第12話 『 浮草 』  

 遊水地を歩く。最近自分が浮き足立ってるなと思う。端的に集中できていないとも。仕事、それ以外でも何だが気持ちがこもらない。心が上滑りして、時間だけを浪費している気になる。歳のせいだけではない。多分生活習慣、いや日頃の依存状況に原因の一端があるに違いない。私はそう思う。


 私は酒も煙草も一切やらない。ましてやギャンブルなど嗜んだことすらない。私が言う依存状況とはネットのことだ。それからライン・SNS。このコロナ禍で一気に自宅で仕事をする機会が増えた。そしてそれに比例するようにネットを通じて気休め・息抜きすることも覚えた。音楽サイトや動画の定額配信などはその典型だ。気がつくと仕事の合間でもつい覗き見してしまう。自分でも良くないとは思いつつ、いつの間にかマウスに手が伸びている。この間までは同じ事で子どもを叱っていた。「スマホを取り上げるぞ」と声を荒げたこともある。それがここ半年余りでこの様だ。全く示しがつかない。自分でも情けないと思う。

 便利と不便の狭間とは何だろう?私は考える。確かにネットは便利だ。今やスマホを通じてどこに居ても情報を得ることができるし、瞬時に世界と画像を共有することさえできる。だが、その便利さがどこか私には虚しく思える瞬間がある。何の為にこんな機械があるんだろうと思う。私が子どもの頃は黒電話すら一家に一台あるきりだった(持ち運びできるものと云えばトランシーバーが憧れの的だった)。それが今や暇さえあればスマホ。幼児ですら画面に指を滑らせて、我が物顔でゲームをする時代だ。まるで私たちは目の前の他人と社会を忘れてしまったかのように、手元の小道具にくぎ付けとなっている。だがそれで人間が人間たり得るのか。おそらくそうではなかろうと思う。いや、そうであってたまるかとさえ私は思う。

 何が気に入らないのか。一方で私は自分で自分をいぶかしむ。女房からも時々笑われる。「何そんなにムキになってるの」と。確かにそれほどの事ではないかもしれない。だがこの状況の先に、何故か私は受け入れ難い予兆を感じるのだ。嫌悪感と云っても良い。このままでは道具に人間が使われる。道具に人間がオモチャにされてしまう。そんな不愉快極まりない予感を。


 こんな物、すぐにでも川に放り込んでやる。私は周囲を見る。後生大事に、まるで人生のパスポートみたいに年寄りまでがスマホを手にしている。その光景を見ると怒りを通り越して哀しくなってくる。

 浮草でもいい。所詮人間は大河の一滴。大いなる流れには逆らえない。しかしどう浮かび、或いは流れに身を任せるかは多少自分でも決められる。人間に生まれてきた証とは、正にそこに尽きるのではなかろうか。

 私は最近日課となった川べりの散歩をしながら、一人そんなことを考えている。

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超短編シリーズ ④ 「2021」 桂英太郎 @0348

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