第2話 事故物件
「そうですねぇ、残念ながらその価格帯のお部屋は今、当社では扱っておりませんねぇ」
目の前に座った30代くらいの小太りなメガネの男性は、PCを見ながらいかにも申し訳なさそうな声を出した。
雨の中をやっとの思いでたどり着いたのは、『ニコマル賃貸』という不動産会社の支店で、駅前の繁華街にある雑居ビルにこじんまりと店を構えていた。
天気の悪い平日の夕暮れ時とあって、客の姿は晶だけ。店には佐内のほかに年配の女性スタッフがいたが、晶にお手拭きと温かい緑茶を出した後、店の奥に引っ込んでいった。
全身ずぶ濡れの晶にとって、店内は寒いくらい冷房が効いていたが、その男性の短く刈り揃えた頭には玉の汗がいくつも付いている。首から下げているネームプレートを見ると『営業 佐内』と書いてあった。
佐内は初め、ずぶ濡れで来店した晶の状態を見て、タオルを渡してくれるなど気を遣ってくれたが、晶が気遣いを遠慮する様子を見てからは、それ以上構うことなく普通に対応してくれた。
「この価格帯では、若い女性が最低限住める条件の物件を探すのは難しいですねぇ」
PCを操作しながら、佐内は再度、いかにも残念だという声で晶に伝えた。
「別に、セキュリティ万全のオートロックとか、二階以上の部屋とか、そういったものは全然期待してないんです。最低限玄関に鍵がついていて、水道と、狭くてもキッチンがある物件ならどんな所でもいいんです」
晶は切迫していたこともあって、今置かれた状況を一通り説明して必死になって食い下がったが、佐内はその顔に難色を示す。
「そう言われましてもねぇ」
相変わらず顔はPCを見つめたままだが、一応晶の為に色々探してくれているのだろう。キーボードをパチパチと叩く音が店内に響く。
「こちらもお客様にご契約いただいた後で何かトラブルがあっても問題ですので、下手な物件は紹介出来ないんですよねぇ。まして若い女性の一人暮らしとなると、それなりの防犯対策がとれた物件でないと」
佐内はチラッと晶の方を見た。明らかに女子高生という姿の晶はいかにも世間知らずに見えるのだろう。佐内は聞き分けのない子供にどうやって言い聞かせようかといった風に眉をへの字にさげた。
晶は、半ば自棄気味になってさらに食い下がる。
「今私が住んでいるところだって、ボロアパートの一階だし、セキュリティなんてほとんどないですよ」
晶がそう言うと、佐内は興味を惹かれたのか、PCから視線を晶の方に移した。
「そんな所に一人で住んでいて、今まで一度もトラブルが無かったんですか?」
「これと言って、特には」
「それは運が良かったんですね。このあたりはここ数年、都市部のベッドタウンとして注目されてから人口もぐんと増えましてね。でもそのせいか治安が年々悪くなってきましたから」
数年前に都心部までの直通電車が通るようになって、この街の人口は急激に増加した。不動産会社にとって人口増加は有難いはずだが、そんな弊害もあるのかと、今更ながら自分の周りで何もトラブルが無かったことに安堵する。
「ボロアパートとはいえ、そこにはオートロックに代わる何か強力なセキュリティがあるんじゃないですか?例えば、ドーベルマンが庭で番犬してるとか、大家さんが力のある人で、常に門番がいるとか」
「…ドーベルマンはいないけど、人が近寄らないのは確かです」
佐内はなかば冗談めかして言ったようだが、晶は自分のアパートの様子を思い浮かべ、苦笑しながら答えた。
そんな晶の様子に彼は少し考えるような間をおき、やがて合点がいったというようにひとつ頷くと、訳知り顔で晶の顔を見た。そして口元に手をあて、周りに聞こえないような小声で晶に質問する。
「出るんですか?」
「でる?」
晶は一瞬、質問の意味がわからなかったが、すぐに佐内が言いたいことが理解できた。
「…いえ、そういう風に見える外観なだけで、実際に幽霊を見たことはないですよ」
晶はますます苦笑して答える。すると佐内は晶の返答に少し意外そうな顔をした後、何か思い付いた様子でまた晶に質問した。
「あなた、霊感はある方ですか?」
「霊感…ですか?」
突然の質問に晶は面食らう。いきなり何の話をし出したのだろうか。とりあえず晶は素直に質問に答えることにした。
「いえ、今まで幽霊を見たり感じたりしたことは一度もないですね」
(見れるものなら見てみたいんですけどね)
答えつつも、心の声は留めておく。そんなことを口走っては、ただでさえ未成年の自分が信用されるか危うい所なのに、更に在らぬ誤解を招いてしまう。
晶の答えを聞いた佐内は何やら難しい顔をして、再びPCを操作し始めた。パチパチとキーボードを叩く乾いた音が二人だけの店内にやたらと響く。
佐内がキーボードから手を離し、難しい顔のまま画面を見つめる。その後、改めて晶を見て話し始めた。
「弊社は、あまりこういった物件を表立っては紹介していないんですが、あなたの事情を考慮すると、もしかして条件は合うのではと思いまして…どうぞご覧ください」
そう言って佐内が見せてきたPCの画面には、一つの間取りが表示されていた。
詳しく見てみると、その部屋の住所は今晶が住んでいるアパートの最寄駅から二駅離れた場所で、そこから徒歩5分。オートロックで2LDKのシャワートイレ付き。築3年という好条件だ。
しかし、驚くべきはこんな好条件・好立地にもかかわらず、家賃が今のオンボロアパートとほとんど変わらないところだった。これはどう見ても破格の値段だ。
願ってもない好条件に晶は目を丸くするが、こんなうまい話には何か裏があるに違いない。もしや世間知らずの小娘を揶揄っているのかもしれないと疑いの目で佐内を見た。
「どうしてこんな好条件で、こんな安いんですか?」
胡散臭そうな目で佐内の方を見ると、当人は意外にも真面目な顔をして、小声で晶に言った。
「あまり大きな声では言いたくないんですが、ここはいわゆる事故物件なんです」
「事故物件?」
「そうです。この部屋で数年前に住人が亡くなる事故がありまして…」
人が亡くなるという言葉に晶はぎょっとしたが、佐内はそのまま話を続ける。
「そういった曰く付きの部屋っていうのは、誰も住みたがらないので、破格の家賃でご提供しているんですよ。中にはあえてそういった物件に住む物好きなお客様もいますけどね」
裏があるとは思ったが、まさかそんな大事だったとは。確かに、世間ではそういった曰く付きの部屋が格安で提供されることがあることは知っていた。でもまさか自分が関わることになるなんて夢にも思っていなかった。
「その事故って、何が原因だったんですか?」
おどろおどろしい光景を思い浮かべ、晶は恐る恐る尋ねたが、佐内はゆっくり首を横に振る。
「詳しい内容はお話出来ないんですよ。こちらは事故があった事実だけお客様に伝える義務はありますが、詳しい内容は…。お聞きになっても、プラスになることはひとつもありませんからね」
困ったような笑みを浮かべて、佐内は晶をやんわりと諭した。
確かに、詳しい内容を知ったところで、気持ちよくその部屋で過ごすことは出来ないだろう。むしろ、生活する上では知らない方が幸せかもしれない。
納得しつつ、晶はもう一つ気になったことを聞いた。
「この部屋、その…出るんですか?」
佐内はこの質問が来ることを既に予想していたらしく、さてどう答えようかと考えているような複雑な顔を見せた。
「あの、私、こういうの結構平気だと思います。だから、本当のことを言ってください」
もしかしたら自分にとって都合のよい好条件の部屋が決まるかもしれない。晶は殊更落ち着いた様子を見せ、佐内に懇願した。すると彼は観念したように少し息を吐く。
「出る、という話はあるにはあります。ですが、科学的な証拠があるわけではないので、体験した人にしかわからないものですよ。実際、私がこの部屋を査定しに行った時は、何もありませんでした。私にはね」
「じゃあ、他の人には何かあったんですか?」
佐内は視線を彷徨わせ、一瞬言おうかどうか迷った様子だったが、諦めたように晶に話した。
「一緒に行った女性の同僚が、何というか、その日から体調を崩しましてね。本人は体が重くなって、寝ているときによくうなされる様になったと言ってましたね。――それに」
「まだ何かあったんですか?」
「…いえ、その後、しばらくしてその部屋に新しい住人が住んでから、それらは治まったそうです」
「次の住人って人は大丈夫だったんですか?」
そう聞くと、佐内は曖昧な顔で答えを濁した。
「今伝えられることは、その方はもうこの部屋を引き払って、別の部屋に引っ越したということです。―――そういった曰く付きのお部屋なので、無理にお勧めはしません。ただ、今あなたにご紹介できるお部屋はこれだけになってしまいますね」
あまりこの部屋の話をしたくないのだろう、佐内は話を打ち切り、晶に選択の時を迫ってきた。
晶には実際のところ、迷う時間の猶予もない。あと十日でホームレスの仲間入りというリミットがある中、この話は自分にとって神が与えてくれたギフトに思えた。
部屋の立地も広さも申し分なく、それに比べると佐内が言う〝曰く〟が、晶にとってはあまり問題では無い様に感じられる。それに、幽霊が出るなんて、父親に会いたいと思っている晶にとっては願ってもないオプションまで付いているではないか。
晶はもうこの物件で契約する気満々で佐内に伝えた。
「この部屋、今から見せてもらってもいいですか?」
佐内はまだ複雑な顔をしている。本当にこんな物件を勧めても良いのだろうか、という良心の呵責に心を悩ませているようだ。
案外素直に顔に出るタイプな気がする。良い人なのかもしれないが、営業マンとしては大丈夫なのだろうかといらぬ心配をしてしまう。
「…では、車を用意しますので、少しお待ちください」
やがて佐内もまた、意を決したように晶に言った。
****
佐内の運転する『ニコマル賃貸』の文字が大きく入った営業車が目的地であるマンションに着く頃には、辺りはもう真っ暗になっていた。
閑静な住宅街の一角に聳え立つマンションは、晶の目から見ても特に変わった様子はなく、これが事故物件を有する建物だとは誰も気付かないくらい、自然と周りに馴染んでいる。
車から降りると、夜の空気に混じって雨の香りがぶわりと全身を包む。暗闇の中をしとしとと音を立てて降る雨の匂いは、夜の空気と相まって何故か晶の心をざわつかせた。
意味もなく大きくなる胸の鼓動に、晶は何だか落ち着かない気持ちになりながら佐内に付いてマンションのエントランスに向かう。
ここに到着するまでの車中、晶は佐内からこの辺りの情報を一通り教えてもらっていた。あまり馴染みのない街だったが、駅から近いとあって、買物にも不自由はなさそうだ。晶の通う高校からもそこまで離れているわけではなく、バイトに行くにも今よりも便利そうなので、いいことづくめに思える。
ここに住むかもしれないという期待の目で改めてマンションを見上げていると、佐内が入り口横に備え付けてあるインターホンを鳴らした。すぐに男性の声で応答があり、佐内が挨拶と要件を伝えると、しばらくしてロビーの奥にある扉から年老いて頭の毛の寂しくなった男性が出てきた。
「どうもお世話になってます」
「ああ、どうもお疲れさん」
佐内が挨拶すると、男性は軽く手を挙げて挨拶を返し、ちらっと晶を見た。
「こちらのお嬢ちゃんが、例の部屋に?」
「そうなんです。事情は説明済みですが、とりあえず見学だけどもと思いまして」
晶は男性に軽く会釈した。男性もそれに答える様に頷く。
「ここの大家をやってる鈴木です。事情は佐内さんから聞いてるって話だけど、平気かね?」
「それを確かめるためにも来ました」
晶がそう答えると、佐内と同じように複雑な表情を見せる。
「大丈夫かねぇ…」
大家は呟き、寂しくなった頭を掻いた。そして唐突に予想外なことを言い出した。
「実は今、あの部屋にちょうど先客が来てるんだよ」
「「えっ?」」
晶と佐内は驚いて同時に大家の男性の顔を見る。まさかこんな曰く付きの物件で、ダブルブッキングに合うとは夢にも思わなかった。
「いや、違う違う。内見者じゃなくて、…所謂その―ほら、拝み屋みたいなもんだ」
大家は二人の早とちりに気付き、慌てて手を振って訂正したが、最後の方の言葉は何とも形容しがたい微妙な顔で言った。
(オガミヤ?…もしかして今、拝み屋って言った?)
晶は聞き慣れない言葉に自然に興味を惹かれる。
拝み屋とはもしかして霊能者と呼ばれる人のことだろうか?確かに考えてみれば、曰く付き物件なのだから、そういった職業の人たちにお世話になることもあるのかもしれない。
その人たちがたった今、例の部屋で除霊とかいうものをしているのだろうか?
「拝み屋って…でも鈴木さん、この前もお祓いを頼んだって聞きましたけど、効果がなかったって愚痴ってましたよね?」
佐内は客であるはずの晶の存在をまるで忘れているかのように込み入った話をし始める。幸い、晶も拝み屋の話には興味津々だったので、そのまま存在を消して聞いていることにした。
「この間のは、あれは詐欺師だったよ。十字架やら聖水やらと持ち出して、それっぽく演出していたがね。俺は立ち合っていたけど、何にも効果がなかったことは誰が見ていても分かっただろうよ」
大家は溜息と共に愚痴を吐き出した。それを聞いて、佐内は当然の疑問を口にする。
「それじゃあ、今いる拝み屋は信頼できるんですか?」
「…今度のは保障付きだよ。この間の詐欺師の話を古い馴染みに話したら、そいつの知り合いから紹介してもらってね。ただ、まだ完全に信用しちゃいないが…まぁ、お手並み拝見ってとこだ」
そう言って大家はまた頭を掻いた。大家も佐内も複雑な顔をしているが、晶はその今いる拝み屋に俄然興味が湧いてきていた。
まさか本当に悪魔祓いとか除霊?みたいな現場に立ち合えるのだろうか。そんな経験は普通に生きていたらあまりできないことだ。純粋な好奇心で、是非その現場を見てみたいと思う半面、その部屋の幽霊がいなくなってしまうのは、何だか惜しい気がした。
(だって、その幽霊と寄り添うことができたら、お父さんのことも、もっと身近に感じることが出来るかもしれないし…)
そんな風に考えていた晶は、境界の向こう側に興味を持つことがどういうことなのか、この時はまだ気付きもしなかった。
とりあえず先客がいても問題ないということで、晶と佐内は、大家に部屋まで案内してもらうことになった。
築3年しか経っていないマンションは、まだ新築のようにきれいで、3人はピカピカの玄関ホールをそのまま奥へ進んでエレベーターに乗り込む。
大家と佐内は世間話に花が咲いているようだが、晶は目的の階に到着するまで会話には参加せず、これから向かう部屋と拝み屋のことばかり考えていた。
(拝み屋さんって、どんな人なんだろう…本当に霊が見えるのかな?)
晶がそんなことを思っているうちに、エレベーターが3階で止まる。
到着を知らせるチャイムと共に、エレベーターのドアがゆっくりと開いた。
ズシ…
その瞬間、晶は押し潰されるような、息苦しいような、何とも言えない気分に襲われた。
(え、なに?これ…)
目の前には蛍光灯の頼りない明りに照らされた廊下があり、それに沿って、それぞれの部屋のドアが等間隔に並んでいる。
ただそれだけの風景なのに、ひどく重苦しく感じ、心臓がドクドクと暴れるように鳴って落ち着かない。
(どうしたんだろう…私…)
動悸が激しくなり、それに伴って呼吸も荒くなる。それを必死に抑えながら、不自然にならないように息を整えようとするが、吐く息がすでに震えていた。
背中は悪寒を感じるのに汗が滝のようにつたっていく。
踏み出す自分の足元がやけに頼りなく、世界にたった一人だけになったような孤独感が晶を襲う。
この感じには遠くない過去に覚えがあった。
晶は突然迫ってきた焦りと不安で頭がいっぱいになり、気が狂いそうになる。
先に立って歩いている佐内と大家は、晶の異変に気付くはずもない。
パニックを起こさないよう必死で深呼吸を繰り返し、晶はどうにか心を鎮める努力をしてやっとの思いで薄暗い廊下を歩き出した。
「この部屋だよ」
大家が示した問題の部屋は、廊下を進んで一番奥にあった。晶の鼓動はこれでもかというほど激しく鳴り、大家の声もよく聞き取れない有様だ。
激しい動悸に加えて、ついには全身が震えだす。冷や汗が大量に背中をつたって流れている。
(この部屋は、ダメかも…)
これが佐内の言っていた〝曰く〟なのかもしれない。晶は震える体を必死に抑えるよう、自分の二の腕を両手で抑える。
出来る事なら今直ぐこの場から逃げ出してしまいたい。初めての感覚に晶は自分の考えが甘かったことを自覚し、ここに来たことを既に後悔しはじめた。
大家や佐内は何ともないようで、先客が気になるのか、ノックの後無造作に部屋のドアノブに手をかける。
その瞬間、晶は思わず叫んでいた。
「ダメっ!開けないでっ!!」
場違いなほど大きな叫び声に、佐内も大家も驚いて振り向いた。そして、尋常でない晶の顔色を見て大家は慌ててドアノブから手を離す。
それを見て晶はほっと息を吐いたが、今度は手を離したはずのドアノブが勝手に動き出した。
(どうして…)
カチャリと音を立てて、ゆっくりとその扉が開く。
次の瞬間、晶は部屋の中から真っ黒な手が無数に伸びて、自分の方に向かってくるのを目の当たりにした。
その手に捕まる寸前、晶はその意識を手放した。
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