第3話 添削、そして事件 (1)
「『剣に内
「あー。そっかー」
「それと、『全属性の適
続けて指摘すると、木葉は少し首をひねった後で、「まーそうですねー」と原稿の字を訂正した。
すでに八月も後半に入っていたが、先週に引き続き、ぼくは某高の文芸部を訪れていた。部誌の原稿が揃わないため、江波から「二学期に入ってからでは遅い。一ヶ月なんてあっという間だよ。休みのうちに、ある程度形にしておかないと」という、強力な指導が入っていたのだ。そのため、文芸部員は休み中も週一回のペースで集まっており、ぼくと玉木も顔を出していた。
テーブルの向かいでは、岩瀬が難しい顔で手元のノートをにらみつけていた。部誌一冊を一年生二人に任せるのは無理なので、彼女にも小説のノルマが課されているのだが、手にしたシャーペンは一向に動く気配はない。それを見守る玉木の顔には、苦笑いが浮かんでいた。小野寺と江波は、今日はまだ姿を見せていなかった。
ぼくは続けて「騎士団からの
「えー。どこが違うんですか」
「『最も』のところだよ。こういう字なんだ」
ぼくは原稿の端に『尤も』と書いて見せた。しかし、木葉は再び「えー」と口をとがらせて、
「でも、私が読んだ本には『最』って書いてあったんですけど」
「それ、何て本?」
「あれは良かったなー。最近読んだ中では、久々のヒットでした。おすすめですよ。タイトルはですね、『アクマくんのお嫁さんになったぼくの、ふしだらな──』」
「わかった。それ以上言わんでいい」
きわどそうな言葉を平然と口にしようとする女子高生を、ぼくはあわてて止めた。
「どの本に載っていたにしろ、そっちの間違いだよ」
「えー。そうかなあ」
「多分だけど、校正漏れじゃないかな。その手の本って、誤字や誤用が多そうだし。まあ、この『尤も』もあまり使わない字だから、ひらがなにしておけばいいだろ」
相手がまだ納得いかない様子だったので、ぼくは妥協案を提示した。しかし、『その手の本』扱いが引っかかったのだろうか。木葉はむーとうなったまま、ペンを動かそうとはしなかった。ぼくが言葉を継ごうとしたところで、横から奇声が上がった。
「あーもう!」
岩瀬だった。彼女はペンを放り出し、勢いよくテーブルに突っ伏した。おでこが当たって、大きな音を立てる。
「無理! こんなの書けねえっす! こういうのは才能ある若いやつに任せるっす!」
「おまえ、部長だろ? それにまだ高校生で、十分若いだろうが」
横の玉木が、あきれたような声を出した。
「でも、あたしより才能あるやつがいるんだから、そいつに任せた方がいいと思いまーす。そう! たとえば先週のあれ!」
「あれって?」
「決まってるでしょ、新人賞のあれですよ。あれって絶対、うちの部の誰かですよね」
ぼくは思わず、玉木と顔を見合わせた。
「おいおい、ここでそんな話をしても、仕方がないだろ」
なだめるように玉木が言うが、岩瀬はぶんぶんと首を振って、
「いやいや、気にしない方がおかしいでしょ? だってネムノキの新人賞ですよ?! そりゃあネムノキなんて、名前だけ有名でそんなには売れてない雑誌かもしれないですけど、それでもメジャーどころでしょ? そこの新人賞なんですから」
「けど、うちの部員と決まったわけじゃないんだよ。あの文だって、偶然という可能性も否定できないんだから」
「それはないですよぉ。テーマの文章、そっくりそのままなんですから。あんな長い文が完全に同じなんて偶然、ありえないでしょう」
火消しに回る玉木だったが、岩瀬にあっさりと押し切られてしまった。無理もない。彼女の考えは、先日の玉木の主張そのままなのだから。顔を上げた岩瀬は、今度は木葉に向けて、
「穂花は誰だと思う?」
「部長じゃないんですか?」
「冗談。今だって、全然書けてないのに」
「もしかして、もう一本書き終わってるとか? それで今が二本目だから書けなくなっちゃった、とかでは?」
「ないない。それにさ、もしあたしだったら大声で言うよ。そうすれば、就職しなくて済むんだから。そういう穂花こそ怪しいんじゃない? 本当は自分なのを隠したくて、必死にあたしになすりつけようとしてるんでしょ」
「うーん、私なら、ネムノキより『シーボーイ』の賞がいいですね。同じもらえるなら。そうしたら、『アクマくんのお嫁さん』の千川せん先生にも、お会いできるかもしれないし」
こんなやりとりを交わす二人だったが、どちらもごく軽い調子だった。お互い、相手が受賞したと本気で思っているわけではないのだろう。「でもまあ」と、岩瀬が言った。
「たぶん、由貴だろうね」
「うーん。あの子だったら、もし受賞しても、私はあんまり騒がれたくない、なんて言いそうな気はしますね」
「それに、うちでちゃんとした小説書けるのなんて、あいつだけだもんな。それだけでも、決まりだよね」
ここで、玉木が再び割って入った。
「けど、可能性があるのは文芸部員だけとは限らないじゃないかな。課題の文章を知っていればいいんだから、それを璃子から聞いた人なら、可能性がないとは言えない。たとえばだけど、璃子本人でもいいわけだし」
「あ、そっかー。それは考えてませんでした」
木葉が感心した声を上げた。確かに、そこは盲点だった。自分のお気に入りの文章をテーマとして後輩に与え、自分もそれを元に作品を仕上げて、賞に応募する。ありえないとは言えない。でも、はたしてそんなことをするだろうか? 少々説得力に欠ける気もした。岩瀬も納得はしなかったようで、
「うーん、でもそれ、やっぱり無いんじゃないですかね。江波さんもどっちかって言うと読み専で、書くのはあんまり得意じゃなかったじゃないですか。部誌を書いてたのも、メインは香西さんとか長浦さんでしたよ」
「あ、そうですね。去年の部誌読みましたけど、江波先輩は評論みたいなのを書いてましたね」
「あれはね、本当はリレー小説のはずだったんだけど、尾藤が締め切りに間に合わなくて、空中分解しちゃったんだ。結局、好きなものを書くことになったんだけど、それが決まったのがかなり遅かったんで、小説を書けなかった人は評論とかになったんだよ」
「私たちも気をつけないとですね。でも、そうするとやっぱり、江波先輩は書くのは苦手だったんですね」
木葉はうんうんとうなずいている。このままでは”犯人”捜しが決着してしまいそうなので、ぼくも口を出すことにした。
「それなら、可能性のある人間はもう一人いるじゃないか。テーマを出したのは江波さん、出されたのは部員の三人だ。だけど、そいつもその話は聞いていたんだぞ」
「え、誰? ……もしかして、玉木先輩っすか? いやー、それはないでしょ。先輩の小説も読んだことあるけど、才能はあたし以上だったからねー。あ、もちろん、悪い意味で」
岩瀬が即座に否定した。玉木はと見ると、びっくりした顔で首を振っている。どうやら容疑者扱いは無理筋らしい。けれどもぼくは、さらに論を進めて、
「いや、容疑者はもう一人いる。容疑者、というのも変な言い方だが」
「あと一人? 誰ですか、それ」
木葉に訊かれて、ぼくは左の親指を、自分に向けてみせた。
「ぼくだよ。ぼくが初めてここに来たのは四月の初めで、部誌の課題もその頃には知っていた。それなら、ぼくという線だってあるだろ?」
これは話をかき回すのが目的で、半分はジョークのつもりだった。だが、岩瀬から返ってきたのは笑いではなく、真面目な反論の言葉だった。
「松戸さんって、小説書けるんですか?」
「一応、書いたことはあるよ。これでも文学の講義を受けてきたんだ。大学は小説の書き方を教えてるところではないけれど、基礎は鍛えられていると思うぞ」
「でも松戸さん、このまえ江波先輩にやり込められてたじゃないですか。三幕構成は短編で使うものではない、付け焼き刃で小説論を語るな、でしたっけ?」
岩瀬が痛いところを突いてきた。ぼくは苦い顔を見られないよう、くるりと体を回し、皆に背を向けて本棚に歩み寄った。並んだ本のいくつかは、帯が付いたままになっていた。日の光で色あせた帯には、薄い青色で『新人賞受賞作!』のあおり文句が印刷されている。それを指でなぞりながら、ぼくは口を開いた。
「そんなこともあったね。だけど江波さんの批判も、あれはあれで一般論に過ぎない。もしもぼくが新人賞を獲っていたら、一気に汚名挽回だろ。なにしろプロの審査員が、ぼくの手法の方が正しいと認めたことになるんだから」
言い終わるやいなや、背後で爆笑が起こった。
「なんか、この部屋にヤバイやつがいるみたいだね。誰が新人賞を獲ったんだって?」
振り返ると、ドアのところに江波が立っていた。その後ろで、小野寺が困ったような笑顔を浮かべている。ぼくはあわてて言い訳した。
「いや、ぼくは別に、自分が受賞したと言いたかったんじゃなくてだな──」
こう言いながら、ぼくは心の中で舌打ちしていた。最悪のタイミングだ。こんな話をするつもりはなく、ただ小野寺にむやみな追究が向かないようにと、気を使っただけだったのに。これではなんだか、ぼくがイタい人みたいじゃないか。だけど、江波はさらに追撃を加えてきた。
「そりゃそうよね。だってあんた、創作指導でこんなところまで来てるはずなのに、たいしたことしてないじゃない。やってるのは、誤字の訂正ばっかりよね? あれじゃ単なる校正係だよ」
この言いようには、さすがにぼくも鼻白んだ。
「その台詞は、校正の人に失礼だな。正しい言葉は文章の基本だ。作品を読んでもらう、最低限の礼儀だよ」
江波はなにか言いかけたが、ぼくはそれをさえぎるように、
「それにね。誤字誤用の指摘だって、立派な創作指導だと思う。確かに、言葉の意味や使い方なんて、時代と共に変わっていくものだ。絶対の正解なんて無いんだから、その意味では、誤字訂正なんて非生産的な作業かもしれない。だけどね。文章の書き手にとって、自分の思いを伝える手段は、言葉以外にない。言葉は心に届かないとも言うけど、それでも読者と作者との間をつないでくれるのは、言葉だけなんだ。そのたった一つの架け橋が揺らいでしまったら、どうなる? 作者が伝えたかったものは、出だしから歪んでしまって、読み手に届くことは決してないだろう。
だからぼくは、文章を書く人には、できるだけ正確な言葉遣いを心掛けて欲しいと思っているんだ」
「……なるほどね」
少し間が開いて、江波が言った。
「そこまで部のことを考えてくれてるなら、こっちも話がしやすいか。ねえ岩瀬。私と小野寺だけど、しばらくの間、顔を出せなくなると思う。かまわないでしょ? 小野寺の原稿はもうできているし、あなたたちの面倒も、松戸さんたちがみてくれるんだから」
「なっ──」
思わず声が出てしまった。小野寺との関係について邪推されているのは判っていたが、こんなに直接的な妨害をしてくるとは。思わず江波の顔をにらみつけると、玉木があわてて説明した。
「松戸さん、そうじゃないんです。璃子は公演が近いんですよ」
「公演?」
「彼女、大学で演劇のサークルに入ってるんです。それほどの大手じゃなくて、璃子みたいな新人にも出番が回ってくるくらいの規模なんですけど、それだけ準備がたいへんなんだそうです。それで、小野寺さんに手伝いをお願いしたんですよ」
「言っとくけど、強制なんかしてないからね。演劇の話をしたら、小野寺も興味あるみたいだったから、お願いしたの」
江波が付け足した。彼女の話によると、今回は一時的なお手伝いだが、もしかしたらこの先、小野寺は本格的に劇団に参加するかもしれないという。将来的には脚本を書かせてみたいのだそうだ。大学のサークルに高校一年の子を入れるのはどうかとも思うが、小さな団体と言うこともあって、そのあたりは融通が利くらしい。そうなった場合でも、この文芸部には残るようだが、部室に顔を出す回数は少なくなるのだろう。小野寺は言った。
「劇の脚本を読ませてもらいました。脚本って、ああいう描き方をするんですね。内容もとても面白かったです。前半はちょっと退屈に感じたんですけど、その日常の風景の中に、伏線がちりばめられていたんですね。それが終盤にはきれいに回収されて、ラスト三十分は素晴らしい盛り上がりになるんですよ」
「これ、ここだけの話にしといてよ。高校生が劇団の手伝いで、毎日遅くまで帰れないなんて話、広まってほしくないからね。変なクレームでも来たら面倒だから。と、言うわけで」
ざっくりした説明と口止めの台詞を言ったところで、江波は早くも話を切り上げようとした。
「私たちはこれから劇団に行くから、あとはお願いね」
「え? 今日はそれを言いに来ただけ?」
玉木があわてた声を上げると、江波はにやりと笑った。
「あ、いけない。もう一つ大事な話があるんだった。
さっき陽太もいったとおり、うちの劇団は人が少なくてさ。チケットのノルマがたいへんなのよ。小野寺のご両親にもお話ししたら、快くご協力をいただいたんだけど、まだ残っていてね……さすがに高校生に買ってとは言えないけど、あんたたちなら、そこそこ持ってるよね?」
こうして、玉木は二つ返事でお金を出し、ぼくまでチケット代をむしり取られる羽目になった。
だが、仕方がないか。小野寺が演劇の道に興味を持ったなら反対する理由はないし、小説ではなく脚本を書いてみるというのも、一つの選択だ。文芸部に来なくなるのはちょっと残念だが、ぼくとしては、異性としての小野寺に興味があったわけではないのだから。
金を受け取った江波は、さっさと部屋を出て行こうとした。が、ドアを閉める直前、ぼくを振り返って「あ、それから」と言った。
「さっきの誤字誤用についてのあんたの考えだけど。あれは日常の話し言葉についても同じなの? 原稿だけではなくて」
「まあ、そうだな。日常生活で変な言葉遣いをしていたら、書く時に間違えても気づくのが難しいからね。常日頃から、心掛けておくべきだろう」
「そう。それなら言わせてもらうけどさ。あんた先週、『的を得ている』って言ってたよね。あれ、間違いだよ。的は『射る』もの。そんなものもらっちゃってどうするの」
すぐにドアが閉められ、にやりと笑った江波の顔が、曇りガラスの向こうに隠れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます