第1話 -2

 

 ぞおっと全身に悪寒が走る。思わず自分で自分の肩を抱いた。

 ……いや、ありえなくない?

 服はちゃんと着ている。破れてもいないし、ブラウスに血痕なんかもない。私は生きている。

 ものすごく頭が痛くて胸が苦しい、もしかしたらどこか骨折とかしているのかもしれない、でもとにかく私は生きている。ここにいる。

「……生の実差し迫るた?」

 差し迫る? 何が?

 青年が手を伸ばしてくる。身構えてしまったが、彼は上着を肩にかけてくれただけだけだった。女性の一人が差し出してくれた、厚手のガウン。

 表情も声音も含め、彼等は全身で「あなたが心配です」と訴えている。変なことを言われているわけではないのだろう。しかし下手に頷けない。何か喋ろうと喉に力を入れるものの、声は音にならなかった。

 ただ掠れた風が喉から漏れる。

 すると周囲がわっと騒がしくなり、私を取り囲む人垣の外から、大きな花瓶のようなものが運ばれてきた。またわやわやと言い合って、後から同じく陶器製のタンブラーのようなものも到着する。

 バケツリレーのように手元まで運ばれてきたそれを、青年は私に向けて差し出した。思わず両手で受け取ってしまう。花瓶だと思ったのは大きなピッチャーであるらしく、彼はそれを抱え持つと、私の手の中のタンブラーへ何か透明な液体を注いだ。

 水、ですか。

 問うように見上げると、彼は大きく頷いた。

 あ、と私は思う。

 これ、飲んだらだめなやつじゃない? 黄泉の国の物は一度でも口にしたら現世に帰れなくなる、古代から受け継がれてきた常識じゃない?

 でも、まあ、いいか。

 あんな場所、帰れなくても、べつに。

 どうにかなるだろうとも、どうにでもなれとも思いながら口を近づけた。そこで私は躊躇ってしまった。

 これ、お酒じゃん。

 林檎のような爽やかな香りと、強めのアルコール臭が鼻に届く。

 どうしよう。私面白いくらいにお酒を全く受け付けなくて、胃の中のもの全部吐くのですが?

 するとふいに横から伸びてきた手が、タンブラーを取り上げた。青年はそうして、私に寄越したはずのそれを自ら飲んでしまう。上下する喉仏を呆気にとられて見ていると、彼は手の甲で乱暴に口元を拭い、タンブラーを返してきた。

 にっこりと微笑んでみせるのはつまり、大丈夫だよ、ということか。

 毒なんて入ってないよ。安心して飲んでいいよ。

 途端にまたわっと周囲が騒がしくなるのを、彼は何か言い訳がましく制していた。私はいよいよ腹を括って、残されたアルコールをえいやと飲んだ。

 恐れていたことは何も起きなかった。

 喉が熱く焼けることも、心臓がばくばく言い出すことも、もちろん意識を失って倒れるようなこともなかった。

 むしろ、美味しい。お酒っぽい匂いはしても、気にならない。ポカリのようにするする飲める。

 そして水分を口にして初めて、自分が干からびそうなほど喉が乾いていたことに気が付いた。一杯を飲み干すだけでは足りず、花瓶ピッチャーから注ぎ足された二杯目三杯目を、勢いのままごくごく飲んでしまう。

「……ぶはぁ」

 思わず息を漏らすと、どよめきが起こった。私が初めて声を発したから。

 気が付けば頭痛が和らいでいる。胸のつかえがとれたように自然に呼吸ができる。

「ごめんなさい、あの、」

 目の前の青年に話しかけると、彼は瞳をまんまるにしていた。言葉が通じないことを思い知らされて、仕方なく周囲を見回す。

「お、お客様の中にどなたか、日本語のできる方は」

「歯が! 歯が!」

「さ、埼玉伏せたリムジン!」

 いなそう。

 どうしたものかと思っていると、私の枕元にしゃがみ込んだ青年が言う。

「アカサカユライ」

「……全っ然分かりません」

 理解していないということは伝わったらしく、彼は柔らかそうな眉をきゅっと寄せた。それから徐に、ズボンのポケットから何かを取り出す。小さな紙を紐で綴じた、即席のノートであるらしかった。大きさはちょうどスマホくらい。

「あ!」

 私が叫ぶと、ざわついていた人々が皆面白いようにぴたりと黙った。

「スマホ! てか私の荷物! 私なんか持ってなかったですか、鞄あったりしませんか?」

「……すまほま味噌敷いたグル?」

「スーマーホ。こう、四角いこのくらいの大きさの平たいやつ。とか。鞄、なかったですか。このくらい大きさで、紐ついてて、こういう肩がけのやつで」

 これっくらいのお弁当箱よろしく、手指を忙しく動かしてジェスチャーしてみる。とにかく私が、身体に身につけていた何かが、どこかにありはせぬかと訴えてみる。

 これが何がしかの超常現象による異世界トリップだというなら、荷物は地球に置いてきぼりの確率が九割というところだろう。でも、たまたま身につけていた物は持ち込めて、なんならそれが文明を躍進させるスーパーアイテムになって崇め奉られる確率も、0.1%くらいはある、はず。

 すると彼は何かを思い出したように、ジレの胸元を開いて手を入れた。ポケットがあるらしい。便利だなと感心したのも束の間、彼の掌が開かれた途端、そこにあったものをほとんど奪うように取ってしまう。

「私の」

「すまほま?」

「じゃないけど」

 スマートウォッチだった。アップルのは高くて買えなくて、代わりに買った名も無き中華ブランドのもの。

 震える手で電源を入れようとする。しかし黒い液晶は黒いまま、うんともすんとも言わなかった。あの駅のホームが私の最期だというなら、まだ充電は足りているはずなのに。見たところ傷も歪みもなさそうなのに。スイッチやベルトを押してみても引いてみてもだめ。叩いても撫で回してみてもだめ。

 BluetoothやWiFiが拾えなくとも、少なくとも今が何月何日何時なのか、私のバイタルは正常なのか、教えてくれたっていいのに。

 壊れちゃったのかな。

 黙り込んでいると、ふいに、時計ごと上から手を握り込まれた。その皮膚は思いがけずざらっとしていて、温かいよりも熱いに近い。ぎょっとして顔を上げると、穏やかな焦茶の瞳がこちらを覗き込んでいた。

「生シーシャ、酢の雰囲気マスタ。赤坂由来」

 相変わらず言葉の意味はさっぱり分からない。しかし内容は分かった気がした。それは大事なものなんだね、取り上げたりしないから大丈夫、というような。

 アカサカユライってさっきも聞いたな、とぼんやり思う。安心して、みたいな意味なのかな。

 

 

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