海に沈むジグラート31

七海ポルカ

第1話



 夜警明け、フェルディナントは白み始めたヴェネツィアの城下町を抜け、北西にある神聖ローマ帝国軍駐屯地に戻って来た。ネーリは回復して、絵も描き始めたのだが、街の方には戻っていなかった。

 フェルディナントは襲撃について深く追及はしなかったが、干潟の家に行く時は、一応護衛を付けさせてほしいとそのことは、ネーリに願った。街の方に行く時は、護衛が煩わしいならつけなくても構わないが、馬車や馬は必ず使うこと。ネーリはよく馬も使わず街道を歩いてヴェネツィアの街まで行くことがあったので、それだけは今は守るようにしてもらっている。

 本当は、彼が好きなペースで歩きながら、ヴェネトの風景を眺め、何となくその場で描きたいと思った所で立ち止まり、描けるようにさせてやりたかったが、今はさすがに心配なので、仕方なかった。とはいえ、ネーリは今、集中して駐屯地で絵を描いているので、偶然だが街に行くきっかけから離れている。強制はしたくなかったので、フェルディナントは安心した。しばらくはこうして、目の届く場所で穏やかに過ごしていて欲しい。

 ただ、子供たちは寂しがっているだろうから、フェルディナントは時々帰る時遠回りをしてミラーコリ教会に寄るようにしている。神父は駐屯地で週に一度礼拝をしているのでよく会うが、子供たちはネーリが姿を見せないことを心配しているだろうと思ったのだ。「駐屯地で大きな絵を描いているよ」と言うと、目を輝かせて「楽しみーっ」とはしゃいでいた。どうやらネーリは絵を描く旅にヴェネト中を回ることがあったので、数カ月留守にすることもよくあったらしい。子供たちは彼の留守の意味を、ちゃんと理解してくれているようだった。絵を描いているのだということを。


 ネーリは駐屯地では眠る場所が三カ所あり、一つが今まで寝ていた騎士館の寝室で、もう一つが『竜の森』を描いている薪の倉庫、そして三つ目が完成間近の駐屯地北にある新しい騎士館のフェルディナントの寝室である。

 どこで寝ているかは非常に分かりやすい。

 最初の騎士館は明かりがついていればいることが分かるし、暗くても、帰還を報告すれば騎士がネーリ様は戻っておられます、と教えてくれるからだ。

 薪の倉庫は騎士館に入る時に明かりがついていれば分かるし、そこも暗ければ新騎士館で眠っているということになる。

 今日は、駐屯地に入ってすぐ、聖堂に隣接する騎士館の二階に明かりがついていた。

 一階には休憩室があるので、夜中だが、夜警待機中の騎士たちの姿がチラホラとあった。

 それぞれ武器の手入れをしたり、本を読んだり、好きなことをしている。

 フェルディナントは最近はほとんど北の騎士館で寝泊まりするようになったが、ネーリに会うために二階へ上がった。

 ネーリはあまり部屋を閉め切らない性格をしてるので、扉も開けたままだった。一応こんこん、と軽く叩いてから、開いてる扉から中を覗き込むと、ネーリがベッドの上で眠っていた。毛布に包まってというより、少し休憩がてら横になって休んでいたら眠ってしまった、という感じだ。

 もう紅葉も深まり、日が落ちると気温が一気に下がる時期になって来た。

 ネーリは薪の倉庫で今大作を描いている。

 しかしここでも絵を描いていて、ここで描いているのはイアン・エルスバトから依頼されたスペイン艦隊の絵だった。大分前からほぼ完成していたのだが、ネーリは納得するまで時間が掛っていた。

 いつも大らかで、穏やかな性格をしている彼が、真剣な表情で絵と一対一で向き合い、細かい修正を繰り返している姿は、フェルディナントにとっては新鮮に思える姿で、こういう一面もあるのだなと興味を引かれる。こちらの絵は仕上げに入っていたので、そういう表情をこの部屋でよく見た。

 気持ち良さそうに寝ていたので、このままここで寝かせてあげよう……と思い、フェルディナントは側の毛布をそのままネーリの身体に掛けてやろうとした。

 そして、ふとイーゼルに置かれた絵を見て、思わず息を飲んだ。

 ネーリの絵の特徴を、風のある風景だ、と言っていたのはラファエル・イーシャだったか。


 ヴェネトの港に停泊する、スペイン艦隊の絵だ。

 メインの船と、奥に一隻見える。

 だが帆は畳んでいるのでそれを見て風のあることは確かめられない。

 でも確かに、風が『視えた』。

 風があると、木々や雲が動くから、光が動くと言っていた。

 ほんとうだ。

 ネーリはこのところずっと、この絵の陰影を変化させていた。

 フェルディナントは芸術に疎かったので、どこがどうということや、明確なネーリの意図は分からなかったのだが、ニュアンスが日によって確かに変わって見え、この些細な違いが芸術家である彼にとっては重要なのだろうと思って感心していたのだが、今日は劇的に絵の印象が変わっている。

 空に雲が付いたのだ。

 光の陰影の先に雲がついて、光がどこから来るのか、はっきりと道筋が見えた。

 ネーリは、先に光が当たる場所の色を調節していたのだと初めて分かった。

 フェルディナントは絵を描かない人間なので、光の描き方など想像もつかなかったから、驚いた。これが描きたかったのか、とすぐに分かった。

 ネーリは幻想的な絵も描けるし、写実的な絵も描ける。

 これはまさに写実的な絵だ。

 スペイン艦隊の船特有の赤みがかった船体の色が、陽射しが当たる部分だけ明るく輝き、海の青と、本当に美しい。組まれた木の模様までよく見ると描かれている。

 ヴェネトの海特有の明るい水の色、そこに浮かぶ船の赤みが映り込む部分は色が変わるが、それがまた、影まで鮮やかで美しい。

(すごい)

 ネーリの絵にはいつも息を飲むけど。

 これは熱量がまた違う感じがする。

 フェルディナントはベッドで力尽きたようにあどけない顔で眠っているネーリを見下ろした。そっとベッドの端に腰を下ろす。

 こうやって見ると本当に、非凡な才能の持ち主というよりは大らかな穏やかさの方を感じるのに。でも、この絵を描いた人かと思うとその純朴な雰囲気が逆に、存在感を引き立たせた。不思議な人だ。

 やはり彼は、他の誰とも違う。

 惚れたからそう思うんじゃない。

 いや……もしかしたら特別な才能を与えられたその器、そこに宿る感性や人柄も特別なものだからこそ、こんなに新鮮な気持ちで彼にいつも恋心を感じるのかもしれないけど。

 起こすつもりはなかったが、触れたくなって、ネーリの髪に触れた。

 柔らかい栗色の髪に、愛しさを感じる。


 先日、泣いていた姿を思い出した。

 追及する気はなかったが、一体、ネーリがどんな事情を抱えているんだろうな、とフェルディナントは想いを馳せる。

 名前も本当のものではないと言っていた。でも、フェルディナントに対する秘密ではないとネーリが言ってくれたことが、どこか心の守りになっている。

(なにを抱えているんだろうな……)

 ネーリが何かを抱えていることを感じても、偽られているという感じは全くしない。

 この前負った傷のことと、彼の本当の名……。名を刻めない彼の絵。

 全ては繋がっているのだろうか?

 彼の抱えている全てを知りたい、暴いてしまいたいという欲求と、同じくらい、ネーリが自ら語り始めるまでは、待ちたいという欲求がある。……いや、暴きたくないの欲求の方が強い。

 ネーリは「話したい」と言っていた。

 それでも話せないことが今はある、と。

 それならそれを待ちたい。

 無理に暴いたら、秘密はなくなるかもしれないが、ネーリの心まで失いそうな気がするのだ。それ以上になんだか心どころか、彼自身すら、フェルディナントの前から姿を消してしまいそうな、そんな予感がする。

(それは絶対に嫌だ)

 ネーリが自分に、心を向けてくれていることを、今でも感じられる。

 秘密を抱えていると分かった今でも。

 それどころか、多分、フェルディナントを想ってるがゆえに、ネーリは秘密を抱えてくれているのかもしれない、そんな風にすら感じるのだから。

 ネーリは傷のある手のまま、絵を描き始めていた。

 右手の手の甲に、傷が走っていたが、包帯は取れた。

 それでも、まだ、傷痕はある。

 肩も、大きく動かさなければ痛みを感じないようになると、彼は同じ体勢で描けるスケッチは描き始めていた。

 本当に、毎日でも描いてないと生きていられないみたいだ。こういうのも才能なんだろうなと思う。

 ネーリは怪我をする前は毎日のように駐屯地の色々な場所を歩き回ってスケッチしていたので、竜騎兵団の騎士たちもネーリが負傷し、起き上がれない期間は姿が見えなくて心配していたようだが、彼がまたスケッチを描き始めると、安心したようだった。

 まだ深手を負った方の手はあまり動かせないのに、いつもは器用に両手に筆やペンを持って両手でスケッチを描いているのだが、今は動かない手の代わりに口に一本ペンを咥えて夢中でまた駐屯地や騎士たちや騎竜を描き始めた姿に、騎士たちは目を細めながら感心していた。

 面白いのが、ネーリはフェルディナントの言いつけを守り、フェリックス以外の騎竜には慎重な距離で触れないように接していたが、ネーリがまた騎竜たちを側でスケッチし始めると、騎竜たちがそれに興味を示したようだ。以前はそんなことはなかったのに、明らかに絵を描いているネーリの方をじっと見ている竜が多いらしい。つまり、騎竜達もネーリの顔をすでに覚えていて、彼がいない間の不在をどうしたんだろうかと思っていて、戻って来たことに気付き、興味を持っているということだ。

 隊長騎フェリックスがネーリに興味を示すのは幼獣の時の『刷り込み』が理由だが、他の竜はそういうものがない。だから当然他の人間同様、他の騎竜は、ネーリといえども軽率に近づくと危険な可能性が高いのだが、ネーリ復帰後の竜たちの反応は、非常に興味深かった。

 神聖ローマ帝国にしか竜は存在しない生物だが、神聖ローマ帝国でも竜は尊い存在とされ、個人が愛玩動物として飼育されることは許されない。国の財産であり、使命を持つ者は戦いに従事する。よって、騎士たちも、竜というものが竜騎兵以外とこんなに長く接することを見たことがないので、竜たちとネーリの関係の様子は非常に興味深いようだ。

 竜たちとネーリは怪我を恐れて接しては過ごしていないので、竜たちの方からネーリに興味を抱いているということになるからだ。ネーリ様が現われると、そっちを見るようになりましたと方々から報告を受け、フェルディナントも非常に興味深く思っている。そして驚きもあるのだ。竜というのは、集中力の高い生き物だとは思っていたが、彼らも周囲の環境に、決して無関心というわけではないのだろう。自分たちを重んじ、気に障らない一定の距離を保ちながら、向けられる敬意は理解するのかもしれない。

 人間同様、自分たちに向けられる視線や空気の、敵意や好意をきちんと感じ取り、自分たちを慕う者が姿を見せないと、どうしたのだろうかと思うことが、あるということだ。

 全ての人間が、ネーリと同じことが出来るというわけではないのだろうが、『刷り込み』関係にない竜がネーリに興味と好意を示す姿は不思議だった。ここの竜たちの隊長騎であるフェリックスがネーリに懐いていることが、果たして関係しているのか、そういうことも興味は尽きない。

 もしかしたらネーリが竜騎兵になったら、非常に優秀な竜騎兵の素質を持っているのかもしれないな、とフェルディナントは考えて小さく笑ってしまった。

 美しい、非凡な絵を描き、

 竜にすら、心を開かせる。


(ほんとうに、不思議な人だな……)


 フェルディナントはネーリの手を取り、傷の痕の残る手の甲に、そっと唇を寄せた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る