第6話 竜登門

さて、というわけで。

 何故こんな状況になってしまったのか、私に教えて欲しい。

 現在。

 宿舎釣厶の受付前にて、エプロンを身に着けた血まみれの夢橋さんと対峙している。

 夢橋さんの手には、真っ赤な液体の入ったポリバケツとその縁に垂れ下がる雑巾数枚。

 「「「..................」」」

 改めて、夢橋さんの目を見ると、驚いたように目を見開いている。

 驚きたいのはこっちなんだけれど......。

 大事なのは、1言目――

 「お帰りなさいっ。ご主人様っ!」

 だが、ここに、無理をしている美人熟女が1人、キャピっている。

 大きな目を片方だけパチパチさせている。

 そして。

 「あはははっ――なに、この人! おもしろっ!」

 プックスクスと笑い転げる勢いの、デリカシーの無い女の子。

 頼むから腕を離してほしい。

 それに、右耳までくすぐったい。

 ......お前もか。死神。

 「......夢橋さん。それ――」

 「えっ? ......あっ――」

 夢橋さんはようやく思考が追いついたみたいに、急いでバケツを背後に回して隠す。

 いや~......流石に手遅れです、夢橋さん。

 と、その考えが伝わったのか。

 夢橋さんは深いため息を吐き。

 バケツを置いてエプロンを脱いだ。

 そこでようやく。見覚えのある夢橋さんの浴衣姿が現れた。

 「......何があったんですか?」

 「えぇ..................今朝、お客様が自殺なされたのですよ」

 「じ、自殺......?」

 「はい......これ以上は――」

 夢橋さんはバケツとエプロンを持ち、体を横に向ける。

 「よろしければ、別の宿をご紹介しますが......」

 「あ――いえいえ! 大丈夫ですから! ――ささ、行こ! りっか」

 「ちょ、っと――」

 「はやくはやく!」

 音葉に背中を押され、足を動かしてないのに前に進んでいる。

 凄いことに、ブーツの抵抗をものともしていない。

 遠くから。

 「2階には――2号室には立ち入らないでくださいね!」

 という、夢橋さんの声が聞こえてきたが――

 「言っちゃだめでしょ!」と、心の中で叫んだ。

 現に、背後にいる音葉の鼻息が分かり易く荒くなったから。

 絶対行く気だよ、この子。

 どうしよう。

 マジで行きたくない。

 昨日、今日で、私の周りで人が死ぬ所に2回も遭遇しているわけだし。わざわざ見に行

ってどうするんだろう。

 私はグッと足に力を入れる。

 体が前につんのめりながらも、何とか音葉の動きを止め。振り返る。

 気がつけば、階段の前まで来ていた。

 「夢橋さんが言っていたように。私は自分の部屋に戻るから」

 いつもの癖で、つい。冷たい言い方になってしまう。

 音葉はムスッとした顔になり

 「――行くわけない。何だと思ってる?」

 と、半ギレだ。

 続けて。

 「ちょっと、ちょっとだけ――チラッとでいいから!」

 両の手を合わせての懇願ムーブ。

 嘘を吐こうとしても吐けないタイプらしい。

 困ったことに。

 私はそんな人に弱い。昔っから、断れた試しがない。

 でも、今回は話が違う。

 人が死んでいる訳だし。軽はずみに行っていい訳がない。

 死んでまで、見世物になるなんて。

 考えただけでもゾッとする。

 「先っぽだけ、先っぽだけだから!」とか意味の分からないことを叫んでいる音葉の手

をそっと掴む。

 「今更なんだけど」

 「ん?」

 「何で、音葉もここに泊まろうとしているの?」

 「むっ――」

 パンと音葉が私の手を払う。

 「いいよ。チラッと覗いて帰るから」

 冷たく言い放ち、音葉が階段の闇に吸い込まれていく。

 その背中を見つめていると。また。右耳がチクチクと痛みだす。

 いい加減、その意思疎通の仕方をやめて欲しい。

 と、そう思った時――

 『悪かったね』

 死神の声が聞こえた。そんな気がした。

 「はぁ......」

 完全に、疲れが溜まっているんだと、そう思う。

 『そうかもしれないけど、違うからね⁉』

 耳鳴りがする程の爆音。

 それが脳に直接響いて来ているみたいで......。頭が後ろに跳ね飛びそうになるのを、1

歩後ずさりして耐え凌ぐ。

 『ごめん。つい、癖で叫んじゃった』

 「............別に、良いけど」

 喋れたの?

 『うん。てか、それより――見に行こうよ』

 は? 何を?

 『2階の2号室で人が死んだんでしょ? それを、見に行こうよって』

 なんで、見に行きたいの?

 『六花にとって、いい経験になると思うし、それに――』

 それに?

 『そういう場所には、面白い物があるから』

 面白い物って......。

 『不謹慎だと思うだろ? でも、そうじゃない』

 「......どういうこと?」

 『どうせ、今に分かるから。早く、行こ......あのメスに荒らされる前に』

 ......メスって。荒らされるって。

 でもなぁ。

 とか、ちょっと躊躇っただけで。

 耳に劈けるような痛みが――。

 「それ、やめて」

 『..................』

 無視、ですか。

 

 2階2号室の扉は開いていた。

 甘い匂いの残り香を辿ると、自然とそこに辿り着く。

 扉に当たらないように体を横に向けながら部屋の中に入ると直ぐ、音葉の背中が見える。

 音葉もその気配に気がついたのか、頭だけを向けて、パぁっと表情を輝かせる。

 「やっぱり来た!」

 土足で上がっているのか。

 ドタドタと激しい足音を立てながら、音葉が目の前までやってきて

 「りっか、小説とか読む⁉」

 と、叫ぶ。

 いきなりの質問だったが。

 「うん」と、脊髄反射で返す。

 まぁ、事実だし。

 「じゃぁさ! 『病める夢』って知ってる?」

 『病める夢』か。う~ん。

 タイトルからしてサスペンスかミステリーかの系統っぽいけど......。

 読むのラノベだし......。

 「ないかな......それが、どうかしたの?」

 「これ、見て!」

 まるで宝物を見つけてきた子供みたいに、そうニヤニヤと言い放ち、音葉が取り出した

もの。それは、丸められた原稿用紙のようなものだった。

 ただ、ひとつ異質なのが、その原稿用紙が血まみれなこと。しかも、不自然に散ってい

る。

 音葉は「よいしょ」と何度か呟きながらそれを広げ、私に見せてくる。

 最初に目に入ったのは、やはり不自然に飛び散った真っ赤な血、そして。『病める夢』と

いう、細く繊細な文字だった。

 作者名は、書かれていない。

 そこから1行開けて、同じく細く繊細な文字で本文が続いている。

 ..................パッと読んだ感想だが。それも見開き1ページだけ。

 「変な感じ」

 もう1度見直そう。

 そう思って原稿用紙を見つめていると。

 サッと原稿用紙が下に。奥から音葉の顔が現れる。

 「――何が変なの?」

 「......血で汚れているのに、何の違和感もなく読めるから......変。意図せず散らしたイ

ンクみたいな、そんな感じ」

 「ふ~ん」

 そう唸りながら、音葉の顔が原稿用紙の裏側に消えていく。

 が、直ぐに現れ。

 「ダメだ。1文字も読めない」

 と、とても現役学生とは思えない発言の後。

 「はい。あげる」

 と、原稿用紙を押し付けて、部屋の奥にずかずかと踏み入って消えて行った。

 『......どうするの? それ』

 死神の声が聞こえてくる。けど、やっぱり慣れない。

 「う~ん......後で読んでみる......ちょっと気になるし」

 『はへー。人間ってやつは面白いよね。そんなただの文字列書いて、読んで......面白い

の?』

 「面白いよ」

 ただの文字列にも、人それぞれ込められた意味とかがあって。個性があるから。なんて

......死神に言っても無駄か。音葉と同じで、文字とか長文とかを読むの、苦手そうだし。

 『聞こえてるんだからな‼‼』

 ビクッと肩が跳ね上がり、自然と顔が上に向く。それ程、脳に直接響く叫び声はうるさ

い。

 『――とにかく。僕たちも奥に行こうよ』

 「いいよ......私は部屋に戻る」

 ガサガサと音を立てながら漁っている音葉を見ながら、そう答える。

 『ふ~ん。そんなに気になるの? その紙』

 紙て......確かにそうなんだけど。

 「ただの紙じゃない気がするから。読んでみたいの」

 『あっそ............じゃ、早く戻ろ――あの女に気づかれない内にね』

 「う、ん?」

 

 4階4号室に到着し、すぐに中に入る。

 靴を脱いで廊下を歩き、右の部屋に入る。

 部屋は綺麗に片付いていて、どこか懐かしい匂いがした。

 テレビの前のソファに座り、丸めた原稿用紙を広げる。

 けど――

 「ずっとそのままいるの?」

 『うん......何? 嫌なの?』

 「嫌というより、理由が気になって......窮屈じゃないの?」

 『僕、文字を追って読むの嫌いだし......ここにいたら内容が勝手に入ってくるから。そ

れに、案外居心地いいんだよ』

 「ふ~ん......そうなんだ」

 別にいいんだけど。なんか、キモ――

 『いいよ! 出てくから!』

 ピリッとした痛みの後。目を開くと、目の前で死神が床にはいつくばっていた。

 「あ~......――やっぱり慣れない」

 死神はよいしょと重く立ち上がり、苦しそうな顔を私に向ける。

 もはや懐かしく感じる。

 黒装束にハイヒールの奇抜な姿の死神。

 「どうせ時間かかるでしょ?」

 「うん」

 「お風呂、入ってるから。読み終わったら教えて」

 「うん。分かった」

 短くやり取りを済ませ、死神は怠そうにお風呂へと消えて行った。

 それを見届けて、ようやく。

 私は広げた原稿用紙に目を向け、読み始めるのだった。

 

 結論。

 『病める夢』という小説。面白くはあった。

 詳しくないんだけど。ジャンルとしてはミステリー物の純文学的なものだった。

 どこかリアリティがあって、ジメジメと陰気な雰囲気で続く物語は、どこか引き込まれ

るものがあって、自然と感情移入してしまうが、でも――

 「最後は出血死、か......」

 主人公は最後、動脈を切って死ぬ。

 その間、1秒1秒の感情の変化が細かく描写されていて、つい。

 吐き気が、頭痛が襲ってきて、気怠くなる。

 ......でも、全部読み切った今でも。心のどこかに芽生えたままの違和感は、抜け落ちて

はくれなかった。

 「............何なんだろう」

 やはり、どの原稿用紙にも血が飛び散っていた。

 なのに、『病める夢』の内容は完璧に読めてしまう。

 ――計算して書いたとしか思えないし。血を飛ばしたとしか思えない。

 それに。

 「血の裏にも、文字が見えるね――」

 原稿用紙を1枚。照明に照らして透かしていると、後ろから音葉の声が聞こえてくる。

 この部屋で聞こえる筈のない声に、私は驚いてソファから飛び降りる。

 同時に、お風呂場の方からバシャバシャと、明らかに動揺した音が聞こえてきた。気が

する。

 「ぷぷっ――りっか、おどろきすぎ」

 この貧血気味の離し方......なんで。

 「お、驚くに決まって――」

 「読み終わった? これ」

 音葉がソファの原稿用紙の束を手に、質問してくる。

 「ん? うん」

 「ふ~ん......さっきも言ってたけど。これだけ汚れてて、ちゃんと読めたの?」

 「うん。読めたよ」

 「そっか......あのね、りっか」

 「ん?」

 音葉の表情が打って変わって真剣なものになる。

 「関係あるか分からないんだけど。多分、この『病める夢』を書いた人の死んだ原因に、

その出血、関係ないと思う」

 「......どうして?」

 「部屋にはもう死体が無かったから、あくまで想像なんだけど――」

 「うん」

 音葉が息を呑み、少ししてからゆっくり続ける。

 「あの後、改めて部屋に入ってみたら、これ見つけたんだ――」

 ポイっと音葉が私に投げてきたものは、クシャクシャに丸められた、これまた原稿用紙。

 だが、今回のものは、他のどれよりも明らかに汚れていて、とても読める代物ではない。

 「これ――」

 「さっきみたいに透かしてみて......読めるから」

 もっとも、自分は読めないけど。と、音葉は肩をすくめていた。

 「分かった」

 言われた通り、丸まった原稿用紙を広げて透かして見る。

 それには、こう書かれていた。

 『この子は――この作品は。作品としてこの世に残らないだろう。これを読んでいる君

にだけ伝えたい。人は酷く脆く簡単に死ぬ。故に儚く、故に――良いのだ。この作品の行

く末を見届けられないのは辛いが、それ含め、この作品であり、歴史なのだ。刻むのだ。

もし仮に君が死にたいと、そう思っているのなら、好きにしたらいい。だが少なくとも、

この町で。この地獄で、死ぬことは推奨しない。むしろ、生きてみるといい。そうして生

きていると、今ではない。そう気付くときがくる筈だ。色々な縁に巡り合い、色々な事を

知るだろう。勿論つらい経験もあるだろう。しかし、それ含め、君の人生だ。経験だ。故

に、作品なのだ。最後に。君に僕の死因が分るだろうか。仮にそれが分かった時。その子

は君の中で更に輝くはずだ。その子のことを、よろしく頼むよ。ではな』

 

 ......考えても分からない。

 『病める夢』を透かして見えた文字列に、全く意味はなかったし......多分、残した手紙

を透かすというヒントだったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 そしてすぐに、考えるだけ無駄だって、勝手に納得した。

 明日の朝に。部屋に行ってみようって、思ったよ。

 そうでもしないと、心の芽が抜けないし。それに――

 「なんか、ムカつくね」

 浴槽に浸かっていると、その横で髪を洗う、もこもこ泡アフロ状態の音葉が呟く。

 「偉そうにさ、語ってるけどさ、自分が自殺しちゃってるじゃんよ! ねぇ⁉」

 ......ねぇって、言われても。

 この人の作品は、それで完成したのだろう。

 結局、死因自体は分かってない。

 『病める夢』を書いている時から出血していると考えれば、出血性ショックなのだろう

か。

 「とにかく! りっか、明日も暇でしょ⁉」

 もって......そうだけど。

 「明日、竜登門、行こ!」

 「竜登門?」

 名前を見るに、普通の地名みたい。

 「うん。綺麗な滝なんだよ! 私がこの町で、一番好きな場所!」

 「......そっか」

 滝、か......あまり、いい予感がしないのだけれど。

 それでも――

 「行こうか」

 と、言わざるを得ない、キラキラした目をしている。

 「――うん!」

 ピアスに戻った死神が明確に煩くなるが......否とは言えないでしょうよ。

 

 お風呂を上がり、浴室で着替え、現在。

 音葉の髪をドライヤーで乾かしてあげている。

 本人曰く、自分じゃ乾かせないし、した事ないらしい。

 んな訳。とは思うが。

 鏡に映る音葉が目を瞑って気持ち良さそうなので、別にいいか、とは思うんだけれど。

 『この子、大丈夫なの?』

 分かんない。

 けど――一見、大丈夫じゃない。

 不自然な厚化粧の下は、こうなっていたのか......。

 深い目の下のくまと、腫れた瞼。それに、前髪が浮いた時に見える、こめかみの痣。

 叩かれた、というよりは。自分で叩いたような跡。

 あんまり見るのも、悪いか。

 手櫛で髪を整えて――

 「終わったよ」

 「うん! ありがとう!」

 鼻歌交じりに、リビングに消えていく。

 どうやら音葉は、今日ここに泊まっていくつもりらしい。

 本人は、夢橋さんには了解を貰ったうえで、部屋の番号を聞いて来たと。

 そう言っていた。

 『六花、さっきの話信じてるの?』

 「......信じるも何も」

 言われるまで、疑うということすら忘れていた。

 『他の死神憑きとは――あ~いや。』

 「......? どうしたの?」

 『何でもない』

 「......そ」

 『それより、早く戻りな』

 「......うん」

 

 リビングに戻ると、ダイニングテーブルで足をぶらぶら、暇そうにしている音葉と目が

合う。

 指についているリングを、くすぐったそうに撫でている。

 「やっと戻った」

 「うん」

 いうほど時間は経っていないと思うんだけれど。

 「これから、どうするの?」

 「もう寝る」

 「えぇ⁉ 何で! 折角の、お泊り会なのに!」

 「お、お泊り会......?」

 「そうだよ! したことある?」

 「う~ん」

 お泊り会、ねぇ。

 思い出せる限り――

 「宿題写され会なら、何回か」

 「何? その地獄の会」

 文字通り、私が済ませた宿題を丸写しされる会だが。

 「うん。まぁ、無いってこと」

 特段、思い出したい記憶でもないし。

 「そっか」

 予想通り、会話は簡潔に終了する。

 音葉はぽわぽわした能天気な印象の女の子だが、凄く察しがいい。

 友達が多いタイプだ。私とは全く違う。

 私は、色々考え尽くした挙句に、間違えるタイプ。

 「じゃぁ、もう寝る?」

 気遣わしげな音葉の表情。

 が、私はそこで別のことを考えていた。

 ひょっとしなくても、音葉は私と一緒に寝る気だ。

 でも、あの狭いベッドだ。音葉が死神より細いとはいえ――

 『僕より細いからなんだよ!』

 「うるさ!」

 「......え? ど、どうしたの? 私、なにか、した?」

 「あ、っと......ち、違うから......音葉のことじゃなくて」

 音葉の目がうるうると揺れている。

 『六花が良くても、僕は絶対に嫌だからね!』

 いやいや。私だって、狭いシングルベッドで添い寝とか、考えたくない。

 音葉はいい子だけど、そう言う事じゃない。

 『その女はどうだっていいんだよ!』

 どう考えたって小声でも聞こえるのに、どうして大声で叫ぶのだろう。

 きっと、今。私の顔はとんでもないくらい強張っている。

 『そいつ、死神が憑いてるだろ⁉ そんな奴の隣で、絶対に寝たくない!』

 つまり、死神と添寝になるのが嫌、と。

 『そういうこと』

 そりゃ、そうだよ。私も嫌だし。

 『じゃぁ断って』

 って、言われても。

 あの目を見てください。

 誰が断れるのでしょう。

 『断るの!』

 はい。

 「やることがあるから、先に寝ていいよ」

 その言葉に。

 音葉は少し驚いた顔になり、考え始め、そして。

 ボンッと音が出そうなくらい、急に顔を真っ赤にして立ち上がり。そして――

 「わ、わわわわ、わかりましゅた!」

 とか言って部屋を出ていく。

 私は、その一部始終を黙って目で追うことしか出来ない。

 道中「じかんさ」とか「よばい」とか、意味の分からないことを呟いているのが聞こえ

てきた。

 まぁ、しないけれど。

 ......今日はもう、音葉と会わなくて済む。

 そう思ったら、凄く気が楽になってくる。

 どうしてだろう。音葉は、悪い子じゃないんだけどね。

 「――僕は、平気なの?」

 うわ......びっくりした。

 いつの間に戻っていたのか、死神が、さっきまで音葉が座っていた椅子の上で、胡坐を

かいていた。

 「死神には、気を遣わなくていいから」

 「むっ。なんでだよ」

 なんでって言われても......どうしてだろう。

 「......さぁ?」

 「なんだよそれ」

 死神の顔がぷくっと膨らむ。

 ......面倒くさい。

 「日記とペン、貸して」

 「......へ~。書くんだ」

 「............何?」

 「いや~? 別に~?」

 絶対別になんて思ってない死神は、リボンを解いてペンを、懐から日記を取り出す。

 「今日は大丈夫そうに見えたからさ」

 死神の投げた日記とペンが、私の手の上にスポッと収まる。

 人が1人、目の前で殺されたんだけどね......。

 それに、大量の血液も見た。

 まぁでも。

 正直、心労はそこでもない。

 そんな自分が、分からない。なんならちょっと怖い。

 人の心が、薄れているみたい。

 だから書きたいっていうのもあるし、それに――

 「1度書きだした日記を、毎日書かないって――」

 「............」

 「変だと思わない?」

 「............」

 「例えば、1度作り出したプラモデルとか、パズルとか。1回やり出した宿題とかクロ

スワードとか――」

 「............」

 「長期的なものだと、それこそ日記だったり、イラストや本、骨董とかの収集とか......

他にも、好きなアーティストとか芸能人の推し活とか――」

 「もういいよ! どれもこれも分かんないから! ......てか、察しろよ!」

 「あ~。えっと......」

 確かに、今の死神は苦虫を嚙み潰したような顔で、今にも吐きそう。

 でも――

 「分かりやすく説明したと思うんだけれど」

 「......そういう所!」

 「え?」

 「六花に友達がいない理由だよ!」

 グサ!

 「記憶を遡ってみても、六花が友達に激長講釈を垂れて嫌な顔されてるシーンが何回も

あったからね?」

 グサグサ!

 痛い......痛すぎるよ。

 日本刀で刺された上に、それを上下にぐりぐりされている。

 あぁ......こういう所か。

 「数年前からは無意識に自制しているみたいだけど、それは仲のいい友達がいなかった

からなんだろ⁉」

 ザンッ! と甲高い音。

 今のはロンギヌス。完全に殺しに来ている、この死神。

 「もう、やめてください」

 気がつけば、四つん這いで床に這いつくばっていた。

 「ふんっ。分かったならいいんだ。世間知らずの僕を虐めるのはこれ限りね!」

 「わ、分かりました」

 虐めた覚えはないんだけれど......だめだ、反省しよう。

 「さ、早く書いて寝よ」

 顔を上げると、ポンポンと自分の太ももを叩いている死神が――

 「絶対嫌だ」

 私は立ち上がり、死神とは対面の位置に腰かける。

 すると死神は「むぅ」と、これまた怒った素振りを見せて椅子から立ち上がる。

 が、私はそれを無視して日記を開く。

 昨日書いたであろうページを開いた時――ザァーっと、昨日の記憶が――

 「アブッ」

 急いで日記を閉じる。

 と、同時に。

 ドカンと威勢よく、私の脚の上に。例の如く死神がやってくる。

 「昨日書いたとこ、開いちゃったんでしょ」

 「........................」

 「ちゃんと、しおり紐を挟んでおかないからー」

 「......そんなのあるって聞いてない」

 「当然。話してないんだから」

 クスクス笑う死神。

 全く笑えない。

 「ま、僕に任せてよ」

 そう言うと、死神は前を向いて日記をパラパラとめくり始めた。

 「そういえば、今日はどこで寝るの? まさか――」

 「ないない......普通に椅子で寝るよ」

 「あっそ......じゃ、僕もここで眠るよ」

 え? 何で?

 「てか、昨日も思ったんだけど、良く椅子で寝れるよね」

 「座ったまま寝るのに慣れているから」

 「そんなの、慣れるもんなの?」

 「まぁ、事実――」

 「寝れてたからね~――お、見つけた」

 死神の頭頂部越しに日記を見ると、特段記憶が流れてくることも無く。

 真っ白というには少しくすんでいる日記のページが広がっていた。

 「さ、早く書いちゃってよ」

 「うん......分かっているんだけれど」

 「まさか、邪魔?」

 「........................うん」

 ほんのちょっと、言い淀んだだけなのに。

 小さい寝息が、耳に届いてくる。

 す~、す~。じゃ、ないんだよなぁ。

 仕方がないので。

 両腕を死神の脇の下を通し、顔を肩に乗せる。

 意識がボーっとしてくるが、その中、必死に日記に今日のことを書き留める。

 ......近くで人が眠っていると、何でこうも眠くなるんだろう。

 長距離運転の助手席の人は全力で起きてあげてね。

 

 翌朝。

 「どうして!」

 私は、最悪の目覚まし音で叩き起こされる。

 「昨日、ずっと待ってたのに!」

 「......」

 ぼんやりとした視界の先で女の子がぷんぷん怒って叫んでいる。

 その子が音葉であることに気がつくのに、結構な時間を要することになる。

 ついでに、右耳もチクチクして。ストレスが凄い。

 「ほら! 見てよ!」

 「ん......」

 音葉が、昨日にも増してクマだらけの、自分の目を指さす。

 「目、ギンギンでしょうよ!」

 「......あぁ、うん」

 確かに目はギンギンだ。けど、それよりもクマの方が心配だよ。

 「ごめん......用事が......それで、寝落ちを......」

 もう慣れつつある、すぐ気がつかれるような嘘。

 嘘って吐くまではいいんだけれど。その後がかなり心苦しい。

 これも、慣れてゆくものなのだろうか。

 それにしても――

 「そっか」

 と、音葉は疑うことを知らないし、続けて

 「今日からは、りっかの用事が、終わるのを見届けてから、寝ようかな」

 とか言う。

 あれ? 今日も泊まって行くつもりなの?

 おかしいな......音葉には――もとい、私にすら。そんな権利無いと思うのだけれど。

 それでも――

 「そうだね」

 と、短く微笑み返す。

 何故か、私にも分からないが。

 直感で、音葉とは長い付き合いにならないと、どこかで感じていたのだろうと。

 今になって思う。

 「じゃ、早く支度して、登竜門へ向かおう! えいえい――」

 その言葉の続きは、私ですら分かる。

 なのに、音葉は右手を沈めたまま動かない。それどころか、私に目配せをして、何かを

期待している。

 何を期待しているか、なんて。勿論分かっている。

 だけど、やっぱり――

 「「おーーーー」」

 恥ずかしいんだよね......きっと今、顔、真っ赤だよ。

 

 それから2人、それぞれに身支度を整えて、宿舎を出る。

 数分後に現れた音葉の顔は真っ白で。勿論違和感はあったが、何も言わないでおいた。

 それに――それ所では無かった。

 「......雨」

 宿舎出入口。庇の下で見上げる空は、渦巻く黒色の雲と、それを反射している大粒の雨

で彩られている。

 風は無く、雨の独特な匂いが漂い、暑くも寒くもない。

 少し霧がかっていて、視界が悪い。

 「雨、嫌い?」

 雨音にかき消されないよう、必要以上に音葉が声を張り上げて質問してくる。

 雨は、情緒的で、嫌いじゃない。

 でも、雨の日は決まって悪いことが起きる。

 思い出したくもない記憶が過る。

 「.........どっちでもない、かな」

 声を出し、振り切る。

 「そっか......あ、そうだ」

 「ん?」

 「りっかは、もう、気付いてる? この町、基本、天気悪いから。慣れるまで、大変か

も」

 「......そう」

 静かに空を見上げる。

 確かに、この町に来てからずっと、真っ暗な町だ。

 でも、この町に晴れは似合わない。

 だから――

 「その方が、いいと思う」

 「え? いいって......何が?」

 暗い雲は、町の暗い部分を覆い隠し。

 雨は、それを洗い流し。

 雪は、それらを彩ってくれる。

 なんて、詩的な事を言ったら、気持ち悪がられるだろうから。

 「何でも」

 「............んん? そっか......まぁ、なんでもいいや」

 ふと、横を見ると音葉と目が合う。

 音葉は私の手を優しくとり。

 「行こっか」

 と、笑う。

 雨の中、どう移動するか考えていた自分が馬鹿らしいくらいの、満面の笑み。

 まぁ、今更濡れたところで――

 「うん」

 「よし!」

 雨に打たれながら、私たちは。

 静かに、竜登門を目指して歩いた。

 

 海岸線を過ぎ、1山超え。

 歩仁通りの不気味な門を通り過ぎ、もう1山超えた先。

 3山目の登山口に『五竜杜』と書かれた、木製の看板が斜めに突き刺さっていた。

 山で見る看板はどれも不気味なものが多いイメージだが......これはそれに磨きをかけて

いる。

 「ここって――」

 その看板の先に、1本の細道が暗闇へと伸び続けている。

 顔を上げ、その先を見つめてみる。

 その瞬間。緑と雨の匂いが混ざった清楚な匂いが鼻腔をくすぐる。

 草木は、目に映るどれもが、生き生きと輝きを放ちながら震え、私たちを雨から守って

くれている。

 「あ、そうそう。竜登門は、五竜杜の中にある滝なんだよ」

 「ごりゅうのもり......そうなんだ」

 今からこの道を歩くのか。

 そう考えると、気が滅入ってくる。

 だからこそ――

 「行こう」

 「え? あぁ......うん。でも――」

 歩き出そうとする私を、音葉が引き留めてくる。

 「休憩とか、大丈夫?」

 言われて考えて見ると確かに。 

 2つの山を休みなしで歩いた後に、続けてもう1山登るのは命知らずかもしれない。

 「私は大丈夫。ごめん......音葉は?」

 「私は、ほら――全然、大丈夫だよ!」

 いつも通り騒がしい動きをして、音葉は元気そうだ。

 「ほら、早く行こ!」

 私の手を掴んだまま、音葉は前を歩き出す。

 できれば私も、手を掴んでいたかった。でも、道は人1人通れるかくらいの狭い道で。

 互いの手はゆっくりと離れ、私は音葉の後ろにくっついて歩く。

 その直後に右耳がチクリと痛むが。それが何を意味しているかを、この時は考えないで

おいた。

 

 五竜杜の登山道は、今日歩いて来た道のどれよりも過酷なものだった。

 しばらく整備されていないようで、道という道はなく、どこも獣道のようで、飛び出て

いる石の上を、飛び飛びで歩くようにして前に進み続ける。

 しかし、道中。川のせせらぎも聞こえてくることは無く、竜登門と呼ばれる滝の気配は、

一切しない。

 そろそろ、絶望し始める時間帯だ。

 一方の雨は止まずに振り続けているようだが、その正体を知らせてくれるのは、木々に

当たる音とその小さな飛沫だけ。

 薄くかかった雨霧は、五竜杜を包み込み、その存在自体を隠したがっている様で、より

神秘的に、より空想的に感じられ、自分がどこから来たか、時折分からなくさせられる。

 正直、歩く度に、進む度に、怖かった。

 出来ることなら、もう、進みたくはなかった。

 何か嫌な予感がして、身震いが止まらない。

 「りっか......ごめん」

 「――大丈夫?」

 足を踏み外したのか、倒れる音葉を何とか支え、石の上に座らせる。

 顔色はメイクのせいで分からない。ただ、体が小刻みに震えている。

 ......忘れていた。

 私の体は異常だ......音葉はちゃんと気温を感じるし、動けば疲れる。

 歳の近い女の子なら、当然。

 「休もうか」

 「ううん。大丈夫――もう、夕方も近いし......むしろ、急がないと」

 音葉は立ち上がり、そう言うが......見るからに無理をしている。

 「......ここから、まだ距離はあるの?」

 「どうだろ......もう少しだと、思うけど」

 「そう......」

 森の中だと、現在地も目的地も良く分からなくなるから......。

 でも、周りを見てみても、滝のようなものが無い事だけは分かる。

 まだ、距離はありそうか。

 「ふふっ――」

 そんな心配が顔に出ていたのか、私に体重を預けたまま、音葉が小さく笑って続ける。

 「じゃ、あそこで休んでいい?」

 「ん?」

 音葉が指さす先。

 そこには、人が入れそうなくらい大きく、背の高い傘のような葉っぱがある。

 下は石畳みになっていて、座れそう。

 「分かった。歩ける?」

 「うん! 大丈夫!」

 2人きつく並んで、ゆっくり歩く。

 手の届きそうな距離なのに、凄く長く感じたその場所に。音葉をゆっくり座らせる。

 石畳は勿論濡れている。

 でも、そんなこと。今となってはどうでもいい。

 傘の上に大きな雨粒が落ちる度に、頭頂部に柔らかな衝撃が走る。

 風切り音も無く、ただ、無言の時間が流れていく。

 そんな折、音葉がゆっくりと、口を開く音が聞こえる。

 「......ごめんね――」

 消え入りそうな声が、森の中へと散り散りなって溶けていく。

 静かに続きを待っていると、少ししてまた、口を開く音が聞こえてくる。

 「雨の日に、来るんじゃなかった」

 音葉の足元の水たまりがパシャパシャと音を立てて、どうやら少し怒っている。

 「こんなに、遠いなんて......あの時も――」

 続きを促すだけで、ちょっとでも触れてしまうだけで、切れてしまいそうな程の細い声。

 故に、なんと返せばよいか、分からない。

 私はいつもこういう時。次の相手の言葉を待つのだけれど、今度は――

 「雨、止むといいね」

 なんて、良く分からないことを口走ってしまった。

 結構急ぎ目に、恥ずかしくなってくる......後悔。言わなきゃよかった。

 膝を抱えて頭を埋める私の肩に、ストンと軽い何かが乗ってくる。

 あえて、その正体を見る必要もない。

 私は、その何かの感触と、感じない温度を頼りに、頭を寄せた。

 

 しばらくそうしていると、意識が遠のいていく。

 寝るわけにはいかないと、必死に意識の糸を繋ぎとめる。

 その糸を、手繰り寄せて、手繰り寄せて......一度閉じた目を、力一杯に開くと――

 「あ、起きた」

 「ん――」

 「りっか、おはよう」 

 チュウ、チュウと。

 人差し指を咥えた音葉が、私を覗き込んでいた。

 そんな音葉を真っすぐに見据え直し、違和感を覚えた口元を手で拭う。

 涎を垂らすほどの熟睡をしてしまっていたらしい。

 目を合わせたまま、視界の端に映る、音葉の人差し指に気が移る。

 チュウ、チュウ――と。......一体何を。

 訝しんでいると、それが伝わったのか。

 音葉は口から指を離した。

 口と指とをつなぐ糸を見ていると、何とも言えない気持ちになる。

 すると、そのままの指を私の方に近づけて――

 「舐める?」

 「......舐めない」

 「そっか、残念」

 絶対にそんなことを微塵も思っていない音葉は、また指を咥え、直ぐに。よっと、言っ

て立ち上がる。

 それを目で追いかけて、ようやく。周りが真っ暗な事に気がつく。

 月明かりも木々に吸われ、手を伸ばした先すら見えない暗さ。

 それなのに何故か、音葉の輪郭と表情だけは認識することができる。

 暑い日の陽炎みたいに、幽霊みたいに、ゆらゆら揺れている。

 「もう遅いし、帰ろ」

 音葉の声にハッとし、気がつくと。差し出された手が視界を埋め尽くしていた。

 

 「ごめんね。私のせいで......」

 下山中。終始無言の音葉が気にかかり、そう声をかける。

 しかし音葉は、本当に何も気にしてないみたいに、ケロッとした表情で、首を横に振る。

 「大丈夫だよ。そもそも、休憩したかったのは、私なんだし......それに――」

 グフフと不気味に笑い

 「いいものも、見れたしね」

 と、満面の笑みを浮かべる。

 ううん。いいものって......。

 「なに? それ......」

 「ふふ、秘密」

 「なんで」

 と、訝しげな目を音葉に向けていると。

 「あ! りっか、音聞こえない⁉」

 そう音葉が叫ぶ。

 「音?」

 急に立ち止まり、目を閉じ、耳を澄まし始めた音葉。

 私も最初は、話をはぐらかしたいだけなのだろうと、信じてはいなかった。が、少しし

て。

 さらさら、ポチャ、ポチャと賑やかな音が聞こえてくる。

 「......川?」

 「うん、多分」

 何で、川の音が......?

 登山中、そんなもの聞こえなかったし、見えなかった。

 ......暗闇で視界が悪くなったから、聴覚が鋭くなっているだけなのだろうか。

 確かに、その音は大きくなっていく。

 すると、また。

 「あ! りっか!」

 と、またしても耳元で音葉が叫ぶ。

 驚きのまま音葉の方を見ると、どこかを指さして、鯉みたいに口をパクパクさせていた。

 何をそんなに驚いているのか。

 私も音葉と同じく、指の先を振り返ってみる。と、そこには――

 「滝だよ! りっか!」

 「――――っ」

 滝だ。確かに。道を間違えたという訳でも無いのに......滝が、目の前に。

 それに何より、暗闇の中に浮かぶ楽園かの様に、さもそこにあるのが当然かの様に佇ん

でいる。

 薄く脆い光のローブを纏い、木々の隙間から、滝の直ぐ目前に横たわる、今にも崩れそ

うな朽ち木が目に入る。

 その先の水たちは互いにぶつかり合い、多くの空気を含んで白く泡立っている。

 きっと、そこには奈落が広がっている。と思う。

 まぁ、それもこれも――。

 

 気がつくと、2人して滝の前まで進んでいた。

 帰り道を間違えたかとか、道を外れて怪しいとか、全く持ってそんな考えにも至らず。

 森に入り、草根をかき分け、柄にもなく無我夢中で歩いて。

 隣の音葉は、息も荒く。子供のような表情で、とてもワクワクしている様子。

 私も今は、そんな表情になっているのだろうか。

 「りっか! ここっ、ここだよ!」

 「うん......そっか......ここが――」

 「「竜登門」」

 「だよ!」

 サラサラと音を立て、大きな口器を避けながら、水は直角に消えていく。

 一体どこから光を受けているのか、水面はキラキラと輝き、揺れている。それに付随し

て、鳥のさえずりも聞こえてくる。

 まるでお日様の下にいる様で、時間の感覚がおかしくなりそうだった。

 ただでさえ自然に触れている間は、時間という概念が曖昧になることが多いのに。

 周りの森は暗く、滝は明るく......常識では考えられないが......数日間で、この町ならき

っと、あり得るのかもしれないと思わされて、あまり驚かない。

 それよりも――

 「何をしているの?」

 音葉の行動に驚かされていた。

 「ん? っ――昔ね、こうやって! んしょ。木の上で、滝の下を眺めた、ことが――」

 ズルっと、朽ち木の上を滑り降りてくる音葉のお尻を、川に足を浸けないよう、岸ギリ

ギリから前のめりに支える。

 体が伸びきって攣りそうだ。

 「ごめんね、ありがと」

 腕にかかる重みが消え、音葉のお尻が離れていく。

 どうやら、諦めないらしい。

 少なくとも川の勢いは弱いとは言えないし、朽ち木なんていつ折れてもおかしくない。

 正直こんな状況を理解した上で、朽ち木の上に登るなんて正気の沙汰ではない。

 なのに――上に立つ満足げな音葉が、その場で屈んで手を伸ばして来る。

 仮に手を取ったとして、2人して落ちそうなのだけれど。

 ............ううん。首だけを横に振る。

 音葉は悲しそうに身を引いていく。

 それを見届けて、私は、朽ち木に手をかけた。

 

 遮るものがないためなのか。朽ち木の上に立つと、強い風が服を押し上げて通り過ぎて

いくのが分かる。

 普通に立っていると風に煽られ、滝の下に落ちそうだったので、私達2人は並んで朽ち

木の上に座り込む。

 久々に激しく痛む右耳を撫でながら、滝の奥を見つめる。

 と、言っても。暗闇が存在しているだけで。

 さっき思い切って下を覗き込んでみたが、そこも暗闇だった。

 何故かこの朽ち木の周辺だけが、妖精の憩いの場のように光り輝いている。

 川のせせらぎも、不思議と囁き声や笑い声に聞こえてくる。

 少し、詩分になり過ぎた。

 耽るのも、いい加減にしよう。

 風を感じ、目を瞑る。

 「............思い出した」

 「え?」

 そうしてしばらく無言でいると。隣の六花が初めて聞くような低いトーンで呟いた。

 急な事だったので、音葉の暗い横顔を見て、何と声をかければいいか分からない。

 何を、思い出したのだろう。

 そう、聞くまでもなく。

 闇の風を纏いながら、音葉のか細くも弱々しい声が届いて来る。

 「............お父さんと、お母さん......それに――」

 音葉の言葉の続きを待つ。

 その時だった。

 「えっ――」

 「っ音葉――!」

 「りっか!」

 私の伸ばした手は、滝の下へと落ちていく、音葉の手には届かなかった。

 それを遮る、何かがあったから。

 「くっ――音葉! 音葉!」

 朽ち木から落ちることも厭わず、体を出して滝の下を見つめる。

 必死に探したし、暗闇に手を伸ばしたりもした。

 むしろ、私も落ちていいと、そう思っていたのに。

 「危ないよ! 落ちるよ! 六花っ!」

 ビリビリと音を立てて裂けるワンピースを辿って、死神の手が私の体を抱え込んでくる。

 イグサの匂いが鼻腔いっぱいに広がって、焦燥や恐怖を押し退けて、不思議と落ち着い

てくる。それがどうしても怖くて。血が出るくらい一杯に手を握りしめて。

 「あなたが! あなたが音葉を‼‼」

 勢いよく起き上がると、私の体を支えていた死神が川に落ちた音が聞こえる。

 でも、そんなことより。

 私の手を遮ったその正体――音葉の死神に掴みかかる。

 「どうして――何で――」

 「落ち着けよ、嬢ちゃん。破けちまう」

 音葉の死神の力は、私に憑いている死神とは比べ物にならないくらい強く。いとも簡単

に引き剥がされる、が。

 黒装束の一部を千切り取ってやった。よし!

 なら、もう1回――

 「おっと、動かない方がいい――お前の死神は分かってるみてぇだがな」

 腕を振り上げた滑稽な姿のまま、体が動かせなかった。

 手に持っている布だけが風に揺らされて動いている。

 「1つ、教えておいてやる――」

 死神はいつの間に持っていたのか。青白く小さな玉を指で遊びながら続ける。

 「死神憑きが、他の死神に触れると――その度に寿命が縮んで行く......最初は1年で済

むが、次からは倍々式に増えていく――自分の死神に感謝するこったな」

 死神は言い終わると、小さな玉を上に投げ、そして――噛み砕き、飲み込んでしまった。

 『りっか!』

 小さな玉が砕ける時の、何とも言えない――悲鳴のような何かが......耳から離れない。

 『りっか!』

 耳を......塞ぎたい。

 『りっか――』

 この声は。

 『りっか、おはよう』

 「音葉――」

 「......アイツは死んだ。今噛んだのは、アイツの魂そのものだ。跡形もないさ」

 何処から取り出したのか、爪楊枝で歯茎を抉りながら――とんでもない事を。

 言葉も出ない......死神って生き物は、とんでもないクズだ。

 そんなのが――私にも......。

 「あぁ――――最高だ............あの時『魅歎岬』で直ぐに殺さず、泳がせておいてよか

った..................お前は、素晴らしいスパイスだったって訳だ――」

 鬱陶しい......。

 この町に来て、色んな人の死に触れて......初めて怒りを感じた......ここまで怒った事な

んて......ましてや人のために......今までにない経験だった。

 私が睨みを利かせても、死神は目を閉じて気分良さそうに浮いているから意味がない。

 「そうだ、今は気分がいいから昔話をしてやろう......音葉の、この滝での昔話だ」

 そうして死神は流暢に、気分良い声音で話を続ける。

 その一挙手一投足、全てに腹が立つ。

 「アイツが3歳の頃の話だ。アイツの両親は、自営の会社の経営難が原因で出来た借金

が返せなくなり、この町の噂を聞き、何も知らないアイツと愛犬を連れ、そして、この山

を訪れた――」

 もう、話の察しはついたから......続きを聞きたくない。

 「それからは、今日のお前たちと同じ......諦め、帰っている時にこの滝を見つけ、そし

て朽ち木の上に立った」

 死神は口を尖らせる。

 「『私達、きっと地獄行きね』『あぁ、だが......音葉、だけは』『『ごめんね、音葉』』......

グプッ、グハハハ! 自分勝手な奴等だ」

 死神はひとしきり笑うと、醜い声で続ける。

 「その後、一家全員で飛び込んだ......俺が憑いていたアイツと、愛犬以外な!」

 ムカつく......その時から音葉といて......今日まで、情の1つも湧いていない。

 「愛犬はな、アイツに俺が憑いているのが分かってるみたいに吠えてきた......だから、

この手で突き落としてやった......そして、アイツの記憶を、奪ってやった」

 私の体が、少し動く。

 もう少しだ......もう少しで、このクズを......殴れる......殴り飛ばせる。

 「それから今日まで、アイツは俺の意のままに動き続けた......魂を上質なものにするた

め、色々恋もさせてやった――あぁ、面白かった。俺の誘導にも気がつかず、素直に従っ

て、直ぐに人を好きになる奴だった......そんな自分を怖がって、一日中、寝もせずに泣い

ていたなぁ......傑作だったぞ――お前、アイツの化粧がやけに濃いとは思わなかったか?」

 思ったし、その下のくまも痣も知っている......何が面白いのか、さっぱり分からない。

 「アイツは、自分を自分で殴っていた......『ばか! ばか!』ってな......お前の時は、

そんなことなかったが......最も魂の質を上げてくれたのはお前だった......最高だよ......お

かげで俺は、大きく成長できた」

 成長......? こいつの何が、何処が成長していると......? こんな奴が成長して、何に

なるというのだろうか......?

 ......何でもいいか......そんなくだらないことの為に、音葉を――

 「殺したんだ!」

 堰が切れたみたいに体が動いた。

 構えたままの向きで、死神に向かって拳が飛んでいく。

 もう直ぐで殴れる......でも、殴ってどうなるのだろうか......?

 その時だった。

 「ウゥ~グルグル」

 「ッゥ――――――」

 犬の唸り声が聞こえたと思えば、その直後に目の前の死神が声にもならない絶叫を上げ

て飛び上がった。

 白くてもふもふの塊が、死神の足に噛みついていた。

 牙が深く刺さっているのか、死神がいくら足を強く振っても離れようとしない。

 「クッソ! お前は、アイツの犬! どうしてだ! 俺が―アイツが殺したはず――」

 「僕だよ! ――くそバカマヌケ!」

 突然、見知った死神が――私に憑いている死神が、川から跳ね上がる――右手には何故

か、トンカチを持っている。

 「ッ――その、右手のは......まさかっ! お前ッ!」

 「そうさ! 僕が!」

 「「死神喰い!」」

 「だよ! あと、アイツじゃなくて――音葉ちゃんだ!」

 私に憑いている死神が、右手のトンカチを思い切り振り下ろす。

 カン!

 音葉に憑いていた死神の頭に振り下ろされたトンカチから軽い音が鳴り響くと、直後。

 音葉に憑いていた死神が醜い顔を歪め、頭を基点にどんどんと丸く、小さくなっていく。

 そしてすぐに――黒く、丸い玉に様変わりした。

 私に憑いている死神は、それをひょいと掴んで、朽ち木の上に着地した。

 そして――朽ち木は脆くもれ去り、1匹と2人は川に沈み消えた。

 

 気がつき、目を開くと、白いもふもふの生き物が、私の顔をぺろぺろと舐めていた。

 何となくそれが私を助けてくれた気がして、上半身を起こしながらそれを撫でる。

 川の傍で、横になっていたみたいだ。

 「可愛い犬だよね」

 「............」

 「僕も、六花も。この犬に助けられたんだよ」

 「..................」

 「ねぇ、六花」

 「........................」

 「怒ってる?」

 「..............................」

 「フスン、フスン」

 ぺろ、ぺろと。

 くすぐったい。

 この死神は悪くない。むしろ助けてくれたし......。

 ......自分が、何に怒っているか、分からない。

 てだ、この焦燥も、怒りも、今口を開くと、そんな死神にぶつけてしまいそうで。

 ただ、口を利きたくないのも確かだから。

 ――しばらく、無視していようと思う。

 「............死神について、僕も詳しくは知らなくて――あぁ、えっと......嘘とかじゃな

くてね......僕、この世界に生まれてからまだあんまり長くなくて......あ、っていっても、

人間基準だと結構生きてはいるんだけどね――で、その――」

 聞いてる? と言わんばかりに覗き込んで来るが。

 そっぽを向いておこうと思う。

 「死神の目的は、自分が憑いた人間を殺して、その魂を食べる事......それがなにになる

のか、僕も分からないんだ............僕は、それを食べた事が無いから」

 「............ふ~ん」

 あれ、声が漏れた。

 疑いが前面に出過ぎた。

 死神は目を薄くして不機嫌そうだ。

 「僕は、自分がどう産まれたのかも知らない......だけど、生まれた瞬間からたった1つ

だけ――『人を憑き、殺し、成長し、強くなれ』って――この言葉だけが、ずっと脳内に

へばりついて離れないんだ......人に取り憑いている時も、今も――それで、僕はずっとそ

れが嫌で――このトンカチで死神を殺しては食ってたんだ......そしたら、ね」

 「死神喰い」

 「むぅ............そうだよ! 気がついた時にはそう呼ばれてた――けど、別にいいよ。

今日の奴を見て、余計にあんなのの仲間になんてなりたくないって思ったから――死神喰

いの方がよっぽどましだ」

 死神が、トンカチをブンブンと振り回して滅茶苦茶危ない。

 私はその手首を掴む。

 犬がフスンと鳴く。

 「今まで、どのくらい食べてきたの?」

 「......どうだろ。今日の奴いれて、4だと思う」

 「全員、今日みたいなクズだったの?」

 「............クズの基準はさ。人に、よるから」

 「......そう」

 「でも、僕にとっては......大クズばかりだった」

 音葉に憑いた死神と、私に憑いた死神とでこれだけ差があるんなら......他の死神全員が

クズってことは、無いのかもしれない。

 実際に会ったことのある死神の数なんて知れているし......でも、1つ――

 「死神はさ」

 「ん?」

 「......私のこと、殺したいって思う?」

 「何を言ってるんだ! 思うよ!」

 「えぇ......」

 思うんかい!

 「あはは。勿論、嘘だよ。全く思わない――けど、六花」

 本当か知らないけれど。ふぅと胸をなでおろしていると、死神は真剣な声音に変える。

 「実を言うとさ、六花と僕はもう離れられないんだよ」

 「......え? どうして?」

 「音葉ちゃんや、他の死神に憑かれた人間は分からないけど......僕が憑いた人間はみん

な死んだ後、僕と一緒に居た記憶の中で生き続けることになるらしいんだ......それを犠牲

に、僕は次の人間に憑けるようになる......それが、魂を食べない代償なんだ」

 「......そういえばさ、前に憑いていた人間は、どうしたの? 殺したの?」

 「失敬な! 殺してないよ............僕は、殺さずに取り憑くのを止められるんだ......宿

舎の女いたでしょ? あの人も、前まで僕が憑いていたんだ」

 「じゃぁ、夢橋さんはずっと――」

 「僕と居た時の記憶の中で生きているから......生活圏はその範囲に限られる――脳があ

るから、新しく出会う人のことは、少しの間覚えてられるけど――死神は認識できないし、

行動基準は記憶通りにしかならない」

 「............そっか」

 「もう、合わない方がいいかもね」

 「............うん」

 どうしてか、なんて。聞く勇気もない。

 いやだ、なんて言う元気もない。

 急に、お母さんが、家が、恋しくなってくる。

 勝手な自分に、腹が立つ......落ち着こう。話を変えよう。

 「......そういえば、この犬はどうしたの?」

 「音葉ちゃんを助けようと思って滝の下に行ったんだけど......その犬しか助けられなか

ったんだ......暗闇の中にいたのが、その子だけだったから......多分、あの死神が言ってた

愛犬だと思う」

 「......可愛い」

 もふもふの奥から、つぶらな瞳が見える。

 綺麗な碧眼だ。

 音葉に似ている。

 それにしても――

 「大きいね......犬種とか、見た目で分からない?」

 「どうだろ......けど、動画で見るサモエドに似ている、気がする」

 「ふ~ん......サモエド、ね。じゃぁ、名前はモエだね」

 安直だなぁ......。それに――

 「元々、名前はあるはずでしょう?」

 「そうだけどさぁ」

 首輪とかは無いけど......死神の話の通りなら、最後くらい自由になって欲しいという願

いがあったのかもしれない。

 「なら――」

 「いいよ、モエで......嬉しそうじゃん――ほら!」

 フスン、フスン! と、嬉しそうだ。

 死神にマウントを取って顔中舐めまわしている。

 まぁ、なんだろ......犬の気持ちは分からないのだけれど......いいのかな? 多分。

 「モエ、か」

 ちょっと、そう呼んだだけで。

 次の瞬間には顔中堕液まみれだった。

 

 山を降り始め、振り返るとそこに滝は無くなっていた。

 川の音も聞こえない。

 私のヒールを無くした死神が「痛い!」と時折叫ぶ声が聞こえてくるくらい。

 ......ピアスになればいいのに。私に気を遣ってくれているのかもしれない。

 死神なのに、悪に染まり切れてない。

 暗闇の中だったが、モエが道を先導してくれるおかげで、何とも無しに下山することが

できた。

 これからの帰り道を考えると、少し億劫ではあるが......それよりももっとキツイ一撃を

喰らった後だからか、歩いている最中はむしろ楽ちんぷいぷいだった。

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