第3話 『 歌の葉 』  

 歌ができない。締切はもうとっくの昔に過ぎているのに、気の利いたフレーズ一つ浮かんでこない。不意に目の前が真っ暗になる。


 アーティストは外目にはのんびり構えているように見える。むしろ余裕と貫録すら感じさせる程に。しかし彼をそう映しているのは、おそらく彼の過去の栄光そのものだろう。そしてそのことは彼自身が一番良く知っている。


…駄目だ。今までは乾いたぞうきんを絞るようにしてやりくりをしてきたが、それも遂に尽き果てた。もう溜め息しか出てこない。そしてその溜め息は誰にも届かない。届くわけもない。煙草の煙の方がいくらかマシなくらいだ。


 沈む夕日の哀愁。消えゆく花火の哀切。それにしても彼は良く戦った。彼の歌には確かに光が宿っていた。それも輝かしい日向に在るものではなく、薄暗闇の中に仄かに灯る陽炎のようだった。くたびれた世の中で彼の歌は徐々に人の心に沁み込んでいった。


 あの頃は良かったな。アーティストは呟く。終わってしまえば、まるで全てが誂えたかのように自分を誘(いざな)ったと思える。突然まばゆいばかりのライトの前に押し出され、自分は訳も分からないままに歌をうたった。そして歌い終わった時の甘い絶望感。しかし一瞬後には割れんばかりの聴衆からの拍手が待っていた。ようやく自分は受け入れられた。そう思った瞬間だった。


 いまやアーティストはこの国を代表する歌手となった。海外でもセールスは伸び、定期的にコンサートも行う。しかし肝心の彼の心から光が失われてしまった。漆黒の闇に呑まれてしまった。だが一方でアーティストはほっとしている。

もう節操のないファンとスケジュールに追われることはない。今自分がどこにいるのか、分からなくなることもない。もしかしたら、俺はもう一度人間に戻れるかも知れない、と。


 男は街を歩く。街は流行り病のせいで人通りも少ない。彼は無意識に口笛を吹く。鼻歌まで出る。交差点で通りすがりの女が彼の頬を撫でる。


 それから一月後、アーティストの突然の訃報がネットのニュース欄に小さく掲載され、そしていつしか音もなく消えていった。

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