第3話

 少し城の話をしていると、大して待たないうちに厨房からここの主人の妻が出てきて、料理を持ってきつつイアンに挨拶をした。

 忙しい店を切り盛りする女性らしい、溌溂とした印象で、娘と娘婿がお世話になっています、と明るい表情でわざわざ挨拶をしに来てくれた。

 店も客が多かったのでどうぞお構いなく、彼に相手をしてもらいますからと言うと、娘婿にも「頼むわね、じきに義兄さん戻って来てくれるから」と明るく声を掛けてまた厨房に戻って行った。

 娘婿はジャーウィンという名で、娘はリディというらしい。

 家族構成などを聞いているうちに、レイドンという名の、バーの主人が戻って来た。

 言ってた通り、彼はヴェネトで人気の酒を持って来てくれ、以後、出て来る食事の解説をしながら、共に酒を飲んでくれた。

 曾祖父の代からここに店はあったという。

 まさに王都ヴェネツィアの老舗というわけだ。

 空になった食器に書かれた店名に、随分後になってイアンが気付いた。

「これ店名?」

「そうです」

「今気づいたわ。ヴェネトに来たばかりの時、知り合った人にヴェネトでオススメの店聞いたことあんねん。ここの名前出とった」

 レイドンは新鮮な海の幸の素焼きをさすがに手際よく切り分けながら、笑った。

「実はちょっと有名店なんですよ。歴史もあるし。元々ここは曾祖父の店で、弟で三代目。

俺は初代として別にバーを出したんです。前国王陛下もよくこの店に来て下さったんですよ」

「前国王陛下?」

「ご存じですか?」

「いや……あんまり詳しくは。ただ、十代の時に王位継承して、在位五十年だかの長期政権を持った偉大な王様だったってのは聞いたよ」

「そうです。ヴェネトには偉大な王は何人かいますが、その中の最も輝かしい方といっていいでしょう。偉大な方ですが、気さくな性格をなさってて。それこそ宮廷料理よりヴェネツィアの大衆食堂で、私たちと一緒に食事なさることを好んで下さった」

 へぇ……とイアンは初めて聞く話に耳を傾ける。

「海から戻ると、いつしかまずこの店にいらしてくださって」

「陛下のお話?」

 女将が鍋を持ってやってきた。

「それなら丁度良かったですわね、陛下はうちのこのパスタ・エ・ファジョーリはヴェネツィアで一番美味しいと贔屓にして下さったんですのよ」

 蓋を開くと、煮込まれたスープの、いい香りがする。

「おわ~! 匂いがすでに美味しいわ!」

 レイドンが笑いながら、すぐに皿に盛りつける。

「さぁどうぞ!」

「いただきます」

 イアンが手を合わせてから、大きめのスプーンでスープを飲むと、間を置かず「美味い!」とすぐに言った。

 それまでも店の中では、イアンの真紅の軍服は目立っていたようで、今日はスペイン海軍の将軍さんがお見えなんですよ~とあちこちで女将が自慢してくれたおかげで、今日は特別な客がいると他の客もすでに分かっていたらしく、他国から来た将軍職であるイアンが思い切りよくそう言うと、拍手と歓声が上がった。

「ごめんごめん! つい口に出た」とイアンが笑って他の客に一度立ち上がって声を掛けたが、店内は温かな空気に包まれる。座り直して、もう一度、スープを飲んで頷いた。

「本当に美味しい。王様が気に入るわけや」

「ありがとうございます」

 弟の店の料理を誉められ、レイドンも嬉しそうだ。

「さっき海から戻るとって言っとったけど……」

「ああ、前国王陛下は何ていうか、特別な方でしてね。あの方が即位なさってから、ヴェネトは他国と交易が増え、栄えたんですが、同時に交易船を狙って海賊が、アドリア海に出没するようになったんです。それで、陛下自ら海上の守護職をなさったんですよ」

「海上の守護職って、海軍か?」

「事実上、そうですね。陛下は自ら船に乗って、ヴェネト周辺の海域を常に回遊し、我々の暮らしを守って下さった方なんですよ」

「そうなんか⁉ 初耳やで、ヴェネトに海軍があったなんて……」

「海軍、という言い方はしてませんでしたからね。あくまでも陛下がご自分の近衛団と共に、海にお出ましになっていたというだけで」

「知らんかった。もっと話聞きたい」

 素直なイアンの言葉に、レイドンとジャーウィンは笑う。

「海に出てたってどれくらい?」

「もう一年のほとんどですよ。王宮には滅多に戻られませんでした。それでも王宮も、王都ヴェネツィアも、王が不在でも少しも動揺はなかった。陛下は不在ではなくもっと我々の近くに、外にいらしてくださいましたからね。

 陛下は若くして船の操縦術を学ばれ、ご自分で船も動かせましたし、いざとなれば船員に混ざってなんでもおやりになりました。剣も弓もそれは腕が立って。そこらの兵士じゃ陛下の足元にも及ばないほど武芸もお強い方でした」

「へぇ~~~~~っ」

「勇敢で、豪気で、あの方がヴェネトにはいらっしゃると思ったら我々はいつも、安心して日々を暮らせました。王なんてのは、どこへ行くにも逐一先にお触れを出して、準備をさせてから行くもんですが、あの方は『ちょっとヴェネツィアに戻るか』の一言で、ふらりと戻って来られる。

 普通の兵士のように街を歩かれ、いい匂いがする所へ我々と同じように立ち寄って行かれて……本当に、ヴェネツィアの……いえ、ヴェネトの全ての民が、あの方をお慕いしてましたし、あの方は我々ヴェネトの全ての民の、父のような方でした」

「知らんかったわ。そんな人やったんやね。自分で海に出て戦ってもいたなんて」

「それはお強い方でしたよ。体つきもそらぁ見事な方で。譲位なさった時も、何の衰えもないまま、ご自分が隠居なさった後も海の守護として努めておられた」

「……嫌なこと聞いて悪いけど、亡くなったのは、確かご病気だったよな」

「はい。驚きでした。本当に身体の丈夫な方でしたから。しかも民に亡くなったことが知らされたのは、随分後のことだったのです。今の陛下は国としての葬儀もさせてくれなかった。陛下の遺言で、そうなさったらしいですけど……。というのも、陛下はご自分がどういう王か、ちゃんと自覚がおありになった。自分が在位の長い王だったから、次に立つ王は比べられて大変だろうと、そういうことまでお考えになっていらした。あまりにも壮大な葬儀を行うことは、国の為にならないと、禁じられたそうです。陛下の人柄を知ってる我々は、あの方ならそういうことは仰るかもしれないと、そう思いましたから……。

 陛下がお亡くなりになったことが知らされると、王都ヴェネツィアの民は水路に七日間光を浮かべ続けて、自主的に喪に服したんです」

「【水神祭】で見たよ。綺麗やったな」

「はい。壮大な葬儀は禁じられても、それくらいなら陛下も喜んで下さるだろうと」

 しばらく食事の手が止まってしまったが、レイドンが気付き、どうぞどうぞ温かいうちに、と食事を再開させる。

 イアンも頷きつつ、

「前国王陛下ってことは……今の陛下の」

「今の陛下は婿養子で王家に入られたのです。ですから王妃の実の父上ですね」

 イアンの脳裏に、王妃セルピナ・ビューレイの姿が浮かんだ。

 今の話が本当なら、父親と王妃が似てるのは、自信に満ちた覇気くらいだ。

 父親の方はその覇気を、民を守るため、安心させる為に使ったが、娘の方は他者を威圧することにしか使っているのを見たことがない。

 それに、王妃は常に王城にいる。

 病床の王がそこにいるからという名目は立つが、イアンの国であるスペインでは、王妃は王の片翼だった。

 王が戦場に出るような時は、王妃がどっしりと王城に構えているが、王が城に在るべき時は、王妃や王の子が、外遊に出て、他国と交渉をすることもあった。

 王都の民が王家を信頼してなければ、周辺の地域にも信頼は伝わって行かない、がイアンの母である王妃の口癖で、彼女は気安く貴族に呼ばれるようなことはしなかったが、必ず定期的に、自分の名で、有力貴族の中から家を選び、サロンを開き、芸術や講義を開催した。その際にその領地に民に施しをさせ、だから民は王妃がいつ、どこの土地へ赴いたのかも知っている。存在感があった。

 気安く触れる身分でなくとも、スペインの民は王妃を身近に感じているはずだ。

 王家の子供が多いので、王子たちは各地に散らばって、王や王妃の威光をその地に伝える。イアンは末の王子だったので、王都に置かれることが多かったが、王都にいると民の、王と王妃への信頼は確かに感じることが出来た。


【シビュラの塔】の発動を、あまり王都の民の前ではイアンは口にしていない。


 本当は一人一人にどう思っているのかを聞きたいくらいだが、『スペイン海軍の人間がやたら【シビュラの塔】のことを聞いて来た』などと王宮に報せが行くのはマズいからだ。

 それにしても、民たちも、普段あまりその言葉自体口にしない感じはしている。

 偉大な前国王への信頼を今日耳にして、イアンは王都ヴェネツィアが警邏隊の件や、何やらで治安が著しく悪化しているのに、どこかまだ民には安心感があるような気がする、その訳が分かった。

 前国王への信頼が、今でも、王家に対しての忠誠心になっている。

【シビュラの塔】と前国王の偉業。

 この二つでヴェネト王家は今、自分たちの身を守っているのだ。


(でもそれは)


 何故か、あの仮面の男の姿を思い出した。

(今の王や王妃に対する信頼じゃない)

「あの……イアンさん……」

 不意に押し黙ったイアンに恐る恐るレイドンが声を掛けた。

「ん⁉ ああ、ごめんごめん! 初めて聞いた話に驚いてもうて。どの料理も美味しいで。大丈夫!」

 イアンが笑うと、レイドンとジャーウィンは安心した顔を見せる。

「いや……ごめんな。こんなこと、他国から来た俺が言うと角が立って聞こえるかもしれんけど……。今聞いた王様の話、本当に驚いてな。ヴェネトは海軍を持ってなかったのに何で長い間侵略を受けへんかったのかと思っとったが……。前の王様はなんつーか、今の王家の人とは、随分印象違うんやな。いやまあ、その王様の方が特別変わっとったって言うべきなのかも知らんけど。今の王家の王妃様も王子様も、あんま城から外に出てるとこ見たこと無いから……」

「それは、俺たちも同じですよ。陛下とあまりに違い過ぎて、分からんですわ。今のヴェネト王宮が何を考えてるのか」

 イアンはレイドンを見る。

「でも、陛下が長い間、我々を守り続けて下さったんです。例え何があっても、我々が暗い顔をしてたら、陛下に申し訳ない」

「はは……ホントにおっちゃん、自分の父親みたいに陛下のことを言うんやな」

「俺たちにとっては本当に父親のような人でしたよ」

 レイドンが誇らしそうに言った。

「民にそんな風に言ってもらえる王様は幸せやな。きっと今もおっちゃんの言葉喜んではるで」

 イアンが優しい声で言うと、一瞬しんみりしたレイドンが明るく「そうだと嬉しいですね」と笑った。彼は確かに涙ぐんでいた。

 本当なのだ。

 その王が、ヴェネトの民に自分たちの父のように強く慕われていたことは。

(もしその王様が今も生きとったら……【シビュラの塔】なんて絶対起動させなかったはずや)

 でも今の王宮には、その威光を笠に着て、古代兵器を撃つ者がいる。

 そこまで考えて、イアンは仮面の男を塔に追い詰めた時「お前は守護職か」と尋ねたことを思い出していた。それは咄嗟に出た言葉で、街をうろつく単なる連続殺人者だと思えなかった為、聞いてみたのだ。

 彼は答えず、飛び降りたが……。

 腐敗した警邏隊を殺し、王宮に現われた。

 ラファエル・イーシャの話と照らし合わせると、彼らは二人いて、一人が王宮で騒ぎを起こし、もう一人は【シビュラの塔】方面に向かった。

 そんな危険な見学を、誰がするのかと聞いたのはイアン自身だった。

 確かに割に合わない。

 ただの賊が行ったって、仕方のないことだ。

 ヴェネトの治安を脅かす反乱分子、それも考えたがそれならば、わざわざ警邏隊を狙わずとも、民を狙った方がずっと王都の混乱は大きくなる。無差別に殺しを行ってない。

何かの目的を持って、彼らは動いているのだ。

 イアンは今日、この話を聞くまで、ヴェネト王宮はただ一つだと思っていた。

 しかし、そうではない。

 民はそうは思っていない。

 偉大な前国王の時代と、今は時代が変わった。

 それを憂う者は、ずっと多い。

 それを考えて、イアンはレイドンに聞いてみた。

「おっちゃん。前の王様が率いた海の守備部隊、その王様と一緒に戦ったからには相当強かったんやろ。スペイン海軍でも、優れた指揮官に率いられる艦隊は滅茶苦茶強い」

「そらあもう! そこらの海賊なんか一撃ですわ!」

「今そいつらどこに消えたんや。王様が亡くなったって、そいつらは消えてないやろ」

「……譲位なさった後、陛下は艦隊の大半は、城の守りに回されたんです。ご自分は引き続き海の上にいらっしゃって、いくつかの艦をお持ちになり、大きな交易船の護衛のようなことをされていました。その頃には、ヴェネトの海には【海神】がいると噂が立ち、海賊たちも鳴りを潜めていましたからね。ヴェネトの海は、安定していたのです」

「んじゃ城に残りの部隊がおるんかな?」

「いえ。城の者の話じゃ【有翼旅団ゆうよくりょだん】は今の王が即位した時、みんな解散させられちゃったって聞きましたが……」

 イアンは緑を瞬かせた。

「ちょっと待って。今【有翼旅団】って言った?」

「はい」

「それ、前の王様の守備隊の名前か?」

 イアンの話では、フェルディナントが、王妃から討伐を命じられた賊の名前が確かそうだったような。

 しかし、ああ、とレイドンが明るい顔で笑った。

「いえ。陛下自身がそう名乗られたわけじゃないんです。我々ヴェネトの民が、伝承になぞらえて勝手にそう呼ぶようになっただけで」

「伝承……?」

「はい。古くからヴェネトに伝わる、伝承があるんです。まだヴェネトが小さな自治の集合体だった頃、王家もこの地にまだ無くて――それでもいつしか、誰に言われずともこの地の人々が侵略や天災で困っていると、船に乗った名も無き一団が現われて、施しや守りを与えてくれるという。

 まあ、海の国ではよくある御伽噺ですな。

 ……幸せな。

 陛下はヴェネトの王であるという理由一つで、五十年もの間自ら海に出て、海の上で戦って、我々を守って下さいました。

 御伽噺のような幸せと守りを、本当に与えて下さった。だから我々が【有翼旅団】と本当の意味で呼ぶのは、陛下と共に戦ったあの人たちだけなのです」

「私の祖父も【有翼旅団】に憧れて、昔から剣技を私に学ばせたんです」

 ジャーウィンが言った。

「いつか陛下と共に私がヴェネトの為に戦うようにと……残念ながらその夢はもう叶いませんが……。ですが、私は頑張って、陛下の愛したヴェネトを守りたいと思っています」

 そう言ったこの家の娘婿を、レイドンは優しい表情で見ていた。姪にとって良い相手だと思っているのだろう。とても幸せそうな家族だ。

 幸せだった、ヴェネトの記憶と共に生きている……。

 イアンはそうか、と若い兵の肩を笑って叩いてやった。

「がんばれよ」

「はい!」


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