第4話 アージ村とマージ街と
何十年も前のこと。バショウは強さを求めるだけのヴァイサイでの生活から解放されようと、無断で人間界へと降りた。初めて人間界へと降りたバショウは、追手が来ることを恐れ、すぐにマージ街へと向かった。初めて見る人間に恐れながら、そして怪しまれないよう心がけて街中を歩き回った。異様な格好で、異様な金属を渡し、異様な食物を受け取っている光景は、バショウにとって刺激的だった。しかし誰も戦わず、平和に暮らしているように見えた人間に、心惹かれるようになっていた。
人間もシュピゼと同じ、夜になると住処で眠る。それに気がついたバショウは、胸のあたりまで伸びたコシとツヤのある黒髪を掻き上げ、果実の出店の前で横になった。
「おい、女!こんなところで寝るんじゃねぇ」
片付けをしていた店主がバショウに気がつき、怒鳴りつけた。バショウは初めて声をかけられたことと、大きな声に驚き、肩を窄めた。
「ご、ごめんなさい。その、家がなくて・・・」
「家がねぇ?ホームレスかよ!明日もここで商売するんだ、邪魔だからどっか行け!」
バショウのか細い声に店主は余計に苛立ち、さらにデカい声を上げ、箒で掃くようにバショウを押し除けた。バショウは押された勢いのまま、その場から走り去った。
マージ街は煉瓦造りが美しい街だ。東西南北にそれぞれ大きな門が建っており、そこから他国との貿易を行っている。バショウは住宅街から外れた北門へとやってきた。門は閉まっていて人通りはなく、門の隙間から流れる風の音しか聞こえないほどに静かだった。
バショウは、門を背にしてその場で膝を抱えて座り、すっと目を閉じた。
どのくらい時間が経ったであろうか、バショウは不安で押しつぶされそうだった。
「あの、大丈夫ですか?」
うつらうつらとしていたバショウを、その声は現実へと引き戻した。バショウが見上げると、そこには茶色のスーツに黒のテンガロンハットを被った、30代くらいの男性が立っていた。
「街中で怒鳴られていましたよね?この街の方ではないんじゃないかと、気になってしまいまして」
その男は、バショウにそっと手を差し伸べた。人間界のことを何も知らないバショウにとって、その手はまさに救いの手だった。バショウは何も言わず、男の手を掴んだ。そしてバショウは、その男の手に引かれ、何気ない話を聞きながら北門を後にした。
西門近くの住宅街にその男の住まいはあった。男はテンガロンハットをウォールフックに掛けると、お湯を沸かしていた。バショウは木の椅子に座り、部屋中を見渡しながらじっとしていた。
「僕はスサといいます。お名前を伺っても?」
「バ、バショウ」
男はポットに湯を注ぎながら、遅めの自己紹介を始めた。スサは郵便の仕事をしており、1日中街を歩いている。そのため、住人の顔はほぼ記憶していたのだ。それでバショウの存在に違和感を覚え、声をかけたのだった。バショウは、スサが目の前に差し出した液体をじっと見つめた。ヴァイサイでは見たことがない茶色く濁った水、バショウは毒の類だと警戒した。
「紅茶は初めてですか?」
スサは一口啜って見せた。バショウはそれを確認し、一口啜った。
「おいしい・・・」
スサはニコッと笑った。バショウはスサの言動に安心感を覚えるようになっていた。気がつくと、少しずつ口を開くようになっていた。バショウは覚悟を決め、スサに自分の全てを打ち明けた。魔法使いであること、ヴァイサイのこと、そこから逃げてきたこと。それを聞いたスサは、特にバショウに対して態度を変えることはなかった。彼の性格なのだろうが、間違いなくそれはバショウの心を開く鍵となった。
「魔法は今ここで使えるのですか?」
スサの質問は、バショウ自身も気になっていることだった。街中で誤って使ってしまったら、間違いなく殺される。その懸念があったため、使ってみようとは思わなかった。しかしスサは、ここで見聞きしたものは他言しないから見せて欲しいと言ってきた。バショウはその言葉に多少の懐疑心があったものの、自分の好奇心も相まって、座っていた椅子に魔法をかけてみた。
何も起こらない。水魔法、炎魔法、あらゆる魔法をかけようとしたが、椅子は椅子としてその場に存在し続けた。
バショウは、スサが自分に対し、虚言を吐く奇怪な奴という印象を抱くかもしれないと思った。そして自分の言動は、スサの優しさ全てを無下にする行為になってしまったのではないかと不安に思った。しかし、スサは微笑んでいた。
「人間として生きることを、認められたのかもしれませんね」
その言葉は、ヴァイサイから逃げてきたバショウにとって、この上ない救いだった。バショウは自然と涙が溢れた。シュピゼには愛というものが存在しないと思っていたし、そう教えられてきたが、それは間違いだということに気がついた。ヴァイサイという閉鎖的な空間でしか生活をしないが故に、芽生える瞬間がなかっただけなのだと。泣き崩れるバショウの肩を、スサはそっと抱いた。
数年後、2人は結婚をした。仕事柄、街中に知り合いのいるスサの結婚話は、瞬く間に広まった。バショウもまた、街の花屋で働く看板娘として人気者となっていた。
そんな2人の結婚と知った街に、祝福する以外の選択肢はなかった。バショウは完全な人間だった。そんなバショウが、ヴァイサイで最も王位に近い魔法使いだったということを知る人間は、自分以外に誰もいない。
結婚から2年後、バショウは元気な女の子を出産し、さらに1年後にも女の子を出産した。この子が後のホテイである。子どもたちは食欲旺盛ですくすく大きくなり、歩き始めるのも周囲の子と比較して早かった。2人とも大変活発で、スサもバショウも手を焼いた。
バショウは、手を焼けば焼くほど幸せだと思えた。数年前、北門で蹲り、途方に暮れていた頃からは想像もつかない生活を送ることができている。スサと子どもたちに感謝の念が溢れて止まらなかった。
子どもたちが3歳と2歳になる頃、バショウたちは隣町への旅行を企画した。子どもたちが喜んだのはもちろんのこと、街から出たことがなかったバショウもワクワクしていた。
当日、門を出た4人は、舗装された砂道を朗らかに歩いた。周囲は木々に囲まれ、鮮やかな鳥やら花やらが視界を彩り、それは疲れを忘れさせてくれた。子どもたちは、砂道をジグザグに駆け回ったり、スサとバショウの背中で眠ったりを繰り返していた。
1時間ほど歩くと、見晴らしの良い場所に出た。真正面には大きな海が広がっている。
子どもたちは初めて見る海に興奮し、走って砂浜へと降りた。砂を蹴ったり、落ちた海藻や貝殻を拾い、まじまじと見つめた。
「2人とも、気をつけるんだぞ」
スサは優しい高めの声で、子どもたちに声をかけた。2人は大きな返事をすると、海に向かって飛び込んだ。
「お姉ちゃん?」
水飛沫と共にホテイの視界に飛び込んできたのは、白い煙をあげた姉の姿だった。その煙が空へと吸い込まれていくのが見える。
バショウはゾッとした。急いで水際まで走り、子どもたちに向かって叫んだ。
「2人とも!今すぐ戻って!」
今まで聞いたことのない力強い母の声に、ホテイの鼓動は速くなり、慌てて砂浜へと走った。バショウの後を追いかけてきたスサは、すぐにホテイを抱き上げた。
「お姉ちゃん!」
スサの腕の中でホテイが海に向かって叫んだ時にはすでに、全身が煙となった姉が空に向かって走って消えていくところだった。晴天と海という青く広大な世界を目の前に、バショウは膝から崩れ落ちた。その姿はまさに、ちっぽけだった。バショウは、初めて人間として生活してきたことを後悔した。自分は紛れもなくシュピゼだった。それは自分の娘にも同じことが言えた。
「どういうことなんだ・・・」
スサは、今目の前で起きた状況を整理できないでいた。バショウは声を震わせながら、シュピゼがヴァイサイへ戻る方法を説明した。そして泣きながら、スサに何度も何度も謝った。
隣町の宿に着いた3人には、もう旅行を楽しむ余裕など残ってはいなかった。バショウは意気消沈という言葉がよく当てはまるような様子だった。部屋の窓から空を見つめたまま、1歩も動かなかった。純粋無垢なホテイは、スサの袖口を引っ張り、お姉ちゃんは?と頻りに尋ねていた。スサは優しい笑顔を浮かべ、言葉を選んで誤魔化していた。
すっかり日も暮れ、ホテイはスサにおでこを撫でられながら、ベッドで眠りについた。
バショウは昼間と同じく、空を見つめたまま微動だにしない。スサはホテイに布団を掛けると、バショウの方へ寄り、頭を撫でた。
「大丈夫、生きているんだから。大きくなって、きっと僕たちに会いにきてくれるよ」
スサは笑顔でそう言った。バショウの目からぽろぽろと涙が溢れ出した。そんなバショウを、スサはぎゅっと抱きしめたのだった。
「で、ホテイのお姉ちゃんは会いにきたの?」
「いいえ、分からない。来たのかもしれないけれど、会うことはないまま父と母は病気で亡くなったわ」
ホテイはスイの質問に寂しそうに答えた。
「気になる点がいくつかある。子どもの時に人間界へ行ったことのあるシュピゼに、会ったことがないんだよなぁ。それに、なんでホテイは海に入っても平気だったんだ?それとバショウって人、シュピゼなのに寿命が短すぎる」
レンは胡座をかいて腕を組み、矢継ぎ早にそう言った。ホテイはその疑問に対する考察を、バショウから受け取っていた。バショウは、ホテイが物心ついた頃から自身が亡くなるまでの間、知り得る情報をホテイに与えていたのだった。
「3歳の女の子だったから、記憶が曖昧なのだと思う。わたしが海に入れたのは、シュピゼではないからだと思うわ。たぶん父の遺伝子が強かったのかも。それと寿命の話だけど、母もそれは気にしていたみたい。恐らく人間界に降りると身体がこちらに順応する、だから寿命が人間と同じになるんじゃないかって。魔法が使えなくなるのも、それなら納得がいくわ。それに病気なんてものも、その国にはなかったみたいだし」
「確かに。おれたち、こっちへ来てから急に背が伸びたしね」
ホテイの話は実に興味深かった。スイとレンの疑問は少しずつ解消されていった。すると、理解が追いつかず、黙っていたヨージが唐突に口を開いた。
「じゃあ、スイとレン、それにライトはなぜ人間界で魔法が使えるんだ?」
ヨージのこの言葉は、沈黙を生んだ。スイとレンが人間界で最初に覚えた疑問、しかしそれは未だに分からない。ただ現状ハッキリしているのは、スイもレンもライトも、海へ入ったらヴァイサイへ行ってしまうということだ。
ライトは3歳になった。ゆるいパーマのかかったグレイヘアを靡かせ、相変わらず元気に走り回っている。また、簡単な言葉を理解し、話すこともできるようになった。そして、威力はないものの、雷魔法をコントロールできるようにもなっていた。以前のように魔法を暴発してはまずいと思ったスイが、ライトを指導したのだった。その甲斐あって、アージ村の生活は、より豊かになっていた。
「ライト、灯りを頼む!」
「分かった!」
ライトが目を閉じると、全身から放電し、そのエネルギーはテントからテントへと張り巡らされた電線を伝って各テントの電球へと向かい、テント内を煌々と照らした。蝋燭とは異なり、長持ちでゆらめかない灯りは、村全体に安定的な光を供給した。
灯りだけではない。金属板に放電し、その上にフライパンを乗せると肉を焼くことができた。就寝中の獣対策として行なっていた焚き火は、村を囲うように敷かれた電線によって不必要になった。調理も就寝も、これで火事の心配がなくなった。
3歳という幼少でありながら、ライトは狩猟でも活躍した。雷光の如く獲物に向かう様は、まさに麒麟だった。
電気中心の生活となった村に対し、退屈さを覚えたのはレンだった。村人たちがレンを頼ることは、日を追うごとに少なくなっていた。そしてこの村はいつしか、スイとライトが生活の中心となっていた。
アージ村で人間のために力を使う生活は、ヴァイサイで王になり、周囲から認められたいというシュピゼとしての夢を忘れさせていた。ただ、承認欲求だけが残ってしまった今のレンは、もはやただの人間だった。ヨージもホテイも、力を使わなくとも村の一員だと言ってくれてはいたが、レン自身どうも納得ができなかった。
スイは朝から洗濯物の処理に追われていた。レンは、ひとりテントの中で寝転び、トリンに魔法をかけていた。退屈な日々と、トリンを破壊できない無力さは、苛立ちを助長した。
そんなレンはある日、村人たちが忙しくしている昼間に、こっそり村を飛び出した。
外の世界を知らず、目的もなく村を飛び出したレンは、ただ歩くしかなかった。数時間歩いても、景色は変わらない。ぼーっと突っ立つ木、見上げれば、それとは対照的に喧しい緑葉。風物はふと感じられるから風物なのであって、主張が激しく、永遠に見られるものは俗物である。何時間もレンの視界を覆うこの景色は、俗物としか思えなかった。
そして、空気の旨さだけでは腹は満たせなかった。レンは空腹のあまり、その場にしゃがみ込んだ。
「あぁ、まったく。人間はなんて燃費の悪い生き物なんだ。こんなにすぐ腹が減るなんてよぉ」
人間界に適応したレンは、リーゴの実ひとつで当面活動できたシュピゼとしての自分を思い出していた。ヴァイサイはどうなっているのか、依然ブロスは王なのか。レン自身、色々と気になる点があるが、未だに自分が人間界で自由に暮らせている現状から、やはりシュピゼという種族は、生きようが死のうが全くの無関心であることは明白だ。アージ村で2、3年近く生活し、命の始まりと終わりを目の当たりにしてきた。ライトの誕生と、老いた村人の死だ。レンはその度に、何かを感じていたような気がした。これも人間界に適応した影響だろうか。レンはシュピゼの命に対する価値観に、少しモヤッとした。
レンは、とりあえず歩いた。狩りで食物を得ようと考えたが、鳥の鳴き声すら聞こえないこの場所には、1人の獣以外、何も存在しなかった。
「腹減ったなぁ・・・」
ふらつきながらも、歩みを止めなかった。その選択が功を奏したようだ。森を抜け、開けた場所に出た。草が刈り取られ、舗装された道が見える。レンは安堵することに僅かな体力を使ってしまい、とうとう道の真ん中で倒れてしまった。
レンは身体に伸し掛かる重さで目を覚ました。どうやら、分厚い布団が掛けられているようだ。
「どこだここは・・・?」
「マージ街の病院だ」
レンは寝たまま声のする方を向いた。白髪混じりの黒髪短髪の白衣を着た男が、机に向かい、何かを書いている姿が見えた。
「街外れの婆さんのとこに訪問診療で行ったんだが、その帰り道でお前を見つけて運んだんだ。脱水症状だったんで点滴しといた」
その男は机に向かったまま話した。レンはゆっくりベッドに腰掛けた。
「お前どっから来た?この街の人間ではないだろう?」
「ああ、アージ村から」
「あのスラムか。そりゃ随分遠くから来たな」
「えっと、その・・・。俺はレン」
「リンドウでいい」
リンドウは南門近くで小さな個人医院を営む50代くらいの医者だ。マージ街の中心に大きな病院があるのだが、そこでの医療費を払えない者、街の外に住まいを持つ者などを相手に商売をしている。無愛想なキャラクターだが、大勢の人から感謝されていた。
「なあ、リンドウ。飯食わしてくれねぇか?」
「お前、金は持っているんだろうな?」
レンは口を閉じた。治療と食事を受けるためには、対価が必要であるということを忘れていた。アオイやホテイが言っていた「お金」というやつだ。アージ村ではスイもレンも「魔法」という能力を提供し、生計を立てていた。しかし、その生計の立て方は稀有だ。お金を持っていないレンにとって、対価となるものは魔法しかなかった。しかし、人間界で魔法が受け入れられることもまた稀有なことで、レンは八方塞がりだった。
「まあいいだろう。アージから来た子どもが、金なんて持っているわけがない。腐りそうな肉があるから焼いてやる」
そう言うとリンドウは立ち上がり、キッチンへと向かっていった。レンはベッドで飛び跳ね、喜びを表現した。ベッドがその喜びを受け止めるには、あまりにも脆かった。
フォークに突き刺した牛肉のステーキを頬張るレンを見て、リンドウが話しかける。
「レンは、生まれもアージ村か?」
「・・・そうだけど」
「そうか。親御さんもそこにいるのか?」
「うん、まあ・・・」
ジロジロと顔を見ながら質問してくるリンドウ、それに誤魔化して答えなければならない面倒さに、レンは嫌気がさしていた。
「兄弟はいるのか?」
「双子の兄がいる。何なんだよさっきから!」
「いや別に。黙って飯食うのもなんだから、話を振ってやってんだ」
リンドウもまた、レンの言葉に苛立ち始めた。リンドウは勢いよく肉を頬張り、グラスに注いだワインを一気に飲み干した。
「朝になったらここを発てよ。あと食ったら皿洗っとけ」
リンドウはそう言うと、自分の皿を流し場に置き、2階の寝室へと向かった。レンは舌打ちをし、残っていた肉を頬張り、そして2人分の食器を洗ったのだった。
「世話になった。じゃあな」
「ああ、もう来んなよ?」
レンは、半開きの目で欠伸をしながら覇気のない声を出すリンドウに、呆れた表情を向けて病院を後にした。何の目的もなくアージ村を飛び出したレンは、再び振り出しに戻された。ただマージ街を見渡しながら、ぶらぶらとしていた。
「ここがシュピゼが降りてくる場所か。俺たちも本当はここに来るはずだったんだよな」
立夏は露店で賑わっていた。他国の食材や骨董品などを仕入れてきた商人たちが、街の至る所で商売をしていた。ホテイの話に出てきた車という乗り物が、レンの横を行き来していた。レンは車が横を通るたびに、まじまじと見つめていた。
お金を持っていないレンにとって、街は退屈でしかなかった。アージ村なら狩猟で暇潰しができていたのだが、ライトのおかげで暇潰しが潰されてしまった今となっては、アージ村に戻っても意味はなかった。レンは東門を出て、トリンに魔法をかけながら歩いた。
トリンが壊れる気配は全くない。ため息を吐きながらしばらく歩いていると、左手に何やらだだっ広い平地が見えた。
「あれって・・・」
鉄柵に囲われたその場所は整地されており、そして数台の飛行機が並んでいた。ヴァイサイから覗き見た奇怪な物体を、レンは鉄柵越しに間近で見ることができた。そこはマージ街が管理する飛行場だった。
「こんなにデカかったのか・・・」
レンは、スイなら興奮していただろうと思った。スイほど飛行機に興味がなかったレンは、デカい以外の感想が出てこなかった。
「それ、飛ばないよ」
真後ろから甲高い子どもの声が聞こえた。振り向くと、右目に眼帯をした、レンと同じ10代くらいの見た目の浅黒い子どもが立っていた。
「燃料が他国から輸入できなくてね、飛行機は飛ばしてないんだ」
「ゆにゅ・・・まあいいや。じゃあこの場所は使われてないってことか?」
「いや、使ってるよ。見たい?」
その子は笑顔で言った。その屈託のない笑顔は、見せたいという興奮の表れのようだった。レンは頷くと、その子は南京錠で閉ざされた金網の扉を開け、飛行場の中へと入れてくれた。
だだっ広い飛行場の奥に、工場のような建物が見えた。その子が指差した建物の煙突からは、黒い煙が龍のように立ち昇っていた。その子は、錆びた分厚い金属板でできた大きな扉を開けた。すると、中から熱気がものすごい勢いで逃げてきた。熱気を腕で防ぎながら、中へと入った。
中央の大窯から炎が噴き出しているのが見える。その窯の中から真っ赤に光る何かを取り出す男、その男の腕は太く、汗で艶が出ていた。隅では甲高い金属音が響いている。まさに今熱せられたものが、ハンマーで叩かれていた。
「ここがおいらの仕事場、武器工場だ」
飛行機の修理と給油を行うガレージとして使われていた場所が、今はマージ街の警備兵の装備や、他国へ輸出する武器を製造する工場となっていた。そこでは老若男女問わず、肌を突き刺すような熱さに耐えながら仕事をしていた。
「エリカ!仕事ほったらかしてどこ行ってやがった!」
Tシャツの左腕側だけが千切れ、太い腕が丸出しになった無精髭を生やした男が、こちらへズンズンと近づいてくる。
「やっべ、父ちゃんだ!」
エリカは、隠れる場所もなく、その場でジタバタした。それは虚しく、大きなゲンコツによってピタリと止まった。
「誰だお前は?」
「俺はレン」
「オレはオダマキだ。エリカ!さっさと鉄を打ちに戻れ!女だからって承知しねぇぞ!」
オダマキはそう言うと、やかんの水をグビグビと流し込み、自分の持ち場へと戻っていった。
エリカは頭を摩りながら、レンと隅の作業場へと歩いていった。
「お前、女だったの?」
「そうだよ」
レンは質問したものの、興味がなく、それ以上話を広げることはしなかった。
「レンは何の仕事してんの?」
「仕事?いや別に何も」
「どこかの金持ち?」
「いやアージ村から来た。金なんて持ってねぇ」
レンは行く当てもなく、ただアージ村から歩いてきたことをエリカに話した。遠方から歩いてきたことに驚きを隠せず、エリカの打った剣の先端が変な方向に曲がっていた。暇を持て余して飛行場を見ていたというレンの話を聞き、エリカは言った。
「なら手伝ってくれよ!おいらたちは助かるし、レンはお金が貰える!少ないけどね」
レンはお金が貰えることに対して特に心踊らなかったのだが、暇潰しになるなら良いかとそれを了承した。エリカは、レンに仕事を押し付けて外へ出られる可能性に喜んでいた。
「とは言っても、鍛錬はすぐにできないしなぁ」
「鍛錬ならやってたぞ。技同士をぶつけ合うやつ。俺もだいぶ強くなったからな!」
「わ、技?何言ってんの?鍛錬っていうのは、今おいらがやってるみたいに金属を打って強くすることだよ。レンを強くしてどうすんのさ」
レンは久しく聞いていなかったワードに興奮し、うっかり口を滑らせた。エリカは不思議そうにしたが、忙しさもあって、レンの言葉をスッと流した。
「エリカ、火力が落ちてきたから木炭持ってこい!」
オダマキが、大きな腕に銃を5、6本抱えながら近づいてきた。
「丸太は?」
「切ってないから切るところからだ」
「えー、面倒くさい!おいらだけじゃ無理だよ!」
駄々をこねるエリカに、オダマキはゲンコツを喰らわした。
木の伐採と木炭の製造は誰もやりたがらない。金属の加工でさえ忙しいのに、それを中断しなければならない上に、大量の木を森から運んでこなければならないという重労働だからだ。
エリカは、レンと2人で取り組むことを提案し、オダマキはそれを許可した。
「木を切ることが、そんな重要なの?」
「当たり前だ。金属の加工に必要だからな。火力が命、そのために燃料がいるんだ。もし、燃料か火を生み出し続けられる奴がいるってんなら、額が擦れるほど土下座してやる」
「それって俺のことじゃねぇか?」
レンは、掌に炎の球体を作り出して見せた。調子に乗ったレンは、窯の中に自分の炎をぶつけた。すると、勢いが弱まっていた窯の炎は再び勢いを取り戻した。
「・・・は?」
エリカとオダマキ、工場で働く全員が仕事の手を止めてレンの方を向いた。ゴウッと響く窯の炎以外の音が一斉に消えた。
「・・・やっべ。やっちまった」
レンは久しく力を発揮していなかったこともあり、活かせる場が見つかったことに興奮してしまった。その結果、うっかり口だけでなく、手まで滑らせたのだった。
レンがいなくなった夜のアージ村。
「おーい!レーン!」
村ではレンの捜索が行われていた。村人たちは、ライトの魔法でできた電気玉を空瓶に入れ、暗闇を照らしながら森を歩き回っていた。
「この暗闇でこれ以上進むのは危険だ。スイ、帰ろう」
ヨージはスイに声をかけ、村へと戻った。村へ戻ると、ホテイが心配そうにテントから顔を覗かせていた。
「どこへ行ったんでしょう」
「スイ、心当たりはないか?」
「いや、ないよ」
ヨージは、ホテイのテントの中でこの地域の地図を広げ、捜索したアージ村周辺にバツ印をつけた。
「もしかしたら、ヴァイサイに帰ったんじゃないかしら」
ホテイは、地図に描かれた海を指差した。その海は、ホテイの姉がヴァイサイへ行ってしまった場所だった。
「でも、それなら安心なんじゃないか?」
「いや、そんなことはないよ。今、ヴァイサイでは人間界へ降りることを禁止しているんだ。おれたちはそれを破ってきた。だからもし戻ったら、どうなるか分からない」
スイは真剣な表情でヨージに答えた。ホテイは不安そうな表情を浮かべていた。
「レンは楽観的だけどバカじゃない。それは分かっているだろうから、きっと帰ってはいないよ」
スイの言葉は強く、それはホテイを安堵させた。しかし、ホテイは永遠に姉に会うことができないということを同時に知り、複雑な心境ではあった。
「お姉ちゃん、大丈夫かしら・・・」
ホテイは、幼少期にしか会ったことのない姉ではあるが、その身を案じていた。たった3年とはいえ、人間界で生活していたシュピゼだ。そんな子が過酷な環境下で生活できているのだろうか。しかし、何十年と時が過ぎている今となっては、遅過ぎた心配とも言える。
「聞いてなかったけど、ホテイのお姉ちゃんの名前って何?」
「そういえば言ってなかったわね。姉は、アオイっていうの」
海に飛び込んだはずなのに、何故か平原にいた。
「あれ、ホテイ?お母さん?お父さん?」
アオイは周囲をキョロキョロと見回した。誰も見当たらず、アオイは不安そうな表情を浮かべた。立ち止まっている訳にもいかず、アオイはトボトボと歩き始めた。少し歩くと、家らしき建物と人影が見えた。アオイは安心した様子で、その方向を目指した。
「ん?初めて見るな。どこのシュピゼだ?」
「小さいね。出たてじゃないの?」
その人たちは視線を向けるだけで、アオイに話しかけようとはしなかった。アオイは、明らかにマージ街ではない場所へ迷い込んでしまったことに気がつき、誰かに助けを求めようかどうしようか、心をざわつかせながら歩いた。
「ボウゥ!バシャッ!バチバチ!」
唐突に、掌から魔法のように炎や水、雷を出す人たちを目の当たりにした。アオイは怯んで尻餅をついた。マージ街でも曲芸師の人が、小鳥を帽子から出したり、棒から噴水のように水を出したりする姿を何度か見たが、それを見た時の興奮とは違う。何だか恐怖を感じた。
アオイは勢いよく走った。とにかくこの人たちがいる、街だか村だか分からない場所から離れようとしたのだった。
その場所を抜けると、見上げてもてっぺんが見えないほどの大樹を見つけた。その幹は、アオイが10人囲んでも囲い切れないほどの太さだった。
「おっきいなぁ・・・」
アオイがその大樹の周りをグルグルと歩いていると、隣に集落で見た建物よりもはるかに大きな建物を見つけた。マージ街にもあった、それは城というやつだ。
「おっと、初めて見る顔だね?君は最近出てきたのかな?」
アオイの背後から、鼻に掛かったような少し高い声が聞こえた。アオイはビクッとして振り返った。見た目は30代か40代そこらだろう、腰あたりまで伸びたサラサラの金髪で、顎に細かな髭を生やした長身で細身の男の姿があった。
「名前は何ていうのかな?」
「・・・アオイ・・・です」
「・・・そうか。ぼくは、ラクウ。この国の王様をやっている」
王様、3歳のアオイでも分かった、この国で最も偉い人間であると。アオイは緊張したが、ラクウの口調の優しさが緩和してくれた。
「これはリーゴと言って、ぼくらの魔力の根源なんだよ。ほら、この赤い実を食べるといい」
2人はリーゴの大樹の前に腰掛けて少し話した。アオイはリーゴの実を一口齧った。味は何だか形容し難い感じでよく分からなかったが、力が漲っているのは分かった。
「君は、どこの子だ?親は?」
「バショウとスサ」
「聞かない名前だ。鍛錬した覚えがない。家はどこに?」
「マージ街です」
ラクウは目を見開き、アオイの顔を覗き込んで声を顰めた。
「まさか・・・人間界からきたのか?どうやって?」
アオイはラクウの声のトーンから、言ってはいけないことを言ってしまったのではないかと思い、その場から走って逃げ出したかった。しかし、ラクウはすぐに居直り、ぶつぶつと独り言を言い始めた。
「人間・・・だとしたらここにいる訳ないよな。ってことは人間界で生まれたシュピゼか。そんな奴、初めてなんじゃないかな」
アオイは、ただ黙ってラクウの独り言を聞いていた。そして都合が悪そうに膝を抱えて身体を丸めた。
「まあいいや、どうでも。親がいないなら、ぼくが色々と教えてあげよう」
ラクウは笑って言った。アオイはその表情で少し安心した。何か恐ろしい目に遭うことはなさそうだと、直感がそう言っていた。
「マージ街ねぇ。ぼくも行ったことがあるよ。結構長いこと居たね。食べ物は美味しいし、季節で色が変わっていくのも素晴らしいよなぁ」
ラクウは恍惚の表情を浮かべていた。アオイは、とりあえずラクウの話をうんうんと聞いていた。ラクウは割と饒舌だった。マージ街の王を何度か見たことがあったが、寡黙で無愛想で、こんな物腰の柔らかい人ではなかった。
「じゃあ、アオイはまだ魔法を見てないのかい?」
「さっき見た・・・見ました」
「そうか。アオイのその言葉遣いは人間のあれだろう?『ケーゴ』だっけ?それはシュピゼにはないから、使わないほうがいいな」
「お父さんとお母さんが、大人と話す時にはそうしなさいって」
ラクウの言う「敬語」は、リーゴみたいな発音で聞き馴染みがなかったが、アオイはすぐに、バショウとスサが言っていた敬語というやつだと分かった。
「今日からそれは忘れていい。さてと、じゃあ魔力がどれほどのものか見ようか」
ラクウは、右手から炎を、左手から水を出して見せた。やはり、アオイが先ほど見た光景は、夢でもなんでもなかった。アオイは再び目を丸くした。
「よし、やってみて」
やってみてって、これをか?とアオイは怪訝そうな顔でラクウの顔を見た。しかし何故だろう、アオイにはできそうな気がしていた。頭の中に入ってきた情報を迅速に処理し、消化したようなスカッとした感じがあった。はっきりと魔法を使うイメージができあがっていたアオイは、両手を目の前に出した。
すると、両手から火と水が噴き出し、驚いたアオイはすぐに両手を引っ込めた。魔法の当たった目の前の木は、バキバキと音を立てて倒れた。
「へぇ、出たてでこれか。相当強いかもなぁ」
ラクウは腕を組み、微笑みながらアオイのことを見下ろしていた。アオイの手は震えていた。今のは自分でやったことなのか、まだ理解が追いついていなかった。どうすれば良いのか分からず、ラクウの顔を見上げた。
「やはりアオイは、ぼくが面倒みよう。ぼくは人間から影響を受けて『家族』という制度を定めたんだが、アオイは家族がいないからね。城の近くに家でも建てて、一緒に住もう」
「城には住まないの?」
「うん、広すぎて落ち着かないし」
それからアオイは、ラクウと共にトリンの家で過ごした。ラクウは、鍛錬の時以外は優しかった。そのキャラクターの影響だろうか、アオイは、人間界へ戻りたいという気持ちが少しずつ薄れていったのだった。
どれほどの月日が経ったのだろう。人間界とヴァイサイでは時の流れが異なるのか何なのか定かではないが、シュピゼは人間と比較すると見た目が若い。シュピゼが10歳ほどの見た目になる頃には、人間は2、30歳ほどになる。つまり、人間の2、3倍長く生きるのがシュピゼであり、2、300歳のシュピゼも存在し、100歳のシュピゼはざらにいる。
アオイは、10歳の女の子ほどの大きさまで成長していた。成長したのは大きさだけではなく、魔力も急激に成長し、ヴァイサイで一目置かれる存在となっていた。ただ魔力が強いだけではなかった。アオイは、シュピゼの中でも稀少な氷魔法を使うことができた。多くのシュピゼは、アオイの氷魔法を見てもイメージが掴めず、ラクウを除いては習得することができなかった。
この頃になると、アオイは人間の子どものように、記憶も自我もはっきりしていた。アオイにとってラクウが育ての親であり、自身がバショウとスサの娘で、ホテイという妹がいて、人間界からやってきたシュピゼであるという事実は忘れていた。
アオイは、村人たちとの鍛錬に明け暮れていた。アオイは圧倒的な強さを誇り、最も王に近い存在だと周囲から言われ始めた。しかし、アオイはこの生活が苦痛だった。敵なしで退屈していた上に、王位に興味がなかったからだ。シュピゼは強さにしか興味がない、それは王位にしか興味がないと同義だ。強いにも関わらず、王へ挑まないアオイを、シュピゼたちは疎ましく思っていた。
アオイが王位に興味がなかったのは、王になりたくないからではない。家族であるラクウと争いたくなかったからだ。最悪の場合、殺し合いになるだろう。そのような事態を招きたくはなかった。シュピゼにとって当然のことが、アオイには理解できなかった。家族なのに殺しあうのかと。
「お前がアオイか?」
リーゴの実を採りにきたアオイに、声をかけてきたのはブロスだ。アオイと同じ、10歳くらいの少年の見た目をしている。伸びた襟足とつり上がった眉が特徴的で、いかにも血気盛んな少年という感じだった。
「そうだけど、あなた誰?何か用?」
アオイは冷たく遇らった。アオイは、城の近くの家からあまり離れることはなく、故に知らないシュピゼも多い。数年経った今、初めてブロスと顔を合わせたのだ。
「私を知らない?随分とナメた態度だな。王と暮らしているから、王になった気分でいるのか?」
小馬鹿にした態度のブロスを無視し、アオイはリーゴの実を4つ抱え、家の扉を開けようとした。すると、ラクウが家から出てきた。
「おお、帰ったか。ん?ブロスじゃないか」
「チッ・・・王なのに城で構えていないなんて、威厳も何もあったもんじゃない。いつか必ず殺してやる」
ブロスは舌打ちをして呟いた。
「ラクウ、誰なのあいつ?」
「ああ、ブロスだ。集落の外れに住んでる奴さ。そうだアオイ、ブロスと鍛錬するといい。あいつも君と同じくらい強いからね」
アオイは冷ややかな目でブロスを睨みつけた。
「また明日にでもここへきたら?相手くらいはしてあげるわ」
アオイはそう言うと、スンとした態度で家に入った。ラクウはブロスに微笑みかけて家に入った。ブロスは歯を食いしばり、悔しそうな表情を浮かべ、転移魔法で消えた。
翌日、ブロスはリーゴの大樹の前にやってきた。アオイが家から出てくるのをイライラしながら待っていた。
家の扉が開き、アオイが出てきた。アオイは水魔法で顔を洗っていた。
「おい、鍛錬に付き合ってもらおうか」
ブロスは左手を燃やし、威嚇するようにパチパチという音を出していた。顔を洗い終えたアオイは、振り返ってブロスの正面に立った。
「ええ、いいわ」
2人は転移魔法でリーゴの大樹から少し離れた平原に移動し、お互い距離をとって魔法を放った。ブロスは炎魔法を、アオイは氷魔法を放ち、強力な魔力同士がぶつかり、衝撃波を生んだ。周囲の草木は大きく揺れていた。
勝負はあっという間だった。ブロスは気がつくと、仰向けに倒れていた。
「クソ!負けたのか!」
ブロスは倒れたまま、地面を握り拳で殴った。アオイは、キラキラと輝く白銀の長い髪を掻き上げ、ため息を吐いた。
「どこがわたしと同等の強さなのかしら?」
アオイは悪態を吐きながら、ブロスに修復魔法をかけた。ブロスにとって、この言葉による蔑みと、相反する修復行動による情けは、屈辱としか言いようがなかった。ブロスは一言も発せず、傷口が治っても、その場で寝転んだまま動かなかった。修復魔法をかけ終えたアオイもまた、一言も発せず、転移魔法でどこかへ行ってしまった。
翌日もまたブロスはアオイを訪れ、鍛錬を申し込み、そして再び敗れた。それを何度も何度も繰り返し、気がつくと1年近く経っていた。アオイは呆れていたが、他のシュピゼよりはブロスの方が強く、退屈しないからまあ良いかくらいに思っていた。そして何より、ブロスは徐々にだが、確実に強くなっていた。鍛錬の中で、ヒヤッとする場面が出てきたことに、アオイは気がつき始めたのだ。
「ねぇ、アンタさ。何をそんなに必死になってるわけ?」
アオイは、ブロスに修復魔法をかけようと手を翳した。ブロスはそれを振り払い、自身で修復魔法をかけながら言った。
「シュピゼなんだから強くなりたいと思うのは当然だろう。何を言っているんだ。やはりお前は、王と暮らして王になった気分でいるんだろうな」
ブロスは、ラクウと暮らしていることに対するやっかみなのか分からないが、ことあるごとに、王になったつもりで云々かんぬんとこぼしていた。
「いや、そうじゃなくて。負けると分かっていて何でわたしに挑むのかってこと。他のシュピゼと鍛錬してから来なさいよ」
ブロスは眉を寄せて、ため息を吐いた。
「負けるなんて端から思っていない。いつだってお前に勝てると思っているさ」
アオイはブロスのことを変わった奴だと思った。他のシュピゼも確かに強さには貪欲だ。しかし、一度負けた相手に何度も挑もうとすることはない。強者に魔法を見てもらう時以外は、同程度の魔力の相手を見定めて、また一から這い上がる、そんなスタンスのシュピゼが大半だ。このブロスという男は馬鹿なのか、それともプライドが高すぎて引くに引けないのか、どちらにせよ、ヘンであることに変わりはない。しかし、それが故に強いのも事実だ。負けても折れない心、そして毎回の鍛錬で反省を活かす学習能力。アオイはブロスから、他のシュピゼにはない何かを感じていた。
「ああそう。まぁ、精々がんばりなさい」
「お前は何故、王にならない?王になる器はあるだろう」
「興味がないもの。ただそれだけよ」
アオイはそう言うと、転移魔法でどこかへ消えた。ブロスは舌打ちをして立ち上がり、歩いて家を目指した。
リーゴの大樹の前に着いたアオイは、リーゴの実を採りながら心に引っかかりを感じていた。それはブロスがアオイに言った「王の器がある」という言葉だ。ブロスから他者を認めるような言葉を初めて聞いた。
「何なのあいつ。器とか上から偉そうに」
アオイはブロスの言葉に嫌悪感を抱きながらも、どこか嬉しさのようなものも感じていた。それはプライド高いシュピゼが認めてくれたからなのか、ブロスだからなのかは分からないが、とにかくアオイの頭の中には、その言葉を言われた時の光景が焼きついて離れなかった。アオイはその光景を払い落とすかのように頭を左右に振り、家へと入った。
ブロスは何度も何度もアオイを訪れ、鍛錬に励んだ。やはり確実に強くなっている。日を追うごとに、アオイにダメージを負わせるようになった。今日は左足、翌日は右肩、翌々日は脇腹と右頬に軽い傷を負わせた。日に日にアオイは本気になっていく。ブロスは常に本気だが、アオイが本気になると、さらに気を引き締めた。
ブロスがアオイに挑むこと426回。遂にアオイの背中を地面につけてみせた。ブロスがアオイに放った火球は、胸のあたりに被弾し、アオイを吹き飛ばした。
「・・・しまった。魔力が尽きたわ・・・」
鼻でゆっくり息をするアオイに、ブロスは修復魔法をかけた。アオイの身体中の傷は、みるみるうちに消え、そしてアオイは目を閉じた。ブロスはこれからさらに強くなるのだろう、これでわたしに対する興味を失った、わたしの役目は終わった、そう考えていた。
「やっとか。敗者になった気分はどうだ?」
「そんなの、アンタの方がよく分かっているじゃない。たかが一度の勝利で調子に乗らないで」
ブロスはアオイ以上に傷だらけだった。ブロスは自身で修復魔法をかけ、その場に座り込んだ。
「それで、これからどうするの?ラクウに挑むの?」
「いいや、今挑んでも勝てないだろう。頃合いまで、アオイには鍛錬に付き合ってもらうぞ。対等にぶつかってくれる相手は、お前しかいない」
アオイはブロスのその言葉に、胸を熱くした。色々な感情が混濁していたのだ。シュピゼとしての闘争本能、ブロスから一目置かれた喜び、ブロスの強さに一役買っている充実感。それらが波のように心に押し寄せてきたのだ。
アオイは負けじと鍛錬に励んだ。その原動力は、ブロスに幻滅されたくないという想いだった。互いに勝敗を繰り返し、それは言わば、高級どんぐりの背比べだった。2人に挑めるシュピゼはおらず、次期王の有力候補として2人の名を挙げる者が大半であった。
ある日、家で洗濯をしていたアオイは悩んでいた。このまま強さを求めた先に何があるのだろうかと。ブロスは、強さの果てに王位剥奪を望んでいるが、アオイがこの先に望むものは何もない。アオイは水球の中で動き回る洗濯物をぼーっと眺めていた。
「どうかしたのかい?」
向かいの席でリーゴの実をムシャムシャと食べているラクウが口を開いた。
「いえ、何でもないわ」
ぶっきらぼうに答えたアオイに、ラクウは食べるのを止めて言った。
「何でもないことはないだろう?何か悩んでいるね。魔法のことか?それともこの冬っていう景色に飽きたかい?」
「いいえ。ねぇラクウ、次の王になるということは、ラクウと戦うのよね?それはラクウが死ぬってこと?」
アオイはラクウの顔を真剣な眼差しで見た。ラクウは食べかけのリーゴの実を床に放り投げ、指から炎を光線のように放射して燃やしながら言った。
「そうなる可能性が高いね。今までの王は皆、王位剥奪の決闘で敗れて死んでいった。周りのシュピゼは殺すことないと口々に言うが、当の本人たちは力が入っているからね、加減なんてできないよ」
「じゃあ、もしわたしが王になるって言ったら、ラクウと殺し合わなければならないってこと?」
「そうさ。何か不満かい?」
アオイは、ラクウのあっけらかんとした態度に、何も言えなくなってしまった。ラクウは不思議そうにアオイの顔を覗き込んだ。
「ま、今のところぼくを本気にさせた奴はいないから、挑んできた奴は皆ちょっと怪我して帰っていくよ。あのブロスも何度も怪我してたっけ」
アオイは俯いたまま考えていた。わたしが王になれば、ブロスがわたしを見る目はさらに変わるだろう。尊敬の念が強くなるに違いない。しかし、それはラクウの死を意味し、さらにゆくゆくは、王位剥奪のためにブロスはわたしを殺しにくるのだろう。それは嫌だ。ラクウとの殺し合いも、ブロスとの殺し合いも、望んではいない。ただブロスとは、永遠に競い合う仲でいたい。
「嫌よ・・・やっぱり王になるのは嫌」
アオイの呟きは、はっきりとラクウに届いた。ラクウは頭をポリポリと掻きながら、少し考えていた。考えがまとまったのか、ラクウはスッと立ち上がり、玄関の方へと歩いていった。
「アオイ、来なさい」
普段は飄々とした話し方をするラクウが、真剣なトーンで話しかけてきたことに、アオイは驚いた。慌てて洗濯物を片付け、ラクウを追って外へ出た。
玄関の前で立っていたラクウがアオイと向かい合うと、2人を囲むように光の柱が立ち、その光の柱が消えると、周囲の景色が変わっていた。どこかの建物の中にいるようだ。
「ここは?」
「城の2階さ。転移魔法で移動したんだ。さあこっちだ」
ラクウは、長い廊下をスタスタと歩き始めた。アオイは何も言わず、ラクウの後ろを少し距離をとって歩いた。
「ここだ」
ラクウは2階の突き当たりにある大きな扉を開け、中へと入った。アオイは警戒しながら、ゆっくりとラクウの後に続いた。
「こ、これは・・・?」
「何て言えばいいのかな。『遺伝子配合場』とでも言っておこうか。つまり、シュピゼの子どもをつくる場所さ」
だだっ広い部屋には、透明な円柱型の容器がいくつも並んでいた。その容器の中には、水のような透明な液体が入っていた。その液体は、うっすらと青白い蛍光を発していた。
「アオイ、これを見てみなさい」
ラクウが指差す先には、液体の中で浮かぶ小さな物体があった。それは肉塊のようだった。
「この容器はトリンを削ってつくったものだ、この液体はリーゴの大樹から採った蜜、そしてこの浮かんでいるのがシュピゼの幼体だ」
アオイは目の前の光景に戸惑っていた。シュピゼも生物だ。種の繁殖を経て、今日まで残り続けてきた。しかし、それがまさかこんな方法だったとは。
「ぼくが生まれる前から、いや、もしかするとシュピゼという種が誕生した時からずっと、こうして子孫を残してきたのだと思う」
「この液体から勝手に生まれてくるの?」
「いや、違う。年齢に関わらず、同程度の魔力を持つシュピゼ同士が、ここに『核』を入れると、1体、稀に2体の幼体が生まれる」
「核?」
「そう。シュピゼは、心臓の下部あたりに2つの核を持っている。核は魔力を引き出すスイッチのようなもので、魔力を最大限引き出すのに必要なんだ。でも安心して、ひとつ失ったところで、弱くなるなんてことはないから」
王の仕事は法の制定だ。つまり、定めた法をシュピゼに忠実に従わせるというのが仕事であり、他の仕事といえば、王位剥奪を望むシュピゼとの決闘くらいだ。しかし、ラクウは人間界の「家族」というものを模した法を定め、シュピゼをグループ化した。今まで幼体は管理されず、リーゴの大樹に直接埋め込まれた核から幼体が生まれ、野に放たれたシュピゼは野生動物も同然だった。しかし法により、幼体を管理し、成長したその子どもを、核を入れたシュピゼたちの下へ返すという仕事が必要になった。ラクウはその仕事をここで行なっているのだ。
容器に目を凝らすと、シュピゼの名前が2つ刻まれていた。恐らく核を入れた者たちの名前なのだろう。
アオイには、ラクウが唐突にこの部屋を見せてきた理由がよく分からなかった。きっとその疑問が顔に出ていたのだろう、ラクウは察してアオイに言った。
「君は実力はあるかもしれないけど、王に向いていないよ。だから、子を育てる生き方を選ぶといい」
アオイは目を丸くした。ラクウは何を言っているんだ、一瞬そう思ったが、王位を剥奪しないという選択肢を与えてくれたのだとすぐに理解した。それがどういう生き方なのか曖昧であったが、恐らくラクウは、最善の選択肢を与えてくれたのだと思った。
「君は幼少期のことを覚えているかい?」
「いいえ・・・。全くと言っていいほど覚えていないわ」
「・・・そうか。まあそれでいい。ぼくが人間界へ行った時の話は何度かしたよね?アオイはとても人間に近い、そう思うんだ」
やはりアオイには、ラクウが何を言っているのかよく分からなかった。アオイは怪訝な顔で、ラクウの話を聞いていた。
「人間界では愛し合ったもの同士が子を産むんだ。シュピゼは違う。相手に対しても子に対しても、愛なんてものはない。ただ自分と戦える相手が欲しくて新たな命を生む、そういう種族だ」
アオイは、目と耳から入ってくる情報で頭が滅茶苦茶になりそうだったが、いつもと違うラクウの真剣な語り口調のおかげで、だいぶ冷静になれた。アオイは静かに頷きながら聞いていた。
「ぼくは人間が好きだ。だがシュピゼであるが故に、愛だの何だの、そういった感覚は分からない。でもたぶん、アオイにはそれが分かるんだと思う。だからいつか・・・『愛に生きなさい』」
アオイには、ラクウの言葉が響いた。何故だか分からないが、胸の鼓動が速くなるのを感じていた。アオイは、その胸の鼓動に押されるように、言葉を漏らした。
「はい」
ラクウは微笑んだ。アオイもラクウに微笑み返した。
アオイの反応に安堵したラクウは、話しそびれたことを思い出し、口を開こうとした。しかし冷静になり、グッと堪えた。
子を育てた先に見えた過酷な未来のことは、言わないでおこう。
アオイとラクウは家へと戻ってきた。お互いさっきまで座っていた席に着くと、ラクウが口火を切った。
「同じ魔力ってことは、ブロスってことになるね。あいつか・・・」
「何か問題でも?」
「いや、あいつはシュピゼの中でもずば抜けてプライドが高いから、自分より強い奴なんて生まれてくるはずがないって言いそうでさ」
「大丈夫、わたしが説得してみるから。ブロスでいいわ」
頭を悩ませていたラクウに、アオイは溌剌と答えた。しかし、少しだけ心がモヤっとしたことに気がついた。
「なんでブロス『で』いいなんて言い方をしたんだろう。ブロス『が』いいのに」
アオイは心の中でそう呟いた。アオイはブロスのことが好きだった。強さだけでなく、それ以外にも惹かれていた。ただ、シュピゼのラクウにそれを打ち明けることはなかった。
数日後。アオイは、リーゴの大樹に腕を組んで寄りかかるブロスに近づき、子の話をした。アオイとブロスは、同程度の魔力を持っているため、条件は整っている。ラクウの予想通り、ブロスは自分より強いシュピゼは生まれないと言っていたが、アオイの説得でブロスは折れた。
「まあ確かに。お前との子なら強い奴が生まれるかもしれないな」
ブロスは不敵な笑みを浮かべ、そう言った。アオイにとっては、説得に応じてくれたことよりも、ブロスのその言葉の方が嬉しいと思えた。
「ここに核を入れるんだったか?」
「ええ、そうよ」
ブロスは、人差し指と中指の2本を胸に当て、力を込めた。そのまま引っ張り出すように指を胸から離すと、赤黒い発光体が出てきた。それは炎のようにメラメラと揺らいでいた。2人とも核を見るのは初めてだった。まじまじとブロスの核を見つめるアオイに、ブロスは眉を顰めた。
「さっさとお前も出せ。鍛錬の時間を削りたくないんだ」
アオイはブロスの態度にムスッとした。本当に強さ以外に興味がない脳筋男なのだと、再確認できた瞬間であった。
アオイも、ブロスと同じように核を取り出した。白と薄い水色の混色の発光体だった。
それは氷のように冷たく、氷煙を纏っていた。2人の核はどちらも、リーゴの実のような涙滴型でとても美しく、恐らくシュピゼとして健康体である証拠なのだろう。
アオイは、どんな子どもが生まれてくるだろうかと考えていた。男の子か女の子か、活発な子か物静かな子か。思いを巡らせる中で、ある情景がふわりと頭に浮かんだ。
「お姉ちゃん!」
女の子がこちらを見て、誰かを呼んでいる。その後ろに2人の大人が立っているのが見える。誰だろう、見覚えがあるような気がする。これは記憶なのだろうか。アオイはその朧げな記憶に導かれるように口を開いた。
「違う・・・」
「違うとは何だ?」
「わたしはこの容器から生まれてきたんじゃない気がする」
アオイは、自分でも何を言っているのか分からなかった。ただ朧げな記憶に映った3人の姿は、確かに見覚えがあった。ただ見覚えがある、それだけなのにも関わらず、何故か核を容器に入れることを躊躇させた。ブロスは、鍛錬の時間が削られていくことと、アオイのもたつきにイライラしていた。
「おい!さっさと終わらせるぞ!」
「ええ、分かっているわ!」
声を荒げるブロスに、アオイは動揺した。急かすブロスとアオイの記憶は、アオイの冷静さを失わせ、本能のままに行動させた。
「容器ではなく、ここに入れましょう」
そう言ってアオイが指差したのは、自分の下腹部だった。
「何なんだ急に」
「分からないけど、何となくここから生まれてきた気がするの、わたし」
「・・・知ったことか。どうだっていい。とにかく、ここに入れたらいいんだな?」
ブロスはそう言うと、アオイの下腹部に核を押し込んだ。ブロスの核は、ゆっくりと入っていた。アオイも自分の核を下腹部に押し当て、ゆっくり入っていくのを眺めていた。
特に痛みはなく、何事もなかったかのように部屋には沈黙が訪れた。
「終わったのか?」
「ええ、そうみたい」
ブロスはため息を吐くと、部屋の扉に向かって歩き始めた。
「もう今日はいい、鍛錬は明日にする」
ブロスはそう言って、扉の前でフッと消えた。
アオイは、その場に座り込み、これで良かったのかを考えた。
「あれは何だったんだろう?」
アオイは、思考が追いついていないまま行動してしまったが、心は晴れやかだった。
「でも、きっとこれでいいんだわ。だって何だか、愛に溢れている気がする」
ラクウの言っていた生き方として、正しい方へと向かっていたような気がしていた。
アオイは、満ち足りたような表情を浮かべ、そっと子宮を撫でた
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