第2話 『 英雄 』

 市役所の待合所にいた。平日の午後。仕事を早引きして、どうしても済ませなければならない用事があった。僕も普段は仕事で窓口業務をすることがあるが、こうやっていざ自分が待たされる立場になるとやけに時間が長く感じる。立場変われば、ってヤツだ。

 騒ぎは唐突に始まった。遠くからはっきりとした怒声が聞こえてきたのだ。年寄りのいささか体力を欠いた罵声。見るとカウンター越しに立ったまま無暗矢鱈に怒っている老人がいる。そして周りは遠巻きにそれを見ている。無理もない。僕自身もあまりの突発事にしばらく口を開けて見ているしかなかったから。「何だ、このジジイは?」と云う具合に。

 どうやら老人は職員の対応が気に入らなかったらしい。そして文句に詰まると「ちんたら待たせやがって」と何度か繰り返した。それに対して相手の職員は、言葉少なく落ち着いた対応をしているようだ。しかしそれがまた老人の気持ちを逆なでしているのも確かで、老人はほとんどぜいぜい咳き込むレベルまで血圧を上昇させている様子。

 その時だった。一人の小柄な女性が片手にパイプ椅子を持って老人に近づいていった。「まさか、あの人、あれで?」

僕だけではなくおそらく皆が息を呑んだと思う。つまり女性がパイプ椅子で老人を殴ろうとしているかと思ったから。しかし勿論それは一瞬後には杞憂と化した。女性は老人にその椅子に座るよう促した。そして自分も老人が前以って蹴飛ばしていた椅子を抱えて老人の横に座った。それでも老人はまだ大きな声で正面の職員を罵っている。その度に女性が何か老人に語りかけているようだ。おそらくその女性も職員だろうが、見るからに老人の扱いに慣れている。僕らが様子を窺っている間にも老人はまるで風船がしぼんでいくかのように血の気を下げていった。


 そのうち僕の番が来た。僕は何事もなかったかのように対応職員に用件を伝え、そしてほどなくそれも終わった。やれやれ、書類様式一枚貰うだけで今日はすごい光景を見たな。そう思って横を振り返った時、例の老人がトボトボと(本人的には分からない)、正面玄関に向かって歩いていくのが見えた。一体何をあんなに怒ってたんだろうな…。僕がそう思いながら歩き出そうとすると、あの女性職員がやはり椅子を片手に僕の脇を通り過ぎて行った。そこで他の職員が彼女に声をかけた。

「お疲れ様。大丈夫でした?」

 すると当の彼女も応えた。

「ええ。あの人なりの手順ってあるみたいで。なかなか理屈じゃ…」

 そして彼女は小さく頬を緩ませた。それはとても愛矯のある笑顔だった。

 僕は市役所を出た。女性職員が言わんとしているところは僕にも何となく分かった。待ち時間だけの話ではない。ものを説明するにしても相手には相手の理解する順番と云うものがある。それに配慮しつつやるのとそうでないのとでは、結果はまるで変わってくる。それは決してスローガン化した公共ルールだけでは対応できない、そんな側面も確かに存在するのだ。

「或る意味、英雄だよな」

 僕は一人事(ご)ちながら、きっと世の中はそう云う人たちで日々支えられていると感じる。

 さてさて、僕もまた明日から厄介でスケジュールタイトな仕事が待っている。今日は早く帰ってのんびりしよう。そう思った。

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