夢の潰える箱

 誰もが何も言えず、呼吸音すら漏らすことをためらう張り詰めた空気の中で。

 一歩を踏み出し、笑顔を見せたのはユーリだった。

「今の俺に出来ることは少ない。けれど、成長すれば出来ることが増えると思うし、友だちといっしょならもっと大きなことが出来ると思うんだ」

 再び、少女の手に革袋をそっと握らせ、膝をかがめて少女と目線を合わせる。

「俺の名前は、ユーリ・フラームベルテスク。君の名前を教えてくれないか?」

「ない。首の後ろ数字がある。わたしは2434番」

 少女は左手で銀髪を持ち上げて、首の後ろ側を見せた。所有の証である銀色の首輪こそ外されているが、金属がこすれた平行線の傷跡の中に、バーコードと2434という刻印があった。彼女が2434番目に認定された奴隷であることを表す個体識別番号である。これある限り、彼女には人間としての生存権はなく、奴隷として過ごすしかない。

「じゃあ、今度会ったら名前を教えてよ。新しいおうちに会いに行くよ。そしていつか、もう二度とドリームボックスは稼働しないんだって、君に伝えることが出来る日が来るように、頑張るから」


 ドリームボックス。それは、夢の潰える箱。

 奴隷収容センターの最奥にある、二酸化炭素を使ったガス処分室のことだ。収容された奴隷は、手前の檻から奥の檻へと順番に押し出されていき、最後にガス処分室ドリームボックスに入れられる。スイッチを押すとガスが充満し、呼吸が出来なくなって死に至る。それは安楽死のように痛みや苦しみのないものではなく、ドリームボックスの裏側には、苦しみもがいた奴隷たちの爪痕が残されていると言う。


 トレフル・ブランは孤児だ。両親の記憶はなく、生まれ育った孤児院から引き取った貴族にも、もう必要ないからと名前を取り上げられ、捨てられた。

 あの時、先生が拾ってくれなかったら。

 トレフル・ブランにも、数字で呼ばれる未来が待っていたかもしれない。少女の身に起きたことは、決して他人事ではないのだ。


 千里の道をゴールするための一歩。

 今ユーリは、本当の意味でその一歩を踏み出したのだ。「会いに行く」ということは「関心を持つ」ということ。少女の人生を他人事だと思わず、積極的に関わっていこうという姿勢を示している。

 その後に続くために、自分が出来ることはなんだろうか。


 トレフル・ブランは、ゆっくり歩いて少女の背後に回る。彼女は警戒したようだが、特に抵抗はせず、トレフル・ブランのすることをおとなしく受け入れた。

 少女の首の後ろ側。銀髪で隠されたバーコードと数字の上に、先生から送られてきた湿布薬を張り付ける。それは不思議なことに、ぴったりと必要な面積を覆い隠した。「どんな傷でも一週間も貼っていれば治してしまう湿布薬」ならば、魔法の入れ墨で彫られた傷も癒せるはずである。それが出来るのが、この世界にただひとりの偉大な魔法使いが作った薬だ。

「一週間、このままにしておいて。外見が変わるだけでも、人が見る目は変わるだろうから」

 おそらく今の少女には何のことか分からないだろうが、それでいい。


 また泣き始めた少女の背中を、女性警察官は片腕でそっと抱き寄せ、歩き始める。その後に続こうとした足を止め、背を向けたままウラノフ中尉が言う。

「わしはな、この世界の未来を作っていくのが、お前さんたちのような若者だと思うと、ちょっとだけ胸が熱くなるよ」

 右手をひらひらと振って、彼は去って行った。

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