Act7.「義妹」
遠い遠い、いつかのあの日。
幼い少女が泣いている。
「ねえ、どうしてないてるの?」
「……こわいの。かいぶつが、おそってくるの」
「だいじょうぶよ。ここはケッカイのなかだから、マモノはいないわ。あんしんしていいのよ」
「……おねえちゃん、だれ?」
「わたしはリリー。あなたのおなまえは?」
「……おぼえてない……なまえ、わからない」
そう言って、幼い少女は更に泣きじゃくる。リリーは“おねえちゃん”という慣れない呼ばれ方に頬を染めて、ぎこちない手つきでその頭を撫でた。
「なら、ステキななまえをつけましょうよ。そうね……サクラ、なんてどうかしら?」
「サクラ?」
「ええ。ひがしのくにの、とてもキレイな、おはなのなまえ。えをみたことがあるの。あなたのほっぺみたいな、ふわふわのピンクいろだったわ」
「……サクラ」
「ふふ、そうよ。わたしのなまえも、おはなのなまえだから、おそろいね」
「サクラ! おねえちゃんと、おそろい!」
目を真っ赤に腫らせた少女――サクラは、嬉しそうにくしゃりと笑う。
「おねえちゃん、ありがとう」
純真なその笑みに、リリーは自分の存在が許されるのを感じた。
リリーが勝手に名付けたことを大人達は良く思わなかったが、サクラ本人が他の名前では嫌だと駄々をこねたため、その名前は彼女のものとして認められた。
サクラは大切な宝物を見せびらかすように、自分のことを名前で呼んだ。いくつになっても、公の場以外では、彼女の一人称は“サクラ”のままだった。
*
(わたし達にもあんな時があったのを、忘れていたわ。いつから……どうして、こんな事になってしまったのかしら)
リリーは懐かしい夢から醒める。目に溜まった涙が、頬を滑り枕を濡らした。――空も、泣いている。
(……雨)
室内の静寂を満たすのは、窓ガラスを打ち付ける雨音だ。
時刻は夜明け頃だが、まだ真夜中のように暗い。リリーは少しの間じっと雨音に浸っていたが、突然弾かれたようにベッドから起き上がる。それから身なりを整え、雨外套に身を包むと――息を潜め、こっそりと屋敷を出た。大切な婚姻の儀を控えているリリーに侍女達は過保護で、この外出を知られれば止められることは分かり切っていたからだ。
リリーの目的地は、過去に自身が生を終えた――今はサクラが捕らえられている、牢獄である。リリーは目覚めた時、どうしても今日、行かなければならないと思った。
窓も時計も無い地下牢では時間感覚が薄れ、正確には覚えていないが、最期の日はどこか雨の匂いがしていた。この季節は雨が少ないから、恐らく今日が“その日”なのだろう。
リリーは、サクラの最期を見届けにいく。
牢の番人は、早朝の怪しい訪問者に警戒を露わにした。しかしそれがリリーだと気付くと、態度を軟化させる。
サクラとの一件以来、人々のリリーへの印象は一変していた。サクラが悪事に手を染めたことで、昔のリリーの行いは霞み、リリーは憐れな被害者になったのだ。
華やかで社交的なサクラが悪人であったことから、地味で内向的なリリーは品と落ち着きがあると、好意的に見られるようにもなっていた。サクラが悪になったことで、リリーは善になったのである。
「リリー様、こんな所まで、いかがなさいましたか?」
「……お願いです。どうか、サクラに会わせてください。サクラはわたしのたった一人の妹です。彼女は確かに許されないことをしましたが、せめてわたしだけでも彼女を許してあげたいのです。きっと、今、彼女は一人で寂しさに耐えている筈です。少しの間だけで構いません。どうか妹と話をさせてください」
リリーは用意していた台詞を口にする。らしくないそれは、かつてのサクラならどう言うかを考えたものだ。番をしていた男は心を打たれたようだが、簡単には頷かない。そこで、リリーは彼の手を自分の手で包み込んだ。
「安心してください。このことは決して他言しませんから、あなたの優しさが責められることはありません。少しばかり、見て見ぬふりをしてくださるだけで良いのです……どうか、お願いです」
男は、自分の手に押し付けられる硬い感触に心を奪われた。銀貨か……金貨か……枚数は――。目の色が変わった男にリリーは微笑み、そのままそれを握らせた。
――リリーは、サクラの捕らえられている地下牢に辿り着く。
牢の中には、死んだように横たわるサクラの姿があった。リリーはぎょっとするが、落ち着いて見ればその体はかすかに上下している。まだかろうじて生きている、という様子だった。
リリーは見張りの者に声を掛ける。
「あの……サクラの様子は?」
「もう長くは無いでしょう。呪いが体中に広がっています」
「そう、ですか……」
「――この牢には、神力を通さない特殊な加工がされています。中の者がこちらに術で危害を加えることはできません。ですが、直接触れれば別です。くれぐれも、近付き過ぎないようにしてくださいね」
気の優しそうな見張りの男は、姉妹を二人きりにしてくれた。
「サクラ」
鉄格子越しにその名を呼ぶと、ぼろ雑巾みたいなそれが蠢く。骨が浮き出るほど細い腕で格子を掴み、ようやく起き上がったその顔は――やはり美しい。青白い肌、落ち窪んだ目は愛らしいとは言い難いが、妙な艶めかしさがある。天使だった少女は魔女になっていた。
「サクラ……」
大丈夫かと尋ねるのはおかしな話だ。なら何と声を掛けるべきなのか。言葉に詰まるリリーを見て、サクラはひび割れた唇で小さく笑う。
「お姉様と、話すことは、何もないわ」
絶え絶えに漏れ出る、掠れた声。リリーは痛ましさに胸を痛めた。そこに居るのは過去の自分だからだ。直視する事は辛いが、顔を背けることもできない。
「……どうして、こんな事になってしまったのかしら」
リリーはようやく、それだけ言う。
本当は自分が、この暗い地下牢で死を迎える筈だった。それが何故か過去の世界に戻り、やり直しのチャンスを与えられ、叶わなかった恋や温かな居場所を得ることが出来た。そしてその犠牲となるかのように、サクラは悪役となり牢の中に居る。もし過去の記憶が無ければ、めでたしめでたしでお終いだが、とてもそんな気にはなれない。
リリーは何も考えず、今の幸せを享受していたかった。しかし、無視するにはその違和感はあまりに大きすぎた。――自分が変わったことで、サクラの運命が変わったのだと、思わざるを得ない。
「サクラ……わたしは、わたしは……」
リリーの視界が熱く滲んでいく。リリーには、何故自分が泣いているのか分からなかった。ただ、どうしようもなく悲しかった。
サクラがたった一人で死んでいくことが、悲しい。
それは、安全な立場に居る者の、余裕から生まれる偽善だろうか? こんな自分をサクラは嘲笑うだろう。もしくは不快だと罵るだろう。……しかし、実際はそのどちらでもなかった。
リリーは涙を拭い、目を見張る。
牢の中、サクラは本来の彼女らしい、慈愛に満ちた天使の微笑みを浮かべていた。
「これでいいのよ、お姉様」
その涙声には、聞き覚えがあった。……死の直前に、遠くで聞こえていた声だ。どこかに消えてしまいそうな儚い声に、リリーは駆け寄り、格子を掴むサクラの手に触れる。
――瞬間、触れている部分から熱い何かが、リリーの中を駆け巡った。
それは、記憶だ。
忘れていた記憶。無かったことにされた過去。
リリーは全てを思い出した。
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