山羊の乳から作られている筈だ。「アルムおんじ提供のパンの上でとろけるラクレットみたいのだって元は山羊の母乳だろがよ」[訳註:削りラクレット料理には通常牛乳を原料とする乾酪が用いられる。仏語の呼称が定着する以前は独語で《炙り乾酪ブラットケーズ》等と呼ばれていたらしい]

「アルムおんじが提供するのはヤギじゃなくてウナギだろ」

「何云ってんだてめえ」ワシアーギラだろうがウナギアンギーラだろうが、哺乳類でない以上乳製品プロドゥークトス・ラークテオスの原料とはなり得ない。(浜名湖土産に頂戴した《夜のお菓子ポーストレ・パラ・ラ・ノチェうなぎパイパステール・デ・ウナーギに使用されているのは十中八九牛乳だ)「アルムって山小屋立ってんだぞ。ねえ?」

「夏は海の家を開けばいいじゃないか」内陸国エスタード・スィン・リトラールなのに?

「アルムというのは高原の牧草地を指す言葉じゃて」

「でしょ? それじゃアルプスの少女じゃなくてレマン湖の少女だわ……ヌルヌル巻き付かして天然ローションが地球に優しい触手プレイかよ」それこそダイオウイカ対マッコウクジラが如き南海の大決闘グラン・バタージャ・エン・エル・マル・デ・スルの様相を呈するであろう。「そんなんじゃクララも立たねえし、思春期のペーターだって頑張って立ち泳ぎ止まりだろうに」

「レマン湖にゃレマッシーが――レマッニー?が居るだろうから立たずとも漕ぐというか、ペダル回せりゃ問題ないな」ジュネーヴ湖ラゴ・デ・ヒネーブラとも呼ばれるこの内海の呼称は《湖港ラゴ・ラクーストレ》を意味する古希語のLiménos Límnē[訳註:希Λιμένος Λίμνη]に由来すると謂う。「レマン湖じゃウナギゃ飼っとりませんかね?」

「欧州鰻の養殖とな?……地中海沿岸じゃよく食うだろうけども、飼育となりゃ取り分け盛んなのはオランダイタリアにダンマルク辺りかね」我が国でシラスウナギアングーラの養殖といえばバスコ地方か、然もなくばエブロ川流域の三角州デールタが有名であろう。「まあ独逸ゲルマニアなんかは兎も角、瑞西スイスで鰻料理なんてのは余り馴染みが薄そうよな」

「スイスイ泳いどりゃしませんのか? ほんだらレマッシーは何を餌にしとるんだ?」

「ウナギが居なけりゃウサギを食えばいいじゃない山なんだから。ペーターラビット」

「第一おんじとハイジの住んどったデルフリ村があるのはマイエンフェルトといって、ありゃリヒテンシュタインに隣接しとる地方だろうに」スイサ連邦の北東部である。「フランス国境のジュネーヴとは位置がアベコベだわい」

「まァうな重屋のおんじはレマン湖じゃのうてハマン湖なんですがねって何の話ですっけ……ああ、チーズケーキか」従士は懲りずに傍らで視界を遮る肌理細やかなアルペスの谷間へと視軸を戻した。「ケーキっつか白くて丸っこいチーズあるじゃないですか……何てったっけ?」

「モッツァレッラか?」

「モッツァ、それや! モッチモチな感じの」

「製法でいえばブッラータもそうですな」先んじて註釈を挿むと、ここでいうburroとはロバアースノではなくて牛酪マンテキージャのことである。「序でに云や《馬の乾酪カチョカヴァッロ》なんてのも」

「ブッラータね……このブラザーじゃ課長どころか名誉会長クラスですわい」そう云って千代さんが肩紐を一旦抓み上げてから指を離したものだから、曙光を浴びし白雪よろしく仄かに色付いた陛下の稜線カデーナ・モンタニョーサ[訳註:山脈/連山とも訳出できることからこれまでの流れなら御子神嬢の両乳房を示しているという解釈も成り立ちそうだが、文脈を鑑みる限り襟元から袖口に掛けての肩の輪郭線を指すと見るべきだろう]の弾かれた跡は更に赤く染まるのだった。加えてまるで見本人形マニキッでも着付けているかのように、馴れ馴れしくベタベタと指を這わす猫の従士。「ここの筋肉――靭帯?が吊ってるのよね」

「おい」

「ここまでプニョってんのにこっからがガチガチで、ここがここに繋がって……意外と力コブ出ますか? ちょいグッてやってみて?」不意を突いてミコミコーナの二の腕がサンチョの首を締め上げる。「――ちょちょちょちょちょギブギブギブ」

「いや苦しくないっしょ、《上腕二頭筋は乳脂肪と同じ感触》なんだろ?」[訳註:奇しくもこの文句は第三十一章の観覧車内で馬場久仁子が発した俗説に則したもの]

「筋肉といえば筋骨隆隆の肉体美を誇示した益荒男ますらおの写し絵は対して《牛肉洋菓子ビーフケイク》と呼ばわるのだそうな」

「ビーフ――エホッグェホッ」ウナギの粘液のように皮膚から染み出した御子神嬢の汗が潤滑剤の役割を果たしたわけでもなかろうが、従士は何とか巻き付いた腕から抜け出すことに成功したようだ。ともあれギアナの腕筋は断頭台の白刃ではない為、仮に喉を潰されていたにせよ首ごと切断される事態だけは免れていたものと察せられる。「ケーキなの? ビフテーキではなく?」[訳註:西biftecないし元となった仏bifteckは英語のbeefsteakから/s/の発音が脱落したもの]

「どっちにしても牛なのね……」流石は牛飼いバケーロスのお国柄というわけだ。尤も我々とてこの手の剛健な男たちマチョーテスを《握把カーチャス》[訳註:小銃等の銃床や拳銃の銃把、或いは刃物の柄の部分を指す。思うに武器の複雑な内部構造を、骨や筋肉・神経といった人の身体を構成する無数の部品群に模して生まれた比喩か。銃身や刀身を左右から挟む形で固定することから、転じて臀部や頬といった人体に於いて左右一組を成す部位をも意味するようになった]などと呼ぶのだから他所様の感性をとやかく言う筋合いではないだろう。「マッチョはな、視たり突付いたりする分にはフフンてなるんだけど……密着して気持ちい感あんま感じんのよね」

「朝っぱらから聞いて気持ちいい話題でもありませんしな!」

「やれやれ、麻の如しとはよくぞ謂ったものよ」[訳註:慣用句の《麻糸のようにコモ・エル・イロ・カーニャモ》の文意を汲んで、西hilo enmarañado《もつれた糸》と自動詞amañanar《起床する/夜が明ける》を捩ったのであろうhilo enmañanado《朝を迎えたが如き糸?》という造語が用いられている。ここでの糸とは恐らく《会話の糸イロ・デ・コンベルサシオーン》則ち紐付けされた会話――例えば電子掲示板に於いて特定の主題に沿って進められる返信一覧スレッドを想像してみよう――のことで、議題や論旨が不明なまま迷走する遣り取りをやや自嘲的に表したものと言える]

「《――ご乗車ありがとうございました》」女性の声で車内放送が割って入る。

「ん?」

「《次は、サカエ、サカエ……終点です――》」そういえば地下鉄に乗り換える為に下車する地点こそが最後の停留所であったわけで、となると空調の快適さにかまけて乗り過ごす云々も杞憂だったようだ。「《お忘れ物のないようご注意ください》」

「サカエでございまーす」俄に立ち上がる猫の従士。「お魚咥えたドラ猫追いかけねば」

「いてえな」

「バス停車するまでお立ちにならぬようお願いしまーす」矢を射るが如き警告が、車内を縦に貫く通路を一直線に飛んで来る。今度は運転手だ。[訳註:運転手は咄嗟の発言にも備え付けの集音器を使用しているので、厳密には車内各部に設置された拡声器から聞こえてきた音声である]

「あ……すんません」

「《栄地区は路上禁煙地区となっております。指定された地区では……》」

「つかドニャ猫はてめえだろうに……猫なんだから堂々と裸足で駆けてけよ」

「じゃあ栄えてるというか、盛ってる牝牛の陛下は」前の座席の背凭れに寄り掛かりながら気怠げに中腰を保つ。「――その乳揺らしながら裸で後から付いてきてください」

「バスト丸出して、どこのクラブの女王様だよ厄介なサザーエさんだな」徐々に速度を落としていた乗り合いが停車せし反動で前方に揺さぶられるのを巧みに利用したミコミコーナが、そのきちんと下衣プレーンダス・バーハスに覆われた美しい臀部を優雅に離陸させる。「乳じゃなくて蝋燭垂らすぞコラ」

「よ、妖怪おんなたらし……」

「え~停まりますご注意くださ~い」

「迸る白き血潮で天の川を産んだ女神も大ミコミコンに於いちゃヘラではのうてセラだったという次第ですじゃ」成る程《乳の道ビーア・ラークテア》よりも滑りは良さそうである。[訳註:《天空の川リーオ・デル・シエーロ》の対訳については第三十二章でも簡潔な解説がある。母乳の原料が母親の血液であることを考慮すれば《乳潮》と表記しても差し支えあるまい]「――さて」

「ご乗車ァお疲れ様でしたぁ~」

「ニジェールの川がアマデの館まで我等を運んでくれたらば、こりゃ御の字なのだがな」

 ラ・サンチャの騎士はそう呟くなり自身の従者にも先んじて通路へと進み出たが、その極端な痩身故、早くも腰を浮かせていたミコミコーナの肩や膝に触れる無礼を犯すことなく彼女の手を取ることが叶ったのである。


直方体の横腹に穿たれた降車口から真っ先に降り立ったのも当然ドニャ・キホーテであった。周囲を警戒しつつ透かさず半身翻し、後に続く女王の介添えも怠らない。[訳註:便宜上《先頭に立ってア・ラ・カベーサ》となっているが、三人娘が席を離れたのは他の乗客が大凡車外に出るのを待ってからだった模様]

「うわ」

「あつ……暑み」殿しんがりを任された千代さんが噴気音フゥマローラを上げて閉まる車扉を背に、矢張り前後左右を見回して以下に続けた。「――きよし、この昼」

「なんて?」

「あら、巨人のヘカトン――ガエルも、ドンキのペンギンもおらんねんな」栄地区の降車所はどうやら大きな交差点に面しているようだった。「弱ペダ観覧車どこ? 降りるとこ間違えてません?」

「すぐ隣が公園ってことは……あっホラ、」女子大生が南北に伸びる久屋大通へと首を伸ばす。「――あっち名古屋タワーそそり立っとる……てことはバスで通り越して――」続いて来し方を振り返る。「――ないな」

「ないんかい」

「ん?」

「じゃあこの強ペダの巨人を打ち負かした我らがサンチョ様の武勲を認めたくない懐の激せまな魔法使いのフートンめが、卑怯にもその証拠にして第一の証人でもあった負けガエルことヘカトン御本人を」彼の五十対の腕の内の二本に支えられし平底船ゴーンドラ[訳註:第四十三章にて付した註解と重複するが、観覧車の籠数が二十八台であったことから錦通に面している側を巨人の真正面と見做した場合の腕の数は十四組二十八本、左右何れかの半身と考えた場合は二十八組五十六本となる為、ここで示されたのは単に《百腕ヘカトンケイル》に則った数値]に乗船したという意味であれば、同行した他の三名にも同等の栄誉が与えられて然るべきであろう。「――そのケチな魔法だか消しゴムアプリだかで一晩の内に霞のごとくきれいサッパリ消し去りやがったのかも知れませんな」

「……あっ違うわ、こち側に一本向こうの通りなんよきっと」眼前の近代的な銀行の建物モデールノ・エディフィーシオ・デル・バンコを改めて指差すと、「――ドSMバンクが邪魔で見えないけど」

「邪魔なら女王の権限で撤去してよ、フートンに消せて殿下に消せねえ道理はないっしょ」

「そんな権限あっても行使せんわ」銀行の破壊キエーブラ・バンカーリア[訳註:通常は破綻と訳す]は深刻な金融不安を齎すであろう。一国の為政者が気紛れに下せる判断ではない。「サンチョこそSMバカの片割れなんだから、こうバカっと一刀両断して視界を確保なさいよ昨日ハコの前でモーゼの奇跡再現したみたくさ……ねえ?」

「何の話か」烏の落とし物に塗れた主従の放つ臭気により、シェーンブルンを去る楽団の出待ちをしていた人垣を真っ二つに分かち道を作った件のことである。[訳註:第四十六章を参照されたい]「……つかパカッと割るならスイカップのおんどれじゃろがい! それともそれは既に半分に割れてるのを左右に接着しているのかね?」

「この谷間が羨ましきゃバカはおとなしく腹筋でも割っとれ」

「夏休みに汗水垂らして腹筋割るとかどんなバカンスだ」

「そうさのう……そのバカがウマシカかメスウシか次第ではありましょうな」西語のbacaには残念ながらミコミコン王室御料車コチェ・デ・ラ・ファミーリア・レアール・ミコミコーナには用意がなかった《屋根上荷物台ポルタエキパーヘス・デ・テチョ》[訳註:花と千代の自転車を車載したまま東京まで運ぶことの可否に関しては前々章にて廃案となっている]の他に月桂果バヤ・デル・ラウレールの語義もあるが、ご存知の通り日本語には我々のロマンセ諸語と同様にβ発音文化ベタイースモ[訳註:広義には両唇破裂音/b/と歯唇摩擦音/v/の音価を同化・混同させる現象を指すが、名称の由来となったギリシャ文字のβは羅語から派生した西語等とは逆で古典語では/b/だったものが現代では/v/と発音されている。馬鹿の羅字表記が«baka»であることは著者も先刻承知の筈で、偏に建物の看板にBCつまり《銀行会社バンキング・コーポレイション》の略称が書かれていることを把握した上での容喙なのだろう]――Y発音現象ジェイースモほど口の端に上らぬように見受けられるものの――を長い歴史の中で培った経緯があるのだ。

「メスウシ! ド直球!」

「何云ってけつかる、相棒が馬なんだからお前さんは鹿なんだろうに」日本語でカバージョ鹿シエールボを足せば我々が嘲って呼ぶところの驢馬アースノとなるわけだが、本来の意味の驢馬ブーロを意味する為には《兎風馬カバージョ・コネフーノ》と書くというのだからどうしてなかなか動物学者ソオーロゴスでもない限り到底習得の叶わぬ複雑極まりない言語だ。

「いや私ゃ腹減っても鹿煎餅は食わんけども」

「ふむ、娘親方マエシータの前世が馬匹と申すならばレパントの片手殿[訳註:Cervantes=ciervo+antes《嘗てのアンテス鹿シエールボ》]と等しく《嘗ての馬カバリャンテ》とお呼びすべきであろうよ」はてさて嘗ての烏殿ドン・ケルバンテスは今何処?[訳註:第四十五章参照。《箱根では烏小路を名乗っていた男》の意]

「いやご主人様よ、奴は家系が馬なだけで本人はメガネザルでしたよたしか」

「なんだっていいよ、ミコ姉さんはバカよりカバを所望する……アレは下手なチャンパンでチャンパイすんよか百倍コスパに優れるからな」ここまで物して王女は花貌に纏わりつく湿気を払うかのように激しく首を振った。「ああ泡物が飲みてえ……ただでさえバブ姫さまお帰りで泡成分足りてないのに。とっとと用事済まして涼しい場所で一杯やろうぜ」

「朝から飲むのかね。飲んだくれるのかね」

「その……なんだ竹箒だか育児放棄だかの噴水ってのは何処なんだ?」

「ボウキじゃなくて希望だよ。アキッレ・キッボの泉ですよ」

「呆れる規模ってなんじゃい、」件のβ発音現象に則ればchibboとはchivoとほぼ同義であろう。[訳註:葡語chibo《仔山羊》は西chivoが起源という説が有力]「箒がタワーどころかスカイツリーサイズでおっ立ってんのか?」

「まったく殿下はあの石松ぼっくりのボッタクリと気が合いそうですよ」従士はギネア王女の淫猥な物言いコメンターリオ・インデセーンテを頭上に戴く王冠にそぐわぬものとして厳しく咎めた。(成る程、コローナよりも[訳註:多情を意味する]クエールノの方が相応かも知れぬ!)「姉さん方おふたりに毎度呆れさせられてんのはこのサンチョの方ですわ。ボジョレーだかジョボビッチだかで喉を潤そうなんて気の抜けた白昼夢は悪いけどもしばらくの間諦めててもらいますからな」

「いやボジョレーは泡じゃないけども……いやもうバカでもアホでもスプマンテでもいいから」

「Sker eris, aiunt, si falso facies…」ラ・サンチャの蜂は、硝子張りの建築物が照り返す朝の陽射しにどうやら沼津の海岸(或いはヌマンシアの城壁ムロ)を幻視したと見える。「《HIC MURUS AHENEUS ESTO NIL CONSCIRE SIBI NULLA PALLESCERE CULPA.》」[訳註:前半は第八章および第三十八章にも言及のあった伊ボローニャはボッキ宮殿の正面すなわちゴーイト通りに面する南側壁面に刻字されたホラティウスの金言で、《行い正しかればおうとならん》が《行い誤らばうおとならん?》と改められている。SkerはRexの倒語以上の意味は無さそうだが、北欧語では海上の岩礁島の語義があるらしい。後半は同宮東面を走るアルビローリ通り側壁面に刻まれた同詩人の同じく『書簡集エピストゥラエ』から《青銅の城塞たれ、自責し、罪により青褪めることなきように》がそのまま引用されている]

「ホラ、ミコさんの口上が長いからドニャキの旦那ャも飽きちゃってるじゃまいか」

「長いのはお前だ。その甲状腺引き伸ばして成長ホルモンの分泌を阻害してやる」

「いや陛下、不詳ドニャ・キホーテまだまだ秋めくには早うございますぞ。どうぞあちらを、……」時間帯が心持ちに影響したか、斜陽にある騎士道精神カバジェロスィダッ・エン・デクリーベが俄に息を吹き返したが如き反応である。「――西京の三条大橋はまだ遠くございますのでサカボウキで歓迎されるということもございますまいが」[訳註:京都というからには招かれざる来客に対し玄関口にて言外にお帰りを促す《逆さ箒》を意味していると察せられるが、文脈上《酒箒》とも掛けているのだろう。三条大橋は東の日本橋に始まる東海道の終点]

「あっ、グリコ姉さんおった」猫の従士が横断歩道の対岸を指差す。「今日も朝から元気に全裸でバンザイしておられる」

「何だ全裸って、全裸の姉さんおんなら今更アシに半裸になれとか云うなや」ミコミコーナも釣られて牛馬の往来も喧しい車道の向こうへと首を伸ばす。「――あ、あの青いのか。エラい積み重なってんのな……どういう構造?」

「ああいう構造ですよ」

「ああいう?」

「こういう……」千代さんは水を掬う時のように両掌でボーレスを作って合わせると、左右の手を順々に上へと重ねていった。

「乗ってんの?」

「乗ってんの」

「あれ盆というか、皿一枚一枚が水面に浮いてない?」

「それは気の所為です」

「何が木の精じゃ、道理で木霊かヘリコン山の山霊オレイアスエコー宜しく、鸚鵡返しに終止するわけだわい」そう嘆いた騎士は揃えた指先を従者の頭頂部に乗せつつ以下に続けた。「おぬし水精オンディーヌの兜は如何した?」

「あっ」反射的に頭を抱える半坐家長女。「――せや今日は頭盛ってないし被ってくるべきだった。しくったわ何か紫外線でジリジリ焼かれる思ったわ」

「うなぎの旨味に唸ったりあなごにたなごころ合わせとる暇はないぞよ」

「ほんとや……蒲焼きにされとるどじょうに同情してる場合じゃなかった」

「頭……」傍らで暗黒大陸の継承者が何やらニヤついている。

「あ?」

「――撫でられんの糞キモいんとちゃうの?」[訳註:第三十八章参照]

「……いや、これが撫でられてるように見えたなら殿下の目は節穴ですのでオール電化の探知器スカウター(原註:或いは計測器メディドール追跡装置ラストレアドールなど)でも装着するのをオススメしますよ」

「アレ戦闘力以外測れんのか? 銭湯つか温泉掘り当てる機能とかあれば欲しいが……それはドラゴンレ――ドラもんレーダ?だろか」

「ドラモンて何や……四次元ポケモンGETだぜ?」

「レダや白鳥は存じませぬが、」騎士は遊んでいる方の片手で自分の凹んだ腹部を押さえつつ以下に続けた。「――青猫の兄者懐中のお道具ならば《温泉縄索ロープ》なんてのがあったのではないですかな」

「ああ、あった気がするわ……くわしいなおい」

「この方ドニャえもんはですね、チョビ太を撫でとるんでなくて舐め腐っておられるのです」そう嘯くなり川から上がったばかりの濡れ犬ペッロ・モハードさながらに思い切り髪を左右に振り回して主人の片手を弾き飛ばす猫の従士。「想い姫のほっぺたみたく砂糖菓子の味がするでもなし、しょっぱい騎士さまに舌ァ這わされるのは迷惑極まりないってことにゃ変わりありませんけどもね」

「あんまり口の減らぬようならザラついたその猫舌も、砂糖に牛酪、小麦粉に卵白を練り込んだ上、仕上げに粗目ざらめ糖まで振り掛けしとびきり甘めの猫の舌ラングドシャと並べて業火舞う窯の中に放り込んでくれるぞ!」

「調子が戻ってきたじゃございませんか! こちとら岡崎じゃオカマ達の中にブチ込まれんのもすでに経験済みですからね、」喧嘩っ早い針には昔ながらの舌が相手だレーングア・アンティーグア・ポル・アギホーン・ピカホーン。「――苦難の上にサウナ地獄を克服したが最後、レンチン寸前の、隣に並んでるいい感じにこんがり焼き上がってきたクッキーをこのキャットのマウスが根こそぎ平らげてくれますわい!」

「猫か鼠かハッキリせい」王女が割って入る。「分かったからとっとと渡ってご主人様のその、民衆の蜂起だかマイク・ダイソンだか取ってこいやうちら日陰で待ってるからさ」

「いやマイクでも掃除機でもねえけどよ……今も放置されっぱとは限らんし」

「金欠の……間違えた、銀月の騎士から分捕ったそれがしの得物です[訳註:西訳ではこれまで通り《白月ルナ・ブラーンカ》を捩る形で《白ケツクロ・ブラーンコの/白き狂気ロクーラ・ブラーンカの》。正確には戦利品ではなく事前に決闘用の武器として譲渡された品であった。第三十九章に詳しい]」騎士が勅令レアール・オールデンに対し待ったを掛ける。「憚りながら取り返すのもこの手で為すが筋かと存じまする」

「そりゃそうだ、牛スジが羊じゃないってくらい正論ですよ」

「まァ本人がそうおっしゃるなら……折角希望に満ち満ちてガチムチになった箒も、」ミコミコーナは槍試合で用いる長槍が、安全面を考慮して比較的折れ易く作られていたことを思い出した。その身分を鑑みれば、御前試合トルネーオ・デル・カスティージョを目にする機会とて一度ならずあったものとみえる。「サンチョが触った瞬間一気に萎えてっつか中折れしちゃって、金輪際使いもんにならんくなるかもしれんしな」[訳註:《途中で割れてロト・エン・エル・メーディオ》。強風や落雷等で折れたり裂けたりしてしまった幹のような語感だろうか]

「いやもうマッチョもビーフケーキもいいんだよ……つか折れるとか言うな」愛らしい妖精たちの手に委ねられた《アルカラスのアリカーテ》はまだ幸せな方で、ラ・サンチャが愛用していた哀れなドゥランダルテに至っては今もサカモンテシーノスの峠にて生い茂る樹上の何処かに引っ掛かったままなのである。「我々にはそれぞれ苦い思い出があるのです」

「――それに今日の陽気に限れば、同じ湧き出るにしたって温泉よりも冷泉のが有り難いというものじゃ」

「やっぱ私が参りましょう」主人の物した補足に不穏な響きを感得した従士は、機先を制して踵を返すのだった。「赤っぱちのお姉様はロープなんか無くても構わずに、水ブーロないし流れるプールに飛び込みかねませんからな」

「なんだいきなし」

「ふむ……«Omne trium perfectum.»」これは我々が《三度目にこそ勝敗来れりア・ラ・デ・トレース・バ・ラ・ベンシーダ》、彼女らの言葉では《三度目が最も正直テルセーラ・エス・ラ・マス・オネースタ》と呼ぶところの金言だが、同時に欧羅細亜大陸の両端にて等しく思い起こされるのは似て非なる別の諺《二度起こることはロ・ケ・スセーデ・ドス・ベーセス三度起こり得るプエーデ・スセデール・トレース》であったに違いない。[訳註:羅語の直訳は《三なる全ては完璧なり》で、この数字が調和や安定の象徴であることを示したもの。因みに西vencidaは動詞vencer《打ち負かす》からの派生語で、名詞としては勝利ビクトーリアを指す一方で過去分詞/形容詞としては自然《打ち負かされた≒敗北》の意味も取り得る為、《二度失敗しても三度目はきっと~》なのか《二度成功しても三度目はどうせ~》なのか、将又《三回しくじったら流石に諦めろ》なのか文意がいまいち曖昧である。有効期限の語義も併せ持つ名詞vencimientoについても同様。言うまでもなく一度目は第八章沼津海岸での水難、二度目は前の晩の第四十四章に於ける目の前の噴水池で発生した水没騒ぎを示唆している]「吾が黄色からぬ妹御は、赤き姉貴が青っぱな垂らして赤っ恥かく未来を改変せんとしてくれるのかね?」

「そんな紫のことまでお構いできまへん」

「先っちょムラムラしたオカマはいいからさっさと行ってこいってば。ほら走れ」

「あ、かッ!」公園側に立つ信号を指差す従士。「轢かれて挽き肉になりますがな」

「いい機会じゃないか。トラックにでも轢かれて異世界転生すりゃ向こうじゃチートだろうがハーレムだろうがやりたい放題じゃねえか」

「その手のチープで破廉恥なやつロクに読んだことないのにこんなこと云うのもなんですがね、アンタそんな社会の屑を都合の良い妄想世界に送り込むだけのために業務上過失致死罪に問われなきゃならんトラックの運ちゃんのその後の人生考えたことあんのかよ」

「いやまあ、普通に飲酒とか居眠り運転のパティーンもあんでしょ」

「そういう問題じゃねー……その、当たり屋側が、運良きゃワンチャン的な、何だっけ」試験で出題されぬ知識に関してだけは、急須の中の茶渋サッロ・デル・インテリオール・デ・ラ・テテーラよろしく脳の片隅にしぶとく張り付いている期待がある娘なのだ。「――みっ、ミツの……密室の恋っていうだろがい」

「何だその不倫カップルの密会みたいなんは」未必の故意ドロ・エベントゥアールと云いたかったのだろう。[訳註:正解の西dolo eventual《偶発的な悪意》に対し、千代《毎月の決闘ドゥエーロ・メンスアールって~》及び御子神《月経痛ドロール・メンストゥルアールみたいなのは》と改訳。換言すると、理想世界への生まれ変わりといった夢物語でも奇跡次第で成し得る筈という荒唐無稽かつ無謀な意思の下、現実には万に一つも実現し得ない偶然を求めて自ら交通事故死を選ぶなど愚の骨頂だし、況してやそれにより他人の人生まで台無しにするのは言語道断ということ]「池の鯉のがまだご利益あるわ……ほらトゥナイトにときめいとる間にお望み通り青ったで」

「――あ」

「はてチヨさんが懸想いたしとるのは騎士というよりしがなき楽師、」ドニャ・キホーテは昨晩宮殿の門前で言葉を交わした声楽家の風体を思い出す。「――差し詰め楽曲鍛冶ソングスミスか、《音のトゥーン》を冠するなら《調音大工トゥーンライト》とでも称するべきではありませんかの」[訳註:英tonightを空耳でtune knightと聴解したという理屈だろう。畢竟、対面した男たちがアマディスではなく飽くまでアマデウスの面々だったと、少なくとも彼女は認識していたことになる。作曲家あるいは作詞も含む歌曲作家を指す英単語にはsongwrightやtunesmithの他cleffer《音部記号屋》等がある]

「トゥ――ムーンライト? アット・ナイト?」

「なるなるなるほど、滋賀にも掛からんのなら当然佐賀県からだってお呼びは掛かっとらんだろしな」

「あお、煽りなさんな……」同じ九州地方ならば巡業先の候補地となり得るのは(佐賀ではなく)国内五番目の大都市と目される福岡だろうが、版図を拡大するにしても斯様な青写真シアノティーポは名古屋公演――惜しむらくはそれがまさしく目前にアンテ・スス・プローピオス・オーホスではなく、今や背後にデトラース・デ・ラ・エスパールダあることか![訳註:昨晩の一公演で終了してしまったので今から集客しても手遅れという意味]――を満席にしてから描くべきなのだ。従士は陶板バルドーサスを敷き詰められた歩道から瀝青に描かれし縞馬の背へと飛び移りながら、肩越しに振り返ってこう付け加えた。「おふたりだって無帽極まってるんですから、そこの地下鉄の入り口にでも入って待っててください」

「また赤んなんぞ! マッハで行ってきな!」

音速マッハ?……真っでなく?」

「そっちがいいなら」

「マ――マハラジャー」

 義姉たちが細首を捻ると地底世界に通じる屋根付き階段が口を開けている。数歩移動するだけでも熾烈な陽射しは忌避できるし、地下街まで降りてしまえばそこには地上の淀んだ熱気とはすっぱりと縁切りしたかの如き人工的な風精の恩恵ベンディシオーネス・デ・ラス・スィールフィデス・スィンテーティカスに浴することが叶っていたに違いない。


然るに横断歩道の手前から件の円形噴水池までは四半エスタディオに満たぬ距離しか無かったものの、既に点滅し始めていた青信号を従士が渡り切って直ぐ様大通りの往来が再開された為、対岸の様子を過不足なしに見通さんと幾ら目を凝らしたところでそれは困難を極めたと記さねばなるまい。

「ヌコというよかワンコだな」行き交う幌馬車の屋根の上から覗くドニャ・グリコのバンザイ――《カミカゼ》同様自殺攻撃を意味する萬歳突撃カールガ・バーンサイを想起する読者もあろうが、元来の意味は実に言祝ぐべき《万の歳ディエース・ミル・アーニョス》である――を辛うじて視野に認めながらミコミコーナが嘆息した。「懐いてますわねえ」

「陛下の御人徳を考えれば至って当然かと」

「……えっワシ?、ハニャちゃんによ?」

「――それがしなどは百歩譲って」一瞬見せた驚きの表情を俄に苦笑へと転ずるラ・サンチャの蜂娘。「《どうにか手懐けた》でしょう」

「手懐けた……それだとどっちかってえと――」馴らされたドマーダのが何れかと問うならば、それは主従のどちらがより小野獣フィエレシージャ[訳註:西fierecillaは恐らく《じゃじゃ馬》を定訳とする単語だが、元はfiera《獰猛なフィエーロ獣、癇癪持ちの女》に縮小辞が付いた形なので動物の品種に制限はなく、つまり蜂でも猫でも人間であっても構わない]かを考えることで同じ答えを導き出せるであろう。「う~ん、野女と美獣」[訳註:《オネエちゃんティーア美しき獣ベジャースティア》]

「実のところ、手もなく《名付けた》以上のことはしておりませなんだ」[訳註:第十四章末尾の浜名湖畔はうなぎ屋で一泊した際、三軒茶屋に帰還した後は《猫の騎士カバリェラ・ダルス・ガッツ》と名乗るよう命じている]

「名付け親っつったらゴッドマザー――シスターじゃんよ、ゴッシスですよ」

「溺れ癖があるとはいえ海の泡と消えた創造神ビラコチャ扱いは御免ですよ」

「おぼ、溺れ癖?」酒にではない。「……泡姫さまに? アリエル?」

「放たれたが最後地球を一周でもせね限り戻ってくる見込みのない投矢ビーラだとか、悪名高いサンチャ湖ラーゴ・デ・ラ・サンチャ女傑ビラーゴなんぞと陰口叩かれる程度でありゃ甘んじて受けますがな」尤もエル・トボソで待つ麗しの姫君とて、ビラコーチャよりは処女宮ビールゴとでも呼ばれた方が幾分据わりも宜しかろうが。「何のことはない先の話じゃないけれど、懐かれる前に呆れられた――季節が前後いたしますな――若しくは飽きられたというのが真相のようですじゃ」

「飽きて呆れて諦――めて、か……何だっけどっかで聞いたな」[訳註:第七章および第十一章終盤で言及された《癒やし系クラーセ・クラティーバ卑しい系クラーセ・クラーダイヤラシイ系クラーセ・クルパーダ》のこと。こちらも多少前後して《飽食系クラーセ・アールタ解放系クラーセ・リベールタ開いた口が塞がらない系クラーセ・ボキアビエールタ》とまとめられている]

「まあ……《秋来りなば、夏遠からじ》――とも申しますでな、月日が経てば懐かしんでもくれましょうよ」

「そんな正月来たと思ったらもう年末かよみたいな……な、何を言っているのかわからねーと思うがみてーな」

「ワンコといや今じゃ湾だそうですが、」騎士は真南に伸びる久屋大通の消失点を凝望し、吸い込まれるような感覚を味わいつつ以下に続けた。尤も仮令彼女に遠視能力テレスコーピアが備わっていたにしても、全ての遮蔽物を透過し名古屋港に打ち寄せる波濤までを認めることは不可能であったろう。「――往時は伊勢海いせのうみとも呼ばれたようですぞ」

「四股でも踏んでそうな名前ね……ウンコ踏むよかマシだけど」否、頭から被るのに比べたら[訳註:第四十五章参照]、踏んだ方が少しは救いがあるのではないか?「……アシ――わらわは恥ずかしながらラ・マンチャの老騎士様の冒険譚まだあらすじくらいしか拝読しちゃおらんのだけど、ドンの方のキホーテ殿は異世界に転生したり魔界に転生てんしょうしたりってこともなかったのですか?」

「身罷られた後の行く末は存じ申さぬが――」その物語が五大陸を駆け巡ったのとは対象的に、サンチョ・パンサを供にした生前の獅子の騎士自身の遍歴範囲は然程広くない。ラ・マンチャの主従は半島の外には足を踏み入れなかったどころか、西の果てはサンチョが森の従士エスクデーロ・デル・ボースケと分かち合った葡萄酒の産地王都シウダッ・レアール、南は老人が下半身を露出して逆立ちした黒き山脈スィエッラ・モレーナ、北は短期間とはいえ田舎従士が見事太守ゴベルナドールの大役を果たせし安物島イーンスラ・バラターリアのあるエブロ城市アルカラッ・デ・エーブロ、そして東端は旅の終着点たる第九船港市バルセローナなのである。[訳註:それぞれ本家『ドン・キホーテ』の後篇第十三章、前篇第二十六章、後篇第四十五~五十三章、後篇第六十一章以降に該当する。但し従者同士が酒を酌み交わしたのはシウダ・レアルではなく、ドン・キホーテの生家候補の筆頭に挙げられる夜明けの小漆喰村アルガマスィーリャ・デ・アールバから鹿島立ちして東に進み通過したトメリョーソ及びペドロ・ムニョスまでの道程の最中だとされる。主従がシウダ・レアルを通ったのは前篇に於いてであったことからも判るように、最初の出発とサンチョを加えた第二の門出を収めた前篇は主にイベリア半島の南西部、仕切り直しとなる第三の旅を描いた後篇ではアラゴン州やバルセローナを含めた北東方面に経路を定めた編成と言えよう]「四百年前のキホーテ翁とサンチョどんが天駆ける目釘馬に跨り飛ばされたという偉大なるカンダーヤ王国などは……そうじゃな、つ国というより常世の異界と呼ぶべきかも知れませぬ」

「カンダ、ガンダーラ?」

「カンダーヤでござる……なんでも其処は生者ではのうて死者だけを葬るのだとか」古今東西大抵の地域では――ヒトバシラピラール・ウマーノと呼ばれる生き埋めエンティエーロ・プレマトゥーロの風習を除けば――そうだと思うがラ・サンチャでは異なるのだろうか?

「そいつは……いかいよ~かい――と呼ぼうかいってな感じですわね」妙な抑揚を付けて同調したエティオピーア姫が日輪の煌めきへとその美貌を向け直す。「ゆかい~なサ――あ、やっと戻ってきた」

「……てえへんだてえへんだ」

「大儀であった」

「何がてーへんなんだよ今更自己紹介か?」

「あ?……誰が底辺だよ変態へんてえ王女はそっちだろがい殿下」縞馬の橋を渡り終えた従士は息をつく暇もなく背筋を伸ばすと、主人に相対して報告を始める。「キホーテの旦那ャ様、ご希望の箒ですが――」[訳註:千代「天よシエーロス天よシエーロス!」御子神「泥土スエーロ・シエーノの中で生きてるお前がシエーロに何の用だよ?」千代「発情期のエン・セロ貴女だって空の下で生きてるでしょうが」]

「様式美的にそこは《遅刻遅刻~》でしょ」

「様式美語るならまず咥える食パントーストして寄越せやっつか、この暑さじゃ《地獄地獄~》のが正解ですわ」千代さんは友人の四つ目がするように、ずり落ちた見えぬ眼鏡を中指で突き上げながら、「ただでさえ骨折って使いっぱしとんのに話の腰まで折らんでくださいよ」[訳註:御子神「遅刻するジェゴ・タールデ遅刻するジェゴ・タールデ!」千代「懐中時計レローフ・デ・ボルスィージョ寄越せというか、この暑さなら《氷入りガリシア風煮込みカールド・ガジェーゴ・コン・イエーロ》の方が~」と置換されており、本稿にて度々引き合いに出されてきたルイス・キャロル作品中の白ウサギコネーホ・ブラーンコを下敷きとした改変になっている]

「おぬし片足を引き摺っておるのか?」

「へ?……私が引きずるのは過去のトラウマくらいですよ」高々十四五年親元で何不自由なく過ごしてきたであろう彼女の過去に一体如何なる心の闇の巣食う隙間があったのやら!「いやあキッツいねこれすでに三十度超えてるでしょう」

「ヴォルフ党のチヨさんに与するならば、我等も狐ではのうてオオカミイセングリムスの肩を持つべきでしょうな」

「「――イセ?」」日本版聖地巡礼ビアーヘ・アル・サントゥアーリオ・エン・ベルスィオーン・ハポネーサの最終地点である。思わず和声を為した相方に頭を振った御子神が、「……威勢よく出掛けたと思ったら帰った途端にいきなり活き活きとイキリおってからに、辱めてのお使いは満足に出来たんかよ」

「だぁから初めてでも辱めてでもねえですよって」従士は主人に向き直る。「私に落ち度があれば恥でも破廉恥でも好きに罵りなさるがいい……だがまずはお聞き召されい」

「早う申せ」

「暑いんだよ」

「だから異世界階段降りてていいっつったじゃねえかわざわざ行く前にさ」そう云う本人が率先して屋根の下へと移動すれば良いように思うが、千代さんはいっかな車道に向けたままの背を見せようとしない。「――んでそのイセップだかグリムス兄弟だかにも出てくる箒なんですがホラこの通り」

「ホラもウソもないわ、」泡と消える『人魚姫スィレンティーナ』の作者はアンデルセンである。「そりゃおぬしに下賜した尻掻きマーゴの手じゃないか」

「分かりませんかね……一晩放っておいたら魔術師マーゴの魔法であの箒がこんなコンパク――」

「いや隠す気あるならもうちょっと……いや普通に現場に置いてくりゃいいじゃんよ」

「何を?」

「何それケツから生えてんの? 尻尾がピンコ立ってんの?」上半身の重心を移動させて従士の背後を覗き見るミコミコーナ。「……ぶっ、ブッ刺してけつかる。何かヒョコヒョコ妙な歩き方してやがる思ったら」

「ははバレテーラ。いやおふた方がいつまでも寝惚けとらんか試しただけですよ」

「試すとか云われても正面から見てハミ毛ボーボーだよ」

「せめてボサボ……否フサフサと言ってくれ」猫娘は尾骨の辺りに開いた革帯通しトラビージャから《アリカンテの箒》を引き抜くと、些かぞんざいな素振りで主人に差し出した。[訳註:訳者の想像では、洋袴背面部の腰帯内側部分から左右いずれかの股下に箒の柄の部分を垂直に差し込んだもの。であれば片膝だけ曲げられぬ関係上ビッコを引くような形になったという状況も頷けよう。革帯通しを使ったのでは刀を差すようなもので、隠しているという意図すら認められまい]「こんなもん担いで地下鉄乗れますかね、取りのテロ締まりも強化されとる昨今……それこそ掃除のオバサンの振りでもすりゃ改札の横タダで通れたりするかしら」

「セコいな……つかこういう箒は使わねえべ庭掃いてるんじゃねんだから」横から得物を掻っ攫うと、「こんなん現代で使うのおジャ魔女かレレレのおじさんくらいだわ」

「レレレノって誰よ……レオンのおじさん?」

「レレレ撃ちの語源だよ」

「レレレウチがまず分からんわ」

「バレレテーラ――路上掃除婦バレンデーラが持つ分には咎められることもありますまい」ジャン・レノが演じたのは《清掃人リンピアドール》[訳註:英The Cleaner]だったかも知れぬ。「尤もそれがしには既にこの折り畳みがありますし、吾が従士殿の手にも今なお孫の手が」

「じゃあ何で取りに行かせたん」

重要人物ロル・レレバンテたる陛下は手ぶらでおられるし、何より王笏おうしゃくが入り用ではないか?」

 ラ・サンチャの騎士が終いまで云い終えるか終えないかというところで女王は素早く手許の箒をサンチョの胸元に押し付けると、代わりにその手に握られていたメルリンの尻掻き棒を引っ手繰るや否や、転げ落ちるように屋根付きの階段を「王笏は小癪なサンチョ公爵にお任せして、ミコミコは晩酌とかでも使えそうなこちらの茶杓を頂きまっす」などと幾分不明瞭な滑舌で喚きながら駆け下りたのであった。

「ちょ――」急いで追い掛けずとも行き着く先は同じなのだ。一旦乗降場プラタフォールマに立ってしまえば電車に飛び乗りでもせぬ限り逃げ場もない。「……公爵ですってよ、何か主人より先に出世しちゃって気まずいですけど」

「シュレディンガータさんの十八番に準えりゃ咀嚼がお似合いじゃて」蜂娘は晴雨傘を一回転させてから小脇に挿むと、地中に穿たれた然程には暗からぬ大穴を覗き込んだ。「――それとも今旦こんたんの目白き目覚めに肖って虎鮫キャットシャークとでも名乗るかね?」[訳註:トラザメ科はメジロザメ目に分類される。目白いは面白いと掛けたのだろうが、果たして覚醒した瞬間に白目を剥いていたのか、それとも寝起きの態度が冷ややかだった故か]

「シャーーーーッ!」

 嗚呼、名古屋城内で《虎鮫ティグローン》を這い蹲らせた《軈ての猫の騎士》に今更《猫鮫ガティブローン》なる二つ名を与えようとは[訳註:鯱を意味する西tigre(tigrón)+tiburón=tigburónについては第三十四章冒頭を参照されたい。ここでは更に短略化されてtigurónに。因みに実在するネコザメティブローン・デ・ガトはテンジクザメ目で和名は子守鮫ナースシャーク]――不在の折の家来の武功について知らぬのも無理からぬこととはいえ――どうしてなかなか底意地の悪い主人ではないか!

又候またぞろ穴蔵か」牙を剥いて威嚇するなり主人を残し地底世界へと降りて行った従士の旋毛から目を離し、阿僧祇花は頭上に腹這うヨルムンガンデルへと一瞥くれると、それを以て別辞と代えた。[訳註:第四十四章でもアベンダーニョはこの北欧の大蛇を平面街路の真上を通る都心環状線の見立てとしていた。但し高速道路が走っているのは一本北の錦通であり、それですら堀川の手前で一般道と合流している。少女らが待機していた広小路通の栄駅周辺から最も近い高架が五百米以上東を南北に突っ切る空港線まで見当たらない以上、この描写は単純に著者による地図の読み違えであろう]「さてと、サンチョは兎も角陛下がニーズヘッグに齧られでもしたら事じゃわい」

 以上のような、或いはそれに類する遣り取りを経てラ・サンチャの蜂は、斯かる長旅の決着を付けるポネールレ・フィン――というより後始末をするリンピアール・エル・カーオス――べく、及び如何にも齧り甲斐のありげなギネア姫の肉体を守るべく異世界オートロ・ムンドへと下降していったのである。


商業施設を含む駅構内に至る階段を下り終えたミコミコーナは、漸く追い付いた猫の従士を床面への両足裏の着地を待たずに壁際へと引き込むなり「カンダヤって何屋カンダーヤ・ケ・ティポ・デ・ティエーンダ・エス?」と問い掛けた。

「何売ってるお店? 食い物?」

「知りませんよ。三軒茶屋の駅付近では見たことないっす」千代さんが背中掻き棒の奪還を試みるも、如何せん見本人形顔負けの理想的な四肢を備えるレイヤー姫の腕の方が少なからず長かったものとみえる。「チェーン店じゃないんでは?――つかセルフでググれや」

「いやまァ……神田の隣は三茶じゃなくてお茶水だけども」地上出口を見上げるが、騎士は小蛇どもが侵入してくるのを余程のこと警戒していたものか随分と牛歩で殿を務めているらしく、まだその勇姿は視界にも入ってこなかった。「改札どこだ?……反対側の階段の方降りるべきだったかいな」

「地下で繋がってはいるでしょうよ」

「えっと……昨日お城行ったのと同じ路線の逆方向ってことは名城線?――か」シェーンブルンへはその逆方向に乗って赴いたのでは?[訳註:第四十一章では久屋大通駅にて一旦下車し、桜通線から名城線の名古屋港方面行きへと乗り換えている]

「名城でも汚名返上でもお好きな路線に乗りゃいいと思いますですがね」従士は石突きを石畳に突き立てると、そのまま柄を握っていた指を開いたものだから五条橋で活躍した槍は音を立てて地面へと倒れた。「……多分こっちです。そして貴女の茶杓だか柄杓だかはそこの箒の方ですからな」

「いや拾いなさいな」

「つか茶杓って茶道具っしょ? アンタ酒しか飲まんのやんか」

「マドラーになるやろがい」であれば棍棒ポッラ戦鎚マルティージョ、若しくは大鎚マソの代用品ともなるかも知れぬ。[訳註:御子神は撹拌用の酒場匙バースプーンを指したのだろうが、翻訳では英muddlerの原義に従って擂りこぎ棒モルテーロとなっている。利器アールマ・デ・フィロに対する鈍器コントゥンデーンテに分類されよう]「あとそっちじゃ茶杓ってより茶筅だしなめっさ泡立ちそうだし」

「でっけえなおい、バケツで飲むのかよ……いやドラム缶サイズか」

「やだからどう見たってそっちのが戦闘力高めじゃねえのよ」寝転がった箒を軽く蹴り飛ばす御子神嬢。「騎士様の子分風情がウィンナーサイズの孫の手で、爪楊枝よりヘビーなもん持ったことないやんごとなき一国の姫殿下が馬並みのを担いで歩くってのはどうなんさ。その絵面に何も、微塵も疑問感じんのかお前」

「だ~から名古屋のヴィーンは昨日ん夜で打ち止めなんだよもう!」昨晩の致命的敗北ファタール・デッロータ[訳註:勿論、此度の訪名本来の目的であったアマデウスの公演に入場し損なったこと]を忘却する暇が半坐千代に与えられる瞬間は、どうやら永遠に来ないものとみえる!

「――銘打つならば《千叉槍ミリデンテ》が宜しかろうて」

「おおラ・サンチャの精華ドニャ・キホーテ、その名も輝く貴女さまが降り立てばこの漆黒の地下迷宮にも万のLED照明が灯ったが如しです」両手を広げて歓待するミコミコーナ。「今もご従者に大が小を兼ねる武装の何たるかを、騎士さまご到着を待つ間の無聊にかこつけて差し出がましくもご教授差し上げてたとこですよ」

「巨乳は貧乳を兼ねませんぜ」逆も又しビセベールえっとア・ベール……致し方なく腰を屈め、サンチョは箒の柄を掴んだ。「ミリデンテでもアルデンテでも、デルモンテでも好きに呼んだら良ござんしょ……名付け親が責任持って育ての親にもなってくれさえすりゃあね」

「首都を包囲せしスレイマン率いる大軍の砲撃が撃ち止めとなろうが、おぬしの砲口[訳註:咆哮か]にまで体よく歯止めが掛かるわけじゃあるまいに」騎士は突き出された長槍をやんわり突き返す。「一組の唇と二枚の猫舌、更には上下合わせ〆て千本生え揃った衣着せぬ歯列持つチヨさんにゃ打って付けの業物ではないか?」[訳註:海神の携える三叉槍トリデーンテの語源は《三本歯トレース・ディエーンテス》]

「百腕観覧車だ千手観音だみたいな、取って付けたようなりってか過大申告……誇大広告?」エル・トボソを信じるならば菩薩は四十二本の手を生やしているそうだから、通常二十八本の永久歯を持つに留まる人間如きが千の歯を嘯くのは些か不遜に過ぎると詰られても弁解の余地に欠けよう。「――は是非ともやめていただきたい!」

「そうか、慥かに千と四なのだから《千四叉槍ミ・リ・クアドリデンテ》とすべきじゃわい」

「そんな、千と千尋じゃあるまいし短い方がまだマシに決まっとる」あの著名な映画では異世界に迷い込んだ少女に対し、湯治場バルネアーリオの女主人たる顔の肥大した魔女が千パッスス――則ち一ミジャ――を意味する彼女の名前からその半分を剥奪し、只のソラミル》の名の許で再洗礼を施すのであった。元の名を取り戻すことが主人公の主目的となるが、魔女の仕打ちにも一理あって通称アポード愛称イポコリースティコは短いほど呼び易い。(《紅紫陽花の騎士ディー・ロテホルテンジエンリッテリン》など筆者に言わせれば、舌を噛まずに済めばこれ幸い、端から正しく発音する自信は毛頭ない!)「今となっちゃ誰かが持ってったとか偽って、そんまま希望の泉の奥底にでも沈めてくりゃ良かったと後悔先に立たずんばっすわ事故を得たっすわ……おのれの正直さが恨めしい」

「今からでも沈めてこいよ」捨てるのであれば指定された廃棄場に持っていくべきだが、仮に池へと放り投げたところで油分の多い棕櫚の樹皮が有する撥水性を鑑みるに、女神の力を借りずとも自然と浮き上がってきてしまうのではないか。「泉の女神さまがその木ボウキだか茶ボウキだかを魔法で化学変化させたか何かして、《あなたの落としたのはこの金の箒ですかそれとも銀の箒ですか?》ってな魅惑の選択肢を提示してくるかもしれんぞ」

「あの御方が女神なのかチリ紙なのかは存じませんが、どんだけ新聞紙の束ァ積み上げようがそんな――金券やら銀行券なんかはおろか、トイレットペーパーのワンロールとも交換してくれそうにゃ見えませんでしたよ」日本では嘗て古紙回収業者エンプレーサス・デ・レクペラシオーン・デ・パペールが定期的に住宅街を巡回し溜まった新聞や雑誌と引き換えに便所紙を置いていく文化があったそうだが、現在は資源の再利用を自治体が担う方向に変化しつつあるとかで、脱千年紀世代ヘネラシオーン・ポスミレーニカの千代さんが実際その物々交換を日頃より目にしていたかについては定かでない。「そもそもキッボの泉の女神さまは常時水面っつか噴水の頂上に全裸で浮上してらっしゃいますし、万歳してる両手だって私の目にゃ手ぶらにしか映りませんでしたぞ……その左右に持った金の延べぼうきだか銀だこのたこ焼き器だかに光学迷彩でも施されてたってんでもない限りね」

 彼女らの末妹スクルドの口が朝から余りに良く回るものだから、姉ふたりは呆れて顔を見合わせた。これでは千どころか百万の歯を鍵盤バーラス代わりに、二百の舌がバチマーソス宛ら引っ切り無しに打ち鳴らす千代琴チヨーフォノ[訳註:西xilófono《木琴スィローフォノ》]が口中に仕込まれていると疑われても已むを得ないものと思われた程である。

「どうしても返して来いってんなら今度はミコミコーナ様の番ですわ」

「奴隷の分際でこのミコミコーナ指図するってか?」

「いえいえ、だって泉の女神に突っ返すにしてもまずはお目通り願わにゃならんしそうなったらサンチョじゃ身分が足りません」木樵レニャドールの前にお目見えするくらいだから、一介の田舎娘だからと不適格にする謂れもなかろうに。「ここは入れ墨の牝牛レベルのVIPじゃございませんと」

「刺青?……もうとっくにシール消えちゃってるけどな」静岡市で出会ってから五日も経過しているのだ。毎晩入浴していれば自然と削り落ちるであろう。

「イズミールといやエーゲ海の対岸じゃないか」そうなると往時の大ミコミコン王国はローマ帝国を上回る版図を占めていたと言っても過言ではない。「小亜細亜アナトリア紅海国エリトリアの――否、自由国リベリアとの区別も無いとなればこりゃ王族クシャトリヤ司祭バラモンの違いも心得ておるものか怪しいものじゃ!」[訳註:リベリアは西アフリカの小国で北をギネア、南は大西洋と接している。つまりこちらならば王国の領内であっても不思議はなかろう]

「ヌートリアとカピバラの違いはともかく、ポケモンとドラえもんの版権元が別モンなことくらいなら心得てますよ」

「じゃあ……きれいなジャイアンもなしか」

「きれいなジャイアンも切れ痔のジャイ子も出てくる気配はありやせんでした」早々に観念したと見え、猫の従士はその肩に千叉槍を担ぐと嘆息を漏らしながら以下のように吐き捨てて主人とその護衛対象スヘート・デ・ス・プロテクシオーンの双方を急かすのだった。「さあさご両人、よりによってこんな人が行ったり来たりする場所選んでしょうもない、宝物だかガラクタ物だかを押し付け合う茶番劇こんまま延々と続けてちゃ、終いにゃここをトレビアンだかレズビアンだかの泉と勘違いした通行人から小銭の雨を恵まれることにもなりかねませんぞ」

「成程おぬしのよな捻くれ者にはお捻りだってねじ切れるほど捻ってくれるに違いあるまいし、噴水孔から迸る水に限りがないのと等しく唸りながら散らばった硬貨紙幣を熊手よろしく掻き集めるにもそのミリダンテ・アリギエーリが大層役立つことであろう」幸いここは池の中ではなく地の底なので、床面に溜まった小金ディネリージョを回収する為にわざわざ水を抜く手間も掛からぬ。「ラ・サンチャの主従が傘張り内職で口に糊する素浪人とその手下の者ならば三文芝居も五文叩きも自ずから買って出ようが、生憎こいつは張り替えようにも針穴ひとつ無き生娘が生地、のみならずキ印の誉れ高い我等は行き掛かりとはいえ貴人の御紋をお護りする立場にある」

「愛しのドゥルシネ姫はキジでなくてクジャク印ですしな」となるとエル・トボソには今一度髭を生やしていただかねばなるまい![訳註:第二十六章参照。孔雀で華美なのは雄の方である為]「お手にある傘を逆さに開きゃ日光や雨粒防ぐだけじゃなく空飛ぶ金貨銀貨の回収にだってお役に立ちましょうよ」

「ほう、石の礫も鋼の槍も受け付けぬ盾が鋳貨如きで傷付く道理はないというわけだ」

「まァ烏の糞だけは別ですが」

「それでけえ神社の初詣とか行ったら儲かりそうだな」

「いやそれは普通に捕まると思う」[訳註:後方から当てずっぽうに投げられた賽銭を裏返した傘で捕集し、ちゃっかり且つひっそりとネコババもとい着服した罪で]

「して蛇の――我等を腹中に収め運ぶという化け蚯蚓みみずの巣穴は何処かな?」

「ミコさんが蹴飛ばしたからどっちだったか判んなくなっちゃったよ」そこまで箒占いラブドマーンシアに信を置いておるならば、次も同じ方向を指すかもう一回倒してみたら好かろう。

「これまた頼り甲斐のある水先案内だこと!」

「いや上を見ろよキジルシまい、普通に矢印書いてあるわ」ややこしいので黄色や青色の矢印は控えてもらいたいものだ。[訳註:サンティアゴ巡礼の道標に倣ったせいで発生したのが昨晩の行き違いである。地面ではなく頭上や壁面の案内板であるなら、十中八九黒い矢印が一般的だろう]「箒ばっか見て森を見ずじゃ、ミミズ見ずしてバカを見ることになんぜ」

「私がここ数日の苦行で得た教訓は、人間歩く時にゃまずしっかり前を向いて歩くべきで、犬の糞やら鳥の糞を警戒するにしてもあくまで目ん玉を上下させて目視するくらいに留めよってこってす」サンチョは至極真っ当な結論に達したようだった。「同じように左右にも動かしゃ暴れ馬と暴れ牛が一度に突進してきたところで安全に一時停止できるわけで……何じゃクリスタル広場て、地下なのに滝川でも流れとるんかい」

「地上で噴水噴き出す池あんだから地下に滝落ちてくる川くらい流れてたっていいだろ。反対方向だし寄らんぞ」

「どうせ庶民をおもてなすクリスタルのお持ち合わせはねえでしょ」一行は敏感なる猫の従士の髭を頼りに地下鉄の改札目指し前進を開始する。「それよかまだ全然お店開いとらんな。名古屋市民はモーニングに命懸けとると聞いてたからてっきりカフェの前にゃ徹夜組でも長蛇の列為して並んでるかと思ったんだが」

「はっ所詮はサンチョ、ドニャ・キホーテの後釜に座るのは百光年早いようだな」

「釜は飯を炊くもんであって座るもんじゃないでしょ。朝飯前の一仕事終えて座りたいのはオカマの上じゃなくて朝飯の乗ったテーブルの前ですよ」

「おバカ、ドニャの旦那ャもおっしゃってただろ――ここは既に奴等の巣穴なんだぜ?」

「巣穴はアレでしょ、電車通ってるトンネルのことじゃなくて?」

「目の前にこんな凛々しきお花が咲き誇っとるってのに頭ん中までお花畑にしてどうするよこの脳内フローラルが」王女は従士の肩に乗った箒の房を些か粗雑に平手打ちして以下に続けた。「ミミズだってオケラだってアメンボだって色々いらあな、みんながみんな平和的で友好的とは限らんだろうに」

「そりゃオケラになったらカツアゲのひとつもしたくなるだろうし、一般論として甘えん坊はストーカー気質と言いますから」

「だろ? 同じようにお水やらお風呂なんてのは女を食い物にするんだわ」池や川ならいざ知らず――《アリカンテの千叉槍ミリデーンテ》を今後も水難より守り給え!――、浴槽に沈められたり溺れたりという事態はそう起こることでもあるまいが。「名城線やらトーヤマ……ヒガシヤマ?――線なんかはお前さんと同じくドニャキの子分だからな、いっぺん飲み込んでも目的地に付いたら駅のホームにまた吐き出してくれるけどよ」

「なんか胃液……粘液?まみれになりそうで嫌だなそれ」昨日利用した桜通線と名城線では特にそういった不都合もなかったように思うが、我々に見えていないだけで彼女たちは黙ってその絡み付く汚物に耐えていたという線も、完全に否定し切れるものではない。

「贅沢云うなよホラ何だっけ昔のSFの……UMAユーマ的な」ミコミコーナはそう高くない天井でゆっくり後方へと流れていく暖色の照明を見上げた。「ああッ、レンちゃん居れば一発なんだけど――あっ砂虫サンドワーム?……違うトリマーズか」

「ミミズがどうやってハサミ持つよ」日本で《刈り込み道具トリマー》と言うと犬毛刈り人ペラペーロスを始めとする職種としての愛玩動物用美容師ペルケーロ・デ・マスコータスを指すことが多い。「……ここでシザーハンズ?」

「トリマーちゃうわ……えっと」

「『震盪トレマーズ』に登場する怪物はグラボイドでしょうか」

「ブラドイド?」

「さっすがドゥルシネ姫とも以心伝心、常に心が繋がっていることが窺えます」

「はい、本邦で初めて電信柱が立ったのも維新後直ぐのことだとか」映画通の幼馴染と付き合う内に、花も人並み以上の知識を身に着けていたということだ。騎士は突き出した拳をこれ見よがしに握り締めて見せると、「そうじゃな……《引っ掴んだら離さぬ者》といったところですか」[訳註:英grab+-oid《握る+~の形を成す/~に関連する物》。劇中の生物は巨大ミミズの形状をしているが、口の中には更に蛇のような舌ないし触手が複数本生えており、獲物に巻き付いたり噛み付いたりして捕食する]

「感電するのでは?」

「電線はヤバそうだけど電柱なら大丈夫だろ」尤も映画の舞台となったネバダ州の砂漠にどれだけの送電線が張り巡らされているかは現地に趣きでもせぬ限り知り得ないし、人喰いの化け物が感電死したところで駆除する手間が省けたと考えれば済む話だ。「……つまりな、地底生活を営んでる店舗経営者の皆さんはそのグラフィックボイドがいつ襲撃してくるか怯えてるからこそこうやってシャッター閉めて備えてるわけじゃん」

「そいつは気の毒ですな」換言すると、既に運行が開始されている鉄道を除いた地下施設の営業時間外は、地中を自由に蠢く未確認生物がいつ何時どの床や壁面、天井を突き破って出没し人々を襲うか、全く予想が出来ず落ち落ち店も開けられないという次第なのだ。勿論営業時間内さえ開店できれば商売に支障はないのだろうけれど。「その結果がこのゴーストタウン――っと、名城のMはミミズのMであると同時に紫のMでもあったか。ここまで来たらもう味方の陣地だし少なくとも我々は安全地帯に入ったってことよね」

「ちょっと聞きましたぁ騎士さんアナタのお家来ったら、自分の身の安全ばっかでか弱き民草の――」

「――にしては店こっちも閉まってますね」歩を進めつつも忙しなく辺りを見回す猫の騎士。「どっかキヨスクとか……清須区って愛知県ですか?」

「名古屋市とくっ付いてんだから清須市だよ……違うよバカそっち下りたら改札なんだろ」

「分かったよコスパ重視のカバ姫さま」

「カバよりバカが好いと申すなら――」階段を降りて行く年長と年少の両姉妹の背中を守りつつ蜂の騎士が割って入る。「帰郷した後の叙任も、騎馬ではのうて騎牛の士に改めずばなるまいな」

「「きぎゅう?」」

「だって騎士カバジェーロより騎牛士バカジェーロが理想なのであろう?」[訳註:西caballo/yegua《牡馬カバージョ牝馬ジェーグア》及びcaballero/-a《馬乗り》に牛を対応させると、vaca/toro《牝牛バカ牡牛トロ》及びvaquero/-a《牛飼いバケーロ/ラ》――でなければ《闘牛士トレーロ/ラ》――となろう。尤も多くの牛飼いは同時に馬乗りでもあるのだろうが。平素花はllをリャ行に近い/ʎ/で発音しているが、ここではジャ乃至ヂャ行寄りの/ʒ/又は/dʒ/と読んでいる。又、千代を指したものならば正しくはcaballera/vacalleraと女性形にすべきところ]

「バッ、バカジャネーロ!」

「なんで急にブラジル感出してきた」翌年に迫った悪名高い国際運動会レウニオーン・デポルティーバ・インテルナシオナールを意識してのことであろう。王女は最後の数段を飛び降りていち早く階下への着地を決めた。「ほらサンチョがカーニバルでカニ頬張ってる内に南改札口着いたぞ」

「朝からそこまで贅沢云いませんよ。まァ人前で尻振るくらいなら霜降りでも食ってた方が……」謝肉祭カルナバール肉食行為カルニボリースモは不味かろうに!「ドニャ様はスイカかパスモか今持ってます?」

「名古屋は何だっけ……ニャンパスか」

「そんにゃ名前にゃまえじゃにゃかったと思う」この地域で発行されている交通系先払い式乗車券タルヘータ・デ・プレパーゴ・デ・トランスポールテの名称は慥か《マナカ》である。ドン・キホーテの会員証セルティフィカード・デ・ソーシオたる《魔法の購入券タルヘータ・マーヒカ》とは彼女らがそうであるように蓋し姉妹関係にありそうだが、一文字落ちれば今度はレパントの片手女マンカになってしまう。[訳註:第三十二章に於いて、《日本の真ん中なのでmanaca》との解釈が為されている。尚、本稿で《魔法の蝋版タルヘータ・マーヒカ》と言えば通常は信用支払板タルヘータ・デ・クレーディトのことだけれど、ここではmágicaではなくmájica表記]「ミコさんのスイカ二玉あるなら一玉はうちに旦那ャに譲っちゃくれませんかね?」

「ああはいはいこうやってちょっと屈んでピッっと――やらねえよ」

「モバイルスイカではないのね」これは携帯電話に乗車券の機能も兼ねさせた端末だ。「本人が動くスイカなのに」

「アレ出来んのはアンドロイドだけなんじゃんよう知らんけど」

「だったらさっき言ってたグラノーラ……グラノロイドを一匹引っ捕まえてさ――」

「陛下の玉手たまでを煩わせるには及びませぬ」――ピピッピピーオ

 ドニャ・キホーテはふたりを追い越して真っ先に改札機を通過すると、本来ならばサンチョが担うべき露払いのお役目パペール・デ・アブリール・エル・カミーノを横取りしながら、涼しい顔で出口の脇に留まって西アフリカの女王とラ・ハンザの従士が後に続くのを嫋やかに待ち受けたのである。


関門バッレーラを無事通り抜けた三匹の猫が行き止まりを折り返し、地底最下層へと至る最後の下降通路を駆け足気味に下っていくと、折しも金山かなやま行きの列車が間もなく到着する旨の通知が放送されているところだ。

「サンチョほら、早く線路に下りて化けミミズと一騎打ちせな」

「それ私がバラバラになる上に家族に億単位の賠償金請求が行くヤツやんか」

「バラはバラは~お高く~付い~て~ええ~ってやっちゃな」

「そんで借金まみれになって一家離散するから、二重にバラバラになるヤツやんか」

「昨日はキンシャチ相手に敢然と立ち向かったじゃん」

「殿下さんよ、ミミズっつったら釣りの餌でしょ」石突きを地面に打ち鳴らしながら千代さんが毒突いた。「今やっつけたって遅いわ。昨日お城行く前に地下鉄乗った時言ってくれてたら、ミミズだろうがミミズクだろうが釣り針ん刺す用に生きたまま捕獲してやりましたものを」

「コツコツうるせえぞ」

「はて、チヨさんは旧シェーンブルン宮の門前にて棒突きでもやる腹かね?」

「棒突きも玉突きもやらない背中しか持ち合わせちゃおりません」箒の上下を反転させ、戯れに床面を履き始める。「おんじの忘れてきちゃったから、ツクツクボウシでも降ってきたら代わりに被ってやらんでもないですが」[訳註:西gorra《野球帽》、cigarra《蝉》]

「お前さんが被るっつったらせいぜいセミのおしっこだろ」日除けには役立たぬとはいえ、僅かでも髪が濡れた分は体感温度も下がるやも知れぬ。「そういう消極的なのを尻すぼみってんだぞ。詰まるとこは糞詰まりだぞ」

「せめて竜頭蛇尾と言ってくれ」

 徐行音を響き渡らせつつ車両が少女たちの眼前へと滑り込む。

「ミコミコーナ様のお話じゃこの街は竜の支配下にあるとのことだから、矢張り長虫の胴持つ土竜どりゅうの類なのかも分からんな」[訳註:翻訳でもモグラトポではなく《土の/大地の竜ドラゴーン・デ・ティエッラ》となっているが、これはGraboidの異名dirt dragonの西訳でもある]

「それはツチノコってヤツなのでは?」但しこの名称は《大地の子イホ・デ・ティエッラ》ではなく《槌の子エル・デ・マルティージョ》に由来するそうだ。恐らくシュモクザメが如き形状を持つ怪物なのだろう。「……キノコタケノコツ~チノコとノコノコーナも歌ってますし」

「誰? もう眷属増やさないでほしいんだけど」

「或いは」四六時中世界樹に齧り付いていては終日運行中止となっているだろうし、少なくともニドホッグの仲間ではなさそうだ。騎士が開いた扉の間に手を差し入れ、王女に乗車を促しつつ以下に続けた。「何れにしたって旅の始まりが八大龍王で半ばがネズミ、終いがミミズでは……こりゃ尾張は低尾ひくおとでも改称せねばなるまいよ」[訳註:第四章で訪れた高尾山薬王院の八大竜王のこと。鼠は旧本坂峠に続いて昨晩も出会し結果交番送りとなった吸血鼠どもを指しているのだろう]

「八王子……去年のことのように思い出せます」

「そうだぞ……終わりが尾を引くってこともある」通勤時間帯で車内はそれなりに混み合っていたが、御子神は(次の駅で下車するのに!)偶然空いた長椅子の端へと崩れるように着席するのだった。「上でも言ってたけどこりゃ異世界じゃなくて画竜点睛の話よ」

「ああ……書くのは蛇足」《鬼の留め具で閉じるセッラール・コン・ブローチェ・デ・オーグロ》[訳註:《金のデ・オロ~》で理想的な仕上げを施すこと。余計な一文字のせいでoroがogroになってしまったという意味では蛇足の語感を的確に模しているかも知れぬ]というやつだ。尤も今東国の猫たちを運んでいる蛇に生えているのはパータスではなくて車輪ルエーダスである。千代は空いた手の親指を突き立てるやそれを宙に押し付けるようにして、「つか目が点でいいなら万一書き忘れてもさ、それこそ画鋲でテンセーしたらよいのでは」

「選挙ポスターかよ。目潰しは何か痛いのでせめて鼻の穴で勘弁したげて」

「花に穴開けて突っ込むことが許されんのは蜂さまのお尻の針だけでしょう」ミツバチが花蜜の吸引に用いるのが尻の針ではなく頭部にある細管状の舌レーングア・トゥブラール(正確には口吻グローサ)であることは言うまでもない生物学的事実であったものの、義姉ふたりもよもや末妹にそこまで常識が欠けているとは思わなかった為か敢えて訂正する手間を掛けなかった。「大根もキツいけどこれ突っ込まれる刑罰も結構しんどそう……そいや駅員はんとかすれ違っても何も言われんかったすね」

「それ尻に……どっち側突っ込むかでダメージの路線も変わりそうだけど――突っ込んでる時に擦れ違われてたら、警察か救急車の最低どっちかは呼ばれてただろうけどな」

「跨るだけならまだしも突っ込んだまま歩けるかよ……いやまず突っ込めんわ」少なくとも房の側を全て腸内に収めるのは極めて難しいだろう。「ミコさんコスプレでこういう……剣とか槍とかってどやって持ち運んでんの?」

「ヤクの密輸じゃあるまいし尻の中に隠したりはせんぞ」

「いやそんな違法性なもんじゃねえでしょ銃刀法違反つってもパチモンなんだから」

「まァ長えのは大抵分解できるし」ギネアは僅かに身を乗り出すと、従士の得物の柄に指を伸ばしその握り具合コモ・グラバーブレを確かめた。[訳註:直前の尻針/口吻の取り違えと同様作為的な誤用ではあろうが、本来《掴みやすい》の意味であればcogestibleとでも言いそうなところを、わざと先般のGraboidに掛けて英grabbable風のgrabableという単語が使われている。因みに同音のgravableは課税対象であることを示す形容詞]「でもコスイベとかだと長物は一メートルまでとか制限あるのが多いよ。現場次第だけど」

 車内放送が流れ、直ぐ側で扉が音を立てて開いた。

「一メートルか……これもそんくらい?」

「それ敵の腹ん中で振り回して胃袋を内側からチクチクってんじゃツクツクボウシじゃなくて一寸法師だからなあ」然もなくばピロリ菌であろう。「やっぱ決闘であれ鬼退治であれ正々堂々正面切ってじゃねえとな。ですわよね天下無双のドニャ・キホーテ?」

「陛下の御言葉通りですじゃ」

「いや、あの……降りませんの?」

「もう人乗ってきちゃってるから次でいいよ。折り返して戻っても歩く距離そんな変わんないっしょ」――プシューッチュフフフ。「古今東西にその名を轟かすラ・マンチャの騎士とて、どんだけ体格差があろうが――」

「次ではちゃんと降りてよ、座っちゃうから立てなくなるんだよ」

「雲を衝くよな巨人にも面と向かって突撃したそうじゃないか」

「第八章……否、十三章だったかしらん?」

「それはもう昨日やったっしょ」これは地上の半虎半魚との対決か、宙に浮く球体の黒髭バルバネーグラ・エスフェーリカ・エン・エル・アーイレとの一騎打ちかを――或いはその双方の挑戦を――指したものだろう。「ドン・キホーテの爺ッ様だって立ち塞がる巨人には特攻仕掛けても、」云われてみれば高尾駅で花が対峙した天狗の顔も、剣代わりの長鼻を縦横無尽に振り回すことなく、只々騎士の放つ長槍の打擲に耐え忍ぶばかりであった。[訳註:第五章参照]「向こうから突っ込んでくるヘビー級の蛇には道を譲ってたと思いますよ」

「読破したみたいな口振りじゃねえか」

「読破どころか一章も一頁も一行も、一文字すら読んじゃおりませんが」ここまで熱心にお読みいただいた本稿の読者諸兄に申し上げたい――本来ならば第一章の劈頭に掲げるべき訓示インストゥルクシオーネスだが著者もここまで長大な小説になるとは想像だにしなかったのだ――、どうせ同じ時間を費やすならば『ドニャ・キホーテ』より『ドン・キホーテ』を手に取るべきだと!「……つかアナタもでしょ?」

「目の前に生ける伝説が居んのに活字なんざ読んでる暇ないだろ……つまりアタ、妾が言いたいのはだね、」ミコミコーナは自身の尻を払いつつ徐ろに立ち上がった。「――作品のオリジナリティーを尊重しそのままほ、」グラボイドの走行速度に変化があったか、僅かに蹌踉けつつ手摺に掴まって持ち堪えたものの、力尽きてもう一度着席してしまう。「……暴走しろってことよ」

「私だったら暴走列車にゃ乗りたかないですけどな。こっちから乗車拒否ですわい」折好く乗車中の列車は各駅に停まるようであった。尤も乗る前から暴走している列車に途中乗車する方が困難ではあろう。「たとえ行き先が房総半島だつってもあえて回送電車での旅を選びますぜ」

「それ行き先車庫だろが。どんな乗り鉄だ車掌につまみ出されるわ」発見されぬまま放置されれば、無人の車内に閉じ込められたまま一晩過ごす羽目となる。「そりゃお前さん方が予定通りちゃんとミサれててさ、凱旋モードのまま昨日の内にレンちょん達とバスで帰ってりゃアシも何も言わんがね……最後に大ポカやらかしたわけじゃん? そんな盛大にズッコケたままおめおめ東京に帰れるのか?」

「終わりよければ滑ってよしと申します」掘ったのはミミズか掘削機トゥネラドーラスであって東国の女子中学生ではない。[訳註:アマデウス名古屋公演をフイにしたことだけ見れば長旅の結果は大惨敗だったわけで、ズッコけるのも滑るのも許されぬ筈だから千代さんの発言は支離滅裂である。著者は辻褄と現在の状況とを合わせるべく、《終わりが良ければそれで良いビエーン・エスタッ・ロ・ケ・ビエーン・アカーバ》を捩って《上手く掘れたらそれで良いビエーン・エスタッ・ロ・ケ・ビエーン・カーバ》と意訳している。御子神嬢が飲みたがっている発泡酒カバとも掛けたのだろう]「……まァ模試とはいえ受験生が口にしたい言葉ワースト一位ではあるんだけども。だいたい竜頭蛇尾夫人だかホットケーキ作って卵を入れずだか知りませんがね、――」

「やれやれ……この娘の地口の減らなさときたら」ドニャ・キホーテが思い余って片手を振り上げたものだから、吊り革のひとつが弾かれて振り子のように揺れた。「――先代のサンチョどんも舌を巻くほどじゃろて!」

「卵なして、なんか萎んでそうだなビーガン向けかよ」であれば牛乳も使えまい。「どうせならちゃんとタマタマ仕込んでビーフケーキ焼けや」

「暑ッ苦しいわ、マッチョ食いたいのミコさんだけやろ」飽くまで観賞目的オブヘティーボ・デコラティーボであり、食用コメスティーブレスとは捉えていなかった筈だ。「こいつぁ朝からケーキがいいわえ」

「まァパンケーキとかならモーニングであるかもだけど」厚切り焼き牛肉ビフケーケとなれば、偶さか品書きで見付けたにせよ夜間の断食を明ける食事コミーダ・ケ・ロンペ・エル・アジューノ・ノクトゥールノとして注文するのには少なからず躊躇を禁じ得まい。(菜食主義者ベヘタリアーノスであれば尚更のこと!)

 輓蛇オフィーディオ・デ・ティロが徐々にその直線運動モビミエーント・レクティリーネオを緩め始める。

「朝から景気がいいわって何の台詞だっけ?」

「これも『三人吉三きちさ』でしょう」これもアスィッ・タンビエーンというのは同じ演目の名を嘗て同じ三人で口にした例があったからである。[訳註:第十章末尾の静岡市は銭湯脱衣場内にて]「正しくは《春から縁起が》ですがの」

「縁起がいいのが春ならエリンギの旬はやっぱ秋でしょうなキノコだし」そしてお次は決まってこう云うのだろう……《クソッコニョもう秋が来やがったア・ジェガード・エル・オトーニョ! 直ぐ来るぞプローント・ジェガラッ死と共にコン・ラ・ムエールテ地獄の冬がエル・インビエールノ・エン・エル・インフィエールノ》――と。[訳註:西訳では歌舞伎の台詞を意訳した《何たる幸福ケ・スエールテ最初の春からしてデースデ・ラ・プリメーラ・プリマベーラ!》に対し、《何たる力強さケ・フエールテ経験豊富な夏にはエン・エル・ベラーノ・ベテラーノ!》。尚、春先と言いたい場合は西principios de la primaveraが正しい]「ほらお尻から根が張る前に出口まで出張りましょうぜ」

「人を腐海の粘菌みたいに!」女王は徴発したての《嘗ての背中掻き棒ラスカエスパルダーンテ》をその元の所有者を折檻する為今まさに振り上げんとしたが、先んじてラ・サンチャの騎士が恭しく手を差し伸べたものだから、直ちに淑女然とした振る舞いを取り戻し今一度臨時の玉座から立ち上がることが出来た。「――ったく朕もとっとと譲位して、お気楽極楽な年金生活と洒落込みたいものぞよ」

 尤も涼しさにかまけ隣駅すら乗り過ごせば、同じ駅に停車するまでもう一時間浪費していたことだろう。というのもこの路線は四季さながらに巡る環状型地下鉄道フェロカリール・スブテラーネオ・デ・シルクンバラシオーンだったからである。


程良く空間の出来た扉の前で仁王立ちとなった千代さんは雄々しくバロニルメンテ得物を肩に担いだものの、窓枠の中に透けて見えた乗り場で待つ乗客の数が思いの外多かった為に結局は箒の房を下にして抱え直さざるを得なかった。

「こんな人多い中で非常識なやっちゃ……病人のお見舞いで千羽鶴持ってくってんならともかくよ、――」無防備な従者の脹脛を後ろから軽く蹴り上げるミコミコーナ。「そんな千歯こきなんてそう見せびらかすもんでもあるまーに」

「千歯扱きじゃないわ……センバコキってあの、」――プシューッチュフフフ。「脱穀とかするヤツじゃないすか」

「センバがいやってんなら他のセンをかしてもいいんだぜ」

「な、何をこかす気だ」背後に感じる不穏な意志に慄きながらサンチョは上前津駅へと降り立った。「……それこそこんな人混みん中でくモンは、いや濃かろうが薄かろうがありませんぜ」

「ふふ、千歯扱きか」首尾良くサティスファクトリアメンテ王女の後陣を固めるドニャ・キホーテが最後に下車しつつ以下に続けた。「――後家倒しじゃ聞こえが悪いが、公爵夫妻ドゥケスであれば好きなだけ討ち滅ぼしてもらいたいもんじゃて」

「ドゥクシ」

「ちょっとちょっ、折り返すんだからこっちでしょ」

「いや千羽鶴が舞う流れで自然と……鶴舞線つるまいせん?」鶴舞つるまといえば昨夜卑しき豚亀セルドルトゥーガを見事一騎討ちにて下した決戦の場《鶴舞う泉フゥエーンテ・デ・グルージャス・バイラリーナス》へと続く地下隧道であろう。恐らく名城線の乗り場をこのまま南下すれば、同じ駅構内での乗り換えが可能なのだ。「お隣は矢場とん発祥の地でこちらはまい泉創業の町だったり?」[訳註:老舗とんかつ屋まい泉の第一号店は有楽町、則ち東京生まれである]

「牛の次は豚ですかいポークケーキですかい……朝から重い重い」

「やでもエレのベータが」

「エレのベータもアロンのアルファもなか」北側の出口には改札階へと至る昇降機は疎か、自動階段の設備すらないのだろうか?[訳註:年長者の御子神は、自らの足で階段を上るくらいなら多少移動距離が延びても自動昇降機を使うべきだと考えたのだろう]「反対方向は賛成しかねると仰せになったのはどこのどなたか?」

「いや上で繋がってるっしょ」

「と・お・ま・わ・りっ!」次のグラボイドの到着を待つ間、束の間他の乗降客が一掃されたのを見計らって猫の従士が一旦姉たちの後方へと廻り、その踵の直ぐ後ろを急かすように掃き浄め始める。[訳註:ふたりが反対側を向いておりその逆行を食い止めんとしたならば、踵の後ろではなく爪先の真ん前を箒で塞ぐことで行く手を阻んだと考えるのが妥当ではないか]「いっちゃん北の出口から地上出ないとまた無駄にアメン=ラーに灼かれる羽目にならんとも限らんでしょ」

「昨日のハコ地下だったし、こっからハコまで地下道で繋がってんじゃないの?」

「いや栄えてる駅周辺の地下街ならともかくさ……」なかなか前進しない長姉の尻を穂先で突付く半坐千代。先刻膝裏に受けた不意打ちの意趣返しだろう。「昨日ミサ前に降りた一個前の駅からだって普通に路上歩かされただろうにっつか、名古屋のジョー向かう時も同じこと言ってませんでした殿下」

「えっそれニコニコーナでなく?」

「いや殿下ですよ城の地下がダンジョンなっててって」日本で地下牢ダンジョンといえば多くの場合地下迷宮ラベリーント・スブテラーネオを指す。「男女がどうこうホザきよったのはメガネだったかもだけど」[訳註:第三十二章の同線市役所駅下車時]

「お前ほんとどうでもいいことに対する記憶力には目を見張るものがあるな」

「ども。是非とも見飽きてください」

「ドンジョンといや本丸や天守の意味もあろうし[訳註:英dungeonの古形donjonは仏語由来か]」ドニャ・キホーテが案内役の指示を尊重し、ギネア姫にも北上を促しつつ以下に続けた。「――ドン・ジュアンに色事睦言の類は付き物ですじゃ……ささ、さあ」

「サンチョが階段上ろうが線路に落ちようが、妾は騎士さまの後ろを半歩下がって付いていくのみ」差し出されたラ・サンチャの腕へとどさくさ紛れにしがみ付く。「従士さんは三町前でも散歩してなさいな」

「三町がどんくらいなのか知らんし」チョウとは漢字で《プエーブロ》と書き、大体百五十歩幅グラドゥス――つまり百米を僅かに超える距離――を指す単位なのだと謂う。「つか三歩前を歩いてるだけでも目ぇ離した隙に、気付いたら後ろに誰も居なくなってる自信あります」

「マダムサンポールが聞いて呆れるな」それもその筈、我等が猫の従士はリオ・デ・ジャネイロやサンパウロサン・パーブロとは縁もゆかりも無い娘なのである。[訳註:但し洗剤のサンポールの語源は英語のsun《太陽》とpolish《磨く》であり、聖人名の仏Saint-Paul/葡São Pauloとの直接の関係はない。尚、第三十六章に於いて御子神は自らマジックリン派である旨を表明している]「しかしミミズの腹に入って出てきただけじゃ昨日のドンキ前の観覧車と同じか」

「それ言ったら昨日は地下鉄何回も乗ってるわけだが」

「敵に背中を向けて立ち去るってなると、さすがに騎士道精神の権化たるドニャ・キホーテも忸怩たる思いなのでは?」

「然こそ云え、お腹を向けて立ち去ったところで」オソなどの猛獣と遭遇した際は相手の目を見たまま後退りするのが良いというから、これは今日この後大須[訳註:西osuno《熊の》。三人が降りた地下鉄駅の住所も中区大須四丁目だ]を出歩くことでもあれば留意しておくに越したことはない。「前方の敵から後ろ傷を喰らったのでは元本も利子もありますまい」

「まァ上や下や前じゃなくてそんなに後ろが気になるってんならこうやって――」先導していた千代さんが歩行を継続しつつくるりと反転した。「日進ムーンウォークをば」

「意外と器用よねこの子」

「老子曰く――《マイケルが勝ち》」

「ジャクソンなんだから孫子だろうに」

「兵法風に謂わば《走為上そういじょう》、ぐるをじょう――」

「サンチョ後ろッ!」

 後方確認を怠ったまま調子に乗って後退し続ける内に階段の最初の段差で踵を引っ掛け転倒し掛けた従士の鼻先へと咄嗟に突き出されし《嘗ての日傘エスシラーンテ》――現状傘持ち女ポルタドーラ・デ・ソンブリージャに過ぎぬ騎士は真実スキロポリアエスシロフォーリアスのひとりであるわけだ――の片端を握ったまではいいが、生憎この晴雨兼用傘は折畳式でアースタの方も伸縮自在となっていた為、幾ら持ち手マンゴを掴むドニャ・キホーテが踏ん張ったところでその芯棒バストーンは千代さんの体重を支え切れずにスルスルと伸びてしまい、畢竟彼女の尻餅を妨げるには至らなかった。しかし斯様な地底深き世界にさえ銀の裏地を持つ雲のひとつでも浮かんでいたものと見え、蹴躓いた瞬間無意識に背後へと突き立てられた箒の房が階段と臀部の間に挿まれた緩衝敷物コルチョーンへと様変わりし、猫の尻が強か激しく打ち据えられる惨劇から既のところで救ってくれたのであった。

「――スのキュウリの云う前に、一体全体このお転婆は予想以上のうつけ者じゃて!」

「あっぶねあぶね……茄子も胡瓜もないならば沢庵か梅干しか、あっどうも恐縮」騎士が引っ込めた得物に代えて反対の手を差し出してくれたので、千代さんは千叉槍の弾力の助けを借りつつ勢いを付けて立ち上がる。「――三歩譲ってキムチにピクルスでも妥協します」

「漬け物の話ではない」花は従者の尻を、付着した埃を払う為かそれとも今後は軽挙を慎むよう戒めとしてのつもりなのか、細長い五指を大きく広げた掌で大きな音を立てながら二三度叩いてから――どうやら現在ギネア所有の尻掻き棒も今回ばかりは出番を逃してしまったようだ!――以下に続けた。「このまま放っておいちゃ追っ付け《勝てばカンクン負けたらアカプルコ》などとのたまい出すに違いないわい!」

「あ、カプリコってジャイアントコーンみたいなのでしたっけ?」己の失態を一刻も早く姉たちの記憶の隅へ追いやらんと、今度は足元と頭上を交互に視認しつつ従士が階段を上り始めた。「そいやグリーンジャイアントってのもトウモコロシ農家で生計を立ててる巨人でしたかな……ほら缶で、食う?」

「カンクーンって大西洋側の……カリブ海か」

「仰る通り、ユカタン半島の突端です」

「百ドル札でケツ拭いてるみたいな勝ち組以外門前払いな高級リゾートのイメージあっから、間違っちゃいないのかもな」仮に紙幣一枚分の大きさと比べ百万分の一の価値しか持たないにしても、専用の便所紙の方が百万倍は拭き心地が良いことは間違いない。「いや負けてもアカプルコでバカンスできんなら贅沢は言わんけど……海かあ」

「赤いプルコギなんつったら随分辛そうじゃないですか……そこら中が火の海になりそうニダ」世紀を跨いで後のアカプルコであれば、その白き砂浜は既に血の海マル・デ・サーングレで染まっていることだろう![訳註:二十世紀中盤から後半に掛けては太平洋岸屈指の避暑地・保養地として人気のあったアカプルコだが、昨今は米国と南米の中継地点であることも手伝って麻薬絡みの犯罪組織カルテーレスがメヒコ各都市を牛耳っており、取り分けこの港町は殺人事件発生率の高さに於いて不名誉な数字を記録し続けている模様。カンクンも富裕層の観光客を狙った盗難等を警戒する必要は勿論あるだろうから治安が良いとまでは言えないにせよ、路上で即座に命を取られたり臓器売買目的で誘拐されたりといった危険性についてなら幾分控えめと考えて良いかも知れない]「私ゃ赤いよりかは青い海で泳ぎたいですね、熱海でも湘南でも……とりま沼津以外でなら」

伊勢海いせかいで……伊勢湾か――で我慢しろよ」

「朝飯食ったら海行くんすか?」

「特に予定はないけど。プルコギが嫌ならひとりで自転車漕いで、――」無用な迂回路を経て漸く市内へと踏み入った一昨晩、河口付近の橋の上で警察官に誰何された際の居た堪れぬ心境を、このロバ乗り娘ブッレリータはけだし先月のことのように思い出したことだろう![訳註:ほぼ同時に矢作川を渡っておきながら、名駅付近の牙城到着までに千代さんが先輩の三倍から四倍もの時間を要した経緯は第二十二章にて詳しく語られている。但し最初の寄り道であった桶狭間古戦場については豊明市との市境と言えなくもないものの、彼女の移動距離を大幅に延長させた名港へのV字往復も名古屋市に含まれていることから、遠回りの大半は寧ろ入市した後に費やされたと解釈すべき]「海岸着いたら今度はボート漕いで、《女子中学生夏休みに太平洋単独横断》とかにでも挑戦するがいい……ゴールはアオプルコ」

「サンチョとしちゃあここ十日で、軽く一年分くらいの非日常を、体験させられた気分なんですが」半坐家の長女は杖代わりに一段一段突き立ててきた箒の石突きが微かに横滑りしたのを契機に数秒間足を止めると、気を取り直して昇段を再開する前に以下の如く呻吟した。「もし、ほんとに、今からそんな、ガチめの冒険が控えてるんだとしたら」

「ガチめじゃない冒険て何だよ? 勝ち目がなくても挑んでくのが勇者だろ?」

「だとしたら……いっそ明日から新学期始まってくれちゃったりでもしちまう方がなんぼ、マシだか、実際知れたもんじゃねえですよ」

 階段を上り切ると北側の改札口があり、それを潜れば直ぐ横手に地上へと通じる別の上昇通路が垣間見えた。

「ちょっと待ってください、周辺図周辺図……」陽光目指し間断なく歩を進める主人と王女を呼び止めた従士が地下壕ブーンケル・スブテラーネオの壁か円柱ないし角柱に掲示された地図を目敏く発見し、さっと視線を這わせて旧シェーンブルン宮跡までの最短経路を割り出す。「こっちが北……だから、大体この辺か」

「ねえねえ、もうこの辺りからすでに空気生ぬるいんだけど」ほんの数段上がったところでドニャ・キホーテの左腕に絡めていた両手を――主人の手綱を取るは忠臣の役目だというのに!――引き絞り、折返しの踊り場へと至る前に早くも錨を下ろしてしまう堪え性のないミコミコーナ。「生で許されるのは脚とハムとビールだけだってのに」

「生身といえば生にござるが、それがしの細腕よりかは貧相ながら太腿の方に噛み付かれた方が幾らか腹の足しにもなりましょうぞ」

「いやん騎士さまの細腿、高潔なだけあってあんまシモは振ってなさそうだけど」ギネア王女が従士を待つ間、飽くまで戯れにであろうが、その場にしゃがみ込むなり恰も食肉処理場マタデーロに吊るされた冷凍のイベリア腿肉ハモーネス・イベーリコス・コンヘラードスの中に光り輝く一対の脚を発見したかの如く、然も仰々しい仕種で左右の掌を翳してみせた。「程良く引き締まってて齧り甲斐がありそう」

「如何に筋張っておるにせよ繊維質豊富なユグドラシルの根っこほどには歯が立たぬということもありますまいよ」折角ニドホッグに齧られずに済んだものを、せめてその巣穴ニドから脱出する前に偽の噛み跡ウエージャ・ファールサ・デ・モルデドゥーラだけ付けてもらうことで怪物との激闘を捏造しようとでもいう算段であろうか?「尤も止事無き朱唇皓歯を紅唇朱歯に染め抜くことが殿下の花貌に利するかといえば、これは甚だ首肯しかねるところでもありますれば」

「いや決して悪くない趣向だ」俄に吸血姫バンピレーサないし食人姫カニベーニャ[訳註:語源となったカリブ諸島エル・カリーベからカリブ種族カリベーニョスへの語形変化を西caníbal(caríbal)《食人》に当て嵌めたもの]と化した御子神嬢はより近い方の腿飾りムスラレーテ[訳註:一般的に太腿ブラーソ周りを囲む衣類や装飾品・防具は西musleraと呼ぶが、ここでは腕飾りのbrazo/brazaleteに倣ってmuslo/muslaleteとなったようだ]に手を掛けた。「ではこのパスをちょいと捲らせていただきまして……」

「ちょっと目を離すとすぐまたそんな困った、キレた小芝居をおっ始めなさる」

「いや、ね……昨日残り香クンカクンカすんな云われたから、現物なら良いかと」[訳註:第三十六章にて、葡萄酒食堂内での遅い昼食を中座した千代さんが私用で投宿先の自室へと戻る際に御子神嬢も付いてきたのである]

 あと一歩のところで従士が追い付いてしまった。已む無く立ち上がったアフリカの女王が行く手を見上げるや、頭上東側に口を開いた地下鉄の出口から燦々と差し込む陽射しが白飛びした地上界ソブレテラーネオ・コン・ウナ・スペルソブレエクポスィシオーン[訳註:直訳は《超過剰露出を伴った地上》。西superpobre《超貧困》の語感を捩ったものか]を鮮烈に浮かび上がらせたお陰で、穴から顔を出すまでもなく深窓育ちのムイ・ビエーン・レスグアルダーダ彼女の双眸は滅法眩まされてしまうのであった。


外界ムンド・エクステリオールの安全を確保せんとしたラ・サンチャの蜂は、ミコミコーナの手を取り立ち上がらせてから後の警護を一旦従者に任せると、未だ朝露に濡れし蕾を開かせてはおらぬ野薔薇ガバールダ[訳註:語義を《茨の茂みロサール》と掲載している辞書も。《傘地テラ・ガバルディーナ》の西gabardinaは防水加工を施された光沢のある生地の名称だが、こちらは共に男性用外套ないし騎士の陣羽織等を意味するgabán/tabardoの混合語を由来とする為に語源が異なる。タバルドは袖なしである場合が多い。小説『ドン・キホーテ』後篇第十六章にて《とても美しい芦毛の牝馬ジェーグア・トルディーリャに跨り、黄褐色で天鵞絨の裾を付けた上質な緑布パニョ・フィノ・ベールデのガバンを纏い、そして同じく天鵞絨の布帽子モンテーラを被って》登場したのは郷士ドン・ディエゴ・デ・ミランダ]の差さる腰に右手を掛けたまま、一歩一歩光の射す方へとにじり寄っていく。

「――だって勝つためにゃクンクンしとかないと」王女の戯言を背に受け大股で主人を追い越していく猫の従士。[訳註:前後の発言は御子神のもの]「プルプルしてたら負け戦だろ……まぶしッ――ドニャ様?」

「多分地下鉄の線路はこの道に沿ってこう伸びてると思うので……」屋根からいち早く飛び出した千代さんは、無意識に帽子の鍔よろしく一度は前額の上へと掲げた箒の房で、早朝から路上を行き来する歩行者に注意しつつ今度は自身の人差し指に代え前後左右を指し示しながら以下に続けた。「こっちですかね、恐らく一本向こうの通りを北に何分か――」

「振り回すなってのに、おま挙動が昨日のニコ助みてえだぞ」

「失敬な」中学生は後続がなかなか日陰から顔を出さないものだから、一先ず出口の上顎マクスィーラの下へと一時的に撤退してこれから再開される数分間に及ぶであろうアメン=ラーとの闘いに備えることとした。「プルプルするって何よ? プルンプルンじゃなくて?」

「いや、抗いがたき欲求というか情動を堪えてこう、拳をプルプルさす感じ――ドニャ様?」後方を振り返ると、階段の半ばで騎士が天井灯の落ちる踊り場を見下ろしている。「……また我ら凡俗のお目々や曇ったおメガネにゃとんと映らぬ、なに、異世界とか幽世かくりよに住まう超自然的な何かとニラメッコでもされておられるのかな?」

「カン……クゥン」徐ろに視軸を前方へと戻した花は、最早引かれる後ろ髪もないとばかりに悠然と階段を上り切るなり、一部始終を注視していた姉妹の間に収まって――「奇しくもマヤの言葉では、まさに《蛇の巣》を意味するのだとか」

「マヤ語!」如何に無用な知識を(不登校により生じた余暇を利用して)蓄えていたとて、日本の女子高校生にマヤ語だナワトル語だなどと云われてしまうと流石に口から出任せと即断されても致し方あるまい。「わらわも鉄砲なんて撃てません!」

「鉄砲撃ててたらマヤもアステカもスペインにコンキスタドられてないだろ」歴史を語る上で《別の雄鶏が歌っていたことだろうオートロ・ガジョ・カンタリーア》[訳註:過去に起こった出来事を悔いて為される無益な仮定を意味し、日本語の《たられば》に相当する慣用表現。前半部分の《もし使徒ペテロがイエスのことを知らぬと三度否定していなければ~》が省略されている。欧州から来襲した征服者たちが先住民の目には全く未知の存在であった騎馬や金属製の銃剣で武装していたのに対し、新大陸では銃器以前に当時そもそも鉄の文化そのものがなく、弓矢から剣槍に至るまで全てが石器で作られていたとされる]は禁句であるにせよ――鶏声キキリキッが不都合ならば鳩声ククルククッでは如何だろうか?――、模擬試験と昇級を控えた女子中学生が人類史の大まかな流れを把握していたことは無常の喜びである!「マチュピチュだってムスカだって……いやナスカ? ムスカの地上絵は何文明でしたっけ?」

「……ラピュタ文明じゃないか?」マチュピチュはインカ帝国の遺産だと、明後日までに先輩が訂正してくれることを切に願おう。「BARバール魔の巣はムスカ語だとやっぱ《バルス》なんだろうな」

「最近の若者はやたら言葉を短縮する!」

「¡...Escobar Centimanos por Dios!」一歩踏み出した騎士が泉のドニャ・グリコ宜しく両手を掲げ天を仰ぐと、無数に降り注いだ光の矢がその足下から鼻の頭までをこれでもかというほど一斉に貫く。「――時にキタさん……もといネコさんや」

「なんでしょかキホさん……ハチさんだっけ、いやハッつぁん?」

「はッ、暴走蜂の忘八ぼうはちと呼ばれなんだのだけがせめてもの救いよ!」

「じゃあ棒切れ担いだサンチョは坊さんですか」

「熊さん八つぁんてのは落語だろ」ティップとコル、クルスとラヤ、トムとジェリー、ボニーとクライド、ジキルとハイド、然もなくばオリベルとベンジのようなものである。「ハナちゃんが八つぁんならサンチョは熊と猫でパンパンじゃないか」

「わざわざパンダっぽく命名すな。今んとこ胃袋も膀胱もほぼほぼ伽藍堂ですわ」

「ガラガラでもコブラブラでも構わんけども、それから陛下には酒蔵カバの方でのうて恐縮にござりまするが――」

「つまりバカの方?」

「否、……」花は腰に下げた晴雨兼用傘を抜くと、矢張り強烈な陽光を遮るように(遮光部ソンブラーホを閉じたまま)翳しながら以下に続けた。「――旧本坂ほんざか隧道に擬態せしサカモンテシーノスの洞穴クエバを憶えておいでかね?」

「金が無いなり法隆寺?」

「鐘も鳴らなきゃ柿も食さぬ」柿の旬にも今少し早いだろう。「《羽毛ある蛇》と云や思い出すかい?」

「はて相撲取るならヘビー級のが有利でしょうけど」

「まどろっこしい奴よ……ケツァルコアトルのことではないか」

「ああはいはい」千代は合わせた両手で箒の柄をしっかり把握するついでに足下を二三度掃き散らし慎ましやかな砂煙を立てた。「ケツある蛇……うちらがその口から入ってケツから出たところで、二人一組のクソ野郎と鉢合わせたヤツじゃあないですか」

「Alles hat ein Ende nur die Wurst hat zwei.」騎士は従者が理解しやすいように敢えて彼女が得意とする、曰く馬と語り合うのに適した言語レグアーヘ・アープト・パラ・アブラール・コン・カバージョスを以て窘めた。[訳註:《全ての物には出口がひとつ、ふたつあるのは腸詰めヴルストだけ》――則ちそれ以外は入口と出口がひとつずつか、或いは入口がふたつあるかの二択というわけだ]「座薬じゃあるまいし、尻から入って口腔からの脱出を試みるのに比べたら余程楽ちんであろうが。川上りより川下りの労少なきは敢えて見ずとも火を見るより明らかだからな」

「まァ忘れようとしても重い……ヘビーで大変おつらい記憶でしたからね」千代さんがわざとらしく嘔吐くような音と共に舌を出して見せた。「特にあの、羽毛というより羽のない吸血コウモリと云いますか、ドブネズミというかデブネズミというか……」

「出歯亀というか?」

「出っ歯かどうかは忘れましたが、丸い方は汚え豚っ鼻だった気がしますよ」

「然り……然りとてもありゃ史上稀に見る大勝利であったろう?」

「そりゃもう、あの時のうちらなら相手が少林寺拳法のカンフーパンダだって目玉を白黒させてやったに違いないっすわい!」

「おっ武勇伝ですな」漸く湯気立つ鉄板の如き路上に踏み出す決意を固めたギネア王女が、比較的安価な王笏セートロを握ったのとは逆の手の平で打ち鳴らしつつ以下に続けた。「ハコまでの道中、ぜひともお聴かせ願えますでしょうか?」

「今まさに吾が不肖の従士が語り部務めんと、上下の唇を棒紅ぼうべに代わりの猫舌でしとどに濡らしておるところですじゃ」

「私がですかい?」思わず目を剥いた山猫が間髪入れずにその牙まで剥いて――「……よりによって夜伽を聴きそびれたサンチョめに時待たずして昼伽ひるとぎ語れと仰せか!」

「それはそれは……おい、せいぜい楽しませてくれよ」

「化け猫は行灯の油を舐めると謂いますな」先刻目にした駅周辺地図の記憶を頼りに水先案内の役割を十全に果たそうと、先頭切って歩き出す猫の従士。「――伊豆の魔法使いに出てくるブリキのキッコロが関節を動かすために油が必要だったのと同じで、サンチョの舌を上手く回すのにもそれなりの潤滑油が入り用だと思いますがどうでしょうね?」

「朝飯の時に醤油だろうがラー油だろうが好きな油ブチ込めばいいだろ」

「それ赤いプルコギよりヘビーやんけ」炎天下で舌や喉が乾くというなら、緑地の泉フゥエーンテ・デ・オアースィスに巡り合うまではせいぜいその口を固く閉じているがいい。「そうだなどこから始めたものか――一説に、彼のマケドニアのアレクさんですらそこそこには勝ったとも申しますれば……」

「ケツある蛇で見事に尻を拭いさしめたラ・サンチャの主従が凱旋するのであるからして――」常闇の喉奥を晒して獲物を待ち続ける上前津駅の出口に最後の一瞥を呉れた蜂の巣の騎士ドニャ・キホーテは、ミコミコーナが動き始めるのを見て取るなりその背中を死守する形で前進を再開した。「斯かる穴蔵は果たせる哉カンクンと呼ばわるが相応しいのに違いない」

 三姉妹は直ぐ隣の角を曲がり、前津通に別れを告げる。彼女たちの勝利は先ず蜂と猫の共闘によって、そして二度目と三度目のそれは次姉と長姉によりそれぞれ齎された戦果であったのだ。

「――無惨に敗れた彼奴輩きゃつばらは差し詰め蛸壺か蚤の市……否、豚箱ラ・カハ・プエルコにでも送られたと見てこそ晴れて如才ないプルクロというものよの」[訳註:ナワトル語で《大きな葦の生える地》を意味する地名Acapulcoに対し、西olla pulpo《タコナベオジャ・プールポ》/pulguero《ノミの棲家プルゲーロ≒寝床、転じて監獄》/caja puerco《ブタバコ》。但し最後に関しては第四十二章以降、これまでcaja porcinaの訳が当てられていた。因みに«takotsubo»という日本語は、国外だと急性の心筋梗塞に類似する心筋症を指す用語として定着しているのだとか]

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