第5話 『 期待 』  

 夜、帰宅して食事を搔き込むと、私はゆっくりする間もなく部屋に籠り机に向かう。資格試験の勉強をするためだ。仕事で体力をほぼ使い果たしているから、時間はもって1時間半。しかも二度目の試験本番までちょうどひと月を切ったところだ。

 目指してるのは国家資格で、一応今の仕事にも関連している。でも直接ではないから、今の職場でも所有している同僚はいないし、おそらく皆あまり興味もないだろう。でも、だからこそ私は挑戦してみようと思った。合格率自体なかなかの低さだが、当初はそれすらも面白いと思った。誰も私が受検するなんて想像しないだろうし、ましてや合格するなんて…。

 職場での私は所謂「おっちょこちょい」キャラだ。実際失敗ばかりして上司から叱られることも多い。ミスにうるさい先輩などは、人前でもあからさまに私を馬鹿にする。私は少し傷つきながらも「スミマセーン」と笑って返す。最近ではどうやら周りも私には多くを期待していないようだ。私自身、少し前までそうだった。


「何か、育てたら良いんじゃない?」

 一年程前、少し考え込むようになっていた私に、見かねた母親が声を掛けてきた。私は家で職場の話はしない。父親には勿論だが、母親にもほとんどそうだ。だから母親は私の様子をそれとなく観察しながら、時折そんな一人事のような囁きを言うのだ。聞いた時は「何だか的外れ」と思ったが、後になって「それも良いかも」と思った。ただいざ「何を育てよう?」と考えた時、私はハタと気がついた。自分が小学校の頃からアサガオとかメダカとか生き物たぐいはどうしても途中で面倒臭がって、結局は放り出してしまっていたことに。

 う~ん…。考えた末に私は本屋に出掛けた。私が一番気が休まるところ、それが本屋だから。本の背表紙をなんとなく眺めているだけで、私は解放され自分の中のしこりが解けていくのを感じるから(もちろんそれはあくまで一過性のものだが)。ふと目にしたのは資格のコーナーだった。其処はそれまでの私にとっては縁無しと思われていた一角だった。それがその時だけは妙に新鮮なものとして私の目に映った。私は何気に参考書や問題集、ガイドブックの類に目を通していった。そうか、と私は思った。これは学校の教科と違って、誰かに強制されたりするわけではない。云わば趣味の勉強なんだ、と。始めて途中で飽きても誰にも知られないし、誰からも馬鹿にされたりもしない。そう、完全に自分だけの世界だ。気がついたら私はカバーイラストが可愛かったガイドブック兼問題集を手に取ってレジに並んでいた。あくまでさりげなく、ファッション雑誌を買うような仕草、物腰で。

以来、私は少しずつ、本当に少しずつ資格取得のために勉強を続けてきた。これまで何度も諦めそうになったが、結局続けてこられたのは試験と云う具体的な目標があったからに違いない。「せめて一度くらい受検してみよう。どうせダメでモトモトなんだから」。

予想外に本番の手応えはまあまあだった。「これだったらひょっとしたらひょっとするかも」、私の胸は密かに高鳴った。そして2か月後の試験結果は辛くも不合格だった。私は「ああ、やっぱりそうか」と一人事ちた。そして「これでようやく楽になれる」とさえその時は思った。でもしばらく時間が経つうちにじんわりと心の中から沁み出てくるものがあった。それは「くやしい」と云う気持ちでもあり、また「あんなに頑張ったのに」と云うやるせなさでもあった。しかし手元に残されたのはそれだけではなかった。私は自分の手垢で薄汚れたガイドブック・問題集を見て、何か確実に半年前には感じられなかった重みを自分の中に感じていた。

「もう一度。今度は本気で、最初から狙っていこう」

 私は間もなくそう心に決めた。


 職場での私は相変わらずだ。ミスは多少減ったが、周りからはやはりあまり期待されない「おっちょこちょい」だ。でも私はそれで良いと思っている。そう思えるようになった事が私にはとても不思議に思えると同時にどこか誇らしくもある。今日もまた家に帰ったら早々に部屋に籠る。新たに購入した問題集との格闘が待っているのだ。毎日くたびれるし、時々ひどく自信を失くすこともあるが、目の前の目標があるから構ってはいられない。

 未来に、そして自分に期待できる時間は、それだけで楽しい。

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