思い出のガラス リコグラフィ

 一般的に『思い出のガラスリコグラフィ』と呼ばれる魔道具がある。たいていはルーペのような形をしていて、レンズに映った範囲の情報を記録するために使われる。

 魔道具は、魔法の使えない一般人でも使えるために広く普及していて、『思い出のガラスリコグラフィ』は観光地ならば比較的入手しやすい。ただし、記録する品質(歪みの少なさ、範囲、色彩の数、音声の有無など)によって価格はピンキリだ。

 ユーリは静止画のなかで最も高価な『思い出のガラスリコグラフィ』を購入し、レストランの横に置いてあった馬車に刻まれた紋様を記録していた。

 紋様は、正面を向いた牡鹿と剣と植物。貴族の紋様としてはありふれたデザインだが、貴族名鑑を照合すれば特定は可能だろう。

 問題は、新年会のただなかで図書館も市役所も休日であることだ。

 無言で図書館の看板を睨みつけるユーリが気の毒になり、トレフル・ブランはコネと権力を適正利用することにした。うたた寝をしている警備員に身分証を提示し、些少さしょうの金銭を渡して、緊急の用件で使いたいと申し出たのだ。特に盗まれるものもないと判断したのか、警備員は短時間なら構わないとすんなり了承した。ただし、室内を汚すかもしれないペットは置いていくようにと言われたので、詰所で預かってもらった。警備員は動物好きらしく、三匹をかわるがわる嬉しそうに撫でまわしていた。


 ルザールビッシュ伯爵家。

 キーチェの話によると、旧王朝時代は王家に毛皮や肉を納めていた歴史ある家門で、現在では主に富裕層向けの高級ブランドを取り扱うブランドを手掛けているそうだ。

「本人が自慢する程度には、いい家柄らしいね」

 孤児で家名すら持たないトレフル・ブランには心底くだらない自慢である。彼の名前は「二つ葉のシロツメクサ」を意味する、魔法を教えてくれた師匠からの贈り物。その先生は、トレフル・ブランが魔導士試験を受けると同時に旅立ってしまい、今は時折手紙のやり取りをする程度だが、もらった名前と思い出と魔法の知識。それらがあれば、十分に生きていける。

 資料探しを手伝っていたキーチェが、小さく頭を横に振る。

「それで、ユーリ。それを知って、どうするつもりですの? 先ほども言いましたが、奴隷の所持は合法です」

「こっちも合法な手段に訴えるならいいのかな。うちの本家に言って、東の経済圏への輸出を徹底的に邪魔するのはどうだろう」

 横柄な客はユーリたちを庶民だとバカにしたが、ユーリの生家であるフラームベルテスク家と言えば、創世の歴史にも名を残す世界的にも有名な一族である。傍流であっても本流への影響力があるのは考えられる話で、つまりそれだけ彼の怒りが激しいということだ。

(誰かが言わなくてはならないことなら、キーチェに言わせるんじゃなく、俺が言おう)

 トレフル・ブランは、少しの時間だけ嫌な役を演じることを決意した。

「あぁいうバカ貴族が、取引が減ってお金がなくなったら、何をすると思う? 従業員を解雇したり領地の税金を上げたり、立場の弱い人たちをいじめて、自分の利益を確保することに努めるだけさ」

 そのほかにも、世界中で、貴族・資産家の支援を受けて運営される孤児院などの福祉施設は多くある。そういうところへの支援は、真っ先に打ち切られるだろうなと思う。

「じゃあ、これはどうだ。奴隷愛護管理法――奴隷の虐待・遺棄の禁止。医療を含めた適切な環境での飼育。違反すれば罰金刑または懲役刑が課される」

 ユーリが手にしているのは、『奴隷愛護管理法の改正概要』という名前の本。初版には去年の日付がある。

 言いたくない。しかし、言わなければならない。

「……ある奴隷の少女は、主人に反抗した罰として、冬の屋外で一晩過ごすように命じられました。毛布をかぶることも食事をとることもできない彼女は風邪をひいて倒れてしまい、見かねたユーリは彼女を病院に連れて行って治療を受けさせ、温かい食事を与えてあげました。自分が善意でしたことだからと、費用はすべてユーリが負担します……この場合、罰せられるのはユーリになるんだよ」

「……何故?」

「だって、他人の所持品を盗んだことになるから」

「……はぁ!?」

 それが奴隷愛護管理法というものである。たいていの国で人間の権利は手厚いものだが(それも表面上という場合があるが)、器物として扱われる奴隷にはそもそも権利というものが存在しない。実情、人間の権利を優先し、奴隷の管理はその範囲内でという扱いになる。奴隷の権利について明文化した法律を持つ国は少ない。

 ユーリは善良で素直な男だ。それは頭がいいとか悪いとかいうことではなく、資質の問題で、おそらく彼が心から今の話を理解する日は一生訪れないだろう。だが一時の正義感に駆られて行動すれば、彼のほうが不利益をこうむる事態になりかねない。トレフル・ブランのたとえ話は決して大げさなものではなく、だからこそ心を鬼にして言わねばならないのだ。

「どこの国だったか、ある奴隷の繁殖業者が、妊娠した奴隷を無免許・無麻酔で帝王切開したことが世間に知られて、立件された。この業者は裁判で起訴内容を認めて、判決はたしか、懲役1年に執行猶予3年だったと思う」

「……」

 聞く方もつらいだろうが、言う方もつらい。

 トレフル・ブランは陰鬱なため息を吐きだした。

「それが奴隷を取り巻く現実だ……これだけは言っておく。短気は起こしちゃダメだよ」


 その夜。トレフル・ブランがシャワーから戻ると、部屋の明かりは、手前のベッドサイドボードに置かれた卓上ランプだけになっていた。

 ユーリは夕食にも顔を出さず、ずっとベッドに潜り込んで黙々と過ごしているようだ。普段は引きこもりのトレフル・ブランが珍しく気を遣って、部屋を開けるようにしていた。自分が手前のベッドにいてはトイレにも行きづらいだろうと。

 ようやく落ち着いて自分のベッドに腰掛け、寝る前の読書をしようと本を取り出してみたものの、開く気になれずただ時間だけが過ぎる。

 背後で、何かが動く気配がした。ブランカだ。枕の上で丸まっていたのだが、素早くベッドの中央に移動すると、淡い輝きを放って大きな犬の姿に戻った。四肢を投げ出して寝そべり、尻尾の先だけパタンパタンと振って音を立てる。穏やかな顔つきで、じっとトレフル・ブランを見上げている。人間なら「ここにおいで」とでも言っているような慈しみに満ちた姿だ。

 これほど魔法が発達した時代に、動物の言葉を翻訳できる魔道具はいまだ発明されていない。

(だって、彼らは器物モノじゃない。心を翻訳できる魔法なんてないのが当たり前だ)

 今夜くらいは、ブランカの優しさに素直に甘えるのもいいだろう。

 トレフル・ブランは、ブランカの足や尻尾を踏まないように慎重にベッドに横になり、そのふかふかしたお腹に顔をうずめた。はるか遠くにいる睡魔のところまで、白い獣が連れて行ってくれることを願いながら。

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