第48章 では詐術と誹謗に満ちた文学的吟味が三女神により天秤的かつ空想的に為されるが、是に就いてペニンポーリがゲシュタルトの祈りを捧げつつ物すには、肢なき竜あらば肢ある蛇なきことよもあらじと。

LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA

清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ

Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.


POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM

                    A Prof. Lilavach

Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.

Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).



第四十八章

では詐術と誹謗に満ちた文学的吟味が三女神ノルニルにより天秤的かつ空想的にリブラメンテ・イ・ファブロサメンテ為されるが、

是に就いてペニンポーリがゲシュタルトの祈りを捧げつつ物すには、

肢なき竜あらば肢ある蛇なきことよもあらじと。

Capítulo XLVIII.

Del doloso y denigrante escrutinio escriturario que las nornas hicieron libramente y fabulosamente,

y al respecto dice Peninpoli rezando la oración gestáltica:

Si dragones sin patas existen, ¿porqué no sierpes con patas?

[訳註:libremente《自由にリブレメンテ》、fábula《寓話》の形容詞化は通常《素晴らしいファブローソ》等と訳す]


「¡O, dormilona de Milona!, ¡acostadora de Costa d’Ora!」[訳註:「おお、ミローナの寝嬢助!、黄金海岸の寝入り娘め!」そもそも伊Milanoは西語ではMilánだが、後半――d’Ora(Dora)もde Oro又はDoradaの方が自然――同様単に脚韻を踏ませる為の音位転換であろう。尤ももしかしたらMilonaという地名があるのかも知れぬ(日本人の耳にはmirona《覗き女》と聴こえなくもない)。西dormir《眠る》>dormilón/-onaに対しacostar(se)《横になる/床に就く》に行為主を表す接尾辞を付けた場合どう訳すべきか心許ないけれども、なかなか布団から出ないのが寝坊助ドルミローンなら直ぐ布団に入りたがるのがacostador/-aという解釈で一応の筋は通る。恐らくacosar《付き纏う/悩ませる》>acosador/-a《付き纏いストーカー》を意識したものか。因みにacostarの原義は《コースタに寄せる、着岸する》なので、寝床を一日の航海を終えた船が帰着する波止場に擬えらたことに由来しそうだ]

 窓側の寝台を覆っていた掛け布団がやや乱暴に捲くられると、大の字に寝そべっていた半坐千代は、「ファッ、ちょっ……なに?」――反射的に胎児の如く縮こまった。

ウバナニーオババグラニーもないわッ!……起きて表を見るが良い」ドニャ・キホーテは窓掛けコルティーナを引き裂くように開け放つ。「おぬしの崇敬するラー=アメンがアトンに倣いてドンブリの外縁から放射状に放たれし棒状麺さながら、燦燦と無数の矢や槍を大地に突き刺しておるではないか……昨夜の与太じゃあないが《オフィーリアにも遅過ぎる》[訳註:第四十五章ではギムレットとハムレットを混同する場面が見られた]――ヘイナンナニナニなどと寝言を漏らしとる暇はないでな」

「今何時だ……放射状に放つのは」眩しさに耐えかねた従士は目を固く閉じたまま、敷布もしくは小卓の上に置かれていたと思しき携帯端末を手探りで追い求めた。「――ドンブリじゃなくてズンドー鍋で、エスパゲッテ、茹でる時だし、……朝っぱらからアメン=ラーは土手っ腹に重いから胃腸にも、持ちつ持たれつです、ぜ」

「タラゴーナの大食女トラゴーナがどの口でうそぶくものやら!」

「うそぶくも何も、あっあ~トラフグをタラフク食べる口がそう何個もあってたま……ちょっとチェックアウトは十一時でしょうに、」パンプローナの戯言パンプリーナス[訳註:各々の語源については第四十一章冒頭の訳註を参照されたい]を巧みに操るサラガッツァの女の子ラガッツア[訳註:ここでも《皇帝アウグストゥスカエサラウグースタ》に由来する地名のZaragozaサラゴーサがZaragazzaに変更されている]は一旦液晶から目を逸らすなり欠伸を噛み殺しつつ《魔法の蝋版》を緩衝布団に打ち付けたものの、弾んだ勢いそのままに肘を折り曲げて再び画面へと視線を落とした。「――まだ全然時間……ミコさんから何か来てたす」

「ナニ、王女殿下から御下知おんげちとな?」[訳註:「御忠言コンセーホスとな?」]

「晩飯もオゴってくれたし、ケチというよかゲジゲジ眉毛とでも呼ぶべきでしょうな」[訳註:「御忠言コンセーホスというか御伽噺コンセーハスというか、いずれ毛虫の眉した議員様コンセハーラ・コン・セーハス・デ・オルーガですからな」]

「バカな、それを云うなら蛾眉がびであろうに」様々な変装遊戯コスプレイに対応せねばならぬ立場を鑑みれば、ギネーア(若しくはエティオピーア)継承者のセーハス蛾の触角アンテーナス・デ・ポリージャどころか蝸牛の目オーホス・デ・カラコールよろしく出たり引っ込んだりする仕様でないとも言い切れぬ。事実、武家の妻は両眉を剃り落とし――空手の達人大山倍達は修行で山に籠もる際に片眉を剃って俗界との縁を切ったそうだが、両方を落とした江戸時代の女たちはその倍の戦闘力を備えていたに違いない!――代わりに墨で線を引いたと謂うけれど、慥かにその方が太さも形状も成り切る対象に合わせ変幻自在であること請け合いだ。「それでカモメガビオータのミコミコーナ様は何と申されておるのじゃ?」

「何オタかは存じませんが少なくともカビの……おぁっ、」従士は目を見張った。「――チケット取ってくれたんだ二人分……変な時間に起きてんな」

貼り紙エチケット……昨夜の葡萄酒の?」

「葡萄酒?……あの酒乱に何の礼儀作法エチケットを教わるってんですか」画面上の数字や文言に目を走らせながら、「エッチなお店の入場券チケットなら売るほど持ってそうですが、多分私やドニャの旦那の趣味とは被らないというか……きっと掠りもしませんよ」

食刻エッチングの店というと――」我が国では《強い水アグアフエールテ》などの呼び方もある。[訳註:これは羅aqua fortisの西訳で、金属への微細な加工を可能とする腐食性の水溶液を指した言葉と思われる。より直截には《製版技法モダリダッ・デ・グラバード》とも]「銅板彫刻の工房かね?」

「失言でしたお忘れくだせえ」エッチとはアチェ――則ちヘンタイの頭文字である。入店する際は事前に入場券エントラーダを購入する形態なのか否か、欧羅細亜の対極に住まう外国人たる筆者には知る由もない。「ひとり三千円か……昨日はいくらっつってたっけ?」

「殿下は《四五よんご》と仰せであった」

「じゃあやっぱ底値なんかな……えっと一応?」千代が端末を操作する。「……わ今同じサイトで検索すっと同じ便で五五だわ、ノープリキュアファイブゴーゴーだわ。これって秒単位で高くなったり安くなったりしてんのかしらな」

「三三五五でもゴルゴタの静岡でも、何なら山山の咽喉ガルガンタだって一向に構わぬけれども[訳註:Garganta de los Montesはマドリード北部の山間に実在する自治体ムニシーピオ名]」騎士は一旦浴室へと消えたが直ぐに戻ってきて、「――我等《温泉テルマスの三姉妹》と謂えどコルコルと喉鳴らす姉上や、アレクサンドロスに肖り蛇娘ゴルゴーナの加護受けし次姉の割を食って末娘のおぬしまでマッハゴーゴーせねばならん謂れもないのだぞ」[訳註:中米ではbeber corcorで《一息に飲み干す》といった意味を持つ。語源は定かでないものの、花がこのコルコルを《グビグビ》のような酒を流し込む際の擬音として捉えたことが窺えよう。蛇髪姉妹エルマーナス・ゴルゴーンについては言わずもがな、第八章序盤に於いて購入した水着の上部が三女メドゥーサの顔をあしらったアエギスの胸当てに見立てられていたが故に他ならない]

「下手なマシンガンよか上手なゴルゴとも申しますわ」元の諺は《最下手な火縄銃であれアスタ・エル・マス・トールペ・アルカブース充分に撃てばスィ・ディスパーラ・ロ・スフィシエーンテゴルゴ並みに的を撃ち抜けるダ・エン・エル・ブラーンコ・イグアール・ケ・ゴールゴ》であり、ゴルゴとは日本で最も名の知れた架空の職業暗殺者なのだが、彼は数百米遠方の敵を仕留める狙撃に何故か突撃銃フゥスィール・デ・アサールトを用いるのだと謂う。「それはそうとそのゴルゴンゾーラとかメデューサってお名前のご婦人は一説に、直視したメンズがみんな仲良く、全身だか身体の一部だかは知りませんけど、石になってまうほどのドの付くブスでいらしたのだとか……」

「目蓋の重さに比べ口も唇も大層軽い娘じゃて!」あちらの末妹もこちらのほど寝嬢助であれば、彼の首斬り英雄デカピタドール・エローイコとてわざわざ鏡の盾を用意する手間を省けただろうに![訳註:容易に寝込みを襲えた筈だから?]「そりゃ自慢の髪を蛇神憑きにされちゃブスッとしたくもなるだろうさ……そら風呂場も洗面所も空いておるぞ?」

「爬虫類じゃシャンプーして良いのかも分から……いや汚れたらその都度脱皮してくれるとかなんかな?」それはそれで毎回処理が面倒そうだが、その後の人生を蛇の亡骸が頭から生えた状態で過ごしたいのでもない限り石鹸ハボーン洗髪液チャンプッの使用だけは控えておいた方が無難である。「――まァエチケットの方もブスじゃなくてバスなのでご安心召されよ」

「風呂屋のかね?」

「バ~TH(原註:舌を歯の間に挿んでスィトゥアンド・ラ・レーングア・エントレ・ロス・ディエーンテス)!――じゃないってゔぁ!」従士は液晶画面を突き出した。「ねっこの――ばSsssスーーー……ネコバスじゃないよ?、夜行性ではあるけども」

「ジャコウネコというよりは車高のあるハコじゃな」

「ハコってワードはしばらく聞きたくないですが――」端末を引っ込める。「そう見えるんならそうなんでしょう……あとジャコウじゃのうてヤコウですから、今風の言葉で云ったら百鬼夜行のヤコウです」

「そいつはまた豪儀なこと!」騎士は戯けて寝台の上へと尻餅を付くや、悪路を進む駅馬車の御者台に見立てて上半身を弾ませながら見えぬ手綱を振るった。「尤も来し方で二騎の夜行軍はさんざっぱら経験済み、ラ・サンチャの蜂が止まった一騎だけでも千の鬼を屠るところに猫の跨る灰毛ルシオすなわちおぬしの斑模様の歩行者ダップルゲンガー[訳註:英dapple+独Gänger]もといゲンガリン陛下が加わりゃ少なく見積もっても当二千じゃ……というのも従士の太腹パンサで足りぬ分の首級はそれがしの長槍ランサが補うからなのだが、たったの百鬼ぽっちが相手じゃ些か役不足かも知れんわな」

「サンチョの方は一匹で千四の敵なり鬼なりを――いいや三千四のおにぎりでもサンドイッチでも、片手でホフホフしてみせやすんでどうぞお構いなく!……というのももう一本の手には渇いたお口と喉を潤すお茶なりおミルクテーなりのペットボを握って待機させとくのが淑女の嗜みだからなのだが」

「嗜みはいいからとっとと顔を洗って出直してきませい」目を細めながら窓外を、遥か東の地平から日陰に覆われた眼下の小径へと順に見渡すドニャ・キホーテ。「今朝もはよから日輪の灼けるわだちが、猫又の変化へんげと謂われる火車かしゃさながら大地に隈なく不毛のうねを築いておる……猫か寝る子の身嗜みで一雨呼べれば幾らか涼しくなるものを」

「新規参入シェーンブルンの折り畳みにも晴れて二重に活躍の場が」漸く重い腰を上げた千代さんだが、先ず向かったのは冷蔵庫であった。「――雨晴れかまわずうめえ具合にすぐにご用意できますものな」

「その二つ名を名乗るのは今少し先の話となるであろうよ」

「ああそうか……先? やっぱ今日もっかい行くんですね」コルコルと冷たいお茶を嚥下しながら浴室へと向かう千代さん。「――こンのクソあっついのに……あっそうじゃんバスの予約取れてもチャリンコ問題が解決の目処めどってない」

隅っこリンコンでも角っこエスキーナでも駐めどころは何処にだって、それこそぇ好き~なだけあるさね」

「そりゃ置いてきぼりにしていいんでしたら止め処なく……ぶわああ、」半分閉じたままの寝惚け眼で鏡の前に立った従士は身を屈めると、両手で蛇口から迸る冷水を掬い上げて顔へと叩き付けた。[訳註:実際には洗顔する前にきちんと扉を閉じてから小用を足したようである]「あっタオルーニャ……いっそ私も閣下からの拝領品使っちまうか……いやもうさすがに乾いて――あれ?」前髪と顎から雫を滴らせながら、「ドニャの旦那ダンニャ?」

「Dañarse o bañarse, ésta es la...――にゃんじゃ?」

「私の分まであンりがとございます洗濯。もほぼほぼ乾いて……換気扇回しときゃこんなもんなのか」思うに衣装棚アルマーリオに入っていた予備の衣紋掛けを転用し、浴用吊幕用横棒コルティネーロ・パラ・バニョあるいは手拭い掛けトアジェーロにでも吊るされていたのだろう、自身の肌着を指で抓んでその感触を確かめつつ以下に続けた。「これ私寝ちまった後に洗ってくれたんすよね?」

「布地が薄手のものだけだがな」乾かなければ乾風器セカドールといっても限界がある。「直ぐに取り込む必要はあるまい。おぬしの申す通り、城主に鍵を返すまではまだ時間がある」

「主人が家来のシャツやパンツを黙って洗濯してくれるとは……まったく良い時代になったもんだぜ」これはついでに気を利かせただけであり、サンチョが布団に滑り込んでいなければふたりで仕事を分担した方が早く済ませられたに違いない。「今は桃太郎の書き出しも《おじいさんはやまにしばかりにおばあさんはかわにせんたくに》だと男女差別だつって差別されるんですと」

「となると爺さんと婆さんはそれぞれ何処に行くのだね?」

「さァ……田舎なら家も広めだろうし芝刈りなんぞは自分ちの庭ですりゃいいでしょう」

「やっぱり狩りは男の仕事?」

「男女以前に高齢者は熱中症不可避ですからそこは年金の中からルンバ的な自動芝刈り機を購入すべきですな」年金受給者ペンスィオニースタスなら夫も専業主婦と同じだけ家事に費やせる時間があるというわけだ。「当然洗濯機も全自動だろうし干すのくらいは夫婦仲良く一緒にやったらいいんじゃないすかね。身体動かさなすぎるのもよくないだろ……つか今晩もう帰るんだし下着洗って帰る意味って実はねえか」

「桃は夫婦を素通りして海に出るまで川下りということじゃの」……嗚呼、ドンブリーノ・ドンブラーコ――否、ネクロカブリーオの兜よ!

「そんなもんはアマゾンで注文すりゃいいですよ!」慥かに河には違いない。「まァ夕方までに汗かいたら途中で着替えるかも……どこで?」

「あの辺りは年中暑くて雨も多いだろうから」何しろ赤道直下である。「――桃の生産に適しておるとも思えんがな」

「アマゾンで買うのが大損なら楽天でもヤホーでも好きにポチればいいさ」

「ラクテンで思い出したが桃太郎の《柴刈りに洗濯に》にゃ割愛された前フリがあって……こりゃこりゃ」騎士は寝台の横に仁王立ちとなって従者を窘めた。「顔を洗った側から布団に潜る奴がおるか!」

「クーラー効いた部屋で二度寝とか極楽天国ですぜ」市内を歩き廻った昨日の疲労が未だ癒やされておらぬと見える。「ええじゃないかここは朝食券付いてるわけじゃなし[訳註:沼津で一夜を明かした宿泊施設では翌朝、食堂で提供される食事の終了時間に急かされた千代が慌てて部屋を飛び出す一場があった。第八章参照]……夜食の過食が祟ってこのサンチョっ腹もまだ全部消化しきれておらんのです」

「消化してから燃焼しようが、はたまた燃焼させてから消火しようがそれは一向に構わぬ。しかしミコミコーナ様の御機嫌伺いはどうするつもりじゃ」

「どうせまだ寝てますよ……いや年寄りの朝は早いと申しますが、それとは別に我々以上の筋肉痛でベッドから起き上がれぬという線がしっとり濃厚かと」主従に代わって今宵の夜行便の予約を済ませてくれたのだから、少なくとも一度は起床している筈だ。千代は被った掛け布団の中で携帯を操作しつつ以下に続けた。「そりゃもうネクターのようにな……ネクタン……ラクテン?ってのがニオイ成分なんですかね」

「それを云うならラクトンであろう」

「前フリでラクトンの解説ですか?」ラクトーナとは《乳のラークテオ》、より正確には《乳酸アーシド・ラークティコ》に由来する命名だ。「日本の昔話より古いってことはギリシャ神話とかで既に登場してる化学物質なんでしょうな」

「ラクテンでラクトンを思い出したのではない」より直接的にマス・レクタメンテ。「昔々ある処で翁が厠に落っこちて――」

「なんだそりゃ!、カワヤってトイレっしょ?」昔は細流の上に橋を渡し、そこで用を足すことで屎尿を川に流していたのである。これにより便所はカワヤ――《川の部屋クアールト・デ・リーオ》と呼ばれていたのだ。「桃も川からでなくて厠から流れてくるってこと?」

「逆流しとるではないか」何れにせよ――搾汁された状態で流されたのでもない限り――配管トゥベリーアが詰まるであろう。「おぬしの桃尻を棚から下ろして御下話おしもばなしと結び付けるでない……よいか、何でも爺様ははばかりの屋根に上がってき直しをしていた折に足でブチ抜いたか何かでテンラクし、そのまま真下のはこ――おっとこれは禁句であった」

「おかまいなく。衝撃的撫子色ショッキング・ピンクがありなら禁句の購入ショッピング・キンクだってありでしょう」

「成程自動販売機ベンディング・マシンは要らねとも便壺の所望マンディング・ベシンならば然もありなん[訳註:無意味な戯言に戯言で応じた形だが、英(de)manding (a) basinベイスン《鉢/水盤/洗面器を要求》だと仮定すれば対応する西語のbacínバシーンには携帯便器(御虎子おまる)の語義がある。慥かに飲み食いはある程度我慢できても《出物腫れ物~》ということだろう]、売り言葉に買い言葉よ――然るに雪隠れ、つまりは便器に嵌ってしもうたと謂う次第なのじゃ」

「うわあシモだけに……たしかにそんなプロローグは不要ですな」ここまで聴いただけでは導入部に何ら必然性がない。「あ~なるほどシンデレラなんかはエピローグが残酷すぎて省略されたって話ですが、こちらは残酷というか、ウンコ臭すぎて」

「灰被り姫と糞塗れ爺ィを同列に語るのにゃちぃとばかり抵抗があるけれども」

「鳥の糞被り騎士ははたしてどっち寄りですかねえ?」昨夜はカラスコの兜のお陰で辛くも直撃を免れた従士が意地悪く付け加えた。[訳註:第四十五章参照]「……出ねえ、やっぱまだ寝てますわオッパイセン。そっか太郎系の時代はまだ水洗じゃないから出したもんは溜めといて、後で畑とかに撒いて肥料にしてたんすもんね」

「太郎系と云うてもそう古くはあるまいて」

「でも二郎系よりは古かろう……いやアメン=ラーは紀元前だからむしろ二郎のが?」

「――閑話休題、その亭主の汚れた着物を洗う為にお婆さんは川に出掛けたというのが所謂前日譚プレクエラというわけなのだ」

「いやいやいや赤ん坊のオムツじゃねんだから、ウンコまみれの服なんかてめえで洗えよ爺さん何奥さん使てんねん!」猫の従士は漸く布団から飛び出した。桃の少年もこれと同じように包丁で割った果実の中から登場したとされる。「いやそれ以前にジジイもウンコまみれやんついでに川で全身隈なく洗浄してこいや洗濯ついでに……なんでウン――カッケバディのまま山に登るんだ?」

「云われてみれば不可思議じゃな。ひょっとしたら熊避けかしら?」

「一説にゃ《人間なんざ所詮クソ袋》だそうですが」ギネアの王女も似たような科白を吐いていたが[訳註:第三十四章参照、但し社会性の欠落した舎弟氏を評しての言葉]、元を辿ればこれは意外にも禅僧が抱く世界観コスモビスィオーンなのだと謂う。「――それってあくまで糞の詰まった袋って意味であって糞で外側コーティングされた袋ってことじゃないっしょ?」

「そのくらいにしておきなさい。というのもチヨさんや、今の我等ラ・サンチャの姉妹にゃ糞よりも復路の話こそが有用とは思わんかね?」

「いやラ・サンチャのヤケっ蜂が桃太郎の話なんかすっから」桃の話を始めたのは他ならぬ半坐千代である。「まァ胃袋の話が先でしょうな。食わぬ騎士は高楊枝を剣代わりにして戦う羽目になっから、すなわち腹が減っては負け戦ですよ」

「戦役以前に胃液の方が、まだ消化活動の真っ只中じゃなかったのかい?」

「ドニャキ殿はメモリアル効果をご存じですかな?」これも聴いた用語だがミコミコーナに否定されたのではなかったか?[訳註:第三十六章の食堂内にて、膀胱に蓄積可能な容量に関しての会話から発言されたもの]「一回空きっ腹にしてから一気に満腹にするのが末代まで胃酸を増やすコツでござい」

「やれやれ! その減らぬ口をいっそ口減ら――」ラ・サンチャの騎士は途中で言葉を切ると、一旦咳払いしてその場を繕ってから改めて言葉を継ぐのだった。「靴べらはあれど肝心の靴が無いのだな……」[訳註:両者とも備え付けの使い捨て履物で客室間を移動している]

「カードキー置いてきてるのでミコ姫起きてなきゃ勝手には入れませんのよ。さすがに一回部屋出るなら私も着替えまするが」従士は卓上もしくは床に立ててあった紙袋をふたつとも引き寄せた。「――れ、タオル一丁しかにゃあ?……ベラベラしゃべくるんのはお互い様ですから靴べら口に突っ込んで歯ブラシみたいな拷問は御免こうむりますぞ、そもそもこちとら普段は寡黙だし言葉遣いも滅法現代人なところをラ・サンチャの蜂がブンブンやかましいからノイズキャンセリング的な効果を狙って無理して仕方なくニャーニャーしゃべ……あっ一枚ミコさんに貸したままか。忘れんように返してもらわんと」

「おぬしが口に突っ込むとしたら靴べらよりも大匙か杓文字じゃろて」主人の方は既に出立の支度を整えてしまったようである。「だあから隙あらば穴蔵に戻るなと云うに、昨宵あれほど難儀したのも記憶のほかと見える……頭隠して尻掻くな、口もかもじも見えぬなら斯くして尻文字で答えようてか?」

「じゃあしっかり尻まで隠して忍法尻隠れの術ですよ」従士は布団の中でモゾモゾと蠢いた。件の尻掻き棒も今は手許にあるまい。

「言葉尻を捉えおって、こいつはとんだ真田十勇虫じゅうゆうむしだわい!」騎士は些か大仰に然程高くもない天井を仰いだ。「下の名は臭蔵くさいぞうに相違ない……道理でメガネザルトビニコ助殿とも親しいわけじゃ」

「頭の方をカラスコの糞で臭くしくさっておられたどなたかは丸一日以上雲隠れだったわけだが?」サンチョは田舎者らしき下卑た物云いを涼やかにしてのけた。「それにあの女の腐ったような子どもとは親しいんじゃなくて縁が腐れておるだけなのですじゃって」

「腐るのはおぬしの尻の方ではないのか?」ラ・サンチャは折り畳み傘の柄を握るなりくるりと回して見せる。「桃は冷やしすぎると追熟せぬばかりか傷みが早まるとも聞くぞ」

「お言葉ですがねえ、桃は……ちょっ、ありゃ?」ふたつの紙袋を続け様に裏返して揺さぶったかと思えば、中を覗き込んでは又もや甲斐もなく振り回すラ・サンチョ。「――タオルだけじゃなくえっハコの楽屋パスも一個しかねえってのはどうゆうこっちゃ……昨日出てくる時ドニャ先の分も回収してなかったっけ私?」

「お言葉も赤兎馬もないわ、――」騎士は階層を南北に貫く身廊ナーベへと通ずる扉にいち早く手を掛けた。「それ行くぞチヨさんちょ、アフリカの王女殿下がお待ちだ」

「ちょ待っ、着替えるから」深夜帯ならまだしも、部屋を引き払って出発する或いは朝食へと出掛ける他の宿泊客とも擦れ違うであろう刻限を寝間着のまま出歩くことなど、人並みの羞恥心を備えた半坐家の長女には少なからず憚られる様子であった。「その前にパスパス、パスガスバスパス……」

 ――ドシンプンバ

「――あっぶな!」窓側の寝台の上から身を乗り出した千代さんは、片膝を踏み外してあわや玄関側の寝台との間に出来た峡谷に転落するところを、自身の片手を即席の架け橋へと転じることで何とか切り抜けた。余り無理な体勢を取ると、又候またぞろ持病の筋痙攣ミオクローニア・クローニカが再発することであろう。冷や汗の滲む額をもたげると、こちらに背を向けたまま立ち止まる主人の小振りな尻の辺りが視界に入った。「……ドニャ様、昨日ヴォルフ閣下が間違って――」

 ――ガッチャンクラカック

「持ってきちゃ……もって」

「ミコミコーナは我等武辺者ぶへんしゃとも肌合う綺麗首をお持ちだが、かといってパダウンの首長族じゃあないんだぜ?」

「いやモモ」

「ほらきびきび動かんか」騎士は扉枠の外に一歩踏み出してから徐ろに振り向きつつ以下に続けた。「それとも団子がなくちゃお供も出来んかね?」

「きびだん……もも」両手を緩衝布団に突き立てた千代さんが伸びをする猫よろしく大きく上体を仰け反らせながら、「――腿ォォォオ!」[訳註:«¡Muslocotooón!»――西muslo《腿》とmelocotón《桃》で《モモムスロコトーン》]

 仮令次代の《山猫ないし豹紋山猫の騎士カバリェラ・ダルス・グパルツ・オ・リンクス》が不意に素っ頓狂な奇声チジード・デセントナードを発したのがある意味無理からぬことではあったにせよ、我々にとっては却ってこの一語こそがここ十数分の間どうにも腑に落ちなかったひとつの謎を、俄に氷解させる為の手掛かりとなり得るようにも思われたのだった。


千代さんが人前に出ても最低限恥ずかしくない装いを整えて遅ればせながら客室の外へと馳せ参じるや、進行方向に伸びる長い通路の丁度中央辺りに設置された自動昇降機乗り場の前でタジョを直立させて待つ紅紫陽花オルテーンスィア・エスカルラータの艶姿が見えた。

「……どうもお待たせ……また……もも」

「何じゃさっきから。それがしがモモならおぬしは灰色の時間泥棒猫だぞ?」流石は相思相愛の仲、想い姫とも発想が似通っている。[訳註:第三十二章は電視塔の下にて、安藤嬢が御子神の発言からミヒャエル・エンデを連想した件を指したもの。勿論主人を長々と待たせたからだ]「尤も道化モモの役はキホーテよりもサンチョの専売特許であろうがな」[訳註:西momoは一説に希神話に於いて皮肉屋で知られる神モーモスΜῶμοςが語源とされる]

「お言葉、関サバですがねえ――押してないんかい」従士は人差し指を突き出す。「ラ・サンチャのドンニャが居らん昨日の御前[訳註:第二十六章の市内観光出発前であれば午前?]会議で栄えある桃太郎の称号はモコモコーナ殿下に割り振られてんですよ?」

「モコ――ミコミコーナ様に?」

「第一貴女さまじゃあモモタローならぬモモハナコもといモモッパナでしょうに」繰り返しとなるが日本に於いてタロ《長男イホ・マジョール》はフアン、ハナコ《花の子イハ・デ・フロール》はロサ或いはフロレンティーナ、ついでにペレスに当たるのがヤマダ《山中の田圃アロサール・デ・モンターニャ》なのだ。典型的な日本人名とされるものの、実際の遭遇率フレクエーンシア・デ・エンクエーントロスは然程高くない。「ささどうぞお先に」

「かたしけなし」胸を張って籠の中に収まるドニャ・キホーテ。「桃と猿は了解したけどチヨさんは残りのどちらなのかね?」

「ドゥル姫さまがキジですよ」モモタローナは孔雀パボレアールという選択肢も提示していた。緑を基調とした華美な彩色を持つのが雄のみという点でも共通しているが、何と言ってもファイサーンは日本の国鳥アベ・ナシオナールである。

「成程あの御方を措いて貴人と呼ぶに相応しい御婦人は居らぬからな」

「そら貴女さまの方で――ああ、そっちのか[訳註:同音異義語の《貴人/奇人》は西faisán《雉》と韻を踏ませる形でそれぞれGuayグアイ-san《ステキさん?》とGayガイ-san《ゲイさん》に置換されている。つまり千代さんは「同性愛者は部長さんではなく先輩でしょ」と揶揄しているのだが、lesbianaをgayと一括りにすることに違和感を持つ人は少なくないだろう。即ち男性向けの呼称に女性の同性愛者を包括してしまうのは《男性オーンブレ人類ウマニダッ》と見做す前時代的な価値観に追従する姿勢である為相応しくないという考え方である。一方で《レスボス風レスビアーナ》という呼び名に嫌悪を抱く一派は、その理由としてこの言葉からは性的な意味合いが過剰に感得されることから却って抵抗があるという主張が語られるようだ]」従士は自分が猫ではなく犬に宛てがわれた件を敢えて省略した。「まァアンドーさんとどんどんドメガネやなメガネはひとまず置いとくとして、――」

「なんだっけソレ?」

「太古の昔より《すももももももももももも……》――アレ?……とにかく《内腿の上》と申します通り、桃ってのは原則ケツのことでございますからミコパイセンに限っては桃太郎よりもパイナッポー太郎とか……」

「あっ、ドメガネドラッグやなメガネ……何が何でも引っ張るのなピーチ野郎」

「――否、数量的にはアップルパイのパイン版てなことでパイナップルパイ太郎とでも呼ぶ方が名がパイを表すこととなり都合が宜しかろうと思うのですじゃ」

「お先にどうぞ」

「あっども」千代は十三階に降り立つと、後に続く主人が敷居溝レンディーハを跨ぐまで扉が閉じぬよう縁を抑えた。「――とはいえ桃白白ももしろしろと書いて《タオパイパイ》という単語が文脈にあったゆえ慎重派の私も殿下の襲名を渋々認めざるを得なかったのです」

「俄然得心が行った……色白の白桃太夫バイタオたゆうというわけじゃな[訳註:混乱を避ける為か西訳では«Pai-Tao-Taro»]」桃色ドゥラースノといえば慥かに日本人の肌の色に近いけれど、いつだったか日本人にとっての桃の色コロール・メロコトーンは黄色い果肉ではなく薔薇色の外皮――つまり桜花や珊瑚の色に類するような――を想定して認識されているという説明を付した憶え[訳註:第二十章か]がある。色白を尊ぶ彼女らであれば高級娼婦コルテサーナ[訳註:原義は《宮女》]よろしく着物の下の尻たぶにまで白粉ポールボを叩いていても大して驚くには当たらぬであろう。「慥かに果実の桃ならふくよかな御居処を思い浮かべるけれど、一転ネパールでモモといや丸い肉饅頭――」

「肉まん?」

「……蒸し餃子とか小籠包とか言うのかもしれんが、そういったもんを指すようじゃから臀部というよりは寧ろ殿下の豊満な乳房に近しいと云えんこともなかろうて」

「ギョーザってことは先端部にグリーンピースが?」昨晩女子会が開催された部屋の前に到着した。「……それはシュウマイだ。さすがに乳首が緑色じゃ爬虫類みたいだものな」

「蛇の乳首か。嘴があって卵を産む哺乳類も在ることだ――」カモノハシオルニトリーンコのことだろう。卵生動物アニマール・オビーパロといえばハリモグラエキードナもそうである。「長く生きれば出会えぬとも云い切れぬ」

「いくら桃色エロスのミコさんが誇るピンキッシュな乳首とて、死んだまま腐ったりでもすりゃゾンビさながら緑色へと変色するでしょうて」――コンコントク・トク。「……返事がない。こりゃ部屋ん中で死んでるか寝てるかウンコかオシッコしてるかシャワー浴びてるかの四つにひとつですよ……奴なら同時進行しかねん作業もないとは限りませぬが」

「泥棒猫が愚図愚図時間くすねとる間に痺れを切らし、既に出御しゅつぎょなされておるのやも」仮にそうであれば、サンチョは兎も角ドニャ・キホーテの随伴を所望するに違いない。「尾籠びろうな物云いは当面控えるのじゃあなかったのかな?」

「びろう?……びろびろ、ああ、いや日付変わったからとりあえずいいかなと」今月いっぱいは自重すると宣言した矢先に大幅な短縮が為された模様。[訳註:第四十五章参照]「もう女子校以外入学できませんわ。但しお嬢様校は除く……そもそも我が家にそんな財力も家柄もないが」

「浴びるといやチヨさん、着替えた湯帷子ゆかたびらは持ってこなんだのかね?」

「浴衣――用のブラ? そいやベッドの上に脱ぎ捨ててきちまいましたな」扉をもう一度叩いてから呼び鈴を鳴らす。「よく考えたらミコーナの部屋の使ってないの持ってきて数量調整しとかないとホテルの人に怪しまれるか」

「足りなきゃ持ち帰ったと思われるかもね」騎士は懐から板切れを取り出すなり、――

「したらほんまもんの窃盗犯つかお浴衣咥えたどら猫つかキャットウーマンつかガールつか、」――戸板の中段に開いた差込口アペルトゥーラへと徐ろに滑り込ませた。「色気の無さ的にキャットキッドにでもなっ――あっそっか鍵二枚貰ってたのか」――ガチョンクラックギギーーッチィーーール……囁くように、「おっはようございまぁぁぁ……ヤラセなし、世界の王室アフリカ編、お姫さま寝起き拝見でぇす」

「差し詰め朝這いじゃな」

「畳じゃねんだからハイハイはしませんがね。は~い黒い猫耳付き全身タイツの似合うセクシャルな、かつハラスメントなレイヤーさ~ん……一応撮っておこう何かに使えるかもしれん」赤い録画印を押下した携帯端末を翳しながら突き進む。「あんらやだガチで熟睡しておられる……これで布団引っぺがして裸の男とか出てきたらシャレにならんですよな」

「飛び出てくるのは桃太郎かもしれんぞ」――シュッラス。[訳註:燐寸を擦る音。ここでは室内照明の点灯を表している]

「プリケツから、産み立てかよ」掛け布団の裾を掴む従士。「おばあさんが桃を包丁でめった刺しにするとあら不思議、中から玉のようなかぐや姫が――」――バサァッフラァップ

「何?……さむ」御子神嬢が先刻の千代さん宜しく寝台の上で身を縮めた。

「一姫も二太郎も漏らしてはないようですな……」白い敷布には破水した形跡も認められなかった。「しかしシャネルの五番以外を着て就寝するようじゃマリリン・モンモタローの名が泣きますよ」

「誰だそれ……わ――ぁぁぁぁ、っと、まぶっ」ギネア王女は片手で寝起きの顔を覆いつつ以下に続けた。「五番はアソコ・シャネルがナチスのスパイだから不買運動してんだよ」

「あそこ?……どこ?」

「ここ」ドニャ・キホーテが代わって返答した。[訳註:翻訳では「ロコシャネルが」「狂?……何が狂ケ・ロコ?」「おつむココ」と改変されている為、自然と花が自身の頭部を指し示したような印象を与える一場となった。尚、愛称のCocoはガブリエル・シャネルが歌手時代に持ち歌としていたふたつの楽曲«Ko Ko Ri Ko»と«Qui qu'a vu Coco dans l'Trocadéro?»に由来するというのが通説だが、これは男女問わず相手を呼び掛ける際に用いられる。対して西locoは男性形であることから、これは服飾意匠家デセニャドーラ自身ではなく姓のChanel――古仏語で《運河、用水路》を意味する男性名詞、現代仏語ではchenalシュナル――に掛かっていることが分かる]

「じゃあココイチの香りでも纏って寝りゃいいでしょうが」ココイチバンヤとは日本を代表する咖喱屋カサ・デ・クーリ連鎖料理店カデーナ・デ・レスタウラーンテスで、店名を直訳すると《此処が最高アキッ・エス・ラ・メホール!》になる。咖喱粉クーリ・エン・ポールボは我々も日常的に世話になっている調味料だ。「酸っぱいは腐ったニコニコーナで塩っぱいはこちらのドニャドニャーナ様で、アンタはただのどでかいオッパ――」

「ちょっ頭に響く……二日酔い」

「さよう、カレーは二日目が良いと聞く……」

「カレー沖海戦からは三日目ですかな」本日は新暦の八月九日である。

「――ですってさ」日本語では波揺病マレーオのことを《航海の酔いエンブリアゲース・デ・エンバルカシオーネス》と呼ぶのだ。[訳註:西mareoの語源は《マレーア》だが、船だけでなく車酔いも含めた動揺病全般を指すのだと謂う]「これ以上――」

「尤も戦妹神ベローナの加護賜りし陛下の指揮の下ならばシャネルの碁盤だろうが伝令神エルメスの将棋盤だろうが、陸海空の如何なる盤上その局面にあれども積荷を除けば詰むことなどありはしまいが」

「はいはいそいじゃアタイ用の猫の慶長小判もビトンすなわち美しい豚に真珠付きのヤツで頼みますぞ」因みに巨匠広重マエーストロ・イロシーゲの『東海道五十三次』には起点である江戸の日本橋と終点の京都三条大橋を含めて五十五図の浮世絵が収録されている。[訳註:世界最大の服飾企業体である仏LVMH Moët Hennessy Louis Vuittonより、LVが羅数字で55を指すことを捩ったものか]「さァ、これ以上寝かせとくとさすがにそろそろ腐り始めますぜ」

「メガネといっしょにすな」

「でも……」従士が鼻を鳴らした。「酒の匂いはともかくカレー臭はあんましませんね」

「いやあの後ちゃんとシャワー浴びてるわ」義姉妹の中で唯一人の成人女性ムヘール・アドゥールタは掛け布団を引っ手繰るようにして取り戻すと、「腐らせんためにも適切な冷蔵保存をば……」

「何だクーリングオフですか」

「送り返すな……せめてコールドスリープと云えよ」

「ちょっ、この人結局ワインもう一本空けてるよ!」

「なあに中身が葡萄酒じゃ、残っておってもモロトフ混合酒コクテルにゃなるまいて」成る程、着火して投げ付けたところで火酒ボートカのように燃え上がりはするまい![訳註:慥かに醸造酒では気化する酒精もごく少量なので火を近付けても然程の危険はないだろうが、そもそも火炎瓶の中とて本物の蒸留酒が仕込まれているわけではなかろう。燃費が悪いし勿体ない]

「開けただけじゃなくて夜明け前にモロ……しっかり空けてるよ!」屑籠の外に並べられた瓶を逆さにして呆れ声を上げる従士。「こりゃとてもとても、うちのドンニャにおはようからおそようまでのチューはさせられませんな」

「あっせや、最重要な恒例行事を忘れるとこだった」

「これだけ血中濃度が異常に上昇してたらきっとアルコールが皮膚からも滲み出てんだろうし、ラ・サンチャの騎士は未成年なのに万が一それを口から摂取しちゃったら今日これから路上でポリスメンに抜き打ちで呼気検査とかされた時に陽性になって前科持ちになってしまう」千代は眉を顰めつつ二本の葡萄酒瓶を壁際に並べた。「従者としては見過ごせませぬ。少なくとも私が故郷で騎士の叙任を受けるまでは綺麗な身体でいてもらわんと」

「相も変わらずこんな朝からようしゃべるなキミも。さっき尿と一緒に全部排出したから無問題だよ」となると先の二日酔いレサーカ[訳註:語源は《蒸留するレサカール》]は仮病か。「わらわもこげな早よから贅沢は申さぬ……おやすみン時と同じお手々への接吻でかまいませんことよ?」

「いっそ飼い犬ならぬ飼いフェンリルに手を噛まれるがいい」

「るせえぞ金魚の脱糞めが、ハナちゃんの歯でなら噛まれても構わぬ……後で舐めて消毒してくれさえすれば」

甲斐犬かいいぬ[訳註:慣用的には《かいけん》と読ませる]は別名《虎犬とらいぬ》とも言うから、虎猫かつ桃太郎の犬たるチヨさんの方が適役じゃな」

「イヤですよって、何がどうなってペットこれすなわちタイガーになるんですの?」千代さんは牙を剥いて抗議した。「ドバイの石油王の基準でモノを考えたらイケませんぜ」

「だって《甲斐の虎》とも謂うじゃないのさ」

「いやでもこいつ破傷風のワクチンとか接種してないだろ?」あれは犬猫ではなく人の方で打つべきものである。「そうじゃなくても雑食サンチョの唾液は雑菌だらけだろうし」

「そのたわわに実ったパインだかメロンだかってんならともかくパイセンの骨張った手羽先なんて不味そうなもんにこのサンチョさんがかぶりつくわけねえだろ」

「サンチョは買い取らないけど、ドニャ様かドゥル姫なら高値で買い取りタイガー……三食添い寝付きでどうかな?」

「アンドーさんもう帰ったよ多分今頃バス降りとるわ……ドニャ・キホーテ、我々はどうやらお邪魔虫のようです。放っといてもう参りましょう」従士は靴を履き替えながら以下のように吐き捨てた。「ミコミコーナ殿下はお布団と結婚し、人生の墓場という言葉通りにこのベッドを棺となされて永遠とわの眠りに就かれるご様子……バンパイヤが棺桶をベッドにするのとアベコベなのはバンパイならぬ万人にパイパイを売ってる淫売屋だからに他ならねえ」

「いくら変態とはいえ中学生の口から《淫売》なんてワード聴くのお姉さんショックだよ」

「ほな、バイバイや」猫の従士はわざとらしく退室する素振りを見せた――というのもこの時彼女は一等嵩張る車輪付きをまだ手に取っていなかったし、窃盗罪を疑われぬように御子神が借りていた部屋から寝間着を一着こちらまで持ってこなければならなかったからなのだが――ものの、花蜂がその動きに追随することはなかった。

「昨夜と同じでは芸がありますまい……失礼、」片膝を折った騎士は、驚いたことに王女が脚部を覆っていた布団を嫋やかに捲り上げた。

「――おっと?」

「今度は御御足に口付けいたしましょう」大胆にも裾から食み出した貴婦人の踵にそっと手を添えると、ドニャ・キホーテはゆっくりとその花の唇を近付ける。

「ちょまっ、きゃん!」思わず跳ね上がるように立ち上がるミコミコーナ。

「手に夜で《手寄たよる》、或いは《たすける》……」徐ろに起立して頭上の尊顔を拝しながら、平然と且ついけしゃあしゃあとコン・ス・メンテ・エン・クラーロ・イ・クラーラメンテ以下の如く嘯くのだった。「今はもう日が昇っております故足に日で《足日たるひ》、即ち殿下の佳き日を願ってのことでございます」

「そ、それは願ってもなきお心遣いながら――」

「なんで今更ヒヨッてんの? ミコさん水虫なん?」

「違うわ……いや単純に、上の下くらいの奴ならまァいいけど男でも女でもさ、自分より顔の良い子にアシとかア――とか舐めさせるんは慎ましきミコミコーナの心が痛むんよ」

「アって何やねん」けだし[訳註:《ピエ》に対し]敬愛の情ピエダッであろう!「いや誰も舐めるとは云ってねえしっつか、ブスブサイクに足舐めさせるのはええんかい」

「舐めた口を利くなよ。醜い奴に舐められるのは単に気色悪いだろ」

「旦那ャ様よ、こんなルッキズムの権化にドニャ・キホーテの接吻はもったいねえ」卓上に置かれた残りの菓子袋を手に取ってガサガサと恐ろし気な音ソニード・アテラドール・コモ・クロンチ=クロンチを立てる猫の従士。「いっそ節分の豆でもぶつけてやりゃ寝惚けて曇ったその目子まなこもちったあ開くでしょうや」

「あ?……ああマナコか」

「ナマコじゃないよ」

「鬼ではのうて桃太郎に豆を投げるのかね?」

「さっきから何なんモモタローて。今日は名鉄の代わりに桃鉄でも乗るんか?」[訳註:昨夜《四匹の猫クアートロ・ガータス》が乗車した地下鉄は市営であり、名古屋鉄道が運営しているわけではない]

「いやまァそこは別に広げなくていいんだけど桃ケツって言うな」千代は傍らの主人の腰より下を横目に見下ろしながら、「……桃太郎とかドラゴボ――ちが、西遊記とか、ルパ~ンさ~んせ~とかって話を昨日昼間に下のロビーでしてましたなってだけの話」

「あ?……ああ、メガネザルの猿繋がりみたいなヤツだっけ?」御子神嬢は寝台に四つん這いとなったまま、持ってきた荷物を引き寄せた。「日帰りのつもりで出てきたからクソみてえな着替えしか入ってねえんだが……」

「ってもいつまでもパンイチブラニじゃさすがに風邪引くぞ」

「いや上は一応着てるやろがい……え、ハナちゃんは何だっけ桃太郎の?」

「つかあん時おらんかったし……」丁度《死せる山羊ネクロカーブラの兜》の内側に金一封ソーブレ・コン・ウン・ビジェーテが貼り付けられていたのを発見した直後のことである。「太郎も悟空もルパンも基本四人編成でしょう」

「ルパンでは五エ衛門に決まってただろ」

「ドニャえもんだなどっちかってえと……でもそうすっとサル顔とバスト99は確定だから私と部長さんで帽子の人の役を奪い合うことに」

「あの時お前云ってたじゃんレンちょんにはオカマ化の呪いでヒゲ生えちゃってるって」

「ああそうか」

「何の話です?」

「サンチョはとっつぁんだよ」[訳註:第二十六章を読み返すと早撃ちの次元大介役は安全帽を被っているからという理由で千代に割り振られたが両者とも失念している模様]

「やだよとっつぁんは……」Tottsanとは《おやっさんパピ》(パードレはTō-san)、つまりルパン一味を追う国際刑事警察機構所属の警部インスペクトールである。「カレー臭どころか魚の方のカレイ臭すらしそうじゃんよ」

「生臭いんだ……煮付けとかにしろよかぐわしいだろ――よっと」王女は手鏡を出して自身の肌艶ブリージョ・ファシアールの状態を確かめる。「きっつ……猿芝居も終わったことだし猿縛りも百日紅さるすべりももう要らんだろってえっ、チェックアウト何時だっけ?」

「まだあと三四時間あんよ」

「はっや、早起きは二束三文すぐる……いやここはそんだけハナ様とご一緒できる時間がながまったと考えれば二速発進の……三毛作で……リアップ並みのフサフサに……」御子神さんの脳はまだ半分眠っていた。「――てことは飯とか食いに出てもまた戻ってくんな。キャリーとかでかい荷物はその後でも頼めば夜までここで預かってくれそうだけど」

「あっそだ、バス」千代は出合い頭に礼を云おうと考えていたのをすっかり忘れていたようである。「予約ありがとうございますた」

「おう。乗らないんだったらアシが乗って帰ろうと思ってたんだけど」

「ミコさん車は?」寿司屋付近の駐車場に駐めてあった軽自動車ベイークロ・ケイのことだ。

「あっそうだ奴んとこ置かせてもらってたんだ無理だわ」麗しき糞袋ボールサ・ベジャ・デ・ミエールダドン・カルデーニオの宿所は概ね東京名古屋間の中間地点だけれども、途中下車できる停留所には指定されていなかろう。「……いやもうマイカーは奴に休み明け運転して帰ってきてもらおう。俺は騎士様とバスで帰るからサンチョはゆっくり歩いて帰ってきな」

「いや歩くくらいならママチャリ漕いで帰るわっつか明日までに帰らなきゃならねえの私だし、一番最優先の人間置いて何でアンタらだけで先に帰るねん」

「追試だっけ?」

「追試じゃねえよ模試だよ」女子大生の夏期休暇はまだ当分続きそうだし、女子高生に至っては不登校なので後期の始業式に出席せねばならぬ必然性も(今のところポル・エル・モメーント)ない。「まあシャルロッテとイポさんをどう運ぶか問題は未だ解決する気配もないんですががが」

「毛生え薬もな」不意にドニャ・キホーテが口を挿んだものだから、姉と妹は何と返答したらいいものか暫く口を噤んだ。[訳註:直前の「不本意ながらア・コントラペーロ」から「毛生え薬クレセペーロ」へと繋げている。西contrapeloの原義は《毛流れペロ逆らってコーントラ》。ふたりが花の唐突な髪切りの謎について未だ本人に問い質せていない現状を踏まえて]「無い……続けてくだされ」

「な――や~み、む~よ~お」

「……じゃあサンチョひとりで今晩帰んなよ」

「ん? その心は?」

「代わりにオイラがお前さんのチャリ乗ってさ、ドニャキのお供して静岡プリフェクチャまで行っからさ」ミコミコーナが突然本気とも冗談とも取れる提案を物した。「……んでもって焼津の奴のアパート着いたらアタイのランボルギニーちゃんに――」

「¡Lamborguinea!, ¡toro bravo de lidia!」

「そうランボルギニア、に二台とも積んで東京まで……三茶だっけ?で下ろしてやんよ」

「殿下アンタ簡単に言うけどさ、こっからその焼津やいつやつさんのアパートまで何万キロ、地球何周分の距離あると思ってんですか?」

「た、単位おかしくね?」

「市を跨ぐ度にお尻がパックリ割れて、到着するまでに何人の桃太郎が出産されることか!……殿下にそれだけの太郎を養っていく自信がおありか?」

「どうでもいいけど二人目以降は桃次郎桃三郎なんじゃねえか」

「どうでもいいなら黙らっしゃい!」千代は手慰みにしていた菓子袋を、大きな音を立てて遂に開封してしまった。「だいたいお風呂屋さんとこに駐めてあった車っしょ? 馬二頭も載せらんないってな話じゃなかったです?」[訳註:第十章の銭湯内にて、自転車の積載が可能か否かを訊ねた際にも即答で否定されている]

「馬は無理だが後部座席に無理矢理突っ込んで……もう一台はホラ、サーフィンのボードみたくルーフキャリアか何かで」乗用車の屋根上に取り付ける自転車輸送装置ポルタビシクレータスのことだ。生きた馬匹を運搬するとなると、本来動物愛護と安全性の観点からも幌の付いた専用の車両を使用すべき場面には違いないけれど、自ら風を切って大陸を股に掛ける《快速エル・アリーヘロ》と《軽快ラ・アレーグラ》の両者ならば高々秒速十から二十パッススという鈍足が呼び起こす程度の風圧など取るに足らない負荷であろう。「高架橋とかの車高制限さえ気ぃ付けて走れば……いやそれもう普通に郵送した方が安上がりじゃね?」

「云ってんじゃん。まァ宅急便とかだと一台一万は確実に掛かるみたいですが」高尾駅付近に居を構える運送業者の出張所では、八王子市から三軒茶屋のある世田谷区まで――つまり東京都内での輸送でさえ一台あたり一万から一万五千円を要すると教えられた。尤もあの時点では当の中学生も、まさかあれから一週間掛け自転車で一都三県を踏破する羽目になるとは夢にも思っていなかったに相違ない。[訳註:第五章参照]「ママチャリは」

「ドニャ様のって分解可能?」

「分解……解体、――」

「はい! ターヘル・アナトミア!」

「いや解剖ですかな?」[訳註:《分解デサルマール解体デスモンタール解剖ディセクシオナール》。尚、西desarmar/desmontarにはそれぞれ《武装解除させる/下馬する》の意も]

「何でもないでした」言葉は慎重に選ばねばならぬ。「トラックをレンタ……本末転倒だな。転倒事故だな」

「そげなこったから、ピチピチビッチは独り寂しく電車とマイカー乗り継いで牛の歩みで帰っておいで」

「イヤな奴だな……そこはピーチじゃなかったのかよ」

「いえパイセンはケツよりやっぱチーチの印象なので牛魔王とかのがいいんでないかと、さっきも国連安保理で話し合われてたんですよ」

「牛魔王一応オスだと思うんだけど」オスボルネの牡牛トロ[訳註:ヘレス酒の醸造会社Grupo Osborneによりイスパニア全土の主要道路沿いに点在する形で設置されている黒一色の巨大看板]が垂らす一組の睾丸ならば大きさの面から見ても見劣りはするまい!「ドニャのロードレーサーは――」

「だから牛魔王の娘」

「うるせえ――中古でもそれなりの値段で買い手付きそうだけど、サンチョのはいっそ乗り捨てて東京で新しいの買った方が安いまでありそう」

「否定はせんけども……ちょちょちょ服着た後にどうしてまた布団に潜る!」

 従者の常識然とした物云いにドニャ・キホーテは思わず噴き出したが、直ぐ様軽く咳払いすることで取り繕った。

「いやっぱハナたそと朝チュンするシチュとか今後あるか分かんねえから折角だし白雪姫的な起こされ方されとかないと損かなと」

「損かなじゃねー。あと《ハナたそ》って鼻くそみたいで失礼だぞ」調べてみると人名の後に付するこの«-taso»というのは敬称«-san»の転訛バリエーンテ・コループタなのだそうだ。「ねえ?」[訳註:翻訳では鼻糞の代わりに「《私がドニャ・ハナを鑑定するジョ・タソ・ア・ドニャ・アナ》みたいで~」]

「ハナ……そ?」騎士は首を傾げる。「トルクァートなら疾うに筆を折った筈だが」

「ね」

「いやお前のが失礼だわ」白雲姫ブランカヌーベスないし白き新ギネアブランカヌエバギネーア九人の小人ヌエーベ・エナニートスを所望する以上の難題をサンチョに突き付けるのであった。「じゃあ何か面白い、面白雪なこと云って。笑えたら大人しく起きるわ」

「たやすいわ」千代さんは王女を覆っていた布団を引っ掴むと、「フ――」

「――トンが吹っ飛んだ以外でな」

「――トンが……沸騰した」

「固体が沸騰はせんだろ」

「うん……いえ、」懐かしげに天井を見上げながら、「うちウォーターベッドですねん」

[訳者補遺:翻訳では以下の通り。「盗めロバ・ラ――!」「――白布をロパ・ブラーンカ?……それからイ・ケ・マス?」「――でないとオ・テ・ケーダス……文無しのままよスィン・ブラーンカ」「私が文無しのままならどうするメ・ケド・スィン・ブラーンカ・イ・ケ・バス・ア・アセール?」「黒服を買うコンプラール・ロパ・ネーグラ」……多分行き倒れた故人の葬式に参列する為であろう。西語の«ropa blanca»は寝台用の敷布サーバナから卓布マンテール、浴室に置く各種手拭い類に至るまで白地の綿製品全般を指す他、女性用の下着レンセリーアの意味も併せ持つ言葉]

「へえそうなんだ」

「潜るな潜るな、白けんな」

「いや急に寒くなってきたので……もしか今そと雪とか降ってる?」亀のように頭だけ出す御子神嬢。直ぐ鼻の先に屹立する一対の美脚を前にして、「ドニャ様もそんな生足モロ出しにしてっとモ……腿ォォォオオ!」

「おっっっ――せえなッ!」咀嚼しながら、「さっき一枚どっか逝った思ってめっさ焦りましたやんか一緒にしといた筈なのに」

「いやあ眼福ですわありがたやありがたや……」日本人が祖霊の仏前ラーピダ・ブディースタ御神体オブヘート・デ・クールトの前でしばしばするように両手を重ね合わせる信心深いミコミコーナ。「アシ太腿だけはどっちかってえとムッチリ派だったんだけど、こうして見るとほっそいのも二次元的なエロスがあるな」

英雌エロイーナ?」

「エロい~なエロい~な」布団を被ったまま、今度は焚き火にでも当たるかのように両掌を裏返した。「ジュルリ……ヨダレ誰よ」

「……まァ片方しか無かったら返しに行く話も振り出しに出来たんだが」

「こんだけ似合ってんならもう借りパクしちゃっていい気がしてきたけど」ランボルギネアは漸く自ら掛け布団を撥ね除けて寝台の上に仁王立ちとなった。「目が醒めたっす。夜まで他にやることないしな……名古屋の観光名所は百割方見て回っちったし昨日」

「桃が居てもサル不在じゃ鬼ヶ島も天竺も辿り着けんだろしのう」

「天竺は桃関係ないだろ」

「パイパイ出てくるやん」

「それ違う方の悟空じゃねえか。目指してたのは天竺じゃなくて天下一武道会だぞ」

「『西遊記』にも蟠桃ばんとうが出てきますな」我が国ではパラグアイ種とも呼ばれる平たい桃ドゥラースノ・プラーノのことである。「斉天大聖こと孫行者は果樹園の番を任されながら、不老不死を齎すこの桃を粗方食い荒らしてしまうのです」

「ああ、桃源郷とかいうもんな」これは《桃の花の地ティエーラ・デ・フロール・デ・ドゥラースノ》等と訳される非在郷ウトピーアだ。「昔園児の時テレビで天体望遠鏡ってワード出てきて《変態桃源郷って何だ?》って真面目に親に訊き返したのも今ではヤな思い出です」[訳註:「《東京の群衆ウン・ヘンタール・デ・トーキオ》という言葉を聴き違えて《性器の桃源郷ヘニタール・トゲーンキオとは何だ?》と……」。但し、西gentalを《大勢の人々ウン・ヘンタール・デ・ヘンテ》以外の形で目にすることはまず無い]

「その若さで病院連れてかれなくてよかったですね」

「耳の? 頭の?」

「あれ?……百股ひゃくまた掛けてたラドンが守ってたのも桃の園でしたっけ?」エスペーリデスの竜は百の頭シエーン・カベーサスを有したと謂うが、セウスとアルクメーナの子でもあった彼の高名なる盗人ラドローンに大切な林檎のみならず恋人までも奪われたという過去の有無については又新たに別の文献を当たってみる必要があろう。[訳註:直前の千代の台詞が《百本の角を生やしたデ・シエーン・クエールノス》となっている為。《角を生やさせるポネールレ・クエールノス》とは不貞を働くことで配偶者や交際相手を鬼ないし般若の形相へと変貌させる所業を指す。《角が百本》は換言すれば浮気百遍か]「たしかヘッペ……ヘッピリデスの――」

「屁っ放りヒップですはお前だろ」

「お言葉だけど私もう三年以上人前で屁はこいてないよ」

「透かしても含めなさいよ」

「成程百枝ももえに伸びた鎌首というわけさね」従者の記憶違いを騎士は敢えて訂正しなかった。というのも黄金の林檎マンサーナ・デ・オロ甘橙ナラーンハを指すという俗説があるならば――事実《柑果エスペリーディオ》といえば柑橘類フルート・シートリコを意味するではないか?――、それが桃であった可能性を探るのにもそれなりの論理性が見出だされたからである。[訳註:本稿に於ける果樹園の番竜ラードーンの初出は第八章]「《オランジュの林檎》同様、マールム・ペルシクムといやあ是則ち《ペルシアの林檎》だろうし、桃にだって黄桃だの黄金桃おうごんとうだのといった品種があるようじゃからの」[訳註:西naranjaと英orangeは同語源でアラビア語のنارنجナランジに由来。共に原産地は中土とされるが、甘橙が初めてイベリア半島に持ち込まれたのは回教徒の侵略時とのことだから、欧州に伝わった順で言えば桃の方が千年前後先となろう。因みに南仏プロヴァンス地方に位置する街Orangeとの類似は偶然で、花の云う《オランジュの果実りんご》も厳密には地名を指したものではない]

「今は亡き猿が死んだ今、どっちにしても桃はもういいんですけど、」千代は改めて主人の細い片腿を注視する。「……それはそのままでハコまで行きます?」

「サンチョじゃガーターリングっつよりスライスしてないギフト用のハムにラベル貼っ付けたみてえになんだろしな」腿肉ハモーンと聞いて豚のムースロからマノを残した足先パティータまでを含む脚部ピエールナ丸々一本を思い浮かべる日本人は少数であろう。「じゃも一枚はミコミコーナがオソロで装備してこっかにゃ?」

「そんな恐ろしいコスプレ行脚、ハンムラベル法典が認めるか!」

「《目には目を、腿には腿を》――とな」

「あたしゃ食えないモモには興味ありませんよ!」

「桃を食らってももクラにでも加入するつもりなのか」

「何の略だよ、ももいろクラブZか? 会員制のゼット指定なお店なのか?」

「Zて、RでもXでもなくてZなんだ……それはヤバそうだな」

「ふむ……《ももを割いて腹に充たす》とは好くぞ謂ったもの」何たる永久機関ケ・ティポ・デ・モービル・ペルペートゥオ! 嗚呼、自分の息子ス・イホを食らったサトゥルヌスでも空腹を満たす為に自身の気取り屋ス・ピホ[訳註:隠語としては《ピト》の方が馴染み深い。少し前に著者が《生殖器ヘニタール》という単語を使っていることを思い出しておこう]を頬張るくらいならせめて連れ合いの無花果イゴ・デ・ス・パレーハねぶることを選んだ筈だ。接尾辞スフィーホ付きなら差し詰め娘騎士カバジェリータのキホーテ、従士が再び持ち運んだ紙袋の中に手を突っ込むと残りの通行証パセを手に取った。「おぬしの云う通り、猿股穿かねばマタタビも儘ならぬとあっては猫のサンチョも帰郷するまで猫まんまの食い上げだ」

「いやマタタビはご飯じゃなくて酒みたいなもんでしょ……散々酔っ払いの醜態を目の当たりにしてもなお同じように酔っ払いたいたあ思いませんわ」

「サンチョはシラフでもラフプレーが目立つものな」[訳註:「素面ソーブリアでも酔いどれエーブリア然と振る舞うものな、影の/日陰者の姪っ子ちゃんソブリーナ・デ・ラ・ソーンブラ」)

「常日頃から半分裸婦みたいなコスで人前出てるレイヤー姫に云われたくなか」あの白装束が宇宙線ラージョス・コースミコスの関係で透過されてしまったのか、若しくは奴隷水着トラーヘ・デ・ビキーニ・エスクラーボを纏った場面の姫を想定していることが窺えよう。[訳註:「胎生期ファセ・エンブリオナーリアから変わらぬ衣裳で」……要は生まれたままの姿でと同義だろうが想像するとより生々しい。《レイヤー姫》もご丁寧に«Princesa (Cosp)Leia»と表記されている]

「ハンラ・チヨにそんなん云われる日が来るとはな」

「ハンラ・チヨではない」彼女の姓は《半分裸メーディオ・デスヌード》ならぬ《半分座ったメーディオ・センタード》なのだ。「ブクローマのゼンラの戦いにも参戦してないし」

「言っとっけどネットに上げてんのってコスイベとか撮影会じゃなくて個人のスタジオ撮りのとかだかんな」撮影機の前には立っても、衆人環視に耐えながら被写体となっているわけではないらしい。「露出狂みたく云いなさんなよ」

「コスプレにイベントもイベリコ豚もないでしょ」

「ハムから離れろ」余談だが著者は塩漬け腿肉ハモーン・サラード催し物エベーント一本の骨付き熟成腿肉ウナ・ピエーサ・デ・ハモーン・ボデーガ・コン・ウエーソの仮装をした役者を目にした経験があるが、あれがイベリコ豚なのか白豚セールド・ブラーンコだったのかまでは憶えていない。「そんなハムが好きなら北海道にでも飛ぶんだな……ここは竜の仕切る街だぜ?」

「竜?」

「北海道て牛のイメージあるんだけど。ハムって豚肉でしょ?」前肢であれば肩甲骨肉パレータと呼ばれる。「豚ならやっぱ九州じゃないんか」[訳註:生産量でなく産出額を基準にした場合は肉食牛に於いても鹿児島県が北海道を抑えて日本一なのだとか]

「知らんけど、日本の豚はスペインみたくドングリもクリも食わんだろあんまし」

「今度はモモクリかよ……まァ豚も白黒よりピンクよね」豚の絵に色を塗ってごらんと言われれば、我が国のしんちゃんも日本のしんちゃんもその多くが薔薇色の蝋鉛筆クラジョーン・ロサを選ぶだろう。「――あそっか分かった。ミコさんが桃なら私が栗で、ドニャ・キホーテが柿の騎士としましょうか今日は」

「カキはどっちかってえとサンチョじゃないの?……シブガキ」

「デブガキと呼ばなかった一点のみは評価に値する」半坐千代が彼の回教騎士アビンダラエスも認める麗姫たちハリーファスの仲間入りを果たした功績が偏に往路の強行軍に帰するのだとすれば、帰りを長距離乗合自動車の四輪に任せ一夜にして踏破してしまうことが果たして英断であるものか否か、模擬試験に間に合わせる為に期限を切られていた背景を無視した場合に限り検討の余地があったものと思われる。「柿がこちらなのは旦那ャが蜂の騎士でおられるからに他なりません」

「ああなるほど……で?、お前が栗なのはサンチョだから?」

「まァそれと一応、中三だしということで」桃と栗は種蒔きから収穫までに三年を要するが、柿は八年掛かるという、比較的人口に膾炙した日本の諺である。「ミコさんが三年生かどうかは訊かないでおきましょうもしか繊細なトピかもだし」

「別にダブったりはしてないけどな。あと浪人も」

「因みにネパールにはモモマンというイチゴ大福みたいなスイーツがあるそうですが、」騎士は《モモという名の蒸し肉饅頭ボージョス・デ・カールネ・アル・バポール・ジャマードス・モモ》と云ったつもりがどうやら《桃の入った饅頭ボージョス・レジェーノス・デ・メロコトーン》と聴解されたらしい。「――太郎がご不満ならモモウーマンとでも名乗るがよろしかろう」

「ももクロというか白黒で思い出したけど――」何故《白と黒》が呼び水となったかといえば、勿論昨朝食したシロノワール乃至クロブランシュ――《白い尻クロ・ブラーンコ》又は《黒い穀倉スィロ・ネーグロ》――を連想したからに違いない。「朝飯どうすんの?」

「あ?」

「いくら名古屋発祥っつっても二日連続でコメダ行くこたないわな……あっでもドニャキ殿は行ってないか」[訳註:行っている。第二十七章冒頭からを参照のこと。千代たち四匹の猫の朝食は第二十四章後半に描かれている]

「てか二日酔いで朝ごはん食いたいのか?」

「正直あんまり」御子神嬢は冷蔵庫に手を伸ばすと中から飲料水を取り出した。「さっきからサンチョがモモとかリンゴとか、イチゴ大福とか食いもんの話ばっかしとるから」

「ハムとかビーフとかって?」

「――てっきり飢えとんのかと……じゃあ朝マック?」

「いや殿下が男に飢えとるのに比べたら」それは同性肉欲挟み麺麭オモブルゲーサについても同様であろう。[訳註:西hamburguesa《肉挾み麺麭ハンバーガー》に対する千代の「殿下が《男性挟み麺麭マンバーガー》に飢えてるのに~(hambre de hombreguesa)」からのhomoburguesaで、ここでのhomo-は女性同士――つまり花や安藤さんに向けられた冗談交じりの劣情を揶揄したもの]「今から植えても食えるのは三年後ですからな」

「三歳児とかショタコンにも限度があるだろ」種を蒔いてから数えた場合、芽が出るまでに十箇月を要する筈だから殆ど二歳児だろう。浴室から戻ってくるミコミコーナ。「そっから育成すんにしたって光源氏パイセンもまっつぁおだわ」

「源氏パイ……うなぎパイまだ残ってたか」絨毯の上に置かれた車輪付きに目を向けたついでに玄関側を振り返って、「顔作んの早ッ!」

「サンチョがケツケツうるせえからめっさ充血しとる」

「ケツがですか?……スパンキーング!」

「アタシ昨晩この部屋でどんなプレイしくさってたんだよ……独りで?」

「何だっけアレ飲めば?……牛丸の、朝帰りしたパロミさんが飲んでたトマジューで割ったの」酔い醒ましに好いという混合酒である。岡崎の女王はその中へ更に生卵を投入していた。[訳註:第二十章参照]「レッドブルか」

「レッドアイだよホラ見てみ……流石にレッドブルトマジューで割ったことはないわ」王女はもう一度冷蔵庫を開ける。「トマト重いからリンゴジュースとかのがいいな……酒以外も買っときゃよかった。お茶もないのか」

「ウコンは?」荷物の整理をしながら千代さんが付け加えた。「そいや白雪姫もポリコレ入る前のオリジナル版だと王子のキスというか、王子が口移しで飲ました下剤でお腹の中の毒リンゴ全部排出させて何とかなったってオチだったらしいですよ――ね?」

「それはそれがしに訊いておるのかな?」

「嘘だとは思うけど今のでリンゴもウン――コンも飲みたくなくなったわ。せめて姫の口ん中手ぇ突っ込んででも上から吐かせるって選択肢は選べなかったのか」

「いや物語の時間経過的にもう消化しちゃってるでしょ。時すでに遅いよ」

「消化吸収されてたら下から出すのでも遅いと思うが」上からであれ下からであれ、折角生還したところで白雪姫の寝起きは最悪ペオール・デスペルタールであろう。何せそれが寝台の上半分であれ下半分であれ、白く清潔な敷布がかなり広範囲に汚物の色で染まっているのだから。「つか下剤飲ませるだけなら王子要らんやん。小人がやれよ七人も居んだから」

「きっと王室御用達の高価なビオフェルミンだったんでしょ」

「ビオフェルミンは下剤じゃねえよ別に」これは乳酸菌を配合した整腸薬で、便秘にも一定の効果があるとされる。「あと錠剤を口移しで飲ませる意味も分からねえし……つか旅先で持ち歩くなら正露丸とかにしとけよな王子も」

「それだと近付いてきた時点で臭くて目が醒めちゃうってか蘇生しちゃうでしょ」こちらの商品名は《露西亜を征服する為の丸薬パスティージャス・パラ・コンキスタール・ア・ルーシア》を意味し、日露戦争中――ロシア革命の発端となった血の日曜日事件が起こったのもまさにこの戦いの終盤である――にも日本の帝国軍が携帯したとされる胃腸薬で、下痢や胃痛に大きな効力を発揮する。但しその代償として生薬特有の個性的な臭気に耐えねばならないのだと謂う。「ところで桃雪姫の割にそんなチーク薄くて大丈夫ですか?」

「桃雪姫ではねえから。お前こそ昨日ミサった時ん顔とはビックリするくらいソックリ感皆無だけど」髪もろくに梳かさず出てきたのではなかったか?「そのまま出掛けんの? サンチョこそドッペルなの? 実は双子のヨンチョなの?」

「いや昼間っからあんな塗りたくってたらオバケでしょ。百鬼……何だ、昼行?――昼行性?になっちゃう」

「中高生だけに?」夜勤トゥールノ・ノクトゥールノに励む苦学生も居るだろう。[訳註:夜学クラーセス・ノクトゥールナスの意味かもしれない。《昼行性ディウールノ》]「とはいえスッピンで上等なドニャキならともかくサンチョの完ソメンはツラみあんだろツラだけに」

「ソメン?……素麺? 朝から?……あ、顔が淡白ってこと?」

の面、シラフの音読みだよ」

「そこまで言うてことはモコモコーナがやってくれる覚悟はあるんだろうな」寝台の上に膝乗りとなる猫の従士。「でもチェックアウトの前にもっかいシャワー浴びる予定ですの」

「好きにしろ……てなわけでカキホーテ殿、」王女は化粧道具の入った小物入れカルトゥチェーラを引き寄せながら、「――あと一分ほどお待ちいただけます?」

「一分? 一分なの?」

「それがしは構いませぬ」寧ろ今日は書類を補完する又は完成させるクブリール・オ・クンプリール・エル・エクスペディエーンテだけの為に充てがわれた一日[訳註:日本語でいう《消化試合》?]となるやも知れず、出発まで大分時間を持て余す恐れすらある。一分も一時間も然程の違いはあるまい。「――ただその土埃色カーキだか羊毛色ベージュだかの騎士という二つ名だけは御遠慮願いたいのです」

「ああ、どっちも茶系は茶系だろうけど、三茶色とはちょっと違いますわよね」

「サンチャ色って何だ」

「知らんよ。サンチョは住んでんだから知ってんだろ?」物の資料に拠れば黄色なのだとか。[訳註:恐らく田園都市線の各駅に指定された駅色のこと。駅構内の壁に貼られた陶板がこの色で統一されており、電車内からでも一目で何駅か識別できるようになっている。三軒茶屋駅は檸檬色、偶然にも隣の池尻大橋駅が柿色らしい]「山茶やまちゃ色ならありそうやな……山吹色みたいな感じで」

「ヤマチャ……山茶花さざんかといえば紅色べにいろと白、及びその中間色でしょうかな」

「もろ桃色と被りますな」

「じゃあふたりでももいろシスターズだ」

「何でひとりだけハブんだよ」語り手ナラドールの立場で物申せば、各登場人物が複数の動植物を象徴とするまでなら許容範囲だけれども、出来たら各自の配色ス・プローピオ・コロールくらいはひとつずつに抑えていただきたい。[訳註:千代さんの担当色は本稿第一章より変わらず青系統]

「口閉じて物云えよ」口紅を塗っている最中なのだろうか?

「色もイロイロで宜しいのですが――」

「イロドリミドリですな」それを云うなら《選り取り見取り》だ。[訳註:西訳では正解のverdadera variedad de colores《本当に多様な彩り、色取り取り》に対し、verde《緑》とverdura《野菜》を取り混ぜたverdedura~《緑野菜の色彩が豊富?》のような語感を持つ新語が編み出されている]「緑といえばミコさんのバストトップもそろそろ熟して来られましたですかな?」

「なんでアシのバストトップが緑なんだよ、生まれたときからそれこそドピンクだわ」

「あれ、違いましたっけ?……おかしいな」

「お風呂屋で見たろうがまだ一週間も経ってねえぞ」駿府城下で湯上がりに寿司を振る舞われたのは火曜日、つまりほんの五日前の出来事であった。「色盲なのかもう耄碌してんのか……多少メラニン生成されてたって緑に変色は無いわ」

「いやアフリカの次期女王であらせられるからにゃ緑化運動にご熱心なんでないかと」慥かに大陸面積の三分の二が砂漠地帯あるいは乾燥地帯クリーマ・デセールティコ・オ・クリーマ・アーリドだと聞く。「コケノムスマデ」

「尻緑なる我が従者の戯言は大河ニールにでもお聞き流しくだされ」蒙古斑マンチャ・モンゴーリカは通常《青い尻クロ・アスール》と形容されるが、古来より日本人が緑色を青に含め呼び習わしてきた歴史をここで繰り返す必要はなかろう。「憚りながら《カキ、ホオッテ》などと申されますと蟹殺しの下手人呼ばわりされたが如しで、些か尻の座りが悪いのですじゃ」

「カニ?」ギネアが首を捻った。「……ああ《さるかに》。クソ猿が木の上から柿ぶつけて蟹殺す話だっけ」

「それはおとぎ話であって、現実世界の猿は今頃ミサ連戦が祟ってラ・サンチャに帰り着くや否や哀れ過労死してるところですよ」下手に客死すると遺体を郷里に運ぶのに遺された者たちが骨を折らねばならぬ。そういう意味では潔い散り際カイード・デ・ブエーナ・ガーナと言えぬでもない。「さもなきゃご両親のインフルエンザに感染死……奴も看取ってくれたのがやんごとなきドゥルシネーア様なら本望でしょう。姫様にとっちゃいい迷惑でしたろうが」

「つかあの話の猿って臼に潰される前に蜂に刺されてなかったっけ?」

「ああ、そうやん……つまりドニャ・キホーテは蟹殺しというよりは猿殺しの汚名というか美名を着せられるべき御仁ですよ」親を殺された子蟹によるこの復讐譚イストーリア・デ・ベンガーンサについては、ラ・サンチャの主従がサカモンテシーノスの洞窟を辛くも脱出した直後に短いながら言及されている。[訳註:第十六章末尾参照]「惜しむらくはあんな私刑リンチまがいの集団暴行じゃなくて、正々堂々と一対一で刺し殺していただきたかったことですが」

「勝手にエル・トボソ様の腹心にして道化役まで務めておられる床屋娘殿殺しの濡れ衣を着せるでないわ」騎士は従者の注意を引きつつ以下に続けた。「そら、おぬし憶えておらぬのか……ヌマンシアはブラドイドに巣食いし哀れなる化け蟹カルキノスの身に起こった実に救われぬ末路を?」

「カルキノス――はカニの……身……あっ」

「何? 殻ん中もう空なのにあのカニフォークで――」他に《イセエビ用肉刺しテネドール・パラ・ランゴースタ》とも呼ばれる極めて細長い銀食器クベルテリーア・スマメンテ・ラールガ・イ・エストレーチャのことだ。[訳註:正式名称は《蟹甲殻類大腿部歩脚身取出器具かにこうかくるいだいたいぶほきゃくみとりだしきぐ》とのこと]「延々と中身をほじくられ続ける辱めを受けたとか?」

「意味なくエロい言い方せんでください」《イヤらしい系クラーセ・クルパーダ》[訳註:第十一章末の註釈にも記した通り直訳は《罪深い階級》]と称されるミコミコーナのことだから、その発言にはある種の明け透けな身振りウン・ティポ・デ・ヘースト・デスィニビディードが伴っていたであろうことが直後の末妹の反応からも察せられる。「――たしかに沼津でカニを踏み潰したか轢き殺したかしたのはイポグリフォであって、背中に乗ってて気付かなかっただけのドニャ・キホーテに殺人蟹……殺蟹さつがにの罪を負わすなあ理不尽ではあっても貴婦人とは云えませんな」

「こっち見んなよ。アシは腐女子じゃねえぞ」

豈図あにはからんや、委細に渡って拳拳服膺けんけんふくようよく心に留め置いておるではないか」

「兄は分からんけども姉のことですかんね……そもそも証言がカラスコージの頭カラコージひとりですから信憑性にカンピョウほどの強度もないわけだけど、少なくとも馬の飼い主に課されるのは過失致死がマックスでしょう」それも死んだ蟹に(先述の民話ファーブラでそうだったように)近親者が居て訴え出るでもなければ、端から事件にすらならず彼の死そのものが闇に葬られることとなろう。「それ以前にドニャ・キホーテはなるほど狂気の騎士ではありましょうが、この方ご自身が凶器となって敵目掛けて飛んでいくとなっちゃそりゃもう糸の切れたタコでありイカも切れば刺し身であり墨を掛けられて逃げられる前に醤油を掛けて食ってやるくらいでなきゃ、居なくなる度にいちいち探さにゃならんこっちの身が持ちません」

「お前の長ゼリフ聞いてたら一分のつもりが三分も掛けちゃった割には思ったより雑な仕上がりになっちったよだってめっちゃ顔動かすしお寿司」ミコミコーナが千代の頬を両掌で挟み込むように軽く叩くと、室内に小気味良い音が響いた。「――おしまいんご」

「めでたしめでたし……あざした。眉目秀麗なおふたりの妹キャラとしてギリセーフと言うか、ナシ寄りのアリ寄りのキリギリス……寄りのリンゴくらいに化けさせといていただけてりゃ御の字ですよ」従士は飛び上がって浴室へと駆けて行く。大きな鏡に映る己の化け具合を確認する為である。「おんじにもハイジ、孫にも化粧ってなもんだ」

「カガミよカガミ……か」

「やっとこちゃんババ居なくなって多少静かんなる思ったのに何で急にふたり分ハシャぎ出してんだアイツは」御子神嬢は一旦浴室の開いた戸板に目を向けてから、翻って陽射しの差し込む窓外を見遣った。「どうせならやっぱレンちょんの方残ってくれりゃ良かったんに……今日も実際暑くなりそうよね。あんな直射日光浴びたら桃なんて秒で腐るわ」

「柿も栗もまだ収穫前ですかな」

「夏季というか秋季というか……秋だよ普通は」日本の気候であれば九月を過ぎてからが旬であろう。「そいや栗も出てきたっけ《さるかに合戦》?」

「チヨさんの好きなビッグベンも――これは慥か牛糞だったかしら?――加勢しますぞ」

「ははははは!」仇敵の猿が暖を取る為に釜戸オールノ[訳註:囲炉裏は炊事と暖房の兼用なので煙突炉チムネーア火鉢ブラセーロの方が近かろう。西cocina《台所、焜炉》、hogar《家、暖炉》のように場所と設備双方の語義を持つ言葉もある]へと近付いた刹那その中で焼けた栗が体当たりして火傷させ、慌てて傷を冷やそうと水桶の方へ駆け寄るやその裏に潜んでいた蜂が刺し、遂には逃げるが勝ちと玄関を飛び出たところを地面に転がっていた牛糞で足が滑るよう仕向け、最後に屋根の上で待ち構えていた石臼が落下して下敷きにするという、寸分の隙もない実に見事な計画的殺猿スィミシーディオ・プレメディタードである。「にしてもウンチ大好きとか幼稚園児みたいな奴だなあ……まァ糞マミレで死ぬよりかは柿ぶつけられて死んだ方がなんぼかマシかな?」

「仰せの通りと申したいのも山山なれどこの暑い中、牡蠣に中って不帰の客なんて最期は御免被りたい所存です。こればっかりは正露丸でも甘露の実でも、癒やすことなど叶いますまい」騎士は頭を振りつつ苦笑しながら、「そうでなくとも昨夜は一本、棒に当たったばかりですからな」

「棒? ボール?」

「Bol......a de agua.――思い返せば、」……そう、塔の頂きより投下された悪魔の創造物オーブラ・デル・ディアーブロ――水爆弾ボンバ・イードラである。[訳註:第二十三章参照]「一昨夜にも当てられていたように思います」

「ボ~ッと歩いてっつか漕いでて棒に当たったのは桃太郎の犬じゃあなくて」髪を撫で付けつつ姉たちの許へと戻ってくる三女。「――柿花子の猫ですんでお間違いなきよう」

「そうじゃったそうじゃった……棒は棒でも彼処は希望の泉であったな!」

「カキはNGワードらしいぞ。人の嫌がること云うのやめろよなハラスメントだぜ?」

「ポリコレってヤツですな?」[訳註:奇しくも《ポリコレ棒で叩く》という表現が生まれたのはこの物語で語られる時間軸の直後だったかと思われる]

「さっきも思ったけどお前云ってんのそれ多分ポリコレじゃなくてコンプラな」

「コンプラって何だっけ?」買い手コンプラドールでは?「――コンサートプランナー?」

「いつまでけつミサ引きずってんの……それとコンプライアンスな」

「当たり棒と天ぷらアイスで思い出した」千代は小型の冷蔵庫ネベーラに歩み寄ると、冷凍庫コンヘラドールの方の蓋に手を掛けた。[訳註:西nevado/helado《雪の/氷の》]「というか忘れてくとこでした……見せてもらおうかガリガリでもダッツでもない、第三のアイスってヤツを」

「悪いけどダッツワイフもトルコバスも入っとらんぞ」これも繰り返しとなって恐縮だが、《蘭人妻エスポーサ・オランデーサ》とは本来抱き枕アルモアーダ・コルポアールの一呼称でありながら日本では性人形ムニェーカ・セクスアールの古称として今も通用するのだと謂う。実際は我が国に帰責しない《西班牙流感グリーペ・エスパニョーラ》同様、彼の国もとんだ風評被害ダニョ・デ・レプタシオーン・ムイ・プテアーダだとさぞや癇に障ったことだろう!

「何だバスて……アイスでしょ」恐らくこのbasはbusではなくbathの日本語読みであろう。トルコ浴場ないしアラブ浴場といえばこれはハンマームアマーンと呼ばれる蒸し風呂バニョ・デ・バポールを指し古代ローマの公衆浴場文化を継承するものだが、哀しい哉これも又極東では桃色区域ソナ・ロサ(もとい赤線地区バーリオ・ロホ)で扱われていた用語なのである。(尚、阿蘭陀オラーンダ――というより低地国ロス・パイーセス・バーホス[訳註:形容詞としては《オラントのオランデースネーデルラントのネエルランデース》。各国で蘭Hollandを同国の通称として用いるのは、西部に位置する南北ホラント州にアムステルダムやロッテルダムなどの主要都市が集中しているから。連合王国(United Kindom/Unido Reino)を便宜上慣例的にその中核を成す英国(England/Ingraterra)から名を取った英吉利(English/Inglés)と十把一絡げに呼ぶようなものか。その点イベリア半島全体の古名Hispania《兎島イースラ・デ・コネーホス》に由来するEspañaという国名にはそれなりの妥当性が見受けられよう]――と土耳古トゥルキーアの両国は双方とも歴史的に見て我が国とも関わりが深いが、鎖国時代に交易があった唯一の西洋国であった筈の前者では比較的反日感情センティメーント・アンティハポーネスが強く、対して後者の国民には概ね日本好きニポノフィーリアが多いとされている)「――パピコでした」

「お得かなと」

「二で割れない人数なのにあえて!」これは一袋の中に二本一組が入った氷菓フエーゴ・デ・ドス・エラードス・エン・ウン・パケーテなのだ。

「だ~から二個買ってあんだろがお前好きなの取んなよ残ったの蜂のナイトと分けるから」

「いやどうせなら違う種類の一本ずつ食べたい」

「ああもう好きにしろって白でも黒でも茶色でも」王女はウンと伸びをしつつ立ち上がると、飲みかけだった水を一気に飲み干して空の可塑性瓶を横着に放り投げた。「昨日のハコまで行って帰るだけなら一時間っしょ。パピコ二本も摂取すれば燃費悪ぃサンチョでも朝飯までのカロリーとして充分だよな?」

「ちょい待って……一本約八十キロカロ……いやホワイトとチョコで違うのか」

「栄養学知識マイナスのサンチョが具体的な数値知っても何も分からんのと一生一緒に一升瓶だろが」現在時刻を確認する。「まァ前もって電話しても誰も出んわだろし?――その前にこの時間十中八九誰も居ねえし空いてもねえだろからシタ降りたとこの入り口のどっか……傘ブラ下がってたとことかにでもビロ~ンて引っ掛けとけばいんじゃね」

「たしかに。関係者以外わざわざあんなトコ階段降りてかんでしょうしね」紙袋の手紐に手を伸ばす猫の従士。「――ん、どこ?……放置しても誰かがパクってくことはないっしょ」

「しゃあねえじゃあ行くか昨日の夜食の腹ごなしだ」履物に左右の踵を押し込んで。「年寄りの休日はふと気が付いたら夕方なのだ」

「えっとちょい待ってください……どこ行った?」敷布の上、次いで絨毯の上、今度は膝を付き寝台の下の狭い隙間へと掌を差し入れ左右に動かしてみる。「――入らんか」

「なに?」

「どれが何処でどうしたのだ一体?」

「楽屋パスがまたどっか……また?」四つん這いのまま顔を上げると、丁度目の前に大地を踏み締めてそそり立つ一対の脚線美ウン・パル・デ・ピエールナス・プレシオーサス――衝動的に、まるで吸い寄せられたかのようにその細い太腿を抱き締めるドニャ・サンチョ。「マタァァァァアアア!」

「《殺せマタ殺せマタ!》とは物騒な奴めッ!」騎士は押し倒されそうになったのをその驚異的な均衡感覚で何とか踏み止まる。昨日負傷した足首も殆ど寛解したようだ。「おぬしに齧られにゃならんほどラ・サンチャの腿肉腿肉ハモン・ハモンは安うないぞ?」

「このミコさんでさえ遠慮してるセクハラを先にやってのけるとは」今度は腿肉女ハモーナ[訳註:第十八および十九章にて花と著者が一度ずつ言及している«jamona»本来の意味は《中年太りの年増女》]――というよりは曲線的美女エルモスーラ・コン・クールバスと称すべき嫉妬に狂ったミコーナがサンチョの直ぐ後ろに立って退路を塞ぐと、その突き出た尻を蹴り上げた。

「――イッテ」

「貴様がむしゃぶりついても許される流線型は今その手に持ってる二本一組なパピコの曲線美だけだということを、一からその身体に分からせてやる必要があるようだな……」

「むしゃぶりついちゃおらんですがな……」しがみついていた主人の下半身を解いたその手で自身の尻を擦りながら千代さんは以下に続ける。「見てみなさいよもう」

「何よ、次はいよいよわらわが顔を埋める番だと……あっ」熱帯の王女が目を見開くと同時に凍り付いた。「……左右で換装しておられる」[訳註:元々別の物を装着していたわけではないだろうから《完全装備》の略かも知れぬ]

「え、エロくね?」怪訝な表情を浮かべつつ振り返り、未だ身動きの取れない長姉ウルドの呆けた顔を細めた目で見上げる三姉妹の相続財産フゥトゥーラ・デ・ラス・トレース・ノールナス。[訳註:単純に《未来のフゥトゥーロ》の女性形と捉えるべきか]

「お前の腐った目にどう映るかは知らんがガタリンは原則片方だけのがエロい」ガタリンとは勿論《鉄輪連結式太腿留めリゲーロ・デ・ムースロ・エンラサード・コン・アニージョス》を指している。[訳註:英garter ringは腿の断面が円形になるが故の《輪型リング》なわけで、金属輪が留め具として用いられていることが絶対条件なのではあるまい。そもそも劇中使用されているのも靴下留めガーターではないのだが]「しかしてこれは……お前らアマギャの言葉を借りるならそう、トゥッテい」

「トゥ――ト~トい?」

「腰……ハム……」従士とは対象的な恍惚の笑みを湛えるギネア王女、矢張り敬虔な仏教徒らしく両手を合わせて奉拝の姿勢を取りながら、「…………尊い」

「い……イッちゃってるなあ、この人」ここは主人に判断を仰ぐより他ない。「置いてきましょうか?」

「《拝む》の語源が絶頂感オルガスムスだという主張も頷けよう」日本語の《アリガトー》の由来を無理矢理《せずにはいられないオブリガード》に求めるようなものである。[訳註:但し俗説として面白半分に語られるのは、西obligadoというよりは同じく感謝の挨拶として知名度の高い葡obrigadoとの類似性だろう。共に羅語のobligatusが元]「これが鬼神崇拝オグラスムス[訳註:西orgasmoは突き詰めれば古希語のὀργήオルゲー――感情、情熱、激情、情愛などの《情》に行き着く。無論ograsmoは著者による造語で、ogro《鬼》もどうやらὅρκοςオルコス《黄泉の神、誓約の神》転じて《誓い、箴言》から派生したようだ]ともなりゃ、桃太郎神話が真っ向から覆される事態[訳註:成敗すべき相手に平伏しちゃってるから?]にさえ転じかねぬ……ささ、面をお上げください殿下、人の目がありますぞ」

「誰も見てないけど」千代は肩を竦めた。「……いや私も一応ヒトか。障子のメアリ」

「では最後にそのお御足に口付けをば――」今にもその場で跪かんばかり。

「いやさせねえよ?」今度はサンチョの方が両腕を開き、正気を疑われるギネア王女の行く手を阻む番であった。「つかオミアシに口付けって普通爪先っつか足の甲とかだろがいい」

「いや朝っぱらから何に目覚めてんだオレは!」

 争点が大幅にズレたことで、本来は肘または二の腕に装着すべき二枚の通行証が現在置かれている状況については何だかんだで有耶無耶になったまま、東国から参じた三匹の猫たちも揃って十三階の客室を後にする次第と相成ったのである。


一階に付き優に三十を超える客間を備えた然しもの牙城シウダデーラといえど、建物を南北に貫く廊下を三姉妹が横並びに歩くとなれば、幾分の閉塞感を禁じ得なかったとしても矢張り無理からぬことではあった。(この時サンチョが一旦ギアナの部屋に戻って寝間着の個数調整を済ませてしまわなかったのは、恐らく今宵の三泊目が無い以上室内清掃が入るのも彼女らが支払いと出発を済ませた後となること――則ち荷物を取りに戻る予定であった従士にはもう一度機会が残されていること――を察していたからだと察せられる)

「騎士様は白いのと黒いのどっちになさる?」

「白いカラスには昨晩もさんざっぱら苦杯を嘗めさせられもうしたでな、――」これは暗に黒い鳥の白い落とし物カイーダス・ブラーンカスを仄めかした婉曲表現などではなく、五条橋にて一度ならず二度までも干戈を交えし白い尾羽の烏クエールボ・デ・コラ・ブラーンカ――《サラマンドラの白尻クロ・ブラーンコ》なる二つ名もあったろうか――に花を持たせたものと解釈すべきだろう。「験を担ぐじゃないけれど、黒いチヨコさんの方を頂戴したく存じまする」

「ホワ~イ、腹黒いチヨさんには飽き飽きしてるだろうに?」中央に陣取ったミコミコーナが騎士とは反対側に首を曲げると、「サンチョ、チョコ……サンチョコ」

「聴こえてますよ」――パキックラック!「ほいな」

「どうぞお納めあれ」小瓶型の可塑性容器に入った氷菓がわざわざ仲介人メディアドーラを経て、右から左へと手渡される。

「いただきます」

「はいサワー」――パキックラック!「別にそれを所持している一定時間おさわ~り解禁とかにはなりませんよ?」

「ホワ~イト……かった、まだカッキンコッキンやん」

「カッチンコッチンだろ。しっかしカキ厳禁かぁ……《柿の騎士》なかなか語呂いんじゃないかと思ったんすがねえ」昇降機は直ぐに上ってきた。「なんか柿の葉寿司みたいで」

「サーモンじゃない、サケとか乗ってるヤツだっけ?」

「サケとかサバとか……どうぞ」従士は甲斐甲斐しく年長者ふたりを先に箱の中へと押し込めた。「魚の鮭ですよ」

「分かっとるわ」末妹を待たずに一階を押下するせっかちなミコミコーナ。「まァなんかソシャゲガチャ廃人みたく聴こえちゃっても何だしな」

「か?……課金の騎士か」[訳註:「アルバカーキ出身みたく~」「……アルブケルケか」尚、御子神の台詞は英語発音に寄ったローマ字表記としてAlbacaquiと記されているが、直後に千代さんが正式な綴りのAlbuquerqueに訂正する形を取っている。合州国新メキシコヌエーボ・メーヒコ州最大の都市の地名は羅《白いアルブスケルクス》に由来]

「もっと夏季限定な感じのサ……スイカとかパイナップル的な果物の騎士にしたら?」

「あああとパパイヤのとかね」我等が騎士にパパヤを与えないでノ・デス・パパージャ・ア・ヌエーストラ・カバジェーラ![訳註:コロンビア独特の表現no dar papayaで《悪者にとってのカモになるな》程度の意]「……いやいやそれ全部アンさん向け」

「たわわに実ってて面目ない」

「夏ならやっぱ《かき氷の騎士》じゃない?」

「何が何でもカキくっつけたいのな――その心は?」

「こやって、――」片腕の肘を前後させつつ蒸気機関車の連結棒ビエーラ・デ・アコプラミエーントのように回転させながら、「ガリガリガリと」

「寿司からの流れだと生姜になっちゃうだろ。むっちゃピンク」

「いや流れで云ったらたわわからのつもりだったんだども」冷凍庫から出して間もないパピコの固い吸口ゴジェーテを前歯で執拗に噛みしだく猫の従士。「まァ丸っこいのよりかはバナナとか細長いフォルムのフルーツの方が」

「背筋シャキッとしてっからバナナ感あんま感じないけど、柿はまあ丸いわな」

「後世に伝えられるドニャえもん像がカキえもんと混同される恐れもあります」従士の懸念も尤もなことで、陶磁器アルファレーロといえばプラートにせよハーラにせよ花器フロレーロにせよ、円形や丸みを帯びた姿を先ず思い浮かべよう。「未来のカキ型ロボットがどんなか知らんけど」

「どっちかってえとアンパンマンに出てきそう」[訳註:残念ながらカキえもんが出演した記録はないが、《かきくけこちゃん》という女の子は登場している模様。但し顔は四角い]

「それだけではない。花卉かきとはつまり草花のことじゃからの」――ピンポーンディン・ドーン。「《カキの騎士》ではいみなをまま二つ名にしたようで収まりが悪いのさ」

「おっ、出ましたねイミナ」

「折角の忌み名なのに意味な~い、じゃあ《ハナの騎士》?」自動扉が左右に開く。「いや《臭い花の騎士》ですか……草」

「うるせえ雑草、はよ出んかい」

「いたい」千代は蹴飛ばされるように受付階の大広間に降り立つと、脇に寄ってふたりの淑女を箱の外へと導いた。「しかし桜とかバラってんならともかく柿が草花の代表ってのはピンと来ませんな……果物の代名詞とかってもどうせリンゴとかっしょ?」

「草冠に化けるで《カ》、じゅうにじゅうで《キ》と読ませるのよ」[訳註:部首名としての《廾》は一般に《にじゅうあし、こまぬき》或いは廾部きょうぶと呼ばれるが、《廿》の異体字として《卄》を載せる字典もある]

「なるほど《十》と《二十》」千代さんは人差し指で宙空に漢字を描きながら、「――どっちかってえと《土》、が、《干からびる》……草木も花も育たなそうですな」

「不毛の地――とな!」青褪めた山男セラーノ・パーリドよりは効力のある露セレーノ・バーリドの方が近いものと思われる![訳註:乾燥地帯テレーノ・アーリドから。形容詞としてのsereno/aには《穏やかな、落ち着いた/酒精の影響下にない、素面の》の語義、加えて《いとやんごとなき殿下ス・アルテーサ・セレーナ》のように王侯貴族の敬称にも付くが、ここでは昨夜までに幾度となく彼女を襲った水禍に託けて、乾燥に対する湿潤の意味で《露》という言葉を選んだものだろう。その前のserranoもつい先程まで話題に上がっていた《山地の腿肉ハモーン・セラーノ》を指したものと考えると、本来ならば赤身と白い脂肪で描かれる鮮やかな断面が青白く変色し、食欲を削ぐ不気味な色合いを獲得した食肉が連想できるかも知れぬ。無論ドニャ・キホーテも自身の《断髪》と《不毛》を洒落たに違いない]

「どこ見てんだよ。メチャクチャ天高く馬も越えて」これは秋の好天と豊穣を喜ぶ際に使われる慣用表現である。「――お育ちあそばされてらっしゃるじゃねえか」

「おはようございます、お出かけでらっしゃいますかあ?」

「「おはよう!」」「――ございます」騎士の従者が貴人に代わって要件を伝える。「あ、あの、朝からご苦労さまですチェックアウトまでには戻ってきますんで」

「ありがとうございますお気を付けていってらっしゃいませ!」

「ざますっ――あっちなみになんですが、」サンチョを押し退けた詰め込み殿下ス・アルテーサ・レジェーナ[訳註:西rellenoには《ふくよかな、ぽっちゃりとした》の意味もあるが、御子神嬢の形容としては文脈上身体の一部分が《たわわ》に実の詰まった状態なのだと解釈すべき]が接客台モストラドールに片肘を乗せて、「この子ら今晩夜行バスで帰るみたいなんですけど、精算済ませた後も今晩中に取りに来るんであれば大きな荷物とか預かってもらえたりしますか?」

「はいもちろん、」笑顔で応答する受付嬢。「ご要望ありましたらバゲージルームでお預かりいたします」

「――だって」

「おおマジすか」

「はい、ご出立の際にお立ち寄りいただきこの――」隠れた手許の抽斗から数字の書かれた札を取り出して、「荷物タグご提示くださればどのスタッフでも対応いたしますので」

「助かります、すごく」残る懸案事項は自転車の郵送だけである。「……では散歩がてらちょっとプラプラ、ナゴブラしてまいります」

「もうこの時間からだいぶお外お暑いようですので、熱中症対策しっかりなさってお出かけくださいませね」

「この人お暑いのがお好きらしいんで天日干しにしても望むところらしいですよ」

「まあ」

「いや猫舌だっての……猫肌か」砂漠地帯に起源を持つネコ科の動物は比較的暑さに強いとされるものの、一方で湿度が大の苦手なのだとも謂う。高温多湿の日本の気候が彼等にとって、冬の寒さ同様に過酷であろうことは想像に難くない。

「こいつもありますでな」ドニャ・キホーテは何処に隠し持っていたか、綺麗に畳まれた晴雨傘を綺羅びやかな高天井アートリオに向け振り翳した。「御寮人も氷室が如きお城暮らしで御身体お冷やし召されませぬようお気を付けあそばされよ」

「あっ、ありがとうございますそうですね気を付けます」

「じゃ行くべ。即行で地下潜ろ」ギアナ王女が広間を挟んだ先にある透明な硝子扉に囲まれた空間のその又向こうの地下道入口を指差して以下に続けた。「ヴァンパイアパイセンだって一瞬直射日光浴びたくらいならちょっと身体の表面が塩になるくらいだろうし、そんなんうちらが汗かくのと大差ないっしょ」

「塩の騎士さま前にして……鼻息荒えというか、意気込み凄えな」

「宇宙空間放り出されても数秒は余裕で生きてられるらしいぜ」その神妙な口振りを聞くと、この建物から一歩外に出たらば気圧がほぼ零だったとしても驚くには当たらぬようにさえ思えてくる。(となると玄関室は矢張り気閘エスクルーサ・デ・アーイレの役割を果たしているのか?)

「直ぐ窒息はしないまでも、酸欠で失神くらいはするやも知れませぬがな」

「そこまで決死の覚悟で外出するくらいならさあ、」年長者ふたりの悪乗りデスメスーラに辟易したと見える……しかしてっきり千代さんが午前中の小旅行の取り止めを願い出るかと思えば、彼女の口を付いて出たのは全く別の提案であった。「電車じゃなくてバスにする?」

「地上の方が暑いだろ。見てみい鉄板焼だぞ」流石はアフリカの王冠コローナを継ぐ者として世界史教育も十全に施されてこられたと思しきミコミコーナは、シリア王アンティオコス四世エピファネスが捕らえたユダヤ人の母と七人の息子が豚食を拒否するのを受けて、兄弟の内のひとりを熱した平鍋サルテーン・カリエーンテで調理した故事にもどうやら憶えがあったものらしい。「たとえ痴漢に会っても地下鉄を選ぶべきだね」

「殿下はまた痴漢の指十本と歯ァ三十本と、ついでにそいつを目の当たりにした我々の心をバッキバキにへし折るおつもりとみえる」同害刑法レクス・タリオニス[訳註:客室内でのハンムラビ法典に関する会話を踏まえている]の亜種スブティーポと考えれば指までは分かるが、歯を折るのは何故だろうか? 被害者の桃型の臀部ナールガス・デ・ドゥラースノに齧り付いたとでも?

「ふふ、指折り数える指も羽織を着せる歯も失くすというわけですか」[訳註:これまで本稿では《舌の上に毛がなくスィン・ペーロス・エン・ラ・レーングア》を《歯に衣着せず》と意訳してきたが、逆にsin ropa sobre los dientesと言って西語話者にその意味合いが正確に伝わるかについては些か心許ない。著者は《疑いなく指をスィン・ドゥダ・ロス・デードス事故的に歯をアクシデンタルメンテ・ロス・ディエーンテス》という訳出を選んでいる]

「つかこの時間からそんな混むか? 一応夏休み期間だろ?」学生の感覚である。

「今が――七時半から八時過ぎくらいが一番混んでる時間帯ですかね」接客の合間を縫って従業員が口を挿んだ。「桜通線より名城線とか東山線が特に」

「やっぱそすか」

「学生の方少ない分多少はマシかもですけど、それでも名駅と栄駅の間はどうしても」

「まあチカンとかカチンコチンはともかく」再び従者が割って入る。「電車だと――」

「なんか卑猥だなお前」

「どうせならハワイ行きたいよ私だって」急遽旅行先を変更してここまで参じた(そして直ぐに帰郷し、月末には改めて太平洋を渡る予定の)友人を苦々しく思い出しながら、[訳註:千代「触り屋トコーネスの足は靴のタコーネスで踏み潰すとして~」御子神「光栄なことケ・オノール!」千代「どうせならホノルルオノルルッ行きたいよ~」と翻案]「電車だとまた駅から最低でも五分は紫外線に焼かれながら歩くことになるでしょや」

「お前たまに頭いいな」王女は昨晩アマデウスの出待ちに付き合って数十分の間、演奏会場の前で時間を潰していた時の記憶を呼び覚ます。「そいやバス停の真ん前だっけか」

「よろしければ市バスの路線図と時刻表お出ししますか?」

 少女たちの返答を待たずに受付嬢が机の下を探し始めたので、最早三匹の猫には他の選択肢が残されていないかのように感じられたのである。


「サンチョやっぱお前頭悪いな」

 義姉妹は城壁の西側に穿たれた通用門を潜り、玄関に面する大通りとは幾分趣きの異なる路地を南下し始めている。

「なんで?」昨日遅い昼食を取った食堂に差し掛かるが朝方の営業はないらしく、大きな窓硝子の向こうはひっそりと静まり返っていた。

「ホテルから最寄りのバス停まで歩かにゃならんことを考慮に入れてなかったから」

「そこそこいと遠しと判明した時点で名古屋メトロ案に戻れば良かっただけでしょ」

「そんなん調べてくれたお姉さんに悪いだろ」

「考えてくれた私の頭には悪くないんか……ホテルから出たらもう見えないんだから戻って地下道入っちゃえばええやんそんな後んなって文句言うくらいなら」瀝青の平鍋サルテーン・アスファールティコもまだ加熱され始めたばかりだろうが、雨のように降り注ぐ蝉の合唱が実際の気温以上に通行人をしてその体感温度イーンディセ・デ・カロールを急上昇せしめるのだった。「地図見た感じバス停までずっと日陰っぽいし昨日の駅の出口から歩くよか確実にラクなはず……あそここっち側ずーっと公園だったし」

「んでも街路樹は並んでた気はすっけどな」進行方向を指し示して、「――ほらあっこ横断歩道渡る時は確実に日陰途切れる」

「あらアラ探しですか?」慥かに、長姉は暑気に対する苛立ちを誰かにぶつけたいだけなのかも知れぬ。「大の大人が中坊相手に……目に余る光景です」

「身に余る光栄みたく云う」[訳註:千代の「余り丸焼きオルナードにならないでください」に対し御子神が旧約の『コヘレトの書リーブロ・デ・エクレスィアステース』第七章より「《義に過ぎることなかれノ・セーアス・デマスィアード・オンラード》みたく~」と応じる翻訳が為されている。西honrado《正直な、名誉ある》。前者はhornear《釜戸オンラで焼く、炙る》からの派生語であるが、本来の過去分詞形horneadoでなくhornadoだとエクアドルの豚料理を指す。恐らく《そうカッカしなさんな》程度の意味だろう]

「一度に渡り切るのが困難なのであれば、」騎士が折り畳み傘の先端で新たな獲物に印を付けるが如き所作で狙い定めた。「彼処を横切るヒルムンガンドの蛇腹を――」

「ヒルムンガンド」《ヘビ状の腹部アブドーメン・セルペンティーノ》といっても蛇行しているわけではない。地上の大通りの頭上に走る高速道路こそが、街中の隅々まで細長い身体を縦横無尽に這わせた大蛇なのである。

「名古屋は竜なんでしょ。じゃじゃなくて竜腹りゅうばらなのでは?」猫の視線が腿肉の厚切りよろしく左右の建物に裁断される形で垣間見えている高架橋の断片に向け細く注がれた。「あでも足が無いからやっぱ蛇か」

「ふむ、画竜点睛ならぬ線脚を欠くときた」

「反対語は《蛇足を書く》ですかな」

「まァ橋脚?はあるだろけど左右で二本ずつ生えとるわけじゃねえだろから足っつか、真ん中に一本きりじゃただの支えてる台だよな」高速道路の真下を同じ方向に伸びる一般道が走っていたりその空間が別の用途で利用されている場合などは橋脚が動物の足さながら左右に分かれて立っていることとてあろう。とはいえ橋桁の中央を一本の太い脚が支持していた方が、強度や安定性の面に於いて優っているような印象も否めない。「中日ちゅうにち……昼日中とは言っても夜夜中よるよなかとは言わんしヒルムンガンドが正しいのか」

「《伏龍》とも申しますでの[訳註:腹竜? 西訳では千代の「竜喉ガルガーンタ・ドラゴーニカなのでは?」に対し「《龍紋ドラガーンテ》とも~」と返している]」《嘗ての竜ドラゴナーンテ》それとも《ドラエモン》と呼ぶべきだろうか?……未来の猫型機械人形ローボト・コン・フォールマ・デ・ガトの名は《ドラ猫》、遡れば《ノラ猫》が元で、野良とは《路上のカジェヘーロ》という意味らしいので、道路に根を張る竜などは差し詰めドラドラエモンが良いところだ。「――ちょいと軒下代わりにお借りして一休みされては如何ですかな?」

「いえミコ姫は割と鍛えてるんで日陰で休むより一刻も早く冷房の効いた車内に逃げ込みたき所存なんだけどね、この――」凍った小瓶を朝日に透かしながら、[訳註:大通りに至る前にも何本か小径を横断しているだろうから、ずっと遮蔽物があるというわけでもないのだろう]「パピコなんかは瞬間解凍どころか、液状化通り越して沸騰からの蒸発する危険性すら――」

「パピコがピっ込んだ!」

「ピっ込むより飛び出んだろ。液体は加熱すっと膨張して体積増えんだぞ」正確には気体へと状態変化した際に体積が増加する。「これ小学生の理科な」

「ジンジャーとフレッド」騎士は昨夜従者と二人乗りをしつつ城へと帰る際に交わされた遣り取りを思い出していた。[訳註:前々章参照]「――否、エールじゃったかな」

「えっピエール?」

「からのバービー、いやジェニー――あっ、ハルカレア電話したらな……まだ寝てっかな」けだし熱海の旅館で豪勢な朝食を楽しんでいるところだろう。「むしろそれこそ望むところでしょう……このまま硬さを維持され続けたらバス乗るまでに完食できませんぜ」

「まァ棒アイスとかソフトクリームとかと違って別に溢したり汚したりはないだろし、持ち込んでも怒られんと思うけども」ミコミコーナは胸元の薄衣ベスティード・フィノ・デル・ペチョを煩わしげに抓み上げる。「つかめっさ垂れてるんだが」[訳註:これは溶けた中身が吸口からハミ出てというのではなく、容器に付着した結露が水滴となって落ちてきたということだろう]

「はん、いい年こいてヨダレ掛けがご必要のようですな」最年少の従士が鼻で笑いつつ以下に続けた。「せや、今日もちゃんとサラサーティ挿みました?」

「品切れだよ。どメガネウィザウトメガネが勝手に使い切ったっつったろ」頻尿気味の馬場嬢が弥撒の最中に中座して手洗いに行く無作法を嫌い、極力暴れることで発汗を促す手段を採用した結果とされる。「――サラサーティちゃうけどな、キミ素で間違えてない?」

「さらさらパウダーシーティ」

「そんなお台場のダイバーシティみたいな」お台場といえば長き放浪を経て名古屋市科学館に落ち着いたバックベアードの始発点である。[訳註:第四十二章参照]「いや真面目な話この灼熱のサンシャインシティにゃサラサーティよかサーティワンだよ」

「いやパピコ咥えながら言うなし」朝食前に氷菓子で腹を満たすのは健康上にも差し障りがあろう。「パピコってちょっと響きスペ語っぽいですよな。ドン・パピコ」

「ぼくのぴこ……て何だっけ」

「はて、父ちゃんパピ駱馬パコピコなら聞き覚えもありましょうが《パピコ》――」余談だが、フランシスコの愛称パコは――岡崎の楽屋では解説も省略されていたが――アッシジの聖フランチェスコの通称《共同体の父パーテル・コンムーニターティス》の語頭から最初の音節を採ったというのが定説となっている。ホセをペペと呼ぶのが、イエスの《推定上の父パーテル・プターティーヴス聖ヨセフサン・ホセッの頭文字を並べたことに拠るのと同じ原理だ。「……《パル・ピーコ》ならチレか何処かで」

「チレ?……ああチリ?」[訳註:因みに国名のChileはケチュア語のchiri《寒い》又はマプチェ語のchilli《セグロカモメ》、香辛料のchileは古典ナワトル語のchilli《唐辛子》に由来する]

「それだな。どういう意味?」

「慥か《悪い》とか《酷い》とか、――」

「さすがはバブ姫と双璧を成す我等が生きペディア!」

「《草臥れた》とかその辺りじゃったような」

「そりゃパピコじゃなくて今の我々が置かれてる状況じゃん」宿を出発して数分しか経過しておらぬのに!「もうフラフラでンダースの犬との心中も秒読み」

「やっとサルピコが消えたと思ったらうちらがパルピコになっちゃうとはねえ」

「サルタヒコ?」調味料の役割が検討された経緯を鑑みるに塩漬け野菜盛りサルピコーン[訳註:第四十四章では擬音語として«¡Salpicón!»が使われていた]の可能性も捨て切れない。「導きの、道開きの神とも謂うから、ニコヤッコさんの不在は今日の道中を不案内にするやもな」

「カミはカミでもケツを拭いた後の紙でね、後はババと一緒に流されるしか能のないヤカラですよ」誤解を招かぬよう付け加えると、猫の従士は決して陰口女ムルムラドーラではない。というのも本人の前では更に辛辣な悪態を吐くからである。

「やむを得ず昨日一日一緒に居た所感を述べるとですね、ニコニコーナがパーティーに同行したせいで道に迷うことはあってもその逆は期待できなそうだったってのが」

「さすがはミコミコーナ殿下、アフリカ育ちだけあって視力というか観察眼が優れてらっしゃる」草原地帯サバーナに於けるマサイ族の素晴らしい視力グラン・アグデーサ・ビスアールの有用性は疑うべくもないものの、それが隣を歩く人物の分析に寄与するものかは疑わしい。そもそも暗黒大陸に降り注ぐ強烈な紫外線には視覚機能の老化を促進するという点で、寧ろ高層建築物の狭間でせせこましく暮らす我々に対するそれよりも余程深刻な弊害があるらしい。「去る者は追わず、麗しきドゥルシネーア様の側にくっついてた黒子みたいな謎の物体程度の認識に留めておきましょう……金魚のフンと云えば早いですがあの方は我々下々とは違って決して排泄などなさいませぬので」

「まあ《害ある奴隷》略して害奴となら呼んでやってもいいかしら」

「もちろん付き合いの長い私の中ではとっくに有害指定喪女に分類されております」

「そのくらいにしておきなされ。エル・トボソが従僕への愚弄はとどのつまりそのまま何ら瑕疵なき主人へと向けられる始末となるのですから」

「まァうちの劇部にだって他にもっとマシな中等部の後輩がいくらでも在籍してるでしょうがね」我等盗聴者は未だ部活動の場に侵入する機会に恵まれておらぬし、千代さんが首から下げる胸元飾りが――騎士とお揃いの装飾品オルナメーント・コン・エル・ミースモ・デセーニョを身に付けるのにより相応しい相手と認めて――部長さんに譲渡されることでもない限りそれは永遠に訪れぬであろう。「いずれにせよ猿が投げた柿が辿り着くのが正しい目的地などではなく、哀れなカルキノスの甲羅だっつうのだって日本の文学史というか昔話が証明しておる通りです」

「しつこい栗だなカキはドニャ様NGだっつってんじゃんすり潰してきんとんにすんぞ」

「せめてモンブランにして」共に煮込んだ栗を裏漉しプレッし砂糖を混ぜた菓子である。「それか筋斗雲」

「それ猿に乗られるヤツじゃんそれでいいんかお前」《第五の雲キント・ヌベ》というからには少なくとも他に最低四つは存在する筈で、ならば猿のみならず豚と河童、加えて犬と雉がそれぞれ乗船しても足りる計算となる。(騎乗している美僧グアーポ・モンヘにはそもそも空飛ぶ乗り物など必要あるまい)[訳註:雉はそもそも空を飛ぶ動物なので玄奘三蔵以上に不要だろう]「再三申し上げてるけどサンチョも自分で思ってるほどアグリーじゃないよ」

「アイ・アグリー」

「ふふ、アウグストゥスに仕えしアグリッパほどの武功をラ・サンチャに齎したとはまだまだ云い難いというのであれば」騎士は苦笑した。「――それは殿下の仰有る通りじゃろて」

「桃栗柿も桃尻のガキもとりま忘れようぜ……ヘイユー、ガイド、もう一本向こうの道なんだよな?」

「案内はやんないよ」受付で確認した最も近い停留所までの経路は至極単純な一本道であった。「また携帯すぐ死んでまうから……姉ちゃん何でスマホタルすぐ死んでしまうん?」

「サンチョ犬なんだから文明の利器に頼らんでもクンクン嗅げば場所なんか一発だろホラ何だっけあの……」これも有名な日本の民話だ。「ここ掘れワンワン?」

「こんな街ん中で犬がクンクンとかオシッコでマーキングされた電柱の下嗅いでる時くらいだろがい」未来的な都市風景の印象が濃い日本だが、電線の地中化ソテラミエーント・デ・レーデス・エレクトーリカスが殆ど進んでいないのには多くの旅行者が驚くところである。「カキがNGならイヌだって辞退するわ」

「何で今更」

「《居ぬ》ってからにはなんか存在感薄い感じがするので!」

「そんだけベラベラ喋って存在感薄いはないわ……あっち」赤道に程近き故国を照らす太陽が幻視される。「発言内容が大概ペラッペラなのは認めるのに吝かじゃないけど」

ヴォルフ閣下に連なる者としちゃ誇って良い号にも思えるがの」蜂の騎士はヒルムンガンドの下腹を見上げながら無い髭を扱いた。「尤もオオカミネコなんてのも居るそうだから、猫さんだから相性が悪いとも云うまいが」[訳註:短毛猫のLycoiリコイは別名《狼猫ガト・ロボ狼男猫ガト・オーンブレ・ロボ》とも呼ばれる突然変異種]

「おお神よってなもんですよ」声楽家との対面を複雑な心境で反芻する千代さん。「桃ネタがそう思い付かないすからね……マリオは赤いからドニャキも満更でもかもですけど」

「何で? サンチョ緑乳首だからルイージでピッタシっしょ」

「いつの間に感染させたんだよあんたゾンビか――つかこれ何待ち? 早くバス乗って涼みたかったんちゃうんか」高架橋を潜り終え大蛇が落とす陰にあぶれると、次のシマウマの背を渡り切るまで遮蔽物の恩恵には肖れぬ。「朝からこんなじゃゾンビじゃなくても溶けるわ……気を付けてくださいさらパウ亡き今、桃と桃の谷間に出来たブツブツ汗疹あせもか思ったらそっからジワジワ広がって」

「腿と腿じゃ股擦れだろ普通。股より靴擦れのが痛いわ昨日歩き過ぎたし」

「痛いといやドニャ・キホーテ、足痛いのもう大丈夫です?」

「足?……嗚呼」騎士は暫し歩みを止めると、少し屈んで踝の辺りを擦りながらあらぬ方向を見詰めて以下に続けた。「当分サラゴサにて槍試合が催される予定があるでなし」

「何、どっか捻ったん?」

「殿下をお護りする任務に支障はございませぬ」背筋を伸ばし薄い胸を張りつつ、「チヨさんの方こそ加減はどうかね?」

「私は足よりも背中というかこの、肩の辺りに爆弾抱えてますんで」

「サンチェス投手か何かなの?……そいや昨日コルセ締める時に悶絶っつうか、」ギアナ王女には知る由もないが、昨夜はゴミ捨て場に於いても引き付けコンブルスィオーンを起こしている。[訳註:それぞれ第四十および四十五章を参照されたい]「何かヨガってたよなお前」

「わざわざエロい感じに言わんでくれる?」

「いやヨガってたでも藻掻いてたでもいいけんど」

「もうミコさんモモンガでよくないですか?」トビリスアルディージャ・ボラドーラの名で知られる。「ちょっと妖怪っぽいし昔話にも出てきそう」

「無理くりだなおい。モモンガとムササビの区別も出来んくせに」

「ガガンボとアメンボの区別なら付くで!」前者は巨大蚊モスキート・グラーンデで、後者はカメムシの仲間だが我々がミズカサンクード・デ・アーグアミズスベリパティナドール・デ・アーグア等と呼ぶように日本人にはミズグモアラーニャ・デ・アーグアと言っても通じるであろう。共に足の長い虫である。「みんなみんな生きてはいるし友達でもあるが……あとムササビとマタタビの区別も」

「マタタビ植物じゃねえか。マタタビ担いだ桃太郎かよ」

「きびだんご売り切れてもニャンコだけ超付いてきそう」犬ならぬ猫の騎士が夢想して涎を垂らす。「ハーメルンの誘拐魔も笛要らずだな」

「アレ最初はガキンチョじゃなくてネズミを連行する話だろ。ネズミで困ってんのにネコ連れてっちゃマズいだろうに」件の笛吹き男も町民が契約違反を犯すと事前に知っていれば、鼠をヴェーザー川で溺死させるのに先駆けて町内の猫を粗方退散させ、鼠害を更に拡大させるという陰湿な嫌がらせも或いは成し得たやも知れぬ。「桃太郎が担いでんのなんてあの……《日本一》って書いた旗ぐれえじゃないの」

「アレっておばあさんが手作りして持たせたんすかね。何が日本一なんだろう……テレビもネットもない過疎った田舎でひっそり暮らしてる情弱な老夫婦が日本の何を知ってるってんだ?」

「あれって元々は川から流れてきた桃食ったジジババがさ、若返ったんだか生殖能力だけ蘇ったのか知らんけど、そんで婆さんから生まれたって話なんだよねたしか」土俗の民話ファーブラ・ロカールが研究者によって収集され、童話クエーント・イファンティールとして出版される際は、種本オリーヘンにはあった暴力描写や性描写(そして既に例が上がっている糞便に纏わる件など)を割愛または翻案――畢竟、《漂白デコロラール》――してから発表するというのが東西を問わず常套手段なのであろう。「《日本一の高齢出産》じゃないか?」

「ばあさんの日本一だったのかよ。何を宣伝させられてんだ太郎」参考までに、体外受精で出産した最高年齢の女性は我等がイスパニアの出で、記録はほぼ六十七歳だったとのことだ。三匹の家来を従えた桃太郎が鬼ヶ島に侵略し鬼を虐殺し宝を略奪して凱旋したのが正確に何百年前の出来事であったかについて語る信頼に足る資料は残されておらぬものの、その時代の平均寿命がこの年齢よりもずっと低かったろうことは想像に難くない。「まァ旗は担ぐってよりかは持つとか振るとか上げるとか、後はまあ地面に差すもんでしょう」

「そいやサンチョ国語だけは成績良いんだっけ?」

「古文と漢文は毎回赤点か良くて桃点ですがね」危険な状態や中断を余儀なくされる事態を《黄信号が灯るルス・アマリージャ・セ・エンシエーンデ一定間隔で点滅するパルパデーア・ア・インテルバーロス》と呼ぶことはあるそうだが、これでもそれとなく通じるであろう。「折り畳みもさすもんだろし……こう差すか、こう刺すかですけど、担ぐにしちゃちと軽量化され過ぎかにゃ」

「ちなドニャキ様その傘でミコミコーナと相合い傘しませんこと? 容赦ない陽射しでホラ、あと数分もしたらこのピンクの肌がケロイド状に」

「もうバス停付きますけど」

「ピンクケロイド」

「ピンクのカエルってたまに見るけど実在すんの?」それはバライロドクヒキガエルサポ・ベネノーサ・ロサを数に含めて良いかに依る。[訳註:《アメリカエセキノボリガエルプセウドデンドロバテ・アメリカーヌス》なる学名を持つ架空の両生類を指したものと思われる。則ち概念としては存在しているということ]

「じゃあピンクのペンギンはどうやねん……すぐには来ないかもだし」受付で時刻表も見せてもらった筈だが、時間を持て余していたこともあって細かく気に留めていなかったと見える。「屋根無いかもだろ」

「この日傘スキロンが爾後《シェーンブルン》を名乗る為にはビエナの宮殿敷地内に足を踏み入れてから花開くことこそが必要条件となっておるのですが」

「今花開いちゃうとどうなんの?」

「はて――」騎士は行き当たった大通りを見渡した。「此処が何通りと呼ばれておるか次第ですかな」

「ここはですね……ちょい待って」先程は経路検索を渋っていた従者が端末を操作し現在位置を呼び出して、「ヒロショウロ……ヒロコミチ?」

「後世に《ヒロコージの日傘ひがさ》として伝わることとなりましょうぞ」

「……ハコ着くまで待ちましょう」ラ・サンチャに倣い首を左右に振るミコーナ。「――でどっち?」

「アレじゃん?……一応屋根あんじゃん良かったですね」

「全然日陰になってないと思うけどアレ」まだ太陽の位置が低い為に停留所の屋根が落とす影が長く伸び、利用者が待機する空間から食み出でてしまっているのだろう。「サンチョに担がれたよ」

「何でだよ、屋根はあんだろ」従士は先立って駆け寄ると、掲示された時刻表に目を走らせた。「……お――っと~、行っちゃったばっかかぁ?……あんなとこで休んでなきゃ」

「何、何分待ち?」

ぎゅうチチの殿下が牛歩なせいであと十分は待た――」千代の眉間に皺が寄る。「ん?」

「お前助かったなアーシが出産五分前のマタニティな若奥様とかじゃなくて」長椅子に腰掛け優雅に脚を組むミコミコーナ。「三分間待ってやる」

「違う、これ九時台だわ」

「今何時代?」

「ナニジダイと言われたらアヅチピーチマウンテン時代ですけど[訳註:「何時代かってケ・エラ・エス? 予想できたことですよエラ・デ・エスペラール!」名詞のeraは《発見の時代エラ・デ・ロス・デスクブリミエーントス航海の黄金時代エラ・デ・オロ・デ・ラ・ナベガシオーン》のように用いられ、動詞serの直説法線過去としては《~であった》となる。《何時ですかケ・オラ・エス?》]」従士は視軸の先に指を這わせる。「……ナンジダイ?なら今は七時半ちょい過ぎなので」

「何どゆこと?」

「あっちょっと待って別の時刻表あった……あよかった日曜、あと十分以内に――」

「何か怪しいな――よっこらせんがん」次いで王女自ら腰を上げると、従士の隣で改めて腰を屈めた。「……いやこれ栄ってドンキのとこだぞ。観覧車乗った」

「てことはハコまで行くのは始発二時間後?……おねいさん!」

「いやお姉さん知らんだろ。うちらで勝手に地図見てバス停探したんだから」当初の計画に浅知恵で急遽の変更を加えるのは危険だという良い見本である。「……あでも栄で乗り換えたら、市バスはともかくメトロは確実に動いてんだろな。乗り換えるか」

「だがそれだとここまで太陽は痛いようしてきたのが無駄になる上に栄えてるとこまでのバス料金分損することになるのだ」

「じゃ戻る?」

「戻らぬ」

「な、ホセ・メンドークササのワンラウンドKOだろ?」玉座と呼ぶには余りに質素で固い座面へともう一度力なく沈むミコミコーナ。「おぬしはそういう奴よ」

「そんな暑いならセブン中入って涼めば?」背後の便利店を顧みる。「そのツインな牛乳タンクだってボイルのし過ぎでバーストしちゃったら、自慢のロイヤルミルクティティも満足に飲めないお身体になっちまいやすぜ」

「云ってることの翻訳が出来ない。いいよあと何分かでバス来るんだろ」今や末妹の言語障害に意見する気力もないようだった。「朝でこれなんだからお昼とか午後とかどうせもっと過酷な焦熱地獄になるわけだし……もうチェッカウトしたら夜までクーラー効いたさ、どっかカラオケか漫喫とかで過ごそうぜ」

「アエギゴエで百点目指すん?」[訳註:第三十六章は食堂内での会話を参照のこと]

「『喘城あえぎ越え』入ってたらな……くらくら燃える火をくぐるくらいなら」――バチンプラーフ! 王女はは露出した自分の太腿を平手打ちした。「……くそ、クーラー吹雪く涼しいとこググってそこで一日過ごそうぜ。シケ込もうぜ。スケこまそうぜ」

「最後のは分からんが、何か冷たいモン買ってきましょうか? 追いアイスとか……略してオイスとか」

「下民のサンチョと違ってこちとらやんごとねえ淑女の胃袋にゃクーラーボックスみたく冷気遮断してくれる耐寒性に優れた素材は使用されておらんのよ」ギネアは自身の腹部を擦った。臍を晒しているのかもしれない。「内臓から冷やしちゃうとこう……代謝が下がってだな」

「だったらその上半身の余分な脂肪を、こう……寄せて、下げてお腹の方に――」従士は益体もない己の提案を早急に取り下げると以下に続けた。「まだ十五分くらいありますよ」

「十五分て何秒?」

「……そんな簡単な計算も出来んのかキミは」

「ならばラ・サンチャの蜂が斥候に参ろう」不意にドニャ・キホーテが踵を返す。「――というのも七と十一の合間に潜り込むにはそれがしこそ最適と判断できるからなのだが」

「あ、じゃあ私も」

「おぬしは殿下のお側に控えておれ」騎士は片手を掲げて従者を制止した。「ゆめゆめ貴婦人に群がる小蠅どもの接近を許すことまかりならぬぞ」

「でも十一って実際には二十三時でしょ?」これは嘗て朝七時から夜十一時まで開店していたことの名残だが、日本国内の便利店は余程の僻地でもない限り二十四時間営業が基本である。「従士であれば充分十四分じゅうしぶん両者間イン・ビトウィーンでしょうや」

「チヨさんは従士は従士でも三一四さんいちよんじゃからの」見えぬ外套を翻して自動扉を開けるや一旦振り向くと、「――又別の機会に」

「さんいちよん……あっ、サンチョ」猫の従士はミコミコーナの傍らに腰を下ろす。「円周率ってこってすかね……サークル系? サンチョックス?」

「ホテルのこっち側のコンビニあったろ」

「ああ……セッコーはケッコーすけど、もうアソッコーにひとりでとつするのは御免ですね」

 千代さんが昨日一組のヤクザのそっくりさんウン・パル・デ・ドッペルガーングステルに遭遇し慌てて退散したのは遅い昼食を取る少し前の出来事であった。そして一組のヤクザのご本人さんウン・パル・デ・エインセルガーングステルは、一人目が鶴舞う泉で、二人目がシェーンブルンの地下演奏会場にて、それぞれ別の姉の手により豚箱カハ・ポルシーナへと送られていたことを、この時は言わずもがな、この先に於いても彼女が知る瞬間はけだし訪れぬであろう。[訳註:第三十六・四十二章および前章冒頭での解説を参照されたい。尚、独語のEinzelgängerアインツェルゲンガーは本来《個人主義者、一匹狼》といった意味で使われるが、ここでは無論自己像幻視のDoppelgängerを《其の二=複写》と考えた場合の《其の一=原本》――つまりマルッペとノリオ本人を指している]


従士はボソボソと呟きつつ硝子張りの自動扉を注視していた。出入り口は通りに面したひとつだけだろうから、そこから目を離さぬ限り当て所なき放浪癖持つデアンブラーンテ厄介な主人を再び見失う失態などは犯さずに済む筈だ。

「ハナ……十五、イン。ミコ、ミコー、ナ…………二十三、ギリアウト」何やら一心不乱に暗算しているようだ。「――計算おもくそ早いやんけ私」

「おい」

「千と四は……ミコさんバス来ないかちゃんと見ててね」猫や人の両目は馬や小鳥と異なり前方を向いている為、背後の状況までは手が回らないのである。尤も人間の両耳は両脇に分かれて付いているし、猫に至っては耳殻の筋肉が発達しており、向きを反転させたり左右の耳を別々に動かすことも出来るようなのだが。「待て、十時四分ということなら余裕で時間内なんじゃねえか?」

「――で?」

「デ?……ラ・サンチャ?」

「朝起きた時から?」

「朝?……ああ、ハイ」従士は一度長姉の顔を見たが、直ぐに視線を便利店へと戻して以下に続けた。「つかサンチョもドニャッキー様に袋叩き起こされたクチなので、あくまで私が朝起きた時点では既にああだったという意味ですが」

「これは……どうかな、早速レンちょん姫にご一報というか、ご注進に及ぶべき事態なんかしら?」御子神嬢は携帯端末を手に取った。「それとも帰って早々却って余計な心配掛けん方が賢明なのだろうか」

「なんで?」

「や、心理学とかの知識皆無のアタシにゃネタなのかガチなのか全然区別付かないからさ。単にお遊びというか、演技だったら取り越し苦労だし昨日一日で折角苦労して築かれたミコミコーナの信用もお取り壊しになるじゃないの」

「そんなもんが築かれてた様子は微塵も見受けられませんでしたけども」従士は尻の代わりに頭を掻いた指で今度は他方の手の甲を擦りながら続けた。「そんな気になんなら直接訊いたら?」

「それ中の人いるヤツですかって? そういうのって訊いていい感じだっけか」

「まァもうちょっとオブラートに包んで……ビブラートで問い合わせる必要はあろうが」

「難しいこと云うねチヨさん」いえナウ結構ですオブリガード――蘭語から採られたoblaatは本来なら神に捧げる聖体オースティアを指すものだが[訳註:西oblato/aは修道生活を送る献身者のことで、羅語の語源を鑑みるに《神に捧げられし物オフレシード・ア・ディオース》が近い。直後のobleaもoblata hostia《奉献された聖餅》から派生した言葉]、日本では円筒型容器カープスラの代用品として医療用粉薬ポールボス・ファルマセーウティコスを包む為に用いられる澱粉製の食用包装紙オブレーア・デ・アルミドーン・コメスティーブレを意味することが多い。換言すれば苦い質問を砂糖で包み、しかも喉を震わせた魅惑の美声で伝えろというのだから、これはどうしてなかなか器用な芸当であろう。「てか天城越えから離れろ」

「……で?」

「で?――らべっぴん?」

「ラ・サンチャの騎士のままじゃなんか、マズいんですかね?」

「ま」大学生は目と唇を丸くした。「――ズかないけどさ」

「おいしくもないと?」

「やだってよ?」彼女は騎士の背景にある環境アンビエーンテ周辺状況シルクンスターンシアスについて、既にそれなりの知見コノシミエーントをその幼馴染から得ているようだった。「夏休み終わったらあの状態で高校復帰することになんでしょ?」

「高校デビュー……いや高二デビュー?」中学校エスクエーラ・デ・グラード・メーディオを卒業した学生がそれまでの級友が誰も行かない高等学校セクンダーリア・スペリオールへと独り進学した場合、知り合いが居らぬのをこれ幸いと全くの別人格を装って――多くの例では陰気な印象を持たれていた者が一転、過度に明るい身形や話し振りを演出するなどして――新たな始動ヌエーボ・コミエーンソを計る戦術を《高校お披露目デブターンテ・コレヒアール》等と呼ぶらしい。「ある意味中二デビューではあるかもだけど……ややこしいな」

「すげえ他人事みたく云ってんけど」主従が初めて相見えた日を思い返せば阿僧祇花の奇行は既に学園内に於いて公然と晒されているわけだから、中学二年生症候群スィーンドロメ・デ・セグーンド・グラード・デ・セクンダーリアについてのみ語る限り最早お目見えデブッとはなるまい。「そんな簡単な話じゃねえと思うぞ」

「分かんないっすよ……昨日のだってドニャ・キホーテが気まぐれにアソーギ・ハナを演じてただけかもしれませんし」千代は思い付きでいい加減な仮説を立てた。「そもそもこれまでの人生だってラ・サンチャの騎士の方が素だったのを周囲に合わせて無理やり賢げな女子高生つか、優等生演じてたって線も」

「いやいやそこまで難しそうな話なの?」御子神は半分戯けて、半分深刻そうに頭を抱えるような素振りを見せた。「そこまで行くとリアルにパラサイトというか……パラサイトちゃうわ、パラ、パラ」

「パラダイス」

「――偏執狂パラノイアんなっちゃうけどな」そうなれば心療内科プスィコソマーティコ精神分析医プスィコアナリースタよりも精神科プスィキアートラに診断を仰ぐ結果となってしまおう。「二次元および二・五次元ならヒロイン属性完ストだろけどさ、現実世界じゃ生きにくいキャラ設定と思うよ」

「そりゃサンチョやニコ助が狂った騎士とか囚われのお姫とか自称しだしたら運良くてもメンヘル送りで、まあ多分魔女狩りからの火炙りが順当だろうけど、――」

「喪女狩り?」

「どっちでもいい」千代は屋根の外に歩み出ると、店内が見えるよう首を伸ばした。「ドニャキとかドゥルシレベルの見た目が九割なら許されるんじゃなくて?」

「アーシ個人としてはね」年長者は言葉尻を濁した。「本音を言えばも一度ドニャ・キホーテ様にご拝謁を給えたのはラッキークッキークラッキーにござるよ」

「なんだクラッキーて、クラッカーちゃうんか――うちょっ!」

 二三秒ほど自動扉から目を離しギネアの方角を振り返って直ぐ顔を戻すと、そこには既にラ・サンチャの蜂が羽音も幽く浮遊するかのように立ち止まっているのであった。


「殿下、お待たせいたしました」騎士は従者を素通りし、陣幕テラ・セッラミエーントを潜った。

「いえいえお早いお帰り祝着に存じます」王女は朗らかな会釈を以て答える。「キホーテ様の道化殿はよくお喋りになるので退屈こそいたしませんものの、やはりたとえいっときでもドニャの勇姿が視界から消えてしまうとなると妾も生来の物臭が顔を出して、まったくただの数秒ですら目蓋を持ち上げるのが億劫になってしまいますことよ」

「何だその古文を現代語訳したみたいな文章は」口から垂れ流す単語数に於いて明らかに勝っている猫の従士がそのように嘯いた。

「過ぎたお言葉ですじゃ……はて《更紗さらさ》にしては花をあしらうでもなく、《まさに罫線ラ・パーウタ》と呼ぶ割に杓子や定規を用いた形跡もございませぬけれど――」蜂は小脇に抱えていた包みを両の手に持ち替えると、簡易玉座トローノ・センシージョの御前に跪いて恭しく差し出した。「御所望の品であれば宜しいのですが」[訳註:木綿の多色染織を指す日本語の《更紗/印花布》は葡saraçaに拠るという説が一般には支持されているが、更に語源を辿ると梵語のसारस《鶴/湖水に浮かぶもの》に行き着くと謂う。南米ではzarazaとも呼ばれ、これは第四十三章でも註釈した通りイスパニアでは同じ発音のsarasaが同性愛者を指す為、花柄の文様を思い浮かべる点でも近似性を有する。西pautaには文房具の定規という語義の他、規則や標準といった意味がある]

「おお、さらパウ!」ミコミコーナが歓喜の声を上げる。「この心遣い!――買おう買おうと思ってたんよ花王だけに……では早速失礼をば」

「ビオレって花王なんだっけ……ああだから花なのか」千代も屋根の下に戻ると、王女の手許を覗き込んだ。「まァオシリス拭くためのペーパーにだって花柄とかあるんだし、そういうのプリントしたヤツも売ってそうだけど」

「うおお生き返るぅぅ……我が汗疹問題の解決はノーベル医学賞と平和賞の同時受賞に値する功績です」ノーヘル(無兜)賞プレーミオ・ノヘール(ノ・ジェールモ)の受賞候補から外れた今[訳註:第十九章で安全帽を購入した為。但し岡崎で購入した兜は川に流れ、今や主従に残された被り物も結局は新たに入手したカラスコの安全帽ひとつとオンジの野球帽ひとつなわけだから、後者を被る騎手は自然と無兜扱いとなろう]、アフリカの王女から与えられしこのお墨付きガランティーア・レアールは朗報以外の何物でもなかった。「……ん?、花柄っつかあの、ミジンコというか何だあれミドリムシみたいな文様のってなんつうんだっけ……ほらバンダナとかでよくある」

松毬ペイズリー柄ですかな?」

「あ、ペイズリー柄か……良かった」汗拭き取り紙を挿んだ胸をほっと撫で下ろす神経質なミコミコーナ。

「サンチョにも一枚恵んでくだせえよ」

「挟むほどねえだろ」

「いやそもそも挿むためのもんじゃねえから」

「しゃあねえな一枚だけだぞ」携帯用のそれは枚数も多くない為、おいそれと闇雲に配って歩くわけには行くまい。「ドニャキ様は?」

「お気持ちだけ頂戴いたしまする」

「ほら騎士たる者この清貧の精神ですよ」大学生は少し前の不穏な空気を払拭するかの如く陽気な声を上げた。「……それに比べて気の利かん奴め、ゴミでも捨ててきなさいな」

「いやお店の中やん、従士たる者品性こそが神聖にして犯すべからずなのよ」

「じゃあ黙って時刻表とニラメッコでもしてなさい」

「なななんでだよ」

「こっち見られてちゃ落ち着いてイチャイチャ出来ぬではないか」王女は眉を吊り上げて以下に続けた。「想い姫ドルチェバブリー様が里帰りしてお寂しさもひとしおな塩の騎士様の無聊を慰める使命がミコ姫殿下にはあるのじゃ」

「知らんがな……にらめっこしようがニラレバ炒めっこ食おうがバスの到着もパスタの茹で上がりも別に早まりゃしませんよ」そう不平を垂れつつも掲示に顔を寄せる殊勝な猫の従士。「うわ……三秒数字の羅列眺めてるだけでもうゲス――ゲシュタルトが崩壊してきた」

「ゲシュタルトが崩壊したらアップルパイを食べればいいじゃない」

「お聞きになりましたかドニャの旦那ャ、折角の殿下のお申し出を無駄にしちゃバチが当たるってもんです。猫の従士は昨日棒に一本当たっただけでもうお腹いっぱいですし、ラ・サンチャの暴れ蜂がばっちいバチに当たるなんてことにでもなりゃ恥ずかしくってもう、胸を張り大手を振ってはね震わせて懐かしの蜂の巣にも帰れませんぜ」従士は猫の両手をそれぞれ天秤の左右よろしく、然も意味ありげに上へ下へと交互に揺らして見せた。「ほんじゃお言葉に甘えて、騎士様にはより栄養価の高い心臓に近い方をお譲りしますんで、サンチョは右のパイの方をもぎ取って今朝の朝飯と代えさせていただきますですよ」

神に召されよバヤ・ポル・ディオス!、お聞き流しくだされ殿下」

「ほらたわわに実り朝露(原註:汗の粒ゴータス・デ・スドール)に濡れた果実は今まさに食べ頃――」

 ――ブロロロロルルルルルキキーッニィイイ!……プシュープススス

「え」

「バス来たやんお前ほんまテキトーなやっちゃな」腰を上げるミコミコーナは差し出された騎士の掌に自身の手を乗せた。「ありがたきお手々のシワとシワを合わせて……地図のみならず時刻表も満足に読めんのかいこの、ゲシュの勘繰りな――」

「いやひとつにまとめてくりよ見にくいだろコレ」

「マロングラッセ娘が……ほら乗んぞ」ラ・サンチャの介添えを受けて乗車口の段差を踏み締める。「――海外とかでもよっぽど治安の悪いとこは別だけど、タクる金ケチんなら結局は地下鉄使えってことよ」

「カネ」

「あ?」

「金、前払いみたいすよ」

「あっすんませんおいくら万円ですか?」

「二百十億円になります」

「億かあ……億は持ち歩いてないなあ……分割でも払えます?」

「殿下、御足は我等に任せてささ奥の方へ」ドニャ・キホーテが運転席の隣へ進み寄るなり、王女を車両の後方へと促した。「草鞋銭わらじせんは三足分、それがしの懐にてぬくめとったのがござるでな……御者殿はどうぞ存分に鞭を振るってくだされ」

「あっはいじゃ出発……御者?」運転手は一旦首を傾げたが、直ぐに業務を再開した。この国では鉄道だけでなく、乗り合い自動車さえも定刻通り運行させねばならぬ。例えばほんの半分はんぷん程度遅れただけでも次回の査定エバルアシオーンに響いてしまうものと見える。「――しまあす。危ないから席座ってくださいね」

 六百三十億日本円というと、例えば当時の金相場で換算するにドブロン金貨二百万枚ばかりに相当するわけで、もし真実ラ・サンチャの蜂がアフリカ象と同等の重量を誇る枚数の硬貨を携帯していたとすれば――何せ《魔法の板タルヘータ・マーヒカ》を所持する騎士のことだ!――それは彼女が無尽蔵に貯め込むことの出来る魔法の小銭入れモネデーロ・マーヒコを、何処ぞで偶さか手に入れていたが故に他ならぬとの妄想を、独創性オリヒナリダッに欠ける我々といえど逞しくせざるを得ないであろう。


とどのつまり騎士の金庫番フィナンシースタに返り咲いていた千代さんが会計を済ますと、長い車体の最後部の座席中央にやんごとなきアフリカ王女が踏ん反り返っているのが目に入った。

「――路線バスはマジわけワカメだから……何処に連れてかれっか、あんなん地元住民じゃなきゃ怖くて乗れねえわ」

「奥に詰めるかその、ボリューミーな桃をスクイーズするとかしてくれませんことにはうちらが座れませんがな」

「相も変わらずケツの穴の小さき娘よ」

「穴でかいつかユルいよかマシでしょ」従士は財布を手荷物の中に収めた。「こいつの紐だってもう少し引き締めたいとこですわ。出すもんは出しますけど出過ぎたマネーはそうそう帰っちゃ来ませんからな」

「ほら見よ、お前のご主人の小振りなおヒップ様であれば……どうぞどうぞ」

「では御厚意に甘えまして失礼をば」

「――このように何の問題なくすり抜けて、妾の隣に傅いてくれるってもんよ」先刻の返礼よろしくドニャ・キホーテの着席を促すように手を差し出すミコミコーナ。「今の菓子好き、つまり我らがドルチェ姫大好きっ子に掛かってたのよ、お気付き?」

「解説せんでいいけども……ケッツレイしまっす」わざとギアナの膝に尻餅つくような動作で無理矢理窓側へと押し入ったサンチョは、その重い腰を下ろしながら、「ミコさんはオシリスにしたらどうですかね」

「もう桃ですらなくなってるやん」オシリスが許されるならば、襲名するのがケツァルコアトルでも構わぬということとなろう。「てかオシリスはオスだろ」

「奥さんが……部長さん何てってたっけ? 息子と」

「おぬし昨晩オシリスホルスだかカリギュラだかと」小長靴皇帝カリーグラであれば男色に通じていても納得の人選である。「自分でそう申しておったではないか」

「申しておりましたっけ?」

「画像検索すりゃ一目瞭然だけどオシリスはその……オシリ側というよりはホルス側だと思ったぞ」

「成程念者ねんじゃであっても若衆わかしゅにあらず、愛する者エラステスであって愛される者エラメネスではないというなら幾分なりとも体裁を保てたものということでしょうか」騎士は腕組みをすると口吻を尖らせて以下に続けた。「アリストパネスじゃないけれど、《ケツの広がった奴》なんて二つ名はそれがしも御遠慮願いたいものじゃて」[訳註:古代ローマに於いて「ギリシア的で女々しい」との誹りを受けた男色は飽くまで《受け側ネコ》を演じた場合で、支配者然とした《攻め側タチ》である限りは寧ろ肯定される嗜好とされた]

「ほらな」[訳註:こちらが千代の発言]

「何がほらなだよ」

「細微に至るとは云い条、アテナイでは大根を突っ込まれたとも聞き及びまする」

「「げ」」[訳註:《栽尾さいび》なる単語も第十三章では既に言及されている]

二十日大根ラーファヌス肛門アーヌスになどと洒落てみたところで下ろし金の役にゃ立ちますまいに」蜂の騎士は眉間の皺を俄かに緩めると、我に返ったように首を垂れた。因みに日本で大根ラバネーテといえばこれは太くて長いダイコン――白いカブナボ・ブラーンコで、語義をそのまま訳すと《大きな根っこグラーンデ・ライース》となる――を指すことも憶えておこう。煮ても美味いし、生のまま擂り下ろし薬味として焼き魚等に添えても良い。「――っと、御婦人の前で口にする話題ではございませなんだ……お許しください」

「いえいえこちらこそ。鉛筆削りで筆下ろしされるようなもんで、」御子神嬢はまた訳の分からぬ理屈でラ・サンチャの無礼を不問に付した。「物持たざる身の妾としましてもあの、何だっけ……幻肢痛?――を禁じ得ぬところにございます」

「ちょっと全然何言ってんか分かんないですけど――」半坐家の長女は自分の両膝をピシャリと叩きながら、姉ふたりの迂遠な遣り取りに対し堪らず不服を申し立てた。「とりま全てが何となくパロミさんと愉快な仲間たちさんたちで脳内変換されちまってるので直ちに一時停止していただきたき所存ですよ!」

「あの方々は毎晩お盛んでらっさるからな」

 やれやれ水晶の心持つ読者諸兄よ、闇より出でし欲に塗れた唾棄すべき殺戮の数々ですら詩人が美辞麗句を尽くして謳い、数世紀を経れば立ちどころに英雄譚と化すのも歴史が実証する揺るぎなき事実とはいえ、先人の言の葉を弄し下世話な話題すら文化人類学の歓談へと仕立て上げてしまう現代の少女たちの唇から零れ出る甘い囁きの連なりたるや、我々の目を焼き耳を蕩けさせる邪悪な蛇の舌以外の何物でもないではないか? この真実の物語の語り部アベンダーニョはベネンヘーリとは面識もないし、ラニンボーラなるアラビアの歴史家についてはその存在自体を訝しんでいる一派に属するのだが、殊に実際余が知遇を得ているらしき友人ドン・ヤメーテ・ペニンポーリに限って一言申し上げる機会をこの場を借りて頂戴仕る栄誉に肖れたとしたら、彼は自身のキュウリペピーノ鉛筆削りアフィララーピセスに突っ込まれる未来を――それが刑罰であれ娯楽の一種ウナ・フォールマ・デ・エントレテニミエーントであれ――決して望まぬに違いないと、ただそれだけを語るのみに止めておきたく思う次第なり。[訳註:著者がこの小説を書き起こす大本となる音源の発信源とされるダメ・ヤメーテ・ペニンポーリの姓が、ある野菜の喃語であることを看破したのは第十三章掛川篇に於いて。Benengeli<berenjena《茄子ベレンヘーナ》、Peninpoli<pepino《胡瓜ペピーノ》とくれば、その法則性を踏襲したお次はRaninbola<rábano《大根ラーバノ》という理屈だ]

「あそっかドンキのとこってことは――」従士が不意に面を上げる。「キボーテの噴水のそばってことか」

「噴水? 水槽でなく?」ミコミコーナは百手の巨人センティマーノスに見下ろされつつ水中を揺蕩う熱帯魚たちの姿を思い返した。「ブルーレットの」[訳註:第三十二章冒頭を参照のこと]

「いやキホーテじゃなくて希望の……まァいいや」ドニャ・グリコの泉については現地に行けば解ることである。「この時間ならまだ朝の掃除してるおじさんとかに……どうだろ?」

「何の話?」

「まだ撤去されてねんじゃねえかと、ドニャキの旦那ャ」邪魔な双凸面部コンベクスィダーデス・イデーンティカスを避けて首を伸ばしたサンチョが主人に声を掛ける。「うちらが所有権を放棄した箒、ひょっとしたらまだ回収できるかもですな……ほら地下鉄に乗り換える時ついでに」

「おぬし《アリカンテの棕櫚箒》のことを申しておるのか?」

「単にさっき担ぐ担がないの話が出たから何となく思い出しただけなんすけど」跨って飛行できるなら兎も角、騎乗しつつ携行するには些か手に余るという理由で昨夜噴水池の縁に置いてきてしまったのである。「……まァ持ち歩くんは邪魔くさいし別に要らねえか」

「何キミら、こんな縁もユカリもない、ユーカリもコアラも居ない土地で――」

「パンダが居たってことは」千代さんは長姉の容喙に容喙を以て応じた。「笹くらいは生えてたかも知れませんがな」

「居たとしてもレッサーだろ、奴らは笹は食わんよ」ギネアはラ・サンチャの主従が、反逆の徒たる憎きパンダフィランドを遂に討伐し、首級の代わりにその糞塗れの生皮を剥いで持ち帰ってくれたことをすっかり失念したものと見える![訳註:尤も仮に巨人のパンダフィランドが菜食主義者だったところで、わざわざ好き好んで笹を食いはしまい。一応、熊笹の葉を煎って笹茶にしたり、大名筍とも呼ばれる寒山竹や千島笹の若竹である根曲がり竹のようにタケノコとして食用になるササ類もある。尚第二十六章の訳註でも解説した通り、二〇一五年夏の時点では巨熊猫ジャイアント・パンダは勿論のこと、小熊猫レッサー・パンダに関しても名古屋市内の如何なる動物園内を隈なく廻ったところで一頭たりとも飼育されては居らぬ]「なんや知らんけど朝の清掃活動にでも参加するつもりなのかね? 奉仕精神ボランティアで? こんなクソ暑い中?」

「しませんよ地元のラジオ体操だってサボってんのに。逆皆勤賞狙ってんくらいなのに」

「志願兵……義勇軍エヘルシト・ボルンターリオ、そうであったな」ドニャ・キホーテは剥き出しの膝頭を打つと、シェーンブルンにて花開く瞬間を今か今かと待ち侘びる晴雨傘を小脇に挟んで以下に続けた。「成程、桃も太腿もモモの内じゃ」

 斯くして名実共に《腿当ての騎士カバジェーラ・デ・ロス・キホーテス》となった阿僧祇花とその老若義姉妹のふたりは土瀝青を直走る車輪の上で揺られつつ、早くも直火で路面をジリジリと焦がし始めたラー=アメンの日輪が撥ね飛ばす陽射しを駅馬車の幌で躱しながら、一路《希望の泉》を目指したのである。

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