ほろ酔い幻想記

新巻へもん

酒は飲んでも

「今日はこの店にしよう」

 恰幅のよい男は酒旗を掲げる1軒の店の前で足を止める。

 同行している若い大男は本気ですか、という視線を送った。

 声をかけた男は小金のある商人、大男はその護衛といった体である。

 大男は商人が指し示す酒店を眺めた。

 殷賑を極める東京開封府には数えきれぬほど酒が飲める店がある。

 目の前の店は、その中でも店構えのうらぶれた感じでは5指に入るのではないかと思われた。

 何も好き好んでと思うが、主である黄大人はこうと決めたらまず前言を撤回することはない。

 これは日頃の生活で染みついたものである。

 ま、どうせ酔ってしまえば同じことか。

 護衛の林は提灯の下がる軒下の狭い戸口から中に入った。

 店の中に入る前に中を確認するのは主を守る者の務めである。

 プンと酒の香りが濃くなる中で林が見回すと、卓子てーぶるが8つほどの店は意外なことに既に1つを残して埋まっていた。

「いらっしゃいまし」

 奥から出てきた前掛けの女性は場違いに顔立ちが整っている。

 ははあ。

 この繁盛ぶりは美人の女将目当ての客のお陰だなと林は考えた。

「2人だ。入れるかい?」

「はい。もちろん」

 林は黄大人を招き入れると卓子の奥側に座らせる。

 注文を取りに来た女将さんに小粒銀を渡すと酒と料理を注文した。

「上等な酒、それと料理は適当に見繕ってくれ」

 すぐに酒の小瓶と杯が運ばれてくる。

「お注ぎしても?」

 断ってから女将が酒を注いで去った。

 横について酌婦のまねごとをすることまではしないが、最初の1杯だけはこうやって特別感を演出するらしい。

「商売上手なことだな」

 黄大人は笑みを漏らして杯を持つ。

「今宵の最初の1杯に」

 少し杯を掲げると杯に口をつけた。

 芳醇な香りが鼻に抜け、こくのある味わいが口に広がる。

「誠に結構なことだ」

 黄大人は満足げな笑みを浮かべた。

 林も不承不承という様子で同意する。

「まあ、ちといけますね」

 最初に小粒銀を握らせたことでこの店でもっともいい酒を出したということは想像できた。

 それでも、店構えに不釣り合いなほど美味いのは認めざるを得ない。

「はい、お待ちどお」

 女将が青菜の煮びたしの皿と箸、小皿を置いていく。

 これが取りあえずの1品ということらしい。

 黄大人が先に食べてから林も口に運んだ。

 思わず目を見張る。

 ゆで加減が絶妙で歯ごたえを残しつつ青臭さは微塵も残っていなかった。

 味付けは塩と僅かな薬味の生姜の千切りだけだがなんとも美味い。

 目の前の黄大人の目が細くなる。

 自慢げに右手の人差し指で鼻の横をほとほとと叩いた。

「どうだい。私の嗅覚も捨てたもんじゃないだろう。子公の指には及ばないだろうが」

 食指が動くとは春秋左氏伝に伝わる逸話で、いにしえの衛の子公は人差し指が曲がるとご馳走にありつけたと伝わっている。

 なお、衛はこの開封府あたりにある国だった。

「恐れ入りました。私は美人の女将で客寄せする店かと思ってましたよ」

 林は声を潜めて白状する。

 ははは。

 黄大人は朗らかに笑うと杯の交換を頼むように林に言いつけた。

 今日は梯子酒はせずに腰を据えて飲むことにしたらしい。

 林は別の卓子へ料理を運ぶ女将を捕まえる。

 甕ごと酒を追加注文すると、通常は羮を入れるための小椀も所望した。

 もちろん、如才なく相応額な色をつけて前払いをしている。

「まあ」

 女将は目を見開いた。

 しかし、それ以上は何も言わず奥から頼まれたものを運んでくる。

 林は甕の封を剥がすと小ぶりの柄杓で酒を汲み椀に入れて差し出した。

 ぐびり。

 喉を鳴らして黄大人は椀の酒を飲む。

 黄大人は海量ハイリャンであった。

 海を飲み干すほどの大酒飲みという意味である。

 林がお供を仰せつかっているのはその腕前もあるが、黄大人に付き合って潰れないということも大きかった。

 黄大人が椀でもう2杯ほど引っかけるとほかほかと湯気を上げる丸い包子が運ばれてくる。

 林は遠慮なく手を伸ばした。

 椀で飲み始めたら好きにしてよいとの事前に言い渡されている。

 酒が進むようにか少々味付けが濃いが肉餡から汁が溢れ満足のいく逸品だった。

 気を良くした林は通りかかった女将に戯れる。

「この包子の餡、かなり美味いな。なんの肉を使っているんだい? まさか人の肉じゃ無いだろうね?」

 女将は口に手を当ててほほほと笑った。

「揶揄っちゃ嫌ですよ。今の天子様がお治めするようになって天下泰平。一昔前じゃ無いんですから。それにここはお膝元の開封府ですからね。正真正銘の黄牛あめうしです」

「これ。林や。ご婦人を揶揄うもんじゃありません」

 黄大人は軽く窘め林は頭を掻く。

「あまりに美味いもんで脂で口が滑らかになりすぎちまった。コイツをあと2つ追加してくれ」

「まだまだ他にも出しますよ」

「ちゃんと残さないで食うさ。この体見てくれよ。こんなに美味いもんならいくらでも入るぜ」

「はいよ」

 この間にも他の卓子から酒と料理の追加を頼む声があがっていた。

 新たに入ってきた客もあり、満席と知ると残念そうに去っている。

 林は主に向き直った。

「繁盛してますね。外からは分からないものです」

「それは人も同じだよ」

 黄大人がお替わりを要求しながら返答をする。

 また1杯飲むと黄大人は満足そうに店の中を見回した。

 客層は仕事帰りの職人と思われる者から黄大人のような小金のありそうな商人までと雑多である。

 そのそれぞれが幸せそうにお喋りをし酒をくらっていた。

 先ほどの女将の発言では無いが、下層や中層の民でも明日の心配をせず楽しんでいるのは治世が安定していることの証左と思える。

 黄大人は低い声で吟じ始めた。

「葡萄美酒夜光杯

 欲飮琵琶馬上催

 醉臥沙場君莫笑

 古來征戰幾人囘」

 150年ほど前の時代の詩人王翰の涼州詞である。

 王翰もこよなく酒を愛した男であった。

 黄大人の口からこの詞が出てきたということは、ほろ酔いで大層機嫌がいいということである。

 その後も他の卓子の客が入れ替わるなか、黄大人と林はこの店で飲み続けた。

 かなり飲んでいるのに2人ともまだまだしっかりしている。

 さすがに目元は紅くなっているがろれつが回らないということもなかった。

 周囲の客とも打ち解けて店内は大盛り上がりとなる。

「はは。旦那。この店はいい店だろう?」

「そうだな。酒も料理も、そして客もいい」

「ははっ。いいこと言うねえ」

「いや、店というのは客がいて成り立つもの。居心地がいいというのは客の質も良くなくてはならん」

「さすが儲けていなさる方は違う。よっ、大商人」

 お追従はお追従なのだが、酒1杯のお流れを頂戴しようというものだった。

 普段から阿諛追従に慣れている黄大人からすれば可愛いものである。

「褒めても何もでんぞ」

 そう言いながらも林に目配せした。

 心得たもので林も調子のいい男の杯を酒で満たしてやる。

 男が相好を崩したところに、どら声が響き渡った。

「おう。張の野郎、わざわざ来てやったぜ。さっさと顔を見せやがれ」

 明らかに堅気ではない風体の男が乾分を3人引き連れ肩で風を切るように入ってくる。

 酒をせびっていた男は嫌そうな顔をした。

 目ざとく見つけた乾分の1人が吠える。

「なんだ。おう。その顔は? 文句があるのか?」

「いえ、目にごみが入っただけで……」

 男は首を縮めた。

 黄大人はポツリと呟く。

「1つ」

 店の奥から若い男がやってくるが、その手には肉切り包丁を握っていた。

「お客さんに難癖をつけるのはやめてくれ。関係ねえだろ」

「おう。張じゃねえか。おめえさんが早く出てこねえからだよ。それにそもそも借金を返していねえのは誰だっけなあ?」

 やくざ者は張をねめつける。

「元利耳を揃えて払やあ、俺もこんなちんけな店には来やしねえよ」

 大きく横に払った手が近くの卓子上の酒の容器にあたり床に落ち割れた。

「2つ」

 呟く黄大人は調子のいい男に尋ねる。

「誰だ? あの男は?」

「へえ、この辺りを縄張りにする侠客の李親分でさ。人呼んで病大虫トラより強いの李四ってんで」

 声を潜めて男は答えた。

 そこに白粉を塗った柳腰の若い男が付き人と共に新たに店に入ってくる。

「おや、取り込み中だったかい」

 ちらりと李四に目を向けた。

 李四は愛想笑いを浮かべて場所を譲る。

「いえ、金家の若旦那。あっしの野暮用は後回しで結構ですよ」

 若旦那はそそと女将に歩み寄った。

「ねえ、私の申し出を受けてくれるかい? 決して悪い話じゃないと思うがねえ」

 女将の体を嘗めまわすように見る目は蛇を思わせる。

 顔立ち自体は悪くないのにそれよりも得体の知れない感じを強く感じさせた。

 ニタリと笑うと唇の薄い顔が酷薄さを増す。

 棒立ちになっている女将の手を握ろうとして払われるとべろりと唇を舐めた。

「いいのかい。私につれなくして」

 わざとらしく首を李四の方に向ける。

 すっかり酔いの醒めた顔の黄大人の唇から呟きが漏れた。

「3つ」

 それを聞いた林はがしがしと頭を掻くと店の天井を見上げる。

 ゆらりと立ちあがった黄大人の袖をお調子者が引いた。

「あの若いのはあの金家の跡取りなんです。知府首都長官様とも懇意って噂で羽振りのいい」

 黄大人は完爾と笑うと袖を男の手から引きぬく。

「あーあ。おりゃ警告しやしたからね」

 嘆き声を背に黄大人はゆったりと歩き金家の若旦那に近付く。

「おうおう、なんだてめえは?」

 李四がしゃしゃり出た。

 黄大人はふっと鼻で笑う。

 先ほどからのやり取りでおおよその事情は掴んでいるつもりだった。

 女将に横恋慕した金家の青二才が張の借金に目をつけて李四に強引な取り立てをさせている。

 その返済を肩代わりする対価に囲い者になれという話なのだろう。

 お上に訴え出ても金家はあくまで善意で手を差し伸べていると言い張り、強引な取り立ての罪は逃れるつもりと思われた。

 李四の行動はその筋書きをぶち壊すものである。

 黄大人としては笑止の極みだった。

「李さんとやら、あなたは侠客と名乗っているようだが本当かね?」

「おう。それがどうした。この辺りじゃ病大虫の李といや、知らぬ者は居ねえ大侠客よ」

 ははは。

 黄大人はさも面白いことを聞いたというように笑う。

「なんだ。何がおかしい?」

 その声に応じて、黄大人が数を数え始めた時から卓子の上の皿のものを凄い勢いで口に放り込んでいた林が立ちあがった。

 李四は体の大きさに身構えるが、口の周りを汚した童顔を見て緊張を解く。

 再び恫喝を始めようとする機先を黄大人が制した。

「自ら大侠客と口にするとはとんだ井底の蛙よ。それにな」

 ここで声の質ががらりと変わる。

「侠とは弱きを助け強きを挫くものぞ」

「なんだと……」

 唾を飛ばして喚く声は途中でうめき声となった。

 そのまま李四はずるずると崩れ落ちる。

 鳩尾に打ち込んであった黄大人の右腕がそのまま李四の胸元を掴んだ。

「店内にこのような塵芥があってはよくないな」

 そのまま李四を引きずって外に出ていく。

 李四の部下たちも咄嗟のことに立ちつくすだけであった。

 黄大人が店を出ていってからようやく声を上げる。

「待ちやがれ!」

「親分」

 それを見送って林は店主の張に近付いた。

「いやあ。酒も料理も良かったよ。うちの旦那も大満足だ。もちっと堪能したかったが仕方ねえな。こいつは騒がしちまった詫料だ。ご内儀大切にしなよ」

 にこやかに笑うと心付けを渡す。

 見事な呼吸で張に断る隙を与えなかった。

 それから林は主を追いかけて店を出ていく。

 1人残された金の若旦那に店内の客の冷たい視線が刺さった。

 女将さんに酒を注いでもらってにやけている連中ばかりだが、ここはそういう店ではないと手を出す不心得者はいない。

 その不文律を守らない愚か者に対しては白眼を向けたくなろうというものだった。

 居心地が悪くなった金の若旦那もそそくさと店を出る。

 店を出たところで飛んできた何かが激しくぶつかった。

 押し潰されるように地面に転倒する。

「わ、なんですか?」

 路上でじたばたする目線の先で数人の破落戸相手に黄大人が大立ち回りを演じていた。

 肥えた体からは想像もできない身軽な動きである。

 手や足が出る度に悲鳴が上がって破落戸が地面に接吻をすることになった。

 若旦那の上に乗っているのは、そんな破落戸の1人のようである。

「早く助け出せ」

 命ぜられた付き人が助け起こそうとするのを林が阻止した。

「これぐらいは自分で何とかさせた方がいいぜ。他人様の女房にちょっかいを出そうってんなら、せめて自立してねえとな」

「何様のつもりか知らないが金家に楯突いたこと後で後悔するなよ」

「俺は親切心で言ってやってるんだぜ。しかし、喧嘩を売るのも家がかりか。まあ、楽しみに待ってるぜ」

 捨て台詞を残して林は金大人のところに行き拱手する。

「大人。店の支払いは済ませておきました」

「ああ、ご苦労」

 破落戸を全員叩きのめし終わっていた黄大人は手をパンパンと払った。

 そこに警邏の者が駆けてくる。

 騒ぎの大きさのためか100名ほどおり裏路地は俄に騒然とした。

 隊長は十重二十重に金大人と林を取り囲むと連行していく。

 残った者は破落戸とようやく這い出した金家の若旦那にまとめて縄を打った。

「なんだ。俺は金家の……」

 父親が鼻薬を嗅がせている町役人だと思って金家の若旦那は声を張り上げる。

 しかし、誰も耳を貸さないばかりか、煩いとばかりに頬を張られてしまった。


 それから半時もしない頃、さきほどまでとは異なる場所で金大人と林は卓子についている。

 その場所は張の店とは比べものにならないほど豪華な酒楼だった。

 どここらともなく管弦の調べれが流れ、周囲には絹の帳がふんだんに使われている。

 2人の囲む卓子の脚には龍が絡みつくような彫刻が施されていた。

 手にしているものも瑠璃杯、中身は葡萄酒である。

 ただ、通常であれば周囲に侍るはずの妓女たちはまだ不要と遠ざけられていた。

「やっぱり高い味がしますねえ」

 林が葡萄酒を口に含んで適当なことを言う。

 黄大人はしょうが無い奴だという顔をした。

「まあ、でも、張の店の方が楽しい酒でしたよ。とはいえ、あの後戻るわけにはいかないでしょう? 張夫婦に気を使わせるし」

「しかし、このような味気ない店でなくてもいいだろう」

「まあ、今宵はこれ以上臣下の心労を増やさないでやってくださいな。大人に何かあったらどやされるのは彼らなんで。もちろん俺もですけど」

 黄大人は思案顔になる。

「それは分からんでもないがな。それにしても弟も煩すぎる。酒に酔ったまま黄衣を着ることになったんだ。ほろ酔いのまま死ぬのもまた面白かろうよ」

「別にお忍びで飲むなと申し上げているわけじゃないんで。聞きましたよ。夜歩きを辞めるように進言した誰かに怒鳴ったって。温厚な陛下にしちゃ珍しいですよね」

 黄大人、その正体である趙匡胤はきまりが悪いのをごまかすように杯を口に運んだ。

 お忍びで出歩いているがれっきとした宋の皇帝だった。

 ちなみに林は皇帝直轄である禁軍の武芸師範である。

「うむ。だがな。皇帝というのも大変なのだ。先日のことだが、判断を下した翌日にしくじったと思っても取り返しがつかん。その日はそれが気になって仕方なかった。その憂さを晴らす私の唯一の息抜きを辞めろといわれてもみろ」

 林ははいはいと鳥を象った瑠璃の酒器を取り上げて趙匡胤の杯を満たす。

 趙匡胤は杯を傾け、胸の内の何かを溶かすようにゆっくりと酒を送り込んだ。

「で?」

 この曖昧な質問の意図を察することができないものはこの席で侍ることはできない。

「張の借金、亡父の残したもんですけど、証文はきちんとした者に買い取らせるよう手配しました。まあ、棒引きってわけにはいかんでしょうからね。あの調子で商売をしていれば難なく借金は返せるでしょう。金家の馬鹿息子は廃嫡させて開封府から追放、李四一家は徴兵して人食い虎が出る東昌府送りでどうでしょう?」

 林の提案を聞いた趙匡胤は破顔大笑する。

「それはいい。病大虫と名乗っているんだ、ぜひ虎退治をしてもらおう」

 林は矢立てと紙を取り出してさらさらと書き付けた。

 失礼しますと断りを入れると少し席を外す。

 その間、趙匡胤は手酌で葡萄酒を数杯飲んだ。

 ようやく頬に再び赤みが差してくる。

 戻ってきた林は席に戻ると上目遣いで趙匡胤を見た。

 苦笑をすると趙匡胤は鷹揚に頷く。

「まあ、いいだろう。酒の追加もな」

「ありがてえ」

 林は手を打ち鳴らして店の者に芸妓を室に入れるように合図を送った。

 煌びやかな衣装を着た女性たちが入室してくる。

 賑やかになった周りを見て趙匡胤は目を細めた。

 このような席を楽しめる平和な世を築きあげたという自負はある。

 たまさかには心ゆくまで酒仙の世界に入り込むも良かろうと、女が勧める酒を杯に受けぐっと飲み干した。


-完-


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