第1話 -3
彼は自分の胸に手を宛てて言った。
「ヨシュア」
「……よしゅあ?」
間抜けに繰り返してしまう。すると途端に破顔されて、それが彼の名前なのだと気付いた。慌てて私も同じポーズをとる。
「私、梨々です。兼子梨々」
「ワタシ、リリデス?」
「梨々。り、り」
「リリイ!」
嬉しそうにしている。りりい、じゃなくて、りり、なのだが、それが発音しやすいならいいかと思った。
なぜか、周囲から拍手が沸き上がる。「リリィ」「リリィ」とみんなに呼ばれ、みんなが口々に自分の名前らしいものを口にする。私聖徳太子じゃないし、覚えられないし、と目を回していると、やっぱりヨシュアが立ち上がってみんなを宥めてくれた。
ヨシュア、いい人だ。
彼は床に放り出していたノートを取り上げ、鉛筆のようなもので何かを書きつけた。どうやら文字であるらしいが、私には読めないので、首を横に振る。
彼は「ですよね」みたいな顔をしただけで特段落胆する様子もなく、ページを捲ると、また鉛筆を動かした。
見せられたのは絵だった。人。走り書きなのにとても分かりやすい。ボブヘアの女の子で、なんだか見覚えのある服を着ている。というか、たぶん。
「……私?」
己を指さして尋ねると彼は頷く。周囲がまたおおっと沸く。
驚くほど画力の高いヨシュアと、周囲の人々の懸命なジェスチャーのおかげで、私は自分がその場にいる経緯を知ることになる。
どうやら私、突然空から降ってきたらしい。
まじっすか、と思うが、まじらしい。
その場にいた人達で大慌ててキャッチしたものの、私はうんともすんとも言わない。仕方なくここに運んでベッドに寝かせた。太陽が二回沈んで昇る間目を覚まさず、医者を呼んでもお手上げで、こいつは息をしながら死んでるんじゃないかと思われ始めていた。でもやっと目を覚ましたので安心した、よかったよかった。
そして私にガウンをくれた女性達が伝えてくるには、ヨシュアはその間ずっと私の傍にいてくれたらしい。そうなの? と目を向けると、彼は慌てて次の絵を描き始めた。その耳が赤い。
「……ありがとう」
呟くと、彼は顔を上げた。「ん、何?」みたいな表情で、私の次の言葉を待っている。
「ありがとうございます。ヨシュアも、みなさんも」
通じないと分かっていても言いたくて、深く頭を下げた。すると何故か周囲は大慌てで、私の肩に手を伸ばしてくる。そんなことしなくていい、しゃんとしてて、むしろ寝てなくて大丈夫? というような。
笑ってしまう。
通勤電車で貧血で倒れたときだって、座席にいた人達は寝たふりかスマホをいじり続けるだけで、誰も席を譲ってくれなかった。忘年会で無理に飲まされて死にそうな思いをしたときも、同僚たちは私をトイレに置き去りにしてさっさと二軒目に行ってしまった。
本当の世界は、こんなに優しくない。
動かないスマートウォッチを握り締めたまま瞬きを繰り返していると、ヨシュアが低く私を呼んだ。
「リリィ」
手が触れる。今度はそっと、遠慮がちに。
そして何かを言いかけたそのとき、ばぁぁん、と部屋の扉が乱暴に開かれた。
駆け込んできたのは一人の男性だった。ヨシュアより少し年上に見える。
彼が何事か叫ぶと、ベッド周りの人垣が一気に崩れた。皆がわらわらと部屋を出て行く。
「え、何、どうしたの」
尋ねてももちろん返事は返ってこない。ヨシュアも驚いたような顔で、現れた男性と早口に会話している。部屋には私とヨシュアとその男性だけが残された。
人がいなくなってやっと気が付いたが、そこは小さな部屋だった。私の6畳アパートよりも狭く、さっきまでは本当に人がぎゅうぎゅうにいたのだと思う。大きな窓からは朝日が差し込んで明るいが、格子の向かいはただの石の壁のようで、外の景色は望めない。ベッドの他には小さな机と椅子が一つあるだけ。
「リリィ」
ヨシュアがノートを見せてくる。
お城のような建物。馬が走る。人。
迷いなく走る鉛筆の動きに、すごーい、やっぱりめっちゃ絵上手ーい、と感心している場合ではないらしい。
誰かが、お城から、ここに来る……ってコト?
「……え、まさか私目的で?」
「よく焼き、ヨシュアや落雁噛んだ」
ヨシュアではない方の男性が言った。もちろんステーキの焼き加減の話ではないだろう。彼は私を見ると西洋人らしく肩を竦め、それからとても分かりやすいジェスチャーをした。ガウンをちゃんと着て前を締めろ、という。あ、はい。
ついでにベッドから降りようと試みたが、足を地面に下ろそうとしたところで世界が回った。頭痛がぶり返す予兆のように、ぐわんと頭が揺さぶられた。暫くは三半規管がおかしいままで、ヨシュアに支えられて大人しく毛布の中に戻る。
本当に、私の身体はどうしてしまったのでしょうか。
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