貴族と奴隷
横柄な客は、いかにも上等な黒い服を着た初老の男性だった。指には複数の指輪があり、頭には灰色の毛皮のトーク帽。風に乗って香水のような強いニオイが流れてくる。恰幅が良く、キーチェの二倍くらいはありそうに見える。
「ち。このワシを外で待たせるとは。これだから庶民の店は」
横柄な客は忌々しげに舌打ちする。
だったら来なければよかろうに、と全員が思ったが、それを一番言いたいのは店の人間だろうと思い、約束通り黙ってやり過ごす。
「こう寒くてはいかん。おい、のろま。店員を急かして、ウォッカを持ってこい」
横柄な客は、どかっと大きな音を立ててチェアに座った。
その体に隠されていた、細い少女の姿が明らかになる。
健康的な小麦色の肌と、肩まで伸ばした銀色の髪は、このあたりでは珍しい。しかし世界各国、
主家の紋章が刻まれた銀色の首輪。
それが、奴隷の証であることを、トレフル・ブランは知っていた。
「おい、のろま。聞いているのか!」
横柄な客が、少女の首輪から胸元あたりまで伸びている短い鎖を乱暴に引く。少女はよろめいて、テーブルの角で肩を打った。
「ご主人様が話をしてるんだぞ。返事をしないか!」
「……はい」
少女は細い声で答えた。その声と同じように、腕や脚も細く元気のない様子だ。それもそうだろう、この寒空の下、胸元が大きく開いたミニスカートのワンピースを着ているのだから。服の生地や、両手両足を飾る貴金属は高級品に見えた。
「分かったら、さっさと行って来い!」
横柄な客は、今度は少女を突き飛ばしたが、少女はどうにか倒れることなく踏みとどまって、主人の要望をかなえるためにドアを開いて店内に歩いて行った。
「待ってください。約束したでしょう、ユーリ」
立ち上がろうとするユーリの膝を押さえつけながら小声で囁くキーチェ。
「こんな状況で黙って見てろっていうのか!」
キーチェの腕を振り払い、ユーリは立ち上がる。もはや怒気を隠そうともしていない。
横柄な客はその様子を見て――にやりと笑った。
「おぅ、そういえばここにも庶民がいたのだったな。私の奴隷は要領が悪くて、調教が大変なんだ。まぁお前たちには分からない苦労だろうがな」
「威張り散らして子どもに手をあげて、恥ずかしくないのか!」
ユーリの怒りはまったく正当なもので、本心ではトレフル・ブランだって諸手をあげて援護射撃をしたい。
ユーリには5人の弟妹がいるそうだ。おそらくはそれがために、彼は年下にめっぽう甘い。奴隷の少女は、せいぜいキーチェぐらいの年齢だろう。感情移入するのも無理はない。
しかし、公然と奴隷を連れ歩くような輩の辞書に載る「恥」と言う言葉は、一般人とは意味合いが異なる。彼らは非を認めたり他人に謝罪することを「恥」だと信じて生きているのである。ユーリの説教など通じるはずもなかった。
横柄な客はせせら笑う。
「しつけだよ。所持品を適切に管理するのは、主人の役目だ。私は役目をまっとうしているだけだ。何故お前ごときに非難されなくてはならないのかね」
この言い方は、ユーリの怒りに火を注いだ。
「所持品だと? 人間に向かってなんてことを……!」
「ユーリ! 分かってる、分かってるから。『
トレフル・ブランも立ち上がって、ユーリを制止した。同時に、ユーリとともに臨戦態勢になってしまったオリオンに魔法を放つ。『
ブランカはトレフル・ブランの肩の上で静かに過ごしており、アレウスはふんと鼻を鳴らすと、汚らわしいものを視界に入れたくないとでも言うようにそっぽを向いて寝そべった。
横柄な客は、ポメラニアンや小動物の姿をした
「所持品は主人の質を決める。お前たち庶民はしょせんその程度。ワシのように奴隷を飼える品格を持つ者は多くない」
謎の理屈で悦に入っている。
ユーリでなくても業腹ものだが、それでもトレフル・ブランは彼を止めなくてはならなかった。
「ユーリ。この国では、奴隷の所持は合法なんだよ」
虚を突かれたように、ユーリの動きが止まった。
数秒が経過して、彼は青ざめた表情で聞き返してくる。
「今、なんて言ったんだ? 女の子を怒鳴りつけて暴力をふるうことが、合法だって言ったのか……?」
あまりにも肯定しづらい問いかけに、トレフル・ブランは視線を落とす。
横柄な客は、ガハハと声をあげて笑った。
「なんだ、知らなかったのか。まぁ無理もない、庶民がワシのような高貴な血筋に会う機会などめったにないからな。奴隷の所持にも規制がかかって色々難しくなっている昨今だ。馬車の故障で時間つぶしに寄っただけの店だが、お前たちには幸運だったな」
トレフル・ブランは、大きくて下品な口の中に植物の種を投げ込んで爆発的に成長させる魔法を使いたい衝動を、必死にこらえた。
「……もう行きましょう」
キーチェが立ち上がると、アレウスもいっしょに立ち上がる。尻尾をさっと一振りしたのは、ようやくこの現場から立ち去ることのできる喜び故か。それとも、嫌な空気を振り払おうとしたのか。
オリオンと目が合う。頷いて、蔦から解放してやると、ユーリの膝に甘えるように抱きついた。ユーリはそんなオリオンの頭をポンと叩くと、リードを持つのも忘れて、驚くほど静かにテラスを後にした。ペットという設定を忘れていないらしいオリオンは、自分で自分のリードを咥えて彼の後を追う。
トレフル・ブランも身をひるがえし、キーチェも立ち上がる。
そこへ、横柄な客が余計な一言を付け加えた。
「おい、そこの小娘。庶民のくせにいい毛皮を着ているじゃないか。高値をつけてやってもいいぞ」
キーチェは真冬の湖より冷たい声で答えた。
「あいにくと、お金で買えるものではありませんの」
ムッとしたらしい横柄な客が何事か言いかけたところへ、奴隷の少女が戻って来た。手に、ウォッカの瓶とグラスの乗った盆がある。
少女が開けた扉が閉じないうちに、トレフル・ブランとキーチェは連れ立って身を滑り込ませた。
白いテーブルの上には、楽しかった食事の余韻だけが残されていた。
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