第47章 では憩いにして今一度の乾杯が再見せし茹だる三義姉妹に上げられるが、加え更に重大かつ強力なるは、添えられた行く行くは語るべき新たな冒険の兆し。

LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA

清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ

Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.


POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM

                    A Prof. Lilavach

Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.

Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).



第四十七章

では憩いにして今一度の乾杯が再見せし茹だる三義姉妹トレス・エルマーナス・デ・サーングレ・テルマールに上げられるが、

加え更に重大かつ強力なるは、添えられた行く行くは語るべき新たな冒険の兆し。

Capítulo XLVII.

Del descansado y otro brindis a segunda vista por las tres hermanas de sangre termal,

y además y lo que es más importante y potente aún, con algún indicio de una aventura nueva en el porvenir por contar.

[訳註:義姉妹の直訳には《血縁の/血盟の姉妹》の両義有り。《煮え滾る血のデ・サーングレ・テルマール》?]


《書物をその厚みコルプレーンシアを以て評価する手合いが居るが、それは恰もそれらが書かれた目的も創意インヘーニオスをというよりは腕力ブラーツォスを鍛える為であるかの如しなり》――そう看破したのはサラゴサの神学者バルタサール・グラシアンであった。[訳註:『神託手引と先見術オラークロ・マヌアール・イ・アールテ・デ・プルデーンシア』第二十七節、一六四七年著。見覚えがあると思い読み返すと、第四十四章後半グリコの噴水で溺水しかけた騎士が、従士の助けで兜を取り払われた直後に発した台詞はこれを捩った文言だった模様。道理で《腕》がbrazosブラーソスでなく古西語のbraçosブラーツォスなわけだ……因みに前章終盤にあった花蜂の中に同居する蜂蜜の甘みドゥルツーラ・デ・ラ・ミエール針の痛みロ・ピカーンテ・デル・アギホーンについての同じく花による引用も同書第五十四節からのもので、こちらもdulzuraではなくdulçuraと綴られていた]

 しかしながら今日び――則ち第三千年紀に生きる諸兄が小説を読むとすればそれは十中八九電子書籍シベルリーブロとしてであり、そうなると読者の手に掛かる負荷カールガは作品毎で異なる頁数の多寡に依らず、個人個人の所有する端末の重量のみに左右されることになろう。恥を忍んで手っ取り早く主旨を開陳するに、現代科学の急激な進歩が――例えば拙著『ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャとその従士ス・エスクデーラの千代さん(とその他の登場人物たちイ・ロス・オートロス・ペルソナーヘス)』に代表されるような――長尺なことだけが取り柄である一部の一大巨編アルグーナス・ノベーラス・ヒガンテースカス――日本人特有の言い回しを拝借させてもらうなら《木彫りのヘーラクレースエールクレス・タジャード・エン・マデーラ》とでも形容すべき?[訳註:ハナウドの学名Heracleumはギリシャの英雄が万能薬パナケーアとして常用したという神話に由来するそうで、実際に比較的大型の多年草でもあるが、仮にも優れた薬効を有すると認知されていた以上、役立たずを指す《独活の大木》の拡大解釈としては相応しい例示とも言い兼ねるのではなかろうか]――からその唯一の効験エフィカーシア(腕の筋肉の鍛錬)すらをも奪い去ろうとしているのを目の当たりにしたサルサ・デ・アベンダーニョも、徒らに時代の趨勢に抗うを良しとせず、これからは極力紙幅の節約に努めようと心を新たにするものである。

「ああ腹減った~下のご飯屋さんでピンクのタルタル食ったんがつい昨日のことのようだぜ……」

「いやあと十分二十分で実際昨日のことになるわけだが」

 次女神ベルダンディの湯上がりを待たずに遅い夕食を開始した駿府の義姉妹の長姉と末妹は――というのも順次浴室に入ることを考えれば揃って食卓用寝台カメーサ・デ・コメドール[訳註:西cama+mesa《寝台と机の兼用?》。綴りの近い単語にcamisa《襯衣》、camuesa《乳房林檎》]を囲む頃には日付を跨ぐことになり兼ねなかったからなのだが――、ラ・サンチャの主従が思い思いに若しくは心を一つにして市内を彷徨いている間にハプスブルク家の敷地内で出来した事と次第について、一方が他方にその時点でもう大方説明し終えてしまっていたのだが、それは要約すると概ね以下の通りであった。


二〇一五年八月八日十九時、ほぼ定時に幕を開けた《シェーンブルンの夜伽》名古屋公演が、狂信者たちファナーティカスの尋常ならざる喜悦や恍惚と共にその演奏曲目一覧レペルトーリオの半ばを越えようかという頃のことだ。突如として音楽会場側面の出入り口が開かれた瞬間を気に留めたアマデッコは――扉の周辺に居た数人も含め――殆ど居なかったものの、どうやら闖入者は外で待機していた見張りビヒラーンテの制止を振り切って強引に押し入ったようであった。

「それどころじゃなかったってそれですかよ」[訳註:前章での久仁子の発言を引いて]

 舞台上の《神を愛する四人ロス・クアートロ・ケ・アーマン・ア・ディオース》は構わず彼らの仕事を続行するも、仕切り柵間近まで詰め寄せる観客たちを乱暴に掻き分けるようにして何やら喚き散らしながら進む侵入者インバソールの目に余る狼藉を見兼ねた声楽家が、支持台ソポールテから取り外した手持ちの小型音声器ミクローフォノ・デ・マノを片手に歌唱を止めることなく下界へと降り立つや悠然と歩み寄り、男の肩を叩いたその空いた手で境界線の内側へと招き入れたのだと言う。鼻息を荒くした招かれざる招待客インビタード・マルベニードは幾分落ち着きを取り戻しながら柵を跨いだが、俄に周囲を見回すと屋敷の主人たちアンフィトリオーネス・デ・ラ・マンスィオーンの断りもなく舞台へと攀じ登った。高い位置から参席者一人ひとりの顔貌を確認する為であろう。

 それでも演奏は中断されなかった……ところが一分ほど目を皿にしつつ板の中央セーントロ・デ・ラス・ターブラスを占拠していた男が矢庭に「こことちゃうんかいペロ・アキッ・ノ・エスターンボケェホデール!」と叫ぶや否や、前触れなくそこから飛び降り、柵を蹴り倒して広間を奥へと突っ切った……ここでも紅海は容易くその両脚ピエールナスを開いたものと見える![訳註:前章の会場前路上にて、花を警戒した人垣が左右に割れた情景を指している] 

「――で、そいつがまっすぐうちらん方に突進してきたわけよ」

「っえッ?」

「ほら小猿はアマギャの中に紛れてたけどさ、アシとレンちょんは別にアレだからずっと壁の花っつか、壁と同化して壁紙みたくなってたんさ」

「壁の花紙……くそ、行くなら小猿んとこ行きゃいいのに!」

「いや行かんだろメガネナシザルんとこには……密林ん中で新種発見したハンターじゃねえんだから」

「まァポケモンハンターでも行かんかもな」

「だろモンハンでもスルーだわ? そのチンピラだってあの場でうちらがトップツーの美女だと、芳しきフローラルな香りに誘われたんだか何だか知らんが暗い中でもそう見破ったからこそステージの上からわざわざ端っこまで飛んで来たわけっしょ? 小猿なんか仕留めたって大して毛皮も取れんしさ、何だインディ・ジョーンズとかハンニバル・レクターじゃないんだから頑張って頭蓋骨開いて、ミニサイズのクソ不味い脳ミソくり貫いて食おうとも思わんじゃないのよめんどくさい」

「ニコの話はいいですよもう……そんで?」

 千戦錬磨ベテラーナ・デ・ミーレス・バタージャスのミコミコーナもこの時ばかりは身構える暇もなく動揺を禁じ得なかったとされる。傍らのドゥルシネーアに肩を寄せつつ何か防壁代わりとなる小道具はないかと、咄嗟に手荷物の中身をまさぐらんとした――その刹那、

 ――ドッカムカタプルーム!……美女ふたりまで残り一歩というところで男の顔が急に停止したかと思えば、足を滑らせたというよりはまるでハサミ式ティヘーラ[訳註:足球フートボルに於いて背面から宙返りするような体勢で空中の球を蹴り飛ばす技で、英語では一般に《自転車蹴りバイスィクル・キック》と呼ばれる。前章終盤に展開されたジャンケン話からの連想か。別名《チレ式チレーナ》]を試みるかのように――おお、五条橋の擬宝珠の上で我等が蜂の騎士が宙を蹴り上げたのを思い起こさずにはおれぬではないか![訳註:第三十九章参照]――豪快に転倒した。東国の両嬢は面食らったが、何が起こったかは瞬きひとつする前に知ることが出来たと謂う。破落戸の直ぐ後を追い掛けてきた第一の狼が、既のところで男の襟首を引っ掴み、地面へと引き倒したのである。

「え――カッ、閣下が?」

「ビックリすんでしょ?……で折角カッカも加勢してくれてんのにオラも何かせな思って……ほらノブリス・オブリージュ?、カバん中まさぐってたら偶然?、催涙スプレーが手に当たってさ」

「ぐぐ、偶然?」

「うっかりハッピーデオかと間違えて、仰向けになったそいつの顔に近付けて噴射したわけよあくまで護身のためよ?」

「ハッピーデ?――いや、いや逆だろ……でもさすがミコさん度胸あんな。私だったら絶対ビビって固まってるわ」

「やホラ、逆にビビった時ほど身体が先に動く系女子だからさ……それにまず姫を守らにゃならん立場なわけじゃん? メガネならどうなろうと知ったこっちゃねえが」

「まァそういう奴に限って安全圏にいるからな」

「んで反射的に閣下とハイタッチしちまったよ」

「いやそれは吹かしだろ……でもカバンの中に武器無かったらどうしてたんよ?」

「そこはオイラ電車ん中でケツ揉んできた奴の指折ったことあっから」

「お、おう……えっ? いつもは痴漢する側なのに?」

 悶絶する男(電車内の痴漢アコサドール・セクスアール・エン・エル・トレーンではなくつい数時間前の話だ!)を地下空間後部の床上に放置したまま、然も何事もなかったかのように演奏は再開されたが、三分もせぬ内に扉を開け放った二三名の警官が――担当者が通報したのだろう――雪崩れ込んできて、そうなってしまうと流石の狼たちも演奏を一旦中断せざるを得なかった。

「で実際何だったのそいつナゴヤンキー? ジャンキー?」

「普通にフラフラつか、泥酔してたっぽいな」

 五分ほどで下手人コメテドールが連行されれば間もなく《晩課ビースペラス》は無事仕切り直し――という見通しはどうやら甘かったようで、渦中の人物が消えた後も制服ウニフォールメスは一向に立ち去らず、八時半を回った辺りでこの公演はこのままお開きになるだろうと、その場に居合わせた多くの者たちは半ば諦観を持って、それでもただ待つしかなかった。

「始まる前とかならまだしもさ、半分以上過ぎてたら中止になって結局再開しなくても普通に考えて払い戻しとかはねえべ」

 余りしつこく絡んでも煙たがられると考えた御子神嬢は、安藤さんが携帯をいじっている最中の手持ち無沙汰を現場で待機する巡査に必要最低限の情報公開を求めることで埋め合わせる手段とした。公僕の方も着飾った数十人の晴れの晩ノチェ・ソレアードを自分たちの事務的な業務で台無しにしていることに全く引け目を感じていなかったと言えば嘘になろう。そういった罪悪感も手伝って、特に守秘義務デベール・デ・コンフィデンシアリダッ箝口令レイ・デ・モルダーサもお構いなしといった具合に振られた問い掛けに対しては気の毒なほど素直かつ丁寧な回答を返してくれたようだった。

 先ずギアナ王女による対ヤク中噴霧剤アエロソール・コントラ・ロス・コカラーチョス[訳註:ゴキブリクカラーチャに対し《精神刺激薬コカ愛人ラチョ》か。麻薬常習者に顕著な異常性を感知したということだろう]の餌食となりし件の男に掛けられた容疑は、不法侵入と不退去罪および違法駐車に対するものとのことである。取り分け彼が乗り付けた車両は路線乗合自動車アウトブース・デ・ルタ・フィハの乗り場の真正面に駐められており、まだ運行時間帯であったことも手伝って殊更に厳しく咎められたと謂う[訳註:道路交通法第四十四条により、停留所の前後十米は駐停車禁止]。飲酒運転については到着後である可能性も鑑みて、その時点では保留とされた。肝心の侵入目的は不明だが、何やら人探しをしていたらしいとその警察官は語ったのだそうだ。

 更に今宵の捕物アレーストに於ける最大の功労者のひとりと目された王女は自ら――

「その地下の国のポリスのメンズに感謝状とかくれるんですか?って訊いたらさ、」

「感謝状……欲しいすかそんなの、額に入れておうちにでも飾んの?」

「いや紙切れは早速来週の可燃ゴミの日だろうけど、そういうのってホラ金一封がセットのお値段かなと……めっさ苦笑いされたけど」

「……下手したらミコさんが傷害罪なんだからむしろプラマイゼロでしょう」

 そろそろ終演予定時刻も迫ってきたことから、ぼつぼつ帰り支度を始めるアマデッコもちらほらと見え始めた矢先、会場の運営者アドミニスタドールより漸く為された発表によると、例外的に利用時間を延長し予定した全曲目の演奏が終了するまで地下空間を開放するとのことだった。

「まァ管理体制というか……防犯面テキトーだった負い目もあったんでしょ。勝手にサツ呼ばなきゃあんな大事にもならんかったんだろし」

 以上のような経緯もあって寝物語は二十二時まで継続され、その直後の物品販売も――多少時間は短縮されたにせよ――しっかりと開催された模様である。一連の説明により、希望の泉の畔で着信した電話のエル・トボソが未だ地上に戻っていなかった理由[訳註:第四十四章参照]および前章で語られた如く楽団員のバラシ時間オラ・デ・ディスペルスィオーンが斯程に夜半までずれ込んだ成り行きに関しても、聴講者アウディエーンシアの得心が行く程度には充分な辻褄合わせが叶ったように思われた。


「――で結局のところ、」半坐千代は弁当に入っていた揚げ物を齧りながら以下の如き疑問を呈した。「そのイカレボッチは一体誰を探してたんでしょか?」

「そりゃご本人に訊いてみなきゃ分からんけどよ」王女は缶入り麦酒を煽ると、「SS的に妄想すっと、ヤツの女がアマギャでさ……推しのノロケみてえな礼賛ばっかいっつも聞かされてて内心超ジェラ嫉妬とストレスをストレートに溜め込みつつ黙ってヘラヘラ笑顔で聞き役してたのがさ」

「いそう」

「カノジョがミサってる今日この日によ、ひとりでイジケて酒飲んでる内に気付いたらそれまで鬱積したもんが爆発しちゃったとかでさ、んでハコ調べ上げて遥々名古屋くんだりまで車飛ばして、ほんでいっそ皆殺しにしたるでみたいなノリで――」

 何処かで聞き齧った挿話である。[訳註:言わずと知れた第二十九章に登場せしボルランドの境遇に酷似した類例だが、彼に限っては第四十一章で一応の解決を見ている]

「大した妄想力だがそれじゃテロの第一の標的バンメンじゃねえかどう考えても」

「まあそこは凶器とか持ってなかったぽいし……狂ってる方の狂気には満ち満ちていたけども……いざ現着してみたらその頃にゃ酔いも半分くらい冷めててさ、女を探して無理やり連れ帰るかくらいにノルマ下方修正したんじゃねえの? 見た目イカつい割に中身はチキンだったとか知らんけど」

「ケンタッキーはフライドカラスで充分だっての!」

「不味そうだなっつかカラス食ったら腹壊すだろ」寄生虫や病原菌の観点からは、素人目に見ても生食コンスーモ・エン・クルードに向かないことだけは断言できる。「でカノジョが逃げちったのか元々全然別のライブハウスだったんか見つかんなくって、腹癒せにつか引っ込み付かなくなってあの、手ぶらじゃ帰れね~みたいなノリだったんか知らんけど、下々しもじもの集う空間で段違いにズバ抜けてた俺たちツートップの――」

「それはもう分かったよ。既に玉にキズだらけな中古のミコさんはともかくとして、」

「せめてヴィンテージと云えや」

「ビンテージ……として、アンドー部長さんがそんなデバネズミの毒牙に掛かってキズモノにされずに済んで不幸中のお祝いですなあ」

「赤飯モンだよな」これは小豆等の赤い豆と一緒に調理することにより、赤味を帯びた状態で炊き上げられた米飯だ。赤は演技の良い色なので主に祝いの席などで供される。「そういう意味でも一歩間違えりゃ流血沙汰だったわけだが……出血箇所が何処になるかは別として。レンちゃん絡みだし今ちょうどここに居ねえことだし、ハナちゃんには内緒にしといた方が無難かな要らん心配掛けても何だから」

「まァあえて隠すこともないけど、わざわざ話さんでもよかでしょう」千代さんは一旦割り箸を持った手を下げ、ふと玄関の方を顧みる。「……いつまで入ってんだ?」

「ガス代気にせずお湯使い放題なの考えるとそこそこ分かりみある」

「お風呂はガスか……アレ水道代とガス代ってどっちが高いんすの?」

「一人暮らししたら分かるよ」花も三軒茶屋では家族と同居していた筈だ。「ってサンチョの髪どうなってんの?」

「何が?」

「バスガス爆発とまでは言わんけど何つうか……カラスっつかツバメの巣みたいじゃん」

「えっえ~~、そこまでじゃないでしょ?」両手で頭頂部を抑える千代さん。「ハナちゃんの変貌っぷりと比べたら誤差の範囲内でさ」

「いやアッチは髪の長短にかかわらず天使だから」

「逆にミコさん髪まったく乱れてないの何なの?……違う、出てった時と微妙に髪型変わってないか?」

「おっと違いの分かるサンチョなのか……」

「イケ好かねえ読モみたいになってんよ写真だとシャレオツだけど生で見ると何か」

「いやミサの最中はアシ異教徒だし髪とか乱れようもなかったんだけどさあ」御子神嬢は自身の長い髪を指で弄びながら以下に続けた。「その、アウトオブベースにさ、ブッカケてやった直後は割と余裕だったんだけど」

「アウトオブベースって何ですか?」

「サツにショッ引かれて居なくなってから何つうか遅まきながら?、シッコちびりそうになってきてさ」

「トイレ混んでたんか?」……いや、この心的外傷後にやや遅れて生ずる記憶反復レクエールドス・レクレーンテスについては我等が中学生にも――それもほんの半日前に――覚えがあったのではないか? 尤も《筋肉痛の法則レイ・デ・ラス・ミアールヒアス》が正しければ、精神的な若さフベントゥッ・メンタールに於いて彼女はこの扇情的な女子大生にすら遅れを取るという診断となりかねないのだが。[訳註:第二十六章の客室内、馬場嬢との会話を契機として二日前の本坂峠での経験を想起し、俄に我を忘れる件が確認できる。その際に加齢と共に筋肉痛が遅れてやってくるという俗説を匂わせる独り言があったが、十分かそこら前の恐怖を追体験できた御子神は、肉体的には兎も角気持ちの面では千代よりも若々しいのでは?――という、従士からすれば聞き捨てならぬ問題を提起している]

「ニコニコーナちゃうわ。イライラっつかムラムラしてきたから、ここで個室籠もるのも何なのでな、ライブ中断してて無音な中独りでヘドバンしてたりしてたらさ」

「こっわ! それ捕まった奴よりヤベー奴じゃん!」安藤嬢は如何なる表情をしてその様子を眺めていたのやら!「怖ええ……コレに関しちゃその場に居なくて良かったわ」

「で一通り荒ぶって独りでスッキリしてたんだけど、気が付いたら髪がヤベーことになってて」洗濯機の回転槽タンボール・ロタトーリオ・デ・ラ・ラバドーラに頭を突っ込んだのとそう変わるまい。「したらハコん中に偶然モノホンの美容師の姉ちゃんが居てさ」

「偶然! 何そのお客様の中にお医者様はいらっしゃいませんかムーブ」

「しかもよ?、こっちがちょっと下っ腹抑えて……アレ、生理来たかな?……それとも糞詰まり?」

「その違い本人分かんねえのもう他の病だわッ!」

「……からの子宮筋腫……と見せかけてただの想像妊娠?とか自問自答してたら」大した想像力である。[訳註:《想像上の妊娠エンバラーソ・イマヒナーリオ》に対し《恥ずかしい想像力イマヒナシオーン・エンバラソーサ》]「頼んでもねえのに――いやありがてえんだが――向こうから《吾輩は婦人科の権威だが如何為されたかなお嬢さん?》と歩み寄ってきた感じで」

「男の人なの?」

「いや姉さんだって」男性形の姉さんエルマーナ・マスクリーナも居るだろう(共通の知人に)。「んで《さっきはカッコ良かったですね~》とかアタシの活躍を褒め称えてさ、《良かったら直しますか~?》って道具出して……気付いたらタダで名古屋巻きにしてくれてたぜ」

「な……名古屋巻きって天むすの海苔巻きバージョンじゃなかったんか」

「エクステ出された時は流石にご辞退申し上げたけど」その美容師も時間を持て余していたのであろう。「その人も別にアマギャではなかったらしいんだけど何か昼間偶然タダ券貰ったとかで……いや普通に洗脳されてたけども、流石に出待ちまではしてなかったなその辺節度を弁えてるというか」

「あの場に残ってくれてたら私もタダで直して……あまつさえエビ天かフライドエビ巻いてもらえてたかもしれんのか」

「お前ミコ様に無料で髪も顔もヤラせといてどの口が云うねん中華の高級食材みたいにしちまいやがって!」

「いや色々あった上にメット被せられたし……何フカヒレ?――あっ北京ダック?」

「ツバメの巣といや結局何だったのアレ?」王女は蜜姫や蜂の騎士不在の今こそ好機とばかり、今まで気になっていた些か尾籠なる謎について切り出した。「大須観音とこでハトの襲撃っつか、集中砲火でも浴びたんかあの異常な量のウンコは?」

「私まだ食事中なんだが」

「オレもだが?」

「ほんとだ」

「熱中症対策でハトのフン実装したミストシャワーでも設置されてたんか?」

「アレは……いえ、ウンコじゃなくてインコな」

「えっインコ? アレってインコのウンコなの?」インコとは鸚哥ペリーコスのことで、同じく美しい羽根を持つ鸚鵡ローロスよりも小型の話す鳥アーベス・パルラーンテスだ。「何、君らオーストラリアか南米の山ん中でも探検してたんけ?」

「いや違いますけど……インコ違う」

「どっちなんだよ」仮に真実あれがインコの糞であれば、雨合羽の斑模様パトローン・デ・マーンチャスもより細かな図柄となっていたに違いない。「ウンコならインコよりアンコ寄りじゃねえの?」

「やめなさい。白かったしね」

「塩大福……豆大福的な」同じ小豆が原料でも、赤飯の米は赤く染まり、饅頭の中の練り物パースタは黒いのである。「あっ、白だったらエンコじゃねえの?」

「エンコ……エンコード……エンジン故障……エンコ採用はブラックなのでは?」

「そういう科目がテストん中にあったら赤点取らずに済むのにな……お前ウユニ塩湖知らんのか世界遺産だぞ?」残念ながら世界遺産ではない。ギアナ王女は新しい飲み物を取りに腰を上げがてら、浴室の方へと首を伸ばした。「ちょっぱいの騎士さま流石に遅すぎじゃね?……世を儚んでリスカでもしてんじゃあるまいな」

「エンコでもねえこと言いなさんな動機は? 折角再会した織姫とまた離れ離れになっちまったから?」千代も手にあった菓子袋を敷布の上に投げ出すと、勢い良く立ち上がって以下に続けた。「アイスくらいは流石にみんな揃って食うべきか……でも栓してお湯出しっぱにしたまま、湯船ん中で寝ちゃって溺れてる説には一定の信憑性というか、一概には一蹴、しかねる現実味が――あ、る」

「塩分濃ければ溺れようにも身体浮いちゃいそうだけどね、ほれ死海とかさ」

「うつ伏せになってたら浮いても息できなくね?」それこそ土左衛門だ。

「ここの風呂うつ伏せで浮かべるほどそんなでかくねえだろ」浮力を得るには水面で全身を広げる必要がありそうだが、共同浴場ならいざ知らず個人で使う日本の浴槽などその広さや深さを鑑みれば、両手で膝を抱え縮こまって漸く収まるといった寸法であろう。御子神は瓶の蓋を素手で回し開けた。差し詰め廉価な葡萄酒か?「ちょっ――コンコンってやってみ? マジ寝てたら風邪引いちゃうかもよ」

「ほ~い」

「んで洗面所にグラスあったらもらってきて」

「ほ~えっ、そっちに何かインスタントの飲む用みたいの置いてなかったっけ?」

「夕方サンチョがシャワー浴びてっ時にメガネ女が各種勝手に飲んでたのがそのまんま」

「何なんマジで、どんな菩薩なら奴に優しくなれるんや……」友人や人間としてではなく、いっそ煩わしい愛玩動物マスコータ・モレスティータくらいに割り切って付き合うしかなかろう。「時にアナタ酔っ払ってなし崩し的にここで寝ちまうって計画犯罪企んでません?」

 千代さんが浴室の前に立ち、石の詰まった袋を握り締めたダビド像の左手を模するが如き姿勢で以て今にも戸板を叩こうとした刹那――Gachari...[訳註:原文まま]、奇しくも僅かに先んじてその扉がほんの少しだけ開かれた。


中学生が不意を突かれて後退る。

「おっと」

「あっごめんチヨちゃん――さん、そっちの棚に寝巻きみたいなの入ってたら一着取ってくれる?」

「お安い……驚安の御用で」従者は背後の衣装棚を開けた。

「ドニャ様、パジャマでおっじゃっま~」寝台の上から声を掛けるミコミコーナ。[訳註:翻訳では«¡Jámame, Pijama!»。動詞jamarは《食べるコメール》の口語表現なので、直訳すると《私を食え、寝間着よ!》となる]

「あっいらっしゃい。お見送りご苦労様でした」

「お邪魔だけどパジャマではないだろ」寧ろ食後の飲酒の方に数倍の時間を費やしそうな長姉にそう吐き捨ててから、扉の隙間へとそれを差し入れる千代ちゃん。「さっき私も着ましたがまあまあでしたよ」[訳註:《食うのは常にアンタでエーレス・トゥ・ラ・ケ・ロス・ハーマス・スィエーンプレ食われたことはないだろペロ・ナーディエ・テ・ア・ハマード・ハマース》]

「ありがと。着る服なくなっちゃったんで、寝る前に洗って干しとこうかと思って」

「いいっすね。シャツとかショーツくらいなら朝には乾いてるっしょ……でもお湯洗い? 洗剤とかは?」

「ボディソープで。界面活性剤とか入ってるだろうからまあそこそこ落ちるでしょう」

「シャンプーとかのが傷まないんじゃないの?」王女が声を張り上げた。扉は玄関側に開くようで、部屋の奥からでは浴室内の花の様子が殆ど窺えないのだ。

「そんな高い物着てないんで大丈夫です」一旦扉が閉じられる。

「いやあ切ったら切ったでデルモ感エグいっすねえ~」

「いっそ坊主にしても全然イケるでしょ」僧衣アービトを捨てたのは早計であっただろうか?[訳註:客室内の屑籠に廃棄するならばまだ手遅れではない――とはいえ他の衣類と一緒に洗濯すべきではなかろう]「結局何があってああなったんだろ……毛髪寄付ヘアドネーションでもしたんか?」

「献血のノリでやりかねませんな――っとすんませ」凭れ掛かっていた戸板に押される。

「お先に頂きました……お次どうぞ」

「あっじゃあ着替え――」

「ハナちゃん」

「はい?」

「髪ちゃんと乾かした?」

「ああ、短くなってたのでまあいいかなと」

「キューティクル開きっぱで自然乾燥さすと髪パッサパサんなるで?」角皮クティークラとは爪上皮や毛髪の外側を覆い保護する組織のことである。「エル・コンドル・パッサパサやで……あれ、これもスペイン語?」

「ですね。一生懸命羽ばたいてくれたら直ぐ髪も乾きそう」

「いや怖いだろ目の前でコンドルにバサバサされたら」ここでカラスに頭部を蹴飛ばされた別の心的外傷を惹起する哀れな猫の従士!「つってもキューティクルハニー部長だってパサパサよりはサラサラの先輩のが喜んどるでしょう」

「日本語おかしいが……いつもか」

「さすがサラサーティ厳しいな!」

「だ~からサラサーティじゃねえっつの」

「でも早く汗流したいでしょう」

「全然待ちますっつかむしろ食い終わるまであと四五分掛かるので……あっ、ミコさんがサグラダファミリマで弁当とか諸々買ってきて差し入れてくださいますた」

「えっすみません、お気遣いいただいてありがとうございます」

「いえいえそんな、粗品というか粗食で恐縮ですけど」扉が閉じられると数秒後には戸板一枚隔てた密室内で乾燥器セカドールの風音が鳴り始める。「もう裸じゃ出てこなかったか……」

「あ?」

「見た目よか中の人の急変っぷりの方が……まァどっちも萌えるけど」

「いや見た目九割って自分で言っとったやん自分[訳註:第三十二章参照。花の性格付けカラクテリサシオーンを唯一無二と激賞する御子神を受け、中身が奇人でも外見が自分であったら興味を持たなかっただろうという千代の指摘に対し彼女が示した答えがこれであった]」余程奇抜な髪型に転向しでもせぬ限り、当人の美醜がそうそう左右されるものでもあるまい。「――あっコップ忘れた。すまん」

「いいよ後で」そう言って瓶ごと喇叭飲みするミコミコーナ。この場で飲酒できるのは自分だけなのだから他人を気に掛ける必要こそないとはいえ、自身の健康についてはもう少し気遣いが必要だ――と思われなくもない。「んあ~、全然違和感ないことに違和感ある……がまあいいわ」

「まあいいわじゃないわ。ミコさん名古屋には誰か友達住んでないんですか?」

「そんな人を港々に女いる船乗りみてえに……フニャチンじゃなくて船賃を寄越せよと」

「意味分からんよ船乗ってんの自分やん。まァ友達は元からおらんにせよ舎弟さんは?」既に便利店の弁当容器を空としていた従士は改めて菓子麺麭ボージョス・ドゥールセスを物色し始める。「パート2はおらんのですか?」

「今更射程外……よりは……舎弟まい……ない……舎妹内の――」

「寝るな寝るな何だしゃまいないて」冷たい緑茶の半分だけ残った可塑性瓶の底で王女の頭を打つ。「バレたら本気で怒られますて」

「いや実はね、」急に跳ね起きるギアナ嬢。「――ニコラス・ケイジが荷物取りにここ戻ってる隙にさ、フロント行ってアシも泊まりたいんだけどって申し出たんさ」

「先に言ってえな……じゃお部屋取れてるの?」

「部屋は別の階にまだ残ってたんだけど、ハナやんと同じ部屋に泊めてけろって」

「いやサンチョはどうなんのよ」

「したらお部屋のサイズ的にエキストラベッド入れらんないって抜かすから、いえわてくしはアソーギ様と同じベッドで……同衾?すっから心配ご無用と」

「ホテルの人困らすなよ」

「金はシングル一室分ちゃんと払いますからって」

「金の力に物を言わすな……しかしそれをシラフの時に出来るのはちょっと凄いな」そうは言っても一室毎の定員は厳密に定められているだろう。[訳註:興味のある方は旅館業法や消防法を参照されたい]「でもオッパイセンが同じ布団で寝たらよ、寝返り打ったが最後その乳で弾かれてチッパイセンベッドから落ちちゃうだろ」

「人の乳をおっぱいミサイルみたく云うなこら」余談だが中南米で女性の乳房ママを《チチ》と呼ぶのはナワトル語の《授乳するママール》を表す動詞に由来するのだそうだ。日本語の《チチ》に関してはアベンダーニョの知るところではないが、以前記したように《チ》がサーングレであることを鑑みれば、存外母乳レチェ・マテールナには《二倍の価値があるティエーネ・ウン・バロール・ドーブレ》という示唆でないとも言い切れぬ。但しそれと同時に《チチ》のもうひとつの代表的な語義がマードレではなくパードレである点については、東方の言語に疎い筆者からしても日本人の倒錯的な感性を認めずにはおれぬ。

「何すかそれ大陸間弾道おっぱい?」

「飛び過ぎだろ世界を股に掛け過ぎだわ……何だっけインターコンチネンタル……バスト?……ブレストか」

「母乳を噴射して攻撃するの?」成る程、こちらのICBBは《弾道自転車バリスティック・バイク》ではなくどうやら《弾道オッパイバリスティック・ブーブ》の方であったようだ。(ICBPでなかったのだけがせめてもの救いだろう!)[訳註:ICBBについては前章終盤を参照のこと。BPは勿論《弾道ウンコバリスティック・プープ》]

「それはチクビームだろ……いやアレ、サンチョはロケットパンチって知らない?」

「知らない。大陸間弾道パンツってこと?」着物を纏っていた時代の日本で下着といえば現代でも相撲取りが装着しているようなフンドシが主流であり[訳註:西洋人の中には冗談が通じない読者も居ることを考慮すべき箇所]、女性は基本何も身に着けないか腰に専用の布を巻き付けるのみであったとされる。洋装が浸透して漸く下穿きカルソンシージョスの着用が普及するが、主な輸入元が合州国である限りここは《汎太平洋弾道下穿きパーンティス・バリースティコス・パン=パシーフィコス》と称する方が理に適っているとも考えられる。[訳註:そうなると豪州や中南米、東南亜細亜等も巻き込むことになってしまうから、矢張り《大陸間インテルコンティネンタール》が無難であろう]「ヒラヒラ宙に浮いて風に飛ばされるってんなら分かるけど自分で飛ぶか?」

「自分で飛ぶ?」

「例えばおならをジェット的な推進力にするのであればむしろパンツは脱いだ方が飛行効率も上がるであろう」

「オレもまだ飯食ってるんだって!……広げたパンツを飛行機の翼代わりにして揚力を発生させればいいだろ」滑空のみで太平洋の横断を試みるのは現実的でないので、何れにせよ何らかの発動機を搭載する必要が生ずるに違いない。「……いや破れるわ、ロケットパンツじゃなくてパンチだってのもうどうでもいいわ」

「墜落して太平洋の海原をたゆたうパンツには郷愁[訳註:哀愁?]をそそられますな……海面もさぞかし活性化するでしょうに」

「どこまで深読みしていいのか分からん表現だけども」中学生の発言に特に他意はないと思われる。「さっきの塩湖じゃないがそこまで海水に浸っちゃったら生地もボロボロだろうよ……穴も空いてっしもう使いもんに――」

 ――ガチャリクラック

「お待たせしました……」

「おっと塩の――騎士様おかえり」食事中でも緑の冗談チーステ・ベールデは飛ばせるが、一度その輪に高潔な人物が割って入ると然しものミコミコーナとて赤面してしまうセ・ソンローハものなのだ。「湯の花はいかが……塩の花ってのもあったっけ?――でしたかな?」

「結構な湯加減で……紫苑の花というと紫色の、菊の仲間ですかね。ちょうど今頃咲いてる――」このシオンこと《星花アステール》もアジサイこと《庭花オルテーンスィア》も、漢字では揃ってプールプラの文字を含む。今や騎士の紅玉ルビは同じ鋼玉類コリンドーンに属するその従士の蒼玉サフィーロと混じり合い、不可思議な化学変化を経て紫水晶アマティースタへと変じてしまったのだとでも?(もしそうであれば、共に稀少性ラレーサは大きく減じてしまったこととなるけれど)[訳註:紫水晶が属する石英クアールソは理論上鋼玉とは共生しない鉱物とされる]

「いくらなんでも長湯し過ぎでしょう」千代が冷蔵庫から程良く冷えた飲料を片手に出迎えた。「先輩の方こそフヤケてシワシワっつかシオシオの騎士になっちまったんでは?」

「シオシオ……かたじけない」一瞬自身の指先の裏表を確認してから、差し出された可塑性瓶を受け取って頬に当てる。「シオン修道会ならテンプル騎士団だね」

「シオンシオン……何だっけ高校の授業で歌聴いたな」御子神嬢は目を細めた。「あ、ローレン・ヒルだ……ローレン・ヒルの息子の名前」

「英語読みだとザイオンですか。エルサレムの山――丘かな、ダビデのお墓がある」

「ああ何か思い出してきた……ダビデってフルチンの人か」

「フニャチンどこ行った」

「実際にはイスラエルというよりアフリカなのかもですけど。まあ難民レフュジーズからのフージーズですよね」

「おっしゃる通り、妾も早く祖国アフリカの土を踏みたくてこの土踏まずが疼いておるよ」

「名古屋巻きがアフロを語るなよ、何が昼ですか窓の外をご覧なさいな」車輪付き鞄マレティーン・コン・ルエーダスから着替えを取り出しながら猫目の従士が欠伸混じりの呆れた声を出す。「塩で食う天ぷらじゃなくてお気の毒ですが、今日はタレの掛かったフライドエビで我慢してくださいな」

「悪かったな。タレというかソースな」

「神とミコガミ様に感謝を捧げて有り難く頂きます」

「名古屋じゃ無理でも東京帰ったら、」小走りに部屋を縦断した千代が、最後に浴室の戸板の端から顔だけ出して捨て台詞を吐いた。「――ミコミコーナ様がアフリカ奪還のお礼に今度は六本木か、表参道?のビバリーヒルズで天ぷらご馳走してくれましょうからせいぜい楽しみにしときましょう」

「はい」

「ガキに食われれば……金が無くなり法隆寺」何処かで聴いた俳句である。「ビバリーヒルズじゃアメリカだぞアフリカのヒルズにしろや!」

「はぁ、びばのんのん……いやそれ言ったら牡蠣は天ぷらというよりフライだろ?」

「ほらビバノンはいいから早く浴びといで」これも何処かで耳にした記憶がある。

 そうして扉は音を立てて閉まったが、王女は又もや葡萄酒を注ぐ為の洋盃コパを受け取り損ねてしまうのであった。(尤も硝子瓶の中にまだ葡萄汁の一滴でも残っていたらの話ではあるけれど)


それにつけても全く我々の理解を超える少女たちの立ち直りの早さラーピダ・レクペラシオーンときたらどうしたものだろうか? あれほどの辛苦を重ねて越えた数多の丘ムーチョス・モーンテス――少なくとも二座の岡ドス・コリーナスを[訳註:勿論道中通過した静岡と岡崎のこと]――だけでは飽き足らず、そればかりかつい今しがた踏み締めて間もなき乳と蜜の溢れる約束の地ティエーラ・プロメティーダ・ケ・フルージェレチェ・イ・ミエール[訳註:ミサ会場とシオン山を照らし合わせている]の感触すら記憶に新しい今現在を以て、もう巡礼すべき新たな聖地ヌエーボ・ルガール・サント・デ・ペレグリナシオーンに思いを寄せるとは! 労多くして功少なきトレントでの公会議を解散した矢先の皇帝カルロスや三人のマリアを出産したとされるサンタアナにしても、その直後に《もう一度オートラ・ベス!》とせがまれたところで容易には首を縦に振らなかったと考えるのが至極当然なのではないか?

「残りモンでしわけないもなんだけど」

「いえとんでもない……随分と色々買ってきてくださったんですね」

「まァ代金の半分はアルコールに消えてるわけですが……恥ずかしながら我が国には酒税法という、禁酒法にも劣る悪法が蔓延はびこっておりましてな」

「はぁ蔓延っておられますか……まァでも断種法よりかはマシでしょう」

「……うんまあそうかも」行儀良くもう一方の寝台に腰掛けた女子高生に対し、履物を脱ぎ捨て敷布の真ん中で両足を組むコン・ロス・ピエールナス・クルサーダスやや砕けた座り方をしつつ、バラ撒かれた酒の肴を漁り始めるミコミコーナ。「誰か他人に禁じられるのも辛いもんがあるけど、自らの意志で何かを断つってのはもっとさ……何つうか、並々ならぬ大変さを伴いますわよね?」

「……たしかにそうかも」王女の的外れな返答にも何か思い当たる節があったか(或いは単なる社交辞令ディプロマーティカか)、騎士は一応の同意を示した。

[訳者補遺:《強制断種エステリサシオーン・フォルサーダ》という用語が少女の口から出ることに抵抗があったか、著者は両者の発言に随時変更を加えており、それによって御子神が暗示したであろうドニャ・キホーテ人格の封印――彼女の目にはそう映っていた筈だ――に対する鎌掛けは割愛される形となった。改変箇所は以下の通り。米国の禁酒法は逐語訳の《酒精の禁止プロイビシオーン・デル・アルコオール》でなく通称の《渇いた法レイ・セカ》、花は《断種法》に代えて西暦六世紀頃のフランク王国で女性の土地相続を禁じた《サリカ法レイ・サーリカ》――つまり大ミコミコン王国の継承権を否定する邪法――に言及し、次いで断酒法の代わりに《被虐法レイ・サーディカ》と誤聴したミコミコーナが「SM嗜好サドマソキースモとは自由意志で遂行されるものだから法律で規定すべきではない」という流れで、これはこれで「だからハナちゃんが自分の意志で何を演じようが、又いつ演じるのを止めようが誰に気兼ねすることもない」的な主旨を汲み取ることも或いは可能かもしれないが、それ以前に法律や欧州史が専攻というわけでもない限りサリカ法典と聴いてその特徴が思い浮かぶような大学生などそもそもそうは居ないだろうから、無知な年長者の見せた愛嬌という側面は大分減じられる結果となっている]

「まだも一本冷蔵庫ん中入ってっけど、ドニャ様も一杯行っとく?――ぶどうジュース」

「ははは、残念ながら私にも未成年者飲酒禁止――禁ジュース法という悪法が」

「え~フランスとかスペインは子どもでもワイン飲むっしょ」

「まあ誕生日とか何かお祝いの時は水割りで飲ませたりとかするんでしょうけど……お正月のお屠蘇みたいな」これは数種の生薬バーリオス・レメーディオス・ナトゥラーレスを調合した粉末にサケを注いだもので、念頭に無病息災を願う目的で供されるのだと謂う。そう言われると薬膳の混合酒コークテル・パラ・フィーネス・メディシナーレスのようで、子どもの口に合うような代物とは到底思えぬ。「因みに飲んだ方に罰則はないみたいですけど、飲ませた方は――」

「怖い怖い、いや今宵はお祝いみたいなもんでしょう!」飲食店内で注文したり、路上で酩酊して騒いだり、若しくは家庭内でも分量を誤って昏倒し救急車でも呼ぶ羽目になるなどしない限り完全犯罪クリーメン・ペルフェークトが成立する体のものではあろう。「サンチョも母さん今日は赤飯だ云うとったっし……ほらあと、風邪引かないように!」

「卵酒?」

「あっ卵だったらあるよ!」御子神は腹這いになって寝台の縁から身を乗り出すと、壁際の絨毯上に置かれた冷蔵庫へと手を伸ばす。「何か知らんがふたりともビショ濡れ――おっとっと、アレ? エッグノッグとかってあっためないとダメなんだっけ?」

「まぁ元々は冬に飲むものでしょうから。冷製なら構わないんじゃないですか?」

「そうだね……あと安ワイ――ンジュースしかないんだけど、ブランデーとかじゃないとやっぱり薄い?」

「いや濃い方が問題ですけど……ロンポーペっていうくらいだしラム酒でも美味しいかも」どちらかと言えば卵混ぜポンチェ・デ・ウエーボの方が我々の耳には馴染み深いけれども、一説に拠ればロンポープ――否、ロンポーペ/ロンポーポの方が幾分水気が少なくなるまで煮詰めるのだそうだ……ああ神よ、ラ・サンチャの主従が彼の呪われし防空壕からの脱出を果たしてからというもの、我が耳は依然として別の呪いオートロ・エチーソに苛まれ続けてているのだ![訳註:《私は糞を壊すロンポ・ウン・ポポッ》《壊せロンペ糞よポポッ》? 語源は定かでないものの、西rompope/rompopoはromponが起源のようなので、単純に《混ぜられた糖蜜酒ロン・ポンチャード》に帰するのかも知れぬ。但しその場合は英語punch由来の動詞《穴を開けるポンチャール》とヒンディー語のपाँच《五種パーンチ》が綯い交ぜになった結果ということになろう]「……えっとこれ、温泉卵だともういくら火に掛けても上手く混ぜられないのではないかと」

「じゃお姉さんひとっ走りして下で生麦生米生卵買ってくるわ」

「いやいや撹拌しないので問題ありませんこのまま頂きます」

「あっ――まァ折角なので、サンチョめが戻ってから……サンチョ~めの夕日でも眺めながら一緒にカンパイしよっぜ」

「なるほど黄身がちょうど夕陽みたいな色になってそう」

「そうそうそんな感じ……リアル朝日が出るまで待ってる忍耐力はさすがにねえしな、ここ何丁目か知らんし」王女はひとつずつ別個の可塑性小型容器ウエベリータス・デ・プラースティコに収められた卵を三箱並べた。「これならクイッとイケるっしょ……こないだみたいなゆで卵でやったらほら、毎年正月にモチで喉詰まらすジッ様ばりに窒息死すんだろけども」

「胚はともかく濃厚卵白とかカラザは喉に引っ掛かりやすそうな」

「うんあののどごし生はたしかにヤなもの思い出す」

「何ですか気になりますね」花は相好を崩した。「頂き物のゆで卵もですけど、あの後ご馳走になったお寿司屋さんの玉子焼きも美味しかった。私のは錦糸だったかな」

「大将もいい江戸っ子じゃねえ駿河っ子か――だったよな。値段の割にいいネタ使ってくれてたみたいだし……あれで車でなかったらなあ」

「私もチヨさんもノンアルのアドヴォカートで乾杯は望むところですがミコガミさん今晩この後どうなさいます?」花は女子大生が静岡の夜と同様、今宵も自動車を運転して馳せ参じたものと思っているらしい。「ここで部屋取ったんですか?」

「シングルの空きなかったんで、同じ値段でもちっと下の階だけど多分ここと同じツインの部屋にしてくれたよさっき」御子神嬢は僅かに腰を浮かせると、尻隠しから板状鍵を取り出して見せびらかす。「使わねえの勿体ないし、ここ好きなだけ散らかしてからサンチョだけ残してふたりでそっち泊まらないか?」

「だったらチヨさん連れてってあげてくださいな」

「ヤツと寝るくらいなら独り寝のがマシだけど」空き瓶を床に置きながら、「誘い込まれて部屋入ったらツインじゃなくてダブルでした……とかそういう心配?」

「いえいえそれは全然。ただ私イビキはないと思いますけど寝相に自信がないもので」それでせめて目が覚めている間だけでも大人しく振る舞っていようとでも?「まあでもダブルベッドなら川の字でも寝られそうですよね」

「それだと棒の長さ的にサンチョが真ん中になっちゃいそうだ」例えば漢数字の《トレース》はギリシャ文字の《Ξクスィー》と酷似した字形を持つが、安定性を企図してか上の線は下より短く、中の線は上より更に短く書かれる。漢字の《リーオ》は《三》を横倒しにしたような文字であり、真ん中の直線は矢張り最も短小だ。「そこは年齢順に並んでほしいもんだわな」

「末っ子が落っこちないように左右から欄干の役目を果たさないと」

「それそれ義姉妹の――何だっけ《銭湯の誓い》だっけか」湯泉フゥエーンテ・テルマールの、である。[訳註:ここでは便宜上御子神の科白が《終着泉の誓いフラメーント・エン・ラ・フゥエーンテ・テルミナール》となっている。あの日両陣営が偶然行き着いた出会いの場所という意味か]「……ごめんねチケット」

「えっ、何のです?」

「ミコさんが預かってることちゃんと伝えてなくてしかもそれがギリギリでバレてさ、したらサンチョがヘソ曲げてもうそりゃチョンマゲ状態よ」[訳註:《ヤギ化して角生えたよセ・カブレオッ・イ・セ・ボルビオッ・コルヌーダ》。動詞cabrearseは《激昂する》だが、形容詞のcabrón/-onaとcornudo/aには共に《異性に裏切られた/寝取られた》の語義がある。此度の場合花が別の男女に浮気したわけではないものの、心情的にはそれに近いものがあったという解釈だろう]

「ええっと怒髪天を衝く?」

「突きまくり」今朝再会した時点で打ち明けていればそこまで拗れることもなかったろうが、それを言ったら騎士の方にこそ静岡以降何度も切り出す機会があった筈である。「ちょっと夕方闇堕ちされちゃって」

「闇討ち?」

「ほら言うじゃん、フォースの暗黒面に急降下みたいな」

「ああ……ふふふ」嘗ての女子高生は電視塔の展望台でのことを思い返して思わず噴き出してしまった。あの時屋外階段エスカレーラス・エクステリオーレスが定時で閉鎖されていなければ、空中通路パセーオ・デル・シエーロを転げ落ちていたのは他ならぬ蜂の方だったのである。[訳註:通常英語でskywalkといえば飛行機の空路や高架道路、又は建築物同士を高層階で繋ぐ連結路に加え巨大渓谷に設置された展望橋等を指す。第四十四章では千代がこれを皮肉交じりに《ハナキン・スカイウォーカー》と称した]「先にヤキモチで火傷したのは私の方ですから。こちらこそ会ったばかりのお姉さんに無理やり押し付けてしまって」

「つってもアレがなきゃアタシもこっちくる口実捻り出せなかったし、押し付けた言うたらパロミンのショーとか体の良い厄介払いっつうか行かない口実代わりに、そっちが流れ的に断りにくいシチュで引き取らせちゃった感あったからさ」

「パロミさん居なかったらあの晩はまた岡崎で野宿でしたよきっと」高尾山、箱根峠、松林生い茂る砂浜、寺墓地……街中の路上で寝転がっては流石に夜警の見回りロンダ・ノクトゥールナに補導されてしまうだろうから、あの界隈で夜を明かすとしたら主従が《もどのも》の開演を待つ間に午睡に耽った川か、若しくは翌日の午後に――音楽性の違いに起因するが如きデビード・ア・ディフェレーンシアス・エン・ラス・ポスィシオーネス・ムスィカーレス[訳註:西posición en músicaならば楽器演奏に於いて特定の音を出す際に定められている指の配置等のこと]――哀しき別れを演じた川の何れかの畔が有力な候補地として名指しされていたに違いない。「それ無しにしたって、お芝居もその後の女王様方の競演も、一生の思い出と云って遜色ないくらいの目と耳の肥やしになりましたしね」

「それ翻訳すると目糞と耳糞ってことになりそうだが」そう笑いつつギアナは立ち上がったが、伸縮性に富む敷物に足を取られ僅かに蹌踉よろけてしまう。

「あっ」

「――っとだいじょうびだいじょうぶ……ただのフラダンスでおま」誤魔化しついでに両手を水平に波立たせるミコーナ。次いで両足を弾ませ布団を蹴るや――もしや対岸の花畑カンポ・フロリード目掛け鳴り物入りの狼の飛び込みサールト・ルピーノを試みるのか?――裸足のままワイキキの浜辺ならぬ絨毯の上へと着地し、片手を頭上に掲げ気取った科を作った。「……オ~レッ!っつって」

「ブラーバ!」花は小刻みに喝采を送る。「メンコの方?」

「ワインじゃブルーハワイン作れんしな(原註:然しものミコミコーナとて糖蜜酒ロンを瓶からあおるほどに節操がないわけではないのだ!)[訳註:直前の卵酒の件でこの場に糖酒が無いことは慮れる。一方で訳者の主観では、蒸留酒を瓶から飲むよりも葡萄酒を喇叭飲みする方が視覚的な衝撃度が高い印象を受ける]……白ならともかく」一部の天邪鬼国家ナシオーネス・コン・ペルソナリダッ・レトルシーダを除けば――発泡葡萄酒エスプモーソスに関してもここでは措くとしよう――西も東も葡萄酒といえば赤なのだ。[訳註:これはこれで欧州全体というよりは地中海並びに大洋に面した国々の見方、例えばバルト海沿岸部となると嗜好も変わってくるかも知れない。生産量に於いて三強たる伊仏西では依然赤が主流であるものの、白葡萄酒の需要が年々それを追い上げているというのも現状ではあるようだ]暗紅色コロール・ティントなら矢張りフラメンコこそ相応しいし、血酒サングリーアであれば作るのも容易だ。[訳註:第三十三章の訳註の繰り返しとなるが、語源が《フラーマ》なのは同綴の単語flamenco《紅鶴フラミンゴ》であって、民族舞踊の方は飽くまでフランデレン地方を指す蘭語のVlamingに由来するようだ。最も《情熱的アパスィオナード》という先入観に引っ張られるのも致し方なくはあろう]「ほんだら神楽巫女がフラフラダンサーになる前に――よっこら、自分の部屋どんなか、ちょっくら下見してくっかな……靴靴、どこ行った?……あった」

「ロケハンですね。肩お貸しします?」

「そうそうロケハン……組んず解れつはアシもお清めしてからにするわ」肩以外の部位を貸与するとは一言も云われておらぬのだが。「まだ酔っちゃいないんだけど流石に利尿作用が……ドニャキ様はロケパンて分かる?」

「ロケ――イションパンティング?」

「スパンキング?」爪先を草履サンダーリアスに滑り込ませた王女は玄関の方に歩き出した。「スパーキング……スパークリング!」

「スパ……あっパンチか」花は箸を握ったまま両手を前に突き出す。「肘というか、アレですよねロボットの手首から先がこう、ポーンて飛んで攻撃する」

「高校生には通じた!」

「何だっけ鉄人……違うか、ガンダムとかよりも前ですか?」

「そんでもまだ壁はあった!」ギネアは廊下の半ばで足を止めると掌骨メタカールポで壁――もとい浴室の戸板を叩いた。「そしてロケハンの前にロケパン下ろし過剰な液体燃料を放出せんと、バスルームに駆け込む愉快なミコミコーナであった……聞こえんか」

「ヒドラジン……アンモニア?」花は弁当の容器を脇に置くなり両腕を大きく広げ豪快に倒れ込んだので、短い洗い髪も敷布との間で容赦なく押し潰されてしまう。「西洋アジサイヒドランジア……米国アジサイアナベル、ふゎぁ」

「あ」――ガチャリクラック。「開いてた……無用心な」

 極端な温度差により発生する湯気から顔を背けた王女の瞳にも、高校生の薄い胸が微かに上下するのが映った。(これがサンチョならば上下するのも小太腹パンシータだったに違いない!)


冷房の効いた寝室空間とは打って代わり、浴室の中は撥水吊幕コルティーナ・イドローフゥガの隙間から漏れ出でし湿気と暖気、それに雨音とで充満している。

「ちょいとごめんよ?」パラパラパラプリック・プリック・プリック……バタンスラーム!「返事がない、ただの――」[訳註:扉が閉じた後の侵入者の一言一句は、当然千代の集音器が騒々しい噴水音に紛れて拾った音源である。敢えて気付かぬ振りをしていたのでもない限り、余程放心状態で灌水浴に没頭していたこととなろう]

「うわッ!」何気なく横を向いたところ、出し抜けに内側へと押し込まれた吊り幕を目の当たりにして危うく浴槽内で転倒しかける猫の従士。

「――かばねの……驚かすなよ漏れっだろ!」[訳註:《――ただのシタエス・ウン・スィーンプレ・カダー……》。西cadáverで死体の意]

「こっちのセリフだシカ――シネバカ!」吊り幕を押し返しながら、「……あっ、鍵掛けてなかったからか」[訳註:《それは私の台詞だシタエサ・エス・ミ・フラーセ・カダー――り真実は人それぞれア・ベール・カダ・ベルダッさて殺すかアオーラ・スィ・テ・マト!》]

「お花の積み下ろしに参った」

「未成年同行者がハイペースで飲みすぎでしょ……」千代さんは心底呆れた風に溜息を吐いた。「小さい方ならまァいいけどでかい、ラフレシアみたいなの下ろすならサンチョがお風呂上がってからにしてよね」

「安心せよ顕微鏡サイズで――っと、風に吹かれる、野に咲く花だからっつか、仮にでかい方だとしても乙女の野菊の蕾から糞臭花ラフレシアみたいのが開花するわけねえだろと」

「なんて?」突然止む噴水音。

「いやシャワー止めんなよ恥ずかしいだろ。覗かないでね恥ずかしいから」

「はい」――パラパラパラプリック・プリック・プリック。「いやどっちのセリフよ……あっ、歯ブラシ使っていいっすよ私自前の持ってきてるんで」

「何で?」

「ミコ殿下ポリフェノールでお歯黒べったりみたくなってるんじゃないの?」

「お歯黒て、イカスミかお汁粉がぶ飲みしてるんと違いますから」色素は徐々に沈着していくものだろうから、日頃から常飲しているのであれば今晩だけ気に掛けたところで最早手遅れである。「てかアシも自分の部屋行ったら多分二本置いてあるよ」

「あそっか。だったら自分ちのトイレ使ってよ」

「間に合わんかったら困るでしょ……あ、ドニャ・キホーテロケットパンチ知ってたで」

「どうでもいいことよくご存知の方なんですよ……きっとパンツの方も訊けば詳しく解説してくれることでしょう」

「それはお前の創作だろ」

「どうでもいいけど姉さん今おケツ丸出しで会話してんすか?」

「そう云うお前は全裸だろ? まったく恥をお知りなさい」

「そ、そんなこと言われてもな……まあイカレポンチって言葉もあるくらいだし、」この単語が果たして日本全国で通用するものかは心許ないが、どうやらこれは《狂った拳骨プニョ・ロコ》というよりも《夢見心地な若旦那セニョリート・ソニャドール》に近い意味合いらしい。「――フルーツポンチがあんならそりゃフラワーポンチだってあんだろ」

「ポンチかパンチかパンツかで統一してくれよ」けだし揃って袖なし雨衣ポーンチョス・デ・ジュービアを着用していることだろう!「――つか別人28号なんだが」

「それはサンチョも知ってますよ」

「いやベツジンガー……87号か」

「多いな、明らかに作り過ぎだよ」そこまでの試行錯誤を繰り返す前に計画そのものの見直しを審議すべきである。「ん、マジンガー……ドラゴンボールってフリーザの次に人造人間みたいの出てくるんでしたっけ?」

「アレは18号さんとハゲが異種間交配するヤツだろ、むしろ子作りしかしとらんわ」

「ハゲって言うなよ」ハゲとは禿頭カールボのこと、対して剃った頭カベーサ・ラパーダはボーズと呼ばれ、本来ならば後者は脱毛症アロペーシアを含まぬ人為的な髪型ペイナード・インテンシオナードに限定される。「せめてダッツと言って差し上げて」

「買ってねえってのに」暗黒大陸の継承者エレデーラがそう言って末妹の浪費癖ガスタロエンテリーティス[訳註:著者による造語。西gastar+gastroenteritis《金を費やす+胃腸炎ガストロエンテリーティス》だろう]を窘めてから以下に続けた。「そろそろバブ姫が見せてくれた双子の妹さんとこっちで入れ替わったっていう可能性を真剣に検討すべきじゃないか?」[訳註:夕方の出発前、四人が同じ客室へと集まった際に見た、安藤部長の携帯に保存されていた少女の画像については第四十章を参照のこと。確証はないものの写っていたのは恐らく花本人であろう]

「あれはドッペルゲンガーゼットらしいっすよ」千代とて地上半エスタディオの見晴らしを前にした時はギネア王女と同じく、三軒茶屋で祖母と二人彼女の帰りを待つと謂う未だ見ぬ実妹が――幼馴染がそうであったように――遂には痺れを切らし、直々に連れ戻さんとして来名したかとついつい見紛うたのである。[訳註:第四十二章参照]

「それってそういうもんだっけか」女子大生が衛生紙パペール・イヒエーニコを巻き上げながら良く整えられた眉根を寄せる。「そいやそれがしも云ってないし」

「何て云ってました?」

「普通に私?」

「それ私専用の一人称じゃないですか!」これは我々外国人が第一に覚える«yo»――則ち一人称単数の代表的な和訳だ。口語的には主に女性が使う自称プローピオ・プロノーンブレだが、畏まった場面では男も日常的に用いる。「ちゃんと使用料もらわな!」

「他に一億人くらい使ってる思うが」嘗て我が国の楽隊バンダが《一兆以上が日出ずる処にソン・マス・デ・ウン・ビジョーン・ドンデ・サレ・エル・ソル》と歌っていたが、これはかなりの水増しがあったようである。[訳註:一九八四年に発売されたメカーノの楽曲『日本ハポーン』の歌詞では直前に《数千のネジに囲まれ日本に住んでいるエントレ・ミーレス・デ・トルニージョス・ビーベン・エン・ハポーン》とある。西billónは命数法に於いて長数尺エスカーラ・ヌメーリカ・ラールガを用いる西語圏では《一兆》を意味するが、米国の自治領でもあるプエルトリコ内に限った場合だけ例外的に短尺エスカーラ・コールタの《十億》として用いられることが多い。後者であれば中印の規模との混同が疑われよう]

「じゃあひとり一円ポッキリずつ頂こう……ドゥルシネーア様からはさすがに徴収しづらみあるな。姫だけ免除で」

「ああそっか」御子神が両手を打ち合わせる。「レンちょんに似てるんだ」

「何が?」

「いや話し方……いやレンちょんの方が似てるのか?」

「つってふたりとも違うタイプの美人さんじゃない?」《九割を外見にノベーンタ・ポル・シエーント・パラ・ラ・アパリエーンシア》とはいえ、その九割にも多様性なるものがあって然るべきだろう。「ほらチヨさんとニコ助が違うタイプの不美人であるように……」

「メガネはともかくサンチョは可愛い方だと思う」

「え、何で急に優しくなるん……ミコさんそろそろ死ぬんか」

「ああさっきいきなり誰かにシネバカとか云われたしそろそろ死ぬのかも」

「いやそれは……あの、シカバネって云ったら嘘になるし、まだ生きてる人に対して」嘘吐きになるよりは殺人鬼となった方がまだ尊厳が保てるようだ。「どうでもいいけど何リットル溜めてたんですか? 膀胱でか過ぎくない? まさかそのパイオツん中に――」

「もう流したよお前こそいつまで浴びてんの、何をそんなに洗い流してえんだ限られた資源を湯水のように使いやがって」光熱費ガースト・デ・コンブスティーブレを気にせず思う存分垂れ流せると豪語したのは他ならぬウルズルだ。「……これもう分からんな。髪切ったら人格が変わった?」

「んなことある?」穴の開いた船底を持つ浴槽内で溺れ死ぬ前に、神の御業を以ていち早くしとどに降る雨を止ませてしまう末恐ろしき半坐家の長女。

「ランチさん……いやミツイ」心境の変化や覚悟の表明により髪を短くしたり髪型を変えることは珍しくあるまい。聖職者の剃髪などはその最たる例である。「そしてハナミチ……ハナミツ……いやこの掛け算はないか」

「どう考えても部長さんが尻に敷く側でしょう」

「そっちの話じゃなかったけど。まあレンバナだな」

「怪我がなくてもやっぱ毛が……無くなってその、そのケも無くなったとかか」となると従士の思い過ごしではなかったものと見える。吊り幕の隙間から片手を突き出して、「タオル取ってけろ」

「二枚並んじゃってるけどお前のどっちだ?」

「私のは……少しは乾いてる方?」湿度の高い浴室内に干していたとはいえ、最後に身体を拭いてから六時間以上経過しているのである。使用して間もない花の身体用手拭いトアジョーン・デ・クエールポに比べたらその差は触らずとも一目瞭然に違いない。「かわいいてる方」

「はい、二分の一の確率で美女の裸を拭けなくて可哀想ってる方」

「どうも。持ち上げた直後に手のひら返しエゲツな」

「調子乗んなし……ああ、こういうヤツか」王女は歯磨き時に使う為の洋盃を手に取って眺めつつ以下に続けた。「何かサンチョと別れた後にショッキングな体験してそれ忘れる為の断髪とかじゃなきゃいいんだけど」

「いや失恋女子かい」

「うっかり黒い章を見ちゃって醜い人間世界を儚んだとか」つくづく人生の無常を見るベール・ラ・バニダッ・デ・ラ・ビダのが好きな女だ!「……何でオレはいちいち例えが生まれる以前のジャンプ漫画なんだ?」

「ワイも生前の[訳註:音源まま。翻訳では《私が生まれる前のアンテス・デ・ケ・ジョ・ナシエーラ》に差し替え]サンデーしかよう知らんですわ」

「ちゃおちゃうんか」

「ちゃお高いよ……んで黒い章て何? サクロイショーの親戚?」

「クロカワキショーの息子だよ」

「クロカワキショーも分からんが名字変わっとるやん……黒い飛翔体にはかくいう私もタイガー&ホースを植え付けられましたけどな」今一度腕を突き出すパンサ嬢。「ロケパン取ってくださる?」

「ロケット付いてんだから自動で飛んでかせろよ」

「冗談だよ」身拭いを全身に巻き付けた従士が浴槽の縁を踏み越える。

「バスマットあんま濡らさないでね。すぐミコさんも使うんだから」

「だから自分の部屋の風呂使ってってば……いや狭えな」一向に退室する気配のない大ギアナを前に、千代さんは渋々用意した衣類を身に付け始める。荷物が大きかっただけあって、彼女にはまだ着替えの替えエークストラ・ムダ・デ・ロパが残っていたようだ。[訳註:夕方浴室を出てから《アベンセラーヘ》を締めるまでの短い間使っていた宿泊客用の浴衣を、再度着用した可能性が高いように思われる]「……アレ何だっけな、黒いというかグロいというか、チンチラが――」

「何、パンチラ?」[訳註:《下穿き瞥見パンチラ》は第七章末尾より一貫して Panchillaパンチージャ表記。一応盗撮カーマラ・デ・ミローン下着ブラーガスが語られている文脈上大凡の語意は掴めよう。《おなかパンチャ》と《叫ぶチジャール》の混成語と解釈すれば相当激しく捲れ上がる必要がある為、どちらかといえばPanmolloと綴りたくなるのが人情]

「チンチラ。チンチラが……どうにかしてビクッたとか、《ビクッたにゃ~》」[訳註:西訳では「チンチラに出会ってセ・エンコントロッ・コン・ウナ・チンチージャ・イ……何だっけイ・ケ?、ビクニャったとかセ・エスターバ・ビクニャンド」。西acuñar《鋳造する/言葉や表現を作り出す》にbi-が付けば《二度作る》という意味を持つのかも知れないが、綴りがvicuñar/-seである以上《ビクーニャになる≒皮を剥がれるデスペジェハールセ?》か。因みに前々章での花の発言を正確に引くと「チンチラでもビクーニャでも構わんが」]

「何だ《ニャ~》ってのは」

「さあ……ニャゴヤだからでは?」ビクーニャとはアンデスの山岳地帯に生息するラマに似たラクダ科の哺乳類だが、その女王の如く気高い毛皮はかなりの高値で取引される。

「いや聞き捨てならんのだけど……まあここは、敢えて聴かなかったことにしとこ」御子神嬢は鏡に映った自身の巻き髪を軽く持ち上げてから、「――ほいドライヤー」

「どもども」――バタンスラーム

 千代さんは噴射式温風ビエーント・カリエーンテ・ポル・コエーテを稼働させる前に長姉を真似て鏡を覗き込むと、一言「ドッペルね……」と呟いた。


従士が扉を閉じようと戸板を脇へ押し退けるや、並んだ寝台の一方に腰掛けたミコミコーナがその扇情的な口唇に自身の人差し指を押し付けているのが目に入った。

(……寝てるのエスタッ・ドゥルミエンド?)

「おかえり」

「「うあっ」」不意に上半身を起こす阿僧祇花にその前後で肝を冷やす姉妹。「ビクッとなった~……いやにゃった」

「――なさいおふたりとも。ミコさん下見の成果はいかがでした?」

「した――下着?」

「そのお借りしたっていう……狩り場の」撮影地ルガール・デ・ロダーヘを探す作業を日本では狩猟場所ロカシオーン・デ・カサ――もとい場所狩りカサ・デ・ロカリサシオーネスと呼ぶ。「今お帰りになったばかりですよね?」

「何ですかミコーナ殿下、こんな時間から男漁りですか?――《男どもメンズを狩る》と書いてカルメンですか?」

「黙らっしゃい」狩るか結婚するかカサール・オ・カサール[訳註:西cazar o casar]、それは問題となり得るエサ・プエーデ・セール・ウナ・クエスティオーン。「ああ、今宵のロケ地(仮)かっこかりね……行ってみたけどもう閉まっちゃってたよ」

「あら残念」

「開けっぱになってる方が危ないわ何の為に鍵持ち歩いてんのよ」千代は卓上の可塑性瓶を手に取って一口煽ってから以下に続けた。「つか仮じゃなくて今からそっちお行きなさいなってば」

「でも例のプールも付いてないみたいだし」

「誰も泳がんでしょうが。例のバスルームなら同じの付いてんよたぶん」

「まあまあ、その前に」冷蔵庫を開けるミコミコーナ。「――新種発見で乾杯しようぜ」

「おっとそうでした」

「白いたまごっちで申し訳ないけど」

「温玉もう出てるよって――えっ?」長姉の手に握られた瓶の首クエージョ・デ・ボテージャを目にして、「さっきのもう空けちゃったの?……ひとりで?」

「いや独りでに」

「んなわけあるかい」

「ほらハナちゃんも居たし……ふたりでに」

「こらこら」義姉と義妹が浴室に籠もっている間にこっそり盗み飲みしたなどという身に覚えなき嫌疑を掛けられては頂けない。「天使の分け前というのじゃないですか?」

「そうそう、さっきも言ったっしょエンジェルズ・シェア」慥かに位階に依らずどんな天使でも人間の膀胱よりは酒樽の中から取り分パールテスなり租税インプエーストスなりを徴収したいに違いない……尤も何であれ空にするともなれば、それは最早《取り分》ではなく《天使の総取りアーンヘル・セ・ロ・ジェバ・トード》なのでは?[訳註:第三十四章では高貴なるドゥルシネーアは小用をしないという暴論の根拠として、酒飲みの御子神ならではの表現が用いられた]「さすが騎士殿とは気が合うぜ」

天使の髪エンジェルズ・ヘアーの分け目が左右逆転したって起こり得ない怪奇現象ですな!」洗面台か便器に流したのでもない限り――ヴェルサイユじゃあるまいし、高層階の窓の隙間からおまるバシニーカもとい酒瓶を空っぽにしようとその中身をぶち撒けたなどということはなかろう!――、誰かの腹の中に収まっていることに疑う余地はない。「どうでもいいけどいやいくないけど、吐くならそこのゴミ箱とかじゃなくてちゃんとトイレで吐いてくださいね」

「パンツ穿いても酒吐くなってな」卵用容器を音を立てて開封する。「それではご来場の皆様お手元の方……乾杯の用意は宜しいでせうか?」

「はいお願いします」

「姉さま方殻ごと飲み干すおつもりで?……ヘビか何か?」

「先に剥いちゃったらグラス感出ねえだろ」

「そういうことか」王女の真意を汲んだ末妹が卵を持ち上げる。「はい……まだ?」

「では我ら三姉妹の奇跡の再会を祝して~」

「キセキて!」

「「「かんぱ~い」」」――チンチン!「ウィ~ニ~か……えっとたしかチンチンはビジン語なんだっけ?」[訳註:第十八および三十六章参照。正しくは他言語話者間で意思疎通する為の商用英語ビズィネス・イングリッシュを意味するピジン語«lengua pidgin»]

「何だよそのお前は帰れみたいな目は。ウィンナーはもう終わったよさっき」[訳註:勿論ここでの独Wienerは主従が参席しそびれた《シェーンブルンの夜伽》を指す]

「サンチョ割る時白身布団の上にこぼすなよ半熟だから」

「あそっか、そうだ」

「割る前に振ると中の白身が殻から離れるらしいよ」

「シェイクですな」両掌で卵を包んだ千代さん、戯けて片方の肩の上へと持ち上げる。「あんまやんと黄身割れるか。温泉卵とポーチドエッグって同じ?」

「全然違うわ。あれは殻割って中身だけ熱湯にブチ込むヤツだろ」

「落とし卵ですね」穴開け卵ウエーボ・ポンチャードよりは一般的だろう。[訳註:西huevo poché/pochado《水煮した卵》。先程のponche de huevoから?]「あっちは逆に黄身の方が半熟で白身は半凝固……かな?」

「割るとドロっとね、出てくんの」

「前うちのチカさんが何かにカブれて作ったエッグベネディクトらしき何かは白も黄色つかオレンジも、八割方凝固していた記憶があるんだが」

「そりゃたまたまだろう……チンチンといえば」慎重に殻を剥きながら、アフリカの王女が花へと向き直ってその顔色を窺いつつ以下に続けた。「チンチラは何の略だっけ?」

「略?……略というか、アンデスのチンチャから来てるんですかねえ」

「チン――チンチャ?」

「ほら、トルタがトルティーリャになるみたいな」

「トルタってタルト?」元を辿れば同じであろう。[訳註:焼き菓子を意味する羅turtaは《(生地を)撚り合わせた》が語源か。因みに南米では西tortaもtartaも甘い洋菓となるようだが、前者に限るとイスパニアでは特に丸くて平たい麺麭パン全般、メヒコでは具挿み麺麭ボカディージョを指すのだとか]

「……チンチャ、チンチーリャ」

「チンチャだってよ」安堵とも落胆とも取れる声色でサンチョへと首を巡らす。「チンチャがチラ見したら何だっつんだよ」

「知らんがな。そもそもチンチャって何よ」[訳註:第三十七章の序盤に著者による詳説が見られる]

「三茶みたいなもんだよ」そう云って悪戯っぽく笑う阿僧祇花。「――ラ・サンチャ?」

「地名か」

「チンゲン茶屋ってこと?」この茶屋には手を出すなノ・チーンゲン・コン・エースタ・カサ・デ・テ!「チンゲンサイ煎じて飲ますんか? 青汁みたくならん?」

「あちゃうわチンチラてアレだわリスみたいな……ハムスケみてえなヤツだよグレーの」

「ペットのネズミかよ」原産はチレだが、現在毛皮獣ないし愛玩動物として流通しているのは養殖されたものばかりだと謂う。「それがドアとかタンスの陰からさみしそうにこっちチラ見してくんのか?」

「それじゃもうチンチラチラだろ……ダメだ酒と先入観で脳みそバグってた」酒は兎も角、先入観プレコンセプシオーンとは何か?「ところでやっと半分剥けたけどお椀とかねえとこんまま飲むしかねえのな……醤油とかねえのかねコレ」

「買う時気付くでしょうに……マツコの玉子には塩付いてたのにな」

「マツコのタマとかリアルなこと云うなよ」王女は花に訊ねた。「マツコて誰?」

「私の――エビ用のソースならまだ少し残ってますが……」未だゴミ袋へと移さず傍らにあった弁当の容器を今一度膝の上に戻す。「流石に情緒がないか」

「いや折角のご厚意です。頂戴しましょう」使いかけの小袋を指先で抓み受け取り、殻で象られた即席の盃の縁から黒い液体が注ぎ込まれた。「ご覧なさいな……闇夜に望月が」

「うさぎが餅でもついとりますか?」

「――掛けたるタルタルもなしと思へば」

「タルタルじゃなくてすみません」

「いやむしろオイスターが星空を彩って……何なら風流にも白い雲が掛かってるまである」

「不吉っつか不健康そうな色使いですよ」千代は塩分の過剰摂取に警鐘を鳴らしつつ自分の洋盃を掲げた。「サンチョは卵本来の味をそのまま頂くことにしますわ」

「では私も」

「……その頃ミコミコーナは、右手に収まる小宇宙の中で輝く満月の光に幻惑され――」

「意外と黄身濃くて美味いっすね」茹玉子のように口中が砂を噛んだかの如く渇くこともないようであった。「弾力」

「おいしいおいしい……ごちそうさま」

「――我を忘れていつしか一匹の狼へと……」殻の上下を反転させて一息に卵黄を飲み干すと、「ソースっ!……そして流れるように着々と、ルパンダイブへの突入姿勢を――」

「一匹だけシャワー浴びてないメスオオカミ居た気がすんですけど」

「――お風呂場に向けて今旅立つのであった」

「だから自分の部屋に向けて今旅立ちなさいって。お金払ってんでしょ?」

「狼女って云ってよせめてさ」卵殻を容器に戻して客室の隅に置かれた屑籠へと放り投げる……コントリック。「――よしゃ。あ、タオルもう無かったか。タオルだけ持ってくるか」

「メガネのせいでもうフェイスタオルくらいしかの……いやタオルだけ持ってきてここで浴びる意味が分からんし」

「おっつぁんがよ、あの時タオルさえ投げてくれりゃ……」

「そうださっき狼男さん……人狼ヴィーアヴォルフ閣下から頂いたので良ければ」花は座ったまま上半身を傾けて、後輩が寝台の上に置いた一組の紙袋の内ひとつを引き寄せた。「――ミコさんお使いになります?」

「えっいいん?」

「本当はこういうのって一度洗ってから使うものなのかもだけど」

「かめへんかめへん、むっちゃ助かる」差し出された袋ごと受け取って、「アシもでかいタオルまでは持ち歩いとらんからさ」

「髪濡らさなきゃちっこいタオリーリャでもじゅうぶん拭けるっしょ!」

「いや洗うさ汗かいてんのに。頭皮の皮脂の過剰分泌がヒシヒシと伝わってきておる」

「うちらみたくオカメウンコ被ったわけでもないのに……いやせっかくタダで名古屋ロールしてもらってんのに」王女の髪は現在優雅な螺旋を描きつつ垂れ下がっているとされる。「もったいないやんけ!」

「おめ舞妓さんじゃねんだから一週間そのままってわけにいくかい!」水転写式刺青タトゥアーヘ・デ・アーグアのように(風呂屋にさえ出入りしなければ)保持し続けても支障がないというものでは、どうやらないらしい。

「ベントーギャのくせにそれで髪拭いて鏡見たらアマデ色の髪のオト――男好きになっててもうても知らへんで」おお、恨みがましいこの化け猫は今朝方ネクロカブリーオの頭頂部に不意打ちで貼られたルートヴィヒの粘着性意匠文字アデスィーボ・コン・エル・ロゴティーポ・デ・ルードビグ[訳註:第二十四章参照。つまり他盤の意匠を頭に刻まれたアマギャの雪辱が期せずして果たされる妄想に囚われているということ]を今以て根に持っているとみえる!

「アマデ男に好かれたのはドニャキ様一択だわ」スエズ湾だかアカバ湾だかを挟んで両者にどのような意思の疎通があったのか、その場に居なかった我等は勿論のこと、居合わせた彼女らにとってすら看破し得たとは到底思えぬ。「まァ閣下とオレの間にはある種の戦友的な絆が芽生えておらんかったとも言い切れんけど」

「ずいぶんと大きく出たじゃないか」件の侵入者を撃退する際に実際如何なる荒事が出来したのかについても、ラ・サンチャの主従にせよ我等盗聴者にせよ御子神嬢の証言の他に拠るべき手掛かりがないのである。「時代はキズナじゃなくて手綱なんじゃなかった?」

「いいんだよどうでも。強いて言うなら東西横綱だわ」宿敵たる立場の両雄が、共に手を取って悪漢を撃退した(或いは私刑に処した)のだった。「ミコミコーナはアマデなんぞより亜麻色の髪のドゥルシネーアとの甘いひとときのがずっと深く心に刻み込まれてるしな」

「亜麻色ってベージュみたいな色っしょ?」亜麻色リノの方が羊毛色ベーイスよりも幾分金髪に近いのではなかろうか?「そんなババアのパンツみたいのを部長さんの、やんごとなきおつむに被らすみたいな変態的な表現は、我等が姫さんに対する誹謗中傷と、何だろ不敬ファッキュー以外の何物でもございませんよねえ先輩?」

「え?」

「何だババアのパンツ被せるって……ああそういうことか」紙袋を手にした矢先に出鼻を挫かれたギアナは知らず知らずの内に(酒瓶ではなく)十秒足らずで飲み干せるような別の缶の栓を開けていた。「いやどういうことなのか……つか亜麻色ってサンチョが云い出したんじゃなかった?」

「私が云い出したのはたしか飴色です」然程の違いはない![訳註:第三十三章参照]「いやドルチェ姫的にはキャラメリーゼと呼ぶべきか?」

「レ――ドゥルシネーアの髪は濡れ羽色じゃなくて?」

「ハナちゃん《カラスの》を付けて!」カラスに頭髪を濡らされたのはその花ちゃんの方だったのだが。[訳註:前の二章に拠れば千代さんが頭部に被った糞害は何れも兜を挿んでのことである]

「若しくは射干玉ぬばたまの――」

「ぬばたまの黒髪に白きつるつるたまご肌ってな」これは言うまでもなく殻を丁寧に剥いた茹玉子の肌理細かな球面を模した隠喩だ。「まァね、色々ありますよ」

「色々な色男を知っているエロ女が言うんだから間違いない」従士は隣で懲りずに喉を鳴らす御子神に警告を物した。「シャワー途中で尿意催しちゃってもちゃんと隣の便座に移動してから出してくださいねめんどがらずに」

「お前サンチョが閣下からさっき直接お言葉を賜われたんも、ひとえにお前のご主人様のおかげやぞそこんとこ解ってる?」

「そんなことはないでしょう」

「いや完全にオコボレでしょ。パッと見て同じ尼さんのカッコしてたから」恐らく屑籠か、収まり切らなければ絨毯の上に打ち捨てられていると思しき一組の(密封済みのコンプレタメンテ・セジャーダス)雨合羽を見下ろしつつ王女は以下に続けた。「関係者だ思ってダシに使われたとも言えるが」

「ケッ、出し汁大いに結構。カツオ節でもヨロ昆布でも――」これを目の前で聞かされたドニャ・キホーテの心境や如何に?[訳註:第四十二章の鶴舞公園内噴水池の畔にてマルッペ相手に交わされた謎の出汁談義を踏まえた老婆心]「椎茸からでも好きに取りゃいいが松茸、てめえはダメだ」

「誰が松茸から出汁取んだよセレブかよ」マツタケ《松の茸オンゴ・ピノ》は一般に香りを楽しむものとされ、人口栽培の困難さ故に塊茎茸トゥルーファ子豚茸セタ・ポルシーニと並ぶ高級食材として日本では不動の地位を築いている。「一本いくらすっと思ってる、下の毛みたくボーボー生えてくる椎茸とは違うんだぜ」

「ボーボーは生えてこねえよどっちも……生えますか?」

「そんなカイワレ大根とか、お店で売ってるエノキなんかならともかく[訳註:野生の榎茸は一本一本の傘が広く柄も太いものが多い]」何と答えるべきか返事に窮した花は取り敢えず話題を転じた。「でも昔は椎茸の方が貴重品だったんだよね……価値が逆転したのは戦後くらいなのかな?」

「それ見たことか。ヤツなんざその程度のもんよ」

「ヤツなんざて、庶民のくせに何の恨みがあんのさマツタケに……革命でも起きたの?」

「きのこたけのこ戦争ウォーズ?」

「ほらアカマツって元々は――」花は説明しかけて開いた口を一旦閉じてから、「近代日本の燃料事情とかって興味あります?」

「ビックリするほど無い」ギネアは紙袋の口を開く。「燃料よか食料……たく閣下も気が利かんよな、乙女の気を引きてんならタオル一枚なんぞよりワインに合うキノコ系の缶詰のふたつみっつか、せめてきのこの山かまつたけのこの里でも――」

「いや福袋じゃねんだから」声楽家は少女ふたりの余りに悲惨な出で立ちを見兼ねたからこそ、販売用に持ち込んだ物品の中から彼女たちが衣服を拭浄できる物を――わざわざ階段を下り地下へと戻ってまで!――見繕い手渡してくれたのだ……食べ物までせびったのでは真実ただの物乞いではないか?「それ以前に酒のツマミとか、それ少なくともアンタの気を引く意図は皆無でしょうに……もうここのお風呂使っていいし邪魔もしないからとっととタオル借りて浴びてきてくださいよ」新たに別の菓子袋を開封しつつ、「こんままダラダラしてたら更に続けてもう一本開けかねん」

「ファック……ぶくろ」何故か王女は、必要物を取り出さぬままに一旦紙袋を閉じた。

「こりゃ完全に出来上がってますな」千代は立ち上がると、床に設置された冷蔵庫まで足を伸ばす。「お年寄りみたく風呂場で転倒とかしそうならやっぱご自分のお部屋で転倒してもらいましょう……白玉子も食ったことだしそろそろアイスで〆ます?」

「あれ、私入ってる間に交換してきたの?」

「そんな一本のガリガ――ああああ、」大きく首肯する猫の従士。「な~るなるなる《一杯のかけそば》ってそういうことか[訳註:第十一章参照]……どこかの武将じゃあるまいし一本のガリガリを三人の娘に分け与えるなんてケチな真似はさせませんよ」

「悪かったなダッツ三つ買ってこないケチな似非姉貴で。毛利のおっちゃんも四五百年経ってからこんなとこで変な引用されるとは思わんかったろうに」

「姉さんが弁当と卵と飲みモンのついでに買ってきてくれたんす」

「重ね重ね……」義理の次女は低頭する。「でもロートシルト――ロスチャイルドならもっとヤがったと思いますよ」[訳註:嫌がった≒矢があった。ロートシルト家の紋章に描かれた五本の矢は創始者マイヤーの五人の息子たちの表象とされる]

「そりゃチャイルドをロスした親御さんなんかの苦しみに比べたらアマロスなんざ知らん内に解消されてるよ」

「だからあまちゃん視てなかったんで分からんすっつか失うものがねえ」

「……アマデウスの方じゃなくて?」花が長姉の言葉足らずパラーブラス・ペロ・ノ・スフィシエーンテスを補足した。

「そっちは年末まで金貯めて冬の陣に行きますよ渋谷か下北か……」従士は中学生らしからぬ悟り切った笑みを――揚げた芋を頬張りながら――浮かべた。「新宿か……それとももうこの辺が足の洗い時なんですかね?」

「サンチョはもうその方が幸せなんかもしれんな」このままV系楽隊の追っ掛けスィゲバーンダス・デル・ウベとして齢を重ねれば、今は若さを口実に出来る世代であってもいつかはオバンギャ――ギネアやボルランドの女友達らのような――へと進化する未来が待ち受けているのだ。「でもハナたそはあと一回くらいはミサ行ってやるべきだよな」

「どうしてです?」全く興味がなかったであろう安藤部長に加え、宗派の異なる――それはもう模範派スニータアリー派チイータくらいには――弥撒ミサ(それが礼拝サラートであれ演奏会場サラ・デ・コンシエールトスであれ)に純潔を捧げている筈の御子神嬢ですらその誓約を破って一度は参席したのだ、花だけがその通過儀礼を免れるのは――それが権利であれ義務であれ――如何にも不公平であろう。

「ルドビじゃなくてアマデの?」千代は目を丸くした。「おいおいどうした。敵に塩ならぬ塩の騎士を送り込んでライブ会場に死体の山を積み上げようってテロ扇動系の陰謀説?」

「それもう生けるライブ会場じゃなくて死のデス会場ですわ」生きるべきか死すべきかビビール・オ・モリール……「やだってあんな風に何?、面と向かって求愛行動?されたらさあ!」

「何でしょう?――QRコードなら聞いたことありますけど」[訳註:英Quick Response《即時反応≒迅速な読取り》]

「PRというかアピールっつうか……」しかも直後には情熱的なプエルトリコ人でも赤面しかねぬような公衆の面前での返答レスプエースタ・エン・プーブリコ付きである![訳註:西Respuesta en Público。因みに英語のPRパブリック・リレーションズ《対公衆関係/広報、宣伝》も西語では形容詞と名詞の順序が逆転する為にRPレラシオーネス・プーブリカスとなるが、複数形であることから――合州国エスタードス・ウニードスを«EE.UU.»と略すのと同じ理屈で――«RR.PP.»と書く場合が多い模様]「ほぼほぼセレナーデじゃなかった?……何つってたのかは知らんけども」

「サンチョの耳には別にセレナでもゴメスでもないように聴こえましたが」

「生意気にディズニーかよ……日本人ならポケモンで喩えんかいッ!」

 王位継承者が衝動的に紙袋の中へと手を突っ込み、勢いもそのままに(正面切って異を唱えた無礼な第五列キンタ・コルームナ・デスコールテス――《淫行に依りて国を売りケ・ベンデ・ラ・ナシオーン・ポル・ス・プロスティトゥシオーン魔術に依りて家族を売るイ・ラ・ファミーリア・ポル・ス・ブルヘリーア]とは好くぞ謂ったもの!――に打擲を加える為の)狼楽団の意匠ロゴティーポ・デ・ラ・バンダ・ルピーナが入っていると思しき手拭いを思い切り引き抜くと、従者の頬が横様に叩かれるのに先んじてもうひとつ別の物が、同じ袋の縁から敷布の上へと出し抜けに零れ落ちたのである。


「――ウップス、何か落ちやしたぜ?」一瞬身構えた半坐千代は、攻撃が中断されたのを見てとるや対岸へと身を乗り出して、御子神嬢の尻の直ぐ隣へと手を伸ばした。「……えっもしかちっこいタオルもセッ――」

「たおらんたおらん」

「……ん?」それは恰も伸縮性に富んだ操舵輪ルエーダ・デ・ティモーン・エラースティカのようで、サンチョは内側から押し広げるとその中央の空洞を覗き込んだ。

「こっち見んな、サンチョちょい手ェ出してみ……いや両方要らんわロケットパンチ打つなや」王女は従士の手から上下の開いた布製の浅い筒を引っ手繰ると、突き出された片腕に通し――嵌めた。

「……貴金輪アホルカ?」

「アホ?」

「アホらんアホらん」先刻のミコーナに倣いつつ[訳註:前の«¿Toallar?, ...no.»に対し、«¿Ajorcar?, ...no.»。実在する動詞にahorcar《絞首刑に処すアオルカール》]、花は一旦身を引いた。

「血圧計るヤツ?」

「アホるな[訳註:«¡No te ajorques!»は《ニンニクアホを首に巻いて自殺するな》?]」長姉が肘の辺りを引っ張って、そこに記された文面を指し示した。「ケツはケツでもバ……バックステージパスってヤツだろ」

「バッ……あっもしか楽屋入れるヤツ?」千代は浴衣の袖の上に通された腕章ブラサレーテを繁々と眺めるや、直ぐ様残されたひとつの紙袋を引き寄せた。「使用済みの?……幸運グルックリッヒ!、私初めてだわ貰うのというか、自分にゃ生涯縁なき物と諦めてた」

「いや……」

「――あっこっちにも入ってた」片方にしか入っておらぬとなれば、仮に渡したい相手が一人であった場合には届く確率も半分となってしまう。「……やっぱセットのお値段?」

ふたつのドス……あ、肘甲コデーラス」声楽家が千代さんに掛けた言葉[訳註:「肘甲ですエス・コデーラ従士さんエスクデーラ」、前章参照]は、どうやら花の耳にも届いていたらしい。

「未使用分も含めてミサ後に撒くようなのって普通ステッカー状のかさ、せいぜいあんピンで留めるようなんだろ」舞台裏通行証パセ・トラース・バスティドーレスといえば公演後、六弦琴や増幅器収容箱エストゥーチェス・デ・ギターラ・オ・デ・アンプリフィカドール等の表面に旅券の査証欄パーヒナ・デ・セージョスよろしくベタベタと貼り付け、狩った原住民の頭の皮を人数分剥ぎ取り勲章ないし懸賞金を得る際の証拠として持ち帰った野蛮な白人開拓者さながらに、記念に手許に残しておく演奏者も中には居るであろう。「昔知り合いのバンドに全区域スリー・エーのパス貰ったことあっけどあん時はたしか、ストラップで首から掛けるヤツだったな」

「えっ、貰っちゃって良いもんなの?」

「いや普通終わったら返すヤツだよ」

「で……すよね」従士が護謨ごむの入った帯を引っ張ってから離すと、それは心地好い破裂音と共に自身の二の腕へと再び貼り付いた。「――てことは、物販のとこに置きっぱだった入れもんテキトーに取ってタオルぶっ込んで持ってきてくれたけど、空かと思ったら中に偶然誰かが返却用に置いといたパスが入ってたってオチか……閣下ドジっ子か!」

「まァだとしたら紙袋一個にまとめて入れとけよって話だろけどな」

「やっぱ黙って貰っちゃったらマズいすかね……医者じゃないけどハンザイシャになってまう?」[訳註:最初に医者と結び付けたのは第二十六章の馬場嬢だが、第九章末には本人自らが《ハンザ・ザ・ハンザイシャ》なる不名誉な二つ名を生み出している]

「どうだろ流石に盗難届までは出さんと思うけど。使い捨てのゲストパスとかと違って一応ハコ側で管理してんしょ」地下の床に落ちていないか物の数分探すくらいはするだろうが、それで見付からなければ予備を持ってくるだけだろう。「バレねえだろうとはいえ拾得物横領罪にはなんだろから、犯罪者だけどギリ容疑者にはならねえってだけなんでは?」

「……明日もっかい行って返してくっか」もう戻ることなどないと、そう嘯いたその口も乾かぬ内に!「め、メンドッ!……面倒さ、ほせ」

「昼間とか開いてんのかなあ?」ミコミコーナは自身の携帯を取り出した。「閉まってるにしても誰かスタッフが中に……名古屋はミサ今晩だけだったんな?」

「分散させても隙間目立つだけだし」一方で先週の東京では日程が三晩に及んだにも拘らず、彼女は友人に汚された自分の尻拭いをすることさえ叶わなかったのであった……何せ拭おうにもパラ・リンピアールセロ、手拭いの差し入れは疎か便所紙パペール・デ・バーテルの代わりとなる紙の入場券エントラーダ・デ・パペールすらその手には供給されていなかったのだから!「う~ん電話してみっか」

「この時間になったらもう無人っしょ」半券には番号くらい記載されているだろうし、手許に無くとも端末で検索すれば数秒の手間に過ぎないものの、何れ日が昇った後でなければ用を為すまい。「まあ郵便受けに押し込むとか出来なくもないかな二枚くらいなら?」

「行くならまた地下鉄かまた……ああああ結局チャリどうしよ明日?」千代は敷布の上に身を投げると悶絶するように転げ回った。「バスは今から予約しとくべき?……幾らくらいっつってたっけ?」

「暴れるなよ揺れる。往きと同じで復路もまた漕いでくんじゃないの?」

「無茶おっしゃるな」跳ね起きたかと思えば、腕に通していない方の通行証を主人の胸元へと恭しく差し出して、「先輩どうぞ」

「……どうも」

「返すんなら配布しちゃダメじゃん一緒にしときなや」王女が従士の顔に操作していた液晶画面を向ける。「明日の夜限定だといっちゃん安くて四五よんごーか、探せばもっと安いサイトあるかもだが」

「よんご!――当然一人当たりすよね?」

「当の然」次いで端末を裏返すや、背面に付いた撮影用の透鏡レンテ・デ・カーマラを見せて、「何かひとつでもクソニコーナに自慢できるネタ欲しいっしょ……返す前にふたりで装着したの写真撮って送ったんよ」

「気が利くじゃまいか! さすが出身地アフリカ!」

「じゃまいかアメリカだバカ。ちょっと寄って」

「まァ恩着せがましくこれ口実に、」千代は空になった弁当の容器や菓子袋を脇に避けると、花の隣に腰を下ろす。「ちょいと失礼して――単にドニャキの生写真を、しかも風呂上がりの、自分の携帯に保存したいだけってのは分かってる」

「分かってるならいちいち口に出しなさんな……騎士殿それ、」ミコミコーナは少しばかり唸ってから以下に続けた。「――ハナちゃ腕細すぎんから、いっそ太腿とかのが映えるかも」

「なんて?」

「え?……こういうことですか?」花が長靴下を履くような手振りを見せる。

「いやいくらなんだって先輩の太腿よか私の二の腕のが細いよッ!」

「それ寝着ナイティ?――の下生足っしょ……フジコちゃんつか」拳銃や小刀類をコレーア・デ・ムースロ・パラ・ジェバール・隠し持つ為の腿帯エル・アールマ・オクールタ・コモ・ピストーラス・イ・クチージョスに置換しているのだ。「ちょいララ・クロフト感ない?」

「ノラクロだか白黒だかはともかくこん中で――」千代は主人と揃いの浴衣の裾を整えつつ反論した。「この建物の……つか今うちらいるニャゴヤ市ん中でミネ感あるのってアナタくらいでしょきっと」

「ほらシールとかのパスだとこやってさ、」王女が自分の片腿をピシャリと叩いて、「脚に直で貼ったりもすっから」

「それサロンパスじゃねえの?」

「いや折角だからお御足をってあっ、今パンイチか……ん?」着替えが枯渇した故に今晩まとめて洗濯してしまうという話であった。「ダメッ、シャロンがストーンしちゃう!」

「ランジェリーナ・ジョリーじゃねえんか」

「あは、下着くらいならドライヤーでも直ぐ乾かせるので」花は茶目っ気のある笑みを見せながら、一枚布の衣装ベスティード・デ・ウナ・ピエーサの下でその長い脚を組み替えた。「そちらだけは割とこまめに」

「ですよな……まァ新品の予備持ち歩いてるから必要なら差し上げるけども」

「何? エロいのはいかんよ?」

「エロイカ……いえ、私には――」花は左右合わせて十本ある筈の指の内、特に一本を誇らしげに掲げて以下に続けた。「既にこの子がおりますので、宜しければお写真にはミコガミ様が入ってくださいな」

「え」

「私なんかの貧相な細腿よりはずっと見栄えがすると思うんですけど」

「過分なるお申し出なれどアシがアマデなんぞのパス身に付けて」今朝方ルトヴィの意匠を兜に貼り付けられたアマデッコ[訳註:第二十四章参照]と、完全に立場が逆転してしまった格好だ。弥撒に列席しただけでも弁解しがたい背信行為なのに、この期に及んでアマデウスの通行証を太腿に貼り付けた画像が仲間内に露見でもした日には、苛烈な魔女狩りに遭うのが目に見えている。「――あまつさえ写真に残すのおかしいだろ」

「ミコさん目が怖いよ」

「なるほど」

「それ以前に推しのハナ様略して《推し花》とのツーショットチェキなら一枚千円払ってもお釣りが五兆円来る計算だがよりによって、サンチョなんかと同じフレームに収まった暁にはこいつとオレのどちらかが遠からず心霊になるってことだぜ?」

「ほほう、何の変哲もねえスナップ写真を後付で心霊写真に加工してくスタイルですな」被写体の誰かが撮影後に命を落とすことで?「じゃオッパイセンはその乳の間に一升瓶でも挿んで映ればええんでないの?」

「ワイーンのフルボットルはポン酒のハーフボ――半升瓶以下やで」サケや醤油を入れる大瓶の一升といえば、十分の一カンタラよりやや多く一アスンブレより少し少ないくらいの分量[訳註:第三十九章冒頭でも言及された単位。1cántara=8azumbres]――約一・八リートロ――なのである。

「七百五十だと大体八分の三升瓶ですね」未成年の阿僧祇花は、正気に戻っても相変わらず酒に詳しかった。「日本酒なんかは四合瓶が多いみたいだからもうちょっと小振りかな?」

「おハナさんほんとは隠れて飲んでるでしょ?」

「え、ロケットパンチ打つのは何号?」

「だ~からロケパンは号じゃなくてゼッ――」

「あっアレだアトムだ! ロケパンのひとつも打てずに何のための鉄のわんだよ!」

「おお……一理、あるけども」『天体少年アストロ・ボーイ』の原題は『原子アートモ鉄の腕エル・ブラーソ・デ・イエーロ』なのだ。

「《一里の道も千歩まで》とはよくぞ謂ったもんよ……」

「いや一里って多分四キロくらいあんぞ。千歩て、もう駅前の足長ナナ様――ナナ様でも千歩ではキツイか、相当大股でも」

「そこはホラ陸上の、三段跳びみたく……千段跳びで」

「ポがダンになっとるやんけ……まァひとっ飛びで且つ助走も無しなら、離陸して最短はじめの一歩でもう着陸ってのもアリ寄りの空路エアリアルか」空をこえてエン・スス・ドゥエーロスラララ星のかなたポル・ロス・シエーロス――[訳註:引用された西語版の歌詞の直訳は《闘いでは、空駆け巡り》で、厳密には原盤の《十万馬力だ》に該当する]「よく考えたらアイツ、ケツからもジェット噴射みたいの出してたし意外とロケットパンツなのかもな……」

「鉄腕アトムのお尻から出るのは機関銃マシンガンで、ジェット噴射は足からですよこう……」女子高生は爪先に引っ掛けた浴室備品の突っ掛けサパティージャス・デ・アメニダーデス・デ・バニョを揺らした。「爪先部分が格納されて」

「やばいハナちゃんテヅカ警察だった」

「いや岡っ引き以下の下っ引きです」花は座っている位置を少しばかりずらして長姉の入る空間を作った。「じゃあミコさんここに入ってもらって」

「ハニャ様真ん中でいいよ年の順で」

「あ、恐縮です」

「そんなに片手に花片手に雑草が嫌かよ!」

「やだってお茶っ挽きが汗臭い汗臭いスメハラ云うからこっちも気を使ってんやん」

「お茶っ引かねっての」

「おちゃっぴいだよね[訳註:第四十章と同様に繰り出された《粉挽き女じゃねえジョ・ノ・ソイ・モリネーラ!》に対し、ここでは《そうスィッお家が恋しい子だよねエーレス・モリニェーラ》と返されている。この西morriñeraはガリシア語由来の《里心モリーニャ》から派生した著者による造語か。いずれお喋りを意味する元の台詞とは大分趣きが異なる翻訳だ]」これまで彼女の然程長くない人生に於いて、一週間も親許を離れた経験が果たしてあったであろうか?「でももう少しくっつかないと入らないですよ」

「いやいやこのくらいで……女子高生物質を過剰に接種すると後が怖いし」

「汗はそんなことないですが」花が義姉の顔を立てつつ以下に付け加えた。「――まァお酒の方はかなり芳しいですね」

「かはっ!」ミコミコーナは大仰に仰け反ってから、「……この子は寝酒にします」

「おお感心かんし……いやそれ以上飲んだら急性アルチュール鉱毒になんじゃね」

「そんなランボーな」

「くっそさっきまで鳥のウンコ臭かった奴らに臭い云われちまうとはな!」飲み干したのが未発酵の葡萄果汁であれば、甘味姫ドゥルシネーアに優るとも劣らぬ甘酸っぱい芳香が妹たちを魅了していただろうに!「そいやキン肉マンってオナラで空飛んでなかった?」

「「――え?」」

「いやこいてないけども」王女は居住まいを正した。「そうそう姫のお毛々がよく見えるように」

「オケケて何やねん……ああ部長さんのアレか」[訳註:前章で安藤部長が別れ際、花の手指に結んだとされる自身の毛髪のこと]

「女子校で百合で美少女同士ってだけでもアツいのにそれプラス幼馴染みだもんね~」御子神嬢は前方に突き出した手の指先で画面枠マールコ焦点エンフォーケを合わせながら嘆賞した。「SSRを超えてSSSRと呼ばざるを得ない」[訳註:英Supur Special Splendid Rare?]

「ソビエト連邦?」[訳註:キリル文字での頭字語では露СССР]

「まァさすがにBLだとリアルでお目に掛かる機会は今後もないだろうけどな」

「いいから早く撮れよ腕疲れません?」

 ――パシャリクリック

「キン肉マンうちの弟が昔読んでた」

「もっかい」

 ――パシャリクリック

「《ハナは私だけのモノよ!》ってなお姫の独占欲が垣間見れまするぜ」

「見して見して……オッパイン挿まなかったんかい」他のふたりに配慮してか酒瓶は枠の外に押しやったようである。「意外とドニャキよかドゥルシのが怖かったかもですね……ツンデレというか、ツンギレ?」

「別にツンではなかっただろ冷静なツッコミ役ではあったけど、それはお前らふたりが度し難いバカだったからであって」ギネアは自身も度々その猥言レングアーヘ・オブセーノを窘められていたことをすっかり失念しているようであった。「まァでも昼間のノリでハナちゃにセクハラしてっとこレンちょんに目撃されてたら今頃わらわの首もどっか飛んで星になってたかも知れぬ」

「いやセクハラの自覚あったんかいわれ」

「セクハラ?」[訳註:《性的嫌がらせアコーソ・セクスアール》]

「――じゃなくて、」蜂の睡眠や吸蜜をノ・モレーステ・ア・ウナ・アベーハ・ドゥルミエンド・エン・妨げてはならぬパス・オ・ソルビエンド・ネークタル・デ・フローレス![訳註:ヤブヘビ――花に余計な情報を漏らすなという意味]「セクガハラって名古屋近かったかなと思って」

「セク――キガハラは美濃ですから、まあ岐阜県はお隣ですけども」

「あっそいや私、先輩と別行動で名古屋入る前偶然関ヶ原の戦い跡みたいなとこ通りましたよ?」[訳註:桶狭間の間違い。第二十二章参照]

「え……自転車でそこまで遠回りできる?」

[訳者補遺:西訳では以下の通り。

御子神「モノが濡れてたなと思ってペンセッ・ケ・エラ・ウナ・コサ・アクオーサ……六倍ほどカスィ・セークストゥプラメンテ

花「何と比べて?」

千代「そういや私たち、ハナちゃんより七倍大エンコントラーモス・ア・ナナきなナナちゃんに出会いましたよ=チャン・セープトゥプラ・デ・ハナ=チャン?」

花「それじゃおチビちゃんナナじゃなくて女暴君ティラーナでしょう」]

「う~ん」不意にミコミコーナが敷布の上に倒れ込んだ。

「どしました? 云わんこっちゃねえ、吐くならせめてビニ袋広げるまで待ってくれ」

「何ですか?」女子高生が上半身を捻って片耳を近付ける。「――撮ったから寝るって」

「呑んだからでしょ……いや寝るな風呂入れ」寝台の上に飛び乗った従士が王女の両頬を両手で挟み込む。「寝るんなら自分の部屋行って寝れ!」

「パトラッシュ……なんだかとても眠いんだ」

「ネロとは云ってねえ、そして私ゃ大型犬じゃにゃあ」どちらかといえば中型猫ガタ・デ・タマーニョ・メディアーノであろう。「仰向けっつか大の字で言われると悲壮感ゼロですな」

「……じゃあアバンストラッシュ」

「ストラッシュでもないわ」千代は肩を竦めて起き上がると、傍らで同じように眉尻を下げる先輩に助言を求めた。「実在する犬種ですか?」

「さあ……ビッグスプラッシュって名前の犬は聞いたことあるけど、あれはチベタンマスティフだったか」世界一高額な犬種として知られる。それにしてもヌマンティアに続く水禍に見舞われた今宵の主従が云うに事欠いて大飛沫グラン・チャポテーオとは!「パトラッシュはアレ、ブービエ・デ・フランドルなんだよね」[訳註:仏bouvier《牧牛犬》]

「えっ、セントバーナードじゃなくて?」

「アニメだとデザインが変更されてるから、直前の『ハイジ』に出てくるヨーゼフにかなり寄せてる感じで」筆者が子供の頃に生家で視聴した記憶とも合致する。「まああっちはそもそも原作には出てこないんだけど」

「詳しさ!」

「スイスだからサン・ベルナールということなんかな」

「かくいうサンチョは『あるブスな少女』も『フラダンス』も原作どころかアニメすらまとめ動画でしかまともに視たことないんすけどな……お~いミコ殿下~、オール電化~」返事がない。「ダメだ、ただのしかばねなのでしばかねえと」

「しばかないで……ほい」

「何すか」何を手渡されたかと思えば客室の鍵であった。「何、オブって連れてけって?」

「酒よりも疲労でこの老骨が動かんのだ」ギネアは何だか嘗てのラ・サンチャのような物言いで以下に続けた。「しばらくここ占拠すっからふたりともワイの部屋使ってよいよ?」

「えーっ……まァベッドはふたつとも新品なんだろうが」移動するのは億劫だが、然りとて寝惚けた牝牛を担いで輸送する手間に比べたら格段に楽な仕事であることに疑う余地はなかった。「どうします?」

「私は構わないけど、――」花は御子神の肩を揺さぶった。「シャワーは後でもいいですからせめてお布団の中入ってください。お部屋かなり涼しくなってるから」

「歯ブラシもしなせえよ。ポリフェノールカラーの歯は色男も色女もきっと遠ざけるぜ知らんけど」

「……じゃあ白いのだけにする」寝返りを打って枕に顔を沈めるミコミコーナ。化粧を落とす気力もないと見える。「あれ、残ってんのどっちだっけ?」

「いやむしろ白の方がペーハー低いみたいですし、あんまりダラダラ呑んでるとお口ん中酸蝕症になっちゃうかも」

「三色ワインてこた、残り一色はロゼってヤツでしょうな」

「君らダブルでドッペル母ちゃんか」

「こんなでかい娘いまさら認知しませんようちら。自分の母乳吸って生き延びてくれ」

「人類オカン計画は、女子会文書通りに遂行されるのか……分かったからドニャ様におやすみのチューを所望する、ほっぺたでいいから」乳肌牛バカ・レチョーサは瞑目したまま顔だけを横に向けた。「あっサンチョはもう行っていいよ。とっとと荷物まとめて出てって」

「いや私の部屋!……いやチューしないけども」青猫はそう云って嘆息した。「つかこの露骨な差別私のニコへの当たりがどうとか言えんでしょもう」

「はい、おやすみなさいませ殿下」赤蜂がそう云って敷布の上に投げ出されていた御子神嬢の手を取ると、その甲にそっと唇を付けた。「ほどほどに良い夢ご覧になったら浴室の方へ」

「やっべ惚れ、る……ぐう」

「ぐうて」主従は一旦顔を見合わせると同時に口を開いて、「「善き夜をグーテナハト」」

 怨敵脅し目のパンダフィランド――嘗ての権勢も何処へやら、哀れ巨人の亡骸は生皮を剥ぎ取られた挙げ句、糞避けに使われて今や屑籠の中だ!――亡き今、果ては前途洋々の凱旋帰国を果たし大ミコミコンを継承するのみという段になってその大願も志半ばで倒れた王女の末期の言葉パラーブラス・デ・モリブーンドは、彼女が泊まる予定だった客室の番号であったとされる。


俗に《葡萄酒から出でし友情アミスターデス・ケ・デル・ビノ・セ・アーセンミコミコーナの眠りと共に消えんアル・ドルミール・ミコミコーナ・セ・デサーセン》とも、《葡萄酒の特性は以下の三つビノ・ティエーネ・トレス・プロピエダーデス眠らせるアセール・ドルミール笑わせる及び顔に色を出させるだレイール・イ・ロス・コローレス・アル・ローストロ・サリール》とも謂う。[訳註:前者のMicomiconaは、元の諺ではla mona《牝猿≒酔っぱらい》。ミコミコーナという名前自体が西mico《小猿》とmímico《模倣の》から派生した造語であることを思い返しておこう]

「っかしあのダラシネーヤ殿下ときたらとてもフソジニーの年長者とは思えませんな」両手に荷物を抱え、昇降機へと続く廊下を歩きながら千代がボヤいた。「普通中高生の目の前であんな飲んだくれる?」[訳註:二十路の読みは《ふたそじ》。三十路と女嫌いミソジニーの混同については第三十七章に記載がある]

「そう? いやむしろかなり面倒見の良いお姉さんだと思うけど」暇だったからといえばそれまでだが、出会って間もない十代の子供たちに付き合って一日中街中を歩き廻ったのだ、唯一の成人女性として彼女たちを見守る責任を全く感じていなかったわけでもあるまい。「でも白いお顔が随分と赤く……まァ部屋の照明のせいもあるか」

「そもそも赤ワインて全然赤くないんよね。黒ワインよね」従士が押下した下向きの矢印はけだし黄色くも青くもなかったであろう![訳註:巡礼路に於いては黄色の矢印がサンティアゴ行き、青が南のファティマ行きを示す]「醤油と間違えて冷奴に掛ける恐れ……ロゼのがまだ赤感ある」[訳註:第三十二章では羅tinctus《染められた》を語源とし特に赤葡萄酒を指す際に用いられる単語tintoが、中南米では黒い珈琲にも使われている点に著者が言及した件がある。因みに色の明るいものを煉瓦色テハ、暗いものを菫色ビオラーセオと呼ぶらしい]

「まァお寿司で使うお醤油だって《ムラサキ》だしねえ……それ云ったら白の方だって」一般に糖質の多い白よりも抗酸化作用に優れた赤の方が、就寝前に嗜む葡萄酒としては適切だろう。尤も丸々一本開けてしまうとなれば、何れも不養生には違いないが。「黄色インか黄緑ワインになっちゃう」[訳註:《黄萄酒ビナマリージョ緑がかった黄色のアマリージョ・ベルドーソ》]

「なるなる、キーロインだったらサーロインのが……黄緑よりかは血みどろワイン?」[訳註:「彼/彼女が君に会いにビノ・ア・ベール来たらオカマになってたテ・アマリコナード……ないわ~ニ・レチェ・エン・サーングレ」は《黄緑の葡萄酒ビノ・ベールデ・アマリジェント》から。前章序盤の訳註に付した《酢中の牛乳でもないニ・レチェ・エン・ビナーグレ》が《血中のエン・サーングレ》に置換されている]

「ふふ、サングリアね」白血酒サングリーア・ブラーンカでは神の子が白血病レウセーミア[訳註:病名の語源は古希λευκόςレウコース+αἷμαハイマ《白い+血液》]になってしまう。自動扉が開く。「――良かった無人だ」

「まったくだ。旅館でもこのカッコで出歩くのはハズいすわ」もう疾うに日付は変わっている。この時間帯に擦れ違うとしたら、宿泊客ではなく仕事中の従業員くらいか。「何も荷物全部移動さす意味もなかった思うけど、何故か靴だけは置き去りという」

「はは、まあイロイロありますよ」主従揃って使い捨ての突っ掛けサパティージャス・デセチャーブレスで出てきたようだ。

「ほんと、イロイロありましたわ」蜂と猫を迎え入れた箱が下降を始める。「スプラッシュだのスプラッタだの……僕ももう疲れたよ」

 さてこの《イロイロ》とは直訳すれば《多くの色のデ・ムーチョス・コローレス》或いは《色取り取りにコロリーダメンテ》となり、大抵《様々な物事バーリアス・コーサス》や《異なる形でデ・フォールマス・ディスパーレス》等の意味を持つ。又、伊達者ガラーン美形グアーポの同義語として《色付きの男オーンブレ・デ・コロール》という言い回しも度々見られたものの、これが有色人種または赤人ヘンテ・デ・コロール・オ・コロラード[訳註:西語話者が«gente colorada»と聞いて思い浮かべる人種が果たして赤い肌ピエール・ロホの米大陸原住民なのか、アイルランドやスコットランドに比較的多い紅毛ペリローホなのか、只の雀斑そばかす顔もしくは日焼けした白人、それとも共産主義者の蔑称なのかは不明だが、何れも歴史的・宗教的・文化的に謂れなき被差別的境遇を甘受した人々と言えよう]、況してや色とりどりの人間ペルソーナ・コロリーダを指し示した表現でないことには注意されたい。ではここで使われた《色》とは一体何色なのかといえば、ズバリロトゥンダメンテ、《白色》なのである!

「――あっ、アイス食うの忘れた!」

 おお、我等が不肖の祖先ヌエーストロ・アンテパサード・インディーグノにして残忍かつ欲深な西班牙の航海者たちを、よりによって伝説に謳われし白皙テス・ブラーンカの神と誤認し歓待したが故に見す見す滅ぼされたアステカの民よ(それまでも年間一万に及ぶ同胞の生きた心臓が太陽神に捧げられていたとはいえ)! 彼等は汝等の轍を踏まんとしているのか?……尤も実際のところ、この《色付き》とは歌舞伎に於いて特に色恋沙汰アスーント・アモローソ濡れ場エスセーナ・エローティカを担当する二枚目(の看板)セグンド(・レトレーロ)――主役プロタゴニースタに次ぐ準主人公デウテラゴニースタの意味で、三番目の役者テルセール・アクトールは滑稽ごとを演ずる――が顔を白塗りしたことに拠るのだそうで(成る程舞台の上ならば、顔は白ければ白いほど照明を反射しより目立つことが叶う筈だ!)、ここから派生して性的魅力アトラクティーボ・セクスアール情欲ルフーリアを指す言葉には度々《色》が用いられ、セビーリャの放蕩者ブルラドールも日本では《色の事柄に於ける先生マエーストロ・デル・アスーント・コロレアード》が定訳となっているのだが、則ち換言すると必ずしもアララト山で天啓を受けた自信過剰な白人優位主義者スプレマシースタス・ブラーンコス――連中は有色人種は神が創った白皙人種の退化した姿と考えているし、女性は男の一部から創造されたと信じ込んでいるが、これらは既に医学や自然人類学の観点から否定されている――の誇大妄想に気触かぶれ只々洗脳された結果というわけではなさそうなのだ。(尚いみじくもこの物語の筆者は地中海人メディテラーネオなので、元伍長で口髭の総統フューラー・コン・ビゴーテ・エル・ゲフライタンテが尊んだ彼自身とは似ても似つかぬ北方民族プエーブロス・ノールディコスからは寧ろ卑下される立場にある関係上、仮令同じ氷雪人種カウカースィコスに属しようとも上記したような主義主張には一切くみするものでないことをここに明記しよう)

感情が触れるもの全てをティニェ・デ・スス・コローレス己の色に染め上げてしまう・ラ・パスィオーン・クアント・トカそれが憎悪であれジャ・オディオーサ好意であれジャ・ファボラーブレ」[訳註:前掲書の第八十節より。ここでの《触れるもの全てクアント・トカ》とは、説示の主題たる《情報インフォルマシオーン》乃至《真実ベルダッ》を指したものと思われる。《百聞は一見に如かず》に似た内容で、情報が伝達されて行く過程で経由した人々の主観により幾重にも変質してしまう旨を論じた文章]

 おっと!……ありがとうグラーシアス、グラシアン。先人の戒めに従いこの辺りで総括すると、アフリカ、アラベ、アメリカ、オセアニア、アシア及びその他亜大陸や諸島オートロス・スブコンティネーンテス・エ・イースラス非白化人種ラーサス・ノ・ブランケアーダスの皆さん、もし貴方がたがこの先日本を訪れた折、現地人が独裁者の尻のような人種[訳註:《フランコのケツクロ・デ・フラーンコ白いブラーンコのは女房が洗剤で洗っているから》。第二十七章参照]に向ける憧憬の眼差しオーホス・エン・アドラシオーンに比べ自分たちに注がれし視線が些か冷ややかウン・ポコ・フリーアに感じられた時は、顰めた眉を一旦緩めていただきたい。そしてこう考えてみよう――彼等は未だ慣れていないのだとケ・ノ・エスターン・アコストゥンブラード。事実、一部の差別主義的日本人にとって格好の攻撃対象は決まって外見上の区別が難しい秦人や高麗人であり、アフリカ系や東洋人オリエンターレスを除く亜細亜系アスィアーティコスに対しては(差別するに値するほどの関心がないこともあって)概ね友好的だと聞くし、しばしば人種の坩堝クリソール・デ・ラーサスとも形容される合州国と比較し日本でより不愉快な思いを強いられたという有色滞日者の証言は未だ耳にした例がない。

 思い出してほしい。カラスの落とし物カイーダスには白と黒が交じらぬまでも共存し、人の小水アーグア・メノール・ウマーノとて大抵が黄色いし、ご婦人方はしばしば(殿方でも時には)赤の葡萄酒をその身から滴らせることがあるではないか?


それはそうと、偉大なるヴォルフ閣下にはこのアベンダーニョも伏して謝罪せねばなるまい……彼の声楽家は決して嘘偽りでその愛らしい追従者を徒らに謀ったわけではなかったのだ![訳註:彼が単に《女従士エスクデーラ》との駄洒落で《肘甲コデーラ》という用語を使ったにあらず、真実紙袋の中にそれに類する非売品を仕込んでいたということ。つまり閣下は手違いではなく、飽くまで意図して主従にそれを手渡したのである]

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