第3話 見えるんです
どうして、帰って来ないんだろう。
晶は部屋の窓から、ずっと雨が降り続く薄暗い外の景色をぼんやりと見ていた。
もうすぐ帰ってくる筈なのに、いつまで経っても帰って来ない。
部屋の白い壁に掛けられた時計の針は、もう何周しただろうか。
電話を何度掛けてみても、相手には繋がらない。
部屋の中には、外から聞こえる雨の音だけが響いている。
強い焦燥感と、不安と、孤独。
晶は居ても立ってもいられず、部屋の中をぐるぐると歩き回って気を紛らわそうとする。
そうしていてもやはり気になって、また窓辺に立ち外を見つめる。
そうやって、帰ってくるはずの人を、ただひたすら待ち続ける。
何度も繰り返しているうちに、玄関の方で気配がした。
晶はパッと顔を上げ、急いで玄関の前まで駆けていく。
期待に胸を躍らせて、カチャリと音を立ててゆっくりとドアノブが動いていくのをじっと見つめた。
その光景を見ながら、晶はふと疑問に思う。
よく見ると、このドアは自分の家のドアじゃない。それに玄関も様子がまるで違う。
そもそも私は誰を待っているんだっけ?
そう思い始めると、数々の疑問が頭に浮かんで来たが、晶はそのままドアが開くのをただじっと見つめていた。
その視線の先で、ドアはゆっくりと開いていく。
ドアの向こうには、誰がいるのだろう。
晶は、そこに立っているモノを見ようとした。
それは―――
次の瞬間、晶は目を覚ました。
酷く驚いた時のように心臓が早鐘を打ち、途端に嫌な汗が全身に噴き出す。
今、何かとんでもないものを見たような気がする。全身に立つ鳥肌がそれを物語っているが、それが何だったのか思い出せない。記憶を探ることを身体が全力で拒否しているような、妙な感覚だった。
そのことに疑問を感じているうちに、ふと晶は自分が見知らぬ場所で寝ていることに気が付いた。
体を起こしながら周りの様子を見ると、晶がいる部屋は広くもなく狭くもない白い壁に囲まれた部屋で、一方に大きめの窓があり、反対側にはスチール製の引き戸があった。
自分が寝ているベッドの頭上にはライトや操作用のスイッチなどが備え付けてあり、そこから察するにどうやらここは病院か何かの個室のようだ。
ドアの向こうでは微かなざわめきが聞こえている。部屋の窓に掛けられたカーテンの隙間から見える空は明るくなっていて、自分がいつからここにいて、どれくらい寝ていたのか全く見当が付かない。
どうにか思い出そうとしたその時、ドアを軽くノックする音がした。
晶が返事をする間もなく一人の年配の女性が忙しなく入ってくる。その女性は服装から見て看護師のようで、晶が目を覚ましているのを見ると少し驚いた顔をした。
「あら、ごめんなさい。目が覚めてたのね。体調はどう?」
彼女はすぐに表情を和らげ、ハキハキと尋ねてくる。その間にも持っていた器具を手早くベッドサイドのテーブルに並べていく。
「あの…大丈夫です。でも私、どうしてここにいるんでしょうか?」
「あら、覚えてない?確か、出先で急に体調不良で倒れてここに運ばれたのよ。不動産の物件を見ていた最中だったそうね?昨日運ばれた時は営業の人が付き添いで来てたわ」
そう言われて、晶はそのことをやっと思い出した。
確かあの時急に体調が悪くなって、それで自分はあの後気を失って倒れたのか。その瞬間のことに思い至って、晶はゾクッと背筋が凍る思いがした。
(あのドアの向こうには、一体何がいたんだろう)
晶は無意識に両腕を抱くようにして腕を擦る。これ以上思い出したくなくて、晶は気を紛らわせるために看護師に話しかけた。
「…そういえば私、救急車で運ばれたんですか?」
「いえ、脈も呼吸も正常だったから、その営業さんと、あと二人の男の人がここまで運んできてくれたみたいよ」
あと二人?晶は大家さんの他にも誰かいたのだろうか?晶は疑問に思ったが、大家さんの家族かマンションの住人が手伝ってくれたのかもしれない。迷惑をかけたことが申し訳なく、晶は、居た堪れない気持ちになった。
「私、どれくらい寝ていたんでしょうか?」
「そうねぇ、昨日の夜8時ごろ運ばれて、今は昼間の11時過ぎだから、15時間ぐらいかしらね」
腕時計を見ながらそう答えた看護師は、体温計を取り出して、晶の額に当てた。少しの間、動かずにじっとしていると、看護師の胸に下がったネームプレートが目に入る。『池上』と書いてあるその上には「ナースステーション主任」と肩書きが書かれていた。
主任看護師は体温を記録すると、他にも血圧やら何やらテキパキと一通りの検査をあっという間に終えて、もう用具を片付け始めた。
「少し熱があるみたいだけど、特に問題なさそうね。どうする?一日ここで様子みてから退院にする?」
そう言われてみると、少し体が怠いような気がする。けれど他人に迷惑を掛けたことや、今日のバイトのシフトのことを考えると、このまま呑気に休んでいるわけにはいかない。晶は重い身体を無理やり動かしてベッドから出た。
「もう大丈夫です。色々ご迷惑をお掛けしました」
「それなら、今、内科の先生呼んでくるわ。診察して問題なかったら、退院の手続きしてもらうわね」
そう言って、検査用具を持ってドアから出て行った。
「バイト、間に合わなかった…」
出て行く看護師を見送りながら、晶は溜息を吐く。今日は土曜日だから元々人手は足りているはずで、晶がいなくても何とかなりそうだが、こんな事になってしまい何だか申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「佐内さんにも大家さんにも後で謝りに行かなきゃ」
自分が軽々しく曰くつきの部屋を見学したいなどと言い出さなければ、こんなに色んな人に迷惑をかけることはなかったのだ。
晶は鬱々と自己嫌悪に陥りながら、バイト先に連絡するため自分の携帯電話を探した。
部屋を見回すと、壁際に晶の着ていた制服が掛けてある。そのポケットを探ると携帯はすぐ見つかったが、その時紙のようなものの感触が指に当たった。
何だろうと思い、ポケットから引っ張り出してみると、『ニコマル賃貸』のロゴが入ったメモ帳が出てきた。
そこには〝気が付いたら、連絡ください 佐内〟と走り書きで書かれていて、その下に携帯電話の番号らしき数字の羅列が記されている。
急いで電話をしようと携帯電話を見ると、バイト先からの着信が履歴リストを埋めていた。
慌ててバイト先に謝罪の連絡を入れると、どうやら相当心配をかけていたらしい。事情を軽く説明すると、取り敢えずしばらくの間の休み許可をもらった。
バイト先との通話を終え、続けて佐内に連絡する。呼び出し音が鳴ると、すぐに応答があった。
電話越しの佐内は、相手が晶だと分かると慌てた様子で晶の体調のことをひたすら聞いてきた。やはりこちらにも随分と心配を掛けてしまったらしい。 晶は自分がついさっき目を覚まし、今は体に何も異常はないことを伝えた後、自分が倒れたことで大変な迷惑をかけたことをひたすら謝った。
『そんなことはどうでもいいよ。それより僕の方こそ、変なことに巻き込んでしまって本当に申し訳ない』
「いいえ!紹介して欲しいとお願いしたのは私ですから、佐内さんのせいではないです。本当にご迷惑をおかけして、すみませんでした」
『いやいや、もう謝らないで。…ところであの物件なんだけど、実は事情が変わって、昨日の例の拝み屋さんにしばらく貸すことになったんだよ。君が倒れたことを深刻に思った大家さんがね、こうなったら時間がかかってもいいから徹底的に除霊してほしいって、その場にいた彼らに頼み込んだんだ』
「えっ、そうだったんですか…」
そういえば拝み屋さんがいたらしいが、結局晶は直接会えなかったことを思い出す。
『そんな訳で、君の部屋探しはまた振り出しに戻ってしまったんだけど…』
佐内は電話口でも分かるくらい申し訳なさそうだった。晶は部屋探しがまた一から出直しになることに内心落胆したが、あの部屋は自分には無理だとはっきりわかったので、気分を変えて努めて明るい声で答えた。
「分かりました!ではまた他を当たってみますね」
佐内は自分も出来るだけ力になるからと、晶に優しく励ますように言ってくれた。その心遣いに、ほんのりと心が温かくなる思いがする。
改めて佐内にお礼を伝えると、晶は昨日から気になっていたことを佐内に聞いてみることにした。
「そういえば、昨日の拝み屋さんという人は、どんな人だったんですか?」
『ああ、拝み屋さんね。少し驚いたよ。至って普通の人達だったから。一見してそういう風には見えなかったね。そのうちの一人は、君とそう齢が変わらないような青年だったし』
それを聞いて晶も少し驚いた。晶が抱いていた〝拝み屋〟のイメージは、しわしわのお婆さんかお坊さんで、念仏を唱えながら数珠とか塩とかを使って除霊する印象だった。
それなのに実際の拝み屋は、自分と変わらないくらいの齢で普通の人だなんて、全然イメージできない。そもそも自分と同じくらいの年齢の子がどんな人生を歩んだら拝み屋なんて職業に就くのだろうか。晶には想像すらできなかった。
『その拝み屋さんがね、君が回復したら一度話を聞きたいそうなんだよ』
「え、話…ですか?」
『そう。昨日病院まで君を連れて行くのに彼らにも助けてもらったんだけど、部屋で起こった異変について、詳しく知りたいそうなんだ。でも、もし辛いようならこちらから断っておくけど、どうする?』
「えっと、大丈夫です。…あまり良く思い出せないかもしれませんが、それでも良ければ」
そう了承すると、佐内は拝み屋の連絡先を後でメッセージ機能で送る旨を伝えてきた。そして、今後何か困ったことがあったらいつでも連絡するよう念を押され、通話は終了した。
晶は携帯電話を制服のポケットに仕舞いながら、自分と変わらない齢の『拝み屋』について想像を巡らす。
その人には、自分のような普通の人間が見ることのできない世界が見えているのだろうか。
そんな人と同年代といえど話をするのは、少し怖い気がする。自分があたり前だと思っていた世界を、根底からひっくり返されてしまうのではないかというような、そんな言いようのない不安を感じて、晶は人知れず身震いした。
(でも、もし会えたら、お父さんのこと、何かわかるかな?)
晶は淡い期待と不安を胸に抱えながら、佐内からのメッセージが送られてくるのを待った。
その時、部屋のドアからノックの音が聞こえた。
晶が返事をするのを待たず、さっきとは違う若い女性の看護師が入ってくる。晶の姿を見ると軽く目を見開き、話しかけてきた。
「あ、静野さん、目が覚めましたか?気分はどうですか?」
そう言って若い看護師は持っていた検査器具をテーブルに並べ始めた。
「もう大丈夫です。さっき測ったら、少し微熱だけど問題なさそうって言われました」
「あら、測ったの?誰か看護師が来た?」
「はい。さっき別の看護師さんが一通り測定してくれました」
そう答えた晶を不思議そうに見て、看護師は首を傾げた。
「変ねぇ。静野さんの担当は私で、今日は誰も測定していないはずなんだけど…」
そう言いながら持っていたクリップボードをペラペラ捲っている。やはり納得いかないような表情を浮かべ、看護師は一度部屋を出ていった。
何かナースステーションで不手際でもあったのかなと思っていると、同じ看護師がまたすぐ戻ってきた。
「やっぱり今日は誰も静野さんを測定してないみたい。夢だったなんてことはない?」
そう言いながら検査器具を準備し出した看護師は、患者の幻覚なんてよくあることなのか、冗談っぽく聞いてきた。
「そんなことありません!」
少し強い口調で否定してしまい、内心慌てたが、自分が決して寝ぼけていた訳ではないと自信を持って言える。
「ちゃんと測定してもらった感覚も覚えるし…。あ、名前!確か『池上』さんだったと思います。首から下げてたプレートにそう書いてありました」
晶はまるで自分の無実を証明するかのように必死になって弁明する。それを聞いた若い看護師は、途端に顔色を変えた。
「い、池上さん…?」
みるみる青くなる看護師の顔を不審に思いつつ、晶はできるだけ覚えていることを伝えるため、先ほどの看護師とのやり取りを思い出す。
「はい、主任さんだったと思います。はきはきした感じの、五十代くらいの人でした」
晶がそう答えると、彼女の顔色はいよいよ真っ青になり、微かに手まで震え出していた。
その池上さんは、相当怖い上司なのだろうか。ここはパワハラの職場なのかもしれない。そう思った晶は、その若い看護師に同情の目を向けた。患者には感じの良い看護師さんだったのに、同僚や部下には厳しい人なのだろうか。
「あの…、大丈夫ですか?」
青くなって放心したような看護師がいたたまれなくなり、晶は気遣うように声をかける。
すると彼女は、自分の仕事を思い出したのか、一度深い深呼吸をした後、気を取り直したようで、再び検査の準備を再開した。しかしその表情はまだ固いままだ。
「あの、また測るんですか?」
主任の看護師がやったのだから、二度手間ではないだろうか?晶は不信に思って聞いてみる。
「さっきのは、何というか…やっぱりあなたの気のせいみたいなものよ、きっと」
そう言った看護師の未だに青い顔には、仮面のように取って付けたような笑顔が張り付いていた。
(どういうことだろう?)
その看護師の上司にあたるだろう主任がやったことを、気のせいで済ませるなんて。その主任とこの看護師は相当仲が悪いのだろうか?それともあの主任看護師は、実は仕事が出来ない人で、あの人の計測は信用されてないとか?そんな風にはまったく見えなかったけど。
晶は気付かず不審な顔でじっとその看護師を見つめていたらしく、目線に耐えられなくなった看護師は、諦めたように溜息をついた。
「ごめんなさい。実は、あまりこういったことは言いたくないんだけど…、あなたが会った池上さんは、多分ここの元主任さんよ。でも、…先月亡くなってるの」
「…えっ?」
あまりに突然の話で、晶は看護師の顔をぽかんと見つめる。
亡くなっている?そんなはずはない。だってあまりにも違和感がなかったし、触られた感触だってまだはっきり残っている。
晶は揶揄われたと思い、不信感も露わに看護師の女性を見た。
しかし、看護師の女性はまだ顔色が戻らず、検査器具の準備も手が震えて上手く進んでいない。その様子は、それが決して嘘ではないと物語るようだった。
「冗談…ですよね?」
「池上主任は、すごく仕事熱心な人でね。最後の最後まで職場のことを気にかけてたわ。きっとまだ仕事に未練があるのかもね」
そう言うと、その看護師は沈痛な面持ちで軽く目を伏せる。彼女は長く息を吐くと、さっきとは打って変わってテキパキと自分の仕事をこなし始めた。それはまるで、その主任看護師に恥じない仕事をしなければと思い直したかのようだった。
そんな看護師の様子を視界に入れつつも、晶は衝撃でしばらく頭の中が混乱し、それどころではなかった。
(ま、まさか、私…初めて幽霊を見たってこと⁉…あれが、幽霊⁉)
まったく信じられない。だって、あんなにも違和感がなかったし、まるで生きている人と見分けがつかなかった。あれが本当に幽霊なら、今目の前にいるこの看護師だって、本当に生きている人間なんだろうか?それを疑うくらい、その存在に違和感は感じられなかった。
晶はまた無意識のうちにじっとその看護師の顔を見つめていたらしく、それに気付いた彼女が苦笑まじりに言った。
「まあ、信じられないのも無理ないわ。私だって、まさか知り合いが幽霊になってうろついてるとは思わなかったもの。さすがに驚くわ」
「…看護師さんは、今まで幽霊に会ったこととか、あるんですか?」
「まぁ…はっきりと見たことはないわね。仕事柄、夜勤の時なんかに、何か変だなって感じることは何度かあったけど」
確かに、夜の病院なんて、絶好の心霊スポットのイメージだ。
ちなみにどんな感じだったか聞くと、空室のはずの病室から夜中に何度もナースコールがかかったり、誰も使っていないテレビが突然点いたりしたらしい。他にも数々の体験談を晶に教えてくれた。
「そんなに沢山の恐怖体験があったのに、幽霊の姿はまだ見たことがないんですね」
「そうなのよ。まぁ見ないうちは気のせいで済ませられることも多いけど、見ちゃうともう誤魔化せないというか、信じるしかないじゃない?だから私はあまり見たいとは思わないわね」
そう話す看護師は、晶と話をしているうちに、だんだんと元の調子が戻ってきた様だった。晶の測定を手際よく終わらせた彼女は、すぐに医師を呼んできた。
そして、医師の内診の結果、異常なしということになった晶は、そのまま退院することになった。
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