第29章 泡沫に消え去りしボルランドの冒険が、潤滑なるもうひとつの卵と共に語られる

LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA

清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ

Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.


POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM

                    A Prof. Lilavach

Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.

Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).



第二十九章

泡沫に消え去りしボルランドの冒険が、潤滑なるもうひとつの卵と共に語られる

Capítulo XXIX.

Donde se cuenta la aventura de Borlando Borrado en borbotones, con otro grasoso huevo.


本稿に於いて関西弁アセント・デル・オエーステは一律カタルーニャ語カタラーンで代用しているが――東西が転倒していることについてはご容赦願いたい[訳註:カタルーニャ州はイベリア半島の北東部に位置し、フランス国境と地中海に面している。但し標準イスパニアカスティーリャ語とカタルーニャ語は同じラティン語を祖とする歴とした別言語であり、日本語に於ける近畿方言のような一地方の俚言――少なくとも江戸開城で東京へと遷都されるまでは上方語こそが国の標準語だったと考える限り、この物言いが多分に乱雑である点は謹んで認めざるを得ないものの――ではない。半島内陸部出身の著者が実際どの程度精確に翻訳しているかについては不明]――、音声的には聾である読者諸兄の多くがそれが故にある種の戦慄を覚えたろうことは想像に難くない。つまり予期せぬ「見つけたでえアト・バッチ・トルバー!」が――吾等が主人公の片割れが、ニコと上った十三階にて予期せぬ心的外傷の惹起を経験したように――、橋脚を齧り伝馬橋を落とさんとするあの一対の吸血鼠ウン・パル・デ・バンピラータスの不吉な蠢動を皆さんの脳裡へと浮かばしめた筈なのだ。[訳註:関西人男性の声であれば、直近のルッジェーロを連想する方がより自然ではないか?]

 だがご安心願おう、これは稀有なる不幸としてテノーリオ同士の鉢合わせを意味した訳ではなかったのである。というのも――百歩譲ってサカモンテシーノスで主従が出会した醜悪なふたりが、その卑賤な嗅覚を以て怨敵の芳香を嗅ぎ出しこの大名古屋を徘徊していたにせよ――従者カタリノーンを伴った紳士のフアンと朋輩マルティーネスを引き連れた似ても似つかぬ悪漢のテノーリオ・エルナンデスが偶さか顔を合わせることなど、仮令この小説が諸問題を避ける為の便宜上《真実の中の如何なる相似も純然たる偶然ですクアルキエール・パレシード・エン・ラ・ベルダッ・エス・メーラ・コインシデンシア》という標語[訳註:非現実を扱った作品で提示される《現実との如何なる相似もクアルキエール・パレシード・コン・ラ・レアリダッ~》を捩ったものだが、ここでの相似とは現実と虚構間ではなく作品内での人物名の重複を示す。同時にこの文句は、『ドニャ・キホーテ』が――少なくともアベンダーニョが手にした音源の時点では――作家の創作ではなく史実であることを念押しする役割を担っている]を掲げていたにしても――否、であれば尚更――展開をより劇的に演出する手段として実際に起きた出来事を無用に脚色する気など毛頭ないことについては既に述べた通り。尤も洞穴で妖精猫ケット・シーの従士を毛布上げブランケット・トッスィングし損ねた[訳註:西manteoとは大きな布の縁を複数人で持ち、その中央に人を乗せたまま勢いよく外側に引っ張ることで勢いよく跳ね上げたり弾ませたりする遊びで、《中の人》の同意を得ぬまま強引に実行した場合は勿論ある種の拷問≒イジメとなる。これを英語のblanket tossingで綴ることにより、蘇格蘭スコットランド(羅Alba)のゲール語であるCat-sìthの発音とも調子を合わせたもの]二人組がもしこの地に現れたとしたら、剣を失った上に藁人形ペレーレより軽いドニャ・キホーテなど月の海まで飛ばされてしまうに違いない。

 種明かしをすればこの関西弁という地方語は、芸人コメディアンテスなどの口を借り連日連夜遠隔受像機等を介して全国へと散布されているので、その精度にさえ耳を塞ぐならほぼ国民全員が真似することも可能なのだ。声を張り上げて用いれば、その響きは(関東の言葉よりも)より威嚇的な効果を発するであろう……(その証拠に「見つけたでえ!」でまんまと機先を制したと考えた男はそれで一応の満足を得たか、二言目からは標準語レングア・エスターンダルに切り替えている。昨夜出会い頭には標準語で話そうと努めていたブラダマンテとルッジェーロが、今朝再会した際には――恐らく花に気を許した為に――一様に方言で通していたのとは、謂わば正反対の現象だ)[訳註:訳者は可能な限り音源の通り書き出す所存故捕捉するが、実際にはこの先もところどころ関西弁らしき言葉遣いが散見することとなろう。以降のカタルーニャ語への翻訳が面倒になった為に以上のような註釈を挿んだのかも知れない]

 といっても日本の首都は建国より長らく奈良や京都に置かれていた訳で、日本語の元祖が関西弁であることを鑑みれば、我々がチリのサンティアゴや南米のパリを旅して思わず耳を塞ぎたくなるのと彼等日本の歴史的背景を同一に捉えることも出来まい。古来より使われる《上方ラド・スペリオール》とは関西を表す言葉だし、気安く《近畿》などと言って馬鹿には出来ないのである。[訳註:ここでも第十六章同様Kinkyの表記が当てられている。そもそも《近畿/畿内》とは首都圏を意味し、どちらかといえば江戸から見た関所の西側を示す《関西》の方が幾分見下した表現となろう。尚個性的な変体イスパニア語を話すことで有名なチリやアルヘンティーナも、大航海時代に先住民を母国語で《教化した》イスパニアからすれば大西洋を挿んだ西の辺境と言えなくもない]

 それでも《聖女サンタバルバラ・デ・ニコメディアに思いを馳せるのは雷が鳴った時だけクアンド・トゥルエーナ》という諺[訳註:殉教者バルバラを処刑した異教徒の父が直後に稲妻に打たれ絶命したことから、雷は彼女の象徴のひとつとされる]を肝に銘じ、煙草塩基中毒で偽善者な畜生どもサントゥローネス・バルバローテス・デ・ニコティニースモ[訳註:第十六章の何処を読み返しても本坂峠の二人組が喫煙している場面は見当たらない。著者の記憶の中で彼等と岡崎のオカマ達が混同されたのかもしれない]が犯した及び今後犯すであろう凶状を思い起こす為にも、何かが呪具に変じた瞬間クアンド・トゥルエーカ・アルゴ・エン・マーヒア[訳註:素直に受け止めれば檸檬糖菓子が魔法の指輪に変わったことを示しているようだが、雷鳴を引き合いに出したのを鑑みれば、花では音が出なかったそれをジョヴァンニが見事な笛に変化せしめた事実を指しているとも取れる]を行く末にて見逃さぬよう我等もより一層精進すべきであろう。


クチャクチャクチャニャク・ニャク・ニャク

「――目鼻に加え耳の穴も掻っぽじり万難排して備えるべきに御座ろう」

「穴といえばシェーンブルンの猫であれば穴掘りが得手とも――ともすれば?」この紳士、昨晩一度耳にしただけの《ヴィーンの玉泉エルモーサ・フエンテ・エン・ビエーナ》がいまだに尾を引いているようだ。[訳註:第二十三章で花が口にした言葉だが、ジョヴァンニは同じ章末にも《シェーンブルンの雨傘》なる駄洒落を引き合いに出している]

 クチャクチャクチャニャク・ニャク・ニャク

「エテ公ならば木登りでしょうが――」

「おい」

「涼を求めんと欲すれども今更地下に戻ることはありますまい。浮世に彫師ほりし摺師すりしは付き物とはいえ、掘り方刷り方というのは終ぞ聴いた試しがありませぬ」何だかよく分からない。尤もミーアキャットスリカータといえばシェーンブルン動物園の人気者だ。「但しアレを我が物ミーアと呼ぶのは些か慎みレカートに欠けるかと」[訳註:英meerkatの語源は蘭語で猿の一種を指す《グエノンミアカット》だが、更に辿れば矢張り《海(又は湖)ミーア》と《カット》に行き着くと謂う。となると学名にあるスリカタのカタも当然のこと《猫》だろうと判断できる一方、スリの方はどうにも判然としない。そうはいっても所詮アフリカの動物であるから案外単純に《南のスリ~》かも知れぬし、西亜細亜の叙利亜スィーリアの転化とする説も存在する。因みに当地の独語ではErdmännchenと呼ばれ、これは《大地エアト》と《小人メンヒェン》に分解できよう。矢張り猿と相通じるものを感じるけれど、元は地精ノーム小鬼ドワーフを意味したとされる]

 クチャクチャクチャニャク・ニャク・ニャク

「おい」

「はい」ドニャ・キホーテが漸くその面を替え馬橋の袂へと向けて答えた。

「無視しないでくれよ」クチャクチャクチャニャク・ニャク・ニャク

「お知り合いで?」まさか自分たちに話し掛けているとは思いも寄らなかったドン・ジョヴァンニが意外そうな声を上げる。

「いえ、てっきりけいの御同僚かと」そういえばこの会社員には、従者レポレッロの他にも幾人か連れが居た筈だった。

「そっちは俺の顔なんか知らんだろ」不敵な――そして卑屈な笑みを湛える謎の男は以下に続けた。「知ってるわけがない……知らんままでいいよ。呑気なもんやな」

 セビーリャの紳士カバジェーロ・デ・セビージャラ・サンチャの騎士カバジェーラ・デ・ラ・サンチャは今一度互いに顔を見合わせる。

「……こっちゃあお前らのせいで別れる別れねえの瀬戸際だっつうのに」

「ははあん」どうやら花には得心がいった様子。「視ての通りかヤ・ベオ

「騎士殿の心、笑顔[訳註:心得顔?]の如くならずば――」傍らで浮かべられた冷笑に気付いたジョヴァンニが釈明する。「当方ヅェルリーナなる床入り前の嫁が君にはとんと憶えなく……ティスベア然りシャルロット然り」[訳註:何れも婚約者がありながら各国各年代に書かれた《ドン・フアン》に誘惑されてしまう田舎娘の名]

「それがしには多少の憶えが」それはあるだろう。[訳註:勿論千代の愛驢に就いては言わずもがなだが、《嫁が君》という日本語はネズミを示す言葉でもあることから、多少の中に本坂峠の吸血鼠たちも含まれていることが窺える]

「おいって!」止まる気配なく並べ立てられる御託ペロラータに業を煮やした好奇心旺盛なクリオーソオルランド[訳註:無論ふたりの益体なき会話内容には一片の関心もなかったろうが、《狂へるフリオーソ》との語呂合わせの為に皮肉めいた表現となっている]により少女の細腕を掴もうと伸ばされた手は、アストルフォの――恐らく口中の指輪の効力により――見えざる魔法の長槍ランサ・マーヒカ・インビスィーブレによって払い除けられた!「いてっ」

「失敬」

「はっ……今日は、片手に花なのな――うわすげ、モデルか何かかよ……」成る程彼の論点も強ち的外れではなかったようで、慥かに標的の両手が塞がっていたらその五指をむざむざと打ち据えられることもなかったであろう。クチャクチャクチャニャク・ニャク・ニャク。「って若っけえな、犯罪だぞ!」

「お戯れを」この紛れもなき宮騎士パラディーン・パラディーノが一笑に付したのは、己が未成年者略取セクエーストロ・デ・メノーレスの罪状に関してではなく知りたがりクリオーソが発した――つい今し方共に楽園パライーソ[訳註:当然ナナちゃんの立つ駅前の拱廊アルカーディアを指す。第二十七章参照]から帰還せし同士――ドニャ・キホーテの呼称についてであったようだ。「ここにおわすは斯くも名高き《紫陽花の騎士》、紛う方なきラ・サンチャの精華なれど、恋に狂いしフロリパさながらの可憐さに反しその苛烈なること兄たる凶腕フィエラブラスが如しとも」

「¡Bravo, bravo!...el brazo bravo.」機先を制し核心を突く他己紹介オトロプレセンタシオーン[訳註:《自己紹介アウトプレセンタシオーン》を捩った著者の造語であろう。因みに《凶暴な腕ブラーソ・ブラーボ》とはFierrabras(仏fier-à-bras)の西語訳]をしてくれた友人に喝采を惜しまぬ、義理堅いラ・サンチャの騎士。何せ無用に虚勢ブラバータを張る手間を省いてくれたのだ。「お望みとあらば昏き魔法使いブルホ・ブルーノも一捻りですじゃて」

「風呂が立派って……一緒に泊まってんのかお前!」

「若しくは麗しのフロルデリを賭け僕と一戦交えたフロリマールの勇壮さを思い浮かべていただければ」おやおやバジャ・バジャ、カール大帝は四方八方を花畑で囲まれていたとみえる[訳註:Floripas/Florismart/Flordelisと何れも名前の頭にフロールが付いている為]。シャルロットとの相性とて存外主人の方が好かったとも考え得るし、そうなれば千代などは両者を引き合わせる役割だけの脇役に過ぎぬ。「――と申しますのもかの長槍とリナルドの鹿毛なくば、無残に転げ落ち尻で大地に押し花していたのはこのアストルフォの方だったという次第で」

「無口とか寡黙とか言ってたはずだがえっ、ひょっとして……ほんとに人違いなんか?」

「ブルフィンチというからにはその辺りの描写は蓋し彼の創作でしょう[訳註:十九世紀の米国人作家で『シャルルマーニュ伝説』の著者トマス・ブルフィンチの姓は直訳すればたしかにウソだが、小鳥の方の《鷽》であるしそもそもLがひとつ少ない]。並びに鹿毛バヤールというからにはバヤのなる前に花を落とそうというしどけない言葉遊びだったのかも」一騎討ちに勝利したアストルフォの謙遜にそのまま乗って話を進めるのを鑑みれば、花は(オルランドの盟友でもあった)フロリマールに肩入れでもしたか、或いは自分を重ね合わせて悦に入っているのかも知れない。とはいえ他ならぬ愛しき百合の花フロール・デ・リス[訳註:著者は明らかに安藤部長を念頭に置いているけれど、前章での彼女は薔薇の表象として記されている]を騎士同士の果し合いの報賞として差し出すなどという無礼を、果たして天下のドニャ・キホーテが許すだろうか? 矢張り騎士の推測通り、両者の邂逅自体が作家の想像力の賜物だったのだろう。

「アストラフォとはウシトラの仲だったという線も」丑寅について読者諸兄には狐火騒動[訳註:この語の解説が為されたのは正確には掛川から浜松に至る道中に於いてである。第十三章を参照のこと。繰り返しとなるが作家ブルフィンチの綴りはbullではなくbulfinch。元となった鳥のbullfinchの由来は、頭部の形状を牛に模したことからと謂う]を思い出していただきたい。何のことはない、年や時刻・方角を示す十二支ドセ・アニマーレスに於いて隣同士であるならば、牛と虎はきっと昵懇の仲だろうという稚気に富んだ戯れ言である。

「ふむ、セビリア殿ならばトルデシリャスの女王陛下とも馬が合うやもしれませぬな」花の騎士フロルデリマールは南東の方角に余所見しながら以下に付け加えた。「尤もドニャ・フアナが索居さっきょなさっておられるのは辰巳の御殿なれど」


「いや待て、やっぱお前じゃん!」携帯を弄っていた七面倒なリオーソオルランドがその液晶画面を本人に見せ付けるなりそう叫んだ。「これ全部取っ払ったら同一人物だろこれ?」

「ホップラ」アストラフォ[訳註:元のAstolfoに対し、Astrafoという綴りが齎す語感からは自ずとアストロとの関連付けが想起される]は手を翳すと表示中の写真を少女の視界から遮った。嫉妬に狂うフリオーソ・デ・セーロス目の前の男の、その恋人との逢瀬を盗み撮りでもされたのか……成る程それならば気不味いのも頷けよう。

「手ぇどけろや……たく何でこんな、顔だけで後は電波の変人を世の女どもが崇めんのか、理解に苦しむわ」

「あがめ――アガメノン?」耳聡いドニャ・キホーテの逞しい想像力がまたぞろムクムクと鎌首をもたげたようである!「貴公、よもやミュケーナイの――?」

「いえ滅相も……僕は独り身ですし、」咄嗟に弁解する電子の変人エクセーントリコ・デ・エレクトローン。「琥珀の瞳や一万ボルトのまなこ持つ父想いの愛娘にも未だ恵まれず」[訳註:ラティン語で《電気的》《琥珀の》等の意味を持つēlectricusという単語は、アガメムノンの娘エレクトラの名と同じく古希語の《輝ける太陽エレクトール》から派生したとされる]

「――風呂上がりには努努ゆめゆめ用心召されよ」端から偽物エル・ディスフラサード[訳註:《オルランドの》という意味]が差し出した証拠物件には目もくれなかったラ・サンチャの騎士ではあったが、今度は相方のセビーリャ人からも目を逸らすや深い嘆息を漏らした。「¡Ay, pobrecita Casandra!, ¡y maldito su hermano!」[訳註:「嗚呼、哀れなるカサンドラ! して其の兄は呪われよ!」トロイヤの王女カッサンドラはギリシャ軍総大将アガメムノンに戦利品として連れ去られ、到着したその夜に将軍の妻により入浴後の夫共々殺害される。英雄ヘクトルといえば王女の一番上の兄だが、ドン・フアンには《セビーリャのヘクトル》なる二つ名があった。これについては間もなく本編でも引用される]

「いえですから、カバリェーラ……」

「……分かったからもう風呂の話はやめえや、真っ昼間からこんなとこで何なんだよ」間男を糾弾せんと詰め寄っていた筈の寝取られしコルヌードオルランドは意味不明の会話に折角生やしたイカした角クエールノス・コホヌードスも折れてしまったのか[訳註:西cornudoにも《角の生えた》という意味がある。第二十七章内訳註にあるcabrónの解説を今一度参照されたい]、今度は若き乙女が起こさんとしている過ちを未然に防ぐ為、諸刃の舌鋒レングア・デ・ドーブレ・フィーロ[訳註:日本語や英語と同様の《二枚舌ドーブレ・レングア》なる慣用句があるのかは不明だが、多分複合的な意味合いであろう]が矛先を変えて以下に続けた。「あのさ、読モだかカリスマだか知らんすけどアンタも未来ある身でしょ? こんなんに引っ掛かってたら一生台無しにするよ、早く別れた方がいいですよ」

「アストルフォ殿、黄金の槍を此れに」遂にドニャ・キホーテが闘志を新たにするや、馬上から傍らのパラディンに掌を差し出して武器を求めた。「――セニョール?」

「カバリェーラ」

ニキビアクネ面の悪童が、アテナの加護受けし荒武者掴まえ蜘蛛女アラクネ呼ばわりとは[訳註:読モと毒蜘蛛を誤聞したか、或いは戦端を開く為の言い掛かりであろう]――どうやらこの旦那には蜘蛛アラーニャ偉業アサーニャの別も満足に付けられぬようですじゃ」

「な、んで怒ってんの?」老婆心から物した忠告に対する美少女の予想外の反応にたじろぐオルランド。からかわれているセ・エスタッ・ブルランド――? 先程まで取っちめようとしていた色事師ブルラドール本人に目配せして助けを求める始末だ。

「しかしドニャ・キホーテ――」

「然様に毒牙を御所望ならば、お望み通り目に物御覧に入れましょうぞ」騎士が相手を威嚇せんとして、見えぬ長物を剣舞よろしく激しく振り回す。それから改めてドン・ジョヴァンニの眼前へと片手を向けつつ以下に続けた。「尤も貴公が備えるべきは蜘蛛の一咬みならぬ蜂の一突き、即時型過敏反応アナフィラキシアに落ちる間もなく満身穴だらけにしてくれるから覚悟召されい」

水蛇ヒュドラ蹂躙者ピソテアドーラよ――」

「ささ、早う」

「紫陽花の騎士よ、アルガリアの槍は既に荒ぶる恋人ブラダマンテの手に渡っておりますれば」[訳註:《荒々しいブラーダ恋人アマンテ》]

「何ですって?」

「今この時も、それこそ縒り糸ブラマンテで巻かれたかの如くその掌中に固く握られておる筈」

「従姉妹殿の手に――?」騎士は首を傾げた。先刻共に地下を探検した彼女の手にそのような物騒な代物があれば気付かぬ筈はないし、その野蛮な恋人ブルタマンテ[訳註:自分の手で救出したばかりの裸の姫アンジェリカに欲情し、早速手を出そうとしたルッジェーロを揶揄した表現。前章の訳註を参照のこと]とて不手際の度に尻を蹴上げられるだけでは済まなかったであろう。「……妙ですな」

 無論、腹熟しの散歩が目的であれば――花がイポグリフォを、千代がシャルロットを馬駐に繋いで出掛けたように――部屋に置いて外出したと考えても何ら不思議はない。邪魔なだけだし無用の長物である。うっかり携帯したまま出歩いてしまった新品の兜を従士が扱いあぐねていることは記憶に新しい。

「第一常勝のブランディマルテよ、歩兵かちいくさ相手ではあの長物も用を成さぬかと」[訳註:アストルフォが一時所有した槍にはそれに触れた如何なる騎士をも落馬させる魔法が掛けられていた。尚、Brandimarteは仏叙事詩やブルフィンチの著作でのFlorismartに当たるサラセノ人騎士。女騎士ブラダマンテと並ぶとややこしいが《欠片ブラーノ軍神のディマルテ》か]

「ならばこの御仁にレイナルドのバヤルドなりオルランドが黄金の手綱、若しくは眠らずの悍馬なりを用立ててはくれまいか?」

「ちょっと、ねえ」

「ヴェリャンティーノもブリリャドーロも僕の自由には……エリヤの馬車でもあればこの方の正気を取り戻しに月まで赴くに吝かではありませなんだが」アストルフォが弁明せずとも、そもそもこの場で馬に跨っているのは他ならぬブランディマルタひとりなのであった。この一介の会社員とその同僚が昨夜名古屋駅に降り立ってから利用した交通機関といえば、せいぜい地下鉄メートロ旅客車タークスィ止まりであろう。

「正気って何だよ、何でお前らに正気を疑われてんの俺?」

「少し黙っておれ」騎士は口を挿んだ男を制止しつつも以下に続けた。「されどこのパラディン気触れの申すことにも一理あって、馬が足りずにむざむざと勝機を逸するなどパ・ダルムの名折れですぞ」

「うむ」

「それがしは此れなる諸足もろあしの騎士を、戦わずして向こう岸へと渡らせるつもりなど毛頭ござらんし、仮令此奴の手にドゥリンダーナが把持され、その尻にバヤールが敷かれていようとも敢然と立ち向かい、見事打ち勝ってみせることを吾が想い姫の芳名に懸けて此処に誓うものとする」いつになく力説するドニャ・キホーテ。「敗れたとあれば爾後、甘み姫ドゥルシネアの名がラ・サンチャの自棄っ蜂の耳にのみ企み姫ドロシネアないし痛み姫ドロロシネーアと響くことになろうとも厭わぬ」[訳註:西doloso《故意の、詐欺による》/doloroso《(心身に)痛みを与える》]

「……それほどまでに?」

「はい――ややっ、ドゥリンダーナといえば兄も《セビリアのヘクトルエクトル・デ・セビーリャ》を名乗るからには一振りお持ちなのではありませぬか?」そう何本も予備のある聖剣もあるまいから、もし彼が一振り持っていればサカモンテシーノスで折れた名剣は偽物だったことになる。「ドゥランダルテと謂うからにはそれなりに硬いドゥーロでしょうし、そちらの対戦相手コントリンカンテとて獲物に不足ない筈……数分後に《後悔する者エル・コントリート》と呼ばわる結果になったにせよ、な」

「……宿に戻れば或いは。然程に硬いドゥーロかは別として」ヘクトルは何かを頭に思い浮かべたようだったが、それがオルランドの金剛石の肌ピエール・コモ・ディアマンテでなくとも到底突き通せぬ類の脆き剣であることは容易に想像できた。「しかしながらオルランド自らデュランダルを以て盟友ブランディマルテの身を……」[訳註:アリオストの『狂えるオルランド』の中でバヤールを駆りドゥリンダーナを振るってブランディマルテを斬り殺したのは、アラブ民族を従えたセリカーナ――但し《セーリカ》[訳註:古希σηρῐκᾰ́ < σηρικός《絹のセーリコース》< σήρ《セール》。西sirgo《撚糸》の語源]といえば古代ギリシャでは東亜細亜(取り分け中土の王朝)を指した言葉――の王グラダッソなるサラセノ人である]

「構わぬ」眼前のオルランドは偽物故、両者の間に気を使う謂れはないのだ。「そら、今から燃え盛る四頭立てを預言者エリーアス太陽神エーリオスから拝借してくるのは大儀なれど、其処いらの市場バザールか何かでバヤールの一頭や二頭調達するくらいなら昼飯前の訳無きことでは?」

「否、釈迦に説法騎士に示教とは思いますが、」無理難題を押し付けてくる少女を諌めるべく、嘗てはイポグリフォとバヤルドの双方を乗り熟した(そしてその何れをも手放してしまったとされる)アストルフォは核心を突く返答を以て彼女の要望に応えた。「バヤールを御すること叶うはアマディスの――」

「――アマディス・デ・ガウラが血族のみ」そう引き取るや言葉を失う蜂の騎士。目の前の貧相な闖入者にその素養があるとはお世辞にも思えぬ。

「なかんずくその気血最も濃き者と思しきラ・サンチャの騎士の、その御居処に敷かれし汗血こそが空にあってはリフェオスの頂翔けるヒッポグリフにして――」セビーリャの紳士が花の尻と馬の鞍を指し示して自らの見解を述べた。「大地に於いては奇譚詩バラードに詠われるバヤルドその馬なのではと」

「馬車の代りに乗らされるのが口車とあっては些か面目も立たぬが」それでもドニャ・キホーテは満更でもない口振りである。何せ己が敬愛するアマディスの後裔と判明したのだから悪い気はするまい。「……口惜しいとはいえ然も言われたり。異論の挿む余地が見付からぬ、御説いちいち御尤もじゃ。されどセビリヤの、戦士がふたりに馬一頭では全体どうしろと言うのです?」

「ドン・スエロとて単騎で橋と矜持を守り抜いた訳では」

「ちょっといいかい」

「今少し――ここは僕にお任せを」

「しかし」

かち同士であれば条件も五分と五分、双子の弟妹が予言に懸けて我が友ドニャ・キホーテには三百条目の槍先をお約束できますかと」スエロ・デ・キニョネスでさえひと月で圧し折った槍の数は百六十六本止まりだったというのに(それも十人掛かりである)、こちらも随分と鯖を読んだものである!――いや、というよりふたりの戦士に馬一頭ならまだマシな方で、ここに佇む三者の誰一人として武器のひとつも持っていないのに奪い去る長槍ランサ天秤バランサ[訳註:槍と並列させるなら天秤棒バランシーンと書くべきところ]もなかろうに!

「そうはおっしゃるが――」

「ちょっと」

「時には連れ人に花を持たせるのも」

「……相分かった」押し切られたレ・オブリガーロン・ア・アセプタール。「であるならそれがしは両者の立会人パドリーナを片手ずつ、一手に引き受けるといたしましょう」

「然り乍ら怯懦カゲとは無縁の鹿毛とはいえども、バヤールと川では如何にも因縁尽くの取り合わせ」

「な……兄らを置いて早早とこの場を辞するべきとな?」

「徒に留め置く法はあらばや……るど」

 宮騎士ルノー・ド・モントーバン[訳註:第十五章で花が言及している通り、欧州を侵略したモーロ人王マンブリーノを破りその兜を奪取した騎士。現在のフランシアとベルヒカに跨るアルデンヌ地方はエイモン公の子息であるが、伊語ではリナルド・ディ・モンタルバーノ、西語ではレイナルド・デ・モンタルバーンと綴られる]から愛馬を取り上げたシャルルマーニュは、フランスから流れるエスコー川(つまりスヘルデ川)がベルガエ北部のデンデル川と合流する辺りでその首に巨石を括り付け水没させたと言い伝えられている。[訳註:架空の馬なので、登場する作品に拠っては溺死したとされる一方、フランス叙事詩などでは蹄で石を砕き川から這い上がるや森へと逃げ果せたとも記される]


賢きアストゥートアストルフォがバヤルド――則ちイポグリフォ――の身を案じる気遣いに感じ入らぬではなかったものの、ドニャ・キホーテからすれば道中の艱難辛苦を共に耐え忍んだ二頭の乗用馬カバージョス・デ・モンタールに対するあらぬ誤解に承服しかねるところがあるのも又事実であった。

カール大帝カルロマーニョの時世ならいざ知らず、猫の従士を背負い来たカーラ女帝カルラマーニャとこのバヤルドは竹馬之友どころか一対の騎竹そのもの」恋焦がれて入水心中ドーブレ・スイシーディオ・ポル・アモール・エン・エル・アーグアするというなら兎も角、シャルロットが――その強大な魔力を恐れて、若しくはこれまでに挙げた勲功に嫉妬して――相棒を堀川に突き落とすなどとは天地が引っ繰り返ってもあり得ぬ事態である。闖入者に背を向ける形で両者の合間に蜂の騎士が割って入る。「御心配には及びま――」

「鬼畜はこいつの方なんだって!」長らく放置されていたボルランド[訳註:西borlaとは衣装や窓掛け等に付ける房飾りポンポーンのこと。添え物程度の存在感という意味だろう]が今一度ふたりの掛け合いを遮った――その瞬間、「あっ……あやっ、べ――ごめんわざとじゃ」

「業物とは呼べぬがこういうのはどうじゃ?」長い髪を翻してシャルルの筆頭騎士と対面するドニャ・キホーテ。

「やっ、カバリェーラ――」何かを目に留めたジョヴァンニが声を掛けるが――

「あいや暫く、暫し待たれよセビリヤの――」妙案に至った花の騎士フロリマールには嗅ぐ鼻オレールこそあれ聞く耳オイールの方は持たぬとみえ、セビーリャ人の建議レプレセンタシオーンは素気なく後回しとされた。「御仁、先ずはあちらを御覧じろ……」

「えっそれより髪に――何すか?」花の示した指先を見遣るボルランド。

「而してこちらにも揃いの物が突き立っておろう。草木そうもく国土こくど悉皆しっかい成仏じょうぶつとは申せど、此度に限り御容赦をば願わん」

「ん……信号?」目を眇めて再度、蜘蛛女アラクネというよりは火縄銃の天使アーンヘル・アルカブセーロよろしく少女が狙いを付けたその先を見極めんと努める馬なしの騎士は、橋の両辺に認められる共通点に何とか辿り着いたようだった。「ああ電柱……違う標識か」

「ふっ、互いに搗ち合わせたとて拍子木のよなが響くものかどうかは知らぬがな」練習用の木製槍同士であれば拍子木バダーホス・デ・マデーラの搗ち合うような音が鳴るかもしれない。だが実際に響くのはせいぜい拍子鉄ロス・デ・メタールが如き音色であろう。「それがしは拘らぬから、貴丈きじょうが好きな方を選ぶと良い」[訳註:一度は立会人になると云いながら、結局自分が戦う方向に?]

「選ぶ?……いや別に揃っちゃないでしょ。こっちのは一通だけどあっちは通行止め――」我らが《名誉の歩みパッソ・オンローソ》の上、騎士同士が対峙するその直ぐ傍らを、構わず一台の自動車が通過していった。数刻の後にここが《恐怖の道パソ・オロローソ》と呼ばれる橋になろうとは露知らず!「駐禁か」[訳註:橋の上からは、その片側の袂に立つ円形の交通標識の裏側だけが見えていたのだと想像できる。因みに隧道トゥネール内や橋の上は基本的に駐車禁止]

「忠勤の槍とはよくぞ申した!」蜂の騎士が羽を震わせ失笑を漏らす。アリオストらの語るオルランドがかなり自由気ままに振る舞っていたことを鑑みれば、フランク王への忠義に篤いこの男は成る程偽物に相違ない。「ならば此のラ・サンチャの一本槍はあちらを拝借するといたそう。騎士道とは是則ち随神かんながらの道――ひと度拍車を掛けたが最後、開き手綱で蹄を返すまでもなく一撃で仕留めてこその獅子蜂が誉れじゃ」[訳註:獅子蜂とはスズメバチの異名だが、ここでは第九章でも触れられた獅子と蜂の守護女神シベーレスの加護下にあることを仄めかした表現だろう。馬上槍試合は三本勝負であることが多いが、彼女は最初の一撃で勝負を決めるだけでなくたった一突きで対戦相手を再起不能にしてしまう故、方向転換して待つ必要などない――つまり《一方通行の槍》で十全という理屈である]

「翻訳してくれ」

「ですが大地母神マテル・マグナの騎士よ、《馬上試合トルネオ》というからには引き返す事態トルナーダも念頭に留めるべきなのでは?」[訳註:一騎討ちジョストに於いても初撃で双方とも落馬せず決着が付かなかった場合は、互いに入れ替わった位置から馬を返し第二撃に備えるのが通例の作法]

「……俺んちはダイソンだが」この掛け合いは完全なる不協和音ディソナンシアである!

「然りとてドニャ・竜巻トルナードに二度までも蹂躙されては橋桁が保ちますまいて!」慥かに小さな蜂でも千なり万なり群がったとしたら、それはもう竜巻と同等の風威を以て伝馬橋を落とすであろう。しかし今の蜂の騎士には従士ひとり居らぬのだから、それをこうも向こう様に嘯くのでは純然たる空威張りに過ぎぬ。「兄がほんの一時の間ドゥランテ・ウン・ティエンポですらドゥランダルテを貸し渋るのであれば此れより他に手がないのです。又、馬についても当てがある」

「当て馬と?」

「否、幸い橋畔きょうはんに一頭遊んでおるではありませぬか……丁度ラ・サンチャの兎馬と同じような背格好の」ママチャリが一台放置されているようである。しかし乗り捨てたのでもなければ鍵くらいは掛かっているのではないか?「馬体は高欄の親柱に隠れていますが、ほれ耳だけ覗いておりますでしょう?」

「もしかしてチャリの話してる?」

「汝にはこのバヤールをお貸ししよう」花は長い脚を靭やかに振り上げるや、イポグリフォの鞍から軽い尻を浮かせ下馬した。「後に馬の差で負けたなどと吹聴されたらかなわぬ」

「馬って何だ」

人道的なケ・ウマーノ

「言わずとも知れたこと、ドン・アストルフォは此処な禿頭モロンド――失礼、筆頭モルランド殿[訳註:西morraには頭頂部の意味があるが、単なる語呂合わせかもしれない]の、吾が愛馬を尻に敷くに足る由縁なきを踏まえ、ドニャ・キホーテが恩着せがましくも姑息な手段で不戦勝を勝ち獲ろうと企んでいる――そう訝っておいでなのではないか?」

「いえそのような」

「兄が先刻仰ったように、川に放り込まれでもせぬ限り暴れはしませんて」騎士は笑い飛ばしながらも以下に続けた。「元より槍試合にて馬を狙うは御法度……尤も此方さんが駄馬の方を安心と仰せならばそれがしとて無理強いはいたしませぬけれど」

 そう云い残すと、吟遊詩人バルドだかボイアルドだかに鹿毛バヤルドとも呼ばれた荒ぶる半鷲半馬の手綱をイスパニアの放蕩児にしてイングランド王子[訳註:こちらはアストルフォのこと]でもあったジョヴァンニに預けたラ・サンチャの精華は、前言を踏まえてか一度も振り返ることなく意気揚々と東側の橋の際――そのまま千パッススも馬を飛ばせばアンフィトリオン申すところの《高人の別天地オートロ・ムンド・デ・ロス・アールトス》がお膝元である[訳註:第二十三章終盤で紳士は名古屋電視塔をそう呼んでいるが、伝馬橋と電波塔の立つ久屋大通を繋ぐ伝馬町通は途中で交差する伏見通の中央分離帯で遮られる為直進できない。尤も花の駆るイポグリフォの羽やバヤールの跳躍力を以てすれば、両側六車線も分離帯に配植された樹木も容易く飛び越せるであろう]――まで歩き去ってゆく。[訳者補遺:現地で検証したところ、一方通行の標識は実際には橋の西側に立っていた。つまり著者の描写が事実と逆である可能性も低くはない。勿論自転車が東岸に駐輪されていて、そちらを確保した後に改めて西側に渡る意図があったとも考え得るが、そうなればなったで《一方通行》の前言が翻ることとなろう。又、同じ直柱には通学路の標識も設置されていたが、一通が東西に一枚ずつ面しているのに対しそちらの標示面は北向きのみであり、橋の上からは死角となっていた為に言及されなかったのだと考えられる]

「おい、説明せい」

「蜂殿は石に突き刺さったペンドラゴラのカリブルヌス宛らに、あの鉄槍を――」

 これ以上橋上に立つ男ふたりの遣り取りを聴き取るのは難しい。というのも花は既に充分距離を取ってしまったし、彼らがこちらの耳に入るほどの大音声を響かせてくれるには我々も二三分ばかり待たねばならなかったからである。


先程紳士が腰掛け背を凭れて休息したと思しき親柱[訳註:前章の記述に拠るならこれは川の西岸の筈であり、やはり食い違いが生ずる]の傍らにていつとも知れぬ主人の帰りを待つ駄獣アニマール・デ・カールガの両耳は、否が応でも騎士の脳裡にここ一週間の道中で従者を背負い《紫の山脈スィエーラ・モラーダ》[訳註:第三章では高尾山を《黒き山脈スィエーラ・モレーナ》に擬える発言があったが、こちらは箱根峠だろう。西moradaには住居の意もある為、花が山中で一晩明かしたことを仄めかす言い回しだ]やサカモンテシーノスの峠を越えて歩いた愛驢の姿を過ぎらせずにおれなかった。

「さて――どちらがより骨かな」鉄鎖等で手摺の束柱ピラール・デ・ラ・バランディージャに固定されていなければ、馬体を持ち上げ移動させること自体は容易であろう。しかし路上や歩道で束の間駐輪する際、街乗り自転車ビーシス・ウルバーナスの大半は後輪に付属している馬蹄錠セラドゥーラ・エラドゥーラを掛けて置くのが常だ。これを解除できねば走らせることも叶わぬ、引き摺るか揺らすしかない木馬に同じとなる。「骨を断つには先ず以て斬らせる肉が入用じゃの」

 今も懐に潜ませているであろう虎の子カチョーロ・デ・ティーグレ――弾性敷物コルチョーンと言い換えてもよい――の工具[訳註:第十七章で、花は乗鞍高を調整する為に何らかの工具を取り出している。尚、《虎の子》という表現は日本語特有だが、これまで幾度かセリフとして聴いたものを引用したのだろう。西語ではこのような貯金やヘソクリの類を、安全網といった意味合いからかcolchón《安全布団コルチョーン》とも呼ぶらしい。余談だが西colchónの語源が羅語のcollocō《置く場所コルロッコー》であるのに対し、英mattressは元を辿るとアラベ語のمطرح《投げる場所マトラーホ》に行き着くのだとか]を用いればこの驢馬を自由にすることも、或いは訳ないことだったかも知れぬ。しかし高々驢馬一頭を調達したいが為にヒネス・デ・パサモンテ――といってもサラマンドラの学士や富士の麓で金採掘に従事させられていた幼稚園児らのことではなく[訳註:沼津に於ける千代の自転車盗難未遂や駿河湾沿いの挿話については第八および九章を参照されたい]――の真似事をするのでは割に合うまい。見渡せば他にも焼印マルカーヘの押していない野生馬が見付からぬとも限らないし、取り敢えずは保留でいいだろう。

忌まわしきバスタルドメルリン……」川沿いの交差点まで数歩移動したドニャ・キホーテは、四バーラはあろうかという細長の鉄柱を見上げつつ呟いた。「長槍ランサというより長柄槍サリッサか」

 慥かに一騎討ちフスタではなく槍衾陣形ファランヘ向けの獲物のようだ。だが問題は他にこそあろう。これが練習場パレーストラ競技場リサに置かれた槍立てバスティドールであれば、騎乗したまま片手でひょいと拾い上げるだけで充分バスタンテなのだけれども……何しろこの槍は舗装された地面から生えているのだ。

 とはいえ並んで棒立ちしていても始まらぬ。騎士は両手を擦り合わせて掌の汗を散らすや、むずと規制標識に組み付いた。そのまま握り締めた拳を呼吸を止めて――引き抜けない。

「ええい露人の蕪じゃあるまいに。引っ張っても引っ張ってもチャーヌット・パチャーヌット……[訳注:露≪Тянут-Потянут≫/羅字≪Tyanut-Potyanut≫]」露西亜のカブナボ・ルソであればインディオの召使いナボリッの助力を借りる訳にもいくまいが、筆者の淡い記憶を信じれば……慥かあの民話では老夫婦と孫娘の後ろを任された犬と殿しんがりの鼠の間に猫の手も加勢した筈だ。現在多くの仲間に囲まれている誉れ高き猫の従士と比べ、孤軍奮闘虚しいドニャ・キホーテの十指は上滑りするばかり。炭酸苦土塩カルボナート・デ・マグネースィオの代用で大地の砂埃を手指にまぶしてみるけれど、これがどうにも余計に滑る。歩道と車道を分かつ防護柵に片足を掛け、終いには両足を突っ張って持ち上げに掛かるも鉄柱は梃子でも動かぬ。遂には堪え切れず音を上げるラ・サンチャの騎士。「いやはやカランバ骨まで折らずとも、アーサー坊やアルトゥリートをして関節炎アルトリーティスに為さしめる程じゃて!」

 この橋の人通りが疎らであったのは不幸中の幸いと言う他ない。というのも仮に決闘の舞台がお隣の桜橋であったらば、東京から参じた女子高生の狂態が良くて人集り、運が悪ければ警察機関への通報を呼び込んだに違いないからである。

山羊髭カツァップ!」[訳註:宇кацапは宇克蘭ウクライナ人が使う露人の蔑称。露西亜の蕪を引っこ抜く話と先程出た騎士長の顎鬚を引っ張る話とが綯い交ぜになったのだろう]

 惨めに吐き散らした泣き言が男たちの耳に入ったのでは?――あわやと橋桁を顧みたが、ふたりとも何やら話し込んでいる様子でこちらを気に掛けるどころか見向きもしないのであった。決闘を前にして――しかもその相手が常勝不敗の蜂の騎士と知りながら――随分と図太い態度ではないか?

「……見栄坊の粉飾野郎オルナンド奴が、ふた筋とも此のラ・サンチャ切っての槍師に工面させる腹と見た」ドニャ・キホーテが苦々しく独りごちるのも已むなきこと、如何に骨身を削り漸く一本引き抜いたところで今まさに槍を交えんとする対敵――それも内申臆病風に吹かれておろうにそれをおくびにも出さぬ面の皮の厚さ!――の為にもう一本とせがまれては敵わぬ。幾ら花の方が特段格上ラ・アベンタハーダといえど、この労苦は明らかに過分な足し前デスベンターハだ。抜けぬ訳ではない、抜けぬ訳ではないけれど……二本抜くのは手間である。その義理も無い。何より時間が無い。彼女がまごついている間にそそっかしい紋章官エラールドないし喇叭吹きコルネティーンが――おっとそういえばアストルフォの口内にはまだ、援軍を呼んだり敵軍を遠ざけたりするという角笛にも変じるあの甘い指輪が溶けずに残っているのではないか?――勇み足で試合開始の合図を出してしまわぬとも限らない。馬をもう一頭用立てる仕事も残っている。ブリテン島に伝わりし王の血筋のみが引き抜ける剣――見た目は矢尻なき鉄製のサリッサ――を、アマディスの血族たる騎士が諦める理由は幾らでもあった。何か他に誂え向きの武器が……「A ver si...」

 面を上げると沿道に植樹された若木――樫の木エンシーナであれば尚好かったが、実際はケヤキかクスノキ辺りだろう――が目に入る。これでは槍というより破城槌アリエーテだが、土に植わっているのであれば無理して引っこ抜かずに掘り返せぬこともない。

「掘るか……手折るか」成る程扇の骨の如く真っ直ぐに伸びた、それも細身の枝振りであれば一片の花弁ウナ・オハ・デ・コローラのような花の体重でも、存外ぶら下がっただけで折ることが出来るやも知れぬ。そうなれば槍の一本も二本も手間は同じであろう。とはいえ季節は緑滴る夏真っ盛り、願わくばオハラッ一枚一枚葉っぱを毟るなどという余計な手間は省きたいところ……幾重にも茂る葉叢はむらは如何ともし難い。日本では八月を《葉の月メス・デ・オーハス》とも呼ぶほどだ――「刃は一枚あれば良いからな」[訳註:日本語同様に葉も刃も西hojaで読みが同じ。因みに街路樹の枝を許可なく折ると器物損壊の罪に問われるので注意]

 フロリマール顔負けの花の騎士ドニャ・キホーテが丁度手頃な枝製武器アルマ・ラーマに目を付け、それを掴んで引き下ろそうとしたその刹那――


「だから見下ろすなっつってんだろ!」[訳註:著者は「野郎オンブレ肩越しに俺を見るなノ・メ・ミーレス・ポル・エンシーマ・デル・オンブロ」つまり「上から目線で見下すな」という意味合いで訳出している]

 すわ驚いて先刻繋ぎを確かめた駄馬の手前まで転び出ると、どうやら替え馬橋の上で何か異状を呈したであろうことが窺われた。ボルランドがセビーリャの紳士を威喝したに違いない。廉価版エディシオーン・コリエンテ[訳註:素直に《最新版》と訳すべきかもしれないが、このcorrienteは《通常の、流通している》の解釈が適当であろう]であれ《怒り狂っているフリオーソ》のだけは本家と比しても遜色ないようだ!

「ちょお待ってろこら……」

 ドニャ・キホーテが目を凝らし戦況を把握しようと試みるも……「ウシ――牝牛バカッ!」一体何が起きている? そう、ゴリアテ宛らの巨体で捩じ伏せんとする弁慶を翻弄しつつ擬宝珠ファスティーヒオと擬宝珠の間を飛び移ったとされるあの牛若丸(牛若と弁慶に関しては今一度第十七章を参照されたい)とは似ても似つかぬぎこちなさで、オルナンドがひらり欄干の上に飛び乗った――否、よじ登ったのだ![訳註:尤も伝馬橋は擬宝珠高欄ではないが、石造りの手摺には然程平衡感覚に優れぬ者でも比較的簡単に立つことが出来るくらいの幅がある模様]矢張り彼の狂気はアマディスならぬオルランド譲りと見え[訳註:『ドン・キホーテ』の主人公は正篇第二十五章にて、同じ失恋で発狂するにしても自分は乱暴狼藉の限りを尽くしたオルランドよりは周囲に迷惑を掛けぬ類の狂人となったアマディスを真似る所存だと宣言している。因みに前者は怒りの余り樹木を引き抜いたとされるが、期せずして花は短気なボルランドが発した叫び声のお陰で同じ愚を犯すのを免れたことになる]、このままでは天下の往来カジェ・デ・ファマ・ムンディアール――それも神聖なる巡礼路の只中である!――にて脱衣の後、慮外な

る裸踊りへと縺れ込みかねない。

「どや、お前らいつもこうやって上から群がってくる女ども物色してんだろ……あ?」

 一方的な面罵に甘んじているのか、アストルフォからの反論は聞こえてこない。声を張り上げておらぬだけで、対話の試み自体は依然継続しているかもしれない。

「おらその手動かすなよ、今晩板に立てんようにしてやっから!」

 紳士の馬手マノ・デ・ブリーダは預かったバヤルドの手綱を握っている筈であるから、他方の右手が欄干の上に置かれていたのか[訳註:日本語で馬手といえば通常右手を指すだろうが、慥かに弓手の対ならば矢手とでも言った方が混同せずとも済みそう。それほど重要な考察ではないが、仮に橋上の両者が南側の歩道に立っていたとするなら、イポグリフォが西を向いていれば右手が操舵棒に、東向きであれば左手で馬を抑え自由な右手を手摺に乗せていたと考えられよう]――哀しみの獣ベースティア・デ・ラ・トリステーサ[訳註:前章末のサンチョの台詞を参照のこと]は眼前にてまさに今己を治療せんと立つ精神科医ロケーロの利き手を、仕掛けた一歩ウン・パソ・デ・アルマディーホ[訳註:無論のこと《アルマディーホ》とは本来獣の方を捕らえる為の仕掛けである]で踏み抜こうとしているのだ!

 ドニャ・キホーテは焦った。だが気が急くのとは裏腹に自分の脚が只今二本切りであることも自覚していたので――嗚呼半鷲半獅子の幻獣が俊足の牝馬を孕ませて産ませたという吾が愛馬の手綱を片時も離さず握り鐙から両足を外さず踏ん張っていたらば、あって二縄尺コルデーレス止まり[訳註:十三~四米]という目睫の間など文字通りひとっ飛びであったろうに!――、拙速に事を運べばアストルフォに加勢するどころか却って累を及ぼす事態になりかねぬと考えその場で一心に方策を練る……「¡Ay, qué jabalí de mí![訳註:「吁、我が身に宿るハバリッの奴め!」自分を考えなしで行動する猪武者に喩えたのだろう。想定し得る理由は直後に著者が解説してくれる]」咄嗟に思考を巡らせ迷わず下枝を手折っていたら投槍ハバリーナとして一投の下、一レグア先に潜む弓兵の喉笛すら貫いてくれようものを、現在のラ・サンチャの騎士は空の拳を只硬く握り締めるよりなかった。幾ら危局に狼狽すべからずといえど、これからのうのうと街路樹に戻ったのでは流石に遅きに失する感が否めない。

「いい度胸じゃねえか――てめ本当に踏むぞ! 潰すぞ!」

 一刻の猶予もない。この難局を我等が針なし蜂アベーハ・シン・アグーハのドニャ・キホーテは如何にして乗り切るのか? ぼやぼやしていると友人のセビーリャの色事師ブルラドール・デ・セビージャは、哀れ酔いどれの刺繍師ボルダドール・デ・セボージャとなって自分の手を石製の刺繍枠タンボールに縫い付けてしまうぞ![訳註:西cebollaとは玉葱のことだが、拡大辞の付いたcebollónにはより辛味の少ない楕円形の品種を指すと同時に泥酔や二日酔の意味もあるらしい。どちらかといえば「タマネギ≒ポンポンボルラ頭の刺繍男≒ボルランドに手を縫い付けられてしまうぞ」とした方が筋は通りそう。因みに玉葱は《顔を隠せば魅力的な女》を示す隠語ヘルガでもある。女袴を裏返し、女性の上半身を包み上部で結んでしまえばイケるという理屈だそうだ……となると《女好きの刺繍師》とも訳せるか?]

「何か……投げる、物を――」右手を差し出すも、以心伝心で砲弾プロジェクティールを込めてくれる装填手の手も今は、ない――砲弾?[訳註:浜名湖の冒険については第十四章を参照のこと]

 阿僧祇花が輜重ムニシオーネスの詰まった雑嚢ボルサ・ヘネラールを不意に開くや中から取り出したるは――「¡¡Viva la bella y...」大きく振りかぶって――投げた!「...tenebrosa!!」[訳註:狂気に身を窶せしアマディスが自称したベルテネブロスの名が《美しいベリョ禍々しいテネブローソ》の複合語であることは、第五章にて既に花自身が解説済み]

 おお盲目の読者諸賢には想像できるだろうか!――チヌア・アチェベも瞠目するであろう神の弾丸バーラ・デ・ディオースが、目にも留まらぬ豪速球で(どうせ目があったとて見えぬのであれば我々にも諦めが付くというもの)照準器の中央へと吸い込まれていく様を……ドカーンプーム

 哀れ額フレンテを[訳註:位置関係を考えると《後頭部をエン・ラ・ヌカ》が正しい?]打ち砕かれメ~と鳴きながらバランド倒れ伏す――否、倒れぬボルランド! 何たることか、ドニャ・キホーテの投擲した従士への手土産は一歩及ばず、半ばで球速を失って的の足元へと着弾したのである。

 皆さん、こんなことが果たしてあり得るだろうか? あっていいものだろうか? 思い起こしてほしい、嘗て――といっても三日前の出来事だけれど――遥か三千レーグアスの艦砲射撃[訳註:浜松から南米ティティカカ湖までの直線距離が凡そそのくらい]を命中させたラ・サンチャの槍投の達人メレアーグロが、僅か百舌尺レングアス[訳註:伝馬橋の架かっている地点の堀川の川幅は二十数米。直前に著者が男たちと花との距離を十三~四米と目算しているのを鑑みると、彼らが橋の丁度真ん中辺りに立っている前提の下、レングア一枚を十三~四センティーメトロスとして計測したことが窺われる。人間の舌にしてはかなり長い方だろう]にも満たぬと思しき狙撃を仕損じたと?


ところが、である。

「なっ、ぁん?」

 矢張り疫病神プラーガたるボルランドにも不運の女神ミスフォルトゥーナ同様後ろ髪しかなかったと見え、全身を支えていた片方の足――もう一本はこれから恋敵の靭やかな手の甲に向け踏み降ろさんと持ち上げられていた筈だから――の踵の直ぐ真後ろに落ち爆発した、朝餉に供されし茹で卵にそれを引っ張られた――つまりビックリした――彼は反射的に仰け反った。となれば唐突に重心が後方へと移動した訳で、自然体勢を整える為に上げていた足は前後を入れ替えて一旦後ろへと着地せざるを得ない。そしてその着地点に散乱していた物体こそ――そう、爆ぜた卵殻、そして黄身と白身だったのである。

「――だっつ!……でっ、ええぇぇぇっ!」

 同じ手摺の直線上とはいえ的から大分外れたところに踏み降ろされた右足――若しくは左足――の下に撒いてあったのがもし炭酸苦土塩マグネースィオであれば僥倖と呼べたものの――否、それは《愛こそが愛に報いるアモール・コン・アモール・セ・パーガ》[訳註:《情けは人の為ならず》と同義か]を実践し日々善行を積んできたドニャ・キホーテにすら与えられなかったものだ!――、何しろ彼の積み上げてきた罪により用意された絨毯が潤滑剤バセリーナに劣らず足裏の滑りを良くしたものだから、ボルランドは初めて履いた氷滑靴パティーネスで氷上へと踏み出たばかりの幼児の如く、平素は仲睦まじい両足を大きく前後に引き離す事態と相成った訳である。

 さて神に見放されしこの男は馬による引裂き刑デセンブランミエント・コン・カバージョス木馬責めブーロ・エスパニョール[訳註:直訳すると《イスパニアの驢馬》で所謂三角木馬のこと。異端審問で使用された拷問器具なのだろう]宛らの苦痛から逃れる為に、或いは転倒を免れる為に、咄嗟に身を捩らせて過度の開脚による股関節脱臼を回避せんと努めた。しかし残念ながら日本史に伝わる牛若丸のような反射神経や平衡感覚や運動能力に欠けていた彼は――尤も本物の牛若丸であれば、そこが京都であれ名古屋であれ橋の欄干で斯様に無様な醜態を晒すことはなかったであろうが――それによって更に大きく体勢を崩すこととなる。身を捩った向きが橋の内側であれば、悪くても打ち身か捻挫程度の軽傷で済んだところ……


ガチャーンクローンク

「――セ、セビリヤの!」

 押っ取り傘抜きでスィン・ス・パラソール・デスヌード替え馬橋の中央へと、息急き駆け寄ったラ・サンチャの騎士。

「蜂殿、リペオスの神駒が」ジョヴァンニが塞がった両腕から目を背け後方を顧みると、そこには歩道に倒れ伏したイポグリフォの姿があった。数分前に紳士が吹いた涼やかな笛の音を眠りの神イプノスのそれと聴き違え、余りに異名の多い主人に肖り自ら《イプノグリフォ》と改称したか、手綱を解かれ放れ馬となったラ・サンチャの荒駒からは自由意志も損なわれ、その場に自立する力を持ち合わせていなかったのであろう。転倒した衝撃によりその馬体には新たな創痕が加わったやも知れぬ。掻い潜った乱戦の激しさを物語る傷痍の数だけ主たる騎士の名誉も弥益すばかり!

「構いますな、野面石リピオスに、頬寄せ、……ふぅ、故郷を偲んでおるのですじゃ。いやそれよりも――」ドニャ・キホーテが視線を戻すと、そこには橋の内側に立つセビーリャの紳士、そして手摺の上で彼に羽交い締めドーブレ・ネールソン(但し首は極めずにスィン・マーノス・フンターダス)され橋の外側にぶら下がるボルランドの両名。「御手の方は?」

「お陰様で。ドニャ・キホーテ放ちしグラニーソの一撃なくば、今頃僕の手はこの御影石グラニートの一部に……」ドン・アストルフォはそういった謝意を述べている間でさえ、宙吊り男オンブレ・コルガードの両脇に通した腕が徐々にずり下がるのを何とか補正しながら、車道を振り返りつつ以下のように嘯くことで己の豪胆さを誇示することも怠らなかった。「尤もアスファルトに改名するよりマシじゃとはいえど」[訳註:車に轢かれ道路と同化するのに比べれば、片手だけの犠牲くらい許容範囲だという意味だろう。或いは倒れた花の路上競技用が車道にハミ出していたか。又これは偶然かも知れないが、西masillaとは接合部分の割れ目等を埋める塗料のこと]

沈毅ちんきなる御振舞い愈々以て天晴じゃが、長引けば遠からずロドモンテの轍を――もといき波を辿ることになりはすまいか?」

「折角捕えたカリゴランテ、このまま逃す手は……」

「兄が幾ら指環アニーリョを吹いたとて、この川もナイルニーロには化けますまい!」狂気の騎士はいつになく至極真っ当な指摘を物した。「水増ししても差し詰めヴェーザーが関の川……畢竟、此のルランド某は、果たせる哉ケツァルのケツ周りにて獲物を漁る吸血鼠どもが係累と考えて間違いなさそうですじゃ」

「ケッ、ツァァアア!」思い掛けぬ災難に放心状態だったのだろう、激しく脈打つ己の鼓動が耳に響いて暫く外部の音を遮断していたらしい逆位置の吊るされた男エル・コルガード・インベルティード[訳註:西洋占札タロットでは逆さ吊りで描かれる為]が俄に息を吹き返した。「ケツ! ネズミ!」

「これ暴れるでない」アストルフォの負担を慮り、男を叱咤する騎士。「このまま落としてしまいなさいな」

「はっ、放すなよ――放すな!」

「あらまほしきは川川なれど、これをハーメルンには」如何にも険しい面相で舌を突き出す紳士、続いて天上を向いたまま自由にならぬ両前腕の先を然も洋琴ピアーノを奏でるが如く波打たせながら、「――我が指も些か」

「其の肝ほどは太くありますまいて!」そう云って呵々と笑い飛ばした花は、引き上げる手助けをしようと欄干に身を寄せるやその靭やかな右手を伸ばし、哀れなボルランドの襟首ヌカをぐいと掴んだ。[訳註:男が何を着ていたのかは不明だが、実際に掴んだのは首ではなく襯衣の後ろ襟バンダ・トラセーラ部分と思われる。その根拠は後述される経過を追えば明らかになろう]

「化鼠のベヒモスにしては随分と小振りな」レビアタンの骸の前で吐かれた花の大言を憶えていた紳士が素直な疑問を呈した。「……赤ん坊ベビモス?」

「……俺だって、」宙吊り男が割って入る。「てめえらさえこんなとこまで出張って来なけりゃ今頃は――予約したネズミのリゾートに一泊して」

「ネズミの雑炊リゾットとは……¡Gentil plato!」[訳註:「絶品の一皿ヘンティール・プラート!」]

「一緒にパレード観て」

「――《腹を空かした御仁にとっちゃな》」ドニャ・キホーテは胸中キケロの言葉[訳註:千代が《空腹は最高の調味料キビー・コンディメントゥム・ファメース・エスト》の意訳を見事云い当てたのは第十三章、掛川から浜松に向かう道中であった]を反芻しながら後を継いだ。

「くそ」

さそりくちなわでは足りなんだと見え」蠍や蛇の料理を食う手筈だったのは本来自分であったことも忘れ(若しくは空惚けて)、ドン・フアン・デ・テノーリオが地上の怪物の名に恥じぬ見事な喰いっぷりを無責任に褒めそやす。「先達て蜘蛛の供物を所望したのもよもや」

「赤子嬰児みどりごとはいえど、白き門歯と鮮やかなつい成すネズミ色の照る厚き象皮は伊達でなし。痩せても枯れても貪食の王が血筋ということか」騎士も便乗して褒めちぎる。「肥える前で助かりましたわい」[訳註:もし彼が育ってしまい本物のベヒモスになっていたら、つまり体重が巨漢のそれであったなら、仮令二人掛かりでも橋の上に引き上げるのは困難だったであろうという意味。鼠が象の大きさに育つまでには相当の年月を要することだろう]

「くそくそくそくそっ」

「足掻きなさんなというのに――宜しいか?」騎士は握り締めた拳を引き絞るようにしてその細腕に力を込めた。

「ゼルプストフェアシュテントリッヒ」野人サルバーヘ引揚げサルバターヘ準備は万々滞りないようだ。

せえのアオラよいしょイーサ」[訳註:西ahora iza.「今だ、引っ張れ」]

「イーサ」

「オイッス」[訳註:仏oh hisse.「おう、持ち上げろ」]

「オイッス」

「ヨイトマケ」[訳註:和「ヨイと巻け」]

「ヨイトマ――」

「負けでいいよもう!」突如そう喚き散らすなり、ボルランドは恰も今から飛び立たんとア・プント・デ・ボラールする雛鳥のように羽なきその両腕を遮二無二バタつかせた。「どうでもいんだ俺なんか、死ねばいいさ!――ダメだこりゃ!」

「此奴ッ、往生際が――」肩を怒らせセ・クアドロッ[訳註:意表を突かれたことを考えれば《強張らせ》と訳すべきか]喝破する蜂の騎士。

「放せ、放せよ!」

「カバ……リェーラ」上体を反らせ何とか引っ張り上げようとするドン・ジョヴァンニだが、――猛暑であることを考えれば両者の発汗による摩擦力の減少もその要因に数えられよう――そうすればするほど狂人の両腕は愈々以てずり落ちていく。

「もう放っと――けっ!」

 全世界よ両手を上げろケ・トード・エル・ムンド・レバンテ・ラス・マーノス

 その場に居た全員が伝馬橋の沈黙の号令に組織立ってスィステマティカメンテ従ったのは、決してその権威の前に屈したからではない。飽くまで所謂ニュートンの第三法則テルセーラ・レイが均衡を失ったが故である。然もなくば名家テノーリオ一門は、以後テモーリオ[訳註:西temor《恐怖心》]と誹られることだろう。


「Geb Acht!」[訳註:直訳すると「アハトを与えよ」になりそうだが、どうやら語源が異なる――共にゲルマン祖語を起源としているが、Achtがahtōu《アハトーウ》、延いては《指四本分の幅》から派生した印欧祖語oḱtṓwに由来する一方で、achtgeben《用心アハトゲーブン》の方はahjaną《考えるアージャーナ》が元となっていて、これは同じく二つの意味を持つ蘭語achtの成り立ちとも共通する――ようでここでは「ご注意を!」ほどの意味。何でも独Achtには《ひしゃげた自転車の車輪》の意味もあるのだとか。ひしゃげ過ぎである]

 ザッブーーンエスプラーーシュ

 大鼠一匹分の体重から解き放たれた反動により、橋の上のふたりは勢い余って時折排気音が通過する車道へと後ろ様に蹌踉めいた。倒れたままの愛馬の上に騎士が背中から落下する未来を予測したジョヴァンニは思わず注意を喚起したが、どうやら間に合わぬと見てとるや自らも歩道上に尻餅をつくまでのまさに瞬目の中で咄嗟にその長い腕を伸ばし、彼女の手首を掴んでやや乱暴に引き寄せる。この紳士の機転がなくば、落下したボルランドが上げた水飛沫の音チャポテーオが霞むくらいの激しい騒音ルイード・ルードが市内に響き渡ったことだろう!……というのもイポグリフォの馬体は総じて金属のように硬くしかも凹凸に富んでいたので、その上に華奢なドニャ・キホーテが転倒したなら――妄想の中で着込んでいた甲冑が立てる金属音以上に――痛々しく軋んだその骨が上げる悲鳴をそうそう押し殺せるものではないと察せられるからである。

「Au!」騎士の骨の代理でジョヴァンニは細やか且つ短い悲鳴を上げた。骨張った鉄の塊の上に腰から落ちることを考えれば蜂に刺されたようなものとはいえ、舗装された歩道の上に強か尻を打ち付けたのに加え、成り行きで受け止めた針なき女帝蜂の――力学上の勢いがその軽さを補って余りあった――尻が更なる重しとなって加圧したのだがら、普段辛抱強い――そして女を上に乗せるのにも手馴れているであろう――セビーリャの色事師をしても噎せ返るのを堪えることが出来なかったのだ。

「あいあい……」遅れて頭を振りながらドニャ・キホーテが上体を起こした。期せずして敷かれた肉の安全布団コルチョーン・デ・カールネのお陰でこちらは五体とも無事のようである。「……これは?」

 その時漸くふたりの尻の下の方から、水面を乱雑に叩く音が届いた。跳ね起きる蜂の騎士。

「Uff!」

 欄干へ駆け寄らんとした矢先に上がったその呻き声を花が聞き漏らすことはなく、ヴェーザーの異変を取り敢えず後回しにするや彼女はその場で器用に踵を返した。

「セ――ビリヤの、如何為された?」まさか自分が下敷きにしていたとは夢にも思わなかったとみえる。

「お構、い、召されぬよう。僕のお慕いする、ドニャ・アナも……」仰臥しながら己の尻を指し示すドン・フアン。「地中に眠るお父上を――殺めたのは生憎僕自身ですが――お父上を懐かしんでおられるのではと」[訳註:穴もといアナというのは前章でも触れられた騎士長ゴンサロの愛娘で、ドン・フアンは彼女を手篭めにせんと企むものの惜しいところで邪魔が入り思いを遂げられぬまま逐電、そして追手の父ゴンサロを殺害する。ドニャ・キホーテの実名――諱――を知っていれば彼もこんな失礼な物言いは控えたであろう]

「地中に眠る――騎士長コメンダドールとな」ドニャ・キホーテは敷き詰められた石畳を見下ろした。どれだけ頬寄せたところでこの橋の下は川であるから、遺体を水葬してもドン・ゴンサロは水洗便所の如く入り江まで流されてしまうのが落ちであろう。だが騎士はジョヴァンニの心中を慮ってか深入りを避けた。「ウリョアの姫君のお気が済みましたらこの手をお貸しいたしましょう」

「ではお言葉に甘え今少しこのまま」直ぐには立ち上がれない模様。大切な手を守ったのだから尻のひとつやふたつに痣が出来ても致し方あるまい。全くこれは尻を笑われたフランコの祟りではあるまいか?[訳註:第二十七章参照]「リペオス殿の方もご無事で?」

「はい、大事はないようです。往時はテスカトリポカ(原註:ナワトル語ナーウアトルで《燻りし鏡エスペーホ・ウメアンテ》)の名でアステカの蛇神と対峙した此奴は御覧の通り《何食わぬ顔色テスカリパレハ》なれど――」イポグリフォも寝かせたままだ。水面を叩く音が徐々に遠退いていく。花は欄干の上――或いは束柱の隙間から――堀川の下流に視線を投げた。「バヤールに代わって水難に合うてくれた殊勝な御仁もおったようですし」

沈没するオルランドオルランド・ソソブランテ殿のご様子は?」

「岸に向かって泳いでおります。この陽気なら鼠が塩を引くことはあっても、よもや風邪を引くには至りますまい」

「してお手の物は?」

「ん?……ややっ」ドニャ・キホーテは今になって漸く、その右手に握られた布切れに気が付いた。[訳註:最初に起き上がった際の「これは?」のこれこそがその布切れだったという解釈も出来よう]「――試合フスタの勝者に与えられる報賞、でしょうか?」

「或いは白旗」

「いえ、縁取ってオルランドと名乗るだけのことはあって紋章らしき旗印が……」

 何のことはない。ジョヴァンニの拘束を振り切らんと藻掻いたボルランドは、諸手を万歳させることで支えを失いそのまま自由落下したのだが、その際紳士の加勢として騎士が引っ張り上げようと掴んでいたのがこの男の襯衣であった為、上向きであった両腕と首がすっぽりとその袖と襟を通り抜けてしまったのだ。則ち脱げてしまった――剥ぎ取られたとも――上衣を残して落ちた彼は、自然半裸の状態で落水したことであろう。(恐らく《紋章スィーンボロ》というのは企業商標か何かと推察される)

紋章官エラルドは疎か紋章官補ペルセバンテにすら事欠くこの場に於いては、それがしも戦利品としての価値を吟味することが叶いません」[訳註:西persevante (de armas)は古仏poursuivantプフシュイヴァンに由来する。原義は《(紋章官の)随行者》或いは《(紋章学の)追求者、研究者》であろう]

「武具以外を分捕っても蓋し騎士殿の名誉には」

「うむ、ハダカデバネズミにお返ししよう」ジョヴァンニの忠告に後押しされ、ドニャ・キホーテはまさに今河岸の土手に縋り付き更にはよじ登ろうと苦心している最中の裸のデスヌードオルランドに向けてその布切れを振り回した。「おい君オイガ・オンブレ!」

「あっ」突然の大声に驚いたのも手伝って、濡れた石垣に足を滑らせたか掴んだ植物の枝だの生い茂る草だのが折れたり千切れたりしたのか、男はもう一度水の中に滑落して先程よりは控えめな飛沫を辺りに撒き散らした。「こっ、こっち見んなよ! もうあっち行けよ!」

「おい――」すると遠心力が緩んだ布切れから何かが飛び出たかと思うと、宙空で折り返してそのまま落下を始める。「ややっウイ

 騎士は反射的に空いた方の手を差し出し何とか川に落ちることだけは防いだが掴み取るには及ばず、指先で跳ね返ったそれは背後に投げ出され、横たわるジョヴァンニの腹の上で弾み、静止した。

あれまウプサラ

版木タブリーリャ――蝋製のデ・セーラ?」どうやら襯衣の胸の隠しボルスィージョ・エン・エル・ペチョにでも予め入っていたのだろう、それは男の携帯電話のようであった。

「……蜂の騎士は一度ならず二度までも一輪の釣鐘草カンパニュラを水禍より救い給うたようで」そう嘯きつつも紳士が一笑を禁じ得なかったのは、一度目は兎も角二度目については完全にドニャ・キホーテこそがその禍因だったからか[訳註:花が掴んでいた上衣を期せずして落下する男から剥ぎ取ることで、結果携帯電話を救うことになったのが一度目。それに対して二度目はその襯衣を無闇に振り回したからこそ起こった事故であったことから]。そうは言っても高価な情報端末の水没エンパパールを免れた功績には、目下水泳中のズブ濡れエンパパードボルランドも甚く感謝せねばなるまい。

「カンパ――ああ、グロッケンブルーメ――ですな」

「それも羽根の軽さペソ・プルーマの」ジョヴァンニがそう言って《魔法の蝋版》を抓み上げながら己の上体を起こすと、それは突然音を立てて数度震え、そして止まった。「さて時鐘グロッケンシュラークも鳴り――死者の日はそろそろ幕引きと」[訳註:現在墨国メーヒコの《死者の日ディーア・デ・ムエルトス》といえば十一月だが、これの元となったイスパニア侵略以前のアステカの祝祭は八月初旬に催されたと謂う]

「Tómame la mano.」交わした約束を違えることなく、騎士はそう云って手を差し出した。

「Te la tomo, amiga...」アストルフォが手を伸ばす。すると彼女の掌上に触れたその指先が感知するは、肌理の細かい乙女の柔肌にそぐわぬ人工的な尿素化合不織布テヒード・ノ・テヒード・デ・ポリウレターノの質感――紳士はその指を乗せず、代りに彼女の手を開いて覗き見た。

「これは件の戦で血吸の鼠に齧られた痕、謂わば向こう傷ですじゃ。尤もそれがしの一太刀によって奴の流した膿血が第七圏谷けんこく所謂いわゆる血の川ラ・リヴィエーラ・デル・サングゥエ》宛らであったのに比すれば小疵千万しょうしせんばんと――」熱弁を振るう騎士は、紳士の関心が傷口そのものよりも貼られた絆創膏であるように思われたことから以下の如く補足した。「フィエラブラスが不在でした為、吾が妹フロリンダ[訳註:前掲のフロリパに同じ]が快癒のまじないを施してくれたのです」

「チヨさん……ドニャ・チヨ・デ・ハンザが?」

「然様。神の恩寵を請う文言が付されておりましょう」掌を大きく開いて誇示するドニャ・キホーテ。

バチャンサス


騎士は再度川下を振り返った。

成る程カピート」差し出されたまま手の傷に触れぬようそっとその手首を掴んだドン・ジョヴァンニは、騎士が腕に力を込めたのを確認してから反動を利用しつつ立ち上がると、仰々しくお辞儀しながら以下に続けた。「Al vostro servizio, capitana...」

「Alza il capo.」面を上げさせた花は欄干の側まで彼を誘導すると、眼下に苦闘する濡れ鼠を指差して云った。「傷といえば彼奴が陸に上がらぬのは何処ぞに手傷を負った故でしょうか? そも笛の音は既に止んでいたというのに、何故ああも暴れてまでヴェーザーに落ちたのです?」

「はて、宙ぶらりんとなった弾みで粗相でもしたのかも――」

「は、はあ……」股座を濡らしたとあってはたしかに自ら川に飛び込むよりあるまい。地上に残ったのが上衣の方だったことは幸いである![訳註:脱がしたのが上半身の衣服ではなく脚衣だった場合、失禁した男のそれを手にするのは流石に御免だろうという意味]

「仮に下馬無槍の馬上槍試合に於いて彼の者が負傷していたとしても――又は珍事中夭ちゅうようの水禍にて夏風邪召したとしましても――、この橋を渡れば直ぐそこは」ドン・フアン・デ・テマーリオは橋の上を東西に睥睨して断言する。「――オスピタル・デ・テンマ」

「……一理あるティエネス・ラソン」無い顎鬚を擦りつつ首肯するラ・サンチャの騎士。「他ならぬサンフアンのお言葉じゃ、信じましょうぞ」[訳註:前章冒頭で紹介されたスエロ・デ・キニョネスの逸話の舞台となった橋が架かるのはオルビゴ川だが、その西岸に位置する街オスピタル・デ・オルビゴは、十四世紀終盤にエルサレムの聖ヨハネ騎士団オルデン・デ・サン・フアン・デ・ヘルサレーン(別名に《病院騎士団オールデン・オスピタラーリア》)の開設せし巡礼者たちの為の救護院オスピタールを中心に発展した。神をも恐れぬ――翻案されるに連れ無神論者的性格すら付されてきた――罰当たりな女たらしを、選りに選って十二使徒のひとり――しかも巡礼路の終着地サンティアゴ・デ・コンポステーラにてその遺骸が祀られる当のゼベダイの子ヤコブサンティアーゴ・デ・セベデーオの弟たるヨハネ――と同一視してしまっている]

「おいっ、棒女![訳註:著者は《配管娘チカ・カーニョ》としたが、この語感から連想されるのは恐らく柱使いの踊り子バイラリーナ・デ・カーニョだ。猥語のcoñoとも掛けたにせよ、ここは素直に《棒娘チカ・パロ》と訳出した方が文意に沿うであろう]お前、も、とっととどっか行け!」三十ピエスはあるだろう距離から届いたその声は、己で引き起こした川波によって水を飲んだのか数秒間咳き込んだ後、途切れ途切れになりながらも力を振り絞って虚勢を張った。憤怒と羞恥心――それと少しばかりの臆病風――は自分の貴重品が手を離れている事実を失念させたようだ。

凸間凹間でくまひくまをお望みならばそのまま橋の三つ四つ流れに身任せ下っていかれよ」一海里ミリャ船漕ぎカノターヘを愉しめば、エステ家のふたりが話していた大須観音に至る。「……ん、招き猫だったかしら」[訳註:訳文では「も一度大砲カニョーンを御所望ならば~」とし、オソに対する大須の代りに卵の隠喩である大砲と観音を対照化している。それを受けて招き猫の一文は割愛。説明不要とも思うけれど、痩身で出っ張りのない体型の己に対する侮辱を即妙な返答で遣り込めた形だ]

それ以降、闖入者の声や水飛沫の雑音が我々の耳に届くことはなかった。


以上が《消え去りしボルランドの冒険アベントゥーラ・デ・ボルランド・ボラード》の顛末である。[訳者補遺:戦闘?描写の大半は著者の豊かな妄想力の賜物だ。この橋の手摺の高さは歩行者の腰の位置より高めであり、歩道でよろけて川に転落するというのも不自然なので、ボルランドが彼我の身長差を埋める為に欄干の上によじ登ったという推測には充分な信憑性を感じる。尚、痴情の縺れに関する委細に関しては(目下の時点では)藪の中]

「僕も事前に――」桃太郎伝説の桃のように川を流れていった男を見送りつつ、橋の上のドン・ジョヴァンニが護輪用横材グアルダルエーダ[訳註:土木用語でいう《地覆》。脱輪防止の為に一段高くなった部位で、欄干の下部に相当する]の上に携帯を置いて呟いた。[訳註:歩行者に踏まれぬようにという配慮か。後程川から上がった鼠にとって見付け易い置き場所であれば手摺の上こそ最適とも思える反面、そうすると何かの弾みで川へ落下する危険を伴う。それも踏まえての判断だろう]「川への身投げを特訓しておくべきかとも」

「石の騎士長ドン・ゴンサロの稀なる霊力以てすれば、地獄の業火に捲かれた兄が苦し紛れに飛び込んだ途端に此れも燃え盛る川プレゲトーン[訳註:前記の《血の川》に同じ]と変わりましょうて!」ドニャ・キホーテは笑いながら手にあった布切れを欄干に結わえ付けた。これなら風に飛ばされることもなかろう。日本には《焼け石に水アーグア・コントラ・ピエードラ・カリエンテ》(つまり《水桶に一滴ウナ・ゴテ・エン・ウン・バルデ・デ・アーグア》)なる諺があるけれど、騎士の指摘が正しければそれこそ《炎の中に焼け石ウナ・ピエードラ・カリエンテ・コントラ・フエーゴ》となってしまう。愈々以て逃げ場がない。「……良しと」

「願わくば不肖セビリアのヘクトルにも《神の恩――》」南に架かる錦橋を眺める花の長い後ろ髪が川風になびく様を目にした紳士がハッと思い起こす。「……蜂殿」

「無法の限りを尽くした上で劫罰どころか神に恩寵せびるとは、如何にもせびり屋殿の名に恥じぬ――施されるはその面目のみといった体ですな」襯衣の隣に視線を移すと、そこには汚らしく手摺に擦り付けられた玉子の残骸がこびり付いていた。「しかしこうも卵を渡らせるばかりでは、それがしこそが行く行くは《駝鳥鵞鳥の騎士》を襲名する羽目となるじゃろて」[訳註:第十一章では《白鳥鵞鳥騎士団》なる架空の軍団への言及があった]

「では蜂鳥殿――ドニャ・カバリェーラ・デ・ラス・チュパロサス」

「《薔薇を吸う者チュパロサス》……」これではまるで血吸の一族と縁続きであるかのよう!

「ではドニャ・アビアペ[訳註:西avíapeはラティン語由来で、そのままアヴィスアピスを合わせた単語。イスパニア語圏ならカリベ海はタイノ族の言語から借用したcolibríがより一般的な呼称か。因みに羅語由来でcolúbridoといえばヘビ科の爬虫類を指す]」ジョヴァンニが少女の背後を取った。「憚りながら御髪を少々――」

狩蜂アビスパでも止まっておりますかな」その羽撃きからも分かるように大層せっかちな蜂鳥の騎士は紳士の手が伸びるのを待たず、さっと首後ろの髪を一房鷲掴みにするや目の前に翳し眇めて見た。「もしや蜘蛛というのはこの――おや?」

「御手が――お任せを」

「御手出し御無用。何も気に掛けることはナダ・ケ・テ・プレオクーペ」花はそう云うと、空いている方の手で荷物の中から小刀クチージョを取り出し、次いで器用に鞘を抜き放つと[訳註:一旦口に咥えて?]――

 異物が付着した黒髪の束を何の躊躇いもなく切り落としてしまった。

 目をみはるドン・ジョヴァンニ。

「ん?――ああ、これですな」呆気に取られた相方の面相を一瞥した騎士は、一転破顔すると以下のように答えた。「成程、何故斯様な武器を懐に忍ばせながら決闘に用いんとせなんだのか……訝られるのも訳はない」

「いえ……」

「この小振りな山刀マチェーテ[訳註:箱根峠で街道を外れ、山中に分け入った際に使用された物がこれであろう。第五章参照]――号はそうじゃな、ククリヒメと謂われておる物だが、それこそグルカの野戦でもなし、騎士の立合いにはそぐわぬと考えましての」

我武がむ――者羅しゃらな……いえその」ラ・サンチャの女傑たるや、サカモンテシーノスの峠で醜男の方のエル・フェーオテノーリオが刃物を光らせた時でさえ[訳註:第十六章を読み返すと、蝶型小刀を所持していたのは太ったマルッペの方]自身は日傘を以て立ち向かったのだ……いや同じ光物アルゴ・デ・ブリージョといっても紳士が閉口したのは白刃エスパーダ・ブランカについてではない、輝く鎧に包まれし騎士が振り翳す黒光りルーストレ・ネグルースコの方である。アストルフォは首を刎ねる手振りを耳の横でしてみせた。「御髪文字おかもじを?」

母御前ははごぜ?――あっ髪、髪文字ですか」さも意外そうな応答をしながら、ドニャ・キホーテは髪束を掴んだ拳を流れの上に翳すと、その握りを徐々に緩める。絹糸のような――或いは蜘蛛糸のような――美しい筋が一本、また一本と滑り落ちては風に舞い、程なく南中するであろう陽の光を受けてそれは又一層光り煌めいた。「まあ、それがしはプテレラーオやナジルのサンソンじゃ御座いませんから」

「ダリ――ア[訳註:牡丹に似たキク科の植物。因みにサムソンの妻はデリラダリラ]」そう呟いて嘆息したジョヴァンニの瞳には、それらが一輪また一輪と川面へ手向けられた弔花に映ったとみえる。「アルジャーノンじゃああるまいに」

「ふむ、《括る姫》とは云い条」澄んだ音を立てて刀身を鞘に納めると、騎士は幾分照れ臭そうな声色を漏らしつつ小刀を懐に仕舞った。「――天浮橋あめのうきはしにて国生みを為した二柱の、仲立ちをすると共に仲を断った神でもあった訳ですじゃ」[訳註:菊理媛神くくりひめという言葉は第十一章で弔花に関する遣り取りがあった際にも持ち出されている。即興とはいえ縁結びの神の名を与えた刃物で断髪するという矛盾に対する口実とも取れよう]

山鳩ククリの太刀が慈悲の短剣ミセリコルディアさながらに、蜂鳥の騎士が挑みし《武装の路パ・ダルム》最後の戦利品としてその懐中に収まるとなれば鳥獣――いや重畳かと」紳士はそう称えるなり、歩道の敷石と同化しつつあった馬の手綱を取って大地との逢瀬から引き戻した。「これでこのアストルフォ奴が荒鷲の羽根持つイポグリフォを返上いたしましたら、漸うドニャ・キホーテも想い姫への愛の証を立てに聖地へと旅立てるというもの」

「発ちますか?」

「ラ・サンチャのアルトゥーラが、」挑発的な眼差しを向けつつ少女の手に轡を握らせるジョヴァンニ。「此処を屍山血河の虐殺橋スローターブリッジとお定めになるご所存にございますれば僕とて最後まで――」

「いえいえそれには及びませぬ」終いにはドニャ・キホーテも白旗を揚げ、出立の意志を固めた。幾ら今後の進退を決め兼ねていたとはいえ、明日までここに突っ立っている訳にも行かない。橋を守り通す期日は九日だが、(かなりの鯖を読んだにせよ)三百本の槍を勝ち獲った後も留まる理由などないのだ。[訳註:元々所持していた小刀がいつの間にか分捕品に掏り替わってしまっている]「いざや参らん」(原註:この時ドニャ・キホーテが東西どちらの旅舎に馬の鼻先を向けていたかは想像の域を出ないが、筆者は矢張り彼を仮宿の門前まで見送るつもりだったであろうと推察する)

「然れどもこのままでは――」今度はドン・ジョヴァンニが無いバルバを――いや実際には口髭ビゴーテ顎鬚ペリージャの有無は判らないけれども――擦りながら唸った。「時に、ラ・サンチャの蜂殿」

「Para servirle...」[訳註:「何なりと」]

「――蛮野未開バルバローテ鬼窟きくつにご興味は」

 ここでジョヴァンニが――口中にて殆ど溶け掛かっておる故、常人には音を出すのでさえ最早困難と思しき――砂糖で出来たあの笛をまた一段と鋭く吹き鳴らしたものだから、ラ・サンチャの精華の両耳にそれがトマス・カーライルが呼ぶところの青天の霹靂ウン・ラージョ・フエラ・デル・アスールとして響いたであろうことは想像に難くない。


ああ、聖女サンタバルバラ・デ・ニコメディア![訳註:雷鳴との連関は本章冒頭を参照のこと]

 この愚かしきテノーリオ家嫡男の発案が、締めて二時間余にも及ぶ散策が朝食の腹熟しバハール・エル・デサジューノを万全にしたのとは対照的に極めて消化不良ディスペープスィアのまま幕引きとなった試合の決着に対するドニャ・キホーテの闘争心を、またぞろ叢々と掻き立ててしまったではないか!

「秋の鹿は笛に寄ると謂うが、さて――」[訳註:これは錠菓を吹奏した直後に紳士がボソリ呟いた言葉。今は夏だから代わりに馬鹿が寄ってこなけりゃいいがということ?]

 しかしながら寛大なる読者諸賢にはここで一旦、《東国の愉快な仲間たちラス・アミーガス・アマーダス・デル・エステ》を追認するラティフィカールセことを提案したい。これは決してサルサ・デ・アベンダーニョが、死線を越えて修羅場を求め彷徨い歩く鉄火肌な少女の飽くなき破滅衝動アンスィア・デ・ルイーナスに当てられたからではない。猫の従士一行が揃って城塞を離れる瞬間と、最後の対戦相手を鞍馬どころか橋桁の上から壊落せしめた旅中の両雌雄ロス・ドス・グランデスがその河岸を後にしたのがこれ又三十秒と違わなかったことを鑑みるに、主従があわや鉢合わせウン・カスィ・チョケを冒す蓋然性を我々は具に観察せねばなるまい――と重々熟慮した上での判断なのだ。[訳註:共に午前十一時五分前後の出立である。尤も従士とその仲間たちが宿の前から移動を始める次第についてはこれから描かれるのだが]


さてプエースと呟いて城郭側面に空けられた穴蔵――つまり厩舎――を後にした半坐千代は、何処ぞからはみ出た騎士の長い髪やイポグリフォの尻尾が風にそよいで覗いてはおるまいかと建物や設置物の陰や隙間を窺いながら王女たちの許へと戻った。

「チヨさんチョース」そこそこ神出鬼没なニコニコ・メディアナメンテ・エルスィーバ・コモ・ウン・ファンタースマも、今度ばかりはおとなしく先輩方と正面で待っていたようである。[訳註:第二十五章参照]

「バッカおめえチョーさんの挨拶はオイッスだろ」高名なミコミコ・メディアーティカが訂正を求める。

「は?《いつも元気なワンワンでーす》でしょが常識」

「おかえり」

「お待たせしました。何の話です?」

「品性……と知性?の話かな?」中座する直前の従士の言葉を記憶していたエル・トボソの姫君が半疑問形でメディオイントラガティバメンテ答えた。[訳註:文脈上、《貧生と致誠》でも当て嵌まるか]

「……貧しいのと恥ずかしい方の性かな」

「ねねチヨさん二学期始まったらこれ観に行こうぜっ」四つ目クアートロ・オーホスが携帯を差し出す。

「おままだラーメ――ちょっ」液晶画面を覗き込む千代さん。「ハァハァって何だよ、ユーチューブでエロ動画流してんの?」

「いや私に振られましても」何故か詰るような視線を送られたドゥルシネーアが、それを逸しながら以下に続けた。「涼しくて時間潰せるとこって言ってババちゃんが、この辺に映画館ないかって」

「本編じゃなくて予告編ね、来月公開だから。再生再生、してみそ」

「こんな公衆の面前でか? 音消した方がよくね?」

「エロ動画じゃねえっつうのに」

 強いられるように旅舎前の歩道の端っこで動画を再生開始して黙って視聴すること僅か二十秒――

「パクられたっ!」[訳註:松居大悟が監督した二〇一五年製作の映画『私たちのハァハァ』。北九州に住む女子高生四人が好きな揺転楽隊バンダ・デ・ロックの生演奏公演を観る為、夏休みに自転車で東京を目指す物語。但し劇中で自転車が活躍するのは旅の序盤のみ。著者は動画の説明を省きつつも会話そのものは残して翻訳している]

「いや今年の夏休み明けに公開ってことは撮影は去年の夏とかっしょ。どっちがパクリっつったら全然お前らの方がパクリだよ」

「なんだ……と」

「東京から名古屋って千キロあります?」

「あるわけねーだろ。半分もねえよ」

「おっサンチョピンチ!」何とか相方の反応を引き出そうとニコニコーナが従士の肩を揺さぶる。「サンピン、チョ……《いやよ》押しとけば?」

184いやよって電話のヤツだろ」だが答えたのはギネアの王女だ。

「いやこっちの方です」親指下げプルガーレス・アバーホして見せる床屋の娘。

「あー、《こーろーせっ》て方か……」老馬マタローンには酷な宣告だ![訳註:《殺せマータロ》]「――ですよね姫様?」

「だから私に……ローマのコロッセオとかのね」

「なる……《ハァハァ》ってそっち(原註:荒い息遣いレスピラシオーン・ラーピダ)のね」映画の予告を視終えた千代が、携帯を持ち主に返しながら呟いた。「うちのダンナ様には見せないように願いましょうかね……しからばこっちも東海道走破しようとか云いかねませんので」

「東海道って終点京都だろ? 千キロじゃもう本州端っこの――岡山とか、下手すりゃ九州上陸せなならんぞ」[訳註:念の為、本州の西端は広島県である]

「岡山って名古屋より遠いですか?」

「日本地図も見たことないんかおのれは。きびだんご貰いに今から行って来いメガネザル」

「何を? ほんだらこれならどうだ!」

「いや更にモノホンに近付いてどうする」[訳註:反発したニコが一旦眼鏡を外したので、寧ろ通常のニホンザル――実際の昔話に登場する猿に寄ってしまったということ]

「多分東海道山陽新幹線なら直通で行けるよババちゃん」

「え、金足りる?」

「じゃあニコさんはこれから独り天竺に旅立つとして、――」

「え、鬼ヶ島でなく?」

「残ったうちらが時間潰す映画館は見つかったんかよ」上映中で暗転している劇場を独り抜け出し、〆の制作関係者紹介クレーディトス・デ・シエーレが流れるまでにどうにかして主人を探し出そうというのだろうか?

「そもそも探してませんのだ。てへ」

「探してませんのかよ」恐らく探す前におすすめ動画ビーデオス・レコメンダードスか何かに引っ掛かり、そのままハシゴでもしていたのだ。「その舌噛み切ってやろうか」

「えっそれって……」頬を赤らめるなノ・テ・ソンローヘス

「間違えた、その舌噛み切らせてやろうか……余計なもん見せやがって」

「んじゃどうする? ハコの下見でも行っとく?」御子神嬢が自分の携帯を取り出して言った。「ゼップって駅のすぐ下の――あっち側だっけ?」

「いやゼップじゃねえすけど……名前何つったかな、」千代は携帯に荷下ろし済みの入場券エントラーダ・デスカルガーダを確認する。[訳註:端末間の情報の転送は西descargar/subirが英to download/uploadに対応している]「こっからそんな距離ないはず」

「えっニャゴヤキャッソー行くんじゃねえの?」

「めんどくささが勝った」

「ウチ昔一回入った記憶あっけど正直あんま観るとこねえぞ? 結構歩くし」

「バスとか地下鉄とかで行きゃいいっしょ」

「中入ってからが歩くんだよ。無駄に広いし」件の徳川家康築城とのことだから、その敷地面積も国内最大級に違いない。「今あっちから来たしとりまこっち行ってみる?」

「結局歩くんかよ」

「日陰ならマシだろ」たしかに桜通の南側を通る分には、居並ぶ建築物が陽光の盾となってくれる筈だ。「徒歩圏内のがお姫部長も安心でしょう」

「お気遣い痛み入ります」

「それじゃチヨさんニコさん、参りましょうか」

「うわ……ミコ黄門だ」

 以上のような定型の遣り取りディアーロゴ・エステレオティーピコを経て、漸く一行は東進を再開した。


昨晩ラ・サンチャの騎士は同じ県道の北側で馬を走らせたのだが、これが昼日中であったとしても彼女であれば変わらず日の当たる道を選んだに相違ない。

「もう冷房の貯金が切れたんですが」一方、好んで苦難の道を歩くことを潔しとしないニコニコーナは、出発からものの五秒で弱音を吐いた。「アイス」

「角っこにあったのファミマだっけ? 寄っとく?」

「こんだけでかい通りなら歩いてりゃ三十秒おきにあんでしょコンビニ」

「冷たいものばっか入れてるとお腹壊すよ? お茶飲む?」

「いや水分百パーセントはそのままご腸内一周してすぐ下から流れてしまうので」

「昼は手羽先か味噌カツなんだろ、腹空かしといた方がいいぜ」大ギネアの王女が従士に意地の悪い視線を投げ掛けながら言った。

「それはどういうあれですか?」四人分奢るインビタール余裕はない。いや寧ろ静岡の時のように年長者の大盤振舞いに期待することこそが肝要であるデ・ビタール・インポルタンシア。「よろしければ姫にはこれを……」

「あっ夜のお菓子のうなぎのパイ!」

「これでパロミ陛下が手土産に鳩サブレでも持たしてくれてたら云うことなっしんだったのじゃが」[訳註:充電済みの携帯で西paloma《ハト》の語義を自ら調べたか?]

「なんで鳩……アレは鎌倉だろ」それは勿論、彼の女王はその下穿きの中に一本の片刃剣サーブレを隠し持っているからであろう![訳註:仏sablé《砂状のサブレー/サクサク食感の焼き菓子》と西sableを掛けた言葉遊び]「――ああ、オカマだから?」

「え、カマクラってこたレア氏んとこか」

「肉……アイス……肉……アイス……肉アイス肉アイス肉」

「うっるせえなあ、もう独りでスーパーカップ超レバニラでも食ってろよ」(《レバニーライーガド・イ・プエーロ》とは豚や牛の肝肉と大蒜葱セボジーノ・アホ等を炒めた料理)[訳註:著者は文意を汲んでLevanillaと表記しているが、そもそも英語のvanillaは西vainilla(vaina+-illa《小さなバーイナ》)を語源としている]

「何それガリガリ君ナポリタンより攻めてる!――期間限定?地域限定? そこのファミマで買える?」(《ガリガリ君》とは日本で最も安価かつ人気の棒付き氷結乳菓パレータ・エラードだが、そのナポリ風といっても香莢蘭/猪口令糖/苺バイニージャ・チョコラーテ・イ・フレーサの三色氷菓という訳ではなく、赤茄子醤ケーチュプで味付けした紐状麺スパゲッティス――つまり日本でいう<ナポリ風>風味サボール・ナポリターノということ)

「食いつき……」ミコミコーナが嘔吐いた。若さとは命知らずアトレビーダである。

「まァファミマになくとも……ローソンとかセブンには」

「セブンイレブンにもサーティーワンにも売ってねえだろ!」

「サ、サーティーワンのサーティーセカンドフレーバーとしてなら……」英語の序数表現は見事に習得しているものの、それ以外については早速暑さで頭がイカれ始めている。

「普通にカップ麺の方じゃないですか?」[訳註:安藤部長の発言]

「「「それだっ!」」」[訳註:明治のエッセルに関しては言わずもがなだが、エースコックの歴代超容器スーパーカップを調べてもレバニラ味は発掘できなかった]

「名古屋にも何とかラーメンありましたよね」

「台湾しょ、アッチは挽き肉だけど。これが寒ぃ時季とかだったらな……」どれが昼食に選ばれたとしても寿司やうなぎよりは安く付くであろう。「――まァ今ニラレバとかタラレバの話ししてもしゃあないか」

「タラレバのタラはタラコのタラですか?」

「お前は黙ってろい」ここ一週間で身に付いた責任感が、無学な級友コンパニェーラ・デ・クラーセ・スィン・エドゥカシオーン[訳註:第一章を振り返る限り千代と久仁子は同じ学級の生徒ではない]の暴走を許さなかった。

「ちゃーん」

「姫はアイスなら何味が推し~?」

「え~どれが一番ってことはないですけど……そうですね、薄荷ミントとかは割と」

「あちゃ~嘆かわしい、うちの部長姫がそんな歯磨き粉食べる趣味をお持ちだったとは!」

「それミント苦手なバカがバカの一つ覚えで言うヤツ。じゃあお前、イチゴ味の歯磨き使ってる子どもはイチゴ食わねえのかよ」

「えっ、食わんでしょ」

「言い切るなよ」

「あ、そうだチヨちゃん――じゃないサンチョさん」

「はい。言い直さなくて良いです」

「フロントには話しといた?」

「はなし――とは?」

「だからハナが戻ってきたら携帯に電話くれるようにとか、頼んどいたらと思うんだけど」

「あっ――しといた、ら?です」

「どっちだよ」歯切れの悪い返事にミコミコーナが口を挿む。「仮定つうより提案を意味する勧誘表現の《たら》だぞ」

「――しときました」

「いつ?」

「いつ?」一行を引き連れて戻った際には、千代が正面受付と会話を交わしていなかったのも筒抜けである。「――あ」朝方出掛けに言付けたと云ったら、その時点で主人が行方知れずとなっていたことが露見する。やはり嘘などは吐かぬに越したことがないようだ。「――今してきます」

「電話番号分かってんなら電話でよくね?」独り踵を返そうとした従者に言い諭す王女。

「あ、ありますわ」荷物の中を弄ると、昨晩彼女が入手せし館内の食事処をまとめた案内書――若しくは騎士に手渡された覚え書きかも知れぬ――が出てきた。「します――ええっと……ポチッとな、すぐ出てくれっかな?」

「チヨさんには《報・連・相》の概念が足らんのだよ」メガネザルが、城の受付係との通話を始めたエンペソッ・ア・アブラール[訳註:打ち間違いかもしれないが、正確には《通話を始めようとしているエスタッ・エン・プント・デ・アセール・ウナ・ジャマーダ》]相棒の抱える社会常識の欠如に苦言を呈した。「ポパイザセーラームーンだよ!」

「はい、あっもしもしすみません――」

「よく知ってんなそんなん。ポパイでセーラームーン特集とかやってそう……かな?」ここでいう《ポパイ》とは目玉の飛び出すオホ・サルトーン主人公の名を冠した雑誌のことである。「ん、あれって男向けだっけ?」

「読んだことないですね」

「コスプレするならやっぱレイちゃんなんですか?」[訳註:神社の娘で巫女だから。第十八章で著者も説明を付している]

「猿知恵かよ、短絡的過ぎるぞ」

「いや千年殺し(原註:背後から敵の肛門を指で突き刺す暗殺術テークニカ・アセスィーナ・ニンジャ)とか上手そうだし……あいてっ」

「セラムンのキャラってたしか中二とかだろ?」電話中の友人にちょっかいを出している少女に対してミコミコーナが苦言を呈した。「お前ら中三なのに足短すぎるよな」

「なんでもアメリカとかでプリキュア放送しないのは、八頭身じゃないと子どもに見えちゃうかららしいですよ」可愛く癒やす少女たちセーリエ・プリティ・キュアはイスパニア国内での放送こそ最初の二年間に留まったが、日本では二〇〇四年に開始して以来毎年一本ずつそれぞれ約五十話が現在に至るまで制作され続けており、亜細亜中心の海外展開も好調であるようだ。その驚異的な息の長さを鑑みると、船乗り月娘とは異なる戦略思想を以て作られているのだろう。

「姫も結構どうでもいいこと知ってんなあ!」ドニャ・キホーテですら幼少の砌はドラえもんを視聴していたのだから、ドニャ・ドゥルシネーアが《可愛く癒やす》や《船乗り月》を語っても不思議はあるまい。「子どもがケルナグールするのがNGって訳ね。リアルでは人殺しばっかしてる割にフィクションには厳しいよなあの国は」

「セラムンなんてパンチラばっかじゃねえか! プリキュアは健全だぞ」察するにその前身は古代プリュギアプリーヒア・アンティーグアの天使か何かだと思われる。[訳註:現在のアナトリア半島に位置した紀元前の王国フリュギア(羅Phrygia/古希Φρυγία)の一般的な西語表記はFrigiaだが、ここでは古風な発音に近付ける明確な意図を以てPrigiaと綴られている]

「ばっかアレは全国のチビっ子にあんな狂ったミニスカ履いたら丸見えだから気を付けろよっていう情操教育の一環だろいい加減にしろ」おお、子供向け慢動画の教訓主義ディダクティースモ!「あと変身後はレオチラな」

「……ぐぬぬそうだったのか、それならセラムンも健全だ」

「アレ亜美ちゃんまでピアス開けてんの何気にエグいよな」

「それ言ったらちびうさ……」

「ミコさんはどっち世代ですか?」

「いや流石にセラムンの本放送は物心つく前に終了してたと思うけど……」となると御子神は大学の三回生か四回生テルセーラ・オ・クアルタ・エダッだと推測できる。「プリキュアは初代は普通にニチアサで視てたかな」

「プリキュア!」

「「――マーブルスクリュー!」」声を合わせて笑うふたりの王位継承者。

「ミコ姉さんは兎も角部長がキモい会話しとる……」

「いやそこはこの歳で必殺技名憶えてる記憶力を褒めてよ」

「技名どころか決めポーズまで完コピしておられるとは……他にもっと何か得るもんなかったんすかい」

「何度失敗しても諦めない心を悪の組織の皆さんから学びました」

「はは、たしかに。たま~に結構いいとこまで追い詰めんのに結局最後は惜しいとこで逆転負け喫するしな、不憫が過ぎるわ」

「アレはどうあがいても感情移入せざるを得ない」

「いやほんそれ」

「大体プリキュアだって脚くっそ細いじゃんか……」

「やっぱドルシネちゃんはホワイトなの?」

「断然ブラック派ですね」

「うわ意外……ホワイトあの顔でアクションとかエグいしな」

「すごい澄まし顔で超絶技巧みたいな空中技みたいの決めますよね」

「ナメプですわ」

「チヨさーん助けて」

「――じゃあそういうことで、宜しくお願いします。失礼します」折返しの連絡依頼が済んだ従者は電話を切ると、相方を無視して会話に加わった。「私は敵倒した後に動物が毎回うんこするヤツが好きでしたね」

「うんこじゃねえよ! こころの種だよ!」

「きったね~」

「チヨさーん」

 天下の大道アベニーダ・デ・ファマ・ムンディアールで妙齢の乙女が交わすのに相応しいような牧歌的会話コンベルサシオーン・パストラールを垂れ流している内に、四人の旅行者たちは高速道路の高架橋が大きな影を落とす騒がしい交差点に差し掛かっていた。


遮蔽物が途切れ、信号待ちする少女たちには直射日光ルス・ソラール・ディレークタ土瀝青アスファールトに照り返される反射光レフレハーダがのべつ幕無し容赦なく襲い掛かる。

「それもうナナちゃんじゃなくて《さま》の方だから」[訳註:歌手・声優の水樹奈々のこと]

「ここらが我慢の限界よってか[訳註:勿論これは直前の脱糞に関する話題にも掛かっていよう]」長姉ウルズルが掌を翳して顔を歪める。「まァハナちゃんならはち頭身くらい余裕だろうし、殴る蹴るは兎も角切った張ったくらいは許されんじゃないかね、アメリカ様にも」

「張るってのは引っ叩くってことだと思いますが」実際ドニャ・キホーテはサカモンテシーノスの峠で悪漢のひとりを張り倒している。

「三日月ハゲの黒猫従士じゃ引っ掻くのでせいぜいだろうけど。あの――何だっけ白い、《燃えよ斬鉄剣》は斬り甲斐がありそうだったよね」突くというならまだしも、斬り甲斐云々は明らかな皮肉だ。[訳註:銭湯の番台で騎士が使った言葉は《燃ゆる炎剣》である。第十章参照]

「そいや岡崎の姐さん方には」千代は心的外傷を振り切る為か、単に荒事が安藤さんに露見するのを恐れてか、日傘の話題を継がずに話を戻した。「セーラープルートみたいって言われてましたね」[訳註:これも勘違いで、第十八章で花を冥王プルート呼ばわりしたのは従者自身である]

「あんなババアじゃねえだろ!」――というより本人は内心、《余は水夫にあらずヨ・ノ・ソイ・マリネーラ船長なりソイ・カピターナ》と反駁していたとも考えられよう。それはそれとして、恐らく件の船乗り冥女王は――実年齢はさておき外見は――御子神嬢と同程度の年齢であろう。(因みに漫画『ポパイ』の敵役はブルート)「せいぜいキュアムーンライトだよ、うん」

「私小三くらいまでは視てたはずなんすけど、キュアナントカとかほとんど憶えてないんですよね」

「脳が老化してるんだよ」

「あっアレ、黄色いの――キュアレモン?レモネードか、アレだけ五人の中で名前浮いてんなって思ったのは憶えてる」

「はじけるレモンの香りな!」そんな爽やかな美少女戦士ボニータ・ソルダード・タン・レフレスカンテに倒されるのであれば悪の組織も本望であろう。「次のフレッシュに入れてやれば良かったのにな」

「あとアレだ……ブンビーさん!」

「おっ、流石は《蜂の騎士》の家来!」

「なんで?――あっ、あぶなっ!」

「何?」

――この時、少し離れた場所から女性の金切り声が鳴り響いた。


同じ叫号が、少なく見積もっても三百バーラス[訳註:二・五エクトーメトロス]は隔てられておろう伝馬橋の西岸にまで届いていたと記して、現実と虚構の明確な線引きディブハール・ウナ・リーネア・クラーラを求める読者諸兄に果たして信じていただけようものか?[訳註:往来の騒音も鑑みれば、超常的な聴覚でもない限り現実的ではない]

 しかもそれを感知したのが、我等が地獄耳オイードス・デ・インフィエールノではなく地獄行きの耳オイードス・アル・インフィエールノの方だったとしたら?[訳註:これについてはドン・フアンの行く末を思い出していただこう]

「ん?」先刻ドニャ・キホーテが引っこ抜き損ねた標識の傍らに並びこちらも信号待ちをしていたジョヴァンニが、横断歩道を渡ろうと漸く持ち上げた片足を不意に戻すや微かな驚きの吐息と次いで呟きを漏らした。「何と野蛮なケ・バールバラ――」[訳註:比較的に聴き慣れた表現で《¡Qué bárbaro!》といえば《凄え》程度の意味だが、女性形なので文脈上は《粗野な女ムヘール・バールバラ》《下品な声ボス・バールバラ》を指していると考えられよう]

「何ぞ聴こえましたか?」

「いえ、――鳴神なるかみ?」[訳註:ここで漸く劇中の登場人物の口から聖バルバラと雷鳴についての言及がなされる]

「なっ……この川こそカタトゥンボというならば話も通ろうが、それがしの遠い耳にはとんと届きませぬ。それこそ黄昏際かわたれぎわ大蚊カトンボが羽音ほどにもです」騎士は両手を添えて耳をそばだてた。「もしや何処ぞの叢林そうりんに迷い込んだ神薙だか官女だかがけもの物の怪の類に出会し、手弱女たおやめの庇護者にして百戦錬磨の武辺者ぶへんしゃたる吾等に助けを求めておるのでは?」

「いえそこまでは……神、いや単なる耳鳴りかも」紳士は前進を再開し、尚も弁解めいて以下に続けた。「どうにも僕の耳は当てになりませんで」

「バルバラ――夷狄蛮戎いてきばんじゅうおうなというからには……イポリタの雄叫びかしら」

「ヒッポリュテー(原註:《馬を放てし者ラ・ケ・デサータ・ロス・カバージョス》の意)――《馬の解放者》とは、イポグリフォ殿からお目離めかれなさいませぬよう」

「何の、アマソナスの女王は種馬に目がないとも。兄こそ御用心召されるがよい」

「アレスが娘の目星はそれこそ屈強な武辺者のみとか」上背はあるようだがどうやらこの色男、この場合幸か不幸か筋骨隆々という風体コンプレクスィオーン・ムスクラール・イ・カルノーサでもないらしい。尤もアンフィトリオンにヘラクレスを装えというのも酷な話だ![訳註:招待主アンフィトリオーンとは、第二十三章で花に客室を貸した紳士に対し著者が勝手に与えた渾名。彼の不在中その姿に変装したゼウスが、妻のアルクメネを騙して同衾し産ませた子胤がヘラクレスに当たる。モリエールの戯曲に《真の主人ル・ヴェリターブル・アンフィトリョーンは食事を出した主人アンフィトリョーン》なる台詞があるが、本人を差し置いて客人を饗応に招いた偽物の逸話から皮肉にも歓待者の意味を持つようになったか。穿ち過ぎた見立てとなるけれど、アンフィトリオン/アルクメネ/ヘラクレス/ゼウスの相関図は実際大工ヨハネ≒ジョヴァンニ/マリア/イエス/父神(YHWH)にも置換され得るのでは?]「――ネメアの獅子を屠った勇者に肖れば、《獅子の騎士エル・カバリェーロ・デ・ロス・レオネス》の縁者が標的にならんとも」

「蒔く種も仕掛けも当方持ち合わせぬが、挑んできよるなら迎え討つまでじゃて!」

 華奢という点では女戦士たちの長ヘファ・デ・ラス・ムヘーレス・ゲレーラスの御眼鏡に叶うことなど、それこそジョヴァンニにも況して花の方がより期待を持てぬ筈だが、それでもこの忠告はラ・マンチャの憂い顔の騎士の血統をして再びその闘争心を否応なく叢々むらむらと湧き立たせずにはおれなかった。


しかしながら残念なことに、豪腕というより音波に敏感と呼ぶべき英雄エーロエ・エルクーレオ・オ・マス・ビエン・エルシアーノの導きでアマソーナス川[訳註:たった今堀川を発ったばかりであるが故の引用だろうが、無論ギリシャ神話の希Ἀμαζόνεςアマゾーネスと南米の葡Amazonasアマゾーナスは地理的に乖離している]を目指すラ・サンチャの騎士ではあったものの、か弱き婦人方か戦上手の女傑共、或いはその双方を見逃すまいと鵜の目鷹の目で辺りを見渡しながらの進軍であった為に自然歩みも遅くなったのが仇となったか、行けども行けども彼女が希求するような魅惑的な冒険にぶち当たる機会には一向に恵まれない。

「然様に急かずとも、蛮族どもの掃討などラ・サンチャが獅子蜂の針に掛かれば掛かっても半刻足らずで事足りるのでは?」

「そうは仰るがセビリアの……野人の強襲に怯え綿蛮めんばんが如きか細い声より上げる嘴を持たぬ尩弱おうじゃくの民からすれば、このドニャ・キホーテのような遍歴の騎士こそが唯一つの心頼りなのですぞ?」

「それについては……」徒らに戦意を昂揚させてしまった手前、それを無下に挫くのも余りに無粋というものだろう。「便りといえば山猫の――海猫でしたろうかかの鳴り物入りの」

「ふむ、何処ぞで油を売り歩いているものやら」

「¿Vendiendo el bálsamo maravilloso de Fierabrás?」

「...o un barril de aceite de serpiente.」[訳註:「売り歩くとはフィエラブラスが驚異の香油を?」「……或いは一樽の蛇の油か」《蛇の油》とは万能薬パナセーアの名を冠して売られたインチキ商品の代名詞]

「――従士殿に遅参する旨はもう?」

「それについては雁の――否、獅子蜂というからには差し詰め雀の玉梓たまずさですかな――如才なく兜鉢の裏に潜ませましたので」[訳註:第二十六章参照]

「潜ませ……まあ落款らっかんさえあるのでしたら」

「《Nunca las cartas de Amadís se firman.》[訳註:《アマディスの書いた如何なる書状にも署名は一切為されておらぬ》]」ドニャ・キホーテはそう豪語したが、たしかに騎士がネクロカブリーオの兜に仕込んだ添え文にも差出人の記名が無かったように筆者は記憶している――尤も従士やエル・トボソの姫君が音読しなかっただけかもしれない。

「ガンダリンやサンチョ・パンサその人が雁の――雀の遣いであれば」――受取人とて誰からの便りかを推し量るまでもあるまいが、今回は従者自身が宛先なのである。しかし安全帽は手渡しで贈られた訳だから、千代さんが手紙(と現金)の送り主を見誤ることもなかろう。といっても兜を受け取ってからその中身に気が付くまでに二十時間を要した為、気の毒な従者が一晩無用に気を揉んだことを我々は忘れていない。

「――たまかなる忠臣は雀のお宿でおとなしゅう待機しておるものかと」主人は都合のいい解釈を披瀝したが、本来一般に《雀のお宿ポサーダ・デ・ロス・ゴリオーネス》といえば雀が経営している宿泊施設を指すのである。「偶さか手土産の玉子を失くしたのこそ玉に瑕じゃが、あれは玉梓と違って兜に隠せる代物でもないですしの」

「進めすゝめ、足くすゝめ――」[訳註:以下、童謡『すずめのおやど』の元歌の歌詞より]

「咲く花も鳴く鳥も」

「「――面白き花園や」」

「おっと、止まれとまれ」

「一度に止まれ?」

 何の打ち合わせもなしに調和する歌声とは異なり行進停止の足並みが揃わなかったのは、偏にふたりの内の片方しか目的地の外観を見知っていなかったからだが、到着したその場所が紫陽花や蜂鳥の戯れる面白き花園ハルディーン・デ・フローレス・グラシオーソでもなければ――ドン・ジョヴァンニが称したような――無知文盲の未開の地バルバーリエ・アナルファベータでもなかったことに我々はより多くの注意を払うべきだろう。


恐らく出張中と思しきこの奇矯な会社員の行動原理はある意味狂気の女子高生よりも予測が困難だけれど、彼が余程名古屋の地理に詳しいのでない限り眼前にて命知らずを待ち受ける《悪魔の巣窟クビール・デモニーアコ》を発見したのは一時間前にレビアタンの塔から替え馬の橋へと至るまでの道程に於いてであろう。では何故その時に騎士を唆さなかったのかといえば、それは少なくともその時点ではその必要性を感じなかったからというより他ない。

「馬はあちらへ」そう言って手綱を預かると、色事師は向かいの馬駐までイポグリフォを牽いて行った。間もなく戻ってきたことから、これは路上駐輪と思われる。きっと他にも数頭が繋がれていたのだろう。イポグリフォの解放といえばアストルフォの十八番であるものの[訳註:しかもそうするように指示した使徒の名も又ヨハネである]、蛮野の女王が真に馬に自由を与える者だとするとそのお株を奪われてしまうことにもなろう。

「御丁寧に銘板プラーカなど立ておってからに……それがしとてそびらは立たずじゃ、逃げも隠れもせぬから早速お出迎え願おうではないか」無論穴蔵の外で踏ん張っていても誰も出てくる気配はない。「しかしドン・ジョヴァンニよ、この名は此処が阿片オピオ玉食オピパロだを食わせる享楽の暗穴であることを示すものでしょうか? それとも誰も取らぬかんぬきに胡座をかき、川から参上した負け知らずの英雌えいしを待たずして手前勝手に祝勝会を始めてしまったとか?」

「閂は抜いてあるような」建物奥に設置された昇降機の扉は当然左右に開くだろうから、閂を掛けたところでその役割は果たせまい。「まあ阿片で骨抜きという線なら」

「それでは干戈を交える甲斐もなしじゃが!」自動扉が開いた。「誰も居らぬ……にしても狭苦しい鬼窟ですな!」

「猫の額には慣れて居なさるものかと――では失礼して露払いをば」そう嘯くと紳士が先立って無人のカハの中に侵入する。「敵影尚も無し。ささ、騎士殿も」

「これは畏れ多い!」ドニャ・キホーテも後に続く。「この老兵も、貴公が火焔に捲かれた折には雀の涙を以て加勢せねばなりますまいて!」

「焼け石に雀の涙とは」苦笑するジョヴァンニ。尤も焼け石ピエードラ・カリエンテとは彼自身ではなく、到頭年貢の納め時を迎えし色事師に握手をせがんだ彫像――死したドン・ゴンサーロの方ではあるのだが。「それだけあれば火中の色魔もじゅうじゅう涼めようというもの」

「やれやれ、兄と連るんでおったらさとに帰る前に棄教者となりそうじゃわい!」

 扉が左右に開いた。

「捨てる神あれば――」

「いらっしゃいませー」

「――尤も、もとどりも元通りとは参らぬにせよ」

「琴鳥?」[訳註:スズメ目コトドリ科]

「蜂雀――否、蜂殿。先ずは僕がラ・サンチャの騎士推参の先触れとなりカタリノン――否、笛吹きクラリンの真似事をして参りますので」自分が目当ての女を誑かす以外の用途でわざわざ従者の身代わりを買って出るとは何とも殊勝な心掛け!「暫くここで」

「でしたらこれをお口に」ドニャ・キホーテはラムネの台紙を差し出した。角笛とは行かぬまでも只の口笛よりは口寂しくもなかろう。「それがしばかり頬張り[訳註:空中静止ホヴァリングと掛けている?]を強いられるのでは割に合いませぬ」

「これはこれは忝涙かたじけなみだが……では一管だけ」

「蜂鳥が羽撃はばたき疲れて落ちる前に戻ってきてくだされよ」花の蜜もなしに長々と宙空に浮いている訳にはいかぬ。「縦しんば耐え切ったからとて閃光のカトリーヌ[訳註:第十章の駿府城公園で千代が発した表現である。仏Catherineと西Catalinaは同語源なので、直前のカタリノンが連想元だと想像が付こう]がいぶし攻めに撃墜されんとも限りませぬ故な」

蠅鳥ワゾムシュ[訳註:仏語で蜂鳥を指す]の加護を持つからには、」セビーリャ男は錠菓を抓む為に差し出した指を途中で引き上げると、天井からぶら下がっていると思しき不可視の紐を握り締めた。「お疲れの折は蠅取り紙にしがみつかれるのも宜しいかと」

「拾う神より疲労時の紙とは洒落が効いておるけれど、床屋の馬飾りハエスが騎士の目には粗末な荷鞍アルバルダにしか映らぬこともありましょう[訳註:この辺りの遣り取りに関しては『ドン・キホーテ正篇』第四十五章を参照されたい]」アンジェリカの指輪の効能がドニャ・キホーテとジョヴァンニで異なったように[訳註:前章では指輪を口に含むことにより前者には透明化の、後者には解呪の効果が見られた]、ここでも騎士にとっての蜂が彼の目には蠅となって現れることがあって不思議はない。狡猾なるメルリンの幻術に、騎士の位格を備えた者のみを惑わす仕掛けが為されていることも考えられよう。それ以外の身分の小物であれば、逐一魔法を用いずとも到底彼奴の敵ではないからである。「じゃが余り愚図愚図しておると、ハエンからハエスが届く前にアルバセテから執行人アルバセアを呼ぶ羽目になりますぞ?」

「ウリョアからならよもや間に合いますまいが――」ここで執行人といえば当然ドン・ゴンサロの遺言執行人アルバセーア・テスタメンターリオということだ。[訳註:戯曲で終幕の舞台となるセビーリャとラ・マンチャ地方にある都市アルバセテを繋ぐ経路の、大体中間地点にあるのがハエン。ウリョアがガリシア州の中央部に位置することを考えると、セビーリャからの距離はアルバセテまでの約六割増しに相当する。但し既に死した騎士長の遺言ではなく、これから天罰を受けるフアン自身の遺言が花の念頭にあった可能性も]「遅くともア・マス・タルダール夜明けまでにはアンテス・デル・アルバ

はぁアインス……じゃあまた明日アオラ・アスタ・マニャナ」使者として箱の中から一歩踏み出すテノーリオを見送るドニャ・キホーテ。[訳註:この会話の最中、ずっと自動昇降機内側の《開》印を押しっ放しにしていたのだろうか?]「……おや奴め、一管を取りそびれているではないか」

 ここは《今朝の内にエスタ・マニャーナ》と釘を差しておくべきであったろう。何しろ日の出と共に天を翔け始めたヘリオスの四頭立てが――観覧車ノーリア小尾船ゴーンドラが頂点まで達した時のように――南中メリディオナールへと差し掛かるのにすら、これから数十分は待たねばならぬのだから。一体如何なる蜂や蜂鳥が一昼夜羽撃き続け、明日の朝まで持ち堪えられると言えようか!


実際のところセビーリャ人は夜明けどころか、ドニャ・キホーテが箱の中から首を出し[訳註:この一分前後の間に自動扉が閉まったり花の乗る箱そのものが昇降する音等は聴こえてこなかったことから、騎士自身が《開》を押し続けたか、若しくは挟まれ防止用安全装置スィステーマス・デ・セグリダッ・パラ・エビタール・アトラパミエントスを手で抑えていたのではないかと推測できる。他の階に利用者がいたらさぞや迷惑だったことだろう]、気晴らしで洞窟の奥に繋がる玄関口の弓型の鴨居アルバネーガスを眺めているほんの短い合間に無事帰参を果たした。

海鳥アベ・マリーナ!」鹿爪らしく十字を切りながら鳥籠ハウラへと駆け込むドン・ジョヴァンニ。

「それじゃ恐ろしい夜明けアルバ・アトロス――じゃない、アホウドリアルバートロスじゃ」扉が閉まった。「――して、首尾はどうです?」

「首は猿、尾っぽは蛇[訳註:鵺のこと。第二十七章の花の発言も参照されたい]と申し上げたきところですが、」それでは不細工な鳥アベ・マリータだ!「文明より遠き暗晦の地と思われたこの魔窟にも、ラ・サンチャの誇る蜂と紫陽花の騎士の高名は等しく轟いていたとみえ」

「何と、言葉も解るので?」

「ええ、――挑戦してきたのが凡百三一さんぴんの鉄馬であれば軽く捻ってやるのに吝かではないものの、これがドニャ・キホーテ相手となると逆立ちしようが酒断ちしまいがとても勝ち目はない故に、交えるなら後生だから是非とも干戈より勧盃の方で願いたいと」

「成程、彼を知り己を知ればという訳か」幾ら野人といえども自分の力量を弁えているのなら、その勇断は評価せねばなるまい。でなければそれは単なる弱い者いじめティーピコ・デ・アゴビアール・アル・デービルだ。「御承知のこととは思うが、それがしは原初の民を十把一絡げに掃滅せんだとか、叡智の光も届かぬ暗愚の洞に凍える蛮語使いバルバロイを哀れみ啓蒙してやろうだとかいう不遜な心得違いをしているのでは御座らぬ。物質文明の灯火に温みつつ頭の中は空っ風という蒙昧な輩が五万とあるのに等しく、文盲無筆の身ながら誇り高く廉潔に暮らす僻偶の賢人も又おろうからな」

「天晴なるご料簡、左様然らば……」少女がカビーナの外に出るよう促すと、入れ替わりにジョヴァンニはその中に入った。

「セビリアの?」

「――色違いはこれにて[訳註:著者は《色気違いサーティロ》と訳出]」花は時計を持っていなかったが、そういえばそろそろ正午になんなんとする刻限なのである。たしか午後一時には、同僚を伴って会議だか会合だかに参席せねばならないのだ。今から投宿先に戻っても一時間と眠れまい。

「おや女の園を前にして、世紀の色好みが裸にもならず逃げの一手とは……」やはりここでもあの指輪が彼の姿を消してくれることはなかったようだ。となると一度餓えたアマゾネスに見付かれば骨の髄までしゃぶり尽くされてしまう。「ヘクトル殿が手も出さず目もくれずの黄泉醜女よもつしこめとなれば俄然それがしも興味が湧いてきましたわい……どれ」

「Je ne crois ni à ce que je touche ni à ce que je vois...」[訳註:直訳すると「私は触れる物も見える物も信じない」]

「――ドレ?」

「...Je ne crois qu'à ce que je ne vois pas et à ce que je sens.」[訳註:「信じられるのは見えぬ物と感じる物のみ」]

「Très juste!」花は同意を示したが、ともすれば先程我々も目にした伝馬橋での勝利に飽き足らず《三度の槍試合トレス・フースタス!》と叫んだとしても紳士は咎めなかったであろう。「尤もそれではギュスターヴ違いでしょうがな」[訳註:我々が『ドン・キホーテ』の挿絵として先ず思い浮かべるのが十九世紀フランスの画家ギュスターヴ・ドレの銅版画だが、《Je ne crois》で始まる引用は恐らくほぼ同時代を生きた同じく画家のギュスターヴ・モローからだろう。因みに現代フランス語では、馬上槍試合を《正しいジュスト》でも《近付くジョスト》でもなくjouteジュットと綴る]

「Juste milieu...お互い虻蜂取らずとならぬよに――」《虻も蜂も捕れないニ・ターバノ・ニ・アベーハ・アトラパール》という諺は大半の日本人に《二兎追う者は一兎も得ずキエン・スィーゲ・ドス・リエーブレス・ニングーナ・プレンデ》という別の諺を想起させる。擂り鉢に大蒜にんにくを入れ過ぎると上手く潰せない――そう、蜂の騎士との同行は愉快だけれど、野兎の従士との仕事だって疎かには出来ないのである。「……そうそう、隠宅エルミタージュの猫さんには、」

「エルミタージュ?……ああ」朝食を摂る前に行く末の隠居生活ビダ・デ・エルミターニョスについて語ったのを、彼は律儀にも憶えていたのであろう。[訳註:第二十六章参照。但し該当する箇所を再読すると、牧女としての相方はドゥルシネーアを想定したような描き方が為されている。こうなると紳士はあの時点で既に、姫と従者を天秤に掛けるが如き騎士の心中を慮っていたのかも知れない。余談だが美術館や図書館に限らず、史料や文化財を扱う施設では鼠害を防ぐ為に猫を飼育する風習が古くよりあった]「あちらは蜂鳥エルミターニョよりは海猫ガタ・マリーナに近いけれど」

「――くれぐれも宜しくお伝えをば」

「然様に仰るからには、鬚の魄霊はくれい殿との晩餐には是が非でも御招待を」飼い猫不在の中、客寓にある孤独な騎士の無聊を慰めてくれた(少なくとも彼女の前でだけは)清白なる青年が切り出す突然の別れには、平素は鉄の心のドニャ・キホーテも名状し難い名残惜しさを禁じ得なかった。「然もなくばこれが今生の――?」

「貴女様がカンパネルラでないにせよ[訳註:携帯電話の暗喩であった釣鐘草の各語訳を復習すると、独Glockenblume/西campanilla/伊campanellaである。第二十三章で千代さんをピーターパンに付き添うティンカーベルカンパニージャに喩えていたことは思い返すに値するだろう]」ジョヴァンニはにこやかに応じた。「――佳き連れ合いコンパニーアをお持ちのようですし、機あらば重ねて相見えることも或いは」

「ドン」

何にせよそうなるかとロ・ケ・セラ・パサラ」扉が閉じてゆく。「Più non cercate.」

「Lontano andò…」彼は遠くに行ってしまったセ・フエ・レーホス……降下する箱の起動音が遠退いていくのを耳に感じながらドニャ・キホーテがそう呟いた矢先――

「どうぞこちらへー!」

どうやら騎士は女たちの室内庭園ハルディーン・インテリオール・デ・ラス・ムヘーレスへと招き入れられたようだ。


斯くしてラ・サンチャの精華は恐怖の椅子スィジャ・デ・オロール――ならぬ名誉の椅子スィジャ・デ・オノール[訳註:上座?]へと通された。大袈裟に思われるかも知れぬが、仮に彼女が遇するに足る勇者であると認められていなければ、首枷・手枷・足枷の三拍子揃った審問椅子スィジャ・デ・インテロガトーリオに腰掛けさせられていてもおかしくないのである。

「あら~キレイな髪ですね~でらうらやま」女戦士のひとり――この娘をヒッポリュテーかペンテシレーアと断ずるには些か物腰が柔らか過ぎるのだ――が花の背後に周り、鏡越しに眺めながらその長い黒髪を撫でた。普段なら一刀両断に付して如くはない斯様な無礼を騎士が許したのは、来賓の髪に香油バールサモを塗る行為がこの部族最大級の敬意の表れと忖度したからか。それに両断しようにも所持しているククリヒメでは突き刺すのが精一杯。「あら、ここだけ……自分で切りました?」

「鼠に齧られましてな」

「そんなドラえもんじゃないんだから」猫型機械人形ローボト・コン・フォルマ・デ・ガトであるドラえもんに耳がないのは、午睡の最中ネズミに齧られたからと謂われている。謂われているといっても今から百年前後先の話であるから、史実として書き留める役目は後世の歴史家に委ねるとしよう。「どうしましょっか……揃えるのでいい?」

「只切れば宜しい、良しなに」

「只切る? タダでは切りませんよ」マリア[訳註:この時点では先刻ジョヴァンニの発した《アベ・マリーナ》からの連想に過ぎないけれど、実際にはもう少し複雑な事情があるようなので後述する。表記は西語風のMaríaではなくMariaだが強勢アセーントの位置は同じ]は冗談めかして笑いつつ以下に続けた。「……支払いはもうお済みですけど」

「陣払い?」

「どうどう」立ち上がらんとした騎士の両肩を押さえ付けるマリア。こちらも腕力には覚えありということか。大した歓待振りである!「大丈夫大丈夫。じゃあえっと、切るのはこんな感じで?」

「Más arriba.」

「まじありーば? なし寄りのありってこと?」ほぼないけどギリギリありカスィ・ノ・ペロ・アペーナス・スィ? 聴き返したいのはこちらの方だ!「どこ弁?」

「もっと上ということですじゃ」

「上?……このくらい?」

「もっと」

「……ここ?」

「もっと」

「どこ?」

「……ここ」

「そこ……マジで云ってます?」

魔法のようにマジカメンテ

「全部イッちゃっていいの? どうせなら名古屋巻きにしません?」

魔法マヒア機械マキナも御座らぬ。一思いに全部イッちゃってくだされ」

「めっさもったいない……かしこまりました。では一度お流ししますのでこちらの方にどうぞ~」マリアは騎士の座る椅子を回転させて起立を促す。「――なんかこんな映画ありませんでしたっけ、でら昔ので?」

「めっさ――髪型メッサ・イン・ピエーガ……」花は腰掛けたまま暫く呆けていたが、何かに思い当たるとプッと噴き出してそのまま破顔した。

「何? どしました?」

「そうか、『老婆の休日』とはこれか」[訳註:これは第十八章で千代がパロミに向け発したセリフだが、花は老馬または驢馬と受け取った可能性も捨て切れない]

「そうそうローバローバ!」マリアは両手を打ち合わせてから、それを今度はドニャ・キホーテを立たせるのに使用した。[訳註:二十秒前には立たせない為に使っていたので]「いやでらローマでしょ。はいどうぞ」

「Grazie, madonna Maria Delani.」[訳註:則ち映画『ローマの休日』でアン王女の髪を切る美容師の名こそマリオ・デラーニなのである]

「ユーウェルカム」

 騎士はそれ以上女戦士の手を煩わせることなく素直に洗髪台ラバカベーサスへと移動した。

「じゃあヘップバーンみたくしちゃいます? 流石に切り過ぎか」出し抜けに蓮口からの噴湯が始まる。「お湯熱かったら云ってくださいねー」

「どれどれ……シャルロッテの機嫌はどうじゃろうな――」

 ラ・サンチャの蜂が震わせる微かな羽音は、屋根の下の土砂降りアグアセーロ・バホ・エル・テチョによって唐突に掻き消されたのである。


勘の良い読者は橋の上から既にお気付きだろうし、然程察しの宜しくない方でも間もなく勘付かれたことと拝察するが、ご承知の通り阿僧祇花が誘い込まれたのは蛮族の巣窟アントロ・デ・バルバーリエなどではなく只の理容室ウナ・バルベリーア・フスタだった……否、より正確を期するならそれは理髪店バルベーロですらない。というのもこの階層ある洞穴クエーバ・デ・ピーソス――カッパドキアの石窟寺院を思い浮かべるがいい――の中を見渡す限り、バルバの生えている野人など一人として見当たらなかったからである。[訳註:つまり美容室ペルケリーアだったと言いたいのだろう。店員や客にも男性は居るだろうし、であれば鬚の百本二百本を生やした人間があっても至極自然とはいえ、再三断っているように著者には耳はあっても目は無い訳だから、所詮見渡すことなど不可能という理屈だ。因みに西peluqueríaのペルーカとは付髪のこと]

 ことによるとドン・ジョヴァンニがこの場を逐電したのは、優秀な子種を求めて男を漁る浅ましき女傑たちから身を守る為ではなく、不世出の英雌エロイーナ・スィン・パランゴーンドニャ・キホーテその人と距離を置くことこそが眼目だったのではないか? 何故ってもし彼女を映画『ローマの休日』の主人公エロイーナたるアンアンナ王女の表象と見立てたのだとすると、その名の女性と関わること自体が彼に殺人を犯させ、結果として地獄に引き摺り込まれる端緒となり得るのだ。[訳註:自分に夜這いを仕掛けた男に父親を殺された貴婦人の名は『セビーリャの色事師』ではドニャ・アナ、『ドン・ジョヴァンニ』ではドンナ・アンナと呼ばれる]

 とどのつまりこの真実の物語に於ける二名の主人公が件の大交差点アンテディーチョ・グラン・クルーセにて交わることはなかったが――しかし皆さん、あれはほんの一分足らずの擦れ違いだったのだ!――、次章は改めて半坐千代とその一行に出来した珍事から起筆することとしよう。というのも――どなたかひとりでも憶えておいでだろうか?――この『ドニャ・キホーテ』も遂に第三十章を数え、第三十章といえば……そう、今一度第九章を読み返していただこう、五日前に――既に五箇月は過ぎたようにすら思える!――猫の従士が自ら手羽先を食すだろうと予言した章だからである。[訳註:読者に読み返せと指示しておきながら自分では参照しなかったのか、著者はあからさまな誤謬を犯している。第九章での従者の発言を顧みれば、主従が手羽先ならぬエビ揚げフライを食べる筈だったのは遥か前の第二十章であり、三十章では無事、《夜伽》も終えて東京に帰還しているだろうとの予測が述べられていたことが分かるだろう]

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