9.



 まさか立食形式だとは思わなかった。

 少し熱っぽい額に、冷え切った手の甲を当てる。

 頭はあついのに身体はさむくて。

 帰りの馬車を降りてもまだ。

 笑い声と咀嚼音と足音が耳にこびりついて、食べ物と酒の匂いが鼻と喉の奥に染みついている。

 「ここで大丈夫よ」

 離れの玄関で本館の使いを帰して、扉を閉める。

 閉めてから気付いたけれど、今日は侍女に一日暇を出したんだった。空気は止まったまま、迎えの匂いは近付いてこない。

 我が家の廊下は外の夜よりも真っ暗で、暖かい。

 明暗の差くらいしか判らない目玉だけれど、その実、明るい場所と暗い場所の判別がつくというだけで歩きやすさはだいぶ違ってくる。

 簡単に言うと。

 どこもかしこも暗いのは、歩きにくい。

 それでも、一人で歩けないことはない。

 「バレット。いや、パラベラムと呼んだ方がいいのかな。や、どうも難しい関係になってしまった」

 声がする。聞き慣れたものより少し低くて太い声。

 会場で聞いた、幼馴染みの声。

 「キミを立食パーティで見る日が来るとはね。にしても車椅子くらいの用意は……ああ、相変わらず見栄っ張りなのかな、お父様は」

 幼さの残らない声と話し方。

 「外の方が聞き取りやすいだろうけどここで許してくれるかな。元許嫁と陰でコソコソ喋ってたら婚約者にどう思われるか分かったものじゃないからね」

 キミの妹こわくない? とふざけて笑う。

 「でもさ、聞いたんだ。本当は、あの日、あの馬車に乗るのはフランベルジュの方だったんだろう?」

 笑い方だけは変わってないな、と思った。

 「父親の代理の妹の、更に代わりに行った仕事。その帰りにキミの馬車は野盗に襲われた。詳しいのはもちろんだよ、ボクも警察の人間と調査したからね。次男ってのは損な立ち位置でさ。美味しいところは兄貴に持ってかれるけど、こういう仕事は……おっと、こういう場所で愚痴はやめておこうか」

 だいぶ遅い。

 「現場検証にも立ち会ったんだけど、そこで一つ気になったことがあってね。警察は事件の解決には関係ないって結論を出していたし、実際、ボクもそう思う。そう思うんだけど、気になったからにはいつか聞いてみたいと思っていた」

 彼が、だんだんと早口になっていく。

 理由はすぐに分かった。

 雑踏と笑い声の中から、ひときわ大きな足音と歩幅で近付いてくるのはうちの妹だ。

 「野盗の死体が所持していた大鉈にはキミの血液が付着していた。あれがその足を切り落とした凶器なのは間違いない。だけど、それなら」

 続きは、妹の挨拶に掻き消されて聞こえなかった。

 聞こえなかったことに、したけれど。

 「キミの左足は、どこへ行ったのかな?」

 けれど。

 聞こえなかったことにしたので、答えなかった。

 「お嬢様?」

 少し先から声がして、意識が暗い廊下に戻ってくる。

 「お帰りだったのですか。会場の近くで宿泊なさると聞いていましたが」

 開いた扉から漏れる薄明りを背負って、黒い影が近付いてくる。

 「お嬢様、いかがなさいましたか」

 いつも通り。

 温度の無い声と、聞こえない足音と、獣の匂い。

 「なんでもないわよ、イングリド」

 本当に。

 それだけで、なんでもなくなってしまった。

 「今日は暇を出したはずでしょう。私のことは明日の朝まで気にしなくていいわ」

 「明朝の私が苦労するだけですから」

 「わあ、なんにも否定できない」

 「それに」

 壁を伝っていた手をそっと引かれて、体温の無い手の平に包み込まれる。

 「私、今は休暇中ですので。お嬢様の言うことを聞く必要もないかと」

 近付いて。

 もう一つ、ふたつ、みっつと、匂いが。

 「……なるほど、と言っていいものかしら」

 「簡単にシャワーを浴びて早めに休んでいただくのがよいかと。久し振りにお櫛の手入れもさせていただきますね」

 私の返事も待たずに。

 侍女は、この手を引いて歩き出す。

 幼い子供を連れ歩くみたいに。

 「ねえ、イングリド」

 「はい」

 「紅茶の匂いがするのね」

 「新しい茶葉を試していました」

 「ケーキと一緒に?」

 「チョコレートの香りも感じますか」

 「いいえ、あなたの血の匂いがするの」

 あの日と同じ、鉄錆の匂いが。

 「相変わらず刃物の扱いだけは上達しないわね」

 「そのようです」

 「ねえ、イングリド」

 「はい」

 「この足、やっぱり重たいわ。お風呂場まで運んでちょうだい」

 「義足をですか」

 「私をです」

 「承知しました」

 「え、いいの。わーい」

 人生で一番アホっぽい掛け声を意識しながら諸手を上げてみた。妹に見られたら羞恥心で憤死するかも知れない。

 「あ。いま、笑ったでしょう」

 「いえ。しっかりつかまっていてください」

 「分かっ、いや、はやい、はやいはやくない?」

 「しっかりつかまっていてください」

 廊下を行く足音が、二つから一つになる。

 夜の暗さが変わったわけではないけれど。

 一人でだって歩けるのだけれど。

 あの日の寒さは、もうここには無いのだと。

 それを教えてくれるのは今感じられる温もりだけ。

 重なる肌の先にある温度だけなのだと、知っている。

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