増殖

停電から三日が経った。


私のスマートフォンには、未読の通知が積み重なっている。削除したアカウントの代わりに作られた「中村さんの非公式ファンページ」が、次々と立ち上がっているらしい。私の投稿を保存していた人々が、それを再投稿し始めている。


消えたはずの私が、逆に増殖していく。



「体調でも悪いの?」


同僚の川田さんが、珈琲を差し出してきた。確かに、私の顔色は悪かったのだろう。化粧を施す意欲すら失せていた。


「ちょっと、疲れてて」


「そう...」と川田さんは言いながら、スマートフォンを取り出した。「中村さんって、このアカウントだった?すごい可愛いじゃない」


画面には、かつての私——否、偽りの私が映っていた。川田さんは私の隣で、その写真をスクロールしている。現実の私と、画面の中の私を見比べているのが分かった。



夜も眠れない。


スマートフォンの電源を切っても、パソコンを閉じても、テレビを消しても、私は逃れられない。電車の中で誰かが見ている画面に私が映り、コンビニの雑誌の表紙に私が載り、道行く人々の会話に私の名前が出てくる。


本当は、何も変わっていないのかもしれない。ただ、今まで気付かなかっただけで、私はずっとこうして分裂し、増殖し、拡散していたのだ。



母が訪ねてきた。


「心配だから」と言って、突然現れた。玄関に立つ母の目に、私の部屋の惨状が映っている。散らかった衣類、積み上げられた宅配の箱、埃を被った照明機材。


「あなた、大丈夫なの?」


その問いに、私は答えられなかった。代わりに、スマートフォンを取り出し、母に見せた。そこには、私の顔写真を使った広告が表示されていた。知らない会社が、無断で使用したものだ。


「これ、私なの?それとも、私じゃないの?」


母は黙って私を抱きしめた。温かい。でも、その温もりは本物なのだろうか。それとも、これも演技なのだろうか。



今日、会社を辞めた。


理由は「体調不良」と書いた。嘘ではない。でも、本当の理由は違う。会社の中で、私は誰でもなくなっていた。かつての「SNSの中村さん」でもなく、「普通の会社員の中村」でもなく、ただの透明な存在。


帰り道、駅のホームで私は立ち止まった。電車が近づいてくる。その轟音が、私の中の声を掻き消してくれそうだった。


でも、結局その場所から動けなかった。


私は、まだ知りたかった。 本当の私は、どこにいるのか。 それとも、私に「本当」なんて、最初からなかったのか。


(メモの続きはここで途切れている。次のページには、黒いインクの染みだけが残されていた)


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