第30章 ペニンポリに拠れば語られる事どもの最中にサンチョ・ハンザはテバサキを食さぬが、そうであったとて、お前の肩の重荷は軽くなるであろう

LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA

清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ

Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.


POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM

                    A Prof. Lilavach

Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.

Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).



第三十章

ペニンポーリに拠れば語られる事どもの最中にサンチョ・ハンザはテバサキを食さぬが、

そうであったとて、お前の肩の重荷は軽くなるであろう

Capítulo XXX.

De cosas en las que dice Penimpoli que le avinieron a Sancho Hanza sin comer tevasaquís;

pero aun así, te vas a quitar un gran peso de encima.

[訳註:《上を軽くするキタール・ウン・ペソ・デ・エンシーマ》には頭髪の上部トップのみ短くするという意味があるが、

此度の花の事例には当て嵌まらない≒千代に向けての言である点にご留意願いたい]


Zum zum zum, la abejita va.[訳註:《スムスムスム、蜂の子が行く》]

 この蜂の羽音が日本人の耳には以下のように聴こえるという。

Boom boom boom, bees are buzzing...¡BOOM![訳註:buzzバズは英語等で蜂や蝉などの虫が出す音を示し、動詞と擬音語双方で用いられる。因みに独語ではsummズム。蜂が複数形なのは語呂の都合だろうか]

 読者諸賢の内で怪獣映画に親しまれた方がおられれば、翼開長エンベルガドゥーラが優に百メートロスを超える巨大な羽をはためかせ、その風圧でゴッズィーラをも吹き飛ばすあの蛾の化け物をご想像いただこう。天空を覆い隠すが如き鱗翅目の頂点スプレマシーア・デ・ロス・レピドープテロスが放った衝撃波であれば、飛行音スンビードよりも爆発音ボンビードの方が或いは相応しいのかもしれない。中にはスズメバチに擬態する蛾――日本では《虎の威を借る狐ソロ・ベスティード・コン・ピエール・デ・ティーグレ》と呼ばれる[訳註:《獅子の皮を着た驢馬アースノ・ベスティード・コン・ピエール・デ・レオーン》を捩った表現が第十八章以降頻用されている。尚、実際スカシバガ科には天敵を避ける為、獰猛な蜂と瓜二つの外見を持つ蛾が数種確認されている]――もあるというから、その羽撃きによって鐘楼や大聖堂を破壊するような蜂や蜂鳥の怪物が居っても何ら不思議はあるまい。

 又、Bumbiという語感からはbimbo、則ち貧者が連想されよう。《貧乏暇無しノ・アイ・デスカンソ・パラ・ロス・ポーブレス》とは自嘲的な慣用表現だが、《忙しい蜂ビズィー・ビー》も蟻さんオルミギータ[訳註:第二十三章ではドニャ・キホーテの称号の派生型としても用いられた。因みに伊語のbimboは《子供バンビーノ》を指す]と同じ意味で使われる言葉だ。しかもイザヤ書を紐解けば創造主ヤーウェも《悪しき者共に平安なしノ・アイ・パス・パラ・ロス・マーロス》と仰せではないか! つまり勤勉な悪役が頂戴するのに極めてぴったりな名なのである……尤も我等が敬愛するラ・サンチャの精華であれば、《悪党マルバード》と誹られるより《信天翁の騎士カバジェーラ・デ・ロス・アルバートロス》の芳名を選ぶであろうが――とはいえ道中で散々従士に巻き上げられた故、現時点でビンボーに身を窶しているというのも大いにあり得ることだ。

 何たるバービーケ・バールビエ![訳註:俗語のbimboには《頭の弱い美人》の意があり、英語圏では男性形のまま使われることも多い。バービー人形も似た含意を持つが、花を嘲するというよりは前章の《¡Qué bárbara!》が著者の頭に残っていたのだろう]

「あとアレだ、ブンビーさん!」女児慢動画の敵幹部エフェクティーボ・エネミーゴ親しみ深い敬称スフィーホ・オノリーフィコ・アマーブレが付くとは、子供向けの番組ですら詩的正義フスティーシア・ディビーナ――否、善と悪の二元論ドゥアリースモ・エントレ・エル・ビエーン・イ・エル・マルに偏らぬ日本らしき繊細なる慣例だ。

「おっ、流石は《蜂の騎士》の家来!」

「なんで?」半坐千代が御子神嬢を振り返ると、見慣れた美相より指幅数個分アルグーノス・ディーヒトス横に視線がずれ、その焦点は瞬時に――彼女たちが渡ろうとしていたのとは別の――南北を繋ぐ横断歩道の対岸へと合わさった。「……あっ、あぶなっ!」

「何?」

 排気音からして大型貨物車両だろうか――自動車が急制動を踏んだかと思えば、一拍置いて何事もなかったかのように運転を再開したようである。

「――何してんの! 放せっ、放しなさいよぉ!」

 興奮した若い女の甲高い叫び声が、数台の四頭立てが行き交う往来を挟んでこちら側にまで届いてくる……一体何事か?

「な、何ぞ?」千代さん以外の三人の少女も北側を向いて様子を窺った。

「ちょっ、行ってきます!」

「えっ、おい!」

「そこで待っててください!」

 信号が青に変わるやそう云い捨てて単騎横断歩道を駆け抜けていった猫の従士の背中を呆気に取られながら見送った残りの三人は、余りに唐突な出来事にその場を動けなかったのか、若しくは人混みに紛れて仲間の行方を見失ってしまったが故か、或いは追い掛ける前に赤信号が点ってしまったからか、いずれにせよ陽光を遮ってくれる南側の建物から飛び出た炎天下の歩道の上に為す術もなく取り残されてしまった。


日本人といえば慎ましく温和で礼儀を弁えた国民性を思い浮かべる方も少なくないと思うが、我々がひとり残らず陽気で情熱的ではないのと同じく――尤もこれは観光立国としての印象向上戦略エストラテーヒア・ア・メホラール・ス・イマーヘンという点である程度そう装う努力をすべきなのかも知れぬとはいえ――、飽くまで相対的にそのような傾向が認められる……認められないとも断言できない(あわよくばそうあってほしいオハラッ・イ・スィ・プエーダ!)、程度のものと考えた方が無難であろう。謙虚で知的な合州国人エスタドウニデーンセス指の短いデ・デードス・コルトス[訳註:《手癖の良い》?]秦国人チーノスも、世界中を探せば何処かには必ず実在するものなのだ。

「放してますよ、放してますから叩かないでください」

「アリアこっち! ママの後ろ来なさい早く!」母親と思しき女が手首を強引に掴んで引き戻したものだから、船乗り月娘ルナ・マリネーラ可愛い守護者たちプリティ・クラドーラス[訳註:英pretty curer《愛らしき治癒者》をカバン語的に逐字訳するなら後半は西curanderas《女性の祈祷師、民間治療士》となるのだろうが、著者はcurador《法的な管理者、代行者/美術館や博物館の学芸員》を指す名詞を採用した。慥かに後者も形容詞としては《治癒する》の語義があるが、番組の主人公たる変身少女たちが最終的に無辜の民や邪心に囚われた敵方を《癒やすクラール》までの過程が些か攻撃的もとい肉弾戦的に過ぎるが故に敢えて《正義の執行人》の語感を含むcuradoraを用いたのだと推測できる]の正統なる視聴者層アウディエンシア・レヒーティマであろう女児――富士の袂で金鉱掘りに従事させられんとしていたところをドニャ・キホーテに救われたあの園児たち[訳註:第九章を参照のこと]と大差ない世代――が動転して泣き出した。驚いた以上に強く握られた腕が痛かったのだとみえる。「誰か、見てないで警察! 一一〇番して!……おい何撮ってんだよ!」

「――いや、撮ってないです」徐々に声が近付いてくる。[訳註:無論実際に近付いているのは横断歩道を走る千代の方である]

「撮るならこいつだけ撮んなさいよ! うちら被害者なんだから!……早く通報――」

「ちょっ――っと、待ってください!」

「何よアンタ」

「ちょ……うっ」大きく咳き込むラ・サンチャの従士。柄にもなく全力疾走したのが仇となったか。「あと、二秒……待ってくだ――」

「二秒も待てないわよ」業を煮やした母親は片手に持っていた携帯を突付きながら以下に続けた。「携帯からでもイチイチゼロでいいのよね……アナタそいつ捕まえといて、逃げないように」

「……逃げませんよ別に」容疑者の男オンブレ・ソスペチョーソが両膝を叩きながら平然と立ち上がる。

「こっち向きなさいよ、向けよ!」傲慢と涜神を戒める女神ディオサ・エンカルガーダ・デ・サンシオナール・ラ・イーブリスネメシスの向こうを張るが如きママの般若面マースカラ・ディアボーリカ胴間声グリート・ブルタール幼気いたいけな子どもを一層怯えさせ、まるで周辺の街路樹で昼寝していた蝉たちが一斉に鳴き出したかのような騒ぎとなった。「訴えてやるからなこのロリコン野郎――あっもしもし?」

「老婆心ながらご忠告申し上げますが……」漸く呼吸を整えた千代が口を開く。「恥をかきたくなけりゃその電話は切った方がよろしいかと」

「は?……あっちょっと待ってて」緊急事態を想定し身構えていただろう電話口オペラドールは素気なく待機を命じられた。

「ほら、野次馬は散った散った。信号変わっちゃいますよ」どちらに肩入れするでもなく、恰も液晶画面内で再生される動画の中の迫真の芝居アクトゥアシオーン・レアリースタを興味本位で眺めていただけのような信号待ちの通行人たちが、東京から遥々来た女子中学生の交通整理コントロール・デル・トラーフィコによって前進を余儀なくされた。単なる暇潰しなので、自分が巻き込まれる危険を冒してまでは見物する気もないということだ。無料で観賞できるからこその楽しい一悶着インシデンテ・デ・リニャ・グラシオーサなのである。

「ちょっと、証人なんだから誰か残ってよ!」

「そりゃま弥次さんも江戸じゃ商人だったかもしれませんが、」未読の『東海道中膝栗毛』の梗概を、如何にも訳知り顔でコン・カーラ・デ・サベロトード掻い摘む猫の従士。[訳註:第七章以降、花から書名を聞いた千代が電網上で検索するなどして粗筋くらいは把握していても不思議はない]「――今はたしか徒歩で相方とお墓――お伊勢参りの最中にございますので……」

「伊勢と変態と何の関係があるんだよ?――てかお前誰だよ?」

「そりゃまエビだのカニだのは変態してくれなきゃうちらも食べれないし困るじゃないですか――お前?」フィロソーマ幼生がプエルルス幼生に変態したところで、我々の食卓に並ぶまでには更なる成長を待たねばならぬだろう!「私は通りすがりの……何だろ、天秤の騎士の従者ですけども」

「は?」

「騎士としちゃまだ叙任前なもんで切った張ったはごめんですが、いざこざの仲裁に関しちゃ家来の方が優れてるってこともあるみたいでして」千代はミコミコーナとの邂逅[訳註:第十章参照]を思い出しながら心なしか胸を張って答えた。「とりまこの人も逃げないとおっしゃってますし、その電話は一度お切りになった方が――」

 突然割り込んできた第三者の口上に何やら混乱した母親が、怒りに任せて通話終了印を押したらしい。自分から掛けておきながら相手に断りなくガチャ切りするコルガール・エル・テレフォーノ・スィン・デスペディールセその尊大さにはその場に居合わせた誰もが――推定有罪プレスンシオーン・デ・クルパーブレの彼も含めて――一律に戦慄したことだろう。警察相手に悪戯電話ジャマーダ・モレースタを掛けたようなものだ。

「……ありがとうございます」

「赤の他人でしょ? 口出ししないでくれます?」幾分落ち着いたか、語気も大分和らいだ感がある。

「はァまァ、赤が青に変わるまで突っ立ってた他人って点では私もお母さんもこの人も同じだと思うんですけど……義を見てせざるはセザールというか、見ざる聞かざる言わざーると申しましょうか……」ふと置き去りにした三人を行き交う自動車の隙間に見透かしながらも、従士の口は休むことなく回り続けた。「あ、メガネザール何撮ってやがんだ――いや、多分この場で白黒付けられる証人は私だけな気もしたので、出しゃばりは無用と思いつつも致し方なく」

「じゃあいいから白黒付けてみなさいよ」子どもは相変わらず大声で泣いたままだが放ったらかしだ。「黒かったらアナタも突き出してやるから」

「こわ……では遠慮なく。えっとお子さんを見て何か変わったとこはありませんか?」

「は?――アンタこいつに何か付けられたの?」ここで漸くしゃがみ込んだ母親が、娘の衣服をあらため始めた。「信じらんない、汚い、何付けられたの!」

「いや、まァ流石にそろそろお子さんの鼻水とヨダレは拭いて上げた方が……」汚い何かアルゴ・スーシオの出処は着用者ご本人だったようである。

「あっ、そいやアンタさっきイケメン武将にもらった風船は?」

 すると女児は一旦泣き止むや、鼻を啜りながら「あ」と言った。

「それなら恐らくあそこに漂ってるのが――」従士は南の空を指差す。

「「あ」」親子が声を揃えた――と、折角貰った風船が手の届かぬところへと飛んでいってしまったことに漸く思い当たった女児が、今度は急激に襲いくる喪失感に背中を押され、堰を切った水車のように涙を零し始めた。蝉の合唱コーロ・デ・ラス・シガーラスどころか、最早火の点いた煙草シガーロ・エンテンディードを押し当てられたかのような悲鳴である!

「もううるさいなあ、アリアが放すからでしょう?」道理を説いたところで泣く子を黙らせる用は為さぬだろう。「また貰ったげるから……で、風船が飛んでくのとロリコンが抱きつくのに何の関係があんのよ?」

「いや別にこの人がロリコンという訳ではなくて――」千代は一旦振り返り、《この人エステ・カバジェーロ》を見上げてから以下に続けた。「まァこの人がロリコンじゃないかどうかは知りませんが」

「違いますよ」

「そもそもロリコンってこんなちっちゃい子も守備範囲内なんですか?」

「……それは自称ロリコンの方に訊いてください」男は何か疚しいことでもあるのか顔を背けながら答えた。

「そりゃそうだ」前方に向き直る猫の従士。「とにかくこの人がマリアちゃん?に抱きついて――抱き止めて?いたのはロリコンだからではないということが云いたかったわけで」

「全然話が繋がってないんだけど」苛立たしげに返答する若い母親。

「ツナ缶もサバ缶も好きですがねえ」従士は溜息を漏らした。「人を裁かんと欲するなら最低限検証せねばなんないことがありますでしょ。手に持ってた風船が風に飛ばされたらちっちゃい子どもはどうします普通?」

「はあ? 何もしないわよ。追い掛けりゃいいでしょ」追い掛ける以外何もしないノ・アセ・ナダ・マス・ケ・プレセギールロという意味である。

「車が通りゃ風も起こるでしょうしね。じゃあ目の前で子どもが急に、ガンガン車走ってる車道に飛び出したらどうしますかね、普通……人として」

 女は一転して押し黙った。

「……向こう側から見えた感じだと、信号待ちしてた人たちはほぼ全員――この人を除いて――自分の携帯に目が行っていましたから、風船が飛んでったのもその子が飛び出したのも気付かなかったんでしょう。お母さんも含め」子供とは目の高さが違うとはいえ、宙に浮かんでいた風船の動きすら目に入らなかったとすれば相当な没入度であるエスターバ・ア・フォンド・エン・ス・ムンド。「百歩譲ってスマホ見るのはいいとしても、せめて片方の手くらいはお子さんの手を握っとくべきでしたね」

 母親は歯噛みしているのか何も言い返さなかった。

「その点このあんちゃんだけはそもそもスマホを持ってなかったのか――まァ経済的理由もあるでしょう――、もしくは」被告席バンキージョ・デル・アクサードを一瞥して、「子供が好きでずっと眺めてたのか、いずれにしてもそのおかげで悲惨な事故を未然に防ぐことが出来たわけです」

「ちっちゃい子が車道側に立ってたらヒヤヒヤして何か見ちゃうでしょ」男が自分の弁護人に対して弁解を加えつつ、懐中から携帯端末を取り出して言った。「それに別に四六時中これをいじってなきゃいけない法律もないでしょうよ。そうじゃなくても充電すぐ切れますし」

「――だそうです」……半坐千代に弁護士は向いていない?[訳註:第二十六章の御子神の科白より]

 母親は無言のまま子供の手を引いてその場を立ち去った。一巡見送った青信号が再び点いたからか、単に居た堪れなくなり一刻も早くその場を離れたかった為に予定とは別の経路を取って何処か行先を目指すことにしたからなのかは不明だけれど、筆者がそのような状況を思い描くことを可能にしたのは徐々に小さくなっていくあの慟哭ヘミードであった。


そうして北側の歩道には猫の従士と見知らぬ若い男だけが残った。

「あらら、お礼も謝罪もなしかよ」

「どなた様かは存じませんが」嘆息する少女を前に会釈する男。「――お陰様で命拾いしました」

「は?――ああいえいえ、私がしゃしゃり出んでもご自分で説明すりゃ済んでたんでしょうけども、何だか他人のいざこざに首を突っ込むくせが付いたのか何なのか……」

「はは、あそこで俺が何言ったって誰も信じなかったでしょう。あのママさんの剣幕を前にしちゃあ」事実を説いたところで我を忘れて怒る母親を納得させる用は為さぬ。「その、猫の従士?さんの説得がなかったらあのまま公衆の面前で袋叩きにあってた筈ですよ」

「まァ説得が通じなかったらその場でお兄さんが切腹すりゃいいわけですし」

「……切腹するくらいなら無実の罪を被っておとなしくお縄に付きますよ」

「そりゃそうだ」命あっての物種だミエントラス・アイ・ビーダ・アイ・エスペランサ――と、ここで従者の眉間に皺が寄った。「……何か、違和感」

「ああ、命の恩人に何かお礼をしませんと」

「え、いやいやお礼だのオレオレだのは間に合ってますから。お気持ちだけで」そう云ってから今や太陽の中に吸い込まれてしまった風船の行方に気を取られた千代は、次いで遠くの赤信号とその下で携帯を構えている同胞を見比べる。「――まだ撮っていやがる」

「何が?」

「――お気持ちも結構ですわ。私も実はですね、散々野宿させられたんで家のない方々の気持ちは分かってるつもりです……信号変わったら行きますね、人を待たせてますので」

「そうですか、お時間取らせました。それにしても――」若者も横断歩道の向こうを見渡しながら、尚も感嘆の声で続けた。「さっきの橋の人たちといい、世の中まだまだ捨てたもんじゃないね」

「端の人? 盗み撮りしてた奴ですか?」

「端っこの奴ではなくて、……俺は今向こうから来たんですが、あっちにちっちゃい橋が架かってて、なんか川に落ちそうになってる男の人を引っ張り上げようとしてたみたいで」

「名古屋意外とあちこちで事件が同時多発する街なんすねえ……大丈夫かなあ」千代は事件がなければ自ら起こす主人を憂いつつもその身を案じるのだった。「つって冒険よかマシだが――でお兄さんは落ちそうになってたのが幼女じゃなかったので助けなかったと?」

「もういいですよそれは。あんな狭いとこに三人も居ちゃ寧ろ邪魔だっただろうしね……今度から相手が子供だった時の救助は別の方にお任せすることにしますから」地獄への道が善き施しで舗装されているエンペドラード・デ・ブエーナス・リモースナスと看破したのは青檸檬人リーマスだったかそれともカエル人ラーナスだったか?[訳註:英limey《ライム野郎ライミー》は米海軍や南半球の英植民地等で用いられた言葉だし、対するfrog《蛙野郎フロッグ》の方は恐らくその英国兵ライミーたちが仏人を馬鹿にして使い出した渾名なので、イスパニア人にとって馴染みがある表現なのかは不明]信号が変わるのを見て、男は片手を差し出すと千代に握手を求めた。「じゃあそちらも冤罪にはお気をつけて。アディオス」

「え、あっはいアディオスアミーゴ」

「それと俺は別にホームレスじゃないですよ。こんなカッコしてるのが悪いんだけど」

「あっそうなんだ、ごめんなさい」

「いえいえ、ありがとうございました」

 存外洒落の通じる男であった。

「……ん? お前も渡らんのかい」嫌疑の晴れた被告アクサード・アブスエールトが桜通の北側を歩き去るその背中を見送った半坐千代は、何か腑に落ちない様子で南側の歩道に向き直った。

「サンチョさーん」すると携帯を向けながら駆けてくる床屋の娘。ことが済んだと見計らって様子を見に駆け付けたというところか。「――チョ、知り合いだったん?」

「全然レッド、つか盗撮やめろし。カメコかよ一発レッドカードだぞ」

「いやなんか揉めてるっぽかったから、裁判になったら使えると思って」

「示談だよジネディーヌ、証拠とかもう要らん」従士がニコの携帯の撮影用透鏡レンテ・デ・ラ・カーマラを手の平で遮った。「撮んのやめい、メコメコーナって呼ぶぞ」

「お前がやめい」後を追ってきたミコミコーナが猫の額に手刀を打ち下ろす。「何かあのお母さんめっちゃキレてたけど、何があったんだ?」

「ミコ姉さんジネジーヌ・ジダンて何した人だっけ?」

「は? 頭突きだろ、一発退場」二〇〇六年世界杯決勝のイタリア戦は、筆者も受像機で観戦しながら爆笑したのを憶えている。これは想像だが、日本人の多くは彼のことを/zizu/ではなく/zizo/と呼んだことだろう。[訳註:元フランス代表の蹴球選手ジダンの愛称がZizouズィズーであることから。地蔵なら慥かに坊主だし石頭である]

「レスラー?」それまで執拗に映写機を向けていたカメコメコーナは素直に録画停止釦を押すと、携帯端末を衣類の隠しに収めた。「頭突きは眼鏡が危ないので」

「あのヒゲは一体……」ドゥルシネーアが既に数十米は離れているだろう男の後ろ姿を目で追いながら呟く。

「あれ、お姫は男子の髭ダメな姫?」

「え?――いや髭自体は全然いいんですけど」一旦自分の携帯電話を取り出して、その液晶に向け人差し指を伸ばしたエル・トボソの姫君ではあったものの、結局は頭を振ってそれを懐に戻すのだった。「まあいいか……後で」

「ヤバそうだったらお巡りさん呼んでくりゃ良かったのに」エティオピーアの王位継承者は来た道を振り返りながら、如何にも他人事のようにシエルタメンテ・コモ・ウン・フェノーメノ・アヘーノ以下に続けた。「ちょうどホテルの真ん前のこっち側に交番あったぜ」

「近……危なかったな」実際警察沙汰にはしたくなかったのである。しかも本当に他人事だったのだから。「ん~」

「どうしたの?」口吻を尖らせて唸る千代にドゥルシネーアが問い掛けた。

「変な顔して」

「四つ目は黙って通ってろ!」[訳註:「¡Cállate y pasa, Cuatro ojos!」]

「ど、どういう返し?」独りだけ横断歩道を渡り直して南側に戻れということか?

「――いや失礼。さっきの髭男子なんですが、あっちの橋から来たっつってたのにこっち向いて信号待ってるっておかしくないですか?」

「……たしかに」

「別に気が変わったとか、ボーッと歩ってたら目的地を通り過ぎてたとか色々あり得るんじゃね?」それならそれで、携帯でも使って道を調べていて良さそうなものだが。「まァサンチョがうちらを灼熱地獄に放置して何に首突っ込んでたかはこれから尋問するとして、とりまこれ以上さんさんさん太陽の光に晒され続けるのは無理っす」

「右にセイム」

「あっこから降りれば新宿の地下街みたくなってて向こうにも行けんじゃね?」二本の主要道路の交差点と接する歩道の角にポッカリと口を開いた、大樹の根を辿って降りれば屍者の王国ヘルヘイムとも地続きと思しき地底世界へと通じるだろうあの下降通路の入り口エントラーダ・デル・コレドール・デスセンデンテを指差した御子神嬢が、一行を陽射しの届かぬ安楽の旅路トラベスィーア・コーモダへと誘う。「降りんべ」

「えっだったらホテル出た時点で降りるべきだったんでは?」そもそも少女たちは暫くの間――ドニャ・キホーテやエステ家のふたりが下っていった――その穴の傍らにたむろしていたのである。

「だったらメガネだけ陽の当たる道を歩けばいいだろ!」

「そりゃないぜセニョリータ」陽光に反射する眼鏡と同調するように煌めく汗を拭いながら、馬場久仁子が女子大生の後を追って暗穴の中に消える。

「ん~?」

「ほら、チヨちゃん行こ」まだひとり首を傾げている従者に主人の想い姫が呼び掛けた。

「あっはい、シーセニョーラ」

 以上の経緯でコリントの薔薇娘ローダンテとその同行者たちが地下世界へと身を隠したので、アポロンの金の矢フレーチャ・デ・オーロはその麗しき金的ブランコ・デ・オーロを又もや見失ったのである。


半坐千代が階段を下り切ると、ミコミコーナとメコメコーナが腕組みしながら駅改札を通過する疎らな人の群れを睨み付けていた。

「地下鉄だけかよ」嘆息する御子神。「桜通線つうからには東西に伸びてんだろうが……別に目的地もないのに電車乗んのもな」

「山手線みたくグルグル周ってんなら涼みながら時間潰すって手もありやすぜ旦那」[訳註:市内で環状線の構造を取っているのは名城線で、桜通線からの乗り換えとなるとふたつ先の久屋大通駅まで移動する必要がある]

「若ェもんは時間が無限にあると思っていやがる!」折角新幹線まで使って遥々やって来たのに、地上を観光しようという意気込みすらないようだ。「とりあえずメガネドラッキュラはあっちに地下通路続いてんかどうか確かめてきなよ」

「何でドラッキュラ?」

「えだっておばあちゃんのなけなしの年金を吸い付くそうとしてただろ」

「やだからそれは慈しみの心ですやん……」孫娘を可愛がりたいという欲求ス・プローピオ・デセーオ・デ・ミマール・ラ・ニエータを満たしてあげようという心である。「チヨさん一緒行こう」

「だが断る」

「ドラ娘の方は向こう戻ったら別ルートあるかどうか見てきたもれ」ミコは西側を指すと、恰も自国の家臣であるかのように指示した。「グルっと回って来れっかもだし」

「あらあらミコミコン王国に専制君主の誕生だこれ」暗黒大陸の独裁国家ディクタドゥーラ・デル・コンティネンテ・ネーグロには願わくば踏み入りたくないものだ。「たとえドラ娘に身をやつしたとて私ゃシュードラ娘にはなる気はござんせんですよ?」[訳註:第十六章では《奴隷シュードラ猫》となっている]

「私も行きましょうか?」

「いや部長が来るならウチの方でしょちょっと!」

「姫、お立場をお弁えくだされ」専制的継承者エレンシア・デスポーティカがドゥルシネーアを制止する。

「でもチヨちゃんさっき走ってましたしお疲れだろうから」

「大丈夫っすよドニャ・アンドゥルシネア。秒で帰ってきますんで」

「それじゃ……お願いします」

「いてらー」

「いやお前もだぞ。はよ行けや」

 先刻とは異なり緊急性はなかったので全速力というわけではないのもの、猫の従士は持ち前の身軽さで小走りに地下鉄の通路を駆け抜けた。

「やっぱ出口しかねえわ」多少頬が上気したくらいで息切れするほどに鼓動を早めるには至らなかったとみえ、ユニモールの東側終点を一通り見渡すや直ぐに踵を返す千代さん。

「おっ早い、でもぷん掛かってたぞ」玉座の代用として改札口正面に設置された自動券売機マーキナ・エクスペンデドーラ下の出っ張りサリエンテに腰掛けていた王女が、労いの言葉とともに従者を迎え入れた。「苦しゅうない、早速報告いたせ」

「そりゃミコ殿下は苦しゅうないでしょうよ……つうかそちらの姫君ならともかく、ミコミコーナと私の間にゃ別に真っ当な主従関係は結ばれておらんはずなんですが」従士がそう云うのも、ドニャ・キホーテ亡き後でトラース・エル・デセーソ・デ・ドニャ・キホーテ当面彼女が仕えるべきは主人の恋人であり未来の伴侶となる筈だったエル・トボソの佳人唯一人と考えられたからである。「……まあいいけど。こっちはご想像通り、名古屋駅まで一直線で左右が商店街な感じだったですけど、地下鉄の駅よりこっちは地上出口しかなかったっすね」

「うん知ってた」

「ひでえ」

「お疲れ様でした。お茶飲みな」

「メルシープリンセス。私は姫の治める国に住みたいです」猫の従士は恨みがましい視線をギネアの王女に送りながら付け加えた。「こんな冷酷無比な青の他人の暴君じゃなく」

「うっせえなジダンすんぞ!」

「ぼっ、暴君ネロネローナ!」咄嗟にネクロカブリーオの兜を頭に乗せる千代さん。「パリにお帰りください」

「ジダンってマドリードじゃなかったっけ?」生まれはマルセイユである。「そいや赤の他人ってフラ語で何ていうの?」

「えっ私フランス語取ってないんですけど……えっと、ランジェ――ルージュ、とか?」それではハエ野郎モースカスである![訳註:仏語のétrangerには異邦人の意もあることから。尚、Moskalとは東欧諸国で使用される露西亜人の蔑称だが、特にイスパニアでmoscaが露人ルーソスを指すという事例はない。参考までに、西rusa rosaで《露西亜の薔薇》又は《バラ色の露西亜女》]

「洒落とるね。で、そのエトランジェ・ルージュで青髭のおっさんとヒステリックブルーの子連れママとは何やってたん?」

「バルブ・ブル……柔緑氏ムシュ・ヴェルドゥですね」

「たしかにヴェルサイユとかヴェルサーチってカッコじゃありませんでしたが、アレはジジイと見せかけて意外と若そうでしたよ」道理でコン・ラソーン、馴れ馴れしくお兄さんエルマーノと呼んでいたのはその為か。「因みに皆さんの眼には浮浪者に映ったでしょうけど、私の目利きによると恐らくヒッピーか何かでしょうな」

「訊いてないけど。つか今の子供にもヒッピーとか通じるのか」

「ご主人様のお馬とも相性の良さげなお名前ですしね」これは安藤嬢の言う通りで、長たらしくヒッポグリフイポグリーフォと呼ぶくらいならヒッピーと名付けるべきであったろう。後はカバイポポータモを手懐けた際にどう呼び分けるかだ。「――それでヒッピーさんが?」

「いやちょっとした誤解を、静岡以来の岡目八目で解いて差し上げた次第でして」

「お前ほんとことわざとか好きな」年寄り染みた若年の口振りに呆れるミコミコーナだったものの、彼女が駿府城下で風呂に有り付けたのが偏にその口八丁エロクエンシアのお陰であったことを彼女は忘れている。[訳註:第十章参照]「そのちょっとした誤解を訊いてるんだが」

「たっだいま戻りま――っした!」そこにメコメコーナが駆け込んでくる。

「そしてこいつが火男四目ひょっとこよんもくでござい」[訳註:《口を尖らせた四つ目の男オンブレ・アシエンド・プチェーロ・コン・クアートロ・オーホス》]

「えっ何て?」息を整える為に口を尖らせて深呼吸する小猿の従者。「何か左に行くとエレベーターでまっすぐ行って階段上ったら普通にさっきのとこから高速の下潜って渡ったとこに出ました」

「うん知ってた」

「ひでえ」

「いや書いてあるし」改札を出て掲示が無ければ駅の利用者も不自由だろう。「じゃあまあしゃあないから3番から出てみっか……今からまた(原註:名古屋の中央)駅の方に引き返すのもな。いい?」

「お任せします」

 結局一行は地下鉄を素通りし、ニコが確認したのとは別の出口を目指して尚も行進を再開した。

「――で? いくらオカメは沈黙つっても無言のままじゃ伝わらないんだが。うちらテレパスじゃねんだから」

「えっ、ああ……いや誰がオカメだよ」

「何何、オカマの話?」馬場嬢が両者の間に割って入ると、今度は部活の先輩の顔を覗き込み訊ねた。「オカマ仲間?」

「うっ、まだその設定生きてたんだ……」メルリンによる性転換の呪詛[訳註:第二十五章では千代が思い付きで口から出任せを重ねた為、安藤嬢の姿が誰の眼に髭の男性と映っているのか結局よく分からないままとなっている]については設定が複雑すぎて最早筆者も把握できておらぬ。これではアンデルセン――若しくはドン・フアン・マヌエル――の記した『裸の王様エル・レイ・デスヌードさながらで、自らを愚者と認められる賢人のみに真実を語ることが許されよう。然もなくばコヴェントリーの町民に倣い、その場に居合わせた衆人は須くその眼を伏せるべし。[訳註:つまり千代の無益な空想に付き合って彼女のありのままの姿を伝えられない――もしかしたら本当に男体化してしまったのかもという疑いを捨て切れぬ――酔狂な手合いは、いっそその麗容から顔を背けて見ないようにすればいいということ。ゴダイヴァ夫人の逸話については第二十八章で少しだけ触れられている]「遅効性の魔法が効いて、そろそろオカマのお顔になってきたかしら?」

「マカオのオッカッマッ!」

「いやそんなパジャマでおじゃまみたく言われましても[訳註:《その名はパジャマセ・ジャマ・ピジャーマ》と訳出されている。尚、Y読みジェイースモでの動詞llamarse《~と呼ばれるジャマールセ》と発音を合わせる為に、綴りはイスパニア式のpijamaピハーマではなく米大陸風のpiyamaピジャーマが採られたようだ。《マカオ~》は第二十五章に引き続き«Maricones de Marrueco.»]」賭博場カスィーノなら給仕カマレーロ――いや女給カマレーラか――の需要は高いだろう。「マカオのオカマ事情は知らんがこんな美人かつ華奢な男の娘はそうそうおらんだろ。そいやサンチョ、あれから岡崎のオカマには連絡取った?」

「あっそだ、ホテルのお礼云わんと……流石にホテル代まで払ってもらってたらマズいですよね――あべっ」蝋版を手にして従士が固まった。「充電切れてたから連絡先訊いてなかったわ。ミコさん銭湯の更衣室に私充電器忘れてました?」

「え~、ドライヤーとかに紛れてたんじゃねえの? 自分で管理しなさいよ」

「あっそれはありえる、かも……驚きの白さ」女房が洗剤で洗っているからであるポルケ・ス・ムヘール・ロ・ラバ・コン・アリエール。[訳註:フランコのクロの話は第二十七章を参照のこと。西訳では《的を射たお答えディーステ・エン・エル・ブランコ……驚くほどに明白な正解ソルプレンデンテメンテ・ブランコ》。西dar en el blancoで《ブランコに命中させる、成功する》]

「教えよっか」

「おっ、お願えしますだ」御子神から差し出された端末に表示される電話番号を横目に、地上へと繋がる階段の下で携帯画面上の数字を十数桁押下した千代だったが、――

「しないん?」

「……何らかの成果が報告できるようになってから、かな?」

「成果?」

「うおあっちぃ!」

 特筆して美しきトボソ人トベセーニャ・セニャラダメンテ・ベジャの手を引き先んじて穴蔵から這い出たニコニコーナが温風に吹かれるや惨めに音を上げるのが遠くに聞こえたこともあり、現今を欠いた運命の三姉妹トレース・エルマーナス・デ・ノールナス・スィン・アオリータの内のふたりも一先ず無数の分岐ラミフィカシオーネス・インコンターブレスを持つ世界樹の根系スィステーマ・デ・ライーセス・ムンディアーレスの内で、これまた複数あるであろう3番と銘打たれた一本をよじ登ったのである。


いざ季節外れの新芽ブローテ・フエーラ・デ・テンポラーダ――いや日本人なら《啓蟄インセクト・デスピエールト》と表現するかもしれない――のように顔を出してみると、滞留する熱気を除けば通りの向こう側以上の暖遇トラート・カリエンテ[訳註:赫灼たる太陽による酷遇という意味で冷遇トラートス・フリーオスの代用表現]は認められなかった。

「日陰あるだけなんぼかマシだな」コスタリカでは《猫が寝転んでいるエル・ガト・エスタッ・エチャンド》と謂うそうだが[訳註:人が働いている傍らで何もしないこと。転じて《仕事が終わらない》《始まってすらいない》、又は金欠状態を指す言葉でもあるらしい]、今回猫の従士が自身を突き動かしてエチャンドセ・ア・スィ・ミースモ為した最高位の慈善行為カリダッ・デ・アルタ・カリダッは猫以外の三名の身をも期せずして桜通の南岸から北岸へと運んでしまった。しかしながら最終的には、当初の予定通り全員が西から東へ横断歩道を渡るのと寸分違わぬ結果となったし、哀れな床屋の猿娘イハ・モニータ・デル・バルベーロなどは交差点の四隅それぞれに満遍なく縄張りの印マルカード・テリトリアールを施す羽目と相成った形だ。「どしよ、こんまま真っ直ぐ行って適当なとこで折り返して戻ってくる?」

「異議なーし」

「あ、どうせだったら」千代が枝道を指して云った。「――こっち通っていいすか」

「ん、いんじゃない? 車うるせーしな」大都市の動脈アルテーリア・メトロポリターナだけあり交通騒音は引っ切り無しで止む気配がない。「でかい通り歩いてても別に見るもんはねえだろうし」

「さっきからミコさん塩過ぎる!」

「いや別に名古屋は好きよ?」ここぞとばかりにドゥルシネーアの肩を抱き権勢を誇示するミコミコーナ。「それに甘い物食べた後は塩っぱいもん食いたくなるでございましょ」

「そ、そんな乙女を太めにジョブチェンジさせる悪魔の無限ループが果たして許されるというのか」従士が主人の恋人に引っ付く王女の袖を掴んで引き剥がしに掛かる。「いいから離れなさいよこの熟れ過ぎ謙信が」

「いやん、じゃあ姫は差し詰め黒蜜きなこの信玄餅やな」成る程甘い餅とて甘味ドゥールセには違いないけれど、この菓子が纏っているのは名こそ《黒蜜ミエール・ネーグロ》であるもののその実態は糖蜜メラーサである。蜂の騎士よ一体何処に居るのだ? お前の想い姫の貞操が危機に晒されているというのに!「越後の龍と甲斐の虎ときちゃこりゃもう相思相愛と言わざるを得ない」

「こんな敵の傷口に塩を送り込むような残忍極まる次期アフリカンクイーンなんぞに……我らが蜜溢るる約束の餅肌を嫁に出すことは出来ませんな!」

「色々と混ざっとるやんけ……しかし蜜あふるるとかお前も大概だわ」

「ソルティードラゴンなんか側に居ない方がこの方のしおらしさもひとしおです」

「な~にがひとしおか。お前は三茶の化け猫らしくソルティードッグでも舐めとれ」

「いいだろう猫なめしてやるから持って来いにゃそのソルティードッグとやらを」

「駄目ですよ未成年にそんな……ギルティーキャットになっちゃうよ」美猫女ガトゥーベラ?[訳註:英名Catwoman]

「ほう、ギルティーは罪の味というヤツですな」

「つまりお茶摘みというヤツですな」けだし印度で愛飲されるという乳酪茶テ・デ・マンテキージャであろうか?[訳註:それは恐らく英guilteaではなくgheeギー teaティーもとい印घी वाली चाय(ghee vaalee chai)であろう]「静岡で蛇口を捻ると伊右衛門が出てきたのにゃさすがに驚きましたが」

「口を開けばマーライオンごとく嘘を垂れ流すお前は越後のちりめん問屋のご隠居かよ」

「何そのいちご大福みたいな新種のスイーツショップは」

「苺摘みでもスター宮でもいいけどいい加減うちの可愛い部長を言葉で辱めるのはお止めくださいよ」

「えっ私辱められてた?」

「ウチはプリパラ派閥ですがね」

「恥ずかしいのはお前だろ」御子神が千代に耳打ちするような素振りを見せつつ、わざと大声で以下に続けた。「あいつが噂のプリパラおばさんじゃないの? 幼女先輩の邪魔にならんようにサンチョがゲーセンでちゃんと監視せんとだぞ?」

「アイツといえば――」動物園の飼育係ビヒランテ・デ・ソオローヒコじゃあるまいしメガネザルの管理責任レスポンサビリダッ・エン・ラ・ヘスティオーン・デ・ラ・モナ・ガーファスを問われても困ると思った猫の従士が自ら話題を逸した。「会津の男の子はどうでした?」

「会津?――誰?」

「いや違った、伊豆だ。伊豆の踊り子」

「踊り子ってオカマくらいしか思い付かんが。アレを男の娘と呼んでいいのか……」単純に服飾倒錯トラベスティッという意味なら当て嵌まるだろうが、《男の娘チカ・デ・チコ》という用語にはショタ的要素ショタコニースモが多分に含まれる故、学術的には思春期前の男児ニーニョス・エン・プレプーベレスに限定すべきという向きもあろう。「あの人は今岡崎なんでしょ?」

「あ、うん。泊めてもらった」

「本籍までは知らん……つか電話だけで会ってはないぞ」

「でしょうね。で舎弟さん住んでんのどこでしたっけ?」

「それは焼津」似た地名が多くてなかなか憶えられないようだ。「ハンザさん地理ヤバいんじゃないの~、むしろ赤点じゃない教科って何?」

「あっ、だから焼き茄子だったか」[訳註:第十二章の《焼津のナスヴィー》を参照]

「ナス?」

「嫁に食わすな」

「チリの首都はたしかパーマでしょ」とニコ。

「こいつご覧の通りアホのアヒージョなのに赤点ないんすよ」

「マイアヒ~ジョ!」

「詐欺師だし要領がいいんだろ。点の代りに臀部は赤いんだろうし」繰り返しになるが、ニホンザルの尻は赤いのである。「赤点は何ていうの、フラ語で?」

「また……ポワン・ルージュ?」フランス語の授業を取っていない割には反射的に回答してくれる博識なドゥルシネーア。「いやエリミナトワ……ノットゥ・エリミナ――自分で調べてください」

「いや私赤点じゃないし――で舎弟がどうしたって?」

「やっだから元気にしてらしたのかと……あの後お泊りだったんですよね?」

「えっミコ姉さんの彼氏ですか? ムコムコーナ?」

「枯れて死んではいたけど別にあーしんじゃねえから」

「うっそ身体壊してたってこと?」

「しおしおのおじいちゃんなん?」耳年増なる床屋の娘の脳裡には恐らく、扇情的な女学生が若い身空で老いらくの大学教授を誑し込み、落としそうな単位に及第点プンターヘ・アプロバトーリオどころかまんまと優評価メンシオーン・ムイ・ビエーンを付けさせる情景が再生されたことであろう!

「一個下かな。基本引きこもりだから」観葉植物プランタ・インテリオールであれば、仮令出不精カセーラでも水やりさえ欠かさぬ限りそうそう枯れて死ぬこともない。「朝起きたら居なくなってたしちゃんと旅立ったんでしょう」

「死んだの?」

「いや猫じゃねえし」飼い猫は死の間際に飼い主の元から姿を消すという都市伝説レジェンダ・ウルバーナが日本にはあると謂う。逐一人間の妄想に付き合わされる動物も大変だ。

「そういや旅行とか言ってましたもんね」

「居ない間は勝手に使っていいって言ってたから帰り皆で寄ってけば?」復路も自転車であった場合、これはかなり有難き申し出となろう。無論それでは千佳夫人に課せられた三日後の夏期講習には到底間に合うまいが。

「いい人っすね」

「でもミコミコのいい人ではないんでしょ? なのに同棲してんの?」

「同棲じゃねってばよどうやってあっこから学校通うんだ」静岡で新幹線に乗り換えても二時間以上は要する筈だ。「奴もゼミとかない時に、実家の誰かが持ってるマンションに蟄居する為だけに借りてんだけで普段は東京住んどるぞ。ほらコミュ障こじらせてるから」

「人に会いたくなくてわざわざ人里離れた村に閉じ籠もってんのにそこにわざわざ押し掛けてって上がり込んで、しかも別にエロい関係でもないとか最悪ですな」

「舎弟ってそんなもんでしょう」

「いや別にご本人が僕は貴女の舎弟ですって認めてるわけじゃないっしょミコさんが勝手に認定してるだけで」

「自分で言ってる方がキモいだろ!」

「しかもこの人人ん家で全裸で歩き回ってるらしいんすよ」トルデシーリャスで一宿したカスティーリャ女王の屋敷の中では自らつまらない尻クロ・クレーロを晒しながら廊下を歩き回っていた従士がギネアの王女のはしたなさベルグエーンサを詰った。[訳註:第二十章参照]

「全裸じゃねえよ!」

「痴女や、痴女がここにおる」大学生の爛れた生活ビダ・ディスィパーダを耳にして震撼するニコニコーナ。

「女子校の教室だって似たようなもんだろが。お互いに男除け女除けになるから持ちつ持たれつなんだよ」

「ミコセンは男も好きなんでしょ? 彼氏居ると思われたらいい男を釣り逃すんじゃ」

「じゃあいい男出せよ!」いちいち雑魚ペーセス・ペケーニョスを釣り上げても腹の足しにならぬばかりか腹を壊す危険すらある。「――あっ、アマデの面とかは間に合ってますけど」

「布教はしませんよもったいない……つか」この話題を振ったそもそもの理由を思い出すや、千代は早速核心を突いた質問を繰り出した。「つまり舎弟さんはミコミコーナのバデーにもハートにも全く興味ない?」

「ないだろう……あちしもないし。たしかに顔は可愛いけどだったら可愛い女の子のがいいしな」パロミは逞しい筋肉男チコ・ムースクロよりも華奢なアドニスを好むということだろうか?「――あれ、居ない」

 ギネアの王女が振り返ると、――動物的本能が危険を察知したのか――ドゥルシネーアは先頭から三馬身ほどポル・トレス・クエールポス離れた位置で立ち止まっていた。


ミコミコーナは諸手を上げて害意の無いことニングーナ・インテンシオーン・ダニィーナを示してから行軍と叙述の進行に戻る。

「ハートがブロークンだぜ……」大仰に空を仰ぐ。「そんで前に成城の奴のアパートの合鍵を掻っ払ってたんだけど」

「このパーティー前科者多いな」

「飲み会の後、家まで帰るの面倒でそいつん家近かったから行ったのよ深夜に」

「ヨバーイ」

「で鍵開けて入ったらそいつシャワー浴びててよ」

「ちょっと待て舎弟さんはその飲み会出てなかったのかよ」

「来るわけないじゃん人付き合い悪いのよ」

「それなのに押し掛けるとか厚かまし過ぎる……」静岡ではその厚かましい人間に世話になったのだから、千代さんもその親切の循環ス・カデーナ・デ・ファボーレスを絶やしてはなるまい――いや、先刻の出しゃばりこそがその発露マニフェスタシオーンか。愛こそが愛に報いるアモール・コン・アモール・セ・パーガ……「話の流れ的にはたとえ相手が美少年でも風呂を覗く気にはならんかったと」

「タシーロかよ」タシーロとは浴室を探る密偵エスピーア・エン・ラ・ドゥーチャを指す隠語であり、その咎で捕縛された者の行き着く先は救貧院アスィーロ[訳註:語源は古希ἄσυλονアーシュロン《聖域、避難所》で、終の住処として《老人介護施設》の語義も]のみだと謂う。「こちとら出っ歯でもなけりゃ下半身に亀も飼ってねえわ」

「タシロって出っ歯だっけ?」

「ヒゲだろたしか」焼津のアドニスであれば、顔には髭やニキビエスピニージャすら無いばかりか両脛エスピニージャスだって絹のように滑らかスアーベス・イ・セドーサスに違いない。「――でシャワーを浴びてる間に空き巣に入って何を盗ったんですって?」

「えっ、お昼カツ丼の流れ?」カツ丼とは豚肉の衣揚げチュレータ・デ・セールドを卵で綴じ米飯に載せた代表的な丼料理だ。日本では俗に取り調べを受けている容疑者にこれを振る舞うと自白に持ち込むことが出来るという験担ぎベンディシオーンがある。又、日本語では《衣揚げチュレータ》と《勝利するガナール》がkatsuで同音(前者に関しては仏語のcôteletteコートレットが語源である)だという事実も等しく記憶に値するであろう。

「でこっちもそのままベッドインしたいのを堪えて……ホラ一応女子だからさ、酔っ払ってるしとりまえず化粧落として汗流したいしでそのまま服脱いで、気付かずというか気にせず風呂場入ったわけ」

「一応女子とは!」

「少年漫画のラッキースケベですか?」[訳註:著者は第二章にてlucky scabbyという英語を当てていたが、ここではlucky succubee《幸運な夢魔蜂サキュビー》?なる造語が使われている。淫女にして毒針をも併せ持つ、御子神嬢の両性具有的好色を示唆しているのだろうか……]

「その時も頭洗いながら横目で一言正気じゃないとかボヤいただけで別に出てけでもなく目を背けるでもなく普通にスルーされたんで、じゃあいいかと思ってそんまま一緒に湯船浸かったよ」

「うわ……マジじんま」あの女騎士カバジェーラとも肩を並べる正気の無さデスカベジャーダだ。[訳註:西descabelladoの原義は《髪を振り乱した》。前章での出来事が下敷きとなった表現]「ドン引きだ――いやドン引きホーテだ」

「長く連れ添いすぎてお互い異性と認識できなくなってもはや夜の営みも無くなった夫婦みたいな乾き具合ですな」

「チヨちゃん……」余りにも恥じらいに欠けた会話に永遠の淑女ダーマ・ポル・スィエンプレたるエル・トボソの姫君が眉を顰めた。

「で、で? 美少年は無反応だったんですか?」好奇心旺盛な思春期真っ盛りのエン・プレーナ・プベルタッ馬場嬢。

「だから全スルーだったって」

「フィジカル的な意味でも?」

「あ?……ああ、別にガン見はしてないが」ミコミコーナが目を細めたのは土瀝青アスファールトの照り返し故か、それともその夜を真剣に述懐しているが為だろうか?「あんま記憶にないってことはほぼほぼ無反応だったってこっちゃねえかな……元気になってたらいやでも目に入んだろ」

「つまり舎弟さんのクララさんは寝たきり?」

「クララ?」

「いやチヨさんクララは車椅子なんだから寝たきりはおかしいでしょ、まァ眠ったきりならありえるけどフィジカルな、姿勢、体勢という意味では――」

「いやうるせえわ分かったよつまりクララのバカは座ったまま?」

「えっと……なによいくじなし?」

「実はひんぬうの男装女子だったってオチはねえですかい?」

「そんなハナ様じゃあるまいし……ブラブラしてんのくらいは見えてたよ」

「な、なるほど……」千代さんは歩きながら腕組みし、ひとり思索に耽った。「これは脈アリってことなんじゃろか?」

「ばっかチヨさん脈が無いからこそションボリなんでしょうよ」ニコニコーナは盟友アミーガ・フィエールの無知に心を痛めつつも以下に続けた。「アレって充血してでかくなるんでしょ?」

「やめなさいババちゃん」

「アマデっ子は中坊からしてこんなんばっかなんだな……違うわ何だっけ玉すだれ?」

「高島田だろ……いや高島田じゃないけど」[訳註:第十章の《キンブンキン》参照]

「タマシマ――玉もでかくなんの?」

「こいつはエロガキというよりはただ女の腐ったようなクソヲタなので勘弁してあげてください」腐った女子チカ・ポドリーダなどというとまるで屍鬼ソンビだが、漢字で《心を腐せるポドリール・ス・コラソーン》と書けばこれは目的に向けられた不断の努力エスフエールソ・ペルスィステンテ・コン・エル・プロポースィトを意味する。則ちそれを成し遂げる為の執着オブセスィオーンこそが言葉の意味するところであろう。「霊長類とはいえ所詮猿だし、人間様の常識とか羞恥心まで期待するのは酷ってもんです」

「ちっ腐ってやがる……腐海に手を出してはならぬってババ様に教わんなかったのかよ」

「ババ様は俺だが?」

「お前はウンコの方のババだろ」

「何を、リアルババアめ!」

「ふたりともおやめなさい」

「姫、お耳が汚れます」千代はドゥルシネーアの純潔を案じつつ以下に続けた。「別に下ネタというかトマス――じゃない、ボローニャ生まれボロネーゼのアキレスなんとかについて掘り下げたいわけではなくて」

「アキッレなんとかじゃなくて?」[訳註:第八章の浜辺での遣り取りを参照のこと。尚、伊語では希神話に於ける俊足の英雄も十六世紀を生きたボローニャ生まれの人文学者も共にAchilleだが、イスパニア語の表記での前者は通常Aquilesと綴られる]

「……アッキ――れた、本当に相思相愛だよこのふたりは」[訳註:アキッレ・ボッキの名を口にし得る女子高生など、花を除けば彼女と以心伝心の仲にある者を置いて他におるまいと、千代はそう考えたのである]

「ボロネーゼって緑のヤツだっけ?」

「何だ緑って」ジェノヴァ風調味液サルサ・ヘノベーサの誤りだろう。[訳註:サルサ・ジェノヴェーゼは赤葡萄酒仕立てなので赤い。目箒バズィーリコを練り込んだ調味料であればジェノヴァ風練り粉ペスト・ヘノベースが正解]王女殿下が代わって答える。「トマトなんだから赤だろ」

「赤白緑とかでらイタリア」

「てめえは床屋なんだからでらフランスだろ」日本の理髪店の店頭にも三色螺旋の円柱ポステ・デ・エーリセス・トリコロールが立っていると謂う。猫の従士が吐き捨てる。「腐乱した酸っぱい何かめ」

「賛成!」姿勢良く挙手する床屋の跡取り娘エレデーラ。小柄なニコニコーナには阿蘭陀オランダの方が似合うかもしれない。[訳註:西部に位置し同国の中枢都市圏の一角たるホラント州を語源とするオランダの正式な国名は《低地の国ネーデルラント》であり、欧州諸国でも西語の《低地の国々パイーセス・バーホス》のように直訳で呼ばれる場面が少なくないことは第十二章内の訳註で既に述べた]

「もうサンチョには苦味か旨味しか残ってないじゃん」慥かに《塩気の足りぬ脳味噌デ・ムイ・ポカ・サル・エン・ラ・モジェーラ》では塩味の称号を他人に譲らざるを得ない![訳註:《塩気の~》とは知恵の足りぬことを指す表現だが、これは本家の『ドン・キホーテ』第七章で著者がサンチョ登場時に彼を評した際の説明をそのまま借用したもの]

「え、辛辣なチヨさんは辛口じゃねえの?」刺すことピカールに長けた主人を差し置いて?[訳註:《辛いピカンテ》。尤も花自身は第四章の食事中、自らを塩振りの担当者に喩えていた]

「辛いのって味覚じゃなくて痛覚らしいよ」今は不在の恋人に劣らず博識なるドゥルシネーア。「ほら英語でもホットって言うでしょ、温度も皮膚感覚の一種だから」

「なるへそ! たしかに辛いもん食うと体温上がるしね」

「まァ当たらずとも唐辛子という感じで[訳註:「熱いカリエンテ熱いカリエンテ!」と訳出されているが、これは正解に近付いていることを示す表現。《温まってまいりました!》に近い]……あとやっぱ五人一組がらしいでしょ?」

「いや戦隊物じゃねえし」プリキュアよりも遥かに歴史の長い超戦隊作品群――米国製パワーレンジャーの原作――の系譜に於いては、その多くが赤色を中心とした五人の戦士であり、それぞれに何らかの属性カラクテリースティカが付与されることもある。但し彼女らは全員女性なので、名付けるとすれば矢張り癒し系甘味キュアドルチェ癒し系酸味キュアサワー癒し系塩味キュアソルティー癒し系苦味キュアビター癒し系旨味キュアウマミー等とするのが無難であろう……脱線が多過ぎるデマスィアーダ・ディグレシオーン。「――となると舎弟さんにはLGBT的なアレもあり得ますかね?」

「ん? Gって何だっけ?」懲りずに口を挿むメガネザル。「カップ?ショック?」

「Gってそりゃおめえ――ガイ?」

「ゲイだろ」誤差の範疇であるデントロ・デル・マールヘン・デ・エロール

「ゲイって肉?野菜?」カボチャグイコイ?「……あっゲティスバーグ?」

「ババちゃんゲティスバーグとハンバーグは関係ないよ」勘の良いコン・ウナ・メンテ・アーヒルドゥルシネーアが完全に頭の悪いコンプレタメンテ・インベーシル後輩を諭した。

「あっそういうことか。LGBTとBLTも関係ねえぞメガネ、四人組でも三人組でもない」

「いやだって赤白緑の流れかと思って」随分と脂身の多い塩漬け肉ベーイコンのようである!

「た、頼むからメガネ一分黙ってろ」千代さんの懇願を受け、流石のメガネも口を真一文字に結んだ上、両手の人差し指で交差する剣エスパーダス・クルサーダスの模様を象った。「BL――LGBT的なアレは……続きお願いします」

「いやホモっつうかアレは無性愛エーセク的な何かなんじゃないかと睨んでるんだけど」

「ああ……なるほどエーセク、それは大いにあり得ますかね」

「チヨさんエーセクて何?」盟友の一睨に慌てて再び口を覆うニコニコーナ。

「相変わらず物を知らん奴よ……AセクというからにはB地区の上位互換だろうが」……A地区セクシオーン・アー

「何だよB地区の上位互換て」

「えっそりゃ……あ、おしゃぶりとか?」性的でないおしゃぶりチュペーテ・ノ・セクスアールとは?「いや、より機能的には哺乳瓶でしょうか?」

「何、赤ん坊だから性欲がないってこと?」原初の母の血サングレ・デ・エバ・ミトコンドリアールを継ぐミコミコーナ王女をしても混乱を禁じ得ないようだ。「そもそもおしゃぶりじゃ下位互換なんじゃ……ダメだ、頭がおかしくなる。ドニャキとしゃべってる方がまだ意思疎通できてる気がするわ」

「あの御方と卒なく疎通できるのなんざ世界広しといえどアベヒロシくらいのもんですよ」

「ああまァ、奴ならラテン語とかも堪能だしな……」

「Aカップでも母乳って出んの?」

 以上に記したような、世界樹というよりは系統樹アールボル・フィロヘネーティコよろしく縦横無尽に枝を張り巡らせつつ適切な枝打ちポーダ・アデクアーダを怠ったが如き遣り取りを交わしている内に、その血の川にアフリカを流しその骨を以てアフリカを形作る人類の子供たちは慎ましやかな大河ニーロの支流へと辿り着いた。


伝馬橋の上に居たのは四匹の牝猫クアートロ・ガータスのみだった。[訳註:《四匹の猫が居るアイ・クアートロ・ガートス》とは人影疎らで閑散とした場所を表す慣用表現だが、勿論ここでは猫の従士以外の同行者も十把一絡げに勘定する意味合いがあろう]

「シケた川だな」流石はエティオピーアからギネアまでを丸々その版図とする大ミコミコーン王国[訳註:鵜呑みにするとアフリカ大陸を横断する広さになってしまうが、セルバンテスは飽くまで双方の内どちらかに位置すると記しているだけ]の跡継ぎスセソーラ、三十秒足らずで渡り終えられる橋梁プエンテなどには何ら情緒ドゥエンデを感じないようであった。

「ここって位置的にお堀から流れてきてるんじゃないですか?」

「オホリって? オカマ掘り?」

「今度下品なこと言ったらお猿さん罰ゲームね」

「つ、ついに部長までが猿呼ばわり!――うちは馬ですて!」

「まあ意馬心猿とも謂いますし」これは欲望デセーオス妄執デリーリオスに囚われ常に心が乱れていることの喩えである。[訳註:《馬の意志と猿の精神ボルンタ・デ・カバージョ・イ・メンテ・デ・モノ》]

「大体オカマってのはてめえで名乗るもんであって、てめえみたいなカマンベールとブリーチーズの違いも分からんケツの青カビお猿がとやかく言うもんじゃねえんだぜ」たしかに青い乾酪ケソ・アスール白い乾酪ケソ・ブランコの事情は解るまい。尤もニコニコーナの尻は赤かったという証言もあるので、ここは間を取り彼女の尻は紫色だということで結論付けよう。

「いやカマンベールがブルーチーズじゃないくらい知ってますけど」白カビモオ・ブランコ白人オモ・ブランコの区別さえ付いていれば、同性愛オモセクスアール白い尻クロ・ブランコの見分けとて容易に付く筈である。[訳註:後半の比喩は良く分からないが、恐らくフランコ時代に同性愛者が弾圧された史実を踏まえたものだろう]「つか姐さんだって散々オカマオカマ言ってたくせに」

「そういう些細なことはケツを拭いた紙と一緒に水に流しましょうや……」御子神は足を止めると、欄干に肘を乗せながら下流へと物憂げな視線を向けた。遮蔽物がない分、南北に風が良く通る。

「何故そこで黄昏れる……」程なく対岸へと達しつつあった馬場嬢は足の遅い後続を振り返りボヤいた。「ほら、チヨさんもそんなとこで止まらない」

「――んあ?」

「はよ、日陰あんとこ」

「ここ渡って川沿いにグルっと周ったらホテル引き返すか」反転して手摺に背中を預けたミコミコーナが表決を求める。「北と南どっち周りにする?」

「距離的に大差なくね?」ニコも橋桁の中程まで戻ってきた。「ねえ……チヨさんどした何見てんの?」

「いやなんか……」

「何が結んであんのそれ、シャツか何か?」ミコが横目で問い掛ける。「うわ何ここきったな!……玉子?」

「これもそうなんですけど……」それに応えて視線を落とす猫の従士。

「……携帯?」ドゥルシネーアが足元を覗き込む。

「――が供えてある?」

「こっわ!」女子大生が胸を揺らせて欄干から飛び退いた。

「何何ここ自殺の名所なん?」小猿が長い尻尾を振り振り欄干を伝って寄ってきた。「飛び降り自殺なら普通靴じゃないの? あと遺書」

「それは他人が供えるんじゃなくて本人が揃えてからダイブすんだろ」

「そもそもこっからダイブしても死なんでしょ……道頓堀よかマシっぽいけど」

「でも現代人なら紙じゃなくてスマホのメモアプリってこともあるかもですよ」

「何が?」

「遺書」

「やだこわいこわい、こわいから」存外気の小さいミコミコーナ。嗚呼雌鶏の姫プリンセーサ・デ・ラス・ガジーナス乳牛の王女インファンタ・デ・ラ・バカ・レチェーラよ――英語でもcoward as a cowと言うくらいだから強ち的外れでもないか――、成熟し蠱惑的な外見に反して繊細なその心の内奥を慮れば、その名の通り貴女を《小猿二匹の女君主ソベラーナ・デ・ドーブレ・ミコ》とお呼びすべきところであるが[訳註:本家の『ドン・キホーテ』に於ける《偉大なる小猿たちの国グラン・レイノ・デ・ミコミコーン》という命名からして、狂った老騎士の前で王女を演じようという平民の娘ドロテアの模倣ミーミコ――つまり猿真似――する意志が込められていると考えられる。本稿の御子神嬢も異装趣味者コスプラジェーラとのことだから、何かに成り切る術には長けているのだろう]、哀しいかな如何せん五人組キンテートに於いて――否、それが四人組クアルテートであったとて――属性が重複することは許されないのだ。げに小憎らしきは床屋の類人猿娘チカ・スィミエスーカ・デル・バルベーロ

「こんな真っ昼間っから地縛霊も自爆テロもないでしょうよ」掛川の寺墓地で明かした夜[訳註:第十二章参照]に王女が同伴していたらさぞや傑作イラリダッだったに相違ない。

 この時一段と強い川風が乙女たちの長い髪をはためかせたが、それとて不遇のミコミコーナ――彼女はパンダフィランドに簒奪されし失地を回復せんとラ・サンチャの騎士の助力求めて旅する道すがらなのだ――を勇気付けようと、遥か遠きミコノス島イースラ・ミコーナからエーゲ海エル・エヘーオを越え、行掛けの駄賃でイ・デ・パソアレクサンドリアの学堂ムセイオンに眠る数百万の書誌を粗方吹き飛ばしつつ、彼女の汗と涙に濡れた頬を乾かす為に一路上流へと駆け上がり漸う届いたものだとみて間違いないのである。[訳註:ギリシャ領ミコノス島は風の強いことで有名]


真っ先に橋渡し可能な舞台上エスセナーリオ・プエンテアーブレの異変に気が付いたのは女優ドゥルシネーアだった。

「か」目を凝らす。「――っぱ?」

 東岸の橋の袂に、全身をしとどに濡らした胡乱な男オンブレ・オスクーロが立っていた。

「何だアイツ……亀の次は出歯河童かよ」眉を吊り上げるアフリカの王女。

「やだこっち見てる。キモ……」

「――はてまさかとは思うが、浜名湖から海伝いに遥々追ってきたのか……?」

「浜名湖?」従士の呟きに反応したミコミコーナ。「さっきのうなぎパイの?」

「パイ……パイといえばミコガミーナのが天然物でなく養殖だったらば――」

「だったらば?」

「シリコン玉として一玉オトリに――痛って!」猫の額が強か打ち据えられたようだ。「ふっ、二玉もあるんだから半分になったらむしろ軽くて王女もお楽でしょうに!」

「一玉二玉ってうどんキホーテかあたしは?」うどんとは小舌麺リングイーネを更に分厚くしたような練麺パースタだが、一人前を絡ませて丸まった状態で小分けする故に《一玉ウナ・ボラ二玉ドス・ボーラス》と数えられる。「バランス取れんわ。爆笑の田中じゃねえんだぞ」

「笑い事じゃないすって」部長のすっと伸びた背にいち早く隠れると、ニコが一同に注意を喚起した。「なんかこっち来たし」

 合羽カパとは名ばかりで、その男は真夏とはいえいやに薄着であった。寧ろラムダと呼んだ方がそぐわしいように思えるのは、まるで怯えた子羊コルデーロ・コバールデのように細かく震えていたからだ。[訳註:英語のlambをギリシャ文字でΚカッパ(希κάππα/kappa)の次に来るΛラームダ(希λάμδα/lambda)の掛詞として用いている]

「ああ、あの……」ハクションアチュー

「姫様、お下がりください」千代は安藤部長を己が背に隠すと、愈々目前にまで迫り来た闖入者の暗く濁った眼を見据えながら以下に続けた。「ミコ姉さんはご婦人と子猿をどこか安全な場所まで」

「なんだって蜂の騎士が居ねえ時に限って妖怪風情と鉢合わせるよ!」そう嘆いたミコミコーナは、隣で猫の従士がネクロカブリーオの兜を目深に被り直し、腰の物アルマ・デ・ラ・シントゥーラ――一度は蜂の腰シントゥーラ・デ・アビースパ[訳註:くびれた腰のことだが、千代さんもここ一週間で多少は引き締まった筈である]に挿してあったものだ――を引き抜くや大仰に構えるのを認めて少なからず瞠目したようだった。「いや何でお前殺る気満々なんだよ」

「どうなっ――てんだ名古屋は……あの、ちょっと」男は嘔吐いたような音を出してから二度咳き込み、そして然も忌々しそうに舌打ちした。「そこ、いいですか」

「いいですけど一旦止まってください」

「……はい」抗うことなく素直に足を止める。息遣いからも甚く憔悴しているのが窺えた。

「めったくそ汚れてらっしゃるようですけど――」値踏みするかのように目を細めるミコミコーナ。成る程、神にも見放された狂騎士が信仰に通暁しているとは思えぬ訳で、ラムダからBDを除いたくらいがお似合いかも知れぬ。[訳註:BDとは《神学士バカラリウス・ディヴィニターティス》のことで、lambda-bd=lama則ち《泥土ラマ》という等式が成り立つ。前章を飛ばし読みしていない読者諸氏への、何故狂騎士かという点についての解説は割愛して構うまい]

「水も滴ってる……」部長の肩から覗く眼鏡。「滴ってますよ姉さん」

「見えてるよ……水にもよるだろうが」色男が滴らせるはグアーポ・サルピカード・コン――「こっちは一滴たりとも滴ってこねえし」

「こっちは?」

「うるせえな蜜あふるるってさっきサンチョもホザいてただろ」

「何この貰い事故感……」《魔術師の手》の剣先が微かにブレる。

「またオカマ?」

「これはそのあの、さっきまでが、崖を……上ってて」業を煮やしたオルラムド[訳註:Orlambdo]が言葉に詰まりながらも割って入った。

「崖ェ?」恐らく年上だろう泥塗れの男が川下からの臆病風ビエント・デ・コバールデスに吹かれて声を震わせていたのとは対照的に、同じ風でも彼女にとっては勇気を鼓舞するミコノスの風車からの追い風ビエント・デ・コラであったとみえ、先刻の恐怖心も何処吹く風とばかりコモ・フロタンド・エン・エル・ビエントやや尊大に聴き返した。それが河童であれカッパドキアの土竜トポであれ[訳註:第十五章の本坂峠に伸びる長い隧道前にて花が零した文言だが、西topoは潜入者エスピーアを指す言葉でもあるので先程の話題に上った出歯亀を臭わす用途も兼ねているのだろう]、生きている物相手なら何人たりとも女王の威光に平伏させずにはおれない筈という絶対の自信でもあるかのよう。

「まさかのリアルアイカツおじさん?」

「何でおじさんまで崖登るんだよ」一般的に日本でアイドルカツドウ――偶像崇拝的活動アクティビダッ・イドラートリカ――といえば主に持続走コレール・ラルガ・ドゥラシオーン命綱無しの崖登りエスカラール・アカンティラードス・スィン・クエールダが実践されており、それらは単調な念仏カント・モノートノを唱えながら行われる。皆さんの目には多少なりとも奇異に映るだろうが、これらは単なる基礎体力作りや度胸試しではなく、精神修行アスセティースモ・メンタール――所謂ジャマード《禅》――という観点からも仏陀やイエスの足跡を辿る効果を持つとされる。祈祷や座禅、写経などと同等の意味があると考えれば良かろう。「つか土手でしょ?」

「……あの、いいから、もう――それ俺のシャツだと思うんですけど」手摺に結わえ付けられた布切れを指し示すオルラムド。「どい――どいてもらっていすか?」

 状況を鑑みれば遺失物横領ウルト・デ・ロス・オブヘトス・エクストラビアードスの危険も薄いと見た一行は、それでも用心深く後退りするような格好で現場を開放した。

「……ざいます」消え入るような声で形だけの礼を口にしつつ二歩三歩進み出る。「――あ携帯、助かった」

「自分で飛び降りたんですか?」武器は下げぬまま従士が問うた。

「あ?……ああ、あつ、暑かったから」

「いやんなわけねえでしょ、阪神ファンかよ」携帯を拾い上げようと腰を屈めた男を見下ろしながら、ミコミコーナが冷たく言い放つ。「あっ名古屋だからタイガースじゃなくてドラゴンズか」(前者が日本職業野球の中で大阪を、後者が名古屋を本拠地エスターディオ・ロカールとした運動組織。風水の四聖獣クアートロ・アニマーレス・デル・フェン・シュイに於いて虎が西方を、龍が東方を守護することについては第七章でも述べた)[訳註:親会社の本社が大阪とはいえ、甲子園球場の所在地は兵庫県西宮市]

「ああなるなる、ここでさっきのストロベリーとハマグリーの話に繋がんのか!」

「メガネいい加減姫様から離れろよ暑苦しい……何だハマグリーって」

「アサリーだっけ?」甲斐の虎ティーグレ・デ・カイ、つまりコンチャのことである。とはいえ眼前の小男は亀でも河童でもなかったので、北方を護る怪物玄武よろしく甲羅コンチャのような堅固な防具を纏うどころか薄手の襯衣さえも剥ぎ取られた惨めな風体であった。「あっアレでは? ホラ田舎の子供とかが度胸試しとかで……なんか橋の上から飛び込んだりみたいなのテレビで流してるじゃないすか」

「田舎の子供ねえ……」

「チヨさん頭に皿乗ってる?」

「皿もサラサラヘアーも乗ってねえよ」流石にもう害意はないと見て、従士も孫の手を下ろした。「カッパカパどころかカッピカピやで」[訳註:それぞれ「皿もプラトン主義もノ・ジェバ・ウン・プラート・ニ・プラトニースモ~」「河童も小皿もないニ・カパ・ニ・ターパス」と訳出。頭も悪そうなので哲学など解さぬだろうという訳か]

「くっそ」どうやら泥に塗れたまま乾いてしまった手指では端末の液晶画面が反応しなかったらしく、オルラムドは一旦それを元の場所に戻し、両掌を脚衣に擦り付け指紋の中までこびり付いた汚れを何とか落とそうと腐心しているようだった。

「はあ……ちょっと指出してみ」見かねた御子神嬢が、持っていた水入りの可塑性瓶の蓋を外して男の前に翳した。

「え?……あ、すみません」迸り出た透明の水で数秒間指先の泥を洗い流す。

「そっちのシャツは汚れてないんでしょ。そっちで拭いたら?」

「ああ、そうすね……あざます」

「いくら暑いったって田舎の清流じゃあるまいし、」青龍ドラゴーン・アスールに限らず、蛇や竜は古来より水の化身エンカルナシオーン・デル・アーグアとされている。京の都というなら兎も角、名古屋城から流れ出る水路アセーキア風情などは釣り餌のミミズロンブリース・パラ・ペスカールが関の山という訳だ。千代さんが男を問い詰める。「――こんな三級河川みたいなドブ川にダイブとか、止めてくれる人はいなかったんですか?」[訳註:名古屋市の堀川は一級河川に指定されているが、この一級二級という等級は規模や水質に必ずしも左右されない。堀川も近年の浄化活動が功を奏し、環境も大分改善されたのだとか]

「え?」

「……ん? 三人は要らんってことは」十分足らず前に耳にした似非浮浪者バガブンド・ファルサンテの言葉が従士の脳裡を過ぎった。「――二人居た?」

「ふたり!」突然ラムドは欄干に掛けられた手拭いでの乾燥作業を中断するや、背筋を伸ばして橋の東西を見渡した。それこそ外敵を警戒するミーアカットスリカータ宛らで、明らかな挙動不審である。

「じゃあ違うか……ん?」無い髭を扱く千代さん。

「何ビビッとん?」

「へ?――別にビビってないすけど」否、不味そうな獲物すら手慰みに弄ぶ、如何にも嗜虐的な胡狼娘チカ・チャカールに見据えられたか弱き小動物が如しではないか!「俺は今日ずっと独りだったし……いや、しゃあない言うか本当は――子供が溺れて流されてたんで飛び込んで、助けたんすよ」

「「「「は?」」」」ずっと静観を続けていたエル・トボソですら妙な声を上げずにはおれなかった。

「はって」

「いやおめえ子供が溺れて流されてんのに悠長にシャツ脱いでわざわざここに結んで、しかもご丁寧に携帯までここに置いてから助けに飛び込んだんかよ」

「いや……」

「人間様のガキよかアンドロイドの方が大事ってか」

「ちょっとミコミコーナ」弱い者いじめを見兼ねた猫の従士が長姉の遣り過ぎデマスィーアを諌める。

「それは、だから、暑くて飛び込もうと思ったら――流れてきて」思わず噴き出したドゥルシネーアが、細やかなる咳払いを以て己の不調法を誤魔化した。恐ろしきミコの前では如何なる男も道化コーミコと化してしまうのか?

「そんな余裕あったんなら靴も脱いでけばよかったんじゃないの?」マコマコーナ[訳註:形容詞macoで《狡猾な、悪賢い》]の追及は尚も続く。「片っぽ失くなってんじゃん」

「ですからっ、シャツを脱いで携帯を置いて、さあ靴を脱ごうって思った時に子供が流れてきたから……」頑張れアーニモ、オルラムド! 辛うじて筋は通っているぞ?「こん――こんなんなってまで人助けしたのに、その場に居なかった人間にどうこう言われたくないっすよ」

「いや桃太郎じゃねんだから」

「どんぶらこ~どんぶらこ~」ニコが小気味良い合いの手を挿み込む。

「こ――子供の命と、食いもん同列に扱うとか……頭おかしいんじゃないすか?」

「いや桃太郎の桃は子供の命と同等でしょ」特に他意はなくスィン・インテンタール・プロバール・ナダ、ただ冷静かつ反射的に反駁する従士。「その後ちゃんとそっから生まれてくんだから」

「そりゃそうだ。桃から生まれたからって差別すんなし」

「す……みません」たしかに仮令母体から産み落とされずとも、その子供の人権は保障されて然るべきである。これはこの男の物言いに非があったと言わざるを得まい。

「――で? 子供は?」

「はい?」

「助けた子供はよ、どーした?」

「……母親に、追ってきた母親に、返しましたけど」

「母親ァ?」

「めっちゃ感謝されました。涙ながらに」

「でその母親は涙ながらに感謝しながらその命の恩人が河童みたいな状態にドロドロのズブ濡れになってるの放置して、礼だけ言って去っていったわけ?」

「もうその辺にしときなよぉ」

「キュウリの一本もくれなかったのかね?」

「別に、別に礼とかが欲しくてやったわけじゃ……ねえし」

「ですよねー、情けは人の為ならず」[訳註:《慈悲は他者の為には為されないミセリコールディア・ノ・セ・アラッ・パラ・オートロス》]

「為にならないのに助けちゃだめじゃん」聞き手がドニャ・キホーテかドン・ジョヴァンニであれば、ここはヤコブ書の一節で遣り込めたことだろう。[訳註:二章十三節に記された《慈悲無き者にはフイーシオ・スィン・ミセリコールディア・セ・アラッ慈悲無き裁きが下されようコン・アケール・ケ・ノ・イシエーラ・ミセルコールディア》と思われる。但しここでいうヤコブをサンティアゴ・デ・コンポステーラに眠るゼベダイの子ヤコブと同一視する者は少ない]

「うるせえ黙ってろ」従士は四つ目をやんわりと恫喝し、次いでギアナの王女を押し留めつつ以下に続けた。「桃太郎か桃尻子か知りませんが無事に陸揚げできてよかったじゃないですか、ねえ……こんな黒々しい川じゃおばあさんも洗濯しちゃいねえでしょうし。ささっ、暑いしもう行きましょうや――」

「へっ、やれやれだぜ……これが我等が桃太郎侍ドニャ・キホーテ様だったらば」

「ドッ?」俄に周章をきたすカッパーフィールド。願わくばその場から消え去りたかったことであろう![訳註:便宜上ここでは«Kapparfield»と綴られているが、英語姓Copperfieldの語源は《銅の採掘場》]

「――その桃をあの燃えよ剣で一刀両断するまでもなく、鎧の下に着込んだアエギ――なんだっけ?」

「あ? ああアイギスね」

「――アイギスのギンギラギンのセクスィー水着の魔眼で、中身がオスかメスか、活発な男児か只の河童か見破ったことでしょうよ」ミコは静岡の銭湯で垣間見た花の水着――沼津の殿堂で学士により購われたアテナイの神具――を思い浮かべたが、千代の仮説に拠ればその霊力は水着を脱いだ後も騎士の胸に宿ったままとされる。「まァ蜂の騎士なら携帯も不携帯だし? たとえ下に水着着てても服のまんま人命救助で橋から飛び込んだろうがな」

「なっ」余計な発言コメンターリオ・インネセサーリオ! 千代は御子神嬢を横目に睨んだが、それはここから敷衍して沼津での水難事故を隣の想い姫に気取られはせぬかという危惧[訳註:第六章にて一旦帰宅した千代さんが、安藤部長との電話の中で花を海辺に近付けるなという示唆を受け取りながら、第八章の海水浴場で主人が溺れかけるのを未然に防げなかったことを今以て気に病んでいるという解釈に拠る]が再度芽生えたからである。

「そういえば従者さん――」予感が的中した?

「えっ、いや」

――この時、誰かの蝋版が石の上でカタカタと震えた。


各々が自分の持ち物に反応を示したが、ある者は手に持ち又ある者は荷物や衣嚢ボルスィージョスの中に収めており、自動撮影機能テンポリサドールを使って記念に写真を撮る為でもなく路傍の縁石エンシンタード・デ・ラ・アセーラに端末を置きっ放しにする物好きなど少女たちの中にあろう筈もなかった。

「……出ないんですか?」ここぞとばかりに話題を逸らす抜け目ない従士エスクデーラ・デル・ガトゥペーリオ

「出ていいの?」

「アナタのなんでしょ?」質の悪い河童弄りブローマ・ペサーダ・アル・カッパに飽いたミコミコーナも、遂には炎天下で冗談を続けるのが馬鹿馬鹿しくなったか撤退の用意を始めたようだった。「どうぞ?」

「じゃあ」すっかり自尊心を喪失したと思しき借りてきた濡れ猫モヒガート・モハード[訳註:これは勿論従士ではなく濡れ河童のこと。《上品振ったモヒガート》の西mojoは猫の鳴き声の擬音語miauから派生し、イスパニア国内ではネコ科全般を指して使う地域もあるのだと謂う。ご機嫌取りという点では日本語の猫撫で声とも凡そその意味合いは同じようだ]はもう一度襯衣で手を拭うと、遠慮がちに腰を屈めてから再度携帯を手に取った。「――あ、ああ!」

「どどした?」

 借りてきた鼠モヒラータ――こちらの方が紛らわしくないだろう――は王女の問いには答えず、掛かってきた電話に応答する方を優先した。

「――うん……ど、どした?」

 セルビーリャの色物師ブルラード・デ・セルビージャ[訳註:西servillaには室内履きの意があるそうだが、恐らくここでは《卑屈なセルビール》からの連想として名付けられたのだろう。因みに《弄ばれた遊び人ブルラドール・ブルラード》といえば《策士溺れる》《墓穴を掘る》が近いか]の分際で河童の声色が突如色事師ブルラドールを意識したが如きに変じるのを聞いた四人は、怪訝な表情を浮かべつつ互いに目配せした。

「いや大丈夫だけど……何て?今から?……まあ? 新幹線飛ばせば?……二三時間では着くと思うけど――」それから男は十数秒「うんブエノうんブエノ」と相槌を打っていたが、「えっでもその来れなくなったって子は女の子なんでしょ? 俺が代りにってのは大丈夫なの? 野郎は俺だけなんじゃ――」

「暑いし行くか」既に関心を失っているミコミコーナが一同に行軍の再開を促した。声もなく頷く面々……

「あっうん、それは全然……いやちゃんと払うよ、そんなんいいから気にしないで……」

「どっち曲がる?」[訳註:東岸に渡った後、左折して北回りに戻るか右折して南回りに帰るかということ]

「んじゃあ駅着いたら電話すっから……待ってなくていい待ってなくていい、友達も一緒なんでしょ? 何分頃着くって分かったら連絡すっから、駅構内とか近くの喫茶店とかに居てくれればこっちで探して行くから。別に現着でもいいし……うんじゃ、今からすぐ出るから……いいっていいって全然やじゃない、だってもったいなんじゃん余らしたら」

「でも姉さん右はかなり遠そうっすよ」

「じゃ後でね――愛してるよ、エリカ」

「さっぶ」

 《乳牛の王女》を先頭とした隊列だけあって行軍速度は相変わらず牛の歩みなのだが、お陰で彼女らだけでなく我々も河童長カパタース河女長カパターサの会話を最後まで聴き取ることが出来たフイーモス・カパース・デ・セギール……と胸を撫で下ろした刹那――[訳註:西capataz《指導役、現場監督、工事長》]

「よっしゃぁぁぁあああ!」

 突然の奇声に度肝を抜かれ、反射的に橋の中央を振り返る《千代さんと愉快な仲間たちコン・ラス・アミーガス・アマーダス》の合計十の目ディエース・オーホス・エン・トタールに映ったのは、歩道の真ん中で短剣プニャールの代りに両の拳プーニョスを握り締めた開拓者クティーステスアルケラオス[訳註:カッパドキアがローマの属州となる直前のアリアラテス朝最後の王の名。希κτίστης《定住せし者クティーステース》]の雄叫びグリート・デ・ゲラ――否、勝鬨デ・トリウーンフォを上げる野獣が如き姿であった。

「よぉおおっし――よしよしっ!」

「な、何だアイツ……」

「怖い」

「ざんみゃあみゃーがれ!」

「……早く行こ」

「えっ、うそ――やばない?」

「イッきまーす!」

 河童は手足に蛙の水掻きメンブラーナス・インテルディヒターレス・デ・ラーナスを有するというし、特に段差などがある場合は陸上の移動に不得手と見えて、この男も不格好ながら何とか亀の歩みで欄干によじ登った。伝承に拠れば頭に頂く皿が乾くと死ぬらしく、定期的に水に浸かる必要があるのだろう――となれば背中に背負う甲羅も陸亀ガラーパゴではなく海亀トルトゥーガのものと考えて間違いなさそうだ。変温動物エクトテールミアなら適度な日光浴が必要だけれど、それも過ぎれば炎症を招き命取りになりかねぬ。

 飛んだブリンコ今度は自発的にアオーラ・ボルンタリオサメンテ)――

「あやべ」宙空で瞬時に自らの短慮に思い至ったオルランドは、苦し紛れの一手としてデ・フォルマ・デセスペラーダ(といってもその時点で彼に出来ることが他にあったであろうか?)手に持っていた賢い電話スマルトフォンを力任せに背後(実際には当人のほぼ真横)へと放り投げ、

 ――そして落ちたイ・セ・カジョッ

 ザッブーーーンエスプラーーーシュ

 しかしこれは些か拙い掬い上げ投げティロ・デ・バンデーハ・タン・テリーブレだったので、籠球のセストに比べ遥かに広い容積を持つ此度の得点ゴル――前者がせいぜい十個足らずの桃で満杯になるのに対し、後者[訳註:橋の上全体を指す]であれば荷台付き車輌カミオーネス数台分の果実を敷き詰めることも可能だ――をさえ彼の投球ティロは外してしまうであろう……然もなくば先刻一撃必中の騎士の投擲すらもが的を逸れたように、この橋には汎ゆる射的ティロの精度を奪取ティローンするメルリンかムニャートンの呪詛が掛かっているとでも?

 だが猫の従士は俊敏に駆け出していた。

 両手でネクロカブリーオを脱帽しながら大股で二三歩跳ねたかと思えば、手摺からその上半身を大きく乗り出して――

 コトンプロンク

「おっ……おお、入った――あやべっ」

 あわや眼下の水上へとつんのめった同胞を、いち早く駆け付けた馬場久仁子が引き上げる。

「ダンケダンケ」

 彼の放った一投は得点籠ゴルにも喉当てゴラにも届かなかったとはいえ、千代が編み籠カナースタ代りに差し出した帽子ゴラ[訳註:著者も第二十六章では野球帽ゴラ鍔無し帽ゴロを使い分けているのでこれは只の書き損じか。又は今回のみ防寒帽ゴロ日除帽ゴラという使い分けを採用し、その上で現在ネクロカブリーオの兜が炎天から従士の頭を守っていることを踏まえた暫時的な用法なのかも知れぬ]には何とか無事収まった次第である。

「チヨさん何その反射神経および運動神経は……神経を疑う」

「うん、疑っていいから放せ」従士は収穫された一玉の桃ウナ・ボラ・デ・メロコトーンを検める。背板タブレーロに強か打ち付けられた上での得点プントゥアシオーンならば、果実が傷んでいる恐れも拭えないけれど……「――おお、液晶も割れてないわ」

「ヒビいっとるやん」

「いやこれは最初っから」

「お前行動力凄いな」ミコミコーナも拍手しながら戻ってきた。「本気で世直し考えてるんじゃなかろうな」

「いや、……カシコホンに罪は無いですから」

 少女たちの脚線美の遥か下で、川面を叩く耳障りな水音が響く。それから数秒間沈黙が訪れたかと思えば、喘ぐような息継ぎの声が漏れ聞こえてきた。

「それ、川に沈んだと思って探してるんじゃない?」ドゥルシネーア姫の的を射た意見を勘案し、全員で橋の下を覗き見る。

「カッパさーん、携帯無事ですよー!」水飛沫の騒音に向け端末を掲げて見せる従士。「ダメだ、聞こえてねえ……掻っ払ってないですよー!」

「元あったとこに置いとけばいんじゃね? どうせまた戻ってくんだろ」……溺れた子供をもうひとり救助してから。「潜ったところでこんな川、中で目ェ開けらんないだろうにホントにこれ探せてんのかね」

「カッパなら沼とかに棲んでんでしょ。目とか光るんじゃないですか?」

「深海探査艇かよ」千代はそう云って他人の不幸を賞翫するサボレアンド卑しき同胞を諌めてから、手摺に襯衣の結んである位置まで移動するとその真下の護輪用横材の上に端末を戻した。

 一行が替え馬の橋を渡り切る頃には、恰も放水車ロチャブース[訳註:ペルー南部太平洋側に位置するイーカ県の上院議員Felix Temistocles Rocha Rebattaの名に由来する暴徒鎮圧用特殊車両]からの爆水砲チョーロ・イドランテにより翼をもがれた伝説の猛禽ロックロチョが藻掻き苦しんだが如き大きな波濤フエールテス・オレアーヘスも漸う収まったようであった。


人いきれを避けたいという無意識も働いてか、四匹の猫は誰が指示するでもなく自然と橋の袂を右折して、折り返すまでには三倍の距離を歩くであろう南回りの経路を選択した。

「つかあの河童、これからつがいの雌ガッパとその雌ガッパズガールフレンズと会うんだろ? あんなヘドロ塗れのヘドラみたくなってどうすんだ?」首を捻るミコミコーナ。「それともみんな河童だから気にせんのかしら……」

「チヨさんお城のシャワー貸したげれば?」

「何でだ……新幹線乗るつってたし、自分ち一旦帰って自分ちのシャワー浴びてから出掛けるんでしょうよ人として」男の言葉を鵜呑みにすればそうなるだろう。[訳註:彼が名古屋を旅行中の恋人に対し、自分は東京に残っている振りをしたということ。単なる付き纏いストーカー(西acosador)という可能性もあるけれど、誘いを受ける以上少なくとも友人関係ではあるようだ]「あの状態じゃ流石に駅員にお客様……って止められんべ」

「そらそうや」

「新幹線で二三時間ってことは東京か大阪っすかね?」

「まァ乗り換え込み込みでそんなとこだろうな。しかし狂った野球ファン以外でもあんな風に川に飛び込む奴おるとはね……同じマジキチでもラブリーなハナちゃんとは好感度が逆ベクトルだわ」そう口にすると同時に己の失言を認識した王女は、エル・トボソの姫君への釈明に窮した。「――いや騎士様のマジキチはアレ、全然違うマジキチだから」

「真面目できちんとした……」[訳註:それぞれ《真正の狂気プーラ・ロクーラ》《純真で几帳面なプーラ・イ・プールクラ》と訳出]

「そうそれ、流石サンチョ」

「マジカルキッチンかもよ!」[訳註:ニコの発言を著者は《地元の娼婦のデ・プータ・ロカール》と意訳したが、これは恐らく花ではなく直近で名指しされた千代の機転を修飾する意味で《クソ凄えデ・プータ・マードレ》と同じような使われ方をしているのだと考えられる]

「なんそれ、クッキンアイドルかよ」[訳註:《混じり気なき石灰素のデ・プーロ・カールシオ》]

「屈強な筋肉のアイドル[訳註:《混じり気なき肉のデ・プーロ・カールネ》]……全てのレシピにプロテインが?」

「風呂で見た感じだと筋肉質って印象はなかったけど、まァマンガかよって感じの細さではあった。中入ったらいきなりバシャーンて音聞こえて――な、サンチョ」

「ああ……水垢離ね」

「にしても今のも凄え音だったなバッシャーン!つって」

「古川や河童飛び込む水の音……バッショーンつって」

「風流の欠片もないな」

「あの音はカッパさんというか……濡れネズミというか」この時従士の脳内では、浜松の湖岸であどけなきソライダ嬢に粉を掛けようとした破落戸ふたりの内のひとり――他方の男は直前に脳天を撃ち抜かれている――が落水した時に立てた反響が圧縮音声MP3で再生されていたとみて間違いない[訳註:実は《濡れ鼠ラトーン・モハード》という単語の初出は第八章、沼津の海岸で溺れかけた花を助けてズブ濡れとなった烏小路を指して千代が物した言葉であった。その後も著者は灌水浴を中断して駆け付けたジョヴァンニや橋から落ちたオルランドをそう呼んだが、暴漢についてはこれまで一度も使われていない。尤も千代自身の中で、湖での事件と本坂峠に於ける吸血鼠との遭遇が結び付いて生まれた発想だとすれば納得性の高い分析ではある]。あの冒険こそが逃走劇エスカパトーリアの発端であったのならば尚更だ。「さしづめカピバラさんといったところでして」

「こ、このあらいぐまを放ったのは誰だあっ!」

「それ海原さん――いやラスカルか」

「ラスカルを野に放ったのはスターリングですね」

「ドルチェ姫のそういうバカ共の会話に混じりたい感じ好き……スターリングって何だっけ、バラの品種だっけ?」《天秤リーブラの騎士》を魅する美しき薔薇ロサリンダにミコミコーナが訊ねた。[訳註:Sterlingは英国通貨リーブラ・エステルリーナ

「たまには自分で調べましょう」

「……トロツキーがトロトロしてる間にスターリンがスタスタ追い越していやしくもレーニンの後任の椅子に座っちまったってことです」

「何だそりゃ、ロシア革命?」

「ドニャキ先生はどんな教え方しとるんや!」猫の従士よりも期末考査の結果は奮っていたという小猿が天を仰いだ。

「憎まれっ子こそ世にはばかりいまそかりってことだよ!」

「はべりだろ」何でも動詞の活用に於ける決り文句クリチェッのようだが、欧州言語でもない外国の古語に関する知識までを浅学なる筆者に期待されては流石に困る。

「……ペペロンチーノ」[訳註:第二十章で花が云った「大蒜と油と唐辛子アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ」を参照されたい]

「まァでもはばかりといえばババちゃんだよな」

「いやいやいや文脈的にどう考えてもアンタのことだよっ!」反駁する機会を逃さないニコニコーナ。「さっき何であんなカピバラさんにブチ切れてたんですか? 何がそんなにムカ着火インフェルノだったん?」

「……どっかで聞いたなそれ」岡崎の楽屋であろう。「カムチャッカ?」

「いや全然ファイヤー止まりだったけど。だって何かイラつくじゃんああいうの」

「かわいそうにカピバラのあんちゃん、泥々な上にシドロモドロだったやんけ[訳註:西語訳は「いっぱいのおっぱいタンタ・テタのせいで糞塗れタンタ・ミエールダな上に口籠っていたタルタムデアーバ」となっているが、これも《乳房が沢山ある≒女子に囲まれている》という意味ではなく《乳量が多い≒巨乳つまり御子神嬢の圧力で》と解釈すべきだろう]」何を言われても動じない――というのも目が多い割に耳の数は人並みだからなのだが――馬場嬢は繊細な河童を大層不憫がるのだった。「いくら見てくれがよかろうとあんなんされたら百年の恋もフリーズドライだよ!」

「いやコールドスリープじゃないかな」

「あたしゃ自分の好きな子以外の恋心が凍結しようが永眠しようが全然知ったこっちゃないね」斯様に傍若無人なアフリカの王位継承者でも、例えば贔屓にしている楽隊員の前では猫を被るのだろうか?「河童も川流れたんだからお前もはよ木から落ちれ」

「登ってねえし! ミコミコーナこそ川に飛び込んで泡姫になりなさいよ!」

「それアリエルじゃねえか――あり得ねえよ!」王女は黒い川を見下ろしながら以下に続けた。[訳註:伝馬橋からひとつ南の錦橋に掛けては堀川と少女たちが歩いている木挽町通の境に建物が並んでいる為、首を振っても川の流れは視界に入らない筈。因みにディズニー映画『小海女リトル・マーメイド』の女主人公はアンデルセンの原作のように海の泡となって消える結末ではないので、ここは洗剤のアリエールを指しているとも考えられる]「人をソープ嬢みたく呼びくさりおってからに……」

「うーん、なんかこっちも普通に大通りっぽいですね」桜通に負けず劣らずの喧騒が徐々に近付いてきた。

「大通りだろが阿波踊りだろが歩けるんだから文句言わない!」

「ドニャ・キホーテが阿波踊りの大群なんぞと遭遇したら大変ですよ……ねえ姫様?」

「ああ、……軍隊の方の大軍が合戦の場に赴く光景に映るかもね」

「――もしかしたら先輩って『ドン・キホーテ』読んだことあります?」

「ん?」

「ここ真っ直ぐ行ってどっかで右折したら十分かそこらでさっきのホテルには戻れんだろうけど」橋畔に立った王女が一同を振り返って言った。「まァ戻ってどうするって話でもあるんだが」

 御子神嬢の指摘も尤も至極だったので、四人は一先ず交差点の前にて一旦足を止めた。


南側に架かる錦橋の交通量は替え馬のそれの百倍といった趣きで、そう考えるとこの橋桁に先刻我々が目撃したような泥塗れの妖怪フェノーメノ・ロドーソが出現していたら只の通報どころでは済まなかった筈だ。例えば《生死は問わずセ・ブースカ・ビボ・オ・ムエールト》で懸賞金レコンペンサが出されたり、或いは討伐隊ウニダッ・プニティーバが編成されていたとておかしくはなかったろう……とはいえ竜退治や鬼退治と比べ、頭に皿を載せるだの人間の子供と相撲を取るのを好むだのいう化け物が相手とあっては――聖ジョルディや源頼光、そしてドニャ・キホーテが如き誇り高い戦士らであれば尚更に――興が削がれるに違いない。

「――にしてもたった十分とか二十分そこらでもう二件も冒険というか事件というか……事案?に遭遇するとは」猫の従士は頭を抱えた。「どうなってんだこの街は!」

「それさっきの野郎も同じこと言ってたな」

「たしかに……いやでもここにコナンが居たらあと十人は死んでた」

「望んでもねえのにコレってことはよ、これが自分から好き好んで巨人とか怪獣の土手っ腹に突っ込んでくような揉め事を探し回ってるうちの旦那様ならどうなることやら……」

「まァでも、探すのをやめた時見つかる事もよくある話らしいし」それも(我々は)何処かで聴いた文句である。[訳註:第十九章を参照されたい]「そういう意味じゃサンチョはもうバケモン共と阿波踊りでも踊るしかないんじゃないかしら」

「死霊の盆踊り……」この映画の原題は『屍体たちの乱痴気騒ぎオルヒーア・デ・ロス・ムエールトス』である。[訳註:古希ὄργια《秘儀オルギーア》]

「私ゃもう墓参りも済ませてんですから、」――但し他人の墓である。[訳註:勿論第十二章に於ける掛川は寺墓地での狐火騒動のこと]「こんな時季に怖いこと言わんでくださいよ……つかドゥルシ姉様まで」

「そうっすよ姉さん方、《求めよさらば与えられん》ってかの老子もおっしゃってたっしょ?」

「お前さっき牛に乗ってる老子しか見てねえだろ」[訳註:第二十六章参照。正しくは水牛]

「どの老師だよ、武天老師か?」武天老師が乗っているのは牛ではなくて亀である。「甲羅もグラサンも付けてなかったし、ハゲでもヒゲでもなかったけど……共通点エロガッパくらいしか」

「エロガッパって何?」千代さんも何度か使った言葉だが、これは河童の頭頂部の皿が丁度修道士の剃髪トンスーラの形状に良く似ていることから、《禿頭の男は男性生理物質オルモーナス・セクスアーレス・マスクリーナスの分泌が活発、則ち精力が旺盛》という思考が生んだ罵倒語なのだと、そう筆者は解釈している。無論世の聖職者が皆性欲を持て余していると断じている訳ではないので悪しからず。

「ドルチェガッパーナを傘下に収めるドゥルシネーア姫に教えを請うがよい」

「ガッパーナじゃなくてガッバーナだけどね、一応」ドルチェ姫は存外こまかかった。

「そんなバッカーナ。結局ねえ《求めよさらば~》って誰の言葉?……ねえ?」

「ミコさんも携帯持ってるんだからグーグルに訊いてください」便利な世の中になったものである。「これ渡っちゃいます?」

「今宵のドルチェネーアはあんま甘くなかったぜ……ちょっと陰ってきたし今んとここっちでいいんじゃね? また渡り直すのめんどい」

「ねえエロガッパとは? 屁の河童?」

「うるせえな、ニコニコーナもアイドル活動してねんだから屁くらいこくだろ」

「……まあ嗜む程度には」

「あっ蘇我入鹿だって、《さらば与えられん》の作者」

「マッジか!」

「ミコさん……混ざってる混ざってる」[訳註:発言者として記されているのはイエス・キリストだが、それを紀聞したのがマタイとルカだからであろう]

「えっと――すんません名古屋にもドンキありますかね?」半坐千代が割って入った。

「そらあんべよ。市内に二三軒はあんじゃね?」同じ教区パロキーアにそういくつも《殿堂サントゥアーリオ[訳註:寺院、聖域、避難所などの意味を併せ持つ単語]》が建っているなら、信者は一体何処に祈りを捧げればよいのやら!「駅前とか……ですよね生きグーグル姫?」

「そんな人を生き字引とか生きた化石みたいに言われても」

「そうすよ失礼な、それを言うなら生きペディア姫でしょう」

「いやいや生きた化石よか何だ、生ける貴石宝石貴金属っつか……ホラいっそ奇跡の生き仏様ですよ?」《生き仏ブダ・ビビエンテ》とは則ち美女のことであり――

「あ知ってる、即身仏ってヤツすね」――《即身仏ブデイダッ・エン・ビダ》は自ら木乃伊になる修行アウトモミフィカールセ・コモ・ス・プローピオ・アスセティースモである。[訳註:「グーグル」以降の発言は御子神、安藤、千代、御子神、馬場の順]

「そんな肌荒れてる私……?」玉のような頬に手を当てるドニャ・ブダ。三蔵法師から随分と出世したものだ。[訳註:第二十六章を参照のこと]「あとミコ姉さま今その手に持ってるのは何ですか? 自分で調べなさい」

「でもあんまり文明の利器に頼り過ぎるのもどうかと思うのよ」正論である。「というわけでメガネ調べといて」

「メガネ調べとく」もうすっかり大ギネアの舎妹エルマナ・フラーダに成り下がってしまった。

「ダメだこりゃ……でもチヨちゃんさっきのはお手柄だったね」

「さっき――《カッパ橋の冒険》ですか?」それではドンブリーノの兜の生まれ故郷パートリア・チーカだ。

「かっぱ橋?……ホラあの河童さん、あのまま携帯川ポチャしてたらあの後絶対カノジョさんとも会えなかったでしょ」

「ああ、何か言ってましたね。待ち合わせ場所着いたら連絡するとか何とか」

「今のガキって自分ちの家電いえでんの番号とかちゃんと憶えてんのかね?」

「私もバックアップとか、クラウドストレージとか全然やってないんで携帯死んだら即アウトですね」

「即死ん仏だなそりゃ」[訳註:《即菩提ブデイダッ・インスタンターネア》と訳出されている]

「現代人は科学の進歩に頼り過ぎて生物として退化してるよね」全て人任せの王女は人間として退化し始めているかも知れぬ。「スマホ依存症とか、ライナスの毛布かよって」

「カッパだからライナスのキュウリじゃないですか?」二組の透鏡クリスターレス水晶体クリスタリーノスに液晶画面を移しながら四つ目が口を挿む。

「茄子なんだか胡瓜なんだかどっちかにせえよ……出た?」

「出た――あっでも地図アプリのが早えや。もっちょい待ってちょ」

「従士さん何か買い物?」

「いやこれといっては……何というか」《激安の殿堂サントゥアーリオ・デ・スペルバラート》を覗いてみれば、中で主人が神の加護を受けた手頃な武具プニャード・デ・アールマス・ディビナメンテ・プロテヒーダスでも物色している現場に出会すのではないか……?「まァ、お察しくだされ」

「まあ察した」[訳註:第二十四章で安全帽に貼付された粘着札を綺麗に剥がし取る為の粘着帯や手肌用乳液を購入する為という理由も考えられる]

「えっと現在地が……矢印こっちで、あっ逆だわ」竜の方角を指し示すニコーナ。「ドンキこっちっぽげな」

「マ、マジッド・マジで?」[訳註:第十九章の花のセリフを参照されたい]

「うわ、チヨちゃんよく知ってるね」

「何がです?」

「ドンキホーテ何店になってる?」

「何店……名古屋、名古屋えいてん」

「左遷じゃなくて?」

「それはB店」

「栄店でしょ」輝かしきルシエンテドゥルシネーアが代わって答えた。

「あっサカエか、サカエでございまーす」

「どら猫の従士なら追わずともここに居るぞ。魚は咥えてないがな」

「栄えてる方の名古屋か……」桶狭間の古戦場にて交わされし、犬を連れたご婦人との会話を思い出した千代が徐ろに呟く。[訳註:第二十二章参照]「ペロちゃんと散歩連れてってもらってんかしら」

「ちわわー、三河屋でーす」三河というと主従も通過した豊橋や岡崎を含む地域のことで、家康の生地でもある。信長の出身はといえば尾張――則ちここ名古屋だ。[訳註:半坐家の飼い犬がチワワ犬であることも思い出していただこう]「早朝以外はあんま行きたがらないんじゃないの? 夕方でもクソ暑いし」

「朝か……男どもは下で吠えてても無視すっから期待できんし。チカさんも当てにはならんな」

「何の前触れもなく実家の犬のことを心配しだすチヨさん。ホームシックかね?」

「三河屋さんって酒屋だっけ――サブちゃん?」慢動画『サザエさんセニョーラ・カラコーラ』に登場する御用聞きレパルティドールの名で、この作品については浜松湖の挿話に詳しく語られている。[訳註:第十四章に記されたおんじ邸内の遣り取りで世田谷区の説明として引用]「でもたしか浮江さんに惚れてっからストレートなのよね」[訳註:陽気な雑誌レビースタ・ゲイ『さぶ』は二〇〇二年に休刊。尤もこの定期刊行物が九十年代半ば生まれの女子大生にそこまで認知されているとは考え難い。だからといって例えばサブと曲線カーブを掛けているのだとすればそれはそれで変化球に過ぎるであろう]

「まだBLTの話してんの?」

「北島じゃなく?」

「サーブとレシーブで掛け算」[訳註:「その刀剣と鞘を掛けるムルティプリカール・エル・サーブレ・ポル・ラ・バーイナ」]

「チョー気持ち悪い!」過去に乙女道を訪れた者だけが理解するがいい。

「お前らその時ってもう生まれてんだっけ[訳註:アテネ五輪は二〇〇四年の開催]……ほんじゃあドンキで何か飲みもん補給してから戻る?」

「えっいいんですか?」

「まァコンビニよか安いだろうし……や別に酒は買わないよ?」酒屋リコレリーアのサブちゃんからの連想だったのは間違いあるまい。「女子中高生に囲まれつつしかも路上で飲酒とかは流石に……シャルドネちゃんもそれでいい?」

「何か未練が見え隠れしてますけど」銘柄一覧カルタ・デ・ビーノスには他にもカバ姫、ヘレス姫などが取り揃えてある。[訳註:第二十五章参照。カベルネは赤なので色白の安藤部長の形容としては不適切とされた]「どうせフロントからの連絡待ちなんですよね、それでいいと思いますよ」

「――よね。時間食ったら栄駅?から地下鉄で帰ってくればいいし、その方が早いべ」

 この時ミコミコーナに何か手抜かりがあったとすれば、現在地から目的地までの――恐らく地図程式アプリカシオーン・デ・マーパスが自動計測してくれていたであろう――移動距離について小猿に確認を取らなかったことくらいであろう。


我等が恐れ知らずなるアベントゥレーラ蜂の騎士が八月の空の下バホ・エル・シエーロ・アゴステーニョ行方知れずの身であるのは最早、《愉快な仲間たち》の中での共通認識となっていたが、それでも殊にやんごとなき身分クーナ・アウグスタご婦人たちダーマスからすれば今朝方寝坊助のサンチョが一向に布団から出てこないのに痺れを切らしたドニャ・キホーテが、或いは夜明けを待たずに独り、身も凍るような冒険求め胸を焦がして名古屋の街へと繰り出してしまった――と、こう解釈しているだろうことも又想像に難くなかった。[訳註:第二十四章の朝食時、千代は御子神嬢に主人とは前日の午後から別行動である旨を打ち明けている故、《ご婦人》と記するのは間違い]

「雲はありがたいけどなんか風強えなこりゃ」

斯くいう猫の従士とて、連れの――しかも未成年の――失踪とあっては本来なら即時最寄りの警察署へ届け出を出すに如くはなしと思しき状況の中で斯様に悠長にことを構えているのを怪訝に感じられる読者の方も少なからず居られよう。これについては彼女が拾った一磅銀貨ウナ・プラータ・エステルリーナ[訳註:英poundだが実際は百円硬貨。今朝出掛けに客室扉内側の床で発見した物である]が、《阿僧祇花は自分が寝ている間に一旦(少なくとも)部屋の外までは来た》という幻想を抱かせてしまったことに起因していると断言してよい――そう、ドニャ・キホーテはオーディンと、つまりセンティマーノスと対峙する直前に訪れてから一度もあの城に足を踏み入れてはいないのである。[訳註:第二十八章で書かれた通り、つい数十分前に宿の受付前までは戻ってきているが、慥かに客室階には上がっていない]

「目が、眼鏡が飛びそうなんすけど」

「メ、メガネがしゃべったぁ?」

「そんなネ、ネコがしゃべったぁ!みたく云われましても」

「それ三日月ハゲな」《三日月ハゲカルバ・デ・メディアルーナ》とは水兵月少女ルナ・マリネーラが飼育している牝の黒猫の異名である。「あ、あとプリキュアにもいなかったっけ?……うさぎの中の人が猫のヤツ」

「ややこしいですね」

「あれって口パクパクしてるだけなのにどういう原理で人語話せてんの?」

「さあ、オウムとかインコなんかは声帯の代わりに別の発声器官持ってるみたいですけど」

「すご……なんというトリビア・ハッセー」

「あ、うまい」

「誰? ハッセー尾形?」

「いやその発想はなかった。まあでも動物とか無生物は基本喋るよね」

「ヌ、ヌイグルミがしゃべったぁ!」

「キ、キグルミがしゃべったぁ!」

「その一線は超えちゃダメだろ」《~が喋ってる**エスタ・アブランド!》というセリフは取り分け子供向け慢動画に於ける一種の定型表現フラーセ・エスターンダルである。一度登場人物が驚きさえすれば、それ以降何が起ころうと非現実的な出来事に一定の現実味を帯びさせることが可能なのだ。「許されんのはふなっしーさんくらいだぞ」

「ハマッシーさんは黙して語らずでしたがね」湖上の吊り寝床アマーカよろしく腹中で少女ふたりを心地好く揺らしながら、一朝有事の際にはエン・カソ・デ・ウルヘンシア瞬く間に砲艦ランチャ・カニョネーラへと早変わりとあっては、合間を縫って口を利けという方が土台無理な話である。

「ハマッシーってどこのゆるキャラだ……横浜?」

「浜松――というか浜名湖じゃないですか?」

「さすが姫」理解が早い。「メス湖のメッシーナ姫とは頭の作りが違いますわ」

「いやウェット&メッシーの変態はさっきの河童だし、お昼オゴってくれるメッシーちゃんはお前だろ」因みにメッスィーナといえば《レパントの片手者マンコ・デ・レパント》とも所縁の深い港湾都市である。[訳註:セルバンテスの異名については第十六章でも花により言及されたが、彼はレパントの海戦で片手を失った後にこの地――イタリア半島の《爪先》ことカラーブリア州に面するシチリア島北東部の街Messina――の病院で療養している]

「いや……私の記憶が定かでしたら、お寿司屋さんでは殿下ご自身がそう自称なさっておられたのではと」云い逃れする従士。「ほらオスシーラがどうとか」

「それ云ってたのはドニャ・キホーテだろ」[訳註:第十一章を参照のこと]

人魚姫アリエルならともかくスキュラにまで陸に上がられたら」ドニャ・ドゥルシネーアは一聴してオスシーラこそシチリアのスキュラエスシーラ・スィシリアーナだと看破したのだった。「――うちら全員食べられちゃいますよ」

「何かハニャ様も魚を釣って捌いて食うとかどうとか、そんな話してたわ」

「部長スキュラって何ぞ? ドラキュラを酢で締めた刺し身?」

「〆鯖じゃねえんだぞ」

「あのねえ、人魚のお腹に犬の頭がいっぱい生えてる感じの美人さん」

「そ、それどういう状況?」

「あと何だっけ、下半身が蛸足みたいなバージョンも有りましたよね」

「いや訊かれても……」それは教養深いクルト・イ・レフィナードオクタビオ・パスでも返答に詰まるだろう![訳註:英語のoctopus《タコオークトパス》の語源が《八本足オクトープス》なのはご承知の通りだが、メーヒコの作家オクタビオ・パスのpazは《平和》である]

「うえ、ドン引き……ドン引きホーテ」

「それさっきも聞いた。やり直し」

「でも髪の毛が蛇のメデューサだって元は美少女だったのに嫉妬した女神のせいで変身させられちゃった訳でしょ? スキュラもそんな感じ、メッシーナ海峡だからシチリアだったかな?」

「あれ、メッシってバルセロナ代表じゃなかったでしたっけ?」

「お前一応言っとくけどバルセロナって国じゃねえぞ」

「いや知ってますけど。バレリーナみたいなもんでしょ」

「でもイギリスだとスコットランド代表とかウェールズ代表とかありますからね」

「いやアシもサッカーとガウディくらいしか知らんけど……そもそもメッシってスペイン人じゃねえよな」尤もイタリア系ではある。「ねえねえネーヤ姫とハナちゃんはいつもそんな話して遊んでたの?」

「いや、いつもそんな話して遊んではなかったですけど……どんな話?」阿僧祇花が優等生として学校に通っていた時分に安藤蓮嬢と如何なる会話を弾ませていたかなど、残念ながら我々には知る術がない。「チヨちゃんとバ――ニコさんはいつもどんな話してるの?」

「ご覧の通りこいつぁ主にというかむしろレンズとフレームだけで構成された無機物でござんして[訳註:厳密に言えば例えば可塑性樹脂プラースティコ等は無生物ではあるが有機物だ]、聞く耳も利く口もありゃしやせんし人語を解する脳味噌もござんせんから、特にあたしらの間で会話らしい会話てえもんはございやせん」

「いやさっき自分でメガネがしゃべったぁ!云うて驚いてましたやん」

「どうせアマデウスとかあまちゃんとか雨ガッパとかの話だろ」

「ちょっと塩っぱいちゃんは黙っててくれます?」床屋の娘がラ・サンチャの恋人アマの腕を引き寄せて、淫らな姫プリンセーサ・サラース[訳註:西salaz《好色な》でSalada-chan《塩味効き子サラーダちゃん》と掛けたもの。因みにこの字面では自ずと児童文学の小公女Princesa Sara(h)乃至アフリカ大陸中央に位置するチャド共和国の南部に住む農耕民族サラ人(los salas)を連想する奇矯な読者もおられることだろう]の魔手から遠ざける。

「バッカおめえ尼さんと巫女さんは姉妹みたいなもんだろ」

「えっそうなん?」

「えっ私?――いや私も視てなかったけど、多分違う方のアマさんだと思うよ」日本語で《アマ》といえば尼僧モンハ潜水する漁婦ブセアドーラ・ペースカの双方を指し、稀に女性一般に対する罵倒語としても用いられる。[訳注:西amaは名詞amoの女性形として《主人、地主/家政婦長、子育て役、乳母》等、及び動詞amar《愛する》の代表的な活用形のひとつ]「船を遭難させたり逆にイケメンや王子に限って助けたりする」

「救助対象選り好みとか、それプロのアマさんとしてはどうなん?」

「連ドラの原作アンデルセンじゃねえだろ」

「まあでもマーメイドの直訳は海の女ですし、当たらずとも唐辛子――」ドルチェネーア姫がサンチョの提唱した仮説を補完せんと口を出した。「遠からずじゃないかな」

「流石は甘いマスクと甘酸っぱい美声で我が主を惑わした甘党の姫様、つまりマーメードもマーマレードも甘いに越したことはねえってことですわ」

「あらあらそちら様こそアマディスに仕える従士さん、如何様に甘言弄してドニャ・キホーテ様に取り入ったものか是非ともその手練手管をご教授願いたいですわ」

「やっぱ演劇部の部長だけあってこんな小芝居でも堂に入ってるな」感嘆の吐息を漏らすミコミコーナ。「ドニャキとは毛色の違う芸達者ですわ。手練手管とか言葉で聴いたの生まれて初かも」

「どういう意味?」

「手練をググるよりは暖簾を潜り、手管にもましてくだらん管をグダグダ巻くテクに磨きを掛けてきたゆえの置いてきぼりでござんすよ」何を云っているのか要領を得ないとはいえ、それだけになかなか説得力のある物云いだ。「――お後がよろしいようで」

「いや全然宜しくないけど」

 己の食い意地と怠け癖を正当化する時にだけは弁の立つ我等がラ・ハンザの家来に愛想を尽かし一度は去った蜂の騎士、そのご帰還の一報はまだ届かない。


路上を浚う風足は収まってきたが、それらは歩行者にとって束の間の日傘を提供した夏雲をも流し去ってしまったらしい。

「この娘は口から産まれた口太郎だからしゃあないけど、も少し騎士殿のお目付け役としての責務をまっとうしてほしかったものよね」四つ目から同族の誼みでエン・ノンブレ・デ・ラ・ミースマ・ラサ目玉のひとつふたつ分けてもらうべきだったか。「またお日さん出てきちゃったな……向こう渡るべきか渡らざるべきか、小猿あとどのくらい?」

「えっちょい待って」馬場久仁子が端末を取り出して再度地図応用程式を呼び寄せる。

「お店はこっちサイドなのよね?」

「たしかそう」仮に南側なのであれば早めに横断しておいた方が効率的ではあろう。

「くっちゃべってる間に通り過ぎたとかないよな」

「う~ん、ん?――あと半分くらい、かな?」

「え、うちら結構チャキチャキ[訳註:ちゃっちゃと?]歩ってた気がすんだけどマジか」

「チャキチャキっていうか、チヨちゃん喋り方が噺家みたいだよね」チャキチャキとは生粋ナティーボであることを示す言葉で、《ここで生まれ育った女の子ムチャーチャ・ナシーダ・イ・クリアーダ・アキッ》を略したものと考えればいいだろう。尤もここでいう《ここアキッ》とは江戸っ子エドリレーニョ[訳註:西madrileño<Madrid]のことである。

「いやそれな」風呂屋でもそんな話題は出た。[訳註:第十章参照]「でもオッサンチョってば笑点視たことないらしいよ」

「うっそおかしいよ」

「おかしかないだろ」

「ヤマダくーん、キクちゃんの座布団二枚持ってって!って、絶対聞いたことある」これは司会者が出したお題テマに気の利いた解答を返した者に、褒賞として一枚ずつ座布団コヒーン・デ・スエーロを与えその上に座らせる制度なのだ。一列に並んだ解答者はその積まれた座布団の高さにより、まるで表彰台ポーディオ・デ・ガナドーレスに乗せられたかのように順位付けされる。

「キクちゃんって誰よ」

「木久蔵さんだよ!」

「ああ、座布団の上に座るから菊の御紋ってことか」《菊の御紋エンブレーマ・デ・ラ・フロール・デ・クリサンテーモ》というと日本では、一般的に天皇や皇室を象徴する紋章エスクードとされる。「……ん、ヤマダ?」

「ほらおかしーでしょ!」ミコミコーナが声高に同意を求めた。「普通女子中生が菊と聞いて肛門を思い浮かべないでしょ!」

「ん? どういう意味? 水戸黄門?」惜しい、将軍家ショグナートではなく天皇家レアレーサだ。

「え?……あっ、そういうことか」苦笑するドゥルシネーア。「いや、おふたりとも頭の回転が早いというか、凄い分析力」

「別にスゴくはないですが……まあアナリストという言葉もあることですし」

「ほら頭いとおかしーのよ!」薔薇の蕾のような唇からついつい噴き出さすにはおれなかったエル・トボソの薔薇娘ローダンテ毛むくじゃら嬢ドニャ・ペルーサが畳み掛けた。「回転が早いというよりか思考の展開が、ヤバいというか」

「アナリスト?……またオカマの話?」

「いや何でそこだけすんなり分かるんだお前は」

「――でキクゾーさんて誰よ、モリゾーの親戚筋?」

「いやモリゾーじゃなくてほら、日曜夕方の……トモゾーの前にやってんじゃん」日本でなくとも家族団欒エントールノ・ファミリアール[訳註:家庭環境とも訳せるか]の時間帯だ。「――友蔵? 違うちびまる子だ」

「そういやまる子みたいとも言われたな……」

「言った言った。要はババ臭いってことなんだが」

「何を……ババを差し置いてババ臭いとは何事か」

「自分で言うなよ」

「いやだからさっきも云ったかもですけど」千代は自己弁護に徹することにした。「ドニャ・キホーテと旅してる内に口調が感染うつっちゃったんですよ」

「いや明らかに違うだろ。古臭いって意味じゃ近いけど、ドニャちゃんはどっちかっていうと歌舞伎役者っていうか時代劇?」両者の間には古風アンティクアード前衛アンティシパードくらいの開きがあるかもしれない。「あんたのは落語」

「うち落研ないけど、よかったら演劇部入る?」

「入りませんよ!」帰宅部クルーブ・デ・ボルベール・ア・カサならば退部届を出す必要もなかろうに。「まァ姫とは仲好くしたいので、このメガネが退部したら考えます」

「ひっで!」

「なんかうちらが通過する時に限って信号赤なのは何でなんだぜ……[訳註:進行方向が常に青信号なせいで、いつになっても日陰が出来ている南側に渡れないということ]」殿堂には大分近付いた筈である。「どうします待ちます?」

「だってドンキこっち側なんでしょ?」ミコミコーナは数メートロス置きに植えられた街路樹や街灯、後は乗合停留所の屋根くらいしか陽射しを遮る物のない北側の歩道を、汗を拭き拭き果敢に前進しながら嘯いた。「あと四五分くらいなら我慢しよう」

「おいっす」

「じゃあ景気付けに春風亭サンチョ師匠、何か一席高座を務めておくんなさいよ」

「講座? 進研ゼミはDMのマンガ止まりで、取ったことはないので無理っす」

「やだチヨさん口座番号のことだよ」[訳註:それぞれ《高座エスセナーリオ》《夕食が何エス・セナール・イ・ケ? 心配しなさんな、お昼の後にトラス・エル・アルムエールソ食べれますよ》《交通標識のことラス・セニャーレス・デ・トラーフィコ》と訳されている]

「そういうのいいから」

「でも笑点も大喜利も知らなくて落語の演目知ってたらそっちのが凄いですよね」

「それはそう」他に暇潰しの手段に思い当たらなかったギネアの王女は尚も――演劇部のふたりを差し置いて!――従士の登壇を求めた。「ジュゲムジュゲムでもまんじゅうこわいでもいいから何かやってよ」

「ああ、まんじゅうこわいなら知ってますね」

「やってみ」

「でも知ってるのは最後の一フレーズだけです」

「云ってみ」

「《――そして最後に熱いまんじゅうがこわい》」

「いやどんだけ饅頭食うのよ」もう東に舵を切ってからそろそろ十分は歩いた筈だ。「林家ニコンペエあと何分?」

「ニコニコプン……うそ、あと三分の一くらいだから五六っぷんぷん丸?」

「うわ……午前中からうちらどんだけ歩いてんだよ」大雑把に計測して一レグア前後といったところか。「アル中の方がよっぽど健康的だよ」

「アル中がヨロヨロ歩き回ってたらそれこそ失われた週末になっちゃいますね」

「牛のように飲んで寝週末にしたいよまったく」それを実行すれば、無防備なるイネールメ乳牛の王女もいずれ膨満したエノールメ牛の女王と同じ体型となろう。「姫ちゃん噺家って落語以外に何やんの?」

「私も寄席とか行ったことないんで詳しくないですが……何だろ謎掛けとか?」

「なぞなぞ?」只の謎々アディビナンサとは異なり、ここで言う謎掛けテマ・エニグマーティカとは一種の言葉遊びカランブールである。電球冗句チステ・デル・ボンビージョの類型と考えることも出来ようか。[訳註:聞き返したのはニコ。西calamburの語義を厳密に定義すると、日本語で例えるなら《ここで履物を~》と《ここでは着物を~》のように文節の変更によって異なる文意を持たせる遊びを指す]

「違くて……ほら、《○○と掛けまして××と解きます》っていう」[訳註:より平明に《どうしてAはBと似てるのかポル・ケ・ア・エス・コモ・ベ?》と訳されている]

「片栗粉を掛けまして水で溶きます?」[訳註:《貨物自動車は動くボルケータ・エス・モービル?》]

「あんかけ作ってどうするよ[訳註:《お前の口は動かすなインモービル・トゥ・ボカ・デベ・セール》]」ミコミコーナは久仁子の口を封じた。「アレでしょ、きみまろとかがやってる」

「そうそう、あと《整いました!》って芸人さん居たじゃないですか」

「居たわ、何だっけ……ねず、ねずみ――ネヅ・ジンパチ?」

「それは真田十勇士ですね」フランスの十二勇将ドセ・パーレスのようなものだろう。

「役者で居なかった?」

「居ますけど」ドゥルシネーアもその芸人の名前[訳註:ねづっち]までは思い出せなかった。「――どう従士さん、出来そう?」

「いや鼠に出来たって猫の従士にゃ出来ませんよ、そもそも落語家じゃないんだから」

「でもお前人生の落伍者だろ?」

「こらこらこら、」落第するとしてもまだ半年先の話である。「前途ある若人に何てことを……自分こそギアナ高座にでも上がったらいかがですか?」

「じゃあこうしよ、面白かったらお昼の件はチャラにしたげるよ」はてギネアの紋章にどんな花が描かれているのか筆者は寡聞にして知らないが[訳註:劇中の千代さんは勿論高地エスクード高座エスセナーリオを掛けたのだが、翻訳の都合上先刻の《菊の御紋エスクード・デ・クリサンテーモ》も併せて引き合いに出している。因みにギネアの国章にあしらわれているのは金塗りの橄欖オリーバの枝]、そのエスクードを貫く剣を従士が彼女にお見舞い出来たとすればそれは大した戦果となる。

「え、……マ、マジパン?」

「マジパンチョマジパンチョ」そもそもアフリカの富を手中に収める王女は赤貧の中学生にたかるつもりなど毛頭なかったのである。「はい、整いました?――サンチョ、ニィ、イチ、どぞっ!」

「ちょちょちょいちょい!」慌てふためく従士。

「こういうのは閃きが大事だろ。はいっひらめけドンキッキ、どうぞ!」

「ミコさんミコさん、まずお題出さなきゃ」

「えっ私が払うの?」

「そのお代じゃなくて」エル・トボソが指南するエンセーニャ。「お客さんがテーマを決めるんですよ」

「ああ……ジンパチも訊いてたなそういや」優れた芸人に求められるのはどんな要望にも応え得る即興力インプロビサシオーンだ。「じゃあジンパチからの――蜂の騎士で」

「うっ、よりによって……」

「おお、たのしみ」恋い焦がれる勇者が如何に謳われるか、ドゥルシネーアは期待を込めて耳をそばだてた。

「欠席裁判みたくなってるなあ」こちらはこちらで、従者の口からどんな憎まれ口が飛び出すかを大きな眼で見届けんとするニコニコーナ。

「ちょ……ええっと、そうですねえ」

「整った?」

「整わないので出来の良し悪しも問わないでほしいんですけど……[訳註:Si me hubiera arreglado, os habríais alegrado...《もし整っていたならば、皆さんにも楽しんでもらえたでしょうに》]」長い前置きを経てデスプエース・デ・ウン・ラールゴ・プレアーンブロ――「じゃあ、ドニャ・キホーテと?掛けまして?」

「いきなり半疑問形」

「……」半坐千代は目を細めつつ抜けるような青空ニーティド・シエーロ・アスールを見上げた。

「本当に整ってなかった!」

「……あっ、――と掛けまして、ミツバチと解きます」

「早くも駄作の予感!《どちらも敵を刺すでしょう?》」

「ミコさん」野暮な観客席アウディィトーリオ・グロセーロに自制を促す演劇部部長。大向うから飛んでくる野次には敏感とみえる。

「ごめんごめん」ミコミコーナは首を竦めながらオチの一発ゴルペ・フィナールをせがんだ。「――で?」

「ミコさんミコさん、《その心は?》」[訳註:《どうしてポルケ?》]

「あっそか――その心は?」

「――どちらもスに戻るとハニカムでしょう」[訳註:「どちらも家で甘いモノ/恋人ウナ・ドゥルスーラが待っているから」千代さんの機知に比べると、著者の意訳は気の毒だが正直かなり劣る]

 ふたりの王位継承者は目を丸くして顔を見合わせた。

「噛むなら《歯に》ではなくて《歯で》ですね」沈黙を破ったのはメガネザルのニコニコーナだ。[訳註:「それ《スイーツ屋ドゥルセリーア》より《そいつ嫌ドゥルソネリーア》な感じですね」《甘いドゥルセ》に拡大辞アウメンタティーボ- ónを付けると《甘過ぎるドゥルソン》になるが、性格を示す西dulzoneríaには味覚の甘ったるさから派生して《鼻に付く、鬱陶しい》という意味もある]

「面……黒かったですか?」恐る恐る審査結果を伺う猫の従士。

「というか面喰らったわ。感心して言葉を失ってしまった」

「やった」

「ふたつ掛かってましたもんね。従士さんご立派」

「お褒めに預かり光栄至極に存じやす」

「サンチョ下ネタとかネギとかくだらんこと以外にも頭回るんだな」

「労いもネギ嫌いも充分ですから、ランチの件はなにとぞよしなに」

「苦しゅうない、褒美にドンキでラベル剥がしの何かあったらおごってやるよ」

「よしっ」千代は握り拳を固めて束の間の勝利に酔い痴れた。これで後顧の憂いなく今宵のミサに殉ずることダール・ス・ビダも叶おう。「これで今宵の用意も整おうというもの」

「何か今や顔立ちすらも整って見えるもん」惜しみなき賞賛の嵐が注がれる。「化粧さえまともにすればサンチョでも下層アイドルくらいは目指せるぜ」

「それさっきうちも言った!」偶像的芸能人イードロになれるとまでは言っていない。[訳註:第二十六章でニコが保証したのは《中の上くらいパルテ・スペリオール・デル・メーディオ》]

「ミコさんみたいにコスプレしようがダビに付されてダビデの星となろうが、そのままバーチャル世界の住人として市民権を得ようが今晩さえ乗り切れればパブロフのピカソも無条件反射で人生バラ色の時代到来にござる」

「ユダヤ教って火葬するんだっけ?」[訳註:原則として土葬だと思われる]

「口数だけじゃなくて鼻まで伸ばしやがったよ」《鼻が伸びるクレセール・ラ・ナリース》といっても嘘吐き呼ばわりした訳ではなく、恐らく《鼻を高くするレバンタール・ラ・ナリース》――つまり調子に乗っているタン・クレイーダ――の言い間違いであろう。因みに《鼻の下スルコ・スブナサールを伸ばす》といえば何か――取り分け魅力的な異性など――に気を取られた状態を示す。「テングザルかよ」

「ようこそモンキーランドへ!」メガネザルが歓迎する。

「たしかにハナだったら高い所にでも――」陽射しを避け俯き加減で歩いていたドゥルシネーアが、ふと南寄りの空を仰いだ――「……チヨちゃん?」

「何です?」従士は姫の靭やかな指先の指し示す方向へと視線を伸ばした。「……ん? な、何だありゃ?」

「何何――げっ!」

「おいおいちょっと待て、こんな街中に……名古屋民頭おかしいな」

 利発なる猫の従士に倣い、筆者もほんの数秒前までの彼女をお題に謎掛けを試みよう。

 千代さんと掛けて世の男どもと解くポルケ・チヨ=サン・エス・コモ・ロソーンブレス・デル・ムンド……その心はポルケ

 どちらも動じない/妊娠しないでしょうニングーノ・デ・アンボス・テンドラッ・ウン・エンバラーソ[訳註:慥かに西embarazo/embarazadoには英語のembarrassment/embarrassedと似た用法もあるようだが、少なくとも訳者はこれまで妊娠に関する使い方でしか聴いた試しがない。《褒め殺しにされバツの悪い思いをするセンティール・エンバラーソ》という意味ではあり得るかもしれないが]――しかしそれもこれまでである。

百腕の巨人ヘカトンケイル……」可憐な薔薇の蕾から零れ落ちるにはそぐわぬその名は……

 一度その巨人の抱擁アブラーソを受ければ、四人の少女たちのその骨は砕け肉は千切れ、在りし日の美しき姿とそれなりの姿フィグーラス・アスィ・アスィなど顧みるに能わぬほどの無残な肉塊へと成り果てるのみであろう!


記憶力と読解力に優れ且つ洞察力にも恵まれた読者諸兄であれば、一行が只管ひたすらに妹神たちを引き連れし太陽神エーリオスや醜くも勇敢なる腫れ神様ナナワーツィンが顔を出す方角――中土では青龍を守護神と定めた東方――へとまるで生国に引き寄せられるかのように前進してきた事実を踏まえ、賢明であるが故に早とちりなされたのではないかと拝察する。剰え他ならぬエル・トボソの姫君が、かのブレアレーオ三兄弟を連想させるが如き巨人の名を口ずさんだのであればそれも無理からぬことであろう。

 断っておくが、彼女らを待ち構えていたのは巨塔三兄弟トレス・エルマーノス・ヒガントーレス[訳註:第二十五章では六兄弟とされている。敢えて選抜するなら名古屋電視塔・通天閣・東京塔だろうか]の長兄ではない。尤もオディーンとて今もその隻眼光らせ、新たに出現した巨人に睨みを効かせているやも知れぬが……そのくらい目と鼻の先ではあった。

 では魔術師の背中掻き棒ラスカエスパールダ・デ・マーゴを除けば武器らしき武器も持たぬ同郷の乙女たちが斯様なる危急の際に立たされているその最中、我等がか弱くも幽き者ロス・フガーセス・イ・フラヒーレスの庇護者ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャが一体何処で何をしていたかといえば――

「切った……切ったわねえ」マリア・デラーニは騎士の後ろ髪を熱風で靡かせながら、鏡に映るその輪郭の変わり様に目を見張った。「パーマ掛けていいならオードリーみたくも出来るけど――春日じゃないよ?、でも折角でらサラツヤなんだし」

「パーマは一日にして成らずですじゃ」阿僧祇花は首を左右に振ると、軽くなった頭部の感覚を堪能するかのような満面の笑みを浮かべた。「それに切った張ったの荒事稼業がお姫様の真似事しても始まりますまいて」

「まあお姫様もこれ見たら惚れ直すでしょうけど、みずパーなら一時間にして成るわよ」

「パーマを見ずして?――《ナポリ見てからヴェーディ・ナーポリ》であれば聞き覚えもあるが」

「水蒸気使うヤツ。水パじゃ通じないか」水力縮毛形成アーグア・ペルマといっても恒久的な水供給事業プロジェクト・パラ・ドタール・デ・アグア・ペルマネンテとは関係ない。

「それがしの従者などは《凡ての道は乙女ロードに通ず》と申しておりました」そうは申しておらぬ筈だ。[訳註:第十三章にて主従が姫街道に入る辺りを参照されたい]「此度はローマに止めておきましょう」

「乙女ロードって池袋でしょ?」正しくは神聖イケブクローマ帝国サークロ・インペーリオ・イケブクロマーノである。「じゃあお姉さんやっぱ東京から来たんだ」

「ラ・サンチャをご存知か?」

「知ってる知ってる、オタクの友達が池袋で月収の半分を溶かして帰ってきたよ」

「《来た見た買ったベニ・ビ・ビサそして破産したイ・ケブロッ》……とはな」豪気な騎士とて道中やおら《魔法の板タルヘータ・マーヒカ》を利用する折々その額面を気にする素振りなどこれっぽっちも見せなかったではないか……用心せねばなるまい。「とはいえ困は窮して通ずとも申しますでな」

「困窮ってお姉さんまだ十代でしょ?」美容師は櫛を掛けると同時に肩に落ちた髪を払い落としながら以下に続けた。「もう独り暮らししてるんです?……お仕事当てよっか?」

「当たるも八卦、その刷毛先はけさきに何が見えましょうぞ?」

「デルモ!」

山出しデル・モンテでは御座らぬ」ラ・サンチャ生まれデ・ラ・サンチャ、である。序でに言えば現代風モデルニースタからも程遠いであろう。[訳註:但し第一章では、初対面のマルグラーベの騎士に対し日本語で自ら「山出しながら」と名乗っている]「さて出る物も出なくなる前に……お代は如何程ですかな?」

「イカもタコも大丈夫、さっきの彼氏さんから頂いてますから」

「なんと!」彼にしてやられたレ・ア・トマード・エル・ペロ![訳註:西tomar el peloの直訳は《髪を取る》、騙す又は揶揄からかうという意味なので《一本取られた、一杯喰わされた》が近いか。これも古くはギリシャ人やローマ人にとって髭が個人の尊厳を象徴していたことに由来する]「可惜あたら内縁コンキュビナージュ[訳註:仏concubineコンキュビーヌめかけ》。無論ドン・ジョヴァンニを金蔓と捉えられたことを受けての掛詞というだけであって、エル・トボソに恋人が待つ騎士にとって別の男を連れ合いだと誤解されたなどという発想は端から生じなかったに違いない]もどきの扱いに甘んじるくらいなら素直に困窮しとった方がマシじゃったわい!」

「フィニッシュ――おっし完璧!」

「うむ、如何にも斯くの如しじゃ」

「まあアレだ……結局顔が小っちゃければ短くしても美人は美人ってことさ」生まれの不公平を痛感したマリア・デラーニは思わず肩を竦めたが、それよりも己の美容師としての腕にこそ自信を深めるべきであろう。

魔女ゴテルの梯子になるでもなし元より無用の長髪、いずれ塔の上にでも引き籠もれば仰せの通り猫の額や微塵子みじんこよろしく顔も狭くはなりましょうが[訳註:人付き合いが少なくなれば知り合いも減る?]」カベージョを切っても地上に降りればカバージョが待っているし、騎士の魔法も未だ解けてはおらぬ。ドニャ・キホーテは預けてあった野球帽を受け取ると、それを目深に被りくいと庇を上げて破顔した。「どうしてどうして、水精オンディーナ改め《隠者ヘルメスヘルム》も以前に況して収まりが良くなったではないか?」[訳註:前章で紳士が店を去る直前に、未だ見ぬドニャ・チヨとの一刻も早き再会を促す意味も込め、彼女も含めた主従の今後――牧女としての隠居生活ビダ・エルミターニャ――に言及していたのを思い出していただこう。尤も錬金術師の祖と見なされる伝説上の人物ヘルメス・トリスメギストスの名と古ギリシャ語のἐρῆμος《無人のエリーモス》から派生したラティン語の《隠者エレミータ》が語源を同じくするとは考え難いが、科学オタクと引き籠りを近似的に扱う発想は理解できる。そういう意味では当然、蜂鳥の一種であるカギハシハチドリエルミターニョ(英hermit)という名も花の念頭には浮かんでいたと考えていい]

 悪い魔女が建てた高い塔に幽閉されし麗しの姫君を救うのこそ騎士の職務であり、騎士自身がおめおめと囚われていては話にならぬ。蜂の騎士は兜の緒を締め直すと、回転式の玉座から威勢良く立ち上がった。


アマゾネスの園ハルディーン・アマソーニカに身を寄せていた短い間だけ女騎士アマソーナ[訳註:馬に乗った戦士という意味]の立場から遠退いていたというのも妙な話だがそれは兎も角、地上で待つイポグリフォの許へと足早に歩くドニャ・キホーテを出口まで見送ったアベ・マリーナが、無人の箱の扉が開くのを待つ間に「あっ」と短く叫ぶと徐ろに声を掛けた。

「そうだ、名古屋くんだりまで髪切る為に来たってことないですよね……今晩まだこっち居ます?」美容師が尻隠しから二枚の紙切れを取り出す。「さっきもらったんですけど……てかもらいました?」

「――おや?」

「どうせ早上がりの子たちは彼氏とかと花火観に行くんだろうし、――あでもっ」一旦差し出した紙片の一方をさっと引き戻すマリア。「全然興味ないとかだったらアレなんだけど、どうせ他に誘う人も居ないし」

「はい」

「確実に行かないってこともなければ一枚どうぞ。場所とか時間は書いてあるから」

どうもグラッツィ」騎士は狐につままれたような表情のままそれを受け取った。

「来た……あっ、連絡先――」昇降機の扉が開く。「小っちゃいとこなら行けば会えるか。ほら何だっけ、すべての道は――」

「パーマに通ず」

「それそれ。じゃ、どうぞどうぞ」箱の中に追い立てるお洒落な女戦士ムヘール・ゲレーラ・ア・ラ・モーダ。「多分お友達誰もお姉さんだと気付かないでしょうね」

「でしょうな」

「ではではでらお気をつけて、ありがとうございましたー」

「「「ありがとうございましたー!」」」顔の見えない他のベルベル娘たちチーカス・ベレーベレスの挨拶が呼応して騎士の耳に届いた。

「¿Está ligado...?」花の会釈をマリアが見留めたか見留めないかという辺りで両者の間合いは物理的に閉ざされ――

 そして箱が地上へと降下するまでの数秒の間、手渡された紙切れを穴の開くほど見つめた騎士は、「捨てる髪あれば――か」と苦笑いしてからそれを懐中に仕舞ったのである。


ドニャ・キホーテはポセイドーンの孫娘でもなければ繊細なるデリラダリーラ・ラ・デリカーダを細君に持つ身でもなく、況してや露西亜農家に引っこ抜かれる蕪の葉っぱは言うに及ばずトレンデルブルクの悪しき魔女マガ・マルバーダ夜這い常習容疑の王子プリンシペ・コノシード・ポル・ス・ビオラシオーン・アビトゥアールに引き毟られる金色の仔羊の乳菜レチューガ・デ・コルデーロ[訳註:生食できるスイカズラ科の植物で、羊の子が好んで若葉を食むとされたことから付いた俗名。和名は《野萵苣のぢしゃ》、独Rapunzelの名で知られるが元は伊語のrapa《カブ》から派生した単語である]をその頭に生やしていることもない訳で、仮令坊主頭になったところで人跡未踏の秘境へと分け入ったり難攻不落の要塞を攻め落としたり、常勝不敗の騎士に打ち勝ったり古今無双の怪物を討ち滅すといった血湧き肉躍るような冒険に支障を来すが如き深刻な霊力の枯渇に爾来苛まれる懸念などあろう筈もなかった――とはいえ本章を語り終えるまでに要したたった数十分が、我等が比類なきラ・サンチャの女帝蜂の利他的な人相フィソノミーア・フィラーントロパ[訳註:恐らく博愛的というよりは《周囲の目の保養になる》という意味だろうが、美容師の言を信じるなら調髪に依ってその花貌が損なわれたということはないようだ]すらも変じてしまったとすれば、これが血管迷走性の気絶スィーンコペ・バソバガールに親しんだ中近世のご婦人方でなくとも筆者を始めとした彼女の熱烈なる信奉者たちが、動揺の余り失神する若しくはだらしない硝子盃バソ・バーゴよろしく失禁したとて無理からぬ事態に違いないし、その失態に関しては矢張りご容赦願うよりないのだ。

 しかしながら騎士や美容師が覗き込んだ鏡を我々は手にしていないし、現在彼女がどのような髪型であるのか、延いては数分前までどのような髪型であったのかすら実際のところ知る由もないのであるから、この点の判断は今後発見されるであろう文献や史料の中で誰か登場人物がその風采について――本人を前にしながら[訳註:本人を見た誰かが、本人不在の場に現れた従者の前で……でも構わない]――詳らかに語っていたり、その場に居合わせた絵心ある者による挿絵やあわよくば写真などが紛れ込んでいることに期待して、博捜渉猟の手間を惜しまず日夜精励恪勤することが肝要だ。

 さて前章末で筆者が付した予言は半坐千代のそれと同じく外れに外れたけれども、よもやこの真実の物語の決着が付くのにもう十章が費やされることはあるまいし、縦しんばそうであったにせよ耐久力に些か難ありの筆者の筆も道半ばで折れてしまうに違いないので、次章かその次の章、或いは記念すべき終章に至るまでのいずれかの章内にて、従士か若しくは主人のどちらかは少なくとも鶏の手羽先アリータス・デ・ポジョ鯱のフカヒレアレータス・デ・ティグローン[訳註:西tigurón《tigreティーグレ+tiburónティブローン》。仮にtigrónならtigreの形容詞形となる]又はそれに類する何らかの料理を口にするであろう。

 だがその前に――今この時、四人の猫たちの前に立ちはだかる巨人を先ずはどうにかせねばなるまい。

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