第30話 襲撃者とおじさん
首筋を指でそっと撫でると、微かに湿った感触が伝わる。
指先を見れば、薄く赤く染まっている。
血だ。
あと、ほんの一瞬、反応が遅れていたら――ゾクリと背筋を冷たい汗が滑り落ちる。
咄嗟に杖をねじ込んだから助かったものの、もしあの時、杖を手放していたらと思うと、背骨が凍りつくような恐怖が襲う。
脳裏に、ゴブリンのナイフが首を切り裂く映像がチラつき、心臓が締め付けられるように縮こまる。
凍りついた魔物たちの不気味な静けさに、すっかり慣れきっていた。
完全に油断していた。
下層のゴブリンを初見で複数瞬殺し、ステータスにジョブ、レベル、スキルまで手に入れた。
どこかゲームのように感じていたのかもしれない。
「なんだかんだ、今までみたいに上手くいく」
――そんなふうに、当然のように思い込んでいた。
ゲートの反応、レベルアップの快感、スキルの高揚感に浮かれ、まるで自分が特別な存在だと錯覚していた。
自分だけは死なないと、そう信じ込んでいた。
そんな保証なんてどこにもないのに。
ここは現実だ。常に危険と隣り合わせ、油断すれば一瞬で命を奪われるダンジョンだ。
あれだけ悩み、葛藤していたはずなのに、なぜかそのことを忘れていた。
昨日、ネットで見た動画が脳裏をよぎる。
新人探索者が魔物に無残に殺される映像。
血飛沫、断末魔、引き裂かれた肉体。
一歩間違えれば、自分もああなっていたかもしれない。
心臓がドクドクと脈打ち、全身に鳥肌が立つ。
呼吸が荒く、速くなる。
首筋に走ったチクッとした痛みが、まだジンジンと疼いている。
「何やってんだ、俺……調子に乗ってたわ」
調子に乗っていた。
まさにその通りだ。
なんて馬鹿なんだ、俺は。
俺みたいな、ただのしがないおっさんが、浮かれ気分で踏み込んでいい場所じゃないんだ、ここは。
ダンジョンは、死と隣り合わせの戦場なんだ。
「すぅぅ……はぁぁ……」
冷たい空気を深く吸い込み、浮かれていた気持ちを吐き出すように息を吐く。
俺が死んだら、りっちゃんと綾ちゃんはどうなる?
家で待つ愛する妻と娘の笑顔が浮かぶ。
『まーくん』
りっちゃんの柔らかな囁き声。
『ぱーぱ』
綾ちゃんの小さな手が、俺の指をぎゅっと握る感触。
その全てが、こんな場所で失われるかもしれないと思うと、胃がキリキリと締め付けられる。
そして、自分の馬鹿さ加減に辟易とする。
「まっさん、大丈夫か!? うわ、首から血出てんじゃん、マジでギリギリだったんじゃね!?」
赤木くんの声が、薄暗い屋敷の畳部屋に響く。
彼の顔は心配と焦りで歪んでいるが、その瞳にはどこか頼もしい光が宿っている。
「……本当だよ。タイミングミスってたら、今頃お陀仏だった。冗談じゃなく……っ、痛ってぇ」
「マジで、よく反応できたな、まっさん。って、腕も切れてんぞ!」
自分でも、反応できたのが奇跡だと思う。
死の気配を感じた瞬間、体が勝手に動いていた。
ダンジョンに入ってから、まるで別人のように体が動く。
レベルアップしてからは、それが特に顕著だ。
あの時の痛み――体が作り変えられていくような、骨と肉が軋む感覚を思い出す。
自分が自分じゃない、まるでゲームのキャラクターを操作しているような感覚だ。
だが、同時に、どこか気持ち悪さも感じる。
……この体は、本当に俺のものなのか?
左腕に目をやると、ジャージの袖が二の腕まで裂け、薄い切り傷から血が滲んでいる。
冷たい空気が傷口に触れ、熱を持った皮膚がジワジワと疼く。
まるで体が「生きてるぞ」と叫んでいるようだ。
「くそ、マジかよ。てか、こいつ、いつの間に現れたんだ? 全然気付かなかったわ」
赤木くんが苛立ちを滲ませながら言う。
確かに、ナイフが首に触れるまで、気配を全く感じなかった。
レベルアップの恩恵で五感は研ぎ澄まされているはずなのに。
魔力と呼ばれる謎の力も感知できるようになり、今も目の前にいる襲撃者から微かに魔力が漂ってくるのを感じる。
それなのに、攻撃されるまで気付けなかった。
この無力感が、腹の底から煮え立つような苛立ちを呼び起こす。
「もしかして、さっきの物音って、まっさんの冗談じゃなくて、こいつの仕業だったのか?」
「たぶん、な」
薄暗い屋敷の畳部屋で、俺と赤木くんは武器を構え、突然現れた襲撃者を睨みつける。
囲炉裏の煤けた灰が微かに舞い、畳の擦れる音が静寂を破る。
囲炉裏を挟んで対峙するのは、ゴブリン。
粗末なナイフを指先で摘んでプラプラと揺らし、ニヤニヤと不気味な笑顔を浮かべている。
だが、その笑顔とは裏腹に、ギョロリとした紅い目は、まるで獲物を値踏みするようにじっと俺たちを見据えている。
その視線には、心臓を直接握り潰すような圧迫感がある。
腰に巻かれた汚れたボロ布が揺れ、煤けた畳にサササッと微かな足音が響く。
「見た目は最初のゴブリンと同じにしか見えんけど……全然違うな」
「ああ、明らかに動きが違う。この野郎、俺のメイスを余裕で避けたぞ」
「それに、なんでコイツは凍ってない? 美怜ちゃんの魔法、効いてないのか?」
美怜ちゃんの魔法――屋敷の外では雪が降り積もり、魔物を凍らせる強力な魔法だ。
ここに来るまでに嫌というほど見た、氷漬けになった魔物の姿が脳裏に蘇る。
雪に閉ざされたこの下層の城下町で、動くもの全てが白く凍りついていた。
なのに、このゴブリンは平然と動いている。
なぜだ? 何か見落としているのか?
俺は杖を握り直し、ゴブリンの動きを追う。
チビッとした体を低く構え、左右にフラフラと体を揺らし、ナイフを握る手が微かに震えている。
まるでこちらを挑発するような動きだ。
「ギャギャッ!」
突然、ゴブリンが甲高い声を上げ、ナイフを振り上げて跳びかかってきた。
「うおぉ!?」
「速ぇ!」
さっき戦ったゴブリンどもの鈍重な動きとはまるで別物。
俺の目はゴブリンの動きを辛うじて捉えるが、体がついていかない。
まるでスローモーションの映像を見ているのに、手足が鉛のように重い。
杖を振り上げようとするが、ゴブリンはすでに俺の死角に滑り込んでいる。
「くそ! こんなことなら、夜更かしなんてしないで早く寝るんだった!」
「ギャギャギャ!」
ゴブリンが容易に懐に入り込み、他愛もないとニヤリと笑みを浮かべたその瞬間、ナイフが再び首元に――
「オラぁ!」
ブォン! ガキンッ!
――迫る寸前で、赤木くんの振るったメイスがナイフを弾き、火花が散る。
「まっさん、ぼーっとすんな! 死ぬぞ!」
「すまん、助かった! でも、今日四時間しか寝てないんだよ! もうね、体力的にキッツイの、マジで!」
「おい、40歳の自覚を持てよ! この歳で夜更かしなんて自殺行為だぞ!」
ゴブリンは、弾かれても怯まずにくるりと身を翻して横に飛び、壁に手をついて跳ね返る。
天井の梁に一瞬つかまり、まるで忍者のような動きで俺たちの周囲を縦横無尽に駆ける。
ユラユラと動いて実態を掴ませないその動きは、まるで影そのものだ。
「不規則すぎて動きが読めな……なんだ、あれ?」
視界の端で、黒い靄のようなものが揺らめくのが見えた。
ゴブリンの体に纏わりつく、黒い霧のようなもの。
それが動くたびに尾を引き、俺の目を熱くさせる。
「赤木くん、何か黒い……何だコレ? 変な、もやもやが視えるんだけど」
「何だそれ? まっさん、頭大丈夫か?」
「いや、本当に視えるんだよ。黒い靄みたいのがゴブリンの周りに」
ゴブリンに纏わりつく、いや、ゴブリンから湧き出しているように見える黒い靄。
それはまるで生き物のように蠢き、ゴブリンの動きに合わせて揺らめいている。
「赤木くん、君には視えないの……って、えぇ……君も?」
「どした、まっさん!? 傷、痛むのか!? くっそ、当たんねぇ!」
黒い靄を纏いながら動くゴブリンの攻撃を、荒々しく捌き反撃までしている赤木くん。
そんな彼が視界に入ったと思ったら……。
「……君、なんか、光ってるね」
「はぁ? 光ってる? 頭が? 誰がハゲてるっちゅーねん!? うぉ!? 危ねっ!」
「いや、頭のことじゃなくて、君の体? なんかこう、七色にパァーって。虹みたいのが、パァーって」
「何言ってんだ、まっさ……って、目、赤くね? え、大丈夫か!?」
「目が赤い? 充血してるってこと? 確かに何かさっきから目が熱いなって。酷使しすぎてるからか?」
「違う違う! 充血とかじゃなくて、カラコンしてるみたいに黒目が赤い! なにそれ、超かっこいいんだけど! 中2っぽい!」
「え、ウソ? マジで? え、嫌なんだけど。40のおっさんがそれって、無理くね? いや、それよりも君も酷いぞ、赤木くん。レインボーだぞ、レインボー! 頭から何からレインボーがパァーって!」
「レインボー? さっきから何言ってんだ? とうとう頭おかしくなったか?」
「とうとうってなんだよ。君とゴブリンの体からなんか出てんだよ。なんだよそれ? 視えねぇの?」
「あん? ……なんも見えんが? つか、ゴブリンと一緒くたにしないでくれる? まっさんこそ、ゴブリンと同じような紅い眼してるぞ? 大丈夫なんか? 同じっつーなら自分からはなんか出てねぇのかよ?」
「え、俺? ……うわ、出てるわ」
ゴブリンからは黒い靄。
赤木君からは七色の光。
俺からは、……湯気?
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