第8話
大学の研究室に異変が起きたのは、説明会から三日後のことだった。
「あの、タロウ君っ!」
研究助手が青ざめた顔で研究室に駆け込んできた。
「なんか、すごい人が来てはるみたいで……」
「すごい人?」
タロウが首を傾げた瞬間、廊下に重々しい足音が響いた。そして─。
「失礼します」
声の主が姿を現し、タロウは息を呑んだ。高級スーツに身を包んだ大男。やけに端正な物腰。そして、左手の小指が無い。
「キタガワ・ケンイチと申します」
研究室の空気が凍り付く。かつて関西最大の暴力団の幹部だったキタガワ・ケンイチ。更生後は建設会社を立ち上げ、社会貢献活動にも熱心という噂の人物だ。
「あの、なんのご用件でしょうか?」
「ヤマダ・ナオミさんに、お会いしたいのです」
タロウは困惑した。幼なじみを、こんな人物に会わせていいものか。
「私は新聞で、彼女の活動を知りました」
キタガワは丁寧な口調で続ける。
「人は皆平等であるべきだ。そのために、名字という壁を取り払う。素晴らしい発想です」
「はぁ……」
「私にも、差別された経験があります。更生しても、過去の名前が付きまとう。でも、もし皆が同じ名字なら─」
その時、ドアが開いた。
「タロウ、資料持ってきたよ、あれ?」
ナオミだった。キタガワは、ゆっくりと振り向く。
「ヤマダさん。お会いできて光栄です」
深々と頭を下げる姿に、独特の風格が漂う。ナオミは困惑しながらもタロウを見る。タロウが小さく頷いたのを確認して、おそるおそる応答する。
「は、はい。あの、えーと」
「私からお願いがあります」
キタガワは、机の上に分厚い封筒を置いた。
「これは活動資金として。そして、私も運動に参加させていただきたい」
「えっ!」
ナオミとタロウが同時に声を上げる。
「ちょ、ちょっと待ってください。そんな怪しい……」
「全て合法的な資金です」
キタガワは静かに会社の登記簿と確定申告書を取り出した。
「皆が同じ名字を持てる社会。それは、本当の更生の機会を皆が得られる社会。私は、その理想に共感したのです」
研究室に沈黙が流れる。タロウはナオミの表情を窺った。普段なら即座に断るところだが、キタガワの言葉には確かな重みがあった。
「キタガワさん」
意外にも、ナオミの声は落ち着いていた。
「この活動は、誰かを排除するものじゃありません」
一瞬の躊躇の後、ナオミは言葉を継いだ。その言葉は決意に満ちていた。
「更生された方の経験こそ、大切やと思います。ただし─」
「全て透明性を持って、ということですね」
キタガワが穏やかに微笑む。
「さすがは、新しい時代を作ろうとしている方だ。私も、全て正々堂々とやらせていただきます」
やがてキタガワが去った後、研究室には不思議な余韻が残っていた。
「なぁ、ナオミ」
タロウが呟く。
「お前の起こした運動、どんどんえらいことになってきてへんか?」
「うん……」
ナオミは窓の外を見つめながら、小さく呟いた。
「なんか、もう後戻りでけへんような気がしてきた」
研究室から見る景色は、青い空と抉るようにそびえる緑の葉をつけた木に覆われていた。
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