3 鉄と海のにおい
自分を馴染みの相手に選んでくれた理由は分かった。そしてそれは納得するしかない理由だった。だが、ジーンにはもう一つ、もっと知りたいことがある。
どうして自分の初客になることを断ったのか。本当に聞きたいのはそのことであった。
もしも自分が気にいらずに断ったのなら、その後も客になることはなかっただろう。まだ1回だけなら試してみたという気持ちも分からないことはない。だがその後トーヤは自分のことを気にいってくれているらしい。どうして常連になったかと聞いた時にもはっきりそう言っていた。
ならば女将からの申し入れを受け入れてくれてもよかったのではないか、気にいる可能性があると思うのなら、それほど嫌ではないのなら。ジーンは何度もそのことを聞こうと思っては聞けずにいた。もしも聞いて怒らせてしまったらどうしよう、もう来てくれなくなったらどうしよう、そう思うからだ。どうして気にいってくれたのかは聞きやすい、だがどうして気にいらなかったのかは聞きにくいものだ。
それでしばらくは聞くことができなかったのだが、トーヤがジーンの元に通うようになって一年ほど経った時、とうとうジーンは思い切って聞いてみることにした。もしかしたら嫌われてしまわないかという気持ちがないことはなかったが、トーヤはそんなことをする人間ではない、そう思う気持ちの方が強くなったからだ。トーヤという人間をある程度知ったから勇気を出すことができた。
聞かれた時、トーヤは一瞬困った顔になった。その顔を見た時にもしかして失敗してしまったのだろうかと思ったが、すぐにトーヤは普通の顔になり、おそらく本当の気持ちを教えてくれた。
「初客ってのはあれだろ、やっぱその、記憶に残るとか、なんか特別なもんじゃねえの? 俺はあんまり人の特別ってのになりたくねえんだよ。おまえのことは感じの良さそうなやつだなと思った。だから普通にこいつはどうだと勧められたら、その時はうんと言ったかも知れねえ。だけど初客ってのはなあ、やっぱりあんまり気が進まなかったんだよ。それに俺はあれだ、死神だからな。そういうのずっと残るの嫌じゃねえか?」
誰かの特別になりたくない、この言葉はジーンに少なからず衝撃を与えた。だってそうだろう、人は誰だって認められたい、つまり誰かの特別になりたいという気持ちがあるものだ。それを目の前の男はそうなりたくないと言っていて、それは決して嘘ではないと思えたからだ。
トーヤはその時のことを気にしていたらしく、ジーンが嫌で断ったのではない、そう教えるために客になってみたら、思った以上に悪くないと思い、そしてこうして通っているとからからと笑った。そんな風にされてしまったら、もうそれ以上何も言えなくなるではないかとジーンは思った。
「まあそんだけのことだ。もしかしてそれで気を悪くしてたのか? だったらすまないことをしたが、本当にそういう理由なんだよ。俺が育った店でも女たちがよくそういうこと言ってたし、ミーヤだってそれで――」
と、そこまで口にしてトーヤはハッとしたように黙ってしまった。
ミーヤの初客はディレンという旦那の1人だと聞いている。それもミーヤが有名な理由の一つだ。初めての客がそのまますぐに旦那に収まり、これまでずっとその娼婦を支援し続けている。もしもこれが高級な店ならば、店が出世頭になりそうな娘に高貴な方や裕福な方を初客に選び、そのままということはないではない。だがあんな場末の店の末端の娼婦でもそんなことになる可能性がある。ある意味夢物語の主人公のようにミーヤの話に希望を持つ女もいるということだ。
ミーヤはトーヤの育て親のようなもの、なのでトーヤはそのミーヤとディレンの馴れ初めについてもよく知っているのかも知れない。だが、トーヤはそのことをあまり快く思ってはいないようだとジーンはなんとなく思った。
「とにかくな、まあ、そんだけの理由だ」
その後、トーヤはそれだけ言うと、これで話は終わりだとばかり、もうそのことに触れることはなかった。
やはりあまり触れてもらいたくはない理由があったらしいと知って、ジーンはもしかしたらトーヤに嫌われるのではと心配をしたが、そんなことはなく、それからもトーヤはジーンのところに通い続けた。
来るのはほとんどが仕事を終えて戦場から戻る時、それから傭兵だけではなく、例のディレンの船などに乗っているらしく、海から帰った時が主だった。
戦場から戻ってきた時には初めて会った時と同じく、鉄と微かに血の臭いがする。ミーヤはこの臭いを嫌って叱るということだったが、ジーンはその臭いが決して嫌ではなかった。その臭いを嗅ぐとトーヤが帰ってきたのだと思ってうれしくなる。
それから海から戻った時も同じことだ。微かに海の臭いがする。その臭いはなんだか戦場の臭いと似ている気がして、やはりトーヤが帰ってきたとうれしくなるのだ。
トーヤが来ない時期は危険な場所、戦場や海に行っている時だが、なぜだかジーンはいつもトーヤは大丈夫だ、そんな気持ちで次に来てくれる時を待っていた。何しろ死神なのだ、何かがあるはずはない、そう信じて。
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