一、凛樹の苦悩
冬が明けた。
華やかな色と装飾で飾られた街に暖かな光が差し込む。紅、黄、紫の雅やかな花々が咲き競い、深緑の竹林が繁けている。山の解けた氷とともに、宵とはまた違う人々の
まだ少し肌寒い風が抜ける大通り。そこに展開されている露店には人が群がっていた。それ掻き分け、四大商家の一つである
「今日はいつもより食い物が多いな」
凛樹はいつも通り歩きながら露店を見回していた。"この質屋の前は陶器の露店があったはず、もう出店を辞めてしまったのだろうか。あの柄のお皿を買っとけばよかった。ここの団子は材料を変えたのか?少し味が違う気がするな"と、雰囲気を楽しんでいた。
だが突然、
「誰か!誰か助けてください!」
声がする方を振り向くと、焦りに駆られた女と、うずくまる男の子がいた。
「厄介ごとに巻き込まれたら時間を取られる…ここは無視して…いやでも……」
数秒葛藤したのち、時間など後でどうにかすると決め、走って助けに向かった。
「何があった!」
「多分のどに
女は必死に男の子の口の中に水を流し込む。通常であればこの対処で良いのだが、今は硬い物が詰まっている。逆効果だ。
「無理に水を飲ませるな!背中を叩け!」
凛樹は西洋の教本で見たことがある対処法を思い出し、すぐにそう言い放った。
女は背中から音が鳴り響く程の威力で男の子を叩く。
男の子は苦しそうにもがいている、が糖果が出る気配はない。
「クソッ、少し危ないがこうするしかないか」
おもむろに凛樹は立ち上がると、女をどかし男の子の腹の上で手を握りあわせる。そのまま上に押し込み腹を圧迫し始めた。だが徐々に苦しそうにもがいていた男の子の手足から力が抜けていく。
(頼む。あとひと踏ん張りだけ。)
凛樹は誰よりも願い、より一層強く突き上げた。
だが周囲の皆は暗い顔をしていた。
「ぁぁ…!そん…な…」
周囲を見渡し絶望に落とされる女。目から涙を出しかけたその瞬間、
口から嗚咽の音と共に橙色の塊が出てきた。
周りの通行人からは耳を壊さんばかりの歓喜の声が上がる。
女は絶望から戻り、一瞬効果音が付くような明るい顔をした。そしてそれはすぐに安堵の涙へと変わる。
「ああっ、よかった…本当にありがとうございます…!」
女の足の力が抜け、うずくまりながらも声を出す。
「いえ…今度からは子供が食べるものにもっと気をつけてくださいね」
凛樹は少しばかり厳しい口調で女に助言する。たったその一言が深く刺さったのか、女は泣きながら無言でうなずいていた。
ふと周囲に目を配ると、拍手が凛樹に向けて行われていた。急に噴き出た冷や汗を腕でかき、ほっと一息をつく。
対処法を思い出せた事、諦めなかった自分の行動を振り返り正しいことをしたのだと結論付け、地面に尻を付けた。
少しの休憩後、ふと気になり何気なく蓋を開け時計を見ると、休みがあと
「何かお礼を…」
女は極度の緊張から解放された安堵により足が震えていた。だが立ち上がりお礼をしようと凛樹の方を向いた。
「大丈夫です先を急いでいるのでそれでは!」
先の冷静さを失い顔が青ざめた凛樹は粗雑に女の誘いを途中で断り、すぐに立ち上がり荷物をまとめ走り出す。普段なら釣られてしまう露店の匂いや物にすら反応できないほどの理由があった。目的地へ続く二つある道の一つである"
絶対に罰を回避したい凛樹は心の中で叫ぶ。
(おっちゃんに怒られるのだけは勘弁ッ!)
*
「はあ…はぁ…はぁ……」
全速力で走り続け、凛樹はようやく裏路地の前まで辿り着くことができた。荒れた息を整えるために深呼吸をする。
「すぅー…はぁ…よし…」
もう一度走り始める凛樹。普通の女子なら躊躇するような暗い道でもお構いなしに進んでいた。それもそのはず、凛樹はこの街に物心ついた頃から住み、裏路地についてもそれなりに知識があった。商家の皆からは注意するよう言われているが、正直なところ、この道は大通りと大して変わらないと凛樹は思っていた。彼女から言わせれば、相違点は雑草が生い茂り、瓦落多が落ちている所、あとは暗い。アただそれだけとしか感じていなかった。
街の人々からすると普通ではないこの道は、今や誰も使おうとは思わず、理由もない。だがこの道を使う意味が凛樹には存在していた。
するすると針を縫うように迷路にも似た道を走っていく。昨日の雨のせいか日の当たらないこの道は所々地面ぬかるんでいた。だがそんなことは眼中にない凛樹は、ただ時間に間に合わせようと必死だった。
この路地最後の角を曲がると、そこには商船が行き交う雄大な海を見下ろせる、この街ただ唯一の崖があった。廃墟に挟まれながらもそこに
大樹の目下にある色とりどりの花。そしてそれに囲まれた祠。先代当主である
「隅々まで綺麗にさせていただきます」
凛樹は手を合わせ、目的をしっかりと伝えた。一方には雑巾、もう一方には近くの空き家に前回片付けてあった
「ああもう、なんでここに蜘蛛の巣作るかなあ」
三か月毎にしか来ていないせいか、毎回たくさんの落ち葉や、祠に巣を作る虫がいる。また不思議なことに此処には動物が集まる。特に猫が多いのだが、こちらを敵視している様には見えない。普段の野良猫なら自由気ままになんでもちょっかいを出す。だがここの猫は違い、逃げたり、噛みついたりしない。掃除のためにどいてもらうことはあるが、無理に追い払うことはない。昔は荒らされないが心配だったが、ここまでおとなしいのだからきっと祠を荒らさないだろうと凛樹は最近信じ始めた。
その後も掃除を続け、ついつい文句が出てしまうことがあったが普段の数倍の速さで磨き上げ、終わらすことができた。
「おっと、今の時間は…」
時計の蓋を開けると、針は
「あと四半刻か」
来た道を戻ると確実に間に合わない、これはやはり
*
遠回りよりも暗く
(最悪だ…)
前にはニヤリと下品な笑みを浮かべた男が二人いた。
「お前身なりがいい。何か金目の物を持っているだろう?早く出しやがれ」
げそっとした男が言う。
「本当に何も持っておりません。」
金になりそうなのは時計しかなかった。だが、これは、これだけは譲ることのできない代物であった。幸いな事に内
(しらを切って、やり過ごす。これしかない)
動揺した顔を見せまいと、必死に冷静そうな顔を作った。
「何で睨んでんだよ。クソガキが」
ただ、凛樹の表情筋は自身が思った以上に硬かった。想像したよりも短気だった男は、これだけのことで頭に血が上ってしまった。
いきなり蹴りが凛樹の腹に入る。少しの浮遊感と骨が軋む音が体内に響き渡った。
「アがッッ…!」
声にならない声が自然と出た。
「なんもねえっていうなら...嬢ちゃん。お前、いい顔してやがる。ちょいとチビだが
太っちょな男は凛樹の瞳を刺すような眼光で覗き込み、そう言い放った。
体は痛みでいうことを聞かない。もう一度足を動かそうと努力はしているが、華奢なこの体にはげそ男の蹴り一発で十分なほどの威力であった。喉は恐怖によって強張り、ヒュッと擦れた
「おい、売り物に傷を付けんな。早くこいつを縛って ――」
そう言いかけると、げそは突然足元が滑り、頭から地面へ転んだ。その後一瞬で太っちょも倒れた。地面が愛しいのだろうか?なぜか地面へ接吻をしている。
(――なにが…起きた…?)
あまりに突然のことに凛樹の脳の理解は追い付かなかった。目で見えているのは男二人が倒れている光景。その後少しの時間を要したが段々と処理が追いつき、誰かがこの二人の男たちを倒し、助けてくれたのだろうと聡明な凛樹は予想した。
遅れてふわっと横から風は花の匂いを
匂いがした。嗅いだことのないそれは凛樹の鼻腔をくすぐり、すぐに抜けていく。そして間を置かず男が少しはにかんだような声色で話しかけてきた。
「やあ君、下着が見えているよ」
(…はあっ!?)
一瞬何を言っているか理解できなかったが、すぐに自分の服を見て気づく。
(どこを見てんだ、クソっ...)
恥ずかしさで紅潮した凛樹は少しはだけている上着をすぐに直し、顔を見て文句を言ってやろうと思い首を動かそうとするが、どうやら蹴られたときに首も痛めてしまったようだった。上を向くことができない。
「ええありがとう、
足元しか見えない中、緊張が解け和らいだ喉を使い返答した。
「そうか、それならば良かった」
だが男はこんなにも簡単な皮肉すら通じないようだった。
ああもう最悪だ。帰りたい。こんなやつの相手をするほど私も暇ではないのに。
そんな気持ちとは裏腹に探究心の強い凛樹の口は開く。
「貴方様はこんなところで道草食ってていいのですか?男でしょうに?仕事はないのですか?」
疑問を少し半笑いの声で問いかけた。これが誰だか知らないが仕事があるはずだと予想した凛樹は釘を刺すために少々嫌な事を突いた。きっと先ほどの仕返しができたと息巻く凛樹を裏目に、その男は先程までの穏やかな雰囲気が消え去り、どこか冷徹で悲壮感もあるような声色へと変わり、投げ捨てるように言った。
「お前に、関係ない」
凛樹の毒気は一瞬にして抜かれてしまった。突然の変わりように、得体のしれない恐ろしさを垣間見る結果となった。唾がのどを通るのも許されないような、そんなやけに重く逃げ出したくなるような空気が一瞬にしてこの場を制した。
「あ、そういえば用事があるんだった。またね。お嬢さん」
場を制していた空気は一瞬にして消え、最初に会った時の口調に戻っていた。そしてそそくさと男は
あっけにとられてポカンと男が消えていった道をみていた。
自分から話しかけてきたと思ったら、いきなり名も名乗らず帰っていきやがった。
「なんだったんだ…あいつは…」
ふと思い出し内衣嚢にある大切な時計に傷がないか隈無く確認する。どうやらないようだ。
「よかった…」
太陽は少し傾いた。
ぷるぷると小鹿のように不安定な足取りで立ち上がり杉家に向かって歩き始めた。なんとか帰路に就いた凛樹は戻ったら、きっとおっちゃんからの怒号から始まる、あの人は厳格だからよほど説得力がないと取り合ってもらえないだろう、と考えていた。辻褄が合う言い訳に全く見当が付かず、帰るのが
これで終わったと考える凛樹、だが彼女は自ら事件に首を突っ込んでしまったことに
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