第4話 魅歎岬
朝。目を覚ますと、身体が不自然に重かった。
何か重い物が、脚の上に乗っかっている様な......。
そこで、また。昔を思い出しそうになり。
目の前にいるであろう何かに、思い切り抱き着いた。
ひんやりと冷たく、とても柔らかくて、触り心地が良くて、いい匂いのする抱き枕。
薄い意識の中で、自然と、抱きしめる力が強くなる。
「っ――うぅ」
吐息交じりの喘ぎ声が、耳元に――って。
「ごめん!」
パァっと晴れる、視界と意識。そして、直ぐに肩を掴んで死神の体を離す。
しかし、直後。
逆に、死神の方が私の体に抱き着いてくる。
「ちょっ――」
「んん!」
子供みたいに駄々をこねるくせに、抱き着く力は子供のそれじゃない。
色々疑問はある。
何で死神が私の上にいるのか、とか、何でしょっちゅう抱き着いてくるのか、とか......
でも、それよりも今は――。
こいつを殺す!
「って! ――だはっ!」
側頭部に一発。怯んだ所で額に一発。
2発頭突きをかますと、死神は背中から床に崩れ落ちる。
「って~~。何するんだよ!」
ぶー垂れる死神をよそ目に、私は机の上の日記を閉じ、帯を締めて立ち上がる。
「ごめん、昨日の事が曖昧で」
「え? あぁ......日記のせいでね」
私は1歩、ジリっと死神に近寄る。
「うん......だから、聞くけど。昨日、一緒に寝たっけ? こんな狭い椅子で?」
「うっ......あ! てかそれ、日記に書いて無いだろ! ――なんだよその目は!」
ジトっと死神を見下ろしていると、死神が勢いよく立ち上がる。
それでも、私には届かない。
死神は、とても小さいのだ。
それでも死神は背伸びして、何とか顔を近づけ、
「寂しかったんだよ!!」
とか言い出した。
「......えぇ」
なんだそりゃ。とは思うが。
1回だけ。数秒だけ。
ぎゅって、ハグして、直ぐ離れた。
「な、なんだよ......急に......」
「......ごめん。正直に言うと、昨日の記憶が本当に薄くて......死神と会った時のことと
か、海に行ったこととかは、その、風景で思い浮かんで、パッと分かるんだけど......なん
か、守ってあげたいって、思って......」
言っていて不安で、俯くと、丁度そこに死神の顔があって。
ボンッと顔が真っ赤になっていた。
「僕は―――僕は......六花を殺すために憑いた死神だぞ! っ―その顔やめろ! なん
か、六花、昨日と違う! 気持ち悪い! マジでキモイ! 消えろ偽物! 成仏! 成仏!」
ぷんぷん湯気を立ち上らせながら、死神は部屋から出て行った。
......確かに、なんかおかしい。
でもそれは、死神もだ。
昨日ことを思い出せないのが、初めての経験だから、なのだろうか......昨日の自分です
ら、よく思い出せない......おかしくもなると、思うよ......普通。
私は椅子に腰かけ、ため息を吐き。
そして、机に向き直り、日記の帯に手を――逆の手でその日記を持ち上げた。
曖昧な記憶の中でも、ふらっとよぎる、最悪のシーン。
これを忘れたくて、書いたんだ......振り返るのは、やめよう。
覚えるのも、忘れるのも......記憶というものには、苦痛しか存在しない。
それを再度認識させられた。
部屋を出ると、湯気を出したままの死神が、砂嵐の映るテレビを眺めていた。
何が面白いのだろうか。
分からないままにその死神の後頭部を見つめていると、テレビ左手にある、洗面所に続
く扉がガラガラと音を立てて開いた。
そして、そこから影が伸び、直ぐに、着物を着た女性が姿を現した。
......えっと......夢橋さん。か。
腕には、私の着ていた白いワンピースと、黒いパーカーの様な黒装束をかけている。
夢橋さんは、その黒装束を見て、どう思っているのだろうか。
誰のものだと、思っているのだろうか。
そんな夢橋さんは後ろ手に扉を閉め、顔を上げ。
そこで、私と目が合う。
私が若干キョドりながらも、小さく会釈をすると、夢橋さんは微笑み、会釈を返してく
る。
「昨日は良く眠れましたか?」
「はい」
久しぶりに、と言いかけて、口を閉じておく。
「そうですか。良かったです」
夢橋さんは小さく微笑み、やおらしい動きで移動し、ソファに2つの服をかける。
「お飲み物、ご用意致しますね」
「......はい、お願いします」
「はい。しばらくお待ちください」
夢橋さんがティーポットに水を入れ始めた所で、私はようやく動き出す。
目の前にあるダイニングテーブルの椅子に腰かけ、テーブルの上に日記を置いて、前の
めりに体重を預ける。
顔を腕の上で横に向け、死神を見ると、黒装束を着ていて、フードを被ってしまってい
た。
「昨日、お客様が訪れた海は『幾翆海』と呼ばれる海なんです」
急にはなしかけられ、驚いたが、私は「はぁ」と何とか反応を返す。
体を起こし、夢橋さんの方を向く。
きすいかい......幾翆海。名前を聞いたことは、全く無い。
でも、入ったことは――ある。
「あの海は、不思議な海なんです」
「不思議な、海......」
「えぇ、本当に不思議な――こわ~い海なんです」
夢橋さんが半透明なポットと、お皿に乗ったカップを、テーブルの上に置き、私と向き
合う位置に座った。
「どう、不思議なんですか?」
「はい。これは、あくまで逸話に過ぎないのですが――」
話が始まるが、私は夢橋さんの顔が見れず。
半透明なポットに、茶葉が溶け出し、オレンジ色の残煙を残すのを見つめる。
「先に海に身を投げた人が、後に身を投げた人に、過去の辛い記憶を押し付けて、そこ
でようやく、死ぬことが出来るようなんです」
「....................................」
何を、言っているんだろう。夢橋さんは。
「そこで酷いのは、後から身を投げた人は、幾翆海では死ぬことが出来ない、という事
なんです」
なんて、残酷な――。
「答えたくなければ、良いのですが......昨日、海に行った時、荒れてはいませんでした
か?」
私は頭を抱え、思い出そうとしたり、しなかったり。
荒れていた、ような。なかった、ような。
「荒れていた場合、先に人が入っていた、という事なんです」
頭が、痛くなってきた。
思い出したくない。例の記憶が――
『やめてって、言うんだよ』
その時、聞こえる筈のない、死神の声が、遠くから聞こえてくる。
暫くして、逆に、夢橋さんの声が遠のき、死神の声が鮮明になっていく。
『昨日、僕には言えていただろ。いやだ、やめて。を、その女に言ってやれ』
......確かに。私は、今まで――。
「もう、やめてください」
「え?」
私は、夢橋さんの目を見つめて。
「思い出したく、無いんです............ごめんなさい」
身勝手な理由で、夢橋さんの話を遮った。
勝手に海に行ったのも私。生き残って、それを嫌な記憶だとしているのも私。そして、
今。私を助けてくれた命の恩人を突き放そうとしているのも、私だ。
全部、全部。私だ。
なんて、身勝手な人間に、なったのだろう。
元からなのかもしれない。
自分でため息がでる。
それなのに、目の前の夢橋さんは、自分が悪かったみたいに、ハッと息を呑んで、口を
押えていた。
「ご、ごめんなさい! 私、失礼な――」
夢橋さんは椅子を引き、立ち上がる
私は顔を上げ、夢橋さんの顔を追う。
「いえ、夢橋さんは、何も――」
「わ、私としたことが......一番、分かってあげられると勝手に――失礼致します」
と、そう言い残し、夢橋さんは部屋を出て行った。
その動きに、やおらしさは一つもなく。
私はそれを、止められなかった。
気がつくと、テーブルの上のポットはオレンジ色で染まっていた。
驚いたことに、夢橋さんは自分の分のカップを用意していなかった。
元々、長居する気は無かったのだろう。
そう思うと、気が楽になるので、そう思いたかった。
私はポットを持ち、目の前のカップにゆっくりと紅茶を注ぎ入れる。
その時、対面にドサッと座る死神の姿が、視界の端に見えた。
カップをバンッと乱暴に置き、「ん」と突き出してくる。
入れろ、という事なのだろう。
私は特に話しかけることなく、死神のカップにも紅茶を注いであげる。
死神も、紅茶を飲むらしい。また1つ、必要ない知識が増えた。
死神はプハーッと、1口で紅茶を飲み切ると、カップをテーブルの上に置いて、
「あの女、僕の分も用意しとけよ! 一生気が使えないな!」
とか言い出す。
夢橋さんには死神が見えてないんだから。
「無理だよ」
しかも、一生って......。
「ちぇ、これだから仕事が出来ない人間は」
「......自分も、死神の仕事してないじゃん」
私のその発言に、死神の顔がムッとなる。
「ちゃんとしてるもん。六花には、分からないだけだよ」
「そうなんだ」
「そうだよ」
「..........................................」
「..........................................」
会話も一区切り。私は紅茶を1口飲む。
滅茶苦茶に熱くてヤケドしかけたが、表に出さない様、努力する。
好都合な事に、自分を隠すのが大の得意だ。
舌先の感覚がなくなった。
と、その時。
「ごめん」
と、死神が口を開いて、続ける。
「幾翆海のこと、黙ってて」
「? 何で謝るの?」
「え? 怒って、無いの?」
一体、何を怒ることがあるのだろうか。
考えてみても、分からない。
2人して「え」と言い合って、首を傾げる。
「だ、だって......見なくていい、知らない誰かの辛い過去を、見たんだよ? 自分が経
験したみたいに、感じたはずだろ? それで、六花を――」
「でも、日記。くれたでしょ? それにあの時、止めてくれようとしたし」
「そ、それは――」
「それに、私。忘れて良かったのかなって、思っているから」
「......え?」
顔も知らない誰かの、辛い記憶。
でも、それは。その人が自殺したくなる程の記憶で......私が知っているその人は、その
記憶の中でしか、生きていなくて......唯一その人を理解してあげられるのは、世界で私だ
け......なのに、その私が、その人の記憶を無下に扱って――。
「そんなことない」
「............」
顔を上げ、そこで久しぶりに、死神と目が合う。
「忘れていいんだよ。なんで六花が、辛い記憶を背負わなきゃならないんだ」
「でも......」
「六花。君は弱いんだから......無理をしなくてもいいんだよ。赤の他人のトラウマを背
負うほど、六花のメンタルのキャパは大きくないんだから」
私が弱いときたか......確かに、その通りなんだけど。
「......んん......でも」
まだ、どうしても。煮え切らない。
それが、私でもあるから。
直ぐに変わるなんて、出来ない。
すると、突然。死神が小さく笑いだす。
何が可笑しいのか分からず、私は首を傾げて見守る。
ついでに、1口、紅茶を飲む。
「あははは――流石......それが、六花だよね」
「? どれが?」
「自分のことだけでも手一杯なのに、赤の他人に同情して、背負おうとする......自己犠
牲と偽善の塊みたいなやつの事だよ」
「......」
大悪口である。
でも。その通りだと思う。何も言えない。
と、そこで死神が立ち上がり。
「じゃ、さっさと外に行こうか」
なんて言いだす。
「......どこに行くの?」
行く当てなんて、全くないだろうに。
死神は自信満々に豊満な胸を張って。
「私の、思い出の場所に連れて行ってあげる」
「......思い出?」
「そ。どうせ、行く当てもないでしょ」
「......そうだけど」
「......なに?」
「思い出なんてあったんだね」
「失礼だな!」
死神はフードを取り、机をバンと叩きながら顔を近づけてくる。
まん丸顔が子供みたいで、ぷんぷん分かり易く怒ってる。
そっか......しばらくプラットフォームから出れてなかったとはいえ。長生きしてれば、
思い出の1つや2つ......。
「そういえば、死神って何歳なの?」
「ん」
突然の質問に驚いたのか、死神はムッとして顔を離す。
「レディに対して失礼な質問だな――」
「モテないぞ?」と言いながら、死神が私の唇に人差し指を添えてきた。
なんだこいつ。
パクっと。その指をくわえてやる。
その指が小刻みに震えていることに気が付き、目線を上げると。
明らかに動揺している様子の死神が、あわあわと顔を赤くしていた。
ぺろぺろっと舐めてみると、流石に気持ち悪かったのか、死神がウゲっという顔になり、
手を引っ込め、1言。
「変態」
そう言い残し、真っ赤な死神は、扉に向かって歩き出す。
扉を越えたその背中に「待って」と声をかけると、死神は立ち止まり、素直に振り返る。
でも、まぁ。顔をみるに、まだ怒ってはいるけど。
振り返ってくれるのは優しい。
「ほいっ」
私はテーブルの上の日記を手に取り、下投げで死神に投げつける。
「おっ」と漏らし、取り落としそうになりながらも、死神は何とか日記を手に納める。
その時には既に、私は死神の目の前に立っていた。
その私の影に気が付いたのか、死神は上目遣いの顔を上げる。
頬が限界まで膨らみ、怒っているのが見て取れる。
「これは貴重な日記なんだぞ。落ちたら、どうするんだ」
昨日、投げてきたじゃん。と、思いつつ。
「ごめん」
と、返してしまう。
すると死神は「あっ」と言って、
「また謝った~」
なんて、煽ってくる。
確かに自分でも、あっ、とは思ったが......改めて言われると腹が立つ。
直ぐに謝る思考になるのが、癖なんだろうなぁ。
直さなきゃ。
そう1人で考え込んでいると。いつの間にか、死神が私から1歩距離を取っており、目
が合うと。
「ほらほら~。言い返してみなよぉ!」
と、中腰で上半身を仰け反り、伸ばした手をクイクイ動かして、物凄く煽ってくる。
しかし私はそれを無視し。
そっと。
扉を閉めておいた。
ワンピースに着替え、壊れたヒールを持ち、私は部屋を出る。
扉を開けた先には、落ち込んで膝を抱えている死神がいた。
「なにをしているの?」
その声に、死神はビクッと反応し、そっと。音も無く立ち上がる。
「別に。......それ、まだ持って行くの?」
「ん? あぁ、これ......」
手に持つヒールを上に上げ、パタパタさせる。
カツカツと、甲高い悲鳴を上げている。
特に思い入れとか、あるわけじゃないんだけど。何となく持ってる。
「ダメ?」
「いや......」
首を傾げて聞くと、死神はウゲっと、何故か動揺し、
「早く行こっ!」
と言いながら玄関へと歩き出す。
......なんか、死神の様子がおかしい。
私の一挙手一投足で、簡単に動揺する。
......文学作品のチョロヒロインみたいだ。
私が玄関で屈んでいる死神の背中に追いついた時。
「あ」と言いながら顔を上げた死神と目が合う。
「そのヒール。いらないなら、ちょうだい」
「......」
なんで? みたいな顔で見ていると。
死神が脚を浮かしてぷらぷらと動かした。
黒いタイツが張り付き、ぷにぷにしてそうな、柔らかそうな、おいしそうな脚。
「ほら、六花にブーツあげちゃって。僕、履くものがないんだよ」
「......ブーツ。履いていいよ......私がヒール履くから――」
「ダメだよ! 1回あげたものは、返してもらう訳にはいかない」
「なんで?」
死神は何故か俯き、
「決まりだから」
と、小さく呟く。
何とか聞き取ることは出来た。でも、決まりって何だろう......聞き間違いだろうか。
気になるが、これ以上話したくなさそうな死神に、追及は出来ない。
私は、死神の隣に座ってヒールを死神の足の前に置き、ブーツを履く。
「......いいんだ」
「ん? なにが?」
「............さっきの、理由で」
「うん。興味ないし」
「え――」
「それに、そんなものを履いたら足首痛めそうだし」
「さっきから酷いな! 僕の足首はどうなってもいいのかよ!」
「よくないよ......でも、痛めないでしょ?」
死神は何故かまた顔を赤くし。
「な、なんなんだよ......」と呟き。「痛めないけど!」と叫んだ。
感情が分かり易い様で、全く分からない。
死神は難しい。
現に、一生懸命にヒールを履こうとしている顔真っ赤の死神の感情は............やっぱり、
分からないんだよなぁ。
ヒールに爪先を入れて、ガンガン地面を踏みつけているが......入るのかな......明らかに
サイズ合ってないけど。
只で際ガタガタのヒールが、もっとおかしな形になろうとしている。
「そうだ、死神」
「ん⁉ 何⁉」
若干、というか。滅茶苦茶にキレている死神が、その余韻のままに私の方を向く。
「――ペン、返し忘れてた」
着替えている時に見つけた。そういえば、寝る時にポケットにしまっておいた、元々リ
ボンだった、不思議なペン。
「ん? あぁ......それも六花の物なんだけど、預かっておくよ」
私が差し出したペンを死神が掴むと、それは紐になり、死神の黒装束の中に消えて行っ
た。
きっと、中でリボンになっているのだろう。
「あっ――」
死神がそう零したので、私は死神の視線を追ってみる。
死神の足が、ヒールに綺麗に収まっていた。
黒装束に白いヒールと、違和感は凄いけど。
「入った!」
と嬉しそうな死神を見ていると、そんな事どうでもいいか、と。そう思えた。
扉を出て、階段を降りていると、夢橋さんとばったり出会うことが出来た。
どうしても、伝えたいことがあり、でもそれは、取り返しのつかない事だったのだが。
「......お金、持ってないんです」
と、正直に伝えると、なんと、
「お金なんて、要らないですよ!」
なんて言ってくれた。
本当かどうかは分からないけれど。
凄く安心した。
それに付け加え「今日も泊まりに来てくださいね」なんて言ってくれるし。
......つい、甘えてしまいそうになる。
夢橋さんも、不思議な魅力を持った人だ。
宿舎を後にした私たちは、例の『死神の思い出の場所』とやらに向かっている。
天候は雪。しんしんと降り、積もるそれを肌に受けながら、私たちは並んで歩いている。
風は少なく、特に寒いとは思わない。
吐く息も、白くはなく。肺も喉も、痛くない。
やっぱり私、死んでいるのかも。と錯覚する程何も感じない。
そしてやっぱり。ヒールを履いている死神の歩き方はぎこちなくて、とても気持ち悪い。
が、それを言い出せるはずもなく。
「結局、何処なの? その、思い出の場所って」
と、その背中に問いかける。
死神は、おっとっと、と。躓きながらも何とか立ち止まり、その時にはもう、私は死神
の隣に並んでいた。
イグサの匂いが、ふわっと香ってくる。
「『魅歎岬』だよ」
「み、なげ? って......」
「変な名前でしょ?」
「......変な名前っていうより」
とんでもなく不謹慎な名前をしている。
............もし、死ねそうなら―――
「ま、行けば分るよ。名前の割に、悪い所じゃないから」
「そ」
「うん」
短い会話。
互いの顔は見ない。
2人並んで、また歩き出す。
風は完全に止み、降る雪を自分たちで叩きながら、海岸沿いを進むこと数分。
あることを思い出し、話しかける。
「そういえばさ」
「ん?」
「今日の朝、離れた場所から死神の声が聞こえてきたのは......あれ、何したの?」
「んん? え? なんのこと? 気のせいだよ」
「......」
声が上擦った......怪しすぎる。
と、いうか。嘘が下手。
「り、六花が僕のことを大好き過ぎて、幻聴が聞こえたんだよ! 絶対にそうだ! そ
うに違いない! うん」
「そんな訳が――」
「よし、ちょっと急ごうか! 寒いしね!」
「ちょ―」
死神は、私の手を掴み、走り出した。
明らかに、何かを隠したい。そんな風の態度。
しかも、自分がヒールであることを忘れているのか、ふらふらと蛇行しながら走ってい
る。
ついて行くのが、躓かないように走るのが、精一杯で。
風のように流れていく景色から目を逸らし。足元の、糸屑の様になって過ぎ去る視界の
先端。まだ、色や形を残しているアスファルトに遅れないよう、一生懸命に目で追いかけ、
足を動かす。
一体、目的地は......どこまで、走るつもりなのだろう。
『魅歎岬』、か。
岬って付いているくらいだから、海岸線を走っていれば、直ぐに着くのだろうか。
......もう、疲れてきた。というより、限界なんてとうに越えているんだけれど。
特段、運動神経が悪いというわけでは無いはず。
体育の成績は、悪くなかったし......でも。
どう考えても、疲れるのが早い。
理由は分からない。ただの慢心かもしれないし。
ただ、疲れた時特有の、血の味とか横腹の痛みとか、諸々。
久しぶりの、苦しみだ。
ちょと、楽しい。
私は自然と。
笑っていた。
顔を上げ、躓いても、転んでもいい覚悟で、とにかく走った。
それから15分くらい走っただろうか。
明らかに傾斜が急になり、最早、走っているというよりは、足を細かく動かして歩いて
いるだけ。
そのくらいの低スピードで、私たちは目的の場所『魅歎岬』に到着した。
不自然にアスファルトが途切れ、鬱蒼と芝生が続く、丘の様な場所。
芝の上には、粉砂糖みたいに軽く雪が降りかかっていた。
亀の甲羅の様に盛り上がった丘の頂上で、ようやく立ち止まる。
小高くなったその場所に、風を凌ぐような障害物は無く。
優しく流れる風が、私の髪をさらって通り過ぎていく。
海の匂い、芝の匂い、土の匂い......それに、イグサの匂い。
それらが混ざり、とても心地いい。
私は膝から手を離し、姿勢を正して深呼吸する。
心拍数が、呼吸が、痛みが、落ち着いてくる。
やっぱり不思議な気分だ。
あれだけ走っても暑くないし。なにより、汗が一滴たりとも出ない。
自分の手を見て、それから、隣の死神に目を移す。
無理をしたからか。未だに肩を上下に、苦しそうに呼吸している。
「大丈夫?」
「!」
私の声に、死神はあからさまに驚き。バッ! と音を立てながら体を起こす。そして、
デッカい胸を張って、こう言い放つ。
「当たり前だろ⁉ 僕は優秀な死神だからな!」
と、いいつつも。
「でも、ちょっとまって――」
死神はまた、膝に手をつき。肩を使って全力で呼吸し始めた。
............放っておくしかない。しばらくは、動けなそうだから。
手持ち無沙汰になった私は、そこでようやく、丘の先の景色を眺める。
「――――――――」
言葉が、出なかった。
余りにも、綺麗だったから。
それに――
「どう? 綺麗で、しょ......あれ――」
「......誰か、いる」
風に流される白んだ芝生の続く先。
岬の先端。崖になっている場所に、1人の少女が立っている。
服装は、場所に似合わず何故か制服。
そして、その横には―
「死神と、同じ服......」
「当たり前だよ......同じ、死神だから」
黒装束で、猫背の......どうやら、死神らしい。
只、背格好は男。
その時。
ふらっと。
不安定な足取りで、その少女が振り返る。
華奢な足から体の順。それに遅れて、スカートと制服のリボン、それに灰色と藍色の混
ざった様な色の髪が宙に舞う。
セミロングの短い髪が雪を弾き、キラキラ輝く。
灰色と白との風景に、儚げな少女の顔が――
「酷い顔」
「昨日会った時の六花も、あんな感じだったけどね」
「......そ」
昨日の私、あんな顔だったんだ。
不自然に白い顔に、腫れた目と深いくまを作っている。
それなのに、整った顔立ちで違和感はない。
頬は少しだけ紅潮していて、薄い唇はキュッと硬く引き結ばれている。
身長は、私よりは低い。おっぱいは、私よりデカい。
......私、目が良くなっている。怖い。
私が少女を凝視していると、ワンピースの袖がクイッと引っ張られる。
「......帰ろう」
「ど、う......したの?」
死神の方を見ると、物凄く怯えた表情をしていた。
それに、1歩後ずさりしている。
まるで小動物だ。
完全に怯えて、縮こまっている。
「――あなた、だれ?」
消え入りそうな、でも、ふわふわとした、柔らかい声。
それが聞こえた時。
プラットフォームで別の死神と出会った時と同じように、右耳に痛みが走る。
「......あなたも、死神憑きなのね」
右耳を押さえて気にしていると、ふわふわした声が、更に距離を詰めてきているようだ。
私は正面を向き、声の方を改めて――
「ちょ、ちか――」
「あなた、お名前は?」
「っ――」
身長は確かに私より低い。でも、3cmくらいしか変わらない。
だから、だろうか。
顔が、キスをするレベルで近い。
息が当たる。呼吸するのが分る。見つめてくる目に、私が映っているのが、分かる。
それに、凄く、痛いくらい、甘い匂いがする。
さっきまでの風が乗せて来ていた匂いが、一気に押し返されている。
「――私は鳴瀧。鳴瀧音葉。あなたの、お名前は?」
目をキラキラと、鼻息も荒く、餌を目の前にした、犬みたいに。
私は、音葉の肩を掴んで引き剥がす。
それなのに音葉は、その腕の力をものともせず、また、距離を縮めて。
いや、それどころか。私の手を持って、胸の前に抱えて――
「あなたの―お名前は!」
なんて。同じセリフを、今度は叫ぶ。
後退りも、許されない。
「............月冴」
「それって、上の名前? 下の方は⁉」
ギュゥっと、握る手の力が強くなる。
結構痛い。
小型犬と思ったら、大型犬だった。
......なんだってこの子は......私の名前を、知りたがるのだろう。
「......六花」
「ん......月冴、六花! ......いい、名前!」
「そ......あり、がとう?」
会話も一区切り。これで離れてくれるかも、と思ったが......。
ジーっと見つめてくるままに、互いに動かない。
因みに私は、動けないだけ。
「..........................................」
「..........................................」
音葉は見つめ合ったまま動こうとしない。
......どうしたものか。
考え、私がチラッと上に視線を音葉から外した瞬間。
「あの!」
と、音葉がそう叫びながら、私の手をグイっと下に引っ張ってくる。
体について頭も下に動き、上げた筈の視界に、音葉の瞳が現れる。
その突然の碧眼に、心臓が跳ねる。
「付き合って、くれませんか!」
「はぁ?」
「一緒に、行って欲しい場所があるんです!」
「............はぁ」
なんか、安心した。
今のは、そのため息。
そして。
「......行きたい場所。って?」
「歩仁通り!」
「ぶじん、どおっ――」
『歩仁通り』も今までの地名と同じく。意味が含まれていないか。と、オウム返しで繰
り返していると。
音葉が私の手を持ったまま、岬の先端に向かって走り出す。
急な事に足が絡まるが、引っ張る力があまりにも強く一瞬体が浮き、そして。
ふわっ、サッと音を立てて。無事、着地することができる。
そしてそのまま。勝手に足が回るままに、音葉について行く。
意識しなくても、足が動く。不思議な感覚だった。
ふさっ、ふさっと。音を立て、舞う雪が視界を横切る。
足元に目をやると、芝が少しだけ高いのか、ブーツの甲が見えなくなるまで沈んでいた。
ブーツ――そうだ。そういえば。
「死神――」
私が死神を探そうと、顔だけ振り返った時。
「あぶない!」
音葉が急に足を止めるが、私の足は急に止まらず、慣性に従って体が前に進もうとする。
顔を前に戻すと、そこは岬の先端だったようで。
気持ちのよい程の浮遊感の後。私の体が傾いたまま、静止した。
ワンピースが後ろに引っ張られ、ビリっという悲鳴と、胸が締め付けられる感覚が襲っ
てくるが―――それよりも。
「......木?」が、なんで崖の下に......?
どんな生え方をしているのだろうか......というよりも―――
「綺麗」
そう、口から漏れ出ていた。こんな状況で、死ぬかもしれないのに......それでもいいか、
と。変な木に、吸い込まれそうになる。
......何が魅力的なのか、考えても分からない。だけど......それでも。直感で、一目惚れ
していた。
それを感じ取った時には、私の体がグイっと後ろに思い切り引っ張られ――視界は、一
面の曇天の後に、後頭部に鈍痛、視界は暗転。そして。
「―――だいじょうぶ?」
「っ―」
目を開くと音葉の顔が間近にあった。ので、できるだけ優しく、肩を押して引き剥がす。
どうやら、私を引き上げた音葉は、その勢いを殺しきることができなかったらしい。
音葉は私の体に馬乗りになり、心配そうな顔で私を見下ろしてきている。
「だ、だいじょうぶ?」
「......うん。ありがとう」
命を助けてもらった。
なのに。
心からの、ありがとう、ではない。
それよりも、あの崖の下の木が、気になって仕方がない。
それを自覚して、自分の事が、あの木の事が、一気に怖くなった。
私は、右腕を目の上に乗せる。
「......りっか」
「ん?」
真っ暗な視界。その先で、音葉が私の右耳を見ている。そんな気配を感じ取る。
「......りっかの、死神は......綺麗だね」
「..................どういう、こと?」
右腕を除けて、音葉の顔を見上げる。
やはり音葉は、私の右耳を見ていて、そこにある何かから、目を離さない。
「りっかの、ほら、右耳の――」
私は、浮かせたままの右手を、右耳に持っていく。
そして、そこで初めて―――
「なに、これ......」
金属のような、硬い何かが手に触れる。
ピアス......だろうか。最も、開けた覚えはないのだけれど......。
「黒い、綺麗な、ピアス......それが、りっかの死神......違うの?」
「......いや――知らない」
「そうなんだ......でも、多分。りっかの、死神だと思う――ほら」
音葉は、広げた右手を前に、私に見せてくる。
とても小さい右手。
その中の親指。
その小さく折れそうな指に似つかわしくない、酷いデザインの、厳つくも黒光りするリ
ングが目に留まる。
「それって――」
「うん。私の死神」
私の死神はピアス、音葉の死神はリングと、死神によってそれぞれ、何に変身するかは
違うらしい。
でも――
「何で、変身するの?」
「......死神同士は、仲が悪いから」
「だから?」
「......顔を合わせないように、他の死神を見つけたら変身するんだよ」
「そうなんだ」
「うん」
プラットフォームで、初めて死神と会った時のことを思い出す。
だからあの時――他の死神が来た時も、右耳がチクッと痛んだのか......。
「............りっか、はさ」
「ん?」
「........................死神のこと、どう思ってる?」
「......どう、って――」
「あ! 死神全体のことじゃないよ⁉ りっかに憑いている、死神のこと......複雑な感情
は置いておいて。好きか、嫌いか」
音葉は焦って付け足すが、最後の方になるにつれ、至極真面目な顔つきになっていく。
好きか、嫌いか、か......。
正直、分からない。
昨日のこと、あまり思い出せないし......。
でも、なんで。
「気になるの?」
「......ううん。答えたくなかったら、大丈夫――」
音葉は意味ありげに微笑み、私の体の上から降りる。
私が急いで上半身を起こすと、音葉が手を差し出してきた。
少し悩んでその手を掴み、ほとんど自分の力だけで立ち上がる。
音葉が岬の先端に屈み、下を覗きだしたので、私もその横に座り、同じく下を覗く。
先程、死にかけた時に見た綺麗な木が、同じくこちらを見上げてきている。
枝葉は揺れ動き、雪を跳ね除けて美しく咲き乱れているその木を見つめていると、身体
が、吸い込まれてしまいそうなのが分る。
視界の端で、音葉が口を開く。
「さっき、あの木を見た?」
「うん」
「そっか......どうだった?」
「どうって?」
「ううん......そうだよね............ねぇ――りっか」
「? どうしたの?」
音葉が姿勢を戻したので、私もそれに倣って姿勢を戻す。
目線が交差したところで、音葉が続ける。
「なんで、ここに来たの?」
「ん? う~ん......」
なんで、って言われても。
自分の意思で来たわけではないし。それにここは、死神の思い出の場所、らしい訳で。
「......分からない」
「そうなんだ......それじゃ。ここがどういう場所か、知らない?」
「うん」
「そっか――ここはね『魅歎岬』......ここに来た人は、崖下の木に魅入られて、飛び降
りて自殺しちゃう。そんな場所なの」
「............あの、木に。ねぇ」
改めて、木を見てみる。
確かに綺麗だけど......魅入られるって、程ではない。
それに、そのために死のうとは思えない。
「――でね、唯一。その木の魅力から、逃れる方法があるんだよ」
「へぇ......そうなんだ――」
私は崖下を覗くのを止め、改めて音葉と目を合わせ、
「どうすればいいの?」
と聞いてみる。
正直、興味は無いんだけれど......。
「木よりも魅力的な何かに、魅入られること」
音葉の小さく骨ばった手が、優しく私の手を包み込む。
仄かに暖かく、少しベタベタしていた。
頬は、何故か紅潮している。
「――だから、私は今、生きてるんだ」
音葉の手の力が、少しだけ強くなる。
と、同時に。
右耳が、少し痛んだ。
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