第1話 -4


 

 それから体感五分もしないうちに、私達は新たな訪問客を迎えた。

 白くて丸っこい髭のおじいさんと、金髪碧眼のきらきらしいイケメン。

 一体誰なのかさっぱり分からないので、見たままを言うならそんな感じだ。その他お付きの人々が四人ほどいて、狭い部屋の人口密度がまた上がる。

 頭頂部は寂しいのに髭はふさふさのおじいさんは、その髭といい体型といい、サンタさんのよう。バチカンの司祭のような白い服に身を包み、重たそうな金の首飾りを下げている。ファラオの首飾りのような、いかにもお金持ちの持ち物。

 もう一人の青年は、モーツァルトの肖像画のような服を着ていた。金糸の刺繍が巡らされた丈の長いジャケットに、脚のかたちがそのまま分かるようなぴったりしたズボンとブーツ。更に複雑な刺繍いっぱいのベストから、こんもりとクラバットを覗かせている。髪型はあのくるくるロールではなくて、つやつやとした金髪を後頭部で一本の三つ編みにしている。

 お付きの方々は皆、モーツァルト氏をふた回りぐらいシンプルにしたような格好だった。そしておじいさん以外は全員、やっぱり腰に剣のようなものを下げている。

 彼等は優雅にゆっくりと歩き、狭い部屋を興味深げに見回した。いかにも権力者の所作である。本社社長がうちの営業所に来たときの感じとそっくり。

 ヨシュアたちは、彼等が部屋に足を踏み入れる前から頭を下げて待っていた。そのことに遅れて気付いた私は、右に倣えの日本人の習性で慌てて頭を下げた。くわぁん、とまた軽く世界が回るのに耐える。

 モーツァルト氏が何事か言った。ヨシュアが慌てて私を抱え起こしたところから察するに、「面を上げよ」みたいなことであったらしい。

 しかしモーツァルト氏、顔が険しい。

 私をというよりは、ヨシュアの方を凝視している。なぜ。

 ごほぉん、というわざとらしい咳払いのあと、おじいさんが徐に口を開いた。

「あろー、みず」

 例によって私には分から……ん?

 あれ、と思う。聞こえた音を反芻してみる。

 はろー? はろーって言った? みずって、水じゃなくて、ミスとかミセスとかのやつ?

 いやまさかそんなわけあるまい、いやまさかもしかして、と途端に脳内が忙しくなる。とりあえずは鸚鵡返し作戦。

「は、はろー?」

「おお、おお。……はうあーゆー、あいむふぁいんへんきゅー!」

 おう。

 まじか。まじじゃん。

 小学生でも分かる英語。教科書の1ページ目1行目に出てくるやつだ。ディスイズアペン。アッポーペン。

 いや、と思う。それってつまり、やっぱりおじいさんは英語圏の人ではないのでは。なんか一人で会話してるし。発音変だし。

「……どぅ、ドゥーユー、スピークイングリッシュ?」

 発音は、お前が言えた義理かという話なのだが。

 「わお」とおじいさんは言った。それだけはとてもネイティブっぽかった。

「みず、あいらびゅー」

「あいら……あぁん?」

 不意打ちすぎる愛の告白。つい輩みたいな声を出してしまった。たぶんとても偉いのであろうおじいさんは、しかし気分を害する様子もなく、何やらきゃっきゃと喜んでいる。

「そ、ソーリー。バット、ノーセンキュー」

「あー、いぇあ、いぇあ。はっはっは」

 おじいさんはいよいよ大笑いした。本当に会話が成立しているらしい。

 流暢に英語を喋れたら、と思った。この瞬間にぶわあっと喋り出して、ありとあらゆる疑問をぶつけられたのに。現実の私は回らない頭を必死に回転させる。一体全体何が起きているのですか、って、英語でなんて言えばいいの。

 ヨシュアもモーツァルト氏も、ただ呆気にとられた顔でこちらを見ている。ああ、スマホが恋しい。翻訳アプリがあればこんなもどかしさはなくて済むのに。

 ちょいちょい、と指を折り曲げて、おじいさんがお付きの一人を呼んだ。そそそとやってきた彼は、抱え持っていたトランクケースをその場で開け、中に入っていた布の包みを取り出した。恭しく捧げ持ち、おじいさんに渡すと、またそそそと後退りして去っていく。

 おじいさんは包みの布を剥いだ。現れたのは黒い瓶だ。

「ふむ」

 満足そうに言うと、おじいさんはその瓶をモーツァルト氏に渡した。モーツァルト氏はそれを受け取り、私の傍へやって来る。

「じゅりんく」

 おじいさんが言う。たぶん、どりんく。

 なんなんだろう、と私は思う。この無意味な中継システム。私に何か飲めと言うのなら、お付きの人が直接私に渡してくれればいいのに。ほら、無駄に歩かされてモーツァルト氏が不機嫌な顔になってます。

 ベッドの人である私に高さを合わせるため、モーツァルト氏が床に膝をつく。そんなことをさせてよい身分の方ではなさそうなのに。私は慌てて手を伸ばしかけ、固まった。

 虫。

 瓶が黒いと思ったのは、容器の色ではなかった。ガラス自体は透明で、中の液体は琥珀色だ。そしてその液体の中に、みちみちに、黒い虫が詰まっているのだった。

 蜂。蟻。

 それから、どう見ても、黒いアレ。

 全身が総毛立つ。叫び声を飲み込む。

「魚メタなはしか、あー、えねじー」

「んのぉぉー!!」

 堪えきれなかった。

「ノーエナジー、ポイズン! 死ぬやつ! イヤーむりむりむりどっかやって!!」

 百歩譲ってこれが薬なのだとしても、飲めるわけがない。

「リリィ」

「ギルバート」

 ヨシュアが窘めるように私を呼ぶのと、おじいさんがモーツァルト氏に呼びかけたのは同時だった。

 貴族然とした麗しい装いの青年は、どうやらギルバートという名前であるらしい。彼は美しい顔に一瞬困惑の表情を浮かべたが、すぐに打ち消した。意を決したように瓶の蓋を開けると、そのまま中身を口に含んでしまう。

 ばりぼり、ごりっ、と何かを噛み砕く音が響く。

 つい先ほど、私はヨシュアが同じことをしたのを見た。だから、彼は私のために毒味をしたのだと思った。

「ぎゃーごめんなさい、ポイズンって違くて! 殺されるとかそういうんじゃないのはさっきヨシュアにも教えてもらいました、違うのそういう問題じゃないの」

 モーツァルト改めギルバート氏が私を睨む。

 黙れ、と。

 うっわまじのイケメンだ、お目目真っ青でお美しい、とうっかり見蕩れてしまう。その一瞬に顎を掴まれた。

 え。ちょっと待て。

 いや、おい、まじで待て。

 唇を奪われたと気付いた瞬間、口の中にざらっとした液体が侵入してくる。ざらざらの正体は考えるまでもない、あの虫たちだ。

 イケメンに、口移しされる、蜂とG。

 辞世の句、字余り。

 全身にざあっと鳥肌が立った。悪寒と嫌悪感で、血が逆流する。

 むり、まじでむり。なにこれ。なんで。

 いやだ、いやだ、と訴えたいのに、ギルバートは強く私を押さえ込んで離してくれない。ギルバートが、ヨシュアがどんな表情でいるのか、視界が涙に溢れてさっぱり分からない。

 もういやだ。

 世界って本当に優しくない。

 相手の舌に歯を立ててようやく腕の拘束が緩んだその瞬間、あたしは力ずくで相手の頬を引っぱたいた。叩こうと思って叩いたのではない、ただの反射神経だ。

 いい音がした。

 彼はよろけた。手で口元を抑え、目を思いっきり見開いている。僕なんだかひどいことをされましたね!?という表情。

 いや、いやいやいや。

「全面的にあなたが悪い! 最っっ低!」

 跳ね除けた毛布を投げつけてベッドから飛び降りた。その瞬間、世界がぐわんと回転した。意識が遠のく。

「リリィ!」

 叫んだのは誰だったのか。

 顔面に床の板が迫る。うわ、めちゃくちゃ木がささくれ立ってる、痛そう。でも手が出ない。

 暗転。

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