第5話 推理、そして挑戦 (1)
公演翌日の月曜日。ぼくは夏の間お世話になった背広にカバーを掛け、木造アパートに作り付けの小さな衣装タンスにしまった。冷蔵庫に寄ってペットボトルを出し、手にしたコップに注ぐ。どっかりと椅子に座り、背もたれにもたれた。
八月も終わりが近くなり、就職活動は夏採用の時期が過ぎつつあった。今年も就活生の売り手市場とは聞くが、うまくいかない学生はうまくいかないものだ。能力はあっても、あの手の面接が苦手な人もいる。一度入社させてくれさえすれば、人並み以上の仕事ができる自信はあるのに、その入社が難しい……そんな、自負心と焦りがない交ぜになった思いを胸に抱きながら、陽炎ゆれるビジネス街を歩き回ったっけ。
まあ、就活を終えた今となっては、それもいい思い出か。
よく冷えたアイス・ティーを一口飲んで、ぼくは目を閉じた。少なくとも、貴重な人生経験ではあったかもしれない。これは、この世代の若者が一度は味わう苦行なのだ。その苦しみを肌で知ることは、これからの生活にも、きっと役だってくれるはず。こんなことを考えながら、決して楽しいものではなかった就活の記憶や、まだ内定が決まっていない友人たちの顔──どうやら文学部という学部は、企業にあまり好かれていないらしい──を思い浮かべていると、スマホの呼び出し音が鳴った。
「松戸さん、今どこですか」
電話の相手は、玉木だった。
「自分の部屋だよ。ゆうべは、劇場に行ったのか? 劇の出来はどうだった?」
のんびりした口調で、ぼくは尋ねた。江波が持ってきたチケットは売れ残りをかき集めたものらしく、玉木とぼくの席は離ればなれだった。待ち合わせの約束もしていなかったため、彼とは顔を会わさなかったのだ。
「行きましたよ。劇の方は、結構面白かったです──って、それどころじゃないんです。昨日、由貴ちゃんが誰かに襲われたらしいんですよ。自宅で、ちょうど劇をやっていた、その頃に」
「小野寺さんが?」
ぼくはやおら目を見開き、椅子から立ち上がった。
「どういうことだ」
「彼女、昨日は劇団の手伝いで劇場に行ってたんですが、開演直前に帰ったんだそうです。ずいぶん咳き込んでいて、調子が悪そうだったらしくて。変な病気だったりしたらまずいですからね。それでも、公演の方は無事に終わったんですが、彼女のご両親が家に戻ってみると──」
「ちょっと待て。どうしてそこで両親が出てくるんだ?」
ひどくあわてているらしく、玉木の話はとりとめがなかった。こちらから何度も質問を入れて、返ってきた答をまとめると、どうやら次のようないきさつのようだ。
それによると、江波からチケットを買った小野寺の両親は、料理店を休みにして、二人そろって劇場に行っていたらしい。小野寺も、その他大勢の役ではあるが出演する予定だったので、娘の晴れ姿を見たかったのかもしれない。実際には小野寺は舞台に立つことはなく、そのことは娘からのラインで知らされていたのだが、既に入場していたこともあり、二人は最後まで観劇してから帰途についた。ところが、家に戻ってただいまと呼びかけても、返事がない。もしかしたら体調が急変したのかと、あわてて娘の部屋に入ってみると、意識を失った小野寺が倒れていたのだ。家のドアやガラスを破られた痕はなく、犯人はスペアキーのようなものを使って侵入した可能性があるという。
なお、こうした情報は、江波から聞いたらしい。江波は何度も小野寺の家を訪れていて、彼女の両親とも親しくなっていた。そのため、パニックになった両親から、江波に連絡があったのだそうだ。
「だけどそれなら、単に体調が悪化しただけじゃないのか?」
「いえ。すぐに救急車を呼んだろころ、救急隊員の人に、首に手で締められたようなあざがあると言われたんです。明らかな傷害行為だということで、そのまま警察に通報となりました」
「そうか……それで、小野寺さんは?」
「今のところ、意識不明、だそうです」
「……そうか」
しばらく沈黙が続いた。意識不明というのは、たぶん良い状態を指す言葉ではないだろう。お互いに何を言っていいのかわからず、息を吸い込んではそのまま吐くのを何回か繰り返した後で、なんとかぼくから、声を出した。
「小野寺さん、どこの病院に入院してるんだ?」
「お見舞いですか? 今はそんな状態ではないと思いますよ。それにもしかしたら、警察の人もいるかもしれないし」
「そうか。そうだよな」
警察が詰めているとなると、ぼくにできることなど、何もないだろう。
「それでですね──あ、ちょっと待ってください。電話が入りました」
向こうに割り込み通話が入ったらしく、いったん会話が途切れた。じりじりしながら待っていると、しばらくして再び玉木の声が聞こえた。
「先輩、今日はこれから、時間がありますか?」
「ああ。この後はちょっと、バイト絡みの用事があるんだけど……何?」
「今の電話、璃子からなんですけど、文芸部のみんなで集まれないかって言うんです。由貴ちゃんの件で、なにか話しておきたいことがあるらしくて」
江波か。彼女は小野寺の両親と話をしているようだから、何か重大な情報でも入ったのかもしれない。その上で関係者が一同に集まるとなると、なんだかミステリーのラストにある、大団円のようではないか。実際には、いつ小野寺のお見舞いに行こうか、くらいの話かもしれないが……。ともかく、ぼくも用事を済ましたらそちらに行くと答えた。
電話を切ったあと、ぼくの口からは思わず、こんな言葉が漏れ出ていた。
「どうして、小野寺さんが……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます