第10話 『 滝 』  

 滝が見たいなあと思って家を出た。そう言うと随分変わった奴と思われそうだが、今まで生の滝を見たことがないと云う人は身近にもごく普通にいると思う。つまり僕もその一人だったわけだ。それがどうして急に滝を見たくなったかと云うと…、ちょっと長くなるので今のところそれは渇愛させて頂こう。

 実際滝を見に行くとなると、まずはそれが何処にあるのかをチェックしなければならない。僕は手っ取り早くインターネットで探そうとしてすぐに壁にぶつかった。それは何かと云うと、僕の住むところから一番近くに在る滝でも軽く片道2時間はかかると云うことだ。まあ、考えてみれば当然だ。滝と云えばそれなりに高い山中にあると云うイメージ。そう簡単に出掛けられるものではないはずだから。しかしここで諦めるわけにはいかない。僕はとにかく滝が見たいのだ。この目に収めたいのだ。そこで僕はせっかく遠出するなら、絶対に見て後悔しないレベルの滝をチョイスしようと色めき立つ。

いざこうしてみると自分が如何に普段滝と縁遠かったかが分かる。まあ、それは無理からぬ事ではある。滝と僕の日常生活には基本的に接点はない。今回のように「滝を見よう」と思い立たない限り、人はわざわざ金と時間を使って滝に相対しようとは思わないだろう、普通。

結果的に僕が選んだのは、車で二時間弱の隣県にある某滝だった。某と書くぐらいだから全然有名ではない。多分そこの県民ですら知らない人がほとんどだろうと云ったところ。しかし僕は画像でその滝を見てすぐに気がついた。「ここだ」と。自分の欲求を満足させてくれるのは、まさにこの場所なのだと。見栄えの良さではない。滝の高低差はそれほど大した事ないし、言うまでもなく草深い辺鄙な場所だ(グーグルマップ参照)。しかし何か自分の感性を掴んで離さない、或る意味不思議な底力をその滝に感じた。ならば行ってみるしかない。と云うわけで僕は早速出掛けることにしたのだ。


車はダイハツの軽だ。長いこと掛けて先代を乗り潰し、2年前から新車に替えた。乗り心地はすこぶる良い。中は幾分手狭だが、一人でいる分はまったく問題ない。僕は移動用のCD(インスト/フュージョン系)を流しながら一路目的地へと向かう。実を云うと普段僕はあまり外出をしない。週末も大抵は家にいる方だ。だからこうして或る明確な意図を持って出掛けると云うことには何とも新鮮な感覚になる。残念なのは天気が曇りと云うことぐらい。これはまあ仕方がない。何しろ僕は滝を見に行くのだ。最初から多くを求め過ぎてはいけない。それが作法であり、礼儀だ。滝は逃げずにずっとその場で訪れる者を待っている。だからこちらも一歩一歩、慌てず滝を目指していくのだ。そしてようやく滝に達した時、双方の思いは完結する。それから先は知らない。行って滝にでも訊くしかない。


しかし不思議なものだ。滝をこの目で拝むために車を走らせ、こうして見知らぬ土地に足を踏み入れていることがまるで夢物語のように思われる。運良く天気は徐々に良くなってきている。もしかしたら滝に到着する頃には晴天になるかも知れない。

考えてみれば僕は最初から滝に呼ばれていたのかも知れない。あの日僕は部屋でうたた寝していた。十年振りぐらいで大学時代の友人から手紙が来て、昔の恋人が数年前に亡くなっていたことを知った。病気ではないとのことだったが、友人も詳細はよく知らなさそうだった(もしくは僕に気を使ってくれていたのかも)。僕はその元恋人の事を思い出そうとした。しかし何故か上手くいかなかった。無論彼女の存在は消えるはずもない。しかし何故か顔とか声とか、彼女の特徴的な記憶が僕の中でとろとろに溶けてしまっているようだった。そしてしばらく考えた後で僕は思い出した。彼女と別れる前(それはちょうど僕が大学を卒業する時期だったが)、僕らは一つの約束をしていたことを。

「いつかお互いのことをふと思い出した時に、もしまだその思い出を大切にしていたなら、どこかの滝に出掛けましょう。滝は生命の潮流の原点だから、もしかしたら二人はそこからやり直すことができるかもしれない」

 そう彼女が言った時、僕はもう話半分しか聞いていなかった。既に彼女のことをそんなに好きではなくなっていたし、むしろ彼女のそんなよく分からないスピリチュアルな好みが当時の僕をますます浮かなくさせていたのだ。結局彼女にとって滝がどんな意味を持っているのかは分からず仕舞だったが、僕の中で彼女を思い出す時、何故か彼女そのものよりも滝のイメージが甦ってくるようだった。そして今、僕は彼女の顔や声を思い出せないように、滝と云うものをまだ一度も自分が見たことがないと云うことに思い至ったわけだ。行ったところでそこに何かがあるわけではない(滝以外は)。死んだ彼女が戻ってくるはずもない。ただ、僕の中でこれは一つ果たしておかなければならないテーマだと思った。そう思った途端居ても立ってもいられなくなった。


 滝は思った以上に開けた場所にあった。近くには駐車場があり、結果僕はほとんどハイキング以下の労力でその前に立つことができた。

「ああ、これが…」

 僕は次の言葉を継ぐことができない。近くには一組の老夫婦が観光そのものと云った風情で佇んでいる。僕は改めて思う。さあ、僕は来たぞ。思い出との約束を果たしに一人でここまで足を運んだのだ。

滝は10メートルくらいの落差があり、下では水しぶきが上がっている。細かい光の粒が辺りをそよ風と共に舞っている。僕の心にはその光景だけが映っている。やはり元恋人の顔も声も、記憶以上には甦ってこない。ただ彼女も一緒に来られたらよかったろうにな、とふと思う。そうすれば、過去はともかく、そこからまたそれぞれが何かを始めることができたかも知れない。彼女はそう云う事をあの日、まだ若かった僕に伝えたかったのだろう。

いや、そうじゃない。その時僕の中で一瞬鮮烈な光が過る。彼女はきっと数十年後のもう若くなくなった元彼に向けて言ったのだ。そしてそれは彼女自身の限られた人生を見越してのメッセージだったのかも知れない。

僕は滝口の上に顔をのぞかせた青空を一度だけ見上げる。そして再び向き直ると、老夫婦には見えないように小さく落水に手を合わせた。何故かそうせざるを得なかった。


 これが僕の「滝への旅」の一部始終だ。特に付け加えたこともない。結果的に自分の昔の事も語ったが、解釈は読んだ人それぞれに委ねよう。最後に一言。

 生の滝も悪くない。是非一度、足を向けてはいかがだろう。

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