第2話 幾翆海

この駅に改札などというものは無いのかもしれない。

 詳しく調べたという訳でも無いから、詳しいことは分からないけれど。プラットフォー

ムから直接伸びている階段を使って......降りているし。多分、問題ない筈。

 それに......元から切符なんて買って無いし。どうしようもなかったし。

 キセルなんて―――犯罪なんてしたのは、本当に初めてだ。

 「ねぇねぇ、何処に向かってるの? 目的地は?」

 こけそうに、足の裏に激痛を走らせながら私が歩いていると。死神が横並びにそう声を

掛けてきた。

 絶対に話してやらない。と、そう心に決めた私は無視を決め込み、死神とは反対の方向

に視線を動かす。

 だって怖いんです。

 「ねぇ。ねぇってば! ―――もう!」

 それから暫く。

 何度も、何度も声を掛けられながら。度々ワンピースの袖を引っ張られ、横腹を小突か

れ、遂には目の前で仁王立ちを始める死神を、私はその度に華麗に交わし、何処かへと向

かって歩き続けた。

 そのおかげなのか、怪我のせいなのか。季節外れのワンピースでも全く寒くなかったが、

同時に白い息も出てこなかった。

 そして、何回目かの仁王立ちの時。

 私はまた、目を合わせないように灰色の空を見上げ、死神の脇を通り抜けようとした。

 その時だった。

 とても冷たく、小さな、柔らかい感触が私の腕を襲った。

 「ねぇ、ちゃんと聞いて」

 低いトーンの存外真面目そうな死神の声が聞こえたと思ったら、次の瞬間に死神は、私

の腕を掴んだまま下に強く引っ張ってきた。

 足が限界に近かった私は、哀れにもガクリと膝から崩れ落ちる。

 そしてそのまま動けずにいると、私の両頬に死神の手が触れ、左右から押しつぶされ、

無理やり顔を上げられてしまう。

 私は意地でも死神の顔を見まいとした。

 しかしどういう訳か。

 下目にチラッと見えただけの、子供の真剣な眼差しが、私の視線を掴んで離さなかった。

 離したくても、離せなかった。

 「君。『死』っていう。たった1文字の。たったそれだけの言葉に込められた意味の重み、

分かっている?」

 「――――――うん?」

 私はつい、大して何も考えず。それに疑問符を残し、反応を返してしまった。

 ひょっとしたらもう、ここで魂を奪われるのかもしれないと。内心ではそう覚悟を決め

ていた。

 それでもいいと、思っていた。

 しかし死神は、初めて会った時の様な妙な笑みを浮かべ、私の頬から手を離して続ける。

 「そっ。なら、良いんだよ―――さぁ」

 死神の凍える様な手が、私に向かって伸びてきた。

 私はその手の意味が、理解できなかった。

 するとそんな私を見兼ねてか、今度は死神が私の体に抱き着いてきた。

 「......何?」

 そんな私の、風に流されて消え入りそうな声も。それでもなんとかしっかりと死神には

届いていたようで、私の顎の下で死神が顔を上げた。

 「こんな格好してるから寒いんでしょ? だから―――」

 死神が何をしたいのかを理解した私は、その言葉を遮り、頭の上に顎を乗せて黙らせた。

 うぐっ、とう唸り声の後、私に抱き着く死神の力が強くなる。

 私はそれに甘え、全身の力を死神に預けた。

 今思えば、出会って直ぐの死神にここまで心を許したのは何故だろう。

 安心したのは、なぜだろう。

 でも、それでも......この時は。

 さっきよりも暖かい。

 そんな気がした。

 

 それから少しして、風が戸を叩く音と共に2人は立ち上がり。

 また、意味も無くふらふらと歩き出す。

 ただし、先程までとは違うのは、私の前を死神が先導してくれているという所だ。

 私の両手を握り、後ろ歩きで一生懸命に先導してくれている。

 時折、死神が何かに躓いて、私まで倒れそうになったが、その度に死神が私の体に抱き

着いて支えてくれたので、何とかなっていた。

 そして暫くそんな事を繰り返していると、正面に何かが見えてきた。

 私は、「えっほ、えっほ」と呟く死神の手を引っ張り、その場で立ち止まった。

 死神は不思議そうな顔を私に、そして、正面に向けた。

 「わぁ―――」

 正面に広がっていたのは、パレットを黄色のバケツで塗りつぶしたみたいな砂の海と、

真っ黒な絵画の様な荒れた海だった。

 「汚い」

 猫背にムスッと立ち尽くす死神の傍を抜け、私はゆっくり海へ向かって歩き出す。

 これで、ようやくだ―――。

 パシッと音を立て、そんな私の腕を死神の手が掴んだ。

 力無い私の脚は、腕を掴まれただけで止まってしまう。

 「―――何?」

 振り返ると、死神の吸い込まれるような目と合ってしまった。

 こうなれば、話を聞かざるを得なくなる。

 「まさか、飛び込む気? この季節に?」

 死神は逡巡し、しばらくして自分だけで解決したのか、私の腕を離し、その手を胸の前

で抱えた。

 「―――まっ僕は良いんだけどね。でもさ―――あっ、ちょっと!」

 死神の言葉の途中で、私は歩き出していた。

 これ以上あんなのと喋っていると。

 引き戻せなくなりそうだった。

 

 砂の海に足を乗せると、フサッと柔らかい砂に足を包み込まれる。

 既に足裏の痛みは感じなくなっていたのだが、砂のひんやりとした感触は感じることが

出来て、それがとても気持ち良かった。

 私は砂から足を出さないよう、すり足気味に組の傍まで歩く。

 そんな私の背後で、砂を踏み荒らす音がドタバタと聞こえてきた。

 「ちょ、まっ――あぁ! ―――もういい! 知らない!」

 死神の楽しそうな、猛々しい声が聞こえ、最後にと思い振り返る。

 するとそこでは、脛が完全に砂に埋まった死神が、目を瞑って口を両手で囲い、今まさ

に叫び出そうとしている所だった。

 「君は、海じゃ死ねないんだからな! ――海に入るだけ、無駄なんだよ! あと! 僕、

そっちに行けないみたい! 助けてほしいかも!」

 私の眼前で、死神は3度叫ぶと、息を切らして膝に手を着き、肩で呼吸していた。

 「......そんなに叫ばなくても」

 私のその独り言は白い息となって霧散する。

 死ねない? 入るだけ無駄? 

 それは、私にはそれだけの覚悟が足りていないと、そう言いたいのだろうか。

 私は改めて正面を向き直した。

 近づいたからか、黒かった海には少し青が混ざり、海の体を成したその液体は、好き勝

手に波を立て、渦を巻き、砂浜に打ちあがって来ていた。

 しかし、それを見て初めて気が付いた事もある。

 海の中で荒れているのは、手前側だけということ。

 目を細めて奥の方を見ると、波の隙間からはしっかりと水平線が見え、それは白色に淡

く輝いていた。

 少しの間、時折見えるそれに見とれ、立ち尽くしていたが、私は小さく息を吐き、胸が

痛くなる程息を大きく吸い込んだ。

 そして目と頬を張り、ふらふら歩くせいでボロボロになったワンピースの袖を引きちぎ

り、その布で髪を結んだ。

 ポニーテールになった髪が、うなじの奥で風に流されるのを感じながら、私は片足を海

の中に突っ込んだ。

 傷口に海水が侵入するせいか、急激に冷たい海に浸けたせいか。物凄い激痛と共に、足

を浮かしたくなった。

 私はそれを必死で、しかし表に出さないように、歯を食いしばって我慢した。

 すると、案外直ぐに足の感覚が無くなり、スゥと痛みが引いて行った。

 私は息を吐き、もう1度大きく息を吸って、目を張った。

 そしたらあとは―――もう、片方の足だ。

 私は自分の脳みそに考える余暇を与えないよう、もう片方の足も勢いよく海の中に突っ

込んだ。

 直ぐに、同じような痛みが襲ってきたが、私は強く唇を噛み、それを押し殺して感覚の

無くなったもう片方の足を海の奥へと進めた。

 その頃にはもう。置いてきた足の感覚も無くなっていた。

 私は息を吐き切り、ゆっくりと、1歩ずつ、1歩ずつ、ゆっくりと歩みを進めた。

 息を吸わない様に意識していたが、どうしても吸ってしまう。

 なるべく小さい呼吸になる様にしながら、私は進み続ける。

 1歩進み、新しく体の一部が海に浸かる頃には、前に浸かった部分の感覚が無くなって

行った。

 まるで、体が少しずつ亡霊になっていっている様で、怖かった。

 そのせいか、心拍数が徐々に上がり、胸まで浸かった頃には、心臓が強く肋骨を押して

軋んで痛み、ドクドクと音が聞こえてくる程までになっていた。

 意識しなくても、呼吸は浅く、小刻みになっていた。

 白い自分の息が、酷く恋しかった。

 体温が極限まで下がり、意識は不思議とポワポワしていた。

 危機的状況に、脳の処理が、追いついていない様だった。

 それでも私は、問答無用で前に進む。

 死神の言葉を思い出しては、逆にそれに勇気づけられていた。

 死ねない? 無駄? なら私は――。

 「私は――今から――」

 消え入るような声を絞り出しながら、更に1歩前に進もうと足を上げると、急に体が海

の底へと吸い込まれるのを感じた。

 宙に浮いたような浮遊感。

 そして次の瞬間。

 私の視界は紺青色に染まり、自分の吐き出す泡が小さな玉になって浮いて行くのが見え

た。

 私は体に力を入れることが出来ず、勝手に仰向けになろうとする体を制御できない。

 それに身を任せたまま、視線だけを動かしてそれを冷静に追いかけていた。

 泡は、海面に出る頃には大きな1つの塊になり、不思議な景色を中に浮かべていた。

 それを見ているとどうしてか、懐かしい気持ちにさせられる。

 今から死のうというのに、いやに冷静だった。

 でも、何故か――死ぬ気がしない。

 僅かに残っていた肺の空気を吐き切り、泡も口から出てこない。

 残ったのは、紺青色の背景と、そこに浮かぶ私の体だけとなった。

 だが、やはり――どう考えても、おかしい。

 苦しくないのも、意識がハッキリしているのもそうだが。それ以前に――私は、どこま

で沈んで行くのだろう。

 そう進んでない場所で、沈みはじめた筈なのに。

 全身の浮遊感に身を預け、私は久々の脱力を味わうために目を瞑る。

 するとそこで、心臓の音が消えていたことに気が付く。

 私は――死んだ、のか?

 恐る恐る、重い瞼を上に上げてみる。

 どうせ見えてくるのは、面白みの無い一面紺青色の景色だろう。もしくは、もう死んで

いて、どこか、真っ暗な世界に居るのかもしれない。

 考えうる世界の中で、最も退屈な世界しか想像することが出来ない。

 そんな想像とは裏腹に、視界に映えてきたのは、全く違う世界だった。

 小さな泡の渦が、私の全身を包みこんでいたのだ。

 その1つ1つが、紺青色の背景を個性豊かに乱反射し、虹色の景色を映し出していた。

 小さな泡は私の体の下から発生し、海上に流れているからか、どれ1つとして同じ色の

泡は無く、全く退屈する事の無い景色だった。

 そしてそれらに見とれていると、次第に、1つの景色を映し出そうとしている事に気が

付く。

 どこか、見覚えのある――砂浜。

 ――あぁ。思い出した。

 ここは、中学生の頃。友達と遊びに来た砂浜だ。

 それに気づいた時。私は激しい浮遊感に襲われ。

 

 目をゆっくり開くと。

 先程見えた砂浜に1人、ポツリと立っていた。

 周りを見渡してみると、モノクロにくすんだ色のビーチパラソルやレジャーシート。

 それに、顔が黒く塗りつぶされた人間が、わいわいと、走ったり飛び跳ねたり、楽しそ

うにはしゃいでいた。

 私は次に、自分の格好を見てみる。

 ......そうだ。やっぱり。2度と見たくも無かった、ビキニを着ている。

 「ねぇ、そこのおねぇさん―――」

 目を瞑り、息を呑んでいると、横からそう声を掛けられた。

 これもまた、思い出したくも無い、最低の声だ。

 「今1人? 良かったらさぁ―――俺達と遊ばない?」

 馴れ馴れしく腕を回され、耳元で囁かれ。私の体は反射的にビクッと小さく跳ねるが、

それ以降、微動だにすることが出来ない。

 チャラ男の嫌に酸っぱい匂いや、太くて硬い男の体。そして、恐怖からか、急に吐き気

がしてくる。

 私はその場で蹲り、口を両手で隠して嗚咽した。

 出たのは声にならない呻きだけで、身体の中からは何も抜けて行かなかった。

 そんな私の体に影が差す。

 「演技派だね~。いいね! おねぇちゃん!」

 ―――グッ。と、そう音を立てて、私の顔が無理やり起こされた。

 視界が、先程とは違った系統のチャラ男で埋め尽くされる。

 太い2本の指が私の顎に添えられ、メンソールの匂いをプンプンに発しているチャラ男

に、私はまた嗚咽しそうになって、何故かそれを喉で堪えていた。

 ――助けて。

 そんな声は出かかって、結局喉で詰まって出てこない。

 今思えば――何で叫ばなかったのか。

 チャラ男に抱えられ、私はヨロヨロと立ち上がらされてしまう。

 「じゃ、行こうか」

 ――いや、そうだ。

 ......あぁ――思い出した。

 私の腕を掴んで強く引っ張るチャラ男の奥に、私と遊びに来たはずの、友達だった何か

が見えたんだ。

 でも、その2人は。

 ――私に、糞を見る様な目を向けて来ていた。

 私はそれを見て、言葉が喉に引っかかって出てこなかったんだ。

 ――あぁ、もう。限界だ。

 ここは地獄なのか? ここから先は。もう―――。

 そんな事を考え出した時。

 モノクロの視界がチカチカと点滅し始める。

 そして、ある建物に入ろうとしたところで、完全に暗転した。

 その最後、1人分の飲み物を砂浜に捨てながら。

 コソコソと何かを話している、2人のトモダチの姿が見えた。

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