第3話 あの人は……

 玄関のドアが閉まる音がして、ストンと肩が落ちた。

 「痛ったぁ……」

 さっきまで緊張してたから感じなかったけど、頭が痛い。

 昨晩の記憶があいまいなことに加えてこの頭痛。公園に行ったところまでは覚えてるし、私が公園で酔い潰れてたっていうのは本当……なのかもしれない。

 で、でもだからって!

 それをただの善意で連れてくるなんてあり得る!? こういうのって、お……お持ち帰りってやつじゃないの⁉ 酔って何も覚えてないのをいいことに、あんなことやこんなこと——

 いや待って?

 それなら、わざわざ朝まで家に置いとく? それこそ記憶がないなら、することしたら適当に追い出せばいいんじゃ……。

 『もう少し自分を大切にするべきだ』

 ふと、あの人の言葉が脳をめぐった。

 ——胸がザワザワする。

 言われたときもそうだった。くすぐったいような、少しチクっと痛いような。

 でも……嫌な感じはしない。

 一見すると体のいい言い訳にも聞こえる。

 けどあの時、彼は確かに苛立っていた。まるで本当に、私のことを心配してくれているみたいな口ぶりだった。

 ……あの人何なの?

 彼についてあれこれ考えてみるけど、私に確かな記憶がない以上結論は出ない。

 てか、もう色々ぐちゃぐちゃで頭痛い……!

 私はギューッと痛くなる頭を落ち着けるように一つため息を吐いてから、自分が投げてしまった枕と毛布を拾いに立った。

 グゥ~

 「あ」

 枕と毛布を手にベッドへ戻る途中、テーブルに置かれていた味噌汁に目が行って、お腹が鳴ってしまった。

 そっか。昨日の夜、何も食べてなかったんだっけ。

 ……お腹減ったなぁ。

 枕と毛布を元の場所に戻して、ベッドの端に腰かける。

 ふとテーブルの上に視線を向ける。

 ——どれも色味と形が良くて、本当に美味しそう。

 って、ダメダメ!

 今ここで誘惑に負けて食べちゃったら、なんていうか……あの人を認めるみたいでイヤだ。

 それに! 何か変なものでも入ってたら——

 グゥ~

 「うぅ……」

 ちょ、ちょっとつまむくらいなら……いやでも……。

 あ、そうだ! 

 少し食べて残せば、美味しくなかったって事に出来るんじゃない!? うんうん、これなら認めることにはならないはず!

 私はピョンと軽快な足取りで立ち上がってテーブルの前に座ると、味噌汁のお椀にかかったラップをおもむろに外していった。

 ——ふわりと漂ってくる優しい味噌の香り。

 思わずゴクッと唾を呑む。

 「い、いただきます」

 あんな口実を作っといてなんか悔しいけど……ひ、一口だけだから!

 そう自分に言い聞かせ、お椀を口元へと運んだ。

 「……おいし」

 少し冷めてしまっているけど、塩味の利いた味付け。あえてそうしているのか分からないけど、すごく美味しく感じる。

 も、もう一口だけ……。

 そう決めては味噌汁を口に含む……という流れを何度か繰り返し、もうお椀の半分以上がなくなってしまった。

 私はもはや言い訳がましい口実など忘れてしまい、他のお皿にかかったラップも次々と外していった。

 ——香りの強い食材はなく、全体的に質素ながらもほんのりと塩気の利いた味わいが、二日酔いの体に無理なく染み込んでいく。

 これは確かに効く。

 ……って、あ。

 夢中で食べ進めていると、気付けば目の前にある食器が全て空になっていた。

 「やっちゃったぁ……」

 両手で頭を抱え、盛大に後悔する。

 疑っといて本当にバカみたいだ。これであの人が帰ってきてテーブルを見たら、絶対『まんまと食いやがったぜ』とか思われるんだ……。

 で、でも……どうせ帰っちゃえばもう話すことなんてないんだし?

 そう無理やり開き直って、私はグッと伸びをしながら立ち上がった。

 ——何となしにグルっと部屋を見渡してみる。

 今朝目覚めたときはびっくりしてよく分からなかったけど、よく片付いた部屋。というか、本当に最低限って感じで少し寂しいかも。

 ……ん?

 ベッド棚の上。

 色の少ない部屋には不自然な温かい木目のオブジェに目が留まる。

 ——写真立て?

 気になって近づいてみると、家族写真のようだった。

 小学生くらいの小さな男の子の両脇に、父親と母親らしき人物が立っている。二人と手をつないで楽しそうに笑う男の子と、それをにこやかに見つめる両親。

 まるで理想の家族を体現したような、微笑ましい写真だった。

 「いいなぁ……」

 ふとため息混じりの声が漏れる。

 ——同時に、昨日の痛烈な罵声が脳内で再生された。

 『穀潰しの分際で、親に口答えするな』

 胸が絞られたように痛くなる。

 ……私にも、こんな家族がいたら——

 「ああ、やめやめ!」

 これ以上写真を眺めていても暗い気持ちになるだけだと、私は写真から視線を外してベッドに倒れこんだ。

 やっぱ、帰りたくないなぁ。

 さっきまでは微かにあった帰る気も、耳に残った父の罵声にかき消されてしまった。

 どうせ私がいなくたって誰も困らないし。


 「…………あの人は、どんな顔するかな」


 もしバイトから帰って来ても私がここにいたら、あの人は——

 レースカーテンから差し込んでくる春の陽気がポカポカと気持ち良く、食後ということもあってかやけに瞼が重い。

 ……いい匂い。

 ほんのり優しい香りがする毛布に心が安らいでいく。

 ——そのまま少しうとうとしてから、私は眠りに落ちた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る