第3話 宿舎『釣厶』

「――ぇ! ――ねぇ! 目を覚まして!」

 痛烈な痛みと共に、私の視界がパッと開ける。

 視界の先には、大きな目の背の低い死神と、灰色一色の空が映っている。

 一定の間隔で足に激痛が走るので、どうやらここは、海際の砂浜らしい。

 私は。生きているらしかった。

 置かれた状況からは考えられない程冷静な私は、上半身を起こし、状況を確認する。

 すると、私が見える場所一帯は、驚く程の静寂に満ちていた。

 先程荒れていた筈の海は静かに、しかしどこか満足げに水平線を輝かせ、勿論砂浜も、

空も全く動かず、風1つ無くなっていた。

 「―――今の、記憶は......?」

 「え? 記憶?」

 頭を押さえながら声の方を向くと、そこには。

 「――それ、自分でやったの?」

 どうやったのか、肩まで砂で埋まっている死神が居た。

 改めて死神と目が合うと、何故か安心できて、そんな自分に驚いた。

 「知らないよ! 海に近づこうとすればする程、僕の体が沈んじゃうんだよ! ―――

それより! さ! 何か、見たの?」

 「――ぷっ」

 「んな、何⁉ 僕の顔に、何かついてるの? 何で笑うの⁉」

 首だけ飛び出した死神の、興味津々な顔が面白くて。いや、正直な所―――何が面白い

のか自分でも理解できないが、私は。

 「ううん。何も、ついてないよ」と言って、おろおろと立ち上がる。

 そのついでに、死神の首を掴んで、ゆっくり、ゆっくりと、引きずるように来た道を引

き返す。

 死神が何かを叫んでいたが、当然。無視した。

 

 サハラを横断したかのような疲労の後、ようやく死神の腕が飛び出し、それからは自分

の事だけを考えれば良くなって、物凄く楽だった。

 砂浜からコンクリートの壁を何とかよじ登り、その壁から足を降ろして座る。

 背の低い死神は苦戦している様で、手と顔だけがひょっこり飛び出して見えた。

 それを無視し、私は自分の髪を括ったままの布切れを解いた。

 その時、優しい風が陸から吹いた。

 力が弱かったのか、布切れは風に流され、海に同化し、消えて行く。

 それを見つめていると、死神が壁を登り切れたのか、並んで座ってきた。

 「はぁ―はぁ―はぁ......ほ、ンと。冷たいよね――あ!」

 「何? どうしたの――」

 「君の名前! 知らないじゃん! ってね」

 「あぁ――確かに。でも―――」

 「知りたい! 教えて!」

 何をそんなに知りたがるのか。死神は前のめりに、しかし、私のボロボロの体を気にし

てか、優しく肩を掴んで目を輝かせて聞いて来る。

 こんなに自分に興味を持たれたのは、久しぶりだ。

 「月冴、六花」

 「つきさ、りっか? か......へ~。いい名前だね!」

 「ホントに思ってる?」

 「んな! 失礼だな! 思ってるよ!」

 「ふ~ん......」

 「何だよ! じゃぁ、六花って呼ぶからね! さぁ! 早く。行こッ!」

 死神の反応を楽しんでいると、死神が突然勢いよく立ち上がった。

 「行くって。どこに?」

 「えぇ......」

 マジかコイツ。みたいな目で見られて、少しイラっとしつつ。私も立ち上がる。

 「もう、夜だよ? さっき。風が教えてくれたでしょ? 気が付かなかった?」

 「風? 確かに吹いたけど。でも―――」

 「この町は、時間の経過が分り辛いんだ。ずっと、暗いからね」

 「だから......風が教えてくれるの? そんな事が――」

 「あるんだよ。この町は、死にたい者とそうでない者とで、見え方も、感じることも違

うからね」

 「でも。そんな事が―――」

 「あるんだよ。六花も―――慣れなきゃ」

 言葉の途中で踵を返す死神の顔は、何処か暗く見えた。

 死神が歩き出し、私もその背中について行こうと、足を浮かせる。

 その時。コツっと何かが爪先にぶつかった。

 私は死神の背中から足元に視線を動かす。

 「これ......なに?」

 「あげるから......履いていいよ。その足、痛々しくて見てられないし」

 正面から静かな死神の声が聞こえてきたが、私は視線を動かさなかった。

 正直、身体中の感覚は無くなっていたし、足が傷だらけな事に対して、何も思っていな

かった。

 でも――。私は顔を上げ、死神の方を向く。

 すると、死神も私の方を振り返っていて、その真剣な眼差しが、私を貫いていた。

 『死』という言葉の意味ついて問われた。あの時と同じ目。

 私はゆっくり靴に目を向け直し、靴を履いた。

 が、やはり。何も感じることは出来ず、底が厚い分、むしろ歩き難い。

 その場で何度か足踏みをし、顔を上げる。

 「似合うじゃん」

 「そ、そう?」

 いつの間にか、キスできそうな位置まで迫って来ていた死神が、恥ずかしそうにそう呟

いた。

 今度は口元が微笑んでいて、それを見て私は何故か、ホッと、安心していた。

 

 再び、死神に補助されながら歩くこと数分。

 靴とは凄い物で、段々体温が戻って来ると共に、痛みも戻ってきている様な気がする。

 まぁ、ヒリヒリする程度なので、表には出さない。

 「えっほ、えっほ」と手を引っ張る死神を見ていると、突然、その死神が足を止めた。

 気付くのが少し遅れた私が止まる前に、胸の中に死神がスポッと収まり、体重を預ける

ことで何とか立ち止まれた。

 そして当の死神は、私がそうなる事を予見していたかのように、私の腕をギュッと掴み、

そのままポケ―ッと、何かを見つめて動かなくなっている。

 「どうしたの?」と耳元で問いかけると、死神は少し間を置いて「あぁ」と小さく漏ら

して続ける。

 「ここ、私がこの町で知ってる唯一の建物なんだけど......まだ、あったんだなぁ。って」

 その言葉に、私は、死神の見ている方を向く。

 するとそこには、黴の生えた古臭い『宿舎 釣厶』と書かれた看板が立っていて、ここ

が目的地だと私たちに教えてくれている。

 看板から目を逸らし、上を見上げる。

 一面コンクリートのそびえ立つ建物に、規則正しく窓が埋め込まれている。その殆どが

真っ暗だったが、1部、明かりを放っている所もある。

 その光に少しの間目が留まったが、死神が少し揺れた事で、私はまた、正面の看板に目

を向け直す。

 「――しゅくしゃ......これは、ちょうし、って読み方で合っているの?」

 「ん? うん。宿舎釣厶。私が――あ~。いや」

 「ん? どうかした?」

 「......早く入ろ。寒いでしょ?」

 「いや、ちょ―――」

 死神が私の腕を掴んだまま歩き出したので、不意を突かれた私は、中腰のまま、それに

従う他無かった。

 腰が痛い。

 

 建物の中に入ると、外気に当てられることが無くなって寒くは無かったが、青色のLE

Dライトも相まってか、凄く冷たく感じた。

 ジメジメとした嫌な空気が肌を撫で、通り過ぎていく。そんな気までした。

 「いらっしゃいませ」

 消え入るようなその声。しかし、不意を打たれた私と死神は一緒にビクッと跳ねる。

 顔を並べ、恐る恐る声のした方を向くと、そこには。

 正座で姿勢をピンと正し、凛とした印象を放っている、浴衣姿の女性がいた。

 黒く、しかし艶の無い髪を後ろで束ね、やつれた顔に半目を作り、その下には深いくま

を作っている。だが、長く筋の通った首や、凛とした佇まいからか、とても美人に見えた。

 「お客様? 本日はご宿泊で」

 私たちが何も言わないのを不審に思ってか、女性は軽く首を傾げ、半目を更に薄くしな

がら、そう声を掛けてくる。

 「――あ、えっと......はい――」

 「左様でございますか」

 女性はにっこりと、口角だけを上げると、スッと静かな音と一緒に立ち上がり、続ける。

 「お部屋に――案内いたします」

 半分だけ見せた顔で笑いかけ、女性は何処かへ向かって歩き出す。

 その女性の所作はどれも凛としていて、儚げで―――とても、美しかった。

 「――ぇ。ねぇ、ってば!」

 ゴン!

 と音と共に側頭部に激痛が走り、私は我に返る。

 横を向くと、私の腕を離して自分の額を押さえている死神が、何故か恨めしそうな表情

で私の事を見てきていた。

 「もう! ――置いてかれるよ!」

 そう言うなり死神は、淡く青白く光る闇の中へと消えそうな女性を、追いかけようと駆

けだす。

 「ちょ―――」

 ドン!

 と、音を立てながら、完全に体重を死神に預けていた私の体が地面に落ちる。

 ズルっと体を床に擦りながらお尻を上げ、ついでに顔を上げて死神の方を見る。

 死神は、何度か女性と私の間行ったり来たりしていたが、やがて、私と目が合ったこと

をきっかけに、

 「あぁ、もう!」

 と言いながら、私の体を持ち上げ、支えてくれた。

 

 最早、歩く気力の欠片も残ってなかった私は、死神に腕を持ってもらい、肩に顎を乗せ、

上半身を背中に押し付けて、それから後ろは半ば床に擦りつけて移動している。

 前に進む度、私の履いている、厚底真っ黒テカテカカチカチブーツが、キュッキュッと

音を立てていた。

 「ねぇ―ちょ、ちょっとは――さ。自分で――歩こうとか―――」

 「ない。ごめん」

 「んなッ――」

 死神が急に立ち止まるので、その反動で私の膝が曲がって中腰に、死神の肩に顎を乗せ

た状態になる。

 「今日の朝とは態度が違い過ぎない⁉ 私の事、虫みたいな扱いしてたくせに!」

 死神は頭をブンブン振って私の側頭部にぶつけてくるが、私は今、全身の痛覚が無いの

だ。故にそんな攻撃が通用する訳も無く。

 「私、虫も愛せるタイプだから」

 一瞬、死神の頭が止まったが、直ぐに、更に激しく頭を横に振り始める。

 「私はッ! ――虫じゃッ! ――んなぁあぁぁぁい!!」

 その叫び声の後、

 ブンブンブンブン。

 ゴンゴンゴンゴン。

 という音だけが廊下を占め尽くしたが、それも。

 「お客様」

 という、風の音よりも繊細な、薄っすらとした声によってかき消され、止まる事になる。

 目を開けると、先程の女性が屈んだ状態でこちらを覗き込んで来ていた。

 「お客様のお部屋は、この先の階段を登った、4階4号室となっております」

 「4階、4号室......?」

 不吉過ぎない? と思ったが、声に出せない。

 というより、女性の死相にも近い顔がそれをさせてくれなかった。

 「はい。鍵は開けておりますので――私は、少々用事が出来てしまいそうなので―――

では、ごゆっくり―――失礼いたします」

 そう言い切るなり、女性は姿勢を正し、音も無く私たちの脇を通り過ぎ、闇の中へと姿

を消してしまう。

 用事が出来てしまいそうって......何?

 「............」

 「............」

 少しの間2人して動けず、沈黙だけが長い廊下をシャトルランし始める。

 私が口をひらけなかったのは、突然の事に驚いたのと、脳が激しく揺れていたからだが

......死神も、同じなのだろうか。

 「......とりあえず。行こうか―――もう、寝たいでしょ?」

 「ん? う、ん。うん」

 正直なところ、眠気なんてとっくの大昔に覚めてしまっているが......死神の疲れ切った

顔を見てしまうと、肯定せざるを得ない。

 「で、だけど」

 「うん」

 「六花。君、ろくに動けないよね......どうやって上に行く気でいる?」

 「............おんぶ?」

 階段の前に到着したところで、そう提案を出すと、死神が物凄く嫌そうな、うげーっと

いう顔になる。

 「おんぶって......危ないし......第一、私たちの部屋、4階なんですけど?」

 「......」

 「何段登ればいいか――考えるだけでも腰が痛いよ!」

 「......」

 「――ぐッ、ぬぬ......むぅ~」

 「......」

 「――あぁ! もう! 分かったよ‼‼」

 ジ~っと見つめていると、わーわー喚いていた死神が、遂に折れた。

 私の前に進み出る死神は、屈み込んで両腕を後ろに伸ばす。

 「ほら、早くしてよ」

 「うん」

 顔を見せない死神に、ありがとうの言葉が出てこない――筈も無く。

 完全に力を抜いて死神の背中に体を押し付けるようにして抱き着き、耳元で、

 「ありがとう」

 と、そう囁くと、死神の体がビクッと小さく跳ねる。

 そして、「別に」という消え入りそうなつぶやきが、苦しそうな呻きの奥から遅れて聞こ

えてきた。

 

 むに、むにっ、むに。

 「ぐッ――うゥ――はァ、ハァ」

 むに、むに、むにっ。

 「――ぐッ――むうううううあぁ!」

 むにむにむにむにむに。

 「いい加減にしろぉぉぉ‼‼」

 3階から4階への踊り場で、急に死神がブチギレた。

 両手を天に突き出して叫んだため、私はずり落ちそうになり、精一杯の力で死神の首に

巻き付く。

 が、ゆっくりと巻き付いている腕が解け、お尻から床にポトンと落ちてしまった。

 死神が振り返り、そんな私を見下ろしてくる。

 途中、フードがふわっと浮いた時に、何とも言えない、おばあちゃん宅みたいな匂いが

した。

 まぁ、おばあちゃんに会ったことないけど......確か、イグサみたいな名前の、草の匂い。

 「はァ、はぁ。――おい! 六花ァ!」

 「ん?」

 名前を呼ばれ、顔を上げると、顔を真っ赤に息を荒げている死神と目が合った。

 表情を見るに、本気で怒っている様だが。理由が分からない。

 「何で移動中、私の胸を揉みしだくんだよ!」

 「え? そんなこと―――」

 していました。

 「してただろ! 直ぐバレる嘘を吐くなよ!」

 「そんなに、怒らなくても――」

 「怒るだろ! 僕がどんだけ頑張ってたと――ッ、何でそんな目をするんだよ!」

 「――え?」

 人差し指で、両目頭の涙を拭う。

 死神に言われて初めて。自分が泣いていることに気が付いた......。

 何で、どうして泣いているのか、私自身分からない。

 「わ、悪かったよ。ごめんね、大きい声出して―――大丈夫?」

 子供をあやすみたいに、私と目線を合わせて優しい声色で聞いてくる。

 そんな事をされて、涙が更に溢れ出そうとしてくる。

 目の下がピクピクと痙攣し始めたので、それを隠そうと一生懸命に目を擦った。

 すると直ぐに。そんな私の手首を死神の小さな手が掴み、顔から引き剥がしてくる。

 死神の顔が、ズイっと近づいてくる。

 さっきの怒っていた顔が嘘のように、困惑した表情を浮かべていた。

 そして再び。「どうして、泣いているの?」と、そう質問してくる。

 どうしてもこうしても、何で泣いているのか自分でも分かってない。

 今まで生きてきて初めてかもしれない。

 自分の感情が、全くといっていい程読めない。

 ............ホント、この涙の正体は......何なのだろう。

 そんな事を考えていると、頬をツーっと涙が流れていく。

 どれだけ泣いてるんだ、私は。

 「..................」

 視界の先の死神が、先程と同じ表情のまま。水面に浮かんでいるかの様に、ゆらゆらと

揺れていた。

 感情はグチャグチャで、泣かないようにすればする程、涙が止めどなく溢れてくる。

 何とか感情を押し殺そうと、下唇を噛み締め、俯いた。

 そんな私を。

 死神の柔らかい体がギュッと包み込んでくる。

 今日の朝、同じような事があった。

 もう、遠い日のように感じる。暖かい記憶。

 「っ―うう――うわぁあああああん!」

 「ウェ⁉ 何⁉」

 死神の驚いた声が聞こえた様な気がしたが、それを無視して私は泣きじゃくる。

 「うわあああぁあぁあん! 死神のぉぉ! うう――」

 「私の、何⁉」

 「おっぱいが! デカいからァ‼ うううう。」

 涙を堪え、唇を噛み締めて死神を睨みつける。

 「えぇ⁉ 何、それ! それが泣いている理由なの⁉」

 勿論、違う。

 でも、今は。とにかく、この謎の涙の理由を何かに押し付けたかった。

 もう、泣きたくない。

 疲れるし、何より。死神を困らせたくない。

 涙を浮かべたまま、オーバーリアクションで仰け反る死神を見つめる。

 少しだけ、意識的に口角を上げて笑う。

 「初めて会った時も。その、おっぱいのせいで............」

 「の、せいで......何⁉」

 「何でもない! ―――おらおら!」

 「ちょ、やめ―――らめぇええええぇぇ!」

 隙だらけの死神を押し倒し、胸を揉みまくった。

 揉んで、揉んで、揉みまくる。

 こんなにはしゃいだのは、何十年ぶりだろう。

 体温の感じない死神の体の筈なのに、手を動かしている内に暖かく感じてきた。

 きっと、自分の手と死神の服との摩擦で暖かく感じているだけだろう。

 それでも、なんだか嬉しかった。

 「うりうり~」

 「ちょ、マジで! らめぇ――ッ。あぁ―――」

 「あの、お客様」

 「「ハッ⁉」」

 消え入りそうな声。しかし、耳にはしっかりと届いて来る。

 1階で別れた女性だ。

 死神は首を浮かして見上げ、私は胸に手を乗せたまま振り返った。

 「お客様―――お楽しみの所申し訳ないのですが......他のお客様のご迷惑に―――」

 「た、たた、楽しんでないです!」

 「あっ―――」

 顔を真っ赤にした死神が、私の体を押し退けて立ち上がろうとする。

 私の意識は完全に後ろの女性に向けていたので、その不意打ちに抗えない。

 「大丈夫ですか?」

 「ッ―――」

 吹き飛ばされた私の体を後ろから抱えながら、女性が耳元で囁いてくる。

 優しいミルク系の匂いと、久しぶりの人の暖かさに当てられ、私の体は硬直し、動けな

くなる。

 人って、こんなに暖かいものだったっけ......。

 「お客様。体が冷え切っております......早く、お部屋へ参りましょう」

 「はっ、はひっ!」

 私は女性に支えられたまま部屋へと歩き出す。

 「............むぅ」

 途中、あまりはっきりしていない視界の端で、頬を膨らませている、死神が見えた。

 そんな気が、しないでもない。

 

 部屋の中に入ると、予想外の広さに驚いた。

 入って直ぐに細い通路に迎えられ、左にクローゼット、右にトイレしか見えず、狭いな

~って感じだった。

 しかし、数歩進んだだけで、右に9帖ほどのLDK、左には6帖ほどの洋室が扉の隙間か

ら現れ、私は腰を抜かしそうになって、立ち止まる。

 外見で、そこまで大きな建物には見えなかったんだけどなぁ、って。

 そこで、

 「......お客様? 少し、お話がありますので――よろしいですか?」

 「は、はい......大丈夫です」

 短い会話を交わし、私は女性に腰を支えられたまま、右の部屋に入っていく。

 その際、後方から扉が開く音が聞こえた。

 きっと死神だ。

 扉を開くと、目の前にダイニングテーブル、その奥にキッチンが見え、右隣には2人が

座れるソファとその正面にテレビがある。

 薄暗い照明が、キッチンの器具やらテレビやらに反射し、私たちを映し出す。

 改めて私の見てくれは、靴以外ボロボロで痛々しかった......これで外歩いていたのか...

...。今になって、少し恥ずかしくなってきた。

 「では、ソファに」

 「はい......」

 この女性は、こんな格好の私も、黒装束の死神の事も、おかしいとは思わないのだろう

か。

 パッと見でも不審者だし......踊り場であんなことしてたし......追い出されても、おかし

くない。

 私はソファにゆっくり座ると、右側によって背もたれと肘掛けに体重を預ける。

 「はふぅぅ―――」

 そして、深く息を吐いた。

 肺が空っぽになるまで吐くと、急に生きている実感がわいてきた。

 ......さっきまで、死のうとしてたのに......。

 今は、生きている事に安心してしまっている。

 今は、死にたいのだろうか――。

 私は、この町に来る以前の事を思い出し、首を横に振った。

 ダメだ......あの街には......あの過去には。

 戻りたくない。

 「お客様?」

 「――はい......すみません」

 気が付くと目を瞑っていたようで、次に闇が晴れた時、そのには、心配そうな顔の女性

が屈み込んで私と目線を合わせてきていた。

 そしてゆっくり私の手を取り、その上から自分の手を乗せ、私の太ももの上に乗せてく

る。

 その行動の意図が全く読めなかったが、少し落ち着くことが出来たので、振りほどいた

りはしなかった。

 というより、出来ない。

 「いきなりで申し訳ないのですが―――ここに来る前、何をなされていたのですか?」

 「えっ?」

 いきなりの質問に驚いた私は、硬直してしまう。

 女性に包まれたままの手が、動揺する私にとって、嫌に暖かく感じる。

 「う、海で......ちょっと......」

 「海、ですか......成程」

 本当の事を言いたくない私の少ない言葉でも、何かを察したのか、女性は私に小さく微

笑みかけると、ゆっくり立ち上がる。

 「少し、ゆっくりしていてください――お話は、その後に――」

 女性はそう言い残し、何処かに歩いて行ってしまう。

 それを、視線で追う事もしない。したくない。

 話って......今のじゃないんだ......。

 正直、かなり心臓に悪い質問だったし......一気に疲れた......もう寝たい。

 「ふぅ」と息を吐いて、改めて脱力する。

 まだ、周りの温度を感じることは出来ない。全身の感覚も曖昧だ。

 そもそもの話、本当に生きているのかも曖昧だ。

 「―――六花」

 「ん?」

 頭上から声をかけられ、上を向くと、ムスッとした顔の死神と目が合う。

 「忘れ物」

 「あ――完全に、忘れてた」

 体を捻り、足を上げ、ソファの上で膝立ちになると、死神と目線の高さが合う。

 死神の右手には、真っ白なヒールがプラプラと揺れていた。

 時折、死神の体からはみ出す照明の暖色を反射し、真っ白なヒールが炎の様にメラメラ

とオレンジ色に燃えている。

 「もう、捨てたら? どうせ、はけないでしょ」

 「うん――でも............」

 「......でも、なに?」

 「ううん、何でもない」

 「なに、それ」

 死神はそう言うと、プイっとそっぽを向く。

 明らかにつんけんしている死神が気になったので、

 「......なんか、怒ってる?」

 「ッ――別に!」

 目と鼻の先で死神が叫んだ。

 赤くした両頬をフグの様に膨らませ、目は鷹の様に鋭くなり、耳からは何故か蒸気のよ

うなものが噴き出している。

 ここは、謝った方がいいのだろうか......?

 しかし、困ったことに。何を理由にキレられているのか......全く見当もつかない。

 「――お客様」

 背中から声をかけられ、私は体を元の位置に戻した。

 丁度、女性も屈み込んでいた所だった様で、手に持っているマグカップと、もこもこの

バスローブが目に留まった。

 「こちらを――中身はホットミルクでございます......甘めが良ければ砂糖をお持ちしま

すが」

 「あ......ありがとうございます」

 私はマグカップを包み込むように受け取る。

 普段なら熱すぎて放り投げていたところだろうが、今は心地いい温度にしか感じない。

恐る恐る、一口、ズズッと音を立てながら飲むと、体の芯から温まってくような気がした。

 はぁと吐いた私の息は、白く色を付け、宙に溶けていく。

 「――ふふっ。相当、身体が冷えていたのですね。これも―――」

 「......どうでしょうか」

 女性にローブをかけてもらいながら、私は背を丸くしてそう答えた。

 女性はその答えを聞きながら、クスクスと笑っていた。

 それを見て失礼ながら。この人も笑えるんだな、と一瞬思ってしまった。

 女性と目が合い、少し居心地が悪くなって身をよじって女性に質問する。

 「それで―――話っていうのは......」

 「あぁ、そうでしたね。もう遅いので、手短に――」

 女性は改めて佇まいを正し、真面目な顔つきになる。

 そんな、やおらしい女性の動作に、一々、ドキドキしてしまう。少しだけ、目を逸らし

てしまう。

 別に、好きとかじゃないんだけどさ......和風の女性ならではの、綺麗というか、厳かと

いうか......そういう細かい動きが、ドキドキする事、あるよね? 多分。

 「私は、夢橋零と申します。当宿舎を管理しています者です」

 ズズッとミルクを飲むと、上目にチラッと夢橋さんと目が合う。私は軽く会釈して、直

ぐに目を逸らす。

 「で。ですが――」

 柔らかな声から真剣な声に切り替わり、私はマグを口から離して夢橋さんと目を合わせ

る。

 「お客様は、死神に憑かれていますね?」

 「......それは、どういう――」

 「お客様は今、お1人ではございませんね?」

 憑かれてる? 1人じゃない? この人は真面目な顔で、一体何を......?

 「この人に、僕は見えてないよ」

 耳元で、死神がそう囁いてくる。

 体がビクッと跳ねそうになるのを堪え、振り向こうとしたが、頭の上に死神の顔が乗っ

ているのか、重くて全く動かせない。

 私は落ち着くために、もう1口、ミルクを飲む。

 「――私も過去、死神に憑かれていたことがあるんです」

 「......ことが、ある?」

 なら、今は? と聞くまでも無く、夢橋さんは続ける。

 「えぇ。でも、おかしなことに――」

 夢橋さんは口元を隠して小さく笑い、過去を懐かしむようにして続ける。

 「その死神、底抜けに明るいんですよ? 私、死にたくてこの町に来たのに――」

 「............」

 「今はこうして。粛々と宿舎を営んでおります」

 私はミルクを飲みながら、夢橋さんの言葉を咀嚼する。

 噂通りだと、死神に憑かれた人間は魂を喰われる、そのはずだ。

 でも、夢橋さんは今もこうして生きていて、今ではその死神には憑かれてはいない。そ

んな言い方だった。

 ............。

 私は無言のまま、もう1口ミルクを飲む。

 熱々だったミルクも、今や飲みやすかった。

 それにしても――底抜けに明るい死神、か。

 後ろに居る死神が、間違いなくそれに該当するが......この死神は、暫くプラットフォー

ムから外に出れていなかったみたいだし......違うのだろう。

 死神って、私が思っているよりもずっと明るい生き物なのかもしれない。

 「あの、失礼な質問になるんですけど......」

 「はい、なんでしょう?」

 でも、もしかしたら、という気持ちが拭えず、

 「ゆめ、はしさんは......おいくつなんですか?」

 と、質問をする。

 すると、

 「ふふっ。秘密です」

 と、いとも簡単に躱されてしまった。

 「あ......はい」

 思い出し笑いなのか何なのか、夢橋さんはクスクスと笑い続ける。

 「――六花。そのまま聞いて」

 「......――」

 コクンと頷きで返すと、死神が顔を寄せてくるのが分かった。

 「この町の人たちの過去は、変に詮索しない方がいいよ―――絶対にいいこと、無いか

ら」

 死神が離れ、最後の方は殆ど聞き取れなかった。

 私としても、別に詮索するつもりはない......ただ、今の言い回しはどこか。胸の嫌なと

ころに引っかかって、離れてくれない。

 「――あぁ、すみません、お客様。最後に――」

 夢橋さんは佇まいを正し、真面目な顔つきになる。

 それにつられて、私はマグを口から離し、口をキュッと真横に結ぶ。

 そして、真剣な夢橋さんの目線と交わした。

 「この町にいる人間は、死神に憑かれている限り、必ず死ぬ運命にあります。ですが、

お客様は今日、無事にこの宿舎まで辿り着かれた。つまり、今お客様に憑いている死神に、

明確な殺意はない筈です......だから――」

 夢橋さんは一拍置いて。

 「生きてください」

 「....................................」

 何も、言えなかった。

 この町には、死ぬためだけに来たはずなのに。

 でもそれは、今の私の、本音では無いのかもしれない。

 自然と、マグを握る手に力が入る。

 夢橋さんの目線がその手に移り、そしてまた、私の目に戻る。

 そして、小さく微笑み、

 「――どうされますか? よろしければベッドまで、お連れしますが......」

 もう1口ミルクを飲もうとすると、ズズッと音が鳴っただけだった。

 私はマグを少しだけ離し、こもった声で、

「いえ、大丈夫です」

 と、冷たく返してしまう。

 言って後悔することが多々ある。

 しかし、夢橋さんは嫌な顔一つせず、

 「分かりました」

 と言って、立ち上がる。

 そして帰り際に「明日の朝、また、会いましょう――おやすみなさい」と言い残し、姿

を消した。

 改めてその動きを見ていると、まるで幽霊を見ているかのようだった......不謹慎か。

 「............」

 マグをそっと下ろし、ふぅと息を吐く。

 生きてください、か。

 初めて言われたなぁ......。短くも、結構重い言葉だ。

 「何、悩んでんの?」

 ピタッと冷たい手が頬に触れる。

 体温を思い出し始めていた私にはきつい一撃で、

 「ひゃん」と情けない声が勝手に飛び出し、肩がビグッと跳ねる。

 私はその魔の手から逃れるために、ソファから床へと、前のめりに転げ落ちた。

 「えぇ......驚きすぎでしょ......」

 「ちがっ――もう、私の体に触らないで」

 わざとではないのだが、突き放すような言い方になってしまう。

 それを聞いて死神は一瞬呆気に取られていたが、直ぐに目つきを悪くして口を開く。

 「うるさい! さっきの仕返しを――させろぉぉぉお!」

 「!」

 叫びながら、死神がソファを飛び越して私に飛びかかってきた。

 宙でフードが揺れ、見えてはいけないものが見えそうになり、目を逸らしたが、その直

後。

 ドスっと鈍い音を立てて死神が降り立っていた。

 その時になって初めて気が付く。

 死神って、滅茶苦茶に軽いんだ――

 「くらえ!」

 とか考えている場合では無かった。

 

 あれから暫く、閻魔死神による拷問の様な時間が続いた。

 そして現在―――。

 「ほんっと、心配になるくらい腕細いね」

 「......うるさい」

 何故か、私と死神は一緒にお風呂に入っている。

 何がどうなってこうなったか。

 全く覚えていない。

 というか、死神ってお風呂入るんだ......。

 正面にある鏡には、ぼやけた私と死神が映っている。

 のぼせそうな頭に、文字通り霧がかかっている。

 きっと、私の顔は耳の先まで真っ赤だと思う。頭が沸騰しているみたいに熱い。

 「ほら、反対も」

 「............」

 体を隠していた左腕を死神に引き剥がされ、急いで右腕で体を隠す。

 「それなのに、柔らかいし。雪みたいな肌――」

 「実況しないで」

 聞こえてないのか無視しているのか。

 死神は左腕を降ろし、背中を泡越しに撫で始めた。

 「華奢なのに骨ばることは無く、中心を走る綺麗な筋、肩甲骨が天使の羽の様で――」

 「やめてって」

 ......だめだ。このポンコツ、全く聞く耳を持たない。

 死神は私に体を押し付けて、お腹側を洗い始める。のかと思いきや、動きがピタと止ま

る。

 絶対にわざとだ。

 だって、そんなに近づかなくていいし、止まる理由もわけわかんないし!

 「ど、どうしたの?」

 「......ん~?」

 私が急かすような質問をしても、死神は曖昧に答えるだけで動かない。

 しかも、何をしているのか耳元で鼻息をかけてくる。

 それがじれったくて、身体が小刻みにぶるるっと震える。

 あぁ......ナニコレ。何、この状況。

 そもそもの話。何で、私が抵抗しないのか。

 それは―――

 「......ふぅ。六花、足は痛くない?」

 「ん? あぁ......そういえば」

 ちょっとヒリヒリと痛むくらい。

 「ごめん。人に憑くの、久しぶりで......特定の部位の痛覚を無くすのって......凄く難し

いんだよ......?」

 「............そうなの」

 言われてもなぁ。

 ......と、まぁ。そういう訳。

 抵抗しないのではなく、できないのだ。

 なんとか許されたのは腕の自由だけ。

 多分、死神が痛覚を消してくれてなかったら、水を浴びただけで悶絶ものだと思う。

 入る前に、「動いたら痛覚戻すから」と脅されていたのだ。

 ......入らなきゃよかった。

 体のベタつきくらい、何とか耐えられたものを。

 「......じゃぁ。続き、やるから」

 急に手を動かしだす死神。

 私は「ひゃっ」と声が出そうになるのを、下唇を思い切り噛んで堪える。

 そして死神はまた。激キモ変態構文囁ポエム囁き始める。

 「――キュッと引き締まったくびれ、それなのに柔らかさは残っていて――縦に長いお

へそとそこから続く筋を辿っていくと――」

 「ちょ、やめっ――」

 ナチュラルな動きで私の腕を剥がし、死神の冷たい手が私の胸の下側に触れる。

 くすぐったくてなのか、意図せず背筋が更にピンと伸びてしまう。

 息を荒くした死神が、それに合わせて伸びてきたと思ったら、おっぱいの下側に添えて

いた手のひらを小指から順番に、閉じたり開いたり――もみもみ、もみもみと――乳しぼ

りみたく――。

 「確かに小さいけど、少し張ってて、柔らかくて......マシュマロみたい。それに、真ん

中のこれ―――」

 「もう――やめてっ!」

 「ちょぁ―――」

 死神の人差し指が大きく浮いた時。

 何かを察した私は流石に限界が来て、勢いよく立ち上がることができた。

 解き放たれたみたいな解放感。

 背後で、死神がしりもちをついて倒れる音が聞こえてきた。

 丸焼きされたみたいに燃え上がる頭に意識を向けると、勝手に目つきが悪くなって、両

の頬がぷくっと膨らむのが分かった。が、そのままの状態で振り返る。

 が、何も言えず。死神を見下ろして、睨みをきかすことしか出来ない。

 驚いて目を真ん丸にした死神と目が合う。

 情けないことに、怒り方が分からないのである。

 怒ったこと無いし。

 この後どうしよう......気まずい......。

 正直、もう。そこまで怒ってないし......。

 「........................」

 「........................」

 少しの間、そうやって睨みあっていると。

 先に痺れを切らした死神が、何故か私と同じような表情になって、右足をお腹側に引い

た。

 そして――

 カコン! 

 と、私の座っていた、プラスティック製のバスチェアを、思い切り蹴飛ばしてくる。

 勿論、勢いよく飛んでくるそれを避けるような瞬発力を、私が持ち合わせている筈もな

く。

 私のすねにぶつかったそれの力に負け、その足がツルッと後ろに滑って片足立ちになる。

さらに不幸な事に、私は上半身を前に出して死神を睨んでいたのだ。

 つまり。どういうことか。

 一瞬のふわっという浮遊感の後、本当に私の身体は宙に浮かんでいた。

 「ちょ―――ま」

 パンッ!

 と音を立て、私の貧弱な体が床に打ち付けられた音が、自分の耳にすら届いて来る。

 しかし、それよりも――

 目を開いている筈の視界が真っ暗なままで、何を思ったのか。私は「死神!」と叫びな

がら手を伸ばし、更に前に進もうとした。

 すると、キュッと音を立て私の頭が何かに滑り、何か、ものすごく大きな、ふわふわな

パンみたいな何かに、左右から圧迫される。

 ............これ、絶対おっぱいだ!

 その発想に至った私は勢いよく顔を上げようとしたが、一瞬。有り得ないくらいえっち

な視界になったと思ったら、あろうことか、死神が私の頭を抱き寄せたのか、トンッ! と

聞いたことも無い様な音を立てて、私の視界が再び暗闇に染まった。

 左右から圧迫されて頭が沸騰、どころのはなしでは無い。脳みそに直接マグマを注がれ

たと錯覚するほどに、頭の先から足の先まで、激烈に熱い。

 更に、息もしづらい。激しく動く心臓とは裏腹に、酸素が全く足りていない。

 「んんっ――んんん!」

 私は、ギブアップの意思を必死で伝えようと、手を必死で動かした。だが、むやみやた

らに動かしているわけでは無い。

 ――――――見つけた!

 生きる、糸口を。

 

 ――と。そんな事件から、少しの時間が経ち。

 私は、自分の腕で体を抱えて恥ずかしそうにしている死神と対面して、一緒に浴槽に浸

かっていた。

 互いに無言で見つめ合い、聞こえてくるはずのない、桶が床に落ちた様な、カタンっと

いう音が聞こえてくる。

 私としては、今すぐにでもお風呂から上がりたい。

 でも。

 「うぅうう~~~~」

 と、目の前で唸る死神が、そうはさせてくれない。

 今すぐにでも、足の痛覚を戻してやる。そんな意思を感じる目だ。

 「まだ、怒ってる?」

 「っだら! ――当たり前だろ!」

 全ての元凶は自分じゃん。と、そう言いたいところではあるが。

 「ごめん」

 と、口癖のように謝っておく。

 これで、許してくれただろうか。と、そう思ったのだが。

 死神は何故か半目で、訝しむような目線を送って来ている。

 そして、

 「......何で謝るんだよ」

 なんて言い出した。

 「え?」

 「全部僕が悪いんだから。六花が謝る必要ないでしょ」

 どうやら、自分が悪いという自覚はあったらしい。

 でも怒ってるって自分で言ったじゃん。

 それに、さっきまでの態度は――とは、聞かなかった。

 長くなりそうで、面倒だったから。

 「............」

 「............」

 少しの間見つめ合っていると。

 死神が、チャポっと音を立てながら膝を曲げ、それを腕で抱えた。

 私と、同じ格好だ。

 少し違うのは、暗い顔で、顔を腕の中に埋めてしまった所だ。

 2人の間に妙な隙間ができたので、私は少しだけ足の力を緩めてその隙間を埋める。

 ピタッと爪先が当たると、死神がビクッと肩を跳ねさせて、ゆっくり顔を上げた。

 「............なに?」

 「いや、..................ごめん」

 「......」

 ......何、この空気............凄く、凄く重い。

 死神きっかけでないと、私たちに会話は生まれない。

 私は、別に。無言の空気に慣れているから良いんだけど。

 今日1日元気だった死神がこんなだと......流石に気を......あ、別にいいか。

 どうでもよくなった私も、腕の中に顔を埋めた。

 お湯から昇ってくる湯気が、顔を撫でて通り過ぎていく。

 ぽわぽわ、ぽわぽわ、と。顔一面が暖かくなり、体温が一気に上がったように感じる。

 ......さっき、死ねそうだったなぁ。

 なのに私は、

 思えば、今日家を出てから、何度も、何度も、死ぬ機会があったように思う。

 さっきので窒息してれば、今頃――。

 「六花」

 「......ん?」

 顔を上げると、熱気に当てられてか、とろんとした顔の死神と目が合う。

 丸い顔は紅く染まり、よく見る顔文字みたいになっている。

 吸い込まれるようなその瞳に、また、閉じ込められてしまう。

 「また、死ねなかったね」

 「......うん」

 死神は、小さく口角を上げて笑う。勿論、目は笑ってない。

 「やっぱり、生きたいんじゃん」

 「....................................分かんない」

 それは間違いなく、私の本音。

 生きたいのか、死にたいのか。本当に、分からない。

 思い出したくもない過去がチラッと片鱗を見せた時、間違いなく死にたくなるのに......

今は、生きたいと。そう思ってしまっている。

 自分が。分からない。

 「さっきのさ」

 死神が極めて優しい声で話し出す。

 「女が言ってた『生きてください』って言葉......」

 「うん」

 「どう思った?」

 どう思った、か。何の質問なのだろうか。

 目を離せないまま、私は少しだけ考えて見る。

 でも、やはり。

 同じ結論しか出せない。だから、諦めて、

 「............分かんない」

 と、そう返す。

 死神はそれを聞いて、何故かニカッと笑った。

 「そっか」

 そう短く返し、死神は曲げていた足をピンと伸ばして、私の脚と絡めてくる。

 「な――」

 と、思えば。それは私の脚を開くためだった様で。

 「にを――」

 死神は、私の脚の間にすっぽり収まり、後頭部を私の体に預けてきた。

 驚いたことに、死神はお湯の中にも関わらず、ひんやりと冷たかった。

 今更、身体が密着するのが嫌な訳じゃない。

 でも、これは―――。

 「しているの?」

 流石にエッチすぎる......ラブラブカップルでもしないでしょ......恥ずかしい。

 完全にイメージでしかないんだけど。

 「六花はきっと、こういうのが足りなかったんだよ」

 「......ん? こういうのって、どういうの?」

 「ん~。こういうの」

 一体、どういうのだろう。

 気になるのだが、私を見上げてくるいたずらっぽい顔の死神が、答えてやらない、と。

そう言っていた。

 「『生きてください』って。凄く無責任な言葉だよ――」

 正面を向き直して、表情の分からなくなった死神が、真面目な声ではなす。

 私は無言で、後頭部を見つめながらそれを聞く。

 そういえば、説明していなかった。

 死神はミディアムまで伸ばした真っ黒な艶のある黒髪をしている。

 ムカつく程、綺麗な髪だ。

 「でもね、あながち、間違いでもないんだよ?」

 死神は私の脚に腕を回して引き寄せてくる。

 ムカつく程、大きな胸がポヨンとぶつかって、離れない。

 「多くの人は、死にたいって思う事がある......実際、それを行動に移す人もいる。六花

みたいにね――」

 心なしか、死神の腕の力が強くなる。

 「何故なら......辛い事と向き合う事より、逃げることの方が楽で。死ぬことは、その逃

げる事の中でも、一番楽な方法だから......」

 尻すぼみのその言葉は、途切れてしまう。

 続けて死神は「でも、無責任だよ......それに――」と消え入りそうな声で呟く。

 ............続きがありそうな終わりで、どうも、私は口を開くことが出来ない。

 それに、呆気に取られていたっていうのもある。

 ......この死神。『死』について、しっかりと自分の考えを持っている。

 私の思っていた死神と、全くといっていい程。似ても似つかない。

 死神は、もっと軽率に人の命、魂を扱うものだとばかり思っていた。

 他の死神も、こうなのだろうか......。

 「六花」

 「――ん?」

 突然呼ばれ、遅れて返事をすると、死神が首を90°曲げ、目を合わせてくる。

 「『死』っていう、たた1文字の言葉の重み。分かった?」

 「ん――」

 それは、出会って直ぐにされた質問でもある。

 あの時は、何も考えずに『うん』って答えたんだっけ。

 今は、どうだろう......。

 『死』、か......。

 考えれば考える程、身体が重たくなってくる。

 胃もたれなんて比にならない。重力が何十倍にもなったと錯覚する程に。身じろぎ1つ

取れなくなる。

 「僕が思うにね、六花」

 死神はつらくなったのか、顔を戻した。

 「うん」

 「いっちばん無責任な言葉は、『逃げるな』とか『死なないで』、だと思うんだ」

 死神は『』の中の言葉を、変に声真似をして、茶化しながら話す。

 でも、何となく。言いたいことは、分かる気がする。

 『逃げるな』とか『死なないで』って言われると、私の何が分るの? 無責任にそんな

事言わないで。

 って。そう、言いたくなると思う。

  だから、

 「......うん」

 と、小さく呟くように返す。

 「でも、ね。『逃げる』のも『死ぬ』のも。僕は悪いと思わないんだ。そもそも自分の命

だし、考え方も自分次第だし。ただ――」

 死神は、ここからが重要だと言わんばかりに、更に、私に身を寄せてくる。

 全身が、死神に、完全に、密着する。

 死神は今、どんな顔をしているのだろう。

 「今の人間には、ね。考える時間も、余裕も。何もかもが足りなすぎるんだよ......逃げ

ていいのに死ぬ事が、何を意味するか。死ぬことで、哀しむ人がいることをね。それを、

理解する、ね。......だから――後で、日記をあげるよ」

 「......日記?」

 急に出てきた単語に呆気に取られる。

 「うん――日記」

 「なんで、日記?」

 「六花を救う日記だから、だよ」

 「......私を?」

 救う? 一体、どうやって......。

 「ねぇ、六花。隠したいなら、答えなくていいんだけど」

 なんだろう。と思いながら、私の返答を待つ死神の目を見ながら、「うん」と続きを促す。

 「――超記憶、もってない?」

 「......何それ」

 隠すとか、隠さないとかじゃなく。本当に分からないから、そう返すしかない。

 「質問を変えるよ―――昔に経験した、楽しかったこと、特に嫌だったことも、何もか

も......全部、全部。忘れられないでしょ」

 無意識に、ギクッと肩が跳ねる。

 同時に、思い出したくない出来事が脳裏をよぎり、頭を勢いよく横に振った。

 「図星、だね」

 表情は読めないが、死神が小さく、クスっと笑ったことだけは分かる。

 「悪いけど、その過去を忘れさせたり、超記憶そのものを無くすことは出来ない。けど

――」

 死神はまた、首を折って、目を合わせてくる。

 乾いてきた前髪が、暖簾の様に垂れ下がり、私の腕を覆い隠した。

 死神の広めの額が、テカテカと輝いている。

 「その日経験した事を、その日のうちに日記に書けば、その日験した事は、記憶に定着

しないから」

 「記憶に、定着しない?」

 ようは書いたことを忘れる、と。そういうことなのだろうか。

 「そ。厳密にいうと、完全に忘れる訳じゃ無いけど......普通の人間だって、衝撃的な出

来事は何十年経っても、思い出せるでしょ? それが、かなり薄まるってだけ」

 「......思い出そうとすれば、その......衝撃的な出来事は、思い出せるってこと?」

 「う~ん......どうだろ。私、書いたこと無いし......でも、今日書いてみたら、明日には

分かるんじゃない?」

 「え?」

 死神はニヤッと口角を上げる。

 「六花。隠そうとしているようだけど、分かるからね?」

 「......何が」

 勝ち誇ったように、死神は続ける。

 「今日、あの海で死のうとした時。何を見たの?」

 「..............................」

 何で、気付かれたのだろうか。

 自分でも、記憶の奥底にしまおうと、必死に思い出さないようにしている記憶。

 誰のかも分からない。赤の他人が経験した、悲惨な記憶なのに。

 まるで自分の身に降りかかった出来事のように感じる、そんな記憶。

 ナンパされ、連れていかれ、親友にも助けてもらえず、あろうことか、周りの誰もが、

軽蔑するような目を向けてくる。

 フラッシュバックする様に、鮮明に思い出せる。

 それが顔に出ていたのか。

 死神が私の頬をギュッと掴んで、引っ張ってきた。

 「......で、その辛そうな顔の原因だけど。忘れたいでしょ?」

 「............うん」

 私は少しだけ悩んだうえで、そう答える。

 躊躇した原因は......どうしてだろうか。

 でも、多分。

 忘れて、あげたくない。そう、思っていたんだと思う。

 「じゃ―――今日は、終わりだね」

 バサッと、お湯を巻き込みながら、死神が立ち上がる。

 ぷりぷりのお尻が目の前に現れ、緊張感も何もかんもが台無しになった。

 

 お風呂から上がり、私たちは寝るために洋室へと向かって歩く。

 私は、貰ったもこもこのバスローブを着ていて、死神は黒装束を脱いだ、私服の状態で

いる。

 ちなみに、私服、と言っても。

 真っ黒なリボンだらけの服に、ひらひらのスカート。唯一出ている脚も黒タイツを履い

ていて。

 ......死神は、その状態で寝るらしい。

 というか、死神って寝るんだなって......そう思った。

 死神の生態は、ほとんど人間みたいなものなのかもしれない。

 洋室に到着すると、案外簡素な内装であった。

 入って直ぐ、正面に照明の乗った木製テーブルが1つと、椅子があり、その左側に......

シングルベッドが1つ。あるだけだった。

 というか、この宿舎。全体で見ると、1つ1つの部屋が酷く大きい気がする。

 にも拘らず、内装は簡素で。

 死にグルベッドが1つ、か。

 死神はベッドを見つけるなり、子供みたいにダイブして、魚みたいに跳ねだす。

 そして、立ち尽くす私の方に手を広げ。

 「――さぁ! おいでよ!」

 「........................」

 いや、行かないけど。

 私は、両手を広げて目をパチパチさせる死神をスルーし、机の前の椅子に、横向きに腰

かける。

 「......日記、貰っていい?」

 「え? んん? あぁ、そうか......日記ね」

 どうやら、日記の事を忘れていたらしい死神は、「よっ」と言って起き上がると、胡坐を

かいて、服の中を漁り始めた。

 死神だし、もっと神秘的な道具の出し方をするのかと思っていたが、どうやら違うらし

い。死神は日記を見つけたのか、鼻息荒く、某猫型ロボットの如く日記を天に掲げた。


 「ちょっと特殊な日記~~」

 

 「........................」

 「.........」

 何やってんだ。的な目を向けていると、少しして死神がそっと立ち上がり――

 スパンッ!

 と、到底、日記が出す筈のない音を立てて、豪速本を投げてくる。

 幸いな事に威力はさほどでもなく。バスローブがぽふっと衝撃を吸収し、ちょっと特殊

な日記は私の手に収まった。

 私はそれを体からはなし、観察する。

 やはり、というべきか。

 ちょっと特殊な日記は真っ黒だった。それに、手のひら大の日記にしてはとても分厚く、

禍々しい帯が日記に封をしていた。

 外装は硬く、匂いは――いい匂いだ。死神の――

 「おい! 匂いはどうでもいいだろ!」

 その声で顔を上げると、顔を真っ赤にした死神がぷんぷん怒っていた。

 改めて、イグサの匂いは好きだ。

 「――えぇ⁉ 無視⁉」

 私はそれを無視し、日記に視線を落とす。

 パチッと帯を解き、1ページ目を開く。

 直ぐに、違和感に気が付く。

 「......ねぇ、これ――」

 「ん? どうしたの?」

 私が日記を死神の方に向けると、落ち込んでいた様子の死神が直ぐに切り替えて、覗き

込んだ。

 「破れているページが続いてるけれど」

 「あぁ、それ――」

 死神が姿勢を戻し、日記の上から目を合わせてくる。

 何故か、小さく笑っている様だった。口元、見えないんだけど、何となく、そう見える。

 「その日記使うの、六花が初めてじゃないから」

 「ふーん。そうなんだ」

 「気にしないでいいよ......じゃ、僕は先に寝とくね」

 「......うん」

 死神は踵を返し、倒れ込むようにベッドに寝転がる。

 私はそれを見届、改めて日記を眺める。

 破れた跡を見ると、怒り任せに破ったようにも見えるし、その他にも、焦燥や恐怖、罪

悪感や悲しみも含んでいる。そんな気が――

 激しい頭痛が通過し、考えるのを止める。

 日記を机に置き、一瞬で過ぎ去ったそれを、手を使って辿る。

 今の記憶......。

 いや、今はとにかく。

 私は、頭を振って切り替える。

 日記を引き寄せ、見つめ合い。そこで――

 どうやって、書くんだろう。という、元も子もない疑問にぶち当たる。

 椅子を引き、机の2つある横長の引き出しの中を確認する。

 が、中には何もない。そう諦めて引き出しを戻そうとした時。

 慣性で遅れたのか、紙の切れ端の様なものが見えた。

 それが見えた方の引き出しに、腕を入れてみる。

 すると、チクッという感触が中指を襲った。

 私はそれを手繰り寄せ、掴み、取り出す。

 それは、写真の切れ端のようだった。

 着物姿の女の子が、お淑やかに、こちらを見つめていた。

 モノクロの写真だったので、詳しくは分からない。だが、一瞬――

 「どうしたの~?」

 ビクッと、私は勢いよく引き出しを戻し、死神の方を向く。

 死神は寝転がったまま首だけを起こし、怠そうに私の方を見ていた。

 私は日記の上に写真を置き、身体を死神の方に向ける。

 「ごめん。どうやって書けば――」

 「あ! そうだった! ――ほい!」

 死神は服についた1つのリボンを解き、私の方に向かって放り投げてくる。

 そのリボンは、私の手元でクルクルと蜷局を巻き、ペンの形になって止まる。

 「じゃ、寝るから」

 死神は今度こそ、本当に寝息を立て始めた。

 ......ペンは、神秘的な出し方なんだ。

 死神って、難しい。

 

 私は、今日起きた事を詳細に書き残した。

 すると、死神の言う通り。よくよく思い出そうとしようとでもしない限り、今日起こっ

たことを思い出すことは無かった。

 1つ、困ったことがあるとすれば、死神のことも書いたせいで、ベッドで寝こけている

女の子を見て驚いたことだ。

 私は頬杖をつき、そんな死神をボヤ~と見つめる。

 改めて見ると、可愛いんだよね......死神のくせに。

 可愛いと言っても、人形的な可愛さで......死神のくせに。

 私は目を瞑る。

 いつもいつも、寝る前には、その日に起きた出来事がどうしても脳裏をよぎるため、深

く寝れたことは少ない......でも、今日は......ゆっくり眠れそうだ。

 ......不思議だ......今朝、私は死にたかった筈なのに......今日もまた、眠ろうとしている

......一日を、終えようとしている。

 明日起きた時、死にたくなってないだろうか......。

 今日は確かに、辛い経験もした。

 知らない誰かの辛い記憶を押し付けられ、まるで、自分が経験したかのように錯覚した。

 これは、自業自得。

 でも、楽しい事もあった。

 これも、自業自得。

 ......死神と呼ばれる女の子。

 その女の子は底抜けに明るくて......裏が無くて......初めて、他人? に心を許してしま

った。

 今日初めて会った。それも、憑かれる私と、憑く死神という、変な関係だというのに...

...。

 ぽわぽわと、体温が上昇していく。

 私は明日から、どう生きるのだろう。

 どう、過ごしていくのだろう。

 もう、あの街には帰りたくない。

 それは、今も変わっていない。

 でも、だけど――――。

 お母さん。

 気が付くと、私の意識は。深く、深く、闇の底へと沈んでいた。

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