忘却のあとに

垂直回転

忘却のあとに

 自宅にあるものよりふかふかな寝具。澄んだ空気を肺に取り込んだ私は、右手を枕元に這わせた。さきほどから耳障りなアラーム音が鳴っている。音を頼りに動かしていた右手はアラームを切ることに成功した。

 午前6時。

 この時間にアラームを設定した覚えはない。

 サイドボードに置いてあるスマートフォンを取ろうと体を起こした時だった。

「おはようございます」

 サイドボードの隣に、ホテルのルームウェアでよくみる浴衣を着た見知らぬ女性が立っていた。年齢は私と同じ、もしくは少し年上な印象を受けた。

「尋問のお時間です」

 無機質に近い声からは感情を読み取ることができなかった。彼女の冷ややかな目と私のチャームポイントである糸目が合う。

「おはようございます……顔は好みだけど本当に誰、え? いま尋問って言いました?」

 寝起きの脳みそはうまく機能してくれなかったようだ。なぜ彼女がここにいるのかまったく分からない。記憶力に自信はないが、職場やプライベートで会ったことがないはずだ。会っていたら、迷わず声をかけるくらい印象に残る人だった。

「状況を整理しましょう」

 私の目線に合わせるよう、彼女はサイドチェアに腰かけた。左手にはタブレットを持っており、画面の上を右手で操作している。その様子が、会議の議事録を作成している姿と重なり、一瞬気を引き締めてしまった。

「A社に所属している私は、忘年会の会場であるこのホテルで社員たちと飲食を共にしていました」

 忘年会。

 私はその言葉を聞いて、昨夜のことを思い出した。

「あ、そうそう。私も忘年会でこのホテルに来ました」

 仕事納めの日に忘年会が設けられており、退勤後すぐに会場へ向かった。上司いわく、ここのホテルのディナーは海鮮料理が美味しいらしい。海鮮料理が好きな私は、嬉々とした足取りで電車に乗ったことを覚えている。

「会場は別々でしたが、昨日の同時刻にA社とB社の忘年会がありました」

「あー……私がそのB社の社員です」

「私の憶測ですが、酔っ払ったあなたが会場を間違えたうえに粗相を起こした。そこで私が仕方なく面倒を見た、という可能性があるかと」

 感情の起伏がない淡々とした声で言われると、彼女の言っていることが正解のように思えてきた。

 実際、私は酔い潰れてもいいように、このホテルの部屋をあらかじめ予約していた。そのため、浴びるようにお酒を飲んでいたことは覚えている。

「お酒をたくさん飲んだ記憶はありますが、あなたはどこまで覚えていますか?」

 私の質問に、彼女は右手を止めた。何かを思い出すように口元に手を当て、私から視線を逸らす。

「忘年会で、同席していた社員による彼女自慢と猫自慢に板挟みされていたのは覚えています。しかし、その後は覚えていません」

 どうやら彼女も忘年会の途中から記憶がないらしい。彼女もお互い同じ部屋にいる理由が分からない、ということだ。

 しかし、私にはひとつの確信があった。

 彼女の気の強そうな所、他人にも自分自身にも厳しそうな風格。いわゆる真面目な人を好きになってしまう私は、何かのきっかけで偶然鉢合わせた彼女を口説き、ワンナイトに漕ぎつけたと推測した。

「正直に言うと、あなたは私好みの人です。私が口説いてワンナイトに辿り着いたかもしれません」

 私は正直に、包み隠さず話した。

 好きになった人にしか口説かない。

 酔いつぶれても好きになった人以外とは寝ない。

 このルールは、学生時代から一度も破っていない。

「ああ~でもお互い着衣のまま目が覚めたのならワンナイトの線は薄いかな~?」

 眉間にこれでもかと皺を寄せる彼女にぎょっとした私は、自身の推測を即座に否定した。まるで彼女は、その可能性は皆無だと訴えているような視線だった。

「確かに、目が覚めた時はお互い服を着ていました」

「ほらほら~」

「私は帯だけでしたが」

「駄目じゃあん」

 ルームウェアである浴衣の帯のみの着用を着衣と言っていいのか疑問に思った。

 片方がほぼ全裸で目が覚めるのは、裸族でない限りアウトでは?

「仮にあなたの言う通りだったとしましょう」

 彼女は軽く咳払いをし、手元にあったタブレットをサイドボードに置いた。姿勢を正してこちらを射抜くように見つめる。

「私たちは社内行事に参加していました。社内行事中にこのようなことが起こったのかはまだ分かりませんが、私たちは会社の顔である社員としての自覚を持って行動するべきでしょう」

「う、うーん?」

「ですから、こうなってしまっては仕方ありません。きちんと責任を取ってください」

 真面目すぎる言葉に困惑している私を畳みかけるように言い放った。

 社員としての自覚をもって責任を取る?

「つまり、ビジネスとしてあなたとお付き合いする、と?」

「……そういうことになりますね」

「ああ~どうしてそんな顔するのごめんって」

 彼女はまた眉間に皺を寄せていた。私は間違った捉えかたをしたのだろうか。

 そもそも、私と彼女に何があったのか分からないままだ。

 私と彼女に何かあった場合、彼女の言う責任について向き合わなければならない。

 私と彼女に何もなかった場合、お互い責任を負うこともなくこの場で解散することができる。

 どちらかをはっきりさせるために、私はひとつ提案をした。

「えーっと、提案なんですが、責任を取る前に記憶を呼び起こしてみませんか?」





 午前5時45分。

 アラーム時計よりも15分早く起きた。目覚めた原因は、隣に何かがいると感じたからだ。目を開けると、自宅とは異なった天井が視界に広がる。

 忘年会があり、帰宅が面倒だという理由で宿泊の予約をし、今はホテルの部屋にいる。

 私は少しずつ記憶を辿って行った。

 ここがホテルの部屋ならば、隣にいるのは実家にいる犬(チャンピオン♀6歳)ではないことは確かである。ならば、抱き枕の可能性がある。私は一縷の望みを抱きながら、ゆっくりと顔を横に向けた。

 そこにいたのは、静かに寝息を立てる黒髪の女性だった。耳と唇と首にピアスの穴があることを目視した私は、慌てて距離を取った。身なりに厳しいA社に所属している私は、彼女が同じ会社に勤めている人ではないと確信した。

 反射的に体を起こした私は、自身の異変に気が付いた。

 服を着ていない。

 かろうじて帯がお気持ち程度に太ももの上に乗っていた。

 隣にいる女性は客室のルームウェアである浴衣をしっかりと着ている。私だけがほぼ全裸であることに疑問に思いつつ、掛布団の上からずり落ちそうなルームウェアを掴んだ。

 午前6時。

 アラーム時計の目覚まし音が鳴り響くと、黒髪の女性が眠たそうにのろのろと右手を這わせていた。アラームを切ると、彼女は深呼吸をして目を開く。開いた眼は切れ長で、糸目に近かった。

「おはようございます。尋問のお時間です」

 私がそう言うと、彼女は肩を一瞬震わせ、慌てて私のほうへ顔を向けた。

 私と彼女で状況を整理すると、忘年会の途中から朝までの記憶がないことが分かった。そして、その空白を思い出すよう試みようと彼女が提案した。


「昨晩と同じ行動をする」


 彼女が提案した方法はどこかで聞いたことがある。確かに、その方法で解決した事例を知っている。有効的な手段だと思った私は、彼女の解決策に賛成した。

 昨晩と同じ行動として思いつくものは、ふたりが玄関に立つことだった。ドアを解錠して彼女を迎えた場合、もしくは一緒に部屋に入った場合でも、必ずふたりは並んで玄関に立つだろう。

 玄関に立ってみようと提案しようとした時だった。

「……ずっと見ぬフリをしていたんだけど、その首元にあるキスマーク、もしかして私がつけた?」

 彼女は私の首元にある薄いキスマークを指摘した。

 私は彼女以外の可能性を考えた。しかし、社内では厳しい人と評価されている私にキスマークを付けようとする人はいないだろう。それに、社員の中で意中の人はいない。目の前にいる彼女以外ありえない。

「あなた以外誰がいますか? ちゃんと見て思い出してください」

 ルームウェアを着た時に、胸と腹にキスマークを見つけた。それを見せるためにルームウェアを前開きにした。

「はわッあわわ」

 彼女は慌てて顔を逸らしながら手で覆った。間の抜けた反応を見た私は、ため息をついて前を閉じ、帯を締めなおした。

「自分でキスマークをつけた可能性も……」

「自分で首にキスマークが付けられるか、あなたで試してみますか?」

 彼女の頭を両手で掴む。思っていたよりも柔らかい髪質に驚き、つい撫でてしまった。どうして撫でられているのか分からないような表情をしている彼女を無視して話を続けた。

「仮にあなたがキスマークを付けたとしましょう。そうであれば、これは重要な鍵となります」

 ふたりが玄関に立つことよりも、効果が期待できそうな方法を思いついた。

「キスマークと同じところに口づけをする。これは記憶を呼び覚ます有効な手段だと思いませんか?」

 彼女も最も有効な手段だと思ったのか、ハッとして視線を合わせた。

「記憶がない状態だから一応はじめましての女性に朝っぱらからキスしてもいいってことですか?!」

「うるさい。非常事態なので許可します」

 彼女の眼差しは、おやつを目の前にした飼い犬に似ている。糸目な彼女は喜んでいるのか、さらに目が細くなったように見えた。どちらかというと、彼女は犬より狐に似ている。

「それじゃあお言葉に甘えて♡」

 茶化すような口調で言ったあと、彼女はベッドから降りた。私も立ち上がり、お互い面と向き合うと身長差に目移りしてしまった。ベッドに座っていて分からなかったが、彼女は身長が高かった。

「痕は付けないでください」

「はーい」

 それを合図に、彼女は首元にあるキスマークを上書きするようにキスした。痕をつけないように意識した軽いキスだったが、わざとらしく音を立てている。そのせいか、鎖骨の下に口づけをされた時はくすぐったかった。

「なにか思い出した?」

 ふふ、と思わず噴き出した私に微笑みながら聞いてきた。

「まだなにも」

 彼女は私のことをタイプだと言った。ということは、私のことを好いているのだろう。しかし、私は彼女のことが好きなのだろうか?

 今まで、彼女のような人を好きになったことがない。

 それなのに、私は彼女と一夜を過ごした。

 誰かと夜を明かすのは何年ぶりだろうか。

「あ」

 私は何かを思い出しそうになった。あともう少しのところなのに、頭のどこかに引っかかっている。

「あと少しで何かが思い出せそうなのですが」

「え?! 本当に?! 頑張って!! 思い出して!!」

「ち、ちょっと?!」

 彼女は懸命に残りのキスマークを上書きしていく。それがまたくすぐったく感じ、さきほどよりも笑いがこぼれてしまった。そのせいか、頭に引っかかっていた記憶がどこかに飛んで行ってしまったようだ。

「……思い出しそうだったのですが」

「あ、やりすぎちゃったかも。ごめん……」

 すべてのキスマークを上書きした彼女が、申し訳なさそうに私の帯を解いた。

 表情と行動が一致していない。

 帯を完全に解かれたため、正面の素肌が露になる。彼女は私の左頬に軽くキスをし、ルームウェアと素肌の隙間に手を忍ばせた。

「……これ以上したら、事後の真偽なんて関係なくなりますよね?」

 私は少し強めの口調で言い放ち、牽制するように彼女の腕を軽く叩いた。

 私たちは事後かどうかを思い出すためにこのような行動をした。しかし、思い出していない状態で色事を起こすことは、事後ではなかった可能性を潰すことになる。

「駄目?」

「駄目です」

「即答じゃん」

 彼女はしぶしぶと腕を引っ込ませ、私の腰に帯を結んだ。帯を器用に結び、襟を整えた彼女は残念そうに肩を落とした。

「そういえば、あなたは朝の支度をしなくていいのですか?」

 リビングにある掛け時計に目をやると、時計の針は7時を指していた。ホテルの朝食はもう始まっている時間だ。

「え? あ、ここ私の部屋じゃない!!」

 ようやくここが自室ではないことに気付いた彼女は、慌ててルームキーを探し始めた。

「ここにあなたのルームキーがあります」

 私の右手には彼女の部屋のルームキーがある。良くないことが起こった時の保険として、彼女のルームキーはあらかじめ私の近くに置いていた。そしてついにこの切り札を使う時が来たのだ。

「タートルネックを一日貸してください」

 彼女はリビングにあるソファに、昨日着ていた洋服が綺麗に畳まれていることに気が付いたようだ。首元にあるキスマークを隠すためだと察すると、彼女は申し訳なさそうに視線を落とした。

「あー、昨日着た服は貸せませんよ。お酒やたばこのにおいが付いていると思うので。今日着る予定だった服もタートルネックなので、それを着てください」

「それでしたら、あなたも私が今日着る予定だった服を借りてください」

「そんな気にしなくてもいいですよ」

 さきほどまで、私を抱こうとしていた積極的な行動とは真逆に、消極的な気遣いをされてため息が出てしまった。

「ちなみに、あなたはこのホテルに何泊する予定ですか?」

「……2泊する予定なので、チェックアウトは明日ですね」

「そうですか。私も明日チェックアウトします」

 私は彼女のルームキーを前に差し出した。この部屋とは異なった番号がカードに印字されている。私の部屋の番号とは全く異なり、そもそもフロアも違う。間違えてここに来たという可能性は無さそうだ、と今さら思ってしまったのは、私がやっと冷静になってきたからだろう。

「今夜、あなたの服を返しに行きます」

 彼女はきょとんとした顔で私を見つめた。糸目な彼女から薄茶の瞳が見える。

「え? また会えるんですか?」

「私はあなたの服を返しに行きます」

 あまりにも棒読みだった。

 彼女は再び糸目に戻り、唇の端を上げた。

「ワンチャンあるってことですか?!」

「私はあなたの服を返しに行きます」

「大丈夫です! チャンスを生み出すよう頑張りますから!」

 彼女は胸元で拳を固く握りしめた。私の隙は、彼女をやる気にさせるには十分だったらしい。

「はあ、今は取り敢えず服を貸してください。朝食が間に合わなくなります」

 私たちがやり取りをしている間も時計の針は刻々と傾いていく。あまり時間をかけると、満席になって待たされる可能性がある。

「分かりました!」

 彼女は自室のカードキーを持って元気よく飛び出して行った。昨日着ていた服やスマートフォンをこの部屋に置いたまま。

 ため息をつくと、急に静かになった部屋では大きく聞こえた。革のソファに腰かけ、暖色の間接照明をじっと見つめる。

 結局、一夜に何が起こったのか思い出せなかった。

 彼女がどのような人なのか分からない。

 しかし、あともう少ししたらこの部屋のドアのチャイムを鳴らしに来るだろう。そして、糸目をさらに細めてこう言う。

「ご一緒に朝食でもいかがですか?」

「このあと特に用事がなければ、私とどこかへ行きませんか?」

 朝食を食べ終えたあとも、私の隣には彼女がいる。そのような光景が安易に想像できた。

 忘れてしまった空白の時間で約束をしたのだろうか。

 忘れているのに、忘れていないような感覚は初めてだった。

 不思議な気持ちを堪能していた時、部屋にチャイムの音が響いた。

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