第2話



 微笑う音がして、眠っていたネーリが瞳を開いていた。

「くすぐったい」

 ネーリはフェルディナントを咎めず、笑ってくれた。その優しい笑い方に惹かれて、フェルディナントはうつ伏せだった体勢を仰向けに変えたネーリの額に、唇を寄せた。

「おはよう」

 今は深夜だけど、朝に駐屯地を出た時、ネーリは薪の倉庫で夢中で描いていたので、フェルディナントは邪魔しないよう、声を掛けずに出てきた。つまり顔を合わせて言葉を交わすのは昨日ぶりなので、そういう挨拶になった。

 ネーリは「おかえりなさい」と言ってくれる。

「驚いた。この絵、すごい変わったな。二日前に見たけど全然違う」

 ネーリはフェルディナントの手を握ったまま、頷く。

「雲描いたの」

「俺なんか……絵を描かないから、雲を描く、っていうと雲を本当に描くことを思うけど、

雲の影や、影の無い光の部分を描くことも『雲を描く』って画家は言うんだな」

 フェルディナントは、公爵位も持っているが、あまり画家とは交流はないようだ。こういうことを驚いたり、気付いたりしてくれて、楽しんでくれることがネーリも新鮮だ。

「これで完成したのかな」

 ネーリは頷いた。ゆっくり、身を起こす。

「うん。これで決まり」

 フェルディナントが抱きしめて、背を撫でてくれる。

「おつかれさま」

「ありがとう」

 ネーリはフェルディナントの肩に頬を預けて、微笑んだ。

「ネーリは幻想的な絵も、写実的な絵も描けることは知ってるけど、これは本当に風景からそのまま切り抜いたみたいだな。お前の絵がすごいのは知ってたけど、なんていうか……この絵はまた違う気がする。力があるよ。俺じゃ、上手く言えないけど……鮮やかで、存在感がある」

 ネーリは嬉しかった。

「そんなことない。力を感じる、絵にしたかったから。フレディに伝わって、嬉しいよ。

これはイアンにあげて、絵を見慣れてる王妃様に送ってもらうから……。幻想的な絵より、現実を感じる絵にしたかったんだ」

「王妃もきっと満足するよ」

「ぼく、あんまり依頼を受けて描くこと無いから、珍しかった。でも『あの人にあげるために描く』とか『あの人を喜ばせるためにどうしたらいいかな?』とか考えて描くのも、楽しいね」

 自由に描くのが好きなネーリだが、新しい楽しみも知ったようだ。描き切ったことに充実感を感じているのが、表情で分かる。こんな絵を描き切ったら、それは嬉しくて仕方ないだろうな、と思う。少し頬を色づかせて、そんな風に言ったネーリを可愛く感じて、フェルディナントは目を細めて眺める。

「フレディさっき写実的に仕上がってるって言ったでしょ? 一つだけこの絵の中に、本当の景色と違う部分があるんだ。どこか分かる?」

 フェルディナントは首を傾げる。

 スペイン艦隊が停泊している港はこんな近くで見に行ったことはないが、実際こうなんだろうなと思うくらい、実際の景色のような仕上がりだ。

 ネーリが立ち上がって、絵の側に歩いて行く。

「ここの水面に映ってる影の色。本当はもっと赤みがかってたんだ。船体の色が、影になって。でも深緑色でしょ?」

「うん」

「これは、イアンの瞳の色」

 ネーリが悪戯っぽく笑った。

 フェルディナントは目を瞬かせてから、声を出して笑った。

「そうなのか。言われないと全然分からなかった。不自然じゃない。美しい色だよ」

「アントンにあげる絵だったら、船体の色味を出したんだけど、お母さんが見るなら、ただ現実的なだけじゃなく、何か懐かしい色をどこかに置いてあげたくて」

 ネーリの絵には彼の感性が現われるけど、どこかに必ず優しい雰囲気がある。こういうところなのかなと思う。

「いい絵だな」

「ありがとう。フレディ、イアンにこの絵渡したいんだけど……」

「あいつは今、王宮勤めをしてるから駐屯地にはいないんだ」

 ネーリは瞬きをする。そういえば、王宮でイアンを見た。フェルディナントは事情を知っているようだ。これを機会に、尋ねてみる。城にはラファエルの助けを得て、再び行くことになる。その時に再びイアンに鉢合わせるのは避けなければならない。

「王宮?」

「うん。王妃から新設する近衛団の団長に任命されて、その編成に追われてた。もう終わったみたいだけど、あいつは今王宮にいるよ。王宮にも隣接する騎士館があるんだ」

「お城を守るお仕事?」

「そういうことになる」

 だからあんなところにイアンがいたのか。ネーリは納得した。

「忙しそうだが心境的には退屈してるようだ。あいつは駐屯地とか城下町と下の方が好きだからな……。この前街の守備隊本部に来てくれたが、肩が凝ると嘆いていた。お前が王宮の絵を描きたかったら、ぜひ自分が案内するから来ていいと言ってたぞ」

「お城の絵かぁ……」

 そんな理由で入れたら楽だ。でも無理だった。

 王妃はネーリの顔を知っているし、その周囲にも知っている人間がいる。

 それに、時折ネーリは自分の周囲に、監視の目を感じることがあった。そんなに厳しいものではない。ネーリの一挙一動を確認するものではなく、そこにいるか、遠くから窺っている程度のものだから、あまり気にしないようにしている。

 勿論だが、神聖ローマ帝国軍の駐屯地ではその視線を感じたことはない。

 ネーリが先だって負傷したあと、駐屯地の外に出ていないのは、監視に負傷したということを知られないようにするためだった。

 城の者達は【仮面の男】は死んだと思っているだろうが、同じ時期に深手を負ったと報告されて、万が一、そんな所からも城に忍び込んだことを気取られるのは避けたかった。

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