よあけにピリオド

柏望

午後14時30分

 雨に濡れるレンガ造りの外壁を鮮やかな緑の葉を茂らせた蔦が彩っている。傘を傾けて見上げた先には看板があり、青い下地に少し変わった黄色い書き文字で「モルゲンレーテ」と書かれている。空一面に灰色を溶かしたような雨空にぽっかりと朝日が差し込んできたような、鮮やかな色彩が塞いでいる気分を紛らわせる。

 すりガラスとステンドグラスの向こう側の店内も、見ているかのように思い浮かべられる。昭和の雰囲気を色濃く伝えるこの喫茶店を俺は初めて訪れたが、何度も通ったかのような心地がしている。


「書いてあるものそのまんまだな」


 ここに来るまでに読んでいた、輝かしいキャリアを終えた少女たちのその後の人生を描いた『セカンドライフシリーズ』に出てくる喫茶店「あけぼの」が名前だけ変わってそこにあるのだから。

 二階へとつながる階段や店の裏側にある自転車置き場の様子。裏口の近くにある自販機のラインナップは本当に変なものしか置いてないのか。気にはなるが確認はできない。雨足が徐々に強まっているのもあるが、今日は中で人を待たせている。


「いらっしゃいませ」

「どうも。先に入っている人が、いたいた」


 店員への挨拶をほどほどに済ませて目当てのテーブルに向けて歩く。一分にも満たない時間だが、触れた扉の質感や店内の音楽、机の木目からカウンターに置かれた調度品まで読んできた作品の世界が目の前に広がっていることに感動した。文字の中にしか登場していない彼女たちの人生の「その後」がここに根付いているように錯覚してしまうのだ。


 「セカンドライフシリーズ」という作品でこれほどまでの描写を成し遂げた作者とこれからお茶をする。気づいてしまえば、ファンとしても作家仲間としても緊張せざるを得ない。


「お疲れ様です。ヴァニラさん」

「どうもーひなあられさん」

「こんな雨の日にお誘いする形になってしまい申し訳ありません」

「いやいや。誘ってももらって嬉しかったですよ」


 ひなあられというのは俺の名前だ。世間的には麻井という名前もあるが、物を書くもの同士のやり取りなら「ひなあられ」の方がよほど馴染む。

 ヴァニタス・ヴァニラというのも、目の前にいる線の細い気弱そうな男性の名前だ。SNSアカウントの名前をそのままペンネームにしているらしいから、俺は彼の名前をそれ以外知らない。


「寒かったでしょう座って座って」

「すいません。緊張しててつい」

「それ僕もです。ここ最近は人の目を気にする外出をしてなかったので」

「お互い文章の中ではあんなに人間のことを書いてるのに人馴れしませんよね」


 覇気のない笑い声を二人で放ちながら、ヴァニラさんの向かい側の席へと座る。自然な表情が出ているように見えるから、最後に会った時に比べれば心身共々落ち着いているらしい。考えてみれば『セカンドライフシリーズ』の最終章執筆に入ったばかりで、通っているバーにも一人で足を運べないほど思い詰めていた。

 喫茶店でお茶に誘うのはもう少し時間を置いてからでもよかったかもしれない。


 頬に残る笑みが引いていくのを感じた瞬間、嗅覚が新たな刺激を捉えた。


「ん、アールグレイか」

「ひなあられさん、よくわかりますね」

「ベルガモットとかいう柑橘類の香りをつけた茶葉ですからね。鍋からスパイスの香りがしたらカレーを作ってるんだろうなと予想するようなものです」

「コーヒー通は言うことが違うな」

「キッカケは『セカンドライフシリーズ』ですよ。『喫茶あけぼの』の話は俺も気に入っていて、一日三杯の豆代を削って紅茶の勉強に充てましたから」


 おかげで今はインスタントコーヒーを一日一杯ですよ。と続けたときのヴァニラさんの顔は面映ゆいような、なんとも言えないものだった。お冷を運んできた店員に注文を伝えれば、ヴァニラさんの表情が驚きへと変わっていく。


「あの話読んでてラプサンスーチョンを頼むなんて」

「楽しみですよ。執筆のいいネタになるとわかってても、コレだけは今日のために飲まなかった」


 ラプサンスーチョン。「セカンドライフシリーズ」にも出てくる紅茶の種類で端的にいえば変わり種の茶葉だ。登場人物の一人に酷評されているのが登場シーンだが、それだけに気になってくる。

 運ばれてきたティーポットからカップへと紅茶を注げば予想以上、いや想像を絶する香りが鼻先へ届く。コーヒーを炭と罵倒するならラプサンスーチョンは燻製というべきか。感じる煙たさはいままで飲んできた飲み物のどれにも当てはまらないものだった。


「凄い香りだがそれはそれ。集まったからにはやることやっちゃいましょう」


 湯気が立ったままのカップを掲げれば、ヴァニラさんもカップを掲げる。今日はこの瞬間のために集まったようなものなのだ。


「ヴァニタス・ヴァニラ先生の『セカンドライフシリーズ』完結を祝して、乾杯! 」

「乾杯」


 笑顔のまま口に流し込んだラプサンスーチョンはそれはもう凄かった。作品内でスモーキーと表現された独特の香りはまさに圧巻。これを飲み物として提供する気か?と疑念すら抱いてしまうほどにフレーバーの風味が強すぎる。

 未知の風味に驚く自分とそれを冷静に観察する作家としての自分の競合。パニックを起こしそうな思考を、ヴァニラさんの一言が一気に醒ました。


「あーやっと一息ついた。ひなあられさん最近どうです? 執筆は進んでますか?」


 率直に言えば進んでいない。昨日の自分の作品を片っ端から削除し、練り上げたプロットは文章にならず、推敲すれば似たような変更が何度も繰り返される。波打ち際で描く曼荼羅のようにいくら文字を積み上げても作品が消えていく。

 毎日毎日あれほど言葉を使っているというのに、今の自分の状況が言葉にならない。観念するようにティーカップをソーサーに戻すのが今のできる精一杯の返事だった。


「ですよね。執筆するって大変ですもんね」


 優しい声をかけてくれたヴァニラさんの顔は笑っていたが、声は萎びているのように元気がない。

 完結を祝う場でこんな顔はさせたくなかった。だが、書けていない自分がどうしてヴァニラさんの言葉を否定できようか。


「まぁお気づきでしょうが。というかひなあられさんにはもう話してたっけ。僕、書くのやめるんですよ」


 言わせてしまった。褒め倒してなんとか次回作の執筆に取り掛からせる。のは無理でもプロットくらいは書かせるつもりだったのに。

 ハッキリと言い切ったヴァニラさんの表情は、さきほどまでの沈痛な陰りが消え失せている。一瞬なんとかして宣言を撤回させようとも思ったが、スッキリしたような面持ちを見ていると『それでもいいか』という気分になってくる。


「作家としても読者としても残念です。お疲れさまでした、今しばらくはゆっくりと休息を取ってください」

「ありがとうございます。あーすっきりした」


 ゆっくりと息を吐いて上を向きながら脱力するヴァニラさんは本当に肩の荷が降りたようだった。長い溜息を吐ききった彼は背もたれに持たれながら、ティーカップを口に寄せたり香りを嗅いだりしている。


「いやーよかった。今ので緊張の糸が切れたというか。やっと飲み物の味が楽しめるようになりました」

「そんな状態で今まで書いてたんですか」

「飲んでもこの味を文章にするならどうなるとか。香りならどんなのが近いとか。そういうの気にしないで、このお茶は美味しいなーで終わらせられるのが本当に気楽ですね。ひなあられさんはちょっと違うと思いますが」

「言われてみればそう。かも、しれませんが」


 ヴァニタスさんの発言で気づいたが、ラプサンスーチョンも半ば小説の種として注文した。時間で変化していく味や独特な薫香も執筆している作品のあのシーンで使えそうだと思いながら今も楽しんでいる。

 これを純粋に楽しんでいるかと問われれば、大多数の人が否と答えるだろう。素朴に楽しんでいたことをネタ集めと認識してしまうことは辛い。それくらいは自分でも簡単に想像がつく。


「あーんなに必死だったのに。もう自分がなにを描きたいのかわからなくなっちゃいましたよ」

「そりゃあ疲れてますから。充電期間とか、しばらくしたらなにかの弾みでいいアイデアが浮かんでくるかもしれませんよ」

「書くことに苦しさしか感じない。だから、もう終わりにします」

「残念です。としか言えないなこれは」


 ヴァニタスさんが書き始めたのは社会人になってからだ。『セカンドライフシリーズ』を書き始めて短期間で完結できたのも休職期間という社会人に許された僅かな猶予期間のほとんどを費やしたからに他ならない。


「やっとの思いで書き上げてもすぐ次の話を書かなくちゃいけない。寝なきゃいけない時間がきても次の話のことばかり考えてしまって。起きたときも動けないのに今日書かなくちゃいけない場面やプロットに胸が締め付けられそうで」

「わかりますよ。ヴァニラさんみたいに書けてない俺が言っていいかは別として」

「ひなあられさん。それを言ったらおしまいです」


 読んでも読んでも足りない資料。取材に行けば時間も体力も金も飛んでいく。頭に浮かんだ構想は文字に起こせば砂が掌から零れ落ちるように面白さが抜け落ち、読み返せば読者にとって必要な情報が欠けているのに気づいてしまう。


「やっとの思いで見つけた資料が売り切れだったり、古本屋であの時見つけた本がすごく役に立つと知って後悔したり。あーここ書き足せるなと気づいてももう締め切りが近づいちゃってて泣く泣く投稿とかもありましたっけ」

「締め切りは我々物書きにとって最良の友ですよ。なにがあってもその日その時間で作品を終わらせてくれますから」

「たしかに。でもそれ、締め切りを設定したひなあられさんが言うことじゃないですよね」

「執筆の手伝いを俺に頼んだのはヴァニラさんですよ」


 へらへらと互いの笑い声が重なる。俺はヴァニラさんの真面目な性分を十二分に活用しただけだ。我ながら酷なことをしたが、酷なことをされても締め切りを守ったヴァニラさんは偉大だ。

 それに比べて自分と来たら、御大層な執筆計画を立てたところでピリオドを打てた作品はいくらある。『セカンドライフシリーズ』が始まったころは自分もガツガツ作品が出せていた。だが、最終話が始まってから今日に至るまでに一作も完成させられていないじゃないか。

 ティーカップに注いだラプサンスーチョンが切れたのを見て、ぽつりと言葉が漏れた。


「俺、もうなにも書けないんじゃないか」


 曇りガラスの向こう側から見える空は相変わらず灰色で、店内に流れる音楽の合間合間に雨音が聞こえている。来た時よりも雨足が強くなっているらしい。

 帰るよりは二杯目でも頼もうかとメニューへ伸ばした手が触れるよりさき、ヴァニラさんの声が俺に届いた。


「ひなあられさんは書けるはずです。なにが原因で筆が止まったんですか?」

「そりゃ。書いたものが面白くなくて」


 待て。俺はなにを言っている。

 

 俺は小説を書いてはいるが、面白い小説を書いているつもりなんて一度でもあったか。


『やる度やる度批評会に顔出してさ。締め切り守ってちゃんと作品だしてくる面の皮の厚さはすごいけども。そこしか評価できないんだよね』


 書き始めたころ、あのサークルの連中に唯一褒められた部分だけは今日まで大事にしてきたんじゃないのか。


 虚ろになっていく自分へと、またヴァニラさんの声が響いてくる。


「ヴァニラさんはきっと書けますよ。読者のことを考えるのも大事ですけど、書くのを楽しむのが第一じゃないですか」

「あんな辛いことが楽しいわけ、いや、楽しいな。メチャクチャ」


 頭の中に巣食うもやもやとしたものを物語として吐き出すのは楽しかった。書き上げたときやっと次の話が書けるとなったときは脳みそからヤバい汁がドバドバと出ているような喜びがある。

 書き始めたのもそうだ。大学のサークルで、お世話になった玉置先輩や同級生たちがあまりにもあんなにも楽しそうだったから。

 楽しそうだから書き始めて、楽しいから最近まで書き続けてきたのだ。そこに理想があるわけでも野望があるわけでもない。面白い話を書こうとか思っていないし、反省はしているが読者のことも考えていなかった。


「コイツ最初から書くことを楽しむことしか考えてなかったな」

「それでいいじゃないですか。書こうと思ったのも、書ききれたのも、ひなあられさんが書く楽しさを教えてくれたからですよ」

「ありがとうございます。雨足も強くなってきましたし、二杯目を頼んでもいいですか」


 ヴァニラさんがお代わりを決めるのを待って、二人で注文をした。ヴァニタスさんは前回飲みたくて飲めなかったらしい紅茶の茶葉を。そして俺は。


「お。ひなあられさんって言ったらコーヒーですよね」

「イタリアンローストを出すところは珍しいんですよ。せっかく喫茶店に来たのだし、らしく行こうかと」


 イタリアンロースト。コーヒー豆の芯の芯まで火の入った極深煎りの豆は人によってはただの炭の粒だろう。さんざん飲んできた身からしてもわからないでもない。強烈な苦味と舌に残る刺激は慣れていない人間には喉に通すことも難しい。

 だが俺にはわかる。カラリと焙煎されていないと出てこない芳香。苦味を味わうことで感じられるコク。『モルゲンレーテ』が豆とただ焦がしただけでは実現できないイタリアンローストの調和を引き出していることも。


「コーヒーなんて苦くて眠れなくなるものなんで飲んでいるのか。考えたこともなかったんですが簡単ですね。この一杯が美味いと感じるからで。疲れるばかりの執筆を続ける理由も同じでした。楽しいからやっている」

「そうですそうです。執筆って楽しいんですよ」


 なにを書けばいいのかわからず我武者羅に書き始めて、それが形になったとき。このキャラクターにこんな活躍をさせてみたいと夢想しているとき。文章にしてみたら思っていた以上に面白くなっていたとき。

 ヴァニラさんは執筆をしていて楽しかった瞬間を俺に次々と教えてくれる。


「自分が考えて自分が文章にしているのに。なんでか読んでみると自分の想像以上の作品になっているんですよね」

「羨ましいな。俺はそんな風に思えたことがない」

「ひなあられさんはそれでいいんですよ。だから書けるんですから」

「ま、それはそうか」


 カップの温もりを感じながら、深い芳香をまた口に含む。

 これでいいのかと悩みながら作品を書き上げた時の高揚と安らぎは、一杯のコーヒーがもたらすそれよりも圧倒的に短い。その癖カフェインのように執筆を終えた後の俺を反省で追い立ててくる。


「ヴァニラさんはどうでした。書き上げたときは楽しかったですか」

「いえ、ほっとするというのが一番大きいです。あと、次の話の準備をしなくちゃとか」

「そこらへんは同じですね。どれだけ力を入れた作品も書き上げて一晩経ったら熱が冷めてしまう。近づくとゴールが向こう側まで吹っ飛ぶマラソン走ってるみたいですね」

「さすがに閲覧数くらいは確認しませんか。コメントとか星とか貰うとけっこう嬉しくて。鬱な感じが強くなったら見に行って承認欲求を満たしてニヤニヤしてたんですけど」


 なるほど、そういう楽しみもあったか。羨ましいのでたびたびチェックしていたからわかるが、『セカンドライフシリーズ』は急に伸びたわけではない。何度か爆発的に伸びたタイミングはあったが、基本的に回を重ねるたびに閲覧数もあがり星の数も着実に増えていた。

 間接的に関わったというだけなのに自分も嬉しかった。喜びは自分の手で作り上げた作品ならなおさらだろう。


「ヴァニラさんだからこそできる楽しみですね。俺はそこまで受けるものを書けてないから」


 書き上げられない。と言いそうになって、慌ててコップの水を飲みほした。 


「評価なんて書けば後からついてきますって。まずは自分のために書き上げましょうよ」

「は。ははは」


 励まされたつもりで笑ってみたがなんとも乾いた笑いになった。スランプなのはまだいいとして、向こうにそのつもりがないのに卑屈になるのはよくない。


 ヴァニラさんは残ったケーキをパクパクと口に頬張って、飲み込んだあとさらに口を開く。


「僕はこれで引退するのに後悔はないですけど、ひなあられさんは違うでしょう。まだまだ熱意もやる気もアイデアもある。そうじゃないですか」


 黙って頷く俺を見て、ヴァニラさんは机の下に上半身を沈めた。気になって覗いてみれば、鞄から自分の荷物を取り出しているらしい。しばらくして差し出された彼の手には一冊のノートがあった。

 ボロボロというほどではないがそれなりに使ったらしい形跡があり、角が少し丸まっている。受け取ればヴァニラさんがノートの解説をしてくれた。


「これ、『セカンドライフシリーズ』最初の草稿というかアイデアノートというか。そういった感じの諸々です。形にはならなかったものほうが多いけど、大切なものです」

「少し目を通してみてもいいですか」

「どうぞどうぞ」


 こういう作品が書きたいんですよとバーのカウンターで構想の相談を受けてから、完結して今に至るまで付き合い続けた作品だ。一人のファンとして見逃せるはずがない。

 ヴァニラさんに一礼をしてからノートを開くと、罫線からはみ出した部分に至るまでびっしりと文字が書かれていた。


「これは」


 パラパラとめくるだけでも大いに興味をそそられる部分がある。作品を書き始める前の構想から、執筆を開始するに至って没とした話、投稿時に泣く泣く削ぎ落したエピソードに至るまで。『セカンドライフシリーズ』のほぼすべてが詰まっている。

 ヴァニラさんが心血を注いで完成させた『セカンドライフシリーズ』。その始まりから終わりに至るまでを克明に記したこのノートは、作家としてのヴァニタス・ヴァニラの分身そのものがこの手に収まっていた。


 この場で読み耽りたいという欲が出てくるが自分のものではない。それでも一つの言葉が目に入る。


『それぞれの道へ』


 『セカンドライフシリーズ』のキーワードともいえる言葉で、自分が読んでいる間になんども思いをはせた言葉だ。


「しんどい思いもたくさんしましたけど、書き続けていくうちに自分でも気づかなかったものがそれ以上に見えてきました。だからひなあられさんにも、まず自分のために書いてみて欲しいですね」

「なにが見えるように」


 一文字書き進めるたびに、一作書き上げるたびにたどり着けないものと零れ落ちたものを感じている。書き続けて見えるものがあるなら。それが先に見えた相手がいるなら教えてほしい。


「自分自身ですよ」

「そんなものが」


 鏡なりカメラなり使えば見られるものが見えたところで。比喩なのはわかっているがそう思わざるを得ない。


「そういう顔すると思ってましたよ。僕だってそうでしたから」

「だった。ですか」

「まぁ。僕はメチャクチャ頑張って作品を仕上げました。僕よりいっぱい書いている人もいましたし、僕より苦労して書いた人もいるんですよね、間違いなく」


 ヴァニラさんの言うことに異論はない。

 『セカンドライフシリーズ』は三十話構成でおおよそ三十万文字。十分に大作の部類だが、ヴァニラさんの使っている投稿サイトに限っても話数も文字数も上の話はいくらでもある。切って捨てた言い方をすれば『セカンドライフシリーズ』程度の分量の作品はネット上に吐いて捨てるほどある。

 次の締め切りが胸につかえて眠れない。一日中執筆のことがチラつく。これもまぁ辛いことだが上には上がいる。わざわざ輸入した保険が効かない薬を飲んで執筆している連中もいる。当然ながら薬には副作用があるわけで、効果が切れて副作用が出るタイミングに生活と仕事をわり振っている。そういう輩が感じる執筆から生まれる苦しみは想像を絶するものだろう。

 だが、それがなんの意味合いを持つかはヴァニラさんだってわかっているはずだ。


「でも一位を取ったのは僕なんですよね。いや、僕の作品なんですけど」

「書いたのはヴァニラさんなんですから素直に誇ってくださいよ」

「えへへへ。へへ。まぁそのお陰で自信が付きました」

「満足しましたか」

「おかげさまで。やっと前を向けるようになりました。転職サイトの登録やハロワに行く予定も入れてみたり」


 『満足しましたか』と問われれば以前なら落ち込んだものだが。言葉の受け取り方が変わっている。ずいぶん前向きになったということだが、作家としてはもう次の作品を書くことはないだろうと確信する。『セカンドライフシリーズ』は十分にヴァニラさんの心を癒したのだ。


 お互い腹がたぷつくまでコーヒーと紅茶を楽しみ、疲れるまで笑って『モルゲンレーテ』を出る。アンティークな木の扉を開けば店に来た時に降っていた雨は止んでいて、空を灰色に覆っていた雲は欠片一つなくなくなっていた。


「おお。すっかりいい時間だ」

「綺麗な夕陽ですよ。ほら」


 雨によって洗い流された空は太陽を鮮やかに浮かべていて、これから沈むなどとは思えないほどに眩く輝いている。この朝焼けとも夕焼けとも形容できない光をどうやって文章に落とし込もうか考えてしまって、だからこそ自分はまだ作品を書き上げられるのだと思った。

 眩しくて涙が溢れそうだったが、瞳を閉じることだけはできなかった。


 くしゅん。


 不意に鳴った音に驚いて横を向けば、鼻を抑えているヴァニラさんと目が合った。


「ふいまへん」

「もういい時間ですしね、解散しましょう」

「今日はありがとうございました、ひなあられさん。また会いましょう」

「こちらこそ。今日のこと含めて今までありがとうございました。転職活動などなにかと忙しいかと思いますが、落ち着いたら連絡ください」

「わかりました。あのノートのこと、よろしくお願いします。私が持ってても場所を取るだけになっちゃうので」


 ヴァニラさんに深々と頭を下げてから帰路につく。『モルゲンレーテ』を基準にすると住んでいる方向が逆なのでここで別れるしかなかったのだ。


 帰宅したらシャワーを浴びて、その間に沸かしたお湯でローズティーを淹れる。残りを使い切ろうとしたらむせ返るほどの香りが広がった。味見をしてみれば茶葉本来の華やかさなど消し飛んでいて、器に注いだ後にまたお湯で割らないと飲めそうにない。


「ま、このくらい濃ければ眠くなることはないか」


 部屋着に着替えた後は部屋を明るくして、鞄の中からヴァニラさんから頂いたノートを取り出して貪り読んだ。設定資料なんてものじゃない情報量を前にすれば紅茶は濃すぎるくらいがちょうどいい。


 この表現は使えそうだ。泣く泣く削ったあの部分はこうすれば組み込めた。この書き方は自分の執筆にも活かせるのではないか。一ページを、一段落を、一文を読むほどにアイデアが湧いてくる。


 気づいたころには時計の短針がとっくに頂点を回っている。

 あのローズティーのカフェインは相当なものだ。まったく眠くない。

 ならば、明日は大変だろうが執筆するしかないではないか。ヴァニタスさんのノートから得たアイデアを作品にするために、今書いている作品のアイデアを一度吐き出して空にしたい。


「はは。書ける。嘘みたいに文字が出てくるじゃないか」


 書けば不満はもちろんある。書くたびに至らないところが増えていく。次の作品を書きたいので今は忘れる。この次の作品は今書いている作品よりもっといい作品にするのだから。


 書いて。書いて。悩んでまた書いて。書き続けて。書ききれなくなったと思った瞬間、俺の視界は歪んで闇の中に潰れた。




 薔薇の香りがする。ほんの少し紅茶のような匂いといっしょに。


「やっちまった」


 執筆の熱に浮かされてデスクで目を覚ますことは珍しくない。習い性でゆっくりと伸びをして、身体をほぐそうとしたが。


「終わってるぞ」


 画面に向けて身を乗り出してしまった。強張っていた身体を無理やり雨後がしたものだから全身へ激痛が走り、反応する間もなく身体が床に叩きつけられた。それでも今の自分は笑っている。


「やった。やったぞ。書き上げたじゃないか」


 小説を書いているエディターの一番下にはピリオドが打たれている。

 久しぶりに俺は小説を書き上げたのだ。


 嬉しい。嬉しい。とても嬉しい。と感じているのに作家としての自分はとても冷静で。


「ん、仮眠取ったら推敲するか」


 エディターを映している画面を落とすと、机の上にヴァニラさんのノートがそのままになっていたことに気づいた。寝落ちしてる間に皺をつけなかったのは幸運だ。しかるべき場所へ保管しなくては。


 今住んでいる場所には本棚が三つある。その中で一番小さい、作業机の隣の本棚に収められているのはすべて他人からのもらい物だった。


「また一つ増えたな」


 本棚に収まっている冊子、図鑑や辞典、ノートその他諸々は書くことを断念した作家たちから受け取ったものだ。そんな本棚にまた一冊ノートが増えた。


 悲しい。とても悲しいがそれ以上に眠い。推敲をするには頭をリセットさせることが大事で、執筆のためにしている仕事も身体を休めなければ結果を出せない。


 ふらつきながら飛び込んだベッドの中で、脳裏に浮かんでくるアイデアを眺めながら、微睡むままに身を任せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

よあけにピリオド 柏望 @motimotikasiwa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ