眠れない羊と紳士の夜を

星林月船

第1話 境界の雨




 「まぁそういう訳だから、何とか今月末までにお願いね」


 

 「え…、あの、ちょっと待ってください!」


 晶の静止する声も聞かず、大家のお婆ちゃんの息子と名乗った冴えない印象の中年男性は、要件を言い終わるなり両手を合わせて拝むようなポーズをしながら逃げる様にその場から立ち去っていった。


 彼が急いで階段を降りて行ったせいで、アパート全体がぎしぎしと軋んだ音を立てている。男性が去って行った階段を暫し呆然と見つめていた晶は、事の重大さに、次第に体の力が抜けていった。


 「今月末…?」


 危うく手に持っていた買物袋を落としそうになるが、特売の卵が入っていたことを思い出し、慌てて手に力を入れ直す。


 「嘘でしょ…?」


 晶はハッとして急いで部屋の鍵を開けて入るやいなや、靴を脱ぎ捨て床が軋むのもお構いなしに居間に駆け込んだ。部屋の壁に掛けられた貰い物のカレンダーを睨む様に見つめ、今月の残り日数を数える。


 「1,2,3…」


  数えるうちに、みるみる血の気が引き、思わずその場にうずくまる。


 「嘘でしょ…?」


 晶は真っ青な顔で、本日二回目となるまったく同じ台詞を呟いた。


 そんな彼女をあざ笑うかのように、アパートの庭木に留まっていた油蝉がジージーと鳴き始めた。




 


 今月の最高気温を更新した今日の午前中、晶の通う高校では一学期の終業式が行われた。


 最後の苦行である校長の念仏のような話を右から左へと聞き流した後、明日からはとうとう夏休み!という開放感が教室内には溢れかえっていた。クラスメイトはみな浮足立ち、それぞれ友達なり彼氏彼女なりと連れ立って教室を出て行く。


 「晶も一緒にカラオケ行く?」


 クラスメイトの女子達と盛り上がっていた有紀に声を掛けられ、少し考える素振りをした晶は、首を横に振った。


 「…いいや。やることもあるし。お誘いありがと」


 少し申し訳ない気持で答えると、有紀は「そっか、じゃまた今度ね」と言って気にする素振りを見せずにまたクラスメイトの輪に戻っていった。


 有紀とは中学からの付き合いだが、つかず離れずの距離感を続けている仲で、晶の付き合いの悪さも分かってくれる貴重な友達だ。


 晶は心の中で有紀に手を合わせた後、人知れず小さな溜息を吐き、鞄を持って騒がしい教室を出て行った。


 今日は珍しくバイトがない放課後で、晶は帰りがけにスーパーで特売の食材を買い込んだ後、久しぶりにできた余暇をどう過ごそうかと考えながら帰り道を歩いていた。


 有紀にやることがあると言ったのは嘘ではなかったが、晶も少なからず夏休みの解放感に浸っていたので、溜まった家事をこなすだけで今日の午後を潰す気分にはなれなかった。


 それでもクラスメイトとはしゃぐ気分でもなかった晶は、特にやりたいことも思い浮かばないまま自宅アパートまで帰ってきてしまった。


 「大将やっほ~。そこ涼しい?」


 鬱蒼と茂るアパートの庭木の陰に、貫禄のある体を横たえて黒猫が溶けるように寝そべっている。彼はこのアパートの庭を縄張りとする野良猫で、晶は勝手に『大将』と名付けていた。


 大将は晶の声にちらりと片目を開けて晶を見たが、すぐにまた興味を失ったように目を閉じた。


 すると今度は頭上からギャアギャアと声が聞こえてきた。顔を上げると数羽のカラスが晶を出迎えるように羽をばたつかせている。


 「ただいま~」


 軽くそう言ってカラスに手を振り、鬱蒼とした庭を横切っていくと、目の前には今にも崩れそうなオンボロアパートが現れた。


 晶が今現在住んでいるこのアパートは、築ウン十年と言われている世にも見た目も恐ろしい、通称〝ユウレイ荘〟。


 町内でも有名なオンボロアパートで、その外観はまさにその名の通り、この世のものではないモノが住んでいそうな雰囲気を醸し出している。


 周りには背の高い木が生い茂り、そこに住みついたカラスたちが常に縄張りを主張するようにギャアギャアと鳴いているし、アパートの窓ガラスにはすべてヒビが入り、蔦に覆われた外壁は今にも崩れ落ちそうに見える。屋根に至っては瓦も所々抜け落ちており、代わりに雑草が生えているような有様だ。


 近所の悪ガキどもが、肝試しという名目でいたずらをしでかすことも数知れず、それほど町内では有名な心霊スポットだった。(ちなみに実際幽霊にお目にかかったという人の話は今のところ聞いたことがない)


 そんな自宅アパートまで帰ってきた晶は、今日が自分の人生にとってとても大きな日になるとは思いもしていなかった。




 「噓でしょ…」


 晶はそう無意識に呟きながら先ほどの大家のおばあちゃんの息子の話を思い出す。


 その話によると、大家のお婆ちゃんが高齢のため、そろそろ然るべき施設にでも…と家族で話し合っていたその矢先に、当のお婆ちゃんが先日アパートの階段から転落して足を骨折してしまったらしい。


 そのため、病院に入院することになったが、たとえ怪我から回復したとしても、もう年齢的に大家復帰は難しいだろうという家族の判断で、いっそのこと、この住人も片手で数えるしかいないオンボロアパートを手放してしまおうということになったそうだ。


 つまり彼の話とは、カレンダーで確認した事実によると、あと十日の内にこの住み慣れた我が家を出ていけという、神も仏もない無慈悲な内容のものだったのだ。


 「―――冗談じゃない!!」


 晶は憤りと焦りでどうにかなりそうな頭を振って、深呼吸をする。それでも、いくら冷静になろうとしても頭は不安と焦りに占拠され、胸の鼓動が速くなるばかりだった。


 (ダメだ、落ち着け私!誰も助けてはくれないんだから)


 そんな現実も、晶の焦燥に拍車をかけている。晶は縋るような気持ちで箪笥の上に置かれた写真立てに目を向けた。


 桜の木の下ではにかむ様に笑う中学生の頃の自分と、穏やかな笑顔の父親の顔がそこに写っている。今から約三年前。晶の中学入学の記念写真だ。


 「お父さん…大変なことになっちゃったよ。どうしよう…」


 晶は呟くように写真の中の父に話しかけた。


 室内には外から聞こえる蝉の声だけがやけに響いていた。



 晶の父親は去年の秋に事故でこの世を去った。


 母親は晶が幼い頃に既に亡くなっており、周りに頼れる親戚もいなかったので、晶は父親が亡くなってからは文字通り天涯孤独の身となった。


 独りぼっちの生活も半年も経てばそれなりに慣れてはきたが、写真の中の父親に語りかけるのは最早癖のようなものだった。


 もしこの世に霊という存在がいるのなら、父親の霊が自分の近くにいて何かしら語りかけてはくれないだろうか。父親が亡くなってすぐの頃はそんな期待をもって写真立てに話しかけていたが、いつも返ってくるのは静寂のみ。


 それがかえって自分の孤独を際立たせているようで、語りかけるたびに心が抉られる気持ちになった。


 それでも晶は、返ってくるはずのない返事を期待することを今だに止められないでいる。


 そして今日もまた同じ。期待と落胆を繰り返すうちに、心はいつしか摩耗してしまった。


 晶はそっと溜息をつく。そんな非現実的なことがあるはずはないとわかっていても、勝手に期待する自分の心に自分自身で呆れてしまう。


 「…ともかく、急いで新しい部屋を探さないとね」


 自嘲するように小さく溜息をついた晶は、少し冷静さを取り戻し、急いで買物袋の中身を冷蔵庫に仕舞い始めた。





 ****




 夕暮れにはまだ早い時間のはずなのに、すでに外は薄暗くなっていた。


 昼間は梅雨の晴れ間に強い日差しが降り注いでいたが、今はどんよりとした雲が重く垂れこめ、生温い風が肌に纏わり付いてくる。


 「やっぱり、傘を持て来るんだったかな…」


 晶は手に広告を握りしめ、住宅街が密集した狭い路地を歩く。大家の息子が親切にも置いていった数枚のチラシは、近場にある不動産会社の広告だった。


 とりあえず晶はその中でも、アパートから一番近い場所にある店を目指すことにした。そこは交通機関を使わなくとも何とか歩いて行ける距離にある。


 道すがら、広告に載っていた賃貸アパートの相場をざっと確認する。途端に晶は目の前が真っ暗になる思いがした。


 「何でこんなに家賃が高いのよ…」


 どれもこれも、今住んでいるオンボロアパートに比べて格段に家賃が高い。中には今の家賃の三、四倍もする部屋もあった。


 「…これ以上バイトを増やせってこと?」


 晶はうんざりしたように溜息をつき、独り言ちる。


 晶は今、私立高校の1年生だが、入学してからは放課後のほとんどをバイトに費やしていた。孤児の晶はもちろん学費や生活費など様々な援助を受けてはいるが、それだけでは将来のことも考えると心許ないという理由で、花の高校生活を惜しげもなくバイトに捧げている。


 幸い学業に支障が出ない程度に何とかやってこれたが、正直これ以上の出費はかなり痛かった。


 「こうなったら、いよいよ仕事を変えなきゃかなぁ」


 今時、花の女子高生というだけで雇ってくれるところは沢山ある。現に今のバイトだって女子高生ブランドで採用してもらえたようなものだし、仕事内容に拘らなければ今より稼ぐ方法は他にもあるだろう。しかし、さすがに死んだ父親に顔向けできないような仕事はしたくないという思いがあった。


 「いやいや、探せばもっと良心的な価格の部屋はあるかも。この際安全に住めれば、もうどんな部屋でもいいや」


 それにいくらなんでも今のアパートより古い所は無いだろう。それだけでも安全は今より保障されるはずだ。晶は怪しいバイトに手を出す前に、一縷の望みをかけて不動産会社を目指した。




 路地を抜けると、潮の香りとともに一気に視界が広がった。どんよりとした灰色の空の下に、いつもより暗い色の海が広がっている。


 もう季節的には夏真っ盛りだというのに、例年よりも梅雨が長びいているせいか、海岸に人気はない。濃藍の波が海岸に打ち寄せている様子は何だか物悲しい印象だ。


 海岸通りに抜ける階段を下りて、晶はふいに立ち止まった。


 目線の先に、通りから住宅地へと抜ける道の交差点が見える。その角に立つ街灯の下に、粗末な瓶がひっそりと置いてあるのが見えた。


 そこに挿された一輪の花。


 その青色に晶は目を奪われる。まるでモノクロの世界で唯一色の着いたもののように、その青は遠目から見ても鮮やかだった。


 「今日もある…」


 つい先ほど手折られたばかりのように瑞々しく、小さいながらもその花びらの先まで凛と咲き誇っている姿に、晶は自然と目が離せなくなる。


 その時、ぽつりと雨粒が晶の頬に当たった。


 静かに降り始めた雨は、すぐに晶の制服に染みを作っていく。辺りはいつもより夕闇が早いせいか、人通りもほとんどない。晶は自分が濡れていることにも気付かず、じっとその花を見つめていた。



 ―――あの日も雨が降っていた。冷たい雨だった。



 去年の秋、この場所で父親は不慮の事故に遭い、この世を去った。


 あの日を境に、晶はどうしてもここを通ることが出来なくなってしまった。


 この場所に近づくと、どういう訳か足が止まってしまい、それ以上近づくことができない。それなのに近くを通れば、無意識にこの場所に足が向いてしまう。


 自分でもどうしてなのか理由がわからず、いつも途方に暮れたように立ち尽くす。そして少し離れたこの場所から、いつも名も知らぬ誰かが供えてくれた花を、ただ見つめることしかできないのだった。


 今日も不動産会社に向かうはずだったのに、無意識にここに来てしまったらしい。諦めにも似た思いで溜息をつく。晶はこの自分の不思議な行動の理由に何となく思い当たっていた。


 (…あそこに行けば、お父さんに会えるのかな)


 ぼんやりとそんなことを考える。


 頭ではそんなことあり得ないと分かっているはずなのに、心は淡い期待と、現実を直視しなければいけない恐怖に苛まれ、いつも一歩も動けずにただ佇むことしかできない。


 この世にもし、本当に幽霊という存在がいるのなら、自分の傍には父親が必ずいるはず。晶はそう信じていた。確信していたと言ってもいい。


 それほど父親の存在は大きく、晶は父親と一緒に暮らしていたボロアパートの部屋の隅々に、未だその存在を強く感じていた。


 遺品は整理したものの、いまだに捨てられず、時折取り出して眺めては、あふれ出る思いに必死に耐え続けている。


 父にとってもきっと、この世に残してきた自分の存在は気がかりだったはずだ。だから晶は、父親の霊が自分の元に必ず戻ってくると信じていたし、信じたかった。


 そうしないと、父のいないこの世にいる自分がとても頼りなく脆い存在に感じられて、晶はその恐怖に震えながら夜明けを待ったことも数え切れないほどあった。


 普段の生活の中でも、ふとした瞬間に目の前が真っ暗になり、そこに一人で佇んでいるように感じることがある。そんな時、漠然と、父の元に行ってしまおうか、などと考えることも少なくなかった。


 しかし、さすがに自分から命を捨てるのは、父を悲しませる気がして躊躇われた。それでも晶は、死ぬことにさほど抵抗を感じない自分がいることを自覚し始めていた。


 今の自分はどうして生きているのだろう。


 時折、そんなことを考える。父がいなくなったあの日、晶の心も止まってしまったのかもしれないと思う時もある。世界がモノクロームになったように、心が何にも動かされず、ただ息をしているだけ。


 そんな生活の中で、これは死んでいることと同義ではないか?それなら今の自分は、ほとんど惰性で生きているようなものなのではないか。そんな風に思い始めてしまった。


 大好きな父が残してくれた自分の命を死なせないために生きている。晶にとって今の生はそんな認識でしかなかった。


 それでも、父が残してくれた自分の命を無駄に捨てるようなことは、まだ出来なかった。


 晶は自分がずぶ濡れになっているのも気付かず、しばらくその場で雨に打たれながら、ぼんやりとモノクロームの世界で唯一鮮やかなその花を見つめていた。



 「どうかしましたか?」



 突然、後ろから声を掛けられ、晶はびくりと身体を震わせる。


 急に夢から現実に引き戻されたような感覚に、めまいを覚えつつ振り向くと、そこには一人の男性が立っていた。


 その男性は白髪交じりの髪を綺麗に撫でつけ、品の良いスーツを着こなした優しい面差しの紳士で、開いた傘を晶に差し出していた。


 「こんな雨の中、ずぶ濡れで風邪を引きますよ」


 落ち着いたその声と佇まいから、男性は晶の父親と同年代くらいかと思われた。彼は傘を少し上に差し向け、晶が濡れないようにしてくれている。


 放心したように男性を見つめていた晶は、その上等そうなスーツがみるみる雨粒で濡れていくのを見て我に返った。


 「だ、大丈夫です!」


 あわてて返事をしたものの、女子高生が雨の中ぼうっとつっ立ってずぶ濡れになっている状況は、どう見ても大丈夫そうには見えないだろう。自分の今までの状況に思い至り、急に恥ずかしくなった晶は咄嗟に顔を俯かせた。


(何やってんだ私…)


 居心地の悪さを感じ、晶は男性に頭を下げるとそのまま急いでその場を立ち去ろうとしたが、それを慌てた様子の男性が引き留めた。


 「お待ちください。余計なお世話かもしれませんが、よかったらこれを」


 そう言った男性は、少し困ったような優しい表情で、持っていた黒い傘の柄を晶に向けて差し出した。


 「こんな雨の中、女性がずぶ濡れのままでいるのは忍びないですから」


 「でも…」


 傘を持っていないのも、ずぶ濡れになったのも自分のせいだったので、晶は男性の好意を受けることに抵抗があった。


 それに、見ず知らずの他人に気を遣わせてしまったことが申し訳ない。でも好意を無下にするのも失礼なような気がして、躊躇うように傘と男性を交互に見比べる。


 そんな様子の晶に、男性は穏やかな顔で軽く頷いた。


 そのなんとも言えない優しい雰囲気にのまれて、晶はつい傘を受け取ってしまった。


 「…ありがとう、ございます」


 晶が深くお辞儀をすると、男性は安堵したような顔を見せた。


 「もう暗くなりますから、帰り道は気を付けてくださいね」


 そう言って、男性は踵を返す。少し後ろに彼が乗っていたらしい黒塗りの高級車が停めてあり、男性は雨に濡れるのも構わずそのまま優雅な足取りで車に戻って行った。


 男性が運転席に乗り込むと、やがて車はそのままゆっくりと滑り出した。


 車に向かって再び頭を下げようとした瞬間、後部座席に乗っていた人物に気が付いた。


 一瞬のことながら、吸い込まれるような瞳と目が合った様な気がする。日本人形のような艶めく黒髪を切りそろえた、美しい少女だった。齢は晶と同じくらいだったように思うが、見慣れない着物姿のせいか、どこか浮世離れした印象を受けた。


 (あの人の娘さんかな?)


 そんなことを思いながら、晶は車が遠ざかるのをしばらくその場で見送った。


 車が見えなくなってしばらくした後、晶は改めて受け取った傘を見上げた。いつも使っている安いビニール傘とは違い、高級そうな男性物の黒い折り畳み傘だ。


 返せる当てもないのに、どうして受け取ってしまったのだろう。


  「ちょっとお父さんに似てたかな…いや、あんなに素敵じゃなかったけど」


 男性の穏やかな雰囲気を思い返して、似ているところを思い浮かべてみる。そういえば、笑い方が少し似ていたかもしれない。あんな風に穏やかに笑う人だったなぁと思い出すと、ふいに鼻の奥がツンとして、溢れ出す気持ちを堰き止めるのに苦労した。


 こんな雨の日は心が揺れる。しっかりしなければ。


 幸い、男性のおかげで目が覚め、本来の目的を思い出した。晶は気を取り直して目的地へ急ぐため、その場を後にした。












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