第11話 『 虫の声 』  

 朝から気が滅入る。口内炎も痛いし、老母は妻の悪口ばかり言っている。おまけに仕事ではこの春から慣れない業務に携わっており分からないことだらけ。それだけだったらまだしも、こちらの不慣れさにいちいちチェックを入れてくる口うるさい同僚もいる。


 考え出すと頭の中で地虫が鳴き出す。変なメロディーと合わない和音。私は思わず顔をしかめる。何だ、またか…。最近同じことが断続的に続いている。時折思いがけない程突発的な場合もあり正直困っている。

「災難だねえ」

 チャットで話すようになった友人からのメール。顔も本名も知らない彼とは不思議と素直に話ができる。「その地虫は多分君自身だね。何か警告を発してるのかもよ」

「警告って?」

「例えば、『そこから直ちに逃げ出せ』とか」

「それができれば苦労しないよ」

「ははは。全くだ」

 下らない数行の無駄話でも今の私には救いになる。

 彼に言われるまでもなく本当は分かっている。このどうしようもなく無作法で音痴な生き物の正体が、実は自分だと云うことを。今自分は周囲と上手くいかず、今後の大まかな見通しすら見失っている。いや、そもそも見通しなんて最初から持ち得ていなかったのかも知れないが…。

 それにしてもこの不快感は何だ。べったりとして鈍痛すら伴うこの嫌な感覚は。ひょっとして私はうつ病にでもなってしまったのか。それを自分で認めることもできず、やむなくこんな奇妙な状態を無自覚で作り出してしまったのか。

「ちょっと、カワカミさん」

 職場で名前を呼ばれ、私は思わず振り向く。午前中どうにか仕事のペースがノってきたところだ。「ここ、ちょっと変じゃないですか?」

「あ、ごめん。何か間違ってたかな」

 私はなるべく平静を装いながら同僚(女)が手にした資料に見入る。ん、どこが間違いだ?

「分かりません?この部分のフォントが決まりと違うんですよ。私が担当している分と合わなくなってしまうんで」

「あれ、そう?でも」

「すぐにでも訂正してもらえます?忙しかったら私の方でやりますけど」

 女は面倒臭そうに提案する。

「ああ、いいよいいよ。確認してこっちで直しとくよ」

 私は愛想を交えて返事をする。女は自分のデスクに戻っていく。私は人知れず溜め息をつく。やれやれ、確認するまでもない。間違えたのはおそらく私の方だろう。相手はミスに対して異常なほど細かい。自分の思い違いも含めて、既にチェック済みなのはほぼ間違いない(私の知らないところでの、変更の可能性もあるにはあるが)。それにしても、フォントぐらい黙って直してくれても良いじゃないか…、そう思うのは私の我儘だろうか。事実私はこの程度の相手のミスは、黙って修正して後でさりげなく告げる事が多い。相手もプロだ。早々同じミスをするとは考えられない。そう思うからだ。その理屈でいくと、あの同僚(女)は私にそんな信用すら感じていないと云うことになる。本当にやれやれだ。

 いいさ。人には人のやり方がある。考え方もある。それは理解できるし、尊重もしたい。だが…いや、だからこそ…。私は自分の中にふつふつと湧き上がるものを感じる。その自分のやり方をやたらと振り撒くのはいかがなものだろう。相手(=女同僚)の言っている事は正論だ。何一つ間違っていない。しかしその内実は、要するに自分のスタイルを変えたくないだけではないのか。それどころか、それに周りを合わせさせ、支配しようとしている。そう云う愚蒙なのではなかろうか。


 ああ、また地虫が唱い出す。いや、もはやこれは歌ではない。何かがしきりに擦れる音だ。高速で忙しなく、余裕とか優雅さなどと云うものとは一切無縁の金切り音だ。まったく何て人生だ。こんなチマチマした日常に頭(こうべ)を垂れて、私はこれからも生きていかなければいけないのか。この行き場のない煩悶と共に。ウンザリだ。本当にもう、やり切れない…。


 気がつくと私は救急車の中にいる。何だ?何がどうなってる?

「あ、気がつきましたね。大きく息をして下さい。もうすぐ病院に着きますから」

 私は隊員の言葉に返そうとするが、生憎酸素マスクが付いてるせいで声がこもってしまう。「一体…何が…」

「あなたは仕事中に倒れたんです。呼吸不全になって」

「呼吸不全…」

「覚えてませんか?さっきまでしきりにうわ言を仰ってましたよ。同じことを何度も」

「何て?」

「虫がどうしたとか、音がうるさいとか」

「…」

「おい」

 そこで別の隊員が声を掛けてくる。どうやら病院に着いたようだ。私は遂に思い至る。いよいよ焼きが回ったな。これじゃあ、完全に廃人だ。運良く会社に戻れても、周りはこれから自分をそう云う目で見るに違いない。病気の人、可哀想な人、任せられない人…etc.。やれやれ、そうなったら会社は、私に態良く自主退職を促すだろう。「今は休養が第一」などと、耳触りの良い文句(フレーズ)を謳って。


 予想に反して、医者の診断は初期の肺がんだった。私の意識はぶっ飛んだ。肺がん?煙草も吸わないのに?どうやら手術をすれば大ごとにはならないらしいが、医者も「よくこのタイミングで運び込まれましたね」と驚いていた。しかし話を聞くとこのようなケースは決して少なくないらしく、つまり本人は全く自覚がない状態で病院にやってきて、ついでの検査で大病が見つかってしまうらしい。

「私が言うのもナンですが、これも何かのお告げなのか。まあ、或る意味宝くじに当たったものだと思って下さい」

 そう言って医者は笑った。

 それから私は一度手術をし、あとは仕事と並行しながら経過観察を受けている。初期とは云え、私としては再発の恐怖は格別だ。家では母親が私以上に驚いたらしく急にしおらしくなった。お陰で無理は言わなくなったし、女房との関係は嘘のように穏やかになった。職場ではやはり「昏倒した者」のポジションで扱われる事が多いが、慣れてしまえばかえって便利なことも多いことを知った。それでも例のミス矯正/女同僚は臆せず私に対してくる。私も不思議とそれに冷静に対応している。どうやら癌になったことで、私の感性のなべ底は抜けてしまったらしい。前より余計なことは考えなくなった。

「仕事は仕事ですから。でも無理はしないで下さいよ」

 女同僚が去り際捨て台詞のように言っていくが、私はしばらく後でそれが彼女なりの労わりかも知れないと今更のように思う。


 気づくと地虫の声はだいぶ小さくなっている。今後の事を想像した時、多少羽音が聞こえる程度だ。虫も今回の件で息も絶え絶えと云うことか。やれやれ。病気を考えると、私もこれまでのようにウカウカしてはおられない。心身の健康を最優先に考えていかなければそれこそ一巻の終わりだ。


 ふと耳を澄ますと、家の外から秋虫の声が聞こえる。それは思いがけなく涼やかな響きだ。

「日本人の心は、季節と共に移ろっていくんだ。良くも悪くも」

 例の友人がそれらしい事を言ってくる。

「確かに。でもそれは、案外オツなものかもね」

「ふ。同感だ」

 私は外へしばし耳を傾けるが、やがてそれは風にさらわれてどこかへと聞こえなくなってしまった。

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