第9話

「ナオミちゃん、ちょっと来てくれる?」


 研究室でキタガワとの面会から三日後、カナコが意味ありげな表情でナオミを呼び出した。


「なんかあったんですか?」


「ちょっと見てほしいものがあって。車で30分くらいなんだけど、時間ある?」


「えっと、あ、今は大丈夫ですけれど夜にはコンビニのバイトがあるので……」


「うーん。もう、そろそろバイトは辞めた方がいいんじゃない?」


 カナコの言葉に、ナオミは言葉を失う。そういえば、最近はチャットグループの管理だけでも一苦労で、レジを打ちながらスマートフォンを確認する毎日。店長の眉間にも、しわが寄る頻度が増えていた。


「まあ、とりあえず見に行きましょ? そんなに時間はとらないから」


 カナコの車に乗り込む。高級外車の内装に圧倒されながら、ナオミは窓の外を眺めていた。


「あ、タロウ君のも先に行ってもらってるから」


「えっ?」


 車は市の中心部へと向かっていく。オフィス街に差し掛かったところで、カナコが車を停めた。


「着いたわ」


 見上げると、ガラス張りの近代的なオフィスビル。エントランスには高級ホテルのような雰囲気が漂う。


「ここ、なんですか?」


「これが、私たちの新しい本部よ」


「はぁ!?」


 エレベーターで最上階まで上がると、そこにはタロウが待っていた。背広姿の男性と何やら話し込んでいる。


「おう、来たか。凄いな、ここ」


「タロウ、なんで普通にここにおんの?」


「いや、俺も今日初めて来たんや。でも、ええ感じやな」


 広々としたオフィスフロア。大きな会議室、個室のオフィス、そしてガラス越しに見える都会の景色。


「あの、これって」


「キタガワさんからの提案なの」


 カナコが説明を始める。


「社会を変える運動なんだから、それにふさわしい拠点が必要って。家賃も、当面の運営資金も、全部ちゃんと合法よ」


「ちょっと待って! そんな大きな話……」


「心配しなくていいのよ。全て私とタロウ君の立ち会いの下で、弁護士や会計士にもチェックしてもらってるから」


 ナオミの目の前で、現実が次々と変わっていく。カナコが机の上に図面を広げる。


「ここがメディアセンター、その隣が広報部、ちょっと離れて研究部」


「メディアセンター、広報部、研究部」


 もうオウム返しにならざるを得ない。


「もう、全国紙が取材に来るのよ? テレビも興味持ってるみたいだし。それに、イトウ先生の研究チームの活動拠点も必要でしょう?」


 突如として、コンビニのバイトと、世界を変えようとする社会運動の主宰者という、二つの現実が衝突する。


「でもウチ、こんなすごいとこで仕事なんてでけへんよ。高卒やし」


「大丈夫よ」


 カナコが優しく微笑む。


「ナオミちゃんは、アイデアを出してくれればいい。実務は私たちがやるから」


「でも……」


「そや、ナオミ」


 タロウが声をかける。


「お前、大学受験する気とかない? イトウ先生が言うてたけど、この活動を研究しながら、大学で勉強するっていう選択肢もあるで」


「えぇ……」


 新しいオフィスの窓から見える景色は、ナオミの目には別世界のように映った。深夜のコンビニで思いついた妄想は、もはやナオミの手を離れ、独自の生命を持ち始めているようだった。


「あ、そうそう」


 カナコが、机の上に一枚の名刺を置く。


「これ、ナオミちゃんの新しい名刺。もう届いてるの」


 ナオミは、震える手でその名刺を手に取った。


「一般社団法人ヤマダ化推進協会 代表理事

 ヤマダ・ナオミ」


「な、なにこれ」


「いいでしょ? 明日から使えるわよ」


 カナコの明るい声が、広々としたオフィスに響く。タロウは、そんなナオミの表情を見て、思わず笑みを浮かべた。


(いや、もうなんかよう分からんくなってきたわ)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る