第29章 泡沫に消え去りしボルランドの冒険が、潤滑なるもうひとつの卵と共に語られる
LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA
清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ
Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.
POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM
A Prof. Lilavach
Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.
Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).
第二十九章
泡沫に消え去りしボルランドの冒険が、潤滑なるもうひとつの卵と共に語られる
Capítulo XXIX.
Donde se cuenta la aventura de Borlando Borrado en borbotones, con otro grasoso huevo.
本稿に於いて
だがご安心願おう、これは稀有なる不幸としてテノーリオ同士の鉢合わせを意味した訳ではなかったのである。というのも――百歩譲ってサカモンテシーノスで主従が出会した醜悪なふたりが、その卑賤な嗅覚を以て怨敵の芳香を嗅ぎ出しこの大名古屋を徘徊していたにせよ――
種明かしをすればこの関西弁という地方語は、
といっても日本の首都は建国より長らく奈良や京都に置かれていた訳で、日本語の元祖が関西弁であることを鑑みれば、我々がチリのサンティアゴや南米のパリを旅して思わず耳を塞ぎたくなるのと彼等日本の歴史的背景を同一に捉えることも出来まい。古来より使われる《
それでも《
「――目鼻に加え耳の穴も掻っぽじり万難排して備えるべきに御座ろう」
「穴といえばシェーンブルンの猫であれば穴掘りが得手とも――ともすれば?」この紳士、昨晩一度耳にしただけの《
「エテ公ならば木登りでしょうが――」
「おい」
「涼を求めんと欲すれども今更地下に戻ることはありますまい。浮世に
「おい」
「はい」ドニャ・キホーテが漸くその面を替え馬橋の袂へと向けて答えた。
「無視しないでくれよ」
「お知り合いで?」まさか自分たちに話し掛けているとは思いも寄らなかったドン・ジョヴァンニが意外そうな声を上げる。
「いえ、てっきり
「そっちは俺の顔なんか知らんだろ」不敵な――そして卑屈な笑みを湛える謎の男は以下に続けた。「知ってるわけがない……知らんままでいいよ。呑気なもんやな」
「……こっちゃあお前らのせいで別れる別れねえの瀬戸際だっつうのに」
「ははあん」どうやら花には得心がいった様子。「
「騎士殿の心、笑顔[訳註:心得顔?]の如くならずば――」傍らで浮かべられた冷笑に気付いたジョヴァンニが釈明する。「当方ヅェルリーナなる床入り前の嫁が君にはとんと憶えなく……ティスベア然りシャルロット然り」[訳註:何れも婚約者がありながら各国各年代に書かれた《ドン・フアン》に誘惑されてしまう田舎娘の名]
「それがしには多少の憶えが」それはあるだろう。[訳註:勿論千代の愛驢に就いては言わずもがなだが、《嫁が君》という日本語はネズミを示す言葉でもあることから、多少の中に本坂峠の吸血鼠たちも含まれていることが窺える]
「おいって!」止まる気配なく並べ立てられる
「失敬」
「はっ……今日は、片手に花なのな――うわすげ、モデルか何かかよ……」成る程彼の論点も強ち的外れではなかったようで、慥かに標的の両手が塞がっていたらその五指をむざむざと打ち据えられることもなかったであろう。
「お戯れを」この
「¡Bravo, bravo!...el brazo bravo.」機先を制し核心を突く
「風呂が立派って……一緒に泊まってんのかお前!」
「若しくは麗しのフロルデリを賭け僕と一戦交えたフロリマールの勇壮さを思い浮かべていただければ」
「無口とか寡黙とか言ってたはずだがえっ、ひょっとして……ほんとに人違いなんか?」
「ブルフィンチというからにはその辺りの描写は蓋し彼の創作でしょう[訳註:十九世紀の米国人作家で『シャルルマーニュ伝説』の著者トマス・ブルフィンチの姓は直訳すればたしかにウソだが、小鳥の方の《鷽》であるしそもそもLがひとつ少ない]。並びに
「アストラフォとはウシトラの仲だったという線も」丑寅について読者諸兄には狐火騒動[訳註:この語の解説が為されたのは正確には掛川から浜松に至る道中に於いてである。第十三章を参照のこと。繰り返しとなるが作家ブルフィンチの綴りはbullではなくbulfinch。元となった鳥のbullfinchの由来は、頭部の形状を牛に模したことからと謂う]を思い出していただきたい。何のことはない、年や時刻・方角を示す
「ふむ、セビリア殿ならばトルデシリャスの女王陛下とも馬が合うやもしれませぬな」花の騎士フロルデリマールは南東の方角に余所見しながら以下に付け加えた。「尤もドニャ・フアナが
「いや待て、やっぱお前じゃん!」携帯を弄っていた
「ホップラ」アストラフォ[訳註:元のAstolfoに対し、Astrafoという綴りが齎す語感からは自ずと
「手ぇどけろや……たく何でこんな、顔だけで後は電波の変人を世の女どもが崇めんのか、理解に苦しむわ」
「あがめ――アガメノン?」耳聡いドニャ・キホーテの逞しい想像力がまたぞろムクムクと鎌首をもたげたようである!「貴公、よもやミュケーナイの――?」
「いえ滅相も……僕は独り身ですし、」咄嗟に弁解する
「――風呂上がりには
「いえですから、カバリェーラ……」
「……分かったからもう風呂の話はやめえや、真っ昼間からこんなとこで何なんだよ」間男を糾弾せんと詰め寄っていた筈の
「アストルフォ殿、黄金の槍を此れに」遂にドニャ・キホーテが闘志を新たにするや、馬上から傍らのパラディンに掌を差し出して武器を求めた。「――セニョール?」
「カバリェーラ」
「
「な、んで怒ってんの?」老婆心から物した忠告に対する美少女の予想外の反応にたじろぐオルランド。
「しかしドニャ・キホーテ――」
「然様に毒牙を御所望ならば、お望み通り目に物御覧に入れましょうぞ」騎士が相手を威嚇せんとして、見えぬ長物を剣舞よろしく激しく振り回す。それから改めてドン・ジョヴァンニの眼前へと片手を向けつつ以下に続けた。「尤も貴公が備えるべきは蜘蛛の一咬みならぬ蜂の一突き、
「
「ささ、早う」
「紫陽花の騎士よ、アルガリアの槍は既に荒ぶる恋人ブラダマンテの手に渡っておりますれば」[訳註:《
「何ですって?」
「今この時も、それこそ
「従姉妹殿の手に――?」騎士は首を傾げた。先刻共に地下を探検した彼女の手にそのような物騒な代物があれば気付かぬ筈はないし、その
無論、腹熟しの散歩が目的であれば――花がイポグリフォを、千代がシャルロットを馬駐に繋いで出掛けたように――部屋に置いて外出したと考えても何ら不思議はない。邪魔なだけだし無用の長物である。うっかり携帯したまま出歩いてしまった新品の兜を従士が扱いあぐねていることは記憶に新しい。
「第一常勝のブランディマルテよ、
「ならばこの御仁にレイナルドのバヤルドなりオルランドが黄金の手綱、若しくは眠らずの悍馬なりを用立ててはくれまいか?」
「ちょっと、ねえ」
「ヴェリャンティーノもブリリャドーロも僕の自由には……エリヤの馬車でもあればこの方の正気を取り戻しに月まで赴くに吝かではありませなんだが」アストルフォが弁明せずとも、そもそもこの場で馬に跨っているのは他ならぬブランディマルタひとりなのであった。この一介の会社員とその同僚が昨夜名古屋駅に降り立ってから利用した交通機関といえば、せいぜい
「正気って何だよ、何でお前らに正気を疑われてんの俺?」
「少し黙っておれ」騎士は口を挿んだ男を制止しつつも以下に続けた。「されどこのパラディン気触れの申すことにも一理あって、馬が足りずにむざむざと勝機を逸するなどパ・ダルムの名折れですぞ」
「うむ」
「それがしは此れなる
「……それほどまでに?」
「はい――ややっ、ドゥリンダーナといえば兄も《
「……宿に戻れば或いは。然程に
「構わぬ」眼前のオルランドは偽物故、両者の間に気を使う謂れはないのだ。「そら、今から燃え盛る四頭立てを
「否、釈迦に説法騎士に示教とは思いますが、」無理難題を押し付けてくる少女を諌めるべく、嘗てはイポグリフォとバヤルドの双方を乗り熟した(そしてその何れをも手放してしまったとされる)アストルフォは核心を突く返答を以て彼女の要望に応えた。「バヤールを御すること叶うはアマディスの――」
「――アマディス・デ・ガウラが血族のみ」そう引き取るや言葉を失う蜂の騎士。目の前の貧相な闖入者にその素養があるとはお世辞にも思えぬ。
「なかんずくその気血最も濃き者と思しきラ・サンチャの騎士の、その御居処に敷かれし汗血こそが空にあってはリフェオスの頂翔けるヒッポグリフにして――」セビーリャの紳士が花の尻と馬の鞍を指し示して自らの見解を述べた。「大地に於いては
「馬車の代りに乗らされるのが口車とあっては些か面目も立たぬが」それでもドニャ・キホーテは満更でもない口振りである。何せ己が敬愛するアマディスの後裔と判明したのだから悪い気はするまい。「……口惜しいとはいえ然も言われたり。異論の挿む余地が見付からぬ、御説いちいち御尤もじゃ。されどセビリヤの、戦士がふたりに馬一頭では全体どうしろと言うのです?」
「ドン・スエロとて単騎で橋と矜持を守り抜いた訳では」
「ちょっといいかい」
「今少し――ここは僕にお任せを」
「しかし」
「
「そうはおっしゃるが――」
「ちょっと」
「時には連れ人に花を持たせるのも」
「……相分かった」
「然り乍ら
「な……兄らを置いて早早とこの場を辞するべきとな?」
「徒に留め置く法はあらばや……るど」
宮騎士ルノー・ド・モントーバン[訳註:第十五章で花が言及している通り、欧州を侵略したモーロ人王マンブリーノを破りその兜を奪取した騎士。現在のフランシアとベルヒカに跨るアルデンヌ地方はエイモン公の子息であるが、伊語ではリナルド・ディ・モンタルバーノ、西語ではレイナルド・デ・モンタルバーンと綴られる]から愛馬を取り上げたシャルルマーニュは、フランスから流れるエスコー川(つまりスヘルデ川)がベルガエ北部のデンデル川と合流する辺りでその首に巨石を括り付け水没させたと言い伝えられている。[訳註:架空の馬なので、登場する作品に拠っては溺死したとされる一方、フランス叙事詩などでは蹄で石を砕き川から這い上がるや森へと逃げ果せたとも記される]
「
「鬼畜はこいつの方なんだって!」長らく放置されていたボルランド[訳註:西borlaとは衣装や窓掛け等に付ける
「業物とは呼べぬがこういうのはどうじゃ?」長い髪を翻してシャルルの筆頭騎士と対面するドニャ・キホーテ。
「やっ、カバリェーラ――」何かを目に留めたジョヴァンニが声を掛けるが――
「あいや暫く、暫し待たれよセビリヤの――」妙案に至った
「えっそれより髪に――何すか?」花の示した指先を見遣るボルランド。
「而してこちらにも揃いの物が突き立っておろう。
「ん……信号?」目を眇めて再度、
「ふっ、互いに搗ち合わせたとて拍子木のよな
「選ぶ?……いや別に揃っちゃないでしょ。こっちのは一通だけどあっちは通行止め――」我らが《
「忠勤の槍とはよくぞ申した!」蜂の騎士が羽を震わせ失笑を漏らす。アリオストらの語るオルランドがかなり自由気ままに振る舞っていたことを鑑みれば、フランク王への忠義に篤いこの男は成る程偽物に相違ない。「ならば此のラ・サンチャの一本槍はあちらを拝借するといたそう。騎士道とは是則ち
「翻訳してくれ」
「ですが
「……俺んちはダイソンだが」この掛け合いは完全なる
「然りとてドニャ・
「当て馬と?」
「否、幸い
「もしかしてチャリの話してる?」
「汝にはこのバヤールをお貸ししよう」花は長い脚を靭やかに振り上げるや、イポグリフォの鞍から軽い尻を浮かせ下馬した。「後に馬の差で負けたなどと吹聴されたら
「馬って何だ」
「
「言わずとも知れたこと、ドン・アストルフォは此処な
「いえそのような」
「兄が先刻仰ったように、川に放り込まれでもせぬ限り暴れはしませんて」騎士は笑い飛ばしながらも以下に続けた。「元より槍試合にて馬を狙うは御法度……尤も此方さんが駄馬の方を安心と仰せならばそれがしとて無理強いはいたしませぬけれど」
そう云い残すと、
「おい、説明せい」
「蜂殿は石に突き刺さったペンドラゴラのカリブルヌス宛らに、あの鉄槍を――」
これ以上橋上に立つ男ふたりの遣り取りを聴き取るのは難しい。というのも花は既に充分距離を取ってしまったし、彼らがこちらの耳に入るほどの大音声を響かせてくれるには我々も二三分ばかり待たねばならなかったからである。
先程紳士が腰掛け背を凭れて休息したと思しき親柱[訳註:前章の記述に拠るならこれは川の西岸の筈であり、やはり食い違いが生ずる]の傍らにていつとも知れぬ主人の帰りを待つ
「さて――どちらがより骨かな」鉄鎖等で
今も懐に潜ませているであろう
「
慥かに
とはいえ並んで棒立ちしていても始まらぬ。騎士は両手を擦り合わせて掌の汗を散らすや、むずと規制標識に組み付いた。そのまま握り締めた拳を呼吸を止めて――引き抜けない。
「ええい露人の蕪じゃあるまいに。
この橋の人通りが疎らであったのは不幸中の幸いと言う他ない。というのも仮に決闘の舞台がお隣の桜橋であったらば、東京から参じた女子高生の狂態が良くて人集り、運が悪ければ警察機関への通報を呼び込んだに違いないからである。
「
惨めに吐き散らした泣き言が男たちの耳に入ったのでは?――あわやと橋桁を顧みたが、ふたりとも何やら話し込んでいる様子でこちらを気に掛けるどころか見向きもしないのであった。決闘を前にして――しかもその相手が常勝不敗の蜂の騎士と知りながら――随分と図太い態度ではないか?
「……見栄坊の
面を上げると沿道に植樹された若木――
「掘るか……手折るか」成る程扇の骨の如く真っ直ぐに伸びた、それも細身の枝振りであれば
フロリマール顔負けの花の騎士ドニャ・キホーテが丁度手頃な
「だから見下ろすなっつってんだろ!」[訳註:著者は「
すわ驚いて先刻繋ぎを確かめた駄馬の手前まで転び出ると、どうやら替え馬橋の上で何か異状を呈したであろうことが窺われた。ボルランドがセビーリャの紳士を威喝したに違いない。
「ちょお待ってろこら……」
ドニャ・キホーテが目を凝らし戦況を把握しようと試みるも……「ウシ――
る裸踊りへと縺れ込みかねない。
「どや、お前らいつもこうやって上から群がってくる女ども物色してんだろ……あ?」
一方的な面罵に甘んじているのか、アストルフォからの反論は聞こえてこない。声を張り上げておらぬだけで、対話の試み自体は依然継続しているかもしれない。
「おらその手動かすなよ、今晩板に立てんようにしてやっから!」
ドニャ・キホーテは焦った。だが気が急くのとは裏腹に自分の脚が只今二本切りであることも自覚していたので――嗚呼半鷲半獅子の幻獣が俊足の牝馬を孕ませて産ませたという吾が愛馬の手綱を片時も離さず握り鐙から両足を外さず踏ん張っていたらば、あって二
「いい度胸じゃねえか――てめ本当に踏むぞ! 潰すぞ!」
一刻の猶予もない。この難局を我等が
「何か……投げる、物を――」右手を差し出すも、以心伝心で
阿僧祇花が
おお盲目の読者諸賢には想像できるだろうか!――チヌア・アチェベも瞠目するであろう
皆さん、こんなことが果たしてあり得るだろうか? あっていいものだろうか? 思い起こしてほしい、嘗て――といっても三日前の出来事だけれど――遥か三千
ところが、である。
「なっ、ぁん?」
矢張り
「――だっつ!……でっ、ええぇぇぇっ!」
同じ手摺の直線上とはいえ的から大分外れたところに踏み降ろされた右足――若しくは左足――の下に撒いてあったのがもし炭酸
さて神に見放されしこの男は
「――セ、セビリヤの!」
「蜂殿、リペオスの神駒が」ジョヴァンニが塞がった両腕から目を背け後方を顧みると、そこには歩道に倒れ伏したイポグリフォの姿があった。数分前に紳士が吹いた涼やかな笛の音を
「構いますな、
「お陰様で。ドニャ・キホーテ放ちし
「
「折角捕えたカリゴランテ、このまま逃す手は……」
「兄が幾ら
「ケッ、ツァァアア!」思い掛けぬ災難に放心状態だったのだろう、激しく脈打つ己の鼓動が耳に響いて暫く外部の音を遮断していたらしい
「これ暴れるでない」アストルフォの負担を慮り、男を叱咤する騎士。「このまま落としてしまいなさいな」
「はっ、放すなよ――放すな!」
「あらまほしきは川川なれど、これをハーメルンには」如何にも険しい面相で舌を突き出す紳士、続いて天上を向いたまま自由にならぬ両前腕の先を然も
「其の肝ほどは太くありますまいて!」そう云って呵々と笑い飛ばした花は、引き上げる手助けをしようと欄干に身を寄せるやその靭やかな右手を伸ばし、哀れなボルランドの
「化鼠のベヒモスにしては随分と小振りな」レビアタンの骸の前で吐かれた花の大言を憶えていた紳士が素直な疑問を呈した。「……
「……俺だって、」宙吊り男が割って入る。「てめえらさえこんなとこまで出張って来なけりゃ今頃は――予約したネズミのリゾートに一泊して」
「ネズミの
「一緒にパレード観て」
「――《腹を空かした御仁にとっちゃな》」ドニャ・キホーテは胸中キケロの言葉[訳註:千代が《
「くそ」
「
「赤子
「くそくそくそくそっ」
「足掻きなさんなというのに――宜しいか?」騎士は握り締めた拳を引き絞るようにしてその細腕に力を込めた。
「ゼルプストフェアシュテントリッヒ」
「
「イーサ」
「オイッス」[訳註:仏oh hisse.「おう、持ち上げろ」]
「オイッス」
「ヨイトマケ」[訳註:和「ヨイと巻け」]
「ヨイトマ――」
「負けでいいよもう!」突如そう喚き散らすなり、ボルランドは恰も
「此奴ッ、往生際が――」
「放せ、放せよ!」
「カバ……リェーラ」上体を反らせ何とか引っ張り上げようとするドン・ジョヴァンニだが、――猛暑であることを考えれば両者の発汗による摩擦力の減少もその要因に数えられよう――そうすればするほど狂人の両腕は愈々以てずり落ちていく。
「もう放っと――けっ!」
その場に居た全員が伝馬橋の沈黙の号令に
「Geb Acht!」[訳註:直訳すると「
大鼠一匹分の体重から解き放たれた反動により、橋の上のふたりは勢い余って時折排気音が通過する車道へと後ろ様に蹌踉めいた。倒れたままの愛馬の上に騎士が背中から落下する未来を予測したジョヴァンニは思わず注意を喚起したが、どうやら間に合わぬと見てとるや自らも歩道上に尻餅をつくまでのまさに瞬目の中で咄嗟にその長い腕を伸ばし、彼女の手首を掴んでやや乱暴に引き寄せる。この紳士の機転がなくば、落下したボルランドが上げた
「Au!」騎士の骨の代理でジョヴァンニは細やか且つ短い悲鳴を上げた。骨張った鉄の塊の上に腰から落ちることを考えれば蜂に刺されたようなものとはいえ、舗装された歩道の上に強か尻を打ち付けたのに加え、成り行きで受け止めた針なき女帝蜂の――力学上の勢いがその軽さを補って余りあった――尻が更なる重しとなって加圧したのだがら、普段辛抱強い――そして女を上に乗せるのにも手馴れているであろう――セビーリャの色事師をしても噎せ返るのを堪えることが出来なかったのだ。
「あいあい……」遅れて頭を振りながらドニャ・キホーテが上体を起こした。期せずして敷かれた
その時漸くふたりの尻の下の方から、水面を乱雑に叩く音が届いた。跳ね起きる蜂の騎士。
「Uff!」
欄干へ駆け寄らんとした矢先に上がったその呻き声を花が聞き漏らすことはなく、ヴェーザーの異変を取り敢えず後回しにするや彼女はその場で器用に踵を返した。
「セ――ビリヤの、如何為された?」まさか自分が下敷きにしていたとは夢にも思わなかったとみえる。
「お構、い、召されぬよう。僕のお慕いする、ドニャ・アナも……」仰臥しながら己の尻を指し示すドン・フアン。「地中に眠るお父上を――殺めたのは生憎僕自身ですが――お父上を懐かしんでおられるのではと」[訳註:穴もといアナというのは前章でも触れられた騎士長ゴンサロの愛娘で、ドン・フアンは彼女を手篭めにせんと企むものの惜しいところで邪魔が入り思いを遂げられぬまま逐電、そして追手の父ゴンサロを殺害する。ドニャ・キホーテの実名――諱――を知っていれば彼もこんな失礼な物言いは控えたであろう]
「地中に眠る――
「ではお言葉に甘え今少しこのまま」直ぐには立ち上がれない模様。大切な手を守ったのだから尻のひとつやふたつに痣が出来ても致し方あるまい。全くこれは尻を笑われたフランコの祟りではあるまいか?[訳註:第二十七章参照]「リペオス殿の方もご無事で?」
「はい、大事はないようです。往時はテスカトリポカ(原註:
「
「岸に向かって泳いでおります。この陽気なら鼠が塩を引くことはあっても、よもや風邪を引くには至りますまい」
「してお手の物は?」
「ん?……ややっ」ドニャ・キホーテは今になって漸く、その右手に握られた布切れに気が付いた。[訳註:最初に起き上がった際の「これは?」のこれこそがその布切れだったという解釈も出来よう]「――
「或いは白旗」
「いえ、
何のことはない。ジョヴァンニの拘束を振り切らんと藻掻いたボルランドは、諸手を万歳させることで支えを失いそのまま自由落下したのだが、その際紳士の加勢として騎士が引っ張り上げようと掴んでいたのがこの男の襯衣であった為、上向きであった両腕と首がすっぽりとその袖と襟を通り抜けてしまったのだ。則ち脱げてしまった――剥ぎ取られたとも――上衣を残して落ちた彼は、自然半裸の状態で落水したことであろう。(恐らく《
「
「武具以外を分捕っても蓋し騎士殿の名誉には」
「うむ、ハダカデバネズミにお返ししよう」ジョヴァンニの忠告に後押しされ、ドニャ・キホーテはまさに今河岸の土手に縋り付き更にはよじ登ろうと苦心している最中の
「あっ」突然の大声に驚いたのも手伝って、濡れた石垣に足を滑らせたか掴んだ植物の枝だの生い茂る草だのが折れたり千切れたりしたのか、男はもう一度水の中に滑落して先程よりは控えめな飛沫を辺りに撒き散らした。「こっ、こっち見んなよ! もうあっち行けよ!」
「おい――」すると遠心力が緩んだ布切れから何かが飛び出たかと思うと、宙空で折り返してそのまま落下を始める。「
騎士は反射的に空いた方の手を差し出し何とか川に落ちることだけは防いだが掴み取るには及ばず、指先で跳ね返ったそれは背後に投げ出され、横たわるジョヴァンニの腹の上で弾み、静止した。
「
「
「……蜂の騎士は一度ならず二度までも一輪の
「カンパ――ああ、グロッケンブルーメ――ですな」
「それも
「Tómame la mano.」交わした約束を違えることなく、騎士はそう云って手を差し出した。
「Te la tomo, amiga...」アストルフォが手を伸ばす。すると彼女の掌上に触れたその指先が感知するは、肌理の細かい乙女の柔肌にそぐわぬ人工的な
「これは件の戦で血吸の鼠に齧られた痕、謂わば向こう傷ですじゃ。尤もそれがしの一太刀によって奴の流した膿血が第七
「チヨさん……ドニャ・チヨ・デ・ハンザが?」
「然様。神の恩寵を請う文言が付されておりましょう」掌を大きく開いて誇示するドニャ・キホーテ。
騎士は再度川下を振り返った。
「
「Alza il capo.」面を上げさせた花は欄干の側まで彼を誘導すると、眼下に苦闘する濡れ鼠を指差して云った。「傷といえば彼奴が陸に上がらぬのは何処ぞに手傷を負った故でしょうか? そも笛の音は既に止んでいたというのに、何故ああも暴れてまでヴェーザーに落ちたのです?」
「はて、宙ぶらりんとなった弾みで粗相でもしたのかも――」
「は、はあ……」股座を濡らしたとあってはたしかに自ら川に飛び込むよりあるまい。地上に残ったのが上衣の方だったことは幸いである![訳註:脱がしたのが上半身の衣服ではなく脚衣だった場合、失禁した男のそれを手にするのは流石に御免だろうという意味]
「仮に下馬無槍の馬上槍試合に於いて彼の者が負傷していたとしても――又は珍事
「……
「おいっ、棒女![訳註:著者は《
「
それ以降、闖入者の声や水飛沫の雑音が我々の耳に届くことはなかった。
以上が《
「僕も事前に――」桃太郎伝説の桃のように川を流れていった男を見送りつつ、橋の上のドン・ジョヴァンニが
「石の騎士長ドン・ゴンサロの稀なる霊力以てすれば、地獄の業火に捲かれた兄が苦し紛れに飛び込んだ途端に此れも
「願わくば不肖セビリアのヘクトルにも《神の恩――》」南に架かる錦橋を眺める花の長い後ろ髪が川風に
「無法の限りを尽くした上で劫罰どころか神に恩寵せびるとは、如何にもせびり屋殿の名に恥じぬ――施されるはその面目のみといった体ですな」襯衣の隣に視線を移すと、そこには汚らしく手摺に擦り付けられた玉子の残骸がこびり付いていた。「しかしこうも卵を渡らせるばかりでは、それがしこそが行く行くは《駝鳥鵞鳥の騎士》を襲名する羽目となるじゃろて」[訳註:第十一章では《白鳥鵞鳥騎士団》なる架空の軍団への言及があった]
「では蜂鳥殿――ドニャ・カバリェーラ・デ・ラス・チュパロサス」
「《
「ではドニャ・アビアペ[訳註:西avíapeはラティン語由来で、そのまま
「
「御手が――お任せを」
「御手出し御無用。
異物が付着した黒髪の束を何の躊躇いもなく切り落としてしまった。
目を
「ん?――ああ、これですな」呆気に取られた相方の面相を一瞥した騎士は、一転破顔すると以下のように答えた。「成程、何故斯様な武器を懐に忍ばせながら決闘に用いんとせなんだのか……訝られるのも訳はない」
「いえ……」
「この小振りな
「
「
「ダリ――ア[訳註:牡丹に似たキク科の植物。因みにサムソンの妻は
「ふむ、《括る姫》とは云い条」澄んだ音を立てて刀身を鞘に納めると、騎士は幾分照れ臭そうな声色を漏らしつつ小刀を懐に仕舞った。「――
「
「発ちますか?」
「ラ・サンチャのアルトゥーラが、」挑発的な眼差しを向けつつ少女の手に轡を握らせるジョヴァンニ。「此処を屍山血河の
「いえいえそれには及びませぬ」終いにはドニャ・キホーテも白旗を揚げ、出立の意志を固めた。幾ら今後の進退を決め兼ねていたとはいえ、明日までここに突っ立っている訳にも行かない。橋を守り通す期日は九日だが、(かなりの鯖を読んだにせよ)三百本の槍を勝ち獲った後も留まる理由などないのだ。[訳註:元々所持していた小刀がいつの間にか分捕品に掏り替わってしまっている]「いざや参らん」(原註:この時ドニャ・キホーテが東西どちらの旅舎に馬の鼻先を向けていたかは想像の域を出ないが、筆者は矢張り彼を仮宿の門前まで見送るつもりだったであろうと推察する)
「然れどもこのままでは――」今度はドン・ジョヴァンニが無い
「Para servirle...」[訳註:「何なりと」]
「――
ここでジョヴァンニが――口中にて殆ど溶け掛かっておる故、常人には音を出すのでさえ最早困難と思しき――砂糖で出来たあの笛をまた一段と鋭く吹き鳴らしたものだから、ラ・サンチャの精華の両耳にそれがトマス・カーライルが呼ぶところの
ああ、
この愚かしきテノーリオ家嫡男の発案が、締めて二時間余にも及ぶ散策が
「秋の鹿は笛に寄ると謂うが、さて――」[訳註:これは錠菓を吹奏した直後に紳士がボソリ呟いた言葉。今は夏だから代わりに馬鹿が寄ってこなけりゃいいがということ?]
しかしながら寛大なる読者諸賢にはここで一旦、《
「チヨさんチョース」
「バッカおめえチョーさんの挨拶はオイッスだろ」
「は?《いつも元気なワンワンでーす》でしょが常識」
「おかえり」
「お待たせしました。何の話です?」
「品性……と知性?の話かな?」中座する直前の従士の言葉を記憶していたエル・トボソの姫君が
「……貧しいのと恥ずかしい方の性かな」
「ねねチヨさん二学期始まったらこれ観に行こうぜっ」
「おままだラーメ――ちょっ」液晶画面を覗き込む千代さん。「ハァハァって何だよ、ユーチューブでエロ動画流してんの?」
「いや私に振られましても」何故か詰るような視線を送られたドゥルシネーアが、それを逸しながら以下に続けた。「涼しくて時間潰せるとこって言ってババちゃんが、この辺に映画館ないかって」
「本編じゃなくて予告編ね、来月公開だから。再生再生、してみそ」
「こんな公衆の面前でか? 音消した方がよくね?」
「エロ動画じゃねえっつうのに」
強いられるように旅舎前の歩道の端っこで動画を再生開始して黙って視聴すること僅か二十秒――
「パクられたっ!」[訳註:松居大悟が監督した二〇一五年製作の映画『私たちのハァハァ』。北九州に住む女子高生四人が好きな
「いや今年の夏休み明けに公開ってことは撮影は去年の夏とかっしょ。どっちがパクリっつったら全然お前らの方がパクリだよ」
「なんだ……と」
「東京から名古屋って千キロあります?」
「あるわけねーだろ。半分もねえよ」
「おっサンチョピンチ!」何とか相方の反応を引き出そうとニコニコーナが従士の肩を揺さぶる。「サンピン、チョ……《いやよ》押しとけば?」
「
「いやこっちの方です」
「あー、《こーろーせっ》て方か……」
「だから私に……ローマのコロッセオとかのね」
「なる……《ハァハァ》ってそっち(原註:
「東海道って終点京都だろ? 千キロじゃもう本州端っこの――岡山とか、下手すりゃ九州上陸せなならんぞ」[訳註:念の為、本州の西端は広島県である]
「岡山って名古屋より遠いですか?」
「日本地図も見たことないんかおのれは。きびだんご貰いに今から行って来いメガネザル」
「何を? ほんだらこれならどうだ!」
「いや更にモノホンに近付いてどうする」[訳註:反発したニコが一旦眼鏡を外したので、寧ろ通常のニホンザル――実際の昔話に登場する猿に寄ってしまったということ]
「多分東海道山陽新幹線なら直通で行けるよババちゃん」
「え、金足りる?」
「じゃあニコさんはこれから独り天竺に旅立つとして、――」
「え、鬼ヶ島でなく?」
「残ったうちらが時間潰す映画館は見つかったんかよ」上映中で暗転している劇場を独り抜け出し、
「そもそも探してませんのだ。てへ」
「探してませんのかよ」恐らく探す前に
「えっそれって……」
「間違えた、その舌噛み切らせてやろうか……余計なもん見せやがって」
「んじゃどうする? ハコの下見でも行っとく?」御子神嬢が自分の携帯を取り出して言った。「ゼップって駅のすぐ下の――あっち側だっけ?」
「いやゼップじゃねえすけど……名前何つったかな、」千代は携帯に
「えっニャゴヤキャッソー行くんじゃねえの?」
「めんどくささが勝った」
「ウチ昔一回入った記憶あっけど正直あんま観るとこねえぞ? 結構歩くし」
「バスとか地下鉄とかで行きゃいいっしょ」
「中入ってからが歩くんだよ。無駄に広いし」件の徳川家康築城とのことだから、その敷地面積も国内最大級に違いない。「今あっちから来たしとりまこっち行ってみる?」
「結局歩くんかよ」
「日陰ならマシだろ」たしかに桜通の南側を通る分には、居並ぶ建築物が陽光の盾となってくれる筈だ。「徒歩圏内のがお姫部長も安心でしょう」
「お気遣い痛み入ります」
「それじゃチヨさんニコさん、参りましょうか」
「うわ……ミコ黄門だ」
以上のような
昨晩ラ・サンチャの騎士は同じ県道の北側で馬を走らせたのだが、これが昼日中であったとしても彼女であれば変わらず日の当たる道を選んだに相違ない。
「もう冷房の貯金が切れたんですが」一方、好んで苦難の道を歩くことを潔しとしないニコニコーナは、出発からものの五秒で弱音を吐いた。「アイス」
「角っこにあったのファミマだっけ? 寄っとく?」
「こんだけでかい通りなら歩いてりゃ三十秒おきにあんでしょコンビニ」
「冷たいものばっか入れてるとお腹壊すよ? お茶飲む?」
「いや水分百パーセントはそのままご腸内一周してすぐ下から流れてしまうので」
「昼は手羽先か味噌カツなんだろ、腹空かしといた方がいいぜ」大ギネアの王女が従士に意地の悪い視線を投げ掛けながら言った。
「それはどういうあれですか?」四人分
「あっ夜のお菓子のうなぎのパイ!」
「これでパロミ陛下が手土産に鳩サブレでも持たしてくれてたら云うことなっしんだったのじゃが」[訳註:充電済みの携帯で西paloma《ハト》の語義を自ら調べたか?]
「なんで鳩……アレは鎌倉だろ」それは勿論、彼の女王はその下穿きの中に一本の
「え、カマクラってこたレア氏んとこか」
「肉……アイス……肉……アイス……肉アイス肉アイス肉」
「うっるせえなあ、もう独りでスーパーカップ超レバニラでも食ってろよ」(《
「何それガリガリ君ナポリタンより攻めてる!――期間限定?地域限定? そこのファミマで買える?」(《ガリガリ君》とは日本で最も安価かつ人気の
「食いつき……」ミコミコーナが嘔吐いた。若さとは
「まァファミマになくとも……ローソンとかセブンには」
「セブンイレブンにもサーティーワンにも売ってねえだろ!」
「サ、サーティーワンのサーティーセカンドフレーバーとしてなら……」英語の序数表現は見事に習得しているものの、それ以外については早速暑さで頭がイカれ始めている。
「普通にカップ麺の方じゃないですか?」[訳註:安藤部長の発言]
「「「それだっ!」」」[訳註:明治のエッセルに関しては言わずもがなだが、エースコックの歴代
「名古屋にも何とかラーメンありましたよね」
「台湾しょ、アッチは挽き肉だけど。これが寒ぃ時季とかだったらな……」どれが昼食に選ばれたとしても寿司やうなぎよりは安く付くであろう。「――まァ今ニラレバとかタラレバの話ししてもしゃあないか」
「タラレバのタラはタラコのタラですか?」
「お前は黙ってろい」ここ一週間で身に付いた責任感が、
「ちゃーん」
「姫はアイスなら何味が推し~?」
「え~どれが一番ってことはないですけど……そうですね、
「あちゃ~嘆かわしい、うちの部長姫がそんな歯磨き粉食べる趣味をお持ちだったとは!」
「それミント苦手なバカがバカの一つ覚えで言うヤツ。じゃあお前、イチゴ味の歯磨き使ってる子どもはイチゴ食わねえのかよ」
「えっ、食わんでしょ」
「言い切るなよ」
「あ、そうだチヨちゃん――じゃないサンチョさん」
「はい。言い直さなくて良いです」
「フロントには話しといた?」
「はなし――とは?」
「だからハナが戻ってきたら携帯に電話くれるようにとか、頼んどいたらと思うんだけど」
「あっ――しといた、ら?です」
「どっちだよ」歯切れの悪い返事にミコミコーナが口を挿む。「仮定つうより提案を意味する勧誘表現の《たら》だぞ」
「――しときました」
「いつ?」
「いつ?」一行を引き連れて戻った際には、千代が正面受付と会話を交わしていなかったのも筒抜けである。「――あ」朝方出掛けに言付けたと云ったら、その時点で主人が行方知れずとなっていたことが露見する。やはり嘘などは吐かぬに越したことがないようだ。「――今してきます」
「電話番号分かってんなら電話でよくね?」独り踵を返そうとした従者に言い諭す王女。
「あ、ありますわ」荷物の中を弄ると、昨晩彼女が入手せし館内の食事処をまとめた案内書――若しくは騎士に手渡された覚え書きかも知れぬ――が出てきた。「します――ええっと……ポチッとな、すぐ出てくれっかな?」
「チヨさんには《報・連・相》の概念が足らんのだよ」メガネザルが、城の受付係との
「はい、あっもしもしすみません――」
「よく知ってんなそんなん。ポパイでセーラームーン特集とかやってそう……かな?」ここでいう《ポパイ》とは
「読んだことないですね」
「コスプレするならやっぱレイちゃんなんですか?」[訳註:神社の娘で巫女だから。第十八章で著者も説明を付している]
「猿知恵かよ、短絡的過ぎるぞ」
「いや千年殺し(原註:背後から敵の肛門を指で突き刺す
「セラムンのキャラってたしか中二とかだろ?」電話中の友人にちょっかいを出している少女に対してミコミコーナが苦言を呈した。「お前ら中三なのに足短すぎるよな」
「なんでもアメリカとかでプリキュア放送しないのは、八頭身じゃないと子どもに見えちゃうかららしいですよ」
「姫も結構どうでもいいこと知ってんなあ!」ドニャ・キホーテですら幼少の砌はドラえもんを視聴していたのだから、ドニャ・ドゥルシネーアが《可愛く癒やす》や《船乗り月》を語っても不思議はあるまい。「子どもがケルナグールするのがNGって訳ね。リアルでは人殺しばっかしてる割にフィクションには厳しいよなあの国は」
「セラムンなんてパンチラばっかじゃねえか! プリキュアは健全だぞ」察するにその前身は
「ばっかアレは全国のチビっ子にあんな狂ったミニスカ履いたら丸見えだから気を付けろよっていう情操教育の一環だろいい加減にしろ」おお、子供向け慢動画の
「……ぐぬぬそうだったのか、それならセラムンも健全だ」
「アレ亜美ちゃんまでピアス開けてんの何気にエグいよな」
「それ言ったらちびうさ……」
「ミコさんはどっち世代ですか?」
「いや流石にセラムンの本放送は物心つく前に終了してたと思うけど……」となると御子神は大学の
「プリキュア!」
「「――マーブルスクリュー!」」声を合わせて笑うふたりの王位継承者。
「ミコ姉さんは兎も角部長がキモい会話しとる……」
「いやそこはこの歳で必殺技名憶えてる記憶力を褒めてよ」
「技名どころか決めポーズまで完コピしておられるとは……他にもっと何か得るもんなかったんすかい」
「何度失敗しても諦めない心を悪の組織の皆さんから学びました」
「はは、たしかに。たま~に結構いいとこまで追い詰めんのに結局最後は惜しいとこで逆転負け喫するしな、不憫が過ぎるわ」
「アレはどうあがいても感情移入せざるを得ない」
「いやほんそれ」
「大体プリキュアだって脚くっそ細いじゃんか……」
「やっぱドルシネちゃんはホワイトなの?」
「断然ブラック派ですね」
「うわ意外……ホワイトあの顔でアクションとかエグいしな」
「すごい澄まし顔で超絶技巧みたいな空中技みたいの決めますよね」
「ナメプですわ」
「チヨさーん助けて」
「――じゃあそういうことで、宜しくお願いします。失礼します」折返しの連絡依頼が済んだ従者は電話を切ると、相方を無視して会話に加わった。「私は敵倒した後に動物が毎回うんこするヤツが好きでしたね」
「うんこじゃねえよ! こころの種だよ!」
「きったね~」
「チヨさーん」
遮蔽物が途切れ、信号待ちする少女たちには
「それもうナナちゃんじゃなくて《
「ここらが我慢の限界よってか[訳註:勿論これは直前の脱糞に関する話題にも掛かっていよう]」
「張るってのは引っ叩くってことだと思いますが」実際ドニャ・キホーテはサカモンテシーノスの峠で悪漢のひとりを張り倒している。
「三日月ハゲの黒猫従士じゃ引っ掻くのでせいぜいだろうけど。あの――何だっけ白い、《燃えよ斬鉄剣》は斬り甲斐がありそうだったよね」突くというならまだしも、斬り甲斐云々は明らかな皮肉だ。[訳註:銭湯の番台で騎士が使った言葉は《燃ゆる炎剣》である。第十章参照]
「そいや岡崎の姐さん方には」千代は心的外傷を振り切る為か、単に荒事が安藤さんに露見するのを恐れてか、日傘の話題を継がずに話を戻した。「セーラープルートみたいって言われてましたね」[訳註:これも勘違いで、第十八章で花を
「あんなババアじゃねえだろ!」――というより本人は内心、《
「私小三くらいまでは視てたはずなんすけど、キュアナントカとかほとんど憶えてないんですよね」
「脳が老化してるんだよ」
「あっアレ、黄色いの――キュアレモン?レモネードか、アレだけ五人の中で名前浮いてんなって思ったのは憶えてる」
「はじけるレモンの香りな!」そんな爽やかな
「あとアレだ……ブンビーさん!」
「おっ、流石は《蜂の騎士》の家来!」
「なんで?――あっ、あぶなっ!」
「何?」
――この時、少し離れた場所から女性の金切り声が鳴り響いた。
同じ叫号が、少なく見積もっても三百バーラス[訳註:二・五
しかもそれを感知したのが、我等が
「ん?」先刻ドニャ・キホーテが引っこ抜き損ねた標識の傍らに並びこちらも信号待ちをしていたジョヴァンニが、横断歩道を渡ろうと漸く持ち上げた片足を不意に戻すや微かな驚きの吐息と次いで呟きを漏らした。「
「何ぞ聴こえましたか?」
「いえ、――
「なっ……この川こそカタトゥンボというならば話も通ろうが、それがしの遠い耳にはとんと届きませぬ。それこそ
「いえそこまでは……神、いや単なる耳鳴りかも」紳士は前進を再開し、尚も弁解めいて以下に続けた。「どうにも僕の耳は当てになりませんで」
「バルバラ――
「ヒッポリュテー(原註:《
「何の、アマソナスの女王は種馬に目がないとも。兄こそ御用心召されるがよい」
「アレスが娘の目星はそれこそ屈強な武辺者のみとか」上背はあるようだがどうやらこの色男、この場合幸か不幸か
「蒔く種も仕掛けも当方持ち合わせぬが、挑んできよるなら迎え討つまでじゃて!」
華奢という点では
しかしながら残念なことに、
「然様に急かずとも、蛮族どもの掃討などラ・サンチャが獅子蜂の針に掛かれば掛かっても半刻足らずで事足りるのでは?」
「そうは仰るがセビリアの……野人の強襲に怯え
「それについては……」徒らに戦意を昂揚させてしまった手前、それを無下に挫くのも余りに無粋というものだろう。「便りといえば山猫の――海猫でしたろうかかの鳴り物入りの」
「ふむ、何処ぞで油を売り歩いているものやら」
「¿Vendiendo el bálsamo maravilloso de Fierabrás?」
「...o un barril de aceite de serpiente.」[訳註:「売り歩くとはフィエラブラスが驚異の香油を?」「……或いは一樽の蛇の油か」《蛇の油》とは
「――従士殿に遅参する旨はもう?」
「それについては雁の――否、獅子蜂というからには差し詰め雀の
「潜ませ……まあ
「《Nunca las cartas de Amadís se firman.》[訳註:《アマディスの書いた如何なる書状にも署名は一切為されておらぬ》]」ドニャ・キホーテはそう豪語したが、たしかに騎士がネクロカブリーオの兜に仕込んだ添え文にも差出人の記名が無かったように筆者は記憶している――尤も従士やエル・トボソの姫君が音読しなかっただけかもしれない。
「ガンダリンやサンチョ・パンサその人が雁の――雀の遣いであれば」――受取人とて誰からの便りかを推し量るまでもあるまいが、今回は従者自身が宛先なのである。しかし安全帽は手渡しで贈られた訳だから、千代さんが手紙(と現金)の送り主を見誤ることもなかろう。といっても兜を受け取ってからその中身に気が付くまでに二十時間を要した為、気の毒な従者が一晩無用に気を揉んだことを我々は忘れていない。
「――たまかなる忠臣は雀のお宿でおとなしゅう待機しておるものかと」主人は都合のいい解釈を披瀝したが、本来一般に《
「進めすゝめ、足
「咲く花も鳴く鳥も」
「「――面白き花園や」」
「おっと、止まれとまれ」
「一度に止まれ?」
何の打ち合わせもなしに調和する歌声とは異なり行進停止の足並みが揃わなかったのは、偏にふたりの内の片方しか目的地の外観を見知っていなかったからだが、到着したその場所が紫陽花や蜂鳥の戯れる
恐らく出張中と思しきこの奇矯な会社員の行動原理はある意味狂気の女子高生よりも予測が困難だけれど、彼が余程名古屋の地理に詳しいのでない限り眼前にて命知らずを待ち受ける《
「馬はあちらへ」そう言って手綱を預かると、色事師は向かいの馬駐までイポグリフォを牽いて行った。間もなく戻ってきたことから、これは路上駐輪と思われる。きっと他にも数頭が繋がれていたのだろう。イポグリフォの解放といえばアストルフォの十八番であるものの[訳註:しかもそうするように指示した使徒の名も又ヨハネである]、蛮野の女王が真に馬に自由を与える者だとするとそのお株を奪われてしまうことにもなろう。
「御丁寧に
「閂は抜いてあるような」建物奥に設置された昇降機の扉は当然左右に開くだろうから、閂を掛けたところでその役割は果たせまい。「まあ阿片で骨抜きという線なら」
「それでは干戈を交える甲斐もなしじゃが!」自動扉が開いた。「誰も居らぬ……にしても狭苦しい鬼窟ですな!」
「猫の額には慣れて居なさるものかと――では失礼して露払いをば」そう嘯くと紳士が先立って無人の
「これは畏れ多い!」ドニャ・キホーテも後に続く。「この老兵も、貴公が火焔に捲かれた折には雀の涙を以て加勢せねばなりますまいて!」
「焼け石に雀の涙とは」苦笑するジョヴァンニ。尤も
「やれやれ、兄と連るんでおったら
扉が左右に開いた。
「捨てる神あれば――」
「いらっしゃいませー」
「――尤も、
「琴鳥?」[訳註:スズメ目コトドリ科]
「蜂雀――否、蜂殿。先ずは僕がラ・サンチャの騎士推参の先触れとなりカタリノン――否、
「でしたらこれをお口に」ドニャ・キホーテはラムネの台紙を差し出した。角笛とは行かぬまでも只の口笛よりは口寂しくもなかろう。「それがしばかり頬張り[訳註:
「これはこれは
「蜂鳥が
「
「拾う神より疲労時の紙とは洒落が効いておるけれど、床屋の
「ウリョアからならよもや間に合いますまいが――」ここで執行人といえば当然ドン・ゴンサロの
「
ここは《
実際のところセビーリャ人は夜明けどころか、ドニャ・キホーテが箱の中から首を出し[訳註:この一分前後の間に自動扉が閉まったり花の乗る箱そのものが昇降する音等は聴こえてこなかったことから、騎士自身が《開》を押し続けたか、若しくは
「
「それじゃ
「首は猿、尾っぽは蛇[訳註:鵺のこと。第二十七章の花の発言も参照されたい]と申し上げたきところですが、」それでは
「何と、言葉も解るので?」
「ええ、――挑戦してきたのが凡百
「成程、彼を知り己を知ればという訳か」幾ら野人といえども自分の力量を弁えているのなら、その勇断は評価せねばなるまい。でなければそれは
「天晴なるご料簡、左様然らば……」少女が
「セビリアの?」
「――色違いはこれにて[訳註:著者は《
「おや女の園を前にして、世紀の色好みが裸にもならず逃げの一手とは……」やはりここでもあの指輪が彼の姿を消してくれることはなかったようだ。となると一度餓えたアマゾネスに見付かれば骨の髄までしゃぶり尽くされてしまう。「ヘクトル殿が手も出さず目もくれずの
「Je ne crois ni à ce que je touche ni à ce que je vois...」[訳註:直訳すると「私は触れる物も見える物も信じない」]
「――ドレ?」
「...Je ne crois qu'à ce que je ne vois pas et à ce que je sens.」[訳註:「信じられるのは見えぬ物と感じる物のみ」]
「Très juste!」花は同意を示したが、ともすれば先程我々も目にした伝馬橋での勝利に飽き足らず《
「Juste milieu...お互い虻蜂取らずとならぬよに――」《
「エルミタージュ?……ああ」朝食を摂る前に行く末の
「――くれぐれも宜しくお伝えをば」
「然様に仰るからには、鬚の
「貴女様がカンパネルラでないにせよ[訳註:携帯電話の暗喩であった釣鐘草の各語訳を復習すると、独Glockenblume/西campanilla/伊campanellaである。第二十三章で千代さんをピーターパンに付き添う
「ドン」
「
「Lontano andò…」
「どうぞこちらへー!」
どうやら騎士は女たちの
斯くしてラ・サンチャの精華は
「あら~キレイな髪ですね~でらうらやま」女戦士のひとり――この娘をヒッポリュテーかペンテシレーアと断ずるには些か物腰が柔らか過ぎるのだ――が花の背後に周り、鏡越しに眺めながらその長い黒髪を撫でた。普段なら一刀両断に付して如くはない斯様な無礼を騎士が許したのは、来賓の髪に
「鼠に齧られましてな」
「そんなドラえもんじゃないんだから」
「只切れば宜しい、良しなに」
「只切る? タダでは切りませんよ」マリア[訳註:この時点では先刻ジョヴァンニの発した《アベ・マリーナ》からの連想に過ぎないけれど、実際にはもう少し複雑な事情があるようなので後述する。表記は西語風のMaríaではなくMariaだが
「陣払い?」
「どうどう」立ち上がらんとした騎士の両肩を押さえ付けるマリア。こちらも腕力には覚えありということか。大した歓待振りである!「大丈夫大丈夫。じゃあえっと、切るのはこんな感じで?」
「Más arriba.」
「まじありーば? なし寄りのありってこと?」
「もっと上ということですじゃ」
「上?……このくらい?」
「もっと」
「……ここ?」
「もっと」
「どこ?」
「……ここ」
「そこ……マジで云ってます?」
「
「全部イッちゃっていいの? どうせなら名古屋巻きにしません?」
「
「めっさもったいない……かしこまりました。では一度お流ししますのでこちらの方にどうぞ~」マリアは騎士の座る椅子を回転させて起立を促す。「――なんかこんな映画ありませんでしたっけ、でら昔ので?」
「めっさ――
「何? どしました?」
「そうか、『老婆の休日』とはこれか」[訳註:これは第十八章で千代がパロミに向け発したセリフだが、花は老馬または驢馬と受け取った可能性も捨て切れない]
「そうそうローバローバ!」マリアは両手を打ち合わせてから、それを今度はドニャ・キホーテを立たせるのに使用した。[訳註:二十秒前には立たせない為に使っていたので]「いやでらローマでしょ。はいどうぞ」
「Grazie, madonna Maria Delani.」[訳註:則ち映画『ローマの休日』でアン王女の髪を切る美容師の名こそマリオ・デラーニなのである]
「ユーウェルカム」
騎士はそれ以上女戦士の手を煩わせることなく素直に
「じゃあヘップバーンみたくしちゃいます? 流石に切り過ぎか」出し抜けに蓮口からの噴湯が始まる。「お湯熱かったら云ってくださいねー」
「どれどれ……シャルロッテの機嫌はどうじゃろうな――」
ラ・サンチャの蜂が震わせる微かな羽音は、
勘の良い読者は橋の上から既にお気付きだろうし、然程察しの宜しくない方でも間もなく勘付かれたことと拝察するが、ご承知の通り阿僧祇花が誘い込まれたのは
ことによるとドン・ジョヴァンニがこの場を逐電したのは、優秀な子種を求めて男を漁る浅ましき女傑たちから身を守る為ではなく、
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