始まりの一日
第2話 緊張の朝
翌朝。
体が緊張を訴えたのか、悠は目覚ましの一時間前に起きてしまった。
それどころか、体は疲れていて眠いのに途中で何度も目が覚めてしまったせいで全然寝れていなかった。
今日も午前からバイトがある中しんどいが、今日に限ってはこれでよかったかもしれない。
なにせ、ベッドの上にいる乃亜がまだ眠ったままだったから。
遅かれ早かれ彼女が騒ぎ立てる未来は回避できないだろうから、せめて先に起きて落ち着く時間があるだけでも悠としてはありがたかった。
二度寝する気もないため、悠は体を起こして布団を畳んでから洗面所へ向かった。
「ひでぇな……」
鏡に映し出された自分の目元には大きなくまがある。顔も全体的にドヨンとしていて生気が感じられない。
くまはどうにもならないだろうが、せめて顔をパシッと叩いて表情を引き締めた。
そのまま洗顔と歯磨きを済ませた後は料理をしなければならない。
いつもであればバイトがある日の前日のうちに作り置きをしておくようにしているのだが、昨晩は色々あり過ぎて疲れていたため失念していた。
料理が嫌いではない悠でも、さすがに早朝からというのは少し億劫だった。
——しかし、そんな気持ちとは裏腹に悠の手はきびきびと動く。
慣れというのは怖いもので、作るものさえ決めてしまえば無意識に手は動いてしまうものだ。
お浸し、卵焼き、味噌汁。
いつもの要領で手際よく調理を進めていく。
——そんな時だった。
「えっ……?」
突如として聞こえてきた、怯えるような声。
キッチンには様々な音が立ち込めていたが、恐怖が滲むその声は微かに悠の鼓膜を揺らした。
いよいよかと、悠は緊張で強張った首をギギッと捻って声の主へと視線を移した。
「だ、だ……誰!?」
「あ、えっと……起こして悪かった。まずは話を——」
「ここどこ!? はぁ!? えぇ!?」
動転していて悠の声など耳に届くはずもなく、乃亜は身震いさせながらあちらこちらを忙しそうに見渡している。
毛布をギュッと手に握り、体を隠すように持つ仕草からは警戒が見て取れた。
悠は弁明のため、一旦火を止めて居室へと入る。
「こ、こないで変態!!」
「おわっ!?」
乃亜の怒号と共に枕が飛んできて、それを間一髪で避ける。
「ちょ、待っ——」
「うるさい!!」
今度は手に握っていた毛布を丸めて投げてきた。
これも寸前のところで避けるが、そもそも自分の体を覆っていた毛布を投げてしまっていいのだろうか……。
「あっ」
やはりというか、自分の身を隠すものがなくなってしまったことに気づいたのか、乃亜は焦ったように両腕で胸のあたりを隠した。
ベッド棚にもいくつか投げられそうな物が置かれているが、枕や毛布と違って当たればかなり痛そうな物ばかりだ。
彼女の警戒を少しでも解くため、何より自分の身を守るためにも悠は数歩引いてキッチンへと戻る。
(さて、どう弁明したものか……)
悠は苦し紛れにキョロキョロと首を動かす。
——すると、例の物が目についた。
悠はゴミ箱の前に置かれたそれを咄嗟に手に取り、乃亜に見せた。
「これに見覚えはないか」
「え……?」
それは、昨日悠が捨てようとして取っておいた空き缶。
こうなることがおおよそ想像出来ていた悠は、どうせ乃亜が自分の言葉に耳を貸さないということも分かっていた。だからせめて昨晩の状況を示す物証を見せて、自分がどこで何をしていたのかだけでも思い出して欲しかった。
乃亜は怯えた表情を保ちながらも、少し上を向いて考えるようにしている。
そして口を開いた。
「あっ!」
「思い出してくれたか」
「そ、それが……何なわけ?」
「昨日、公園で酔い潰れてたから危ないと思って連れてきたんだ」
「は、はぁ!? そんなわけないでしょ!! どうせ私を襲って——」
「襲ってない」
悠は語気を強め、乃亜の言葉を遮った。
乃亜がそう勘繰ってしまうのは最もだが、その危険を自覚していながらの行動であったことを理解すると、少し腹が立った。
「そういう野郎がいるって分かってるなら、最初からあんな飲み方するな」
冷淡で荒くなった悠の口調に、乃亜は何も言い返せず俯いてしまった。怯えているというよりも、釈然としない気持ちと反省の気持ちとが拮抗しているのだろう。
その様子に、さすがに言い過ぎたかと悠も言葉を紡ぎなおす。
「つまりその……何があったか知らないけど、もう少し自分を大切にするべきだ」
出来る限り、優しい声音で言った。
乃亜は一瞬ハッと顔を上げたようだったが、特に返答はなく再び俯いた。
その様子をしばらく見ていた悠だが、とりあえずは抵抗してくる気配もなかったため料理を再開した。
——沈黙の中、悠は全ての品を完成させた。
それを皿に盛りつけ、お盆に乗せて居室のテーブルへと運ぶ。ベッドから眺めていた乃亜は、食卓に並ぶ彩り豊かな朝食に目を丸くした。
そんな乃亜を一瞥し、悠はキッチンへと戻る。
すると、悠は四つほどある食器を腕も駆使しながら器用に運んできて、それらをテーブルの、悠の対面側に並べた。
「昨日見た感じ、つまみもなしに飲んでただろ? 腹減ってるだろうし良かったらどうぞ」
「……え?」
お盆に乗せられたものと全く同じ——もう一人分の朝食に、乃亜は呆気に取られて気の抜けた声をこぼした。
乃亜はキョトンとしたまま、ベッドから降りてくる様子はない。
(まぁ、知らない男……それも自分を襲ったかもしれないやつの作ったものなんて怖くて食えないか)
悠はお盆のある側に腰を下ろして合掌し、小さくいただきますと呟いた。
乃亜にああ言ったものの、悠としても昨晩は何も食べずに寝てしまったため、空腹で箸が止まらない。
時折チラチラと横目で見てくる乃亜の視線に食べづらさを感じながらも、あっという間に完食した。
「ごちそうさまでした」
そう言って、乃亜の分の朝食は残したまま済んだ食器をキッチンへと片付ける。
料理と乃亜との一悶着もあって、一時間早く起きた割にはバイトまであまり時間がない。悠は食器洗いを含め、色々と足早に済ませる。
上着を羽織り、テーブルに残していた乃亜の分の朝食にラップをかけていると、ようやく彼女が口を開いた。
「ど、どっか行くの?」
「ん? ああ、バイトだよ」
「ふぅん……」
状況が状況だからか、大学での乃亜の様子を知っている悠には、その反応は特別素っ気ないものに感じた。
「帰らなくていいのか?」
悠が居室を去ろうとしても乃亜は全く動こうともしないため、気になって問いかけてみる。
何ら言葉は返ってこなかったが、彼女の浮かない顔には『帰りたくない』とハッキリ書いてあった。
悠としては色々もどかしいが、彼女を連れてきた手前もあり、帰れと強く言うことは出来ない。
ならせめて乃亜が少しでも安心できるようにと、他の適当な言葉を探した。
「……それ、酒の後に効くって父さんから評判の味付けなんだ。気が向いたらでいいから食べてくれ」
悠はテーブルへと視線を落としながらそう言い残し、玄関へと向かった。
単に食材がもったいないというのもあるが、空腹もまた精神衛生上良くないと思ってのことだった。
悠は玄関で靴を履いて部屋を後にし——
(帰ってくる頃にはどうせ開いてるだろうけど……)
——そう思いながら、一応ドアに鍵をかけて歩き出した。
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