第4話

「えっ、もう事務所まで 借りてもうてん?」


 休憩室でスマートフォンを覗き込んでいたナオミは、思わず声を上げた。昨日の区役所で出会ったカナコから送られてきた写真には、小さいながらもしっかりとした事務所の内装が写っていた。


「カナコさん、行動力ありすぎやろっ!」


 慌ててチャットグループを開くと、既に50人以上のメンバーが参加していた。区役所で出会った人たちが、さらに知人を誘い、その知人がまた別の知人を─。


 コンビニの制服のポケットが震える。カナコからの着信だ。


「もしもし、カナコさん? あの、これって……」


『ナオミさん! みんなすっごく乗り気なの。私、不動産屋してるから、空き事務所の手配なんてすぐよ。今から来られない?』


「え、でも、バイト中で…」


『じゃあ、終わったら! みんな待ってるから!』


 切れた電話を呆然と見つめながら、ナオミは状況が把握できなくなっていた。たった数日前、深夜のコンビニで思いついた妄想のような考えが、気づけば現実の「何か」に変わろうとしている。


 バイトが終わると、カナコから送られてきた住所に向かった。雑居ビルの3階。ドアには既に「ヤマダ化推進協会 準備室」というシールが貼られていた。


「これマジか…」


 恐る恐るドアを開けると、中には既に十数人が集まっていた。区役所で会った人たち、その友人たち、そして見知らぬ顔ぶれ。皆がナオミを見て、明るい表情を浮かべる。


「あ、ナオミさん! やっと来てくれた!」


 カナコが嬉しそうに駆け寄ってきた。スーツ姿の彼女は、この場の中心になっているようだった。


「みんなにも改めて説明したんだけど、この活動すっごくいいと思うの。社会実験としてみんなが名字を変えてヤマダになるって、すごく画期的なアイデアじゃない?」


「いや、それ、適当に思いついただけで…」


 言い訳をしようとする間にも、次々と話が進んでいく。


「定款はもう作ってあります」

「SNSのアカウントも取得済みです」

「来週には説明会を開催できそうです」


「ちょ、ちょっと待って!」


 ナオミの声が響く。部屋が静まり返る。


「私、ただの19歳のフリーターで、なんも分からへんし…」


「だからいいんです!」


 カナコが遮る。


「既存の価値観にとらわれない、自由な発想。それがナオミさんの一番いいところ。私たち大人は、堅苦しく考えすぎて、こんな革新的なアイデアが出せなかった」


「でも…」


「理論的な部分は、ナオミさんの友達のタロウさんに相談すればいいって、さっき話してくれてたじゃない」


 そうだった。さっきカナコとチャットで話している時に、タロウのことを少し話してしまっていた。


「もう、これは運命だと思うの。私たち、本当に社会を変えられるかもしれない」


 カナコの目が輝いていた。周りの人々も、皆同じような表情を浮かべている。


 そして気づけば、ナオミは一枚の書類に向かって座っていた。協会の設立趣意書。代表者名の欄には、「ヤマダ ナオミ」と記入する場所が空欄で残されている。


「これ、サインしたら マジで戻れへんのやろな…」


 ペンを握る手が少し震えていた。

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